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2012年11月23日金曜日

ツリー・オブ・ライフ('11)     テレンス・マリック



<生命の無限の連鎖という手品を駆使した汎神論的な世界観で綴る、「全身アート」の映像宇宙>



1  「シン・レッド・ライン」における「唯一神の沈黙」のイメージ



私が主観的にイメージするテレンス・マリック監督の世界観に必ずしも共鳴するものではないが、しかし、観る者と作り手との世界観の落差に必要以上に拘泥する狭隘な思考を拒否するが故に、私にとって、そこで表現された映像の内実こそが、唯一の評価の対象になり得るものである。

ボイス・オーバーされる内的言語を静かに繋いでいく、テレンス・マリック監督の独特の映像宇宙の素晴らしさに取り憑かれている私には、そこで表現された一級のアートの醍醐味を味わうだけで、もう充分なのだ。

何より、テレンス・マリック監督の素晴らしさとは、映像で提示された人間の根源的問題について、「これが全ての問題の答えだ」と俯瞰して語る者の如く、決して訳知り顔の相貌性を押し出す傲慢さと明瞭に切れていることである。

例えば、「シン・レッド・ライン」(1998年製作)において典型的に表現されていたように、それがどれほど瑣末な内実であっても、内側で語り継ぐことでギリギリに守られる実存的感覚を簡単に失わないように努める者たちの、極限状況下での葛藤や煩悶を丹念に拾い上げていくデリケートな感覚を捨てない、一種特有な作家精神が息づいている素晴らしさには溜息が出る程だ。

ある者は自分に問い、愛する者に問い、「あなた」という名の神に問う。

無論、そこに答えはない。

「シン・レッド・ライン」より
正気と狂気の境である「一本の細く赤い線」 ―― 即ち、「シン・レッド・ライン」を越えた者たちの、苦悩や絶望や危うさに答えられる者など果たしているだろうか。

 「シン・レッド・ライン」における「唯一神の沈黙」のイメージこそ、テレンス・マリックの哲学的テーマの重量感を弥増(いやま)していくのだった。

だから、テレンス・マリックの作品は最も重い映画になった。

それは、瑣末な事態に悩み、煩悶する裸形の人間の実存的感覚の乾きを露わにしつつも、それを晒すときの奥にある、容易に答えの出ない人間の根源的問題を継続的に、己が内的行程の時間のうちに収斂させていくのだ。

しかし、どれほど偉そうなことをレクチャーしても、所詮人間は、その人格総体が包含する能力の範囲の中でしか、「時間」を切り開くことが困難であるということ。

そして、その人格総体の能力の落差など高が知れているということ。

それ以外ではなかった。

あとは全て、単に「運不運」の問題に過ぎないとも言える。

 「原始なる自然」の世界と切れて築いた文明の、未知なる輝きを目眩(めくるめ)く放つ快楽装置に身も心もすっぽり嵌ってしまった以上、もう私たちには、その世界からの自覚的離脱は相当の覚悟なしに殆ど困難であるということだったのか。

 それが人間であり、「進化」を求めて止まない人間の悲しき性(さが)と言うのか。

だからと言って、声高に文明批判を叫ぶことをしないテレンス・マリック監督の客観的な視座は、内的言語による語りの中でのみ、怖れを知る者の心象世界を静かに、或いはしばしば、絶対孤独の際(きわ)にある者の貯留された懊悩の深さを刻んでいくのだ。

そんなテレンス・マリック監督が描く悠久の自然は、あまりに寛容であった。

 何もかも呑み込み、何もかも、あるがままに推移する。

「シン・レッド・ライン」より
そんな自然に則して生きる南太平洋の原住民たちが、そこに呼吸を繋いでいたのだ。

 殺戮に走る者も走らぬ者も、そして彼らを包む大自然もまた、神の創造物ではなかったのか。

 

2  生命の無限の連鎖という手品を駆使した汎神論的な世界観で綴る、「全身アート」の映像宇宙



然るに、万全の準備を経て、2011年にテレンス・マリックが放った本作には、「シン・レッド・ライン」で描かれた柔和なる大自然は、宇宙の誕生と地球の歴史という巨視的視座のうちに包括され、肉食恐竜が支配する弱肉強食の「全身野生」の世界を再現して見せたのである。

そればかりではない。

19歳の次男の喪失に震える信仰深い母親の苦悶は、神の所在を鋭利に問いかけていくことで、「唯一神の沈黙」の「試練」の残酷さを突き抜こうとするのだ。

「神」に問うオブライエン夫人のボイス・オーバーが拾われていく。

「私は不誠実でしたか?主よ。あなたはどこに?予期なさってました? あなたにとって私たちは?あなたにとって私たちは・・・答えて下さい・・・あなたに縋ります。我が魂。私の息子・・・我が命の光。あなたを探し求める・・・」
 
この間、提示された構図の全てが一幅の絵画になるような稀有なる映像は、宇宙の誕生と地球の歴史を、最先端の文明の贈り物である、CGを駆使したアートの世界のうちに開いていく。

深い冥闇(めいあん)の中から揺らぐ、真紅に燃え上がった炎が爆発する。

宇宙の始まりを告げ、現在の膨張宇宙に至ったというビッグバンである。

そして、地球上の有機化合物の化学変化によって生まれたとされる原始生命が、複雑な化学進化を経ていく歴史のダイナミズムを描くシークエンスが、独立系のイメージを被せつつも、それが物語の基幹に横臥(おうが)する由々しき展開のうちにインサートされていくのだ。

 これは、何を意味するのか。

 ローマ教皇庁の地動説の容認(1992年)や、「神は進化によって創造された」というローマ法王の画期的な声明(1996年)を例に出すまでもなく、テレンス・マリック監督は、今や、常識的に否定し難い科学考証に裏付けられたダーウィニズムを包摂し、神が進化によって人間を含む生物を創造したとする「有神的進化論」を告白しているのか。

 提示された映像によって、そのことを断定するのが容易であると印象づけるのは、本作の場合、些か強引に、監督自身の世界観の自己投入が入り込んでいるように見えたからである

一切が不分明ながらも、愛州心の象徴のようなテキサスで暮らすオブライエン一家の中で、旧約聖書の神・ヤハウェをイメージさせる厳格な父オブライエンと、慈悲深いオブライエン夫人との間で儲けた3人の子供たち、就中(なかんづく)、信じる「神」からの理不尽な受難を受けるヨブをイメージさせる、長男のジャックとの父子の確執による煩悶によって、ジャックの自我分裂の危機を招来する物語が、オブライエン一家の人々を含め、提示された映像の中で呼吸を繋いでいた人物たちが救済される、天上世界の理想の境地というラストシークエンスに収斂される映像の括りの意味を、以下のように把握することも可能である。

天上世界の理想の境地
即ち、この括りを見る限り、如何にも「キリスト教のプロパガンダ」を印象づけるが、しかし、19歳の弟の死を思い出すことが契機になって、その日常に侵入した非日常の時間の中で煩悶するジャックが、超高層ビルのエレベーターを上り詰めた先に待っていた天上世界の理想の境地で充分に浄化されて戻って来た、「文明世界を極めた現世の風景」の構図には、単に、老いて累加された懊悩の内的処理によって得た笑みが由々しき何かであったというイメージが暗示されるだけで、天上世界と「文明世界を極めた現世の風景」の往還を可能にする作り手の世界観が垣間見えるのだ。

それは、トラウマとなっていた19歳の弟の死を契機に開いた記憶の稜線上に、自分がそっくり受け継いだ父のDNAを認知するが故に、父との葛藤を深刻なものにした男が辿り着いた、その受容ラインの心象世界を映し出した風景イメージであるとも言える。

ここで、私は改めて思う。

やはりテレンス・マリック監督は、「シン・レッド・ライン」で提示した、悠久なる自然の包括力に身を任せ、何もかもあるがままに推移する世界に則して生きる、南太平洋の原住民たちの人生の様態の普遍性を宇宙規模にまで広げて、人間のみならず、地球に存在する一切の生命を包括する森羅万象のうちに〈神性〉なものを見る汎神論的な世界観を、映像構成の類稀で、超絶的な技巧によって極限の映像美にまで昇華させつつ、儚くも一瞬の「夢」を求めて生きる人間の生態を描き切る思いを捨てることのない、限りなく「全身アート」の映像宇宙を構築して見せたのではないか。

それは、スピノザ的な汎神論の幾何学的なメッセージをも超えて、身体・精神障害者、狭い町での鼻摘み者、余命のない老人ばかりか、溺死する少年の悲哀、そして、自死を印象づける、19年の人生を呆気なく閉じていく身内の不幸をも拾い上げることで、不完全なる人間の営為を含めて、一切の事象を受容して呼吸を繋ぐ運命の残酷を引き受けざるを得ない現実を、「全身アート」で武装した極限の映像美のうちに、多分に客観的で誠実な態度を捨てることなく再現して見せたとも思われる。

「生命の樹」
思えば、善悪を知る「知恵の木」の実を食べたばかりに、旧約聖書 における唯一神・ヤハウェの神にエデンの園を追放されたアダムとイヴは、永遠に生きる「生命の樹」(ツリー・オブ・ライフ)の実を食べなかったことによって(創世記2、3)、一つの命の継続力は一炊(いっすい)の夢の如くであったとしても、それを繋いでいくことで生命の無限の連鎖という手品を手に入れるに至ったのだ。

だから、キリスト教の救済の完成形としての「最後の審判」など不必要なのである。

そう言いたいのだろうか。



3  炸裂という思春期特有の歪みが相対化されたとき ―― 「受難」の映画の物語の要約①



多くの場合、根拠の希薄な偏見や不見識に晒された、この「受難」の映画の物語を要約してみよう。

何より、父オブライエンは過干渉ではない。

単に、厳格なだけだった。

子供に期待を賭ける思いの強さが、熱心な教育に繋がったが、決して、我が子の「魂の殺害」に通底する破壊的暴力を内包するような過干渉ではなかった。

しかし、このようなケースで往々にして見られるように、ヤハウェをイメージさせる父の厳格さが、そのDNAを深々と継ぐが故に反抗心を隠し込んだ、長男ジャックの自我に「恐怖」の感情を張り付けてしまった。

それは、力関係の圧倒的落差に起因する必然的様態だった。

転じて、母オブライエン夫人は、度を越した過保護ではない。

単に、慈愛に充ちているだけだった。

慈愛に充ちているだけだったから、子供たちの防波堤になろうとしても、夫の権力的振舞いに屈していくしかなかった。

ここに問題があるとすれば、両親の発するメッセージに大きな落差が存在したことである。

ジャック
このメッセージの落差によって、ジャックの自我は微分裂を起こし、思春期特有の歪みを生む。

しかし、その歪みは、長男を非行に追いやる程の捩(よじ)れ方を見せていなかった。

その辺りの危うさを象徴するシークエンスが、物語の中で拾われていた。

それは、この映画で最も印象深い描写であると言っていい。

父が海外出張で留守になったエピソードを描く、そのシークエンスを考えてみよう。

厳格な父の前で、思春期に踏み込もうとしていた自我が充分に躍動できず、絶えず感情を抑制的にすることを余議なくされていたストレスが、父のいない室内外で、それまで貯留した一切の情動を吐き出すかのように発散するのだ。

カエルを簡便な遊戯用ロケットで飛ばしたり、ボス気どりで仲間と徒党を組んで、精神障害者と思われる者が住む家屋のガラスを割ったり、母親似の優しい弟を虐めたり等々、やりたい放題だった。

最初のうちこそ、嬉々として、室内空間で子供たちと一緒に戯れていた母は、ジャックの言動の変化に驚き、今度は宥めるように説諭し、程なくして、一定の心理的警戒網を巡らせ、俯瞰的に監視する立場に反転するのである。

 「母さんには従わない。したいようにする。父さんに見下ろされているくせに」

ジャック
 父に追従するだけの母の弱さを見透かし、吐き出されたジャックの言葉には思春期特有の毒がある。

そんな毒に被弾して、動揺するばかりの母が呆然と立ち竦んでいた。

 「どうすれば戻れる。昔の僕たちに」

これは、ジャックの内的言語。

思春期氾濫の渦中にあって、自己をコントロールできずに迷走する少年の心情世界が、ここから、それ以外にないカットの繋ぎによって精緻に描き出されていく。

「父の不在」の中で、ひたすら慈愛に満ちた母が、束の間、「父性」の役割を担うことが如何に困難であるかという現実を、映像は、母の困惑の表情を捕捉することで提示するのだ。

説明的な心理描写を挿入せざるを得ない、文学のフィールドで不可能な人間の心象風景を写し取る、テレンス・マリック監督特有の映像の独壇場の世界が開かれていく。

思うに、自らの能力の範疇を超えることをすれば、尖り切っている反抗期の炎を消すことが容易でない事態に直面した母の困惑が、長男ジャックに見透かされるのは必然的だった。

夫の帰宅によって、長男の心情変容の責任を負わされることへのオブライエン夫人の怖れが、そこにある。

そして、父であり、夫であるオブライエンの帰宅によって、一瞬にして空気が変容する。

「友達を呼んでもいい?」

ビジネスで世界を旅した父の帰宅を祝う食事に、友達を誘おうとする長男ジャックに対して、父オブライエンは、その本来の厳格さを露わにする。

「自分の家族に不満か?」

これでもう、全て終わってしまった。

束の間、味わった解放系の空気を手放すことを拒むジャックの自我は、内なる攻撃性を「仮想敵」である父親に向けられていく。

「父さんを殺して欲しい」

これは、未だ、神に祈るだけのジャックの内的言語。

しかし、父親似のDNAを受け継いだと信じるジャックは、もう内的言語の世界で遊ぶ訳にはいかなくなった。

レストランでの家族の食事の中で、一人、その空気に馴染めないジャックは、一方的に喋り捲る父を睨みつける。

「父さんの家だ。いつでも僕を追い出して。僕を殺したいだろう」

柔らかな口調だが、しかし、どうしても言わねばならない言葉が、時を経ずして、父に向ってダイレクトに吐き出されたのである。

信じ難い長男の一言に、父は長男の首根っこを押さえて、その表情を読み取ろうとしたが、その日はそこまでだった。

自分の不在の間に、長男を甘やかしたと断じるオブライエンの、妻に対する責任を問う無音のカットが繋がったのは言うまでもない。

「神様、父さんを殺して」

ジャックの内的言語は、いよいよリアリティを増していった。

「母さんが好きなのは僕だけだ!」

父に向って初めて怒りを結ぶジャックの炸裂の推進力は、明らかに、「父の不在」によって経験した、解放系の時間を必死に繋いでいこうという意思の表れである。

ジャックの初めての攻撃的な炸裂に対して、父は、それを見届ける者のように受け止める。

何もせずに、ジャックの後ろ姿を見届けるのだ。

封印していた自分の思いを炸裂したことで、炸裂した分だけ楽になった思いよりも、ジャックには、炸裂せざるを得ない状況の変わりなさへの苛立ちの方が強かった。

その苛立ちが、心優しい弟への虐めに転嫁していく。

弟の涙を視認して、「ごめん・・・」と謝るジャック。

この少年は、ストレスを解消するだけの自分の行為を相対化し得る自我を育てていたのである。

そんなジャックが帰宅したとき、いつもと違う父の相貌と出会って、戸惑っていた。

「私が望んでいたのは、お前が強く育ち、事業を起こすことだ。お前に辛く当った。思い上がっていた」
「僕も悪いんだ。僕は母さんより、父さんに似ている」
「私の人生で誇れるのは、お前たちだけ。大事なのは、お前たちだけだ」

そう吐露した父は、長男を引き寄せ、抱擁した。

長男もまた、父の懐の中に入っていく。

長男の眼から熱いものが込み上げてきて、父と子が初めて、心の奥深いところで溶融したという幻想に浸っていたのである。

映像が初めて見せる構図の中に、「和解」と呼ぶべき関係の修復が、そこに何ものも入り込む余地がない柔和なカットのうちに提示されたのだ。

これは、父の工場が閉鎖されたことによって、自宅を引き払わざるを得ない状況に置かれた、この家族の悲哀の断片を切り取ったシーン。

このシーンの後に待つのは、「天国の門」を恐々と潜り、家族を筆頭に自分を知る者たちが、心身の罪や汚れを取り除かれた楽園の如き天上世界の理想の境地という、ビジネスマンとして成功したジャックの心象世界を描くラストシークエンス。

そして、前述したように、超高層ビルのエレベーターを上り詰めた先に待っていた天上世界の理想の境地で存分に浄化されて戻って来た、ジャックの小さな笑みを映し出す、実質的ラストカットのうちに、ナイーブさをセールスする狡猾さと明瞭に切れ、決して奇麗事に流さない映像が収斂されていくのである。



4  生命の連鎖の奇跡的な巡り合わせによって形成された、名もない家族の権力関係の様態 ―― 「受難」の映画の物語の要約②



煩悶するジャックの回顧
思うに、ここで描かれた世界は、本質的に、19歳で夭折した弟を回顧することが契機となって、50年代のテキサスの田舎町に呼吸を繋いでいた、ジャック=ヨブ=テレンス・マリックの心象世界の振れ方である。

従って本作は、そこで挿入された信仰の世界の連射が目障りであると印象付けられたとしても、そのような強い信仰を背景とする風土で培われた思春期自我の揺動と氾濫を、父子の葛藤の中で累加されたディストレスと、そこを突き抜けんとする内的行程を骨子とする物語として受容すべきだろう。

然るに、父子の葛藤の中で累加されたディストレスを有するジャック=ヨブは、「父はぼくたちに禁じることを自分ではする」という憤怒を貯留した反抗期に踏み込んだ思春期が、眼前の「仮想敵」である、「権力者=神」の存在性に「仮想敵」を見出しながらも、その「仮想敵」を心理的に追いつめられず、関係の権力性の落差を埋められない苛立ちの分だけ屈折しているだけだった。

一対三という、一家族内の権力関係の構造内部にあって、この時代のこの土地の、極めて箱庭的な「小宇宙」の閉鎖系で生きる者たちの、往々にして惹起する葛藤と炸裂の物語は、46億年の歴史を繋ぐ地球時間の途方もない長さの中で、生命の連鎖の奇跡的な巡り合わせによって形成された、名もない家族のほんの短い時間のうちに凝縮される煩悶が、特定的に拾い上げていくのである。

その家族の成す時空内で惹起した不幸は、家族成員にとって最も根源的な問題であった。

そこで描かれた権力関係の継続力は短く、父の失職によって呆気なく希釈化されていくことで、長男の思春期反抗の炸裂が爆轟(ばくごう)にまで至ることなく、まるで何事もなかったかのようにソフトランディングしていくのだ。

宇宙の生成と地球の誕生という物語の、途轍もないパワー漲(みなぎ)る大自然の変遷のうちに、そこで呼吸を繋いてきた無数の万物を吸収し、絶え間なき命の連鎖を無限に広げていく。

その命のリレーの中で、この名もない家族の物語は、しばしば「小宇宙」の輝きを放ちながら、誰にも知られることなく、一瞬のうちに消えていく。

人の世の儚さを丸ごと吸収する、境の見えない大自然の営みを支配する何ものも存在しないのである。

だから、人間が都合のいいように作った「神」による万物の創造という物語は、人間の力で全くコントロールできない46億年もの時間の生命の連鎖の神秘によって、呆気なく相対化されるに至るのだ。

そんな本篇にあって、ビジネスマンとして成功した壮年期を過ぎても、十全な精神世界を感受し切れない空隙に生まれた、捉え難い人生との折り合いの悪さが、ラストカットでの笑みに収斂される映像の本質は、縷々(るる)、言及してきた文脈によって説明できるものだろう。

だから本作の内実が、地球時間という巨視的視座から見れば、瞬きの一瞬にも届かない寸秒で拾われた、アメリカ南部の一家族内部の人間学的様態のうちに特化された微視的視座が、過去から未来へと永劫に継承される生命の連鎖のうちに融合するという、テレンス・マリック監督の世界観の投影であったとしても、断じて、「キリスト教のプロパガンダ」などという狭隘な把握によって、根拠なく唾棄されるべき作品なのではないのだ。

テレンス・マリック監督
恐らく本作は、テレンス・マリックの自伝的風景をベースにした、人間の心の奥深い迷妄を、その類稀(たぐいまれ)なる映像センスで捉え切った作品である。

どこまでも、ここで描かれているのは、「シン・レッド・ライン」がそうであったように、短い人生の中で不断に惹起される煩悶を、ごく普通の人間の営為として捉えた上で、そのような人間の心象世界を精緻に描き切った作品以外ではなかった。

描かれていたのは、「神」への帰依の強要などではなく、そのような強い信仰を背景とする風土に生きる人間そのものなのだ。

「神」を切実に必要としたり、或いは、その「沈黙」を嘆息したりすることで、様々に揺れ動く心の問題を軟着させようと足掻(あが)く人間の生態を、単に、映像美で勝負するフォトジェニックな作品と切れて、まさに「全身アート」の際立つ映像美のうちに写し取った一篇 ―― それが「ツリー・オブ・ライフ」だった。



 5  根拠なき非難・罵倒は、感情任せの子供の下品な言辞の連射である



映画を観ていて、久し振りに酔うことができた。

この酩酊感は、心理学の概念として知られる、フェルトセンス(言葉にならないような、捉え難い感覚)とも言えるような、何とも言えない心地良さだった。

それは、テレンス・マリック監督らしい独特の映像宇宙と再会できたことの喜びと、ブーイングの嵐に晒され続けた映像を自分なりの感性で咀嚼し、138分を占有できた心地良さであると言っていい。

閑話休題。

ブーイングの嵐を被弾した監督自身の思いについては想像の埒外にあるが、それにしても、多くのレビューを読んでいて、呆れ果てたというのが率直な感懐。

一方的に不満を吐き出すだけの非難・罵倒を書き散らすだけで、説得力ある合理的な批判になっていないからだ。

私は、それらのレビューの大半に眼を通して見て、理路整然とした根拠を持って批判する表現と最後まで出会うことはなかった。

ある著名な俳優は、全く何の根拠の提示もなく、「全く面白くない。 映画でなく、コマーシャル」という一言で片づけてしまっていて、それ以上の言及はゼロという粗雑さ。

なぜ日本人は、特定の表現作品に対して賛意を表したり、批判したりする際に、その拠って立つ根拠を筋道立って説明することから逃げるのか。

根拠なき非難・罵倒は、感情任せの子供の下品な言辞の連射でしかない。

私の場合、自らのブログである「人生論的映画評論」の中で、多くの作品を厳しく批判しているが、必ず、その根拠を提示していると思っている。

褒めるにも貶すにも、根拠の提示が必要なのだ。

「ファニーゲーム」より
根拠なき断定的評価に張り付いているのは、ミヒャエル・ハネケ監督の「ファニーゲーム」(1997年製作)に対する偏見の濃度の高さにも似て、提示された映像の読解に関わる主題性の問題と格闘したり、或いは、考え抜かれた構成的技巧の妙趣に愉悦したりといった、「娯楽映画」へのアプローチとは異なるジャンルの作品に対峙するときの、必要最低限の知性や感性をフル稼働させる営為を後退させることで、いとも簡単に、この映画は「アウト」になると断じる短絡性ではないのか。

 だから、「神」をイメージさせる形式的ラストカットの絵柄の提示への、その感覚的不快感の残像等々の印象が特段に張り付いてしまっていて、「全体の印象として、この映画は『キリスト教のプロパガンダ』」などという印象誘導を、観る者の内側に招来させたのではないのか。

そう思えてしまうのだ。

最後に、本作に出演した俳優陣への、私の率直な感懐を書いておきたい。

ショーン・コネリーらと共に、独善的なエコテロリストにしか思えない、ポール・ワトソン率いるシー・シェパードのメディア部門の外部相談役をしていると言われる、ショーン・ペンという俳優の看過し難い愚昧さへの批判とは全く無縁に、本人には不満な映像だったらしいが(その理由も想像可能)、それでも私は、本作における、円熟味が増した彼の表現力の素晴らしさに大いに賛辞を惜しまない。

とりわけ、物語の中で、長男ジャックの自我が負った「闇の記憶」が遡及されていく、功成り名遂げた男の、煩悶を重ねた挙句の「原点回帰」のシークエンスのうちに拾われた、内的言語を繋ぐ心象風景を表現するショーン・ペンの無言のカットの存在感は、観る者の心を揺さぶるのに充分であった。

そして、父親オブライエンを演じたブラッド・ピット、母親を演じたジェシカ・チャステインの奥行きの深い内的表現力、更に極めつけは、長男を演じた少年の表現力の高さに驚嘆させられた。

それぞれが、深く印象付けられる素晴らしい表現的達成だった。

 私は、今後も折に触れ、本作を繰り返し観ることになるだろう。

(2012年11月)

2 件のコメント:

  1. ボクもテレンス作品のファンです。
    特にこの作品は、ボクの死生観と似てるとこもあり、この先何度も観ると思います。
    zilgさんの批評はとても共感を得ますし、勉強になります。
    これからも鋭く深い批評を愉しみにしてます。

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    1. コメントありがとうございます。

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