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2015年5月17日日曜日

さよなら、アドルフ(‘12)     ケイト・ショートランド

不安と恐怖を堪え切って完結した旅の、その精神的風景の反転的収束点



1  時代環境の劇的な変化の渦に翻弄された少女のドイツ縦断の旅



1945年5月7日

ドイツが連合国に降伏した日である。

このドイツの敗戦を前にして、ナチス親衛隊(SS)の高官を父に持つ家族の生活は一変する。

愛犬を射殺し、「遺伝性疾患 断種法」などという書籍の一切を廃棄処分した父は、自分を含む家族7人を田舎の農家の元に疎開させる。

それまで何不自由なく育ってきたであろう14歳の長女・ローレは、この事態の急激な変化を敏感に感じ取っているから、全く笑みを見せない母に、「最終勝利は本当に来るの?」と尋ねるほど、彼女の思春期自我は不安を隠せない。

ローレとリーゼル
そんなローレと対照的に、ローレの弟妹(次女リーゼル、双子の弟たちと赤子)は、長閑な田舎の自然に溶融し、存分に遊び回っていた。

「もうダメ。終わりよ。亡くなったの。総統がよ・・・」

嗚咽の中で吐露する母のくすんだ表情の中に、長女・ローレが入り込む余地がなかった。

食料も尽き始め、近隣の農家に買いに行くローレは、「ママは刑務所かと」などと言われ、明らかに、自分の家族が置かれたシビアな状況を理解せざるを得なかった。

「お父さんの所へ行く。私が戻らなかったら、お婆様を訪ねて。汽車でハンブルクへ行きなさい。誇りを失わないで

この母の言葉を受け、「そんな北へ」と反応するローレに対して、「出頭しなきゃ捕まるの」と答える母は、持ち金を渡すのだ。

連合軍に捕捉されている父と同様に、出頭命令が下され、収容施設に送られていく母をも失うことで、今や、14歳の少女が、産まれてまもない赤子・ペーターを含む、年端の行かない弟妹たちを随伴し、脱出行の旅を余儀なくされたのである。

南ドイツのシュヴァルツヴァルトから、ハンブルクまでのドイツ縦断の旅である。

ここから、10歳からの加入が義務付けられ、当然の如く、自らも「ヒトラーユーゲント」(ローレの場合はドイツ少女団)に加盟していたローレの、想像を絶する脱出行の旅が開かれていく。

まもなく、アメリカ統治下の村に入り、廃屋の中で、レイプされたドイツ人女性の凄惨な死体(注)を視認し、衝撃を受けるローレの旅の苛酷さは、徐々に、「世界最強の国家」に住み、守ってくれていると信じた幻想を打ち砕く風景を露わにしていく。

 “この残虐行為の責任は君たちにもある!”

多くの者たちが集まる避難所で、ローレが目にした掲示板の新聞には、この文字と共に、目を背けたくなるほど痛ましい、ホロコーストの写真が何枚も張り付けられていた。

あまりの衝撃の大きさに動揺するローレだが、あろうことか、その写真の中に父が写っていたため、それを切り取ってしまうのだ。

それでなくても、南京虫(トコジラミ)に刺され赤い痕跡のある、赤子を連れた子供たちだけの旅の困難さは、日々の糧を繋ぐ厳しさでもあった。

母から受け取った指輪などの貴金属を、農家で食料に変えていくローレ。

それでも不足する食料を得るために、銃撃された遺体から時計を盗むローレ。

彼女にとって、その能力の範疇を超える酷(きび)しい旅を突き抜けていくには、キリスト教の教えに背く行為から免れようがないのだ。

「赤ん坊連れは食料がもらえるの」

ローレの言葉である。

その赤ん坊を連れたローレの長旅が、前触れもなく米軍兵士に止められ、通行証の提示を求められた。

通行証を保持していないローレの難局を救ったのは、ユダヤ人の若者だった。

ユダヤ民族を象徴するダビデの星記号が、身分証の隙間から垣間見えたからである。

何より、個人識別番号を示す入れ墨スタンプが映像提示されていたことでも、この男の出自が判然たる証拠になっていた。

トーマス
それまでも、この男に付きまとわれていたローレたちは、彼を兄と呼ぶことで、最初の難関を通過するに至る。

「歩いて食料を探していたんだ」と男。
「彼らの身分証は?」と米軍兵士。
「失くした。ブーヘンヴァルトで。強制収容所にいたんだ」

時代の風景の劇的な一変によって、今や、ユダヤ人であるという事実は、各国の占領下、とりわけ、米軍の管轄下にあるドイツ領内では「善なるもの」の記号であったのだ。

若者の名はトーマス。

そのトーマスが、彼が言うように、ブーヘンヴァルトの強制収容所から解放された男かどうか不分明だが、少なくとも、ユダヤ人であるという事実を証明するトーマスの身分証明書を見たローレは、「父が来たら怒るわ」と言って、彼に対する差別感情を隠せない。

その辺りが、「食料をくれる」と言って喜ぶ次女・リーゼルとの違いであった。

それは、思春期中期に踏み込んでいた姉と、児童期後期、或いは、思春期前期の心理的・身体的成熟に留まっている少女の差異でもあった。

それ故にか、成熟した身体を見せる思春期中期の少女・ローレが、異性としての若者を意識する感情を抑制するのは難しい。

この微妙な距離の中で、ローレとトーマスが困難な旅を共有するのだ。

その困難な旅の渦中で、ローレは掲示板から切り取った父の写真を、家から持ち出して来た軍服姿の父の写真と共に、土塊(つちくれ)の中に埋めるに至る

それは、「尊敬する父」との訣別を意味するメタファーとも考えられるが、今や、「禁断」の象徴である「ナチス」という否定的記号を持つことの危うさを感受したローレが、「埋葬」の思いを込めて埋めたとも思われる。

まもなく、そのローレとトーマスの旅が大きな転機を迎える。

ローレ
初老の漁師に船を出してもらおうと頼むローレには、もう、自分の体を提供する以外になかった。

ローレの傍でこのアンモラルな行為を目視していたトーマスが、その漁師を撲殺したのは、漁師がローレの若い体を貪ろうとするときだった。

衝撃を受けるローレ。

全く顔色を変えず、平然とした表情で、ローレのワンピースのボタンを嵌めるトーマス

そんな中、トーマスを加えた一行は河を渡っていくが、殺人を犯すトーマスへの恐怖感を拭えないローレ。

盗みで刑務所に入っていたと言う本人の言葉が想起されたのか、ローレの恐怖感は、一時(いっとき)トーマスへの拒絶の意思に結ばれる。

トーマス心理的距離は離れていても、折にふれて、ローレの体に接触してくるトーマスに対して、一線を越えない程度において少女の身体が受容するのだ

ローレトーマス
ローレが背負う旅の重さが、その行程に充分な折り合いをつけられず、累加される一方の思春期自我が解放を求めて反応するのだろう

ともあれ、通行を禁止された一行は、森の中の道を踏み入って行く。

ソ連地区から英国地区を抜けていくため、森の中で野宿する一行に悲劇が起こったのは、食料を求めたギュンターらのために、食料を探しにトーマスがローレたちから離れたときだった。

食料を盗んでトーマスが戻って来た気配を感じたギュンターが、走り出して行った瞬時に射殺されてしまうのである。

この事件によって、赤ん坊連れのローレ姉弟への同情か、或いは、そんなローレへの個人的関心で援助行動に振れたと思われるトーマスは、姉弟との長旅の行動から離れていく。

自分に及ぶ危険性から回避するためである。

しかし、弟を喪い、不安感がピークに達したローレは、必死になってトーマスを止めるのだ。

「置いて行かないで」
「もう、検問はない。汽車に乗れる」

ローレがトーマスに抱きついて、嗚咽の中で、自分の思いを吐き出したのはこのときだった。

「赤ん坊をあげる。だから行かないで。親戚には死んだと言う」

「もう、頼るな」
そう言ったのだ。

「いらないよ」とトーマス。
「弟にしていいわ」

そう言っても、一人で出て行こうとするトーマスに、心の中で封印してきた感情を投げつけるのだ。

「ウソばかり!いつもそう。ユダヤ人だもの!あなたを見ると思い出すの。何もかもウソだったなんて。あれが忘れられない。頭に焼き付いてて、離れないの」

ホロコーストの掲示板の写真を見た時の衝撃が、いつまでも、彼女の脳裏に焼き付いていたのである。

それでも離れて行こうとする男の耳に赤ん坊の泣き声が侵入してきて、生き残った双子の弟・ヨルゲンが抱く乳児・ペーターの様子を見に行くが、それでも、ローレたちから離れていこうとするトーマス。

溢れる涙を抑え、激しく葛藤する彼の表情が大きく映し出されるこのカットは、本作の白眉でもある。

ローレとトーマスの二人に特化された、激動の時代の転換点で揺れ動く感情を的確に表現していく本篇の素晴らしさは、この辺りにある。

だから、トーマスとローレ弟妹との旅は、もう少し続く。

しかし、汽車に乗った一行の前に検問が立ち塞がり、ここで、最終的にトーマスは離れていく。

この辺りのリアリティも素晴らしい。

決して、嘘臭い「予定調和」の物語に収斂させようとしないのだ。

なぜなら、トーマスを引き留めるために、彼の身分証を入れた財布を、双子の弟の一人であるヨルゲンが盗み取っていたのである。

恐らく、ローレによって身分証が盗まれたと信じるトーマスは、ローレたちとの旅への継続の思いを砕かれて、下車し、完全に離れていくのだ。

ヨルゲンが盗んだトーマスの身分証が別人の者であると、ローレが知ったのは、その直後だった。

「トーマス」に成り済ましたこの男が、後に米軍によって解放されたブーヘンヴァルト強制収容所(ワイマール市北部)で死んだトーマス本人の身分証を、どのようにして手に入れたか否か、映像は一切語らない。

ここでは、ただ、「トーマス」に成り済ましたこの男が、ユダヤ人であるという事実のみが重要なのであろう。

かくて、不幸な死を招いたギュンターを除くローレ一行は、ハンブルクの祖母の家に辿り着くに至った。

「ギュンターは死んだ。ソ連地区で」

祖母に問われて答えたローレの言葉は、あまりに重い。

傍らで、妹のリーゼルが泣いている。

祖母の家に母がいないことを知って、リーゼルの涙は止まらない。

このとき、両親が刑務所に拘留されていることを、リーゼルは初めて知るのだ。

「恥なくていいの。すべて終わったわ。お父さんたちは正しいの。間違ってない」

ナチの教えを信じる祖母の言葉である。

そんなリーゼルも解放系の気分に浸ることで、艱難(かんなん)な旅に起こった悲劇を忘れようとダンスに興じるが、その輪の中にローレは入れない。

戦争とは無縁な風景が広がる自然の中に身を置き、ローレは、改めて、トーマスが持っていた身分証の実の本人の家族写真に見入っている。

そこに写されているユダヤ人家族が、疾(と)うに、強制収容所で逝去したという事実の重さを噛み締めているのだ。

それは、ローレの内面的世界の変化を決定的に示す、本作で最も重要な描写であった。

祖母に対するローレの反抗が、ここから開かれていくからである。

「ひどいお行儀ね」

ヨルゲンの食事マナーの悪さを咎(とが)める、祖母の言葉である。

それに反抗するローレは、敢えて、食事マナーの悪さを身体化する。

祖母の制止を振り切って、ミルクをテーブルに零し、それを掬(すく)って飲むのだ。

そして、この行程での別れ際、母から受け取っていた陶器製の小鹿を、思い切り脚で潰してしまうのである

それは、900キロにも及ぶ彼女の旅の、それ以外にない着地点だった。

ローレトーマス
―― この稿の最後に、本作で重要な役割を担ったトーマスという若者は、一体、何者だったのかという興味深い問題を考えてみたい。

原作とは無縁に結論から書けば、この「トーマス」に成り済ましたユダヤ人は一種のアレゴリーを駆使し、ローレ弟妹を汽車に乗せるまでの役割を担う、映画的に仮構された人物造形ではないかと、私は考えている。


なぜなら、旅の頓挫が許されないという苛酷な時間を繋ぐ行程を、14歳の少女が突き抜けていくには無理があり過ぎるのだ。

だから、誇りを失わないで」などと母に言われて、有無を言わさず送り出されたドイツ縦断の旅を、身分証を持たない、赤子を含む少年少女が遂行するのは殆ど不可能であるが故に、成人男子の援助を不可避としたのだろう。

そして、もう一つ。

ユダヤ人という「善なるもの」の記号を美化することを相対化し、ユダヤ人にも盗みで刑務所に入り、殺人を犯す者がいるという当然過ぎる物語構成を映像提示したことである。

更に言えば、そんな若者を、「遺伝性疾患 断種法」などという書籍を持つ男を父にする、14歳の少女と物理的に最近接させることで、未だ、ユダヤ人という「悪なるもの」の記号を被せられた若者との軋轢によって、少女の内面的世界の変化を精緻にフォローしていくこと。

且つ、ユダヤ人の若者を異性に設定することで、〈性〉に関わる両者の心理的交流の微妙な感情をも拾い上げていく。

そういうことではないだろうか。

トーマス
そのように考えれば、ユダヤ人の若者の人物造形が映画的仮構性の中で、大きな意味を有することが腑に落ちるのである。


(注)このシーンを観て、米軍の上陸後、僅か最初の10日間だけで、 神奈川県下のみで、1336件のレイプ事件(一ヶ月間で約3000件強)が発生していた史実を想起せざるを得なかった。だからこそ、RAA(特殊慰安施設協会)という名の、連合国軍兵士の相手をする慰安所を作らざるを得なかったのである。もっとも、ベルリンの女性の多くが、ソ連兵によりレイプされたという史実には震撼させられる。無論、スターリンの許可なしにあり得なかった。



2  不安と恐怖を堪え切って完結した旅の、その精神的風景の反転的収束点



この映画は、私に言わせれば、「反ナチ」の作品ではない。

まして、「反ホロコースト」などではない。

「反戦映画」という範疇に括ろうと思えば充分可能だが、しかし、そのイメージのみに押し込めることに違和感を覚えてしまうのも事実。

有り体に言えば、この映画は、時代環境の劇的な変化の渦にインボルブされ、翻弄された一人の少女の不安や揺動感を切り取り、その内面的世界の変化を精緻にフォローしていくことで、自分の頭で考え、行動していく知性・感性を、限りなく、思春期から青春期特有の懐疑的精神を有する自我に近い辺りにまで成長させ、社会心理的な自立の達成に向かっていくイメージを被せた物語であると考えている。

それほどまでに、この映画は、ローレと言う名の14歳の少女の内面深くに這い入っていくのだ。

大体、14歳の少女が踏み込んだ旅の困難さは、それまで内化されていた少女の心の風景との乖離の大きさを被弾することによって、厳しいリアリズムの洗礼の中で露わにされていかざるを得なかった。

否が応でも、少女は、この旅を突き抜けなければならないのだ。

なぜなら、少女には、守らねばならないものが存在したからである。

赤子を利用すると言いながらも、母乳を求めて泣く赤子を含む、年端もいかない弟妹を守らねばならなかったが故に、未知のゾーンに踏み込まざるを得なかったこの旅を完結させること。

その途轍もない使命感が、14歳の少女の全人格に仮託されているのだ。

だから、この旅の頓挫は許されない。

旅の頓挫が許されないという苛酷な時間を繋ぐ行程は、少女に弱音を吐かせることを禁じてしまった。

レイプされた女性の惨たらしい遺体や、ホロコーストの写真を視認しても、言語に絶する衝撃を受けた少女は、その感情を封印し、弱音を吐かない。

ユダヤ人と思しき見知らぬ若者に纏(まと)わりつかれても、少女は、簡単に不安感を見せることはない。

そのユダヤ人の若者が殺人を犯しても、若者への恐怖感を露わにせず、怯え、萎縮することはなかった。

それどころか、相手への怒りを表出する。

少女は強いのだ。

しかし、強いと言っても、まだ14歳の少女なのだ。

ユダヤ人の若者を引き留めるために、少女は、「赤ん坊をあげる。だから行かないで」とまで言った。

生きるのに必死だからである。

だから動揺し、時には泣き叫ぶ。

生きるためには、「女」を売ることも辞さなかった。

当然である。

それ以外に、少女の生存戦略がないからだ。

そんな少女に興味を持った男もまた、生きるためには何でもする。

何でもするが、少女たちの苛酷な旅に同情し、援助も繋ぐ。

憐れんで、嗚咽を抑える情愛の気持ちも捨てていない。

人間とは、一人の人格のうちに、「善」と「悪」を共有することが可能な生物体なのである。

前述したように、ユダヤ人の若者が映画的に仮構された人物造形であったと思えるが、「善」と「悪」の狭間で葛藤する人間のリアリティこそ、綺麗事さえ言わなければ、私たちの裸形の様態である。

不安や恐怖に駆られ、その感情がピークに達した時、自らの裸形の様態を晒し、吐き出してしまうほどに、少女の内側で封印していたものの破壊力の大きさに身震いする。

それほど苛酷な旅を繋いでいたのである。

そこまで封印し得ていた少女の強さに感銘を受けるのだ。

少女は、不安や恐怖を抑えるに必死だった。

だから、少女は強いのだ。

人間の真の強さとは、未知のゾーンで襲来する不安や恐怖を、どこまで抑えられ、どこまで自己を守れるか否かという一点にあると思うからである。

だから、少女は強かったのだ。

ハンブルクの祖母の家での反抗は、時代環境の劇的な変化の渦にインボルブされ、翻弄された少女の、それなしに済まない反転的炸裂だった。

自分の両親が加担したであろう民族抹殺の風景が、少女の自我に食らいついて離れなかった。

その思いが、名前が記されたユダヤ人家族の写真を一枚一枚見る度に、ごく普通の幸福な日常性を破壊された家族の悲しみに同化していくのである。

観ていて、最も胸が痛むシーンだった。

感性の鋭敏な少女だから、胸が張り裂ける思いで一杯だったに違いない。

感性の鋭敏な少女のユダヤ人家族への同化の情感強度が、爆轟(ばくごう)の如き少女の激烈な炸裂に結ばれた。

それは、不安と恐怖を堪え切って完結した旅の、その精神的風景の反転的収束点だったのだ。

守るべきものを持ったが故に、不安と恐怖を押し込めてきた分だけ強くなった少女の炸裂は昇華され、やがて悲嘆をも超え、自らを変容させつつ、青春期の新たな扉を開いていくだろう。

そう思いたい。

―― 本稿の最後に、物語の少女のように、ナチスの家族の血縁を継いだ二人の女性の異なった人生の風景を紹介したい。

その一人は、ヘルマン・ゲーリングが大叔父(両親のおじ)に当る女性・ベッティナ・ゲーリングさん。

彼女は、取材のカメラを前に、自分の思いを正直に吐露していた。

「兄と私は、現実的で重い決断に踏み切りました。不妊手術を受けることにしたんです。私たちは、ゲーリング家の子孫を増やしてはいけないと考えました」

この言葉を耳にして、私は衝撃を受けた。

ゲーリング家の血縁を継承する者は、そこまでして煩悶してきたのか。

全く罪のないベッティナ・ゲーリングさんの決断は、あまりに重過ぎる。

一方、そんなベッティナ・ゲーリングさんの決断と異なる考えを持つ女性もいる。

ハインリヒ・ヒムラーが大叔父(両親のおじ)に当る女性・カトリン・ヒムラーさんである。

以下、彼女の言葉。

「自分は何かを受け継いでいるかも知れないとか、ハインリヒ・ヒムラーのおぞましい血が流れているかも知れないと怖れたことは、一度もないんです。そんなことを言えば、全ては血筋で決まるというナチスの馬鹿げたイデオロギーを肯定することになります。そういう戯言は信じていません。そんなことを考える必要があるとも思いません」

正直、この力強い言葉に触れ、嗚咽が抑えられなかった。

こういう生き方に魅力を感じるが、だからと言って、ベッティナ・ゲーリングさんの決断と、カトリン・ヒムラーさんの生き方を安直に比較することの愚を戒めねばならない。

ローレ
置かれた立場も、周囲の環境も違うだろうし、何より、人それぞれの価値観・人生観も違うのだ。

そこに、言うべき何ものもないのである。


(2015年5月)


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