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2017年11月17日金曜日

葛城事件(’16)  赤堀雅秋


葛城清
<歪に膨張した「近親憎悪」の復元不能の炸裂点>



1  家族の漂動の中枢に、「ディスコミュニケーション」の発動点になっている男が居座っていた





その夜の侍」より
その夜の侍」に次いで、またしても、赤堀雅秋監督は凄い傑作を世に問うてくれた。

心が震えるような感動で打ちのめされ、言葉も出ない。

5人の俳優の完璧な演技力。

松ヶ根乱射事件」での三浦友和と新井浩文
就中(なかんずく)、「台風クラブ」以来、ずっと注目していた(「松ヶ根乱射事件」は最高だった)俳優・三浦友和の圧巻の演技に脱帽する。

邦画界が誇る素晴らしい俳優である。

新井浩文はいつもいい。

嫌味な役柄を演じ切った田中麗奈の感情表現力も出色だった。

若葉竜也は文句なし。

―― 以下、批評したい。

「家族崩壊」を描く、この映画の家族の関係構造を端的に映し出したシークエンスがある。

映画の中で、このシークエンスほど当該家族の実質的破綻が表現された描写がないので、以下、この辺りから言及していく。

―― 2人目を妊娠している長男・保夫婦の結婚記念日に、保の義父母も招待し、20年通う馴染みの中華レストランで、映画の主人公・葛城清が、ウェイターに味の文句を執拗に垂れるシーンがある。

「前はこんなに辛くなかったぞ、麻婆豆腐。いつ味を変えたのか知らないけど、こんだけ辛いんなら事前に説明しないと。日本人、バカにしてるんじゃないか!」

右から清、保夫婦
恐らく、いつもこのような調子なのだろうと思わせる、モンスタークレーマーと化した葛城清の傲岸不遜(ごうがんふそん)の態度が暴れ捲っていた。

そして、これも、いつもこんな風に委縮するのだろうと思わせる長男・保の制止に聞く耳を持たず、すっかり会食の場を壊してしまったシーンの中に、周囲の空気をあえて読まず、自分の権威と影響力を誇示したがる男の尊大な性格が集中的に表現されていた。

自分より弱い立場の者には強く出てしまうこの尊大さには、親から受け継いだに過ぎない金物店を営み、新築した庭付き一戸建ての理想の家と家族を持ち、「一国一城の主」として君臨する家父長的性格が張り付いている。

この直後、葛城家のリビングで、保夫婦の子供を預け、留守番を任せられていた清の妻・伸子は、その子供が怪我を負ったことで、清から厳しく詰問(きつもん)される。

「本当にごめんなさい。…許してちょうだい」

言い訳する伸子
「遅いな、救急車」などと言って、保の嫁も夫に不満を炸裂するが、「大袈裟なんだよ、お前は」と、妻に向かって宥(なだ)めるだけの保。

そこに、二階の部屋から降りて来た次男・稔が、無言で冷蔵庫のドリンクを飲み始める。

「ちゃんと説明しろ」

稔を視認した父・清は、妻・伸子を責め立てるのみ。

短気な夫を恐れる伸子は、預かった子供の怪我の原因が、追いかけっこをして、テーブルに頭を打ったからであると、恐々と弁明するのだ。

それを耳にした保は、母が明らかに、稔を庇って嘘をついていると察知する。

それは、父・清にも把握できていたに違いない。

「お前、何か知っているか?」

だから直接、清は稔に事情を訊(き)くが、稔からの反応はない。

その稔は無言のまま、メモに何かを書き出した。

「もういいから、お前、上、上がってろ」

事を荒立てないように常に配慮する保は、そう言って、稔を促す。

「ちゃんと、しゃべって伝えろよ!」

稔を見ることなく、伸子に向かって声高に言い放つ清。

「今、声優、目指してるんだって。だから、喉、大切にしたいみたい」

次男の心情を代弁する伸子の稚拙すぎるこの説明が、かえって、稔庇う本音を曝(さら)け出しているのだ。

この辺りに、「子供の自我を作り、育てる母親」という枢要な役割を担う意識・教養の欠如が、伸子に垣間見えるが、この情報は、他の家族にも共有されていると考えられる。

大体、長男夫婦の結婚記念日に母親が出席することなく、夫婦の幼い子供の子守を任されている現実が示唆するのは、乱雑な二階の部屋で引きこもっている稔に社会的適応力のみならず、留守番すらも満足にできないパーソナルな欠点を露呈するものだった。

そして、その稔が、「おれがなぐった」というメモを、保に投げつけた。

それを読んで驚く保は、周囲に知られぬようにメモを伏せ、「お前、早く仕事見つけな」と稔に言って、話を逸(そ)らすのだ。

「そのガキ、お前の目とそっくり。人のこと見下してんじゃねーよ!」

保に放たれた稔の絶叫である。

これは、「近親憎悪」(性格の似通った者たちが憎み合うこと)によって、捩(ねじ)れ切って育てられてきた兄弟の関係構造の歪みが、今や、復元できないほどに常態化している現実が露わにされる典型的シーンだった。

人間は自分の内部になく、自分が憧憬する能力的・人格的価値を特定他者に見出す時、その者との親和性が強化されるが、逆に言えば、人間は自分の内部にあり、自分が嫌悪する能力的・人格的価値を特定他者に見出す時、その者との「近親憎悪」が強化されてしまうのである。

若き夫婦の祝宴のシーン
これは、庭付き一戸建ての家を手に入れた若き夫婦の祝宴のシーンの挿入の中に、幼い兄弟への父母の関係構造の歪みとしてシンプルに映像提示されていた。

そこでは、前者の「親和動機」(特定他者との友好的関係を維持したいという欲求)によって、父が保に過度の期待をかけ、稔に何の期待をもかけない父の代わりに、母が稔に過剰な愛情を注ぐシーンが印象的に描き出されていた。

因みに、「死刑制度反対派」の立場で、稔と獄中結婚する星野順子に、いみじくも、葛城清が吐露した言葉がある。

稔と獄中結婚する星野順子
「よく二人に勉強を教えてやった。お兄ちゃんはよくできた子で、俺がいいって言うまで、漢字の書き取りだって、何時間だってずっと続けたよ。…ところが、弟の稔はすぐにさぼる。こっちが目、放したら、すぐに机から離れて、一人でへらへら遊んでやがる。我慢って言葉を、あいつは知らない。同じ兄弟で、同じ屋根の下で育って、こうも違うのかなと、愕然としたよ。俺は、やるべきことはやってきたんだ」

これらの映像提示、二人の息子たちへの葛城清の期待と失望が、既に、兄弟の幼児期のうちに感情形成されていた経緯を検証するものである。

兄への稔の剥(む)き出しの敵意・忌避感が、相当に根深い感情であった事実を、これらのエピソードは憚(はばか)ることなく映し出している。

―― ここで、保夫婦の子供の怪我のシークエンスに時系列を戻す。


左から稔、伸子、清、保
一切の事情を察知した清が、妻・伸子の頬を思い切り叩いたのは、兄に対する稔の絶叫の直後だった。

「何、やってるんだよ、お前は!稔に甘すぎるんだよ。だから、こういうことになるんじゃねぇか!」

一頻(ひとしき)り、怒鳴り散らした清は、リビングから消える。

常に見栄を張り、見たくない対象からは視線を外す。

だから大抵、恐怖突入を回避する。

そのリビングから近所の出火を目撃し、通報しようとしたら稔が帰宅し、次男を疑いながらも、最後は見て見ぬ振りで、自己防衛に走る清。

自分の権威と影響力を誇示する男の、その因果な性分に隠し込まれている人間的脆弱さ ―― これが的確な描写によって集中的に表現されていた。

詰まる所、「他人事とは言えない」というレビューが多かったことでも分るが、「葛城家」という、未だ、その社会的な適応度において致命的逸脱に振れず、よくある普通のサイズの家族の範疇のように仮構されながらも、この家族が文字通り完全崩壊に流れていくには、もっと質の異なる別のステップが描かれる必要があるだろう。

葛城家
ここでは、この問題意識をもって批評したい。

以上、このシークエンスは、「葛城家」が抱え込んだ歪んだ関係構造の本質を、自分に都合が悪いことは絶対に認めない葛城清の、一筋縄でいかない喰えなさのうちに照射されたと言っていい。

それ故にこそと言うべきか、このシークエンスは、これで終焉しない。

まだ、やり切れない続きがあるのだ。

もっと質の異なる、別のステップが伏線化されていくからである。

―― エピソードを続ける。

「ごめんね、保…ごめんね、保」

今や、救急車を待侘(まちわ)びるだけの、保の妻が入り込む余地のないこの異様な空気の渦中で、一人だけ引っ叩かれた母・伸子の気弱な声だけが捨てられていた。

この伸子の言葉が内包する意味は、酷薄さに満ちている。

「一国一城の主」になる期待を一身に背負わされかれた保
父から「一国一城の主」になる期待を一身に背負わされ、身の丈を超えたプレッシャーをかけられ続け、「我慢って言葉を、あいつは知らない」と見下された弟から、「人のこと見下してんじゃねーよ!」と叫ばれる歪(いびつ)な関係構造の中で、葛城家での「近親憎悪」の所産としての「ディスコミュニケーション」(対人コミュニケーションの機能不全)のしわ寄せが、家族というミニ共同体の幻想を一人で守ろうと努める保にのみ、一方的に及んでしまう理不尽さ ―― これは尋常ではなかった。

しかし、保の努力は、「家族崩壊」を必至とする現象の弥縫策(びほうさく)でしかなかった。

尊大な態度を常態化する葛城清の暴力に耐えるだけの母・伸子が持ち得る、稔と家出するいう選択肢すらも失い、リストラされた事情も口に出せない保にとって、残された方略は限定的だったのだ。

リストラされ、誰にも話せないで悩む保
コミュニケーションの苦手な保が営業の仕事を続けるのは、所詮、無理だったのだろう。

皆が皆、相手の心情に届くに足る、有効なコミュニケーションを密にする能力の不備が、もう、復元不能な辺りにまで漂動(ひょうどう)していた。

家族の漂動の中枢に、「ディスコミュニケーション」の発動点になっている葛城清が居座り、男の自己基準の家族像のうちに、腕力を持って、何もかも収斂させずにはいられなかったからである。







2  歪に膨張した「近親憎悪」の復元不能の炸裂点





「私、あなたのこと大嫌い!何で、ここまで来ちゃったんだろ」

顔に叩かれた傷跡を残す伸子が、嗚咽の中で清に吐き出した時、男の自己基準の家族像は実質的に自壊する。

稔を連れて家出した伸子は、狭いアパートを借り、近所のスーパーでパートをして、貧しいながらも、充実した日々を送っていた。

貧しさは、失った共同体を再構築する力を持ち得るのである。

同時に、閉じ込められたような生活を送っている主婦のパート労働が、心身の健康にとって極めて良好であるという研究報告もある。


常に自分を大きく見せながら生きてきた、葛城清という男が仕切っていた、「虚構の城」としての「家族共同体」から解放されただけで心が落ち着き、充分に満たされていた。

物理的距離があっても、昨日まで、共に「家族」を繋いでいた母と子が、今、「最後の晩餐」に何を食べるかなどという、他愛ない会話を交わしているのだ。

しかし、それも束の間だった。

保の連絡によって、葛城清が出現することで、和やかな空気が一変する。

「お前はもうダメだ」

そう言い放つや、稔を蹴り、首を絞める清。

歪(いびつ)に膨張した「近親憎悪」の時間の累加の果てに、一向に腰定まらない稔を冷眼視(れいがんし)し続け、父と子の「ディスコミュニケーション」の状態が極点にまで達した時、男には、もう、こんな衝突にしか流れ込めない不穏な〈状況性〉を作ってしまうのである。

殺気を漲(みなぎ)らせながら、左手に包丁を持った男の狂気が、自分を除くスポットで、和やかな「家族ゲーム」を繋ぐ家族成員への嫉妬を膨張させ、腕力によってのみ、「虚構の城」としての「家族共同体」を延長させる行動に振れるのは、決して変わり得ない、この男の人格総体の剥(む)き出しの発現様態でしかなかった。


ここでも、伸子が嗚咽を結ぶことで、「状況脱出」という、取って置きの選択肢を断念せざるを得なかった。

「別に俺は死んでもよかったんだけど…まだ、生きなきゃいけないのかよ」

父の殺意を感じ取ったの心の搖動が、こんな絶望的言辞に結ばれていく。

父と子の中で惹起した、この不穏な〈状況性〉は、歪に膨張した「近親憎悪」の復元不能の炸裂点だったのだ。

葛城清の、この行動の根柢に澱(よど)む心理は、「一国一城の主」として築いた家族成員の中で、自分の権威と影響力を誇示し、支配を及ぼす対象人格が消失する恐怖感であると言っていい。

それを失ったら、男の孤独が極点にまで行き着いてしまうのである。

多くの場合、適正サイズのコミュニケーションが苦手で、自分を大きく見せる行為をも見透かされてしまうようなタイプの男がそうであるように、葛城清は弱い人間なのだ。

「もう、誰も帰って来ないんだから」

全てを失った男の悲哀
全てを失った男に、一言添えた行きつけのスナックのママの、この言葉は悲哀に満ちていた。

これが、憂戚(ゆうせき)極まるラストシーンに流れていくので、悲壮感が漂動し過ぎていて、観ていて、涙を抑え切れなかった。

「とりあえず、おウチに帰ろう」

清のこの一言で、「近親憎悪」の復元不能の炸裂を顕在化した葛城家内部の「事件」は、「一件落着」する。

自死に振れる保
家族の決定的な亀裂を修復する能力を失い、営業マンを装っている日々に疲弊し切った保が、「申し訳ない」という遺書を残し、マンションから投身自殺した事態の大きさは、この家族の決定的崩壊を約束する何ものでもなかった。

最も喪ってならないものを喪っても、人前で「悲嘆」を見せなかった男は、保の自殺を頑として認めず、どこまでも「事故」と言い張るのだ。

ここでも、自分に都合が悪いことは絶対に認めない男の、変わり得ない脆弱さが際立っている。

保の自殺は、家族の決定的崩壊の、それ以外にない現象だった。

「ごめんね、保」と言い続けてきた母には、長男の苦衷(くちゅう)が理解できていたが、何もできなかった。

保の自殺が契機になって、伸子が精神を病んでいく。

星野順子と伸子
稔の事件後、施設に入所し、そこが伸子の終の棲家(ついのすみか)になっていのか、不分明である

そして、葛城清を奈落の底に突き落とす事件が出来する。

稔が起こした連続殺傷事件 ―― これは、もう失う何ものもない極限状態にまで、葛城清を追い込んでいく。

連続殺傷事件を起こす稔
通販で頼んだナイフを片手に、最寄りの駅構内の地下で、手当たり次第に殺傷を繰り返す稔。

「いつか、一発逆転しますから。悪いけど、それまで温かく見守ってて下さい」

母に吐露した稔の言葉である。

駅構内の地下での事件
「まだ、生きなきゃいけないのかよ」と言い捨てた稔には、死刑を求めて、複数の非特定他者への殺傷行為に走る「間接自殺」という、救いようのない犯罪で暴発する手立てによってしか、「一発逆転」の選択肢が残されていなかったのだ。

その稔と獄中結婚する星野順子の最後の接見の日に、稔はこれまでにない長広舌を振るう

最後の接見の日
「俺そもそも、謝罪するつもりなんて一切ないから。罪を犯したという意識すらないから…そんなに意味が欲しいんならさ、こういうのはどう?10代、20代をろくに努力もせずに、怠けて過ごして生きてきたバカが、30手前になって、人生終わった状態になってることに気づいて発狂して、人生を謳歌する他者に妬み嫉みで自殺の道連れにして、浅墓に暴れた。そういう動機、誰かの聞きかじりだけど。驚くくらい質素で、無気力で、この不遇な人生は、きっと俺ではない誰かのせいで、逆境に立ち向かう心の強さは一ミリもなく、気が付いた言葉を切り貼りして言い訳ばかりで、饒舌に長け、クソみたいな自己顕示欲に溺れたクソみたいな人間です、私は!…これが俺の全てだよ。そういう風に分類しておけよ。そのほうが安心だろ?お宅らも」

死刑の早期執行を求める、最後の接見での稔の叫びだが、これは本音とも、自己を真正面から捉えた自己分析とも考えられる。

しかし、自らが犯した事件それ自身を定式化し、カテゴライズされることへの挑発する含みがあったとも思える。

死刑判決を言い渡され、傍聴席の父に笑みを漏らす稔
結局、誰の責任なのか。

その尖り切って暴発した犯罪の意味は、一体、何なのか。

それを正確に知ることは、本人自身も含め、誰も分りようがないと言いたいのかも知れない。

この辺りについては後述する。

ただ、哀れを極めるのは、理性の際(きわ)のぎりぎりの状況に呪縛され、絶対孤独の裸形の相貌性を露わにする葛城清である。

その清の前に、順子が現れる。

死刑囚・稔の死刑が遂行されたことを報告しに来たのだ。

そんな順子を押し倒し、清は途方もないことを言い出した。

「今度は、俺の家族になってくれねぇか?俺が3人、人を殺したら、お前は、俺と結婚してくれんか?」
「あなた、それでも人間ですか!」

予想だにしない清の暴言に、順子は叫びに結ぶ。

明らかに、この行為は、全てを失った男の孤独の埋め合わせであると言っていい。

蜜柑の木の前で
一人になった男は、「幸福家族」のシンボルであったはずの、自宅の庭に植えてある蜜柑の木にコードを巻きつけ、首吊り自殺を図るが、枝が折れて、あえなく頓挫する。

自殺に頓挫した男は家屋に戻り、誰もいない一軒家のダイニングルームで、冷たくなった残り物の麺を啜り出す。

完璧なラストカットである。





3  この映画の本質は、「近親憎悪」と「ディスコミュニケーション」である





情報を無批判に受容することなく、限りなく客観的に批判的な思考を繋ぐ方法・「クリティカルシンキング」の中に、「滑り坂論法」という思考法がある。


最初の一歩を踏み出せばブレーキが効かなくなるから、最初の一歩を踏み出すべきでないという論法である。

これは、何か一つの問題点が、その後の事態の悪化の全ての原因であるとする誤謬の論法であると言える。

この「滑り坂論法」で本作を読み解くのは困難だが、あえて言えば、この映画の本質は、「近親憎悪」と「ディスコミュニケーション」であると、私は考えている。

「滑り坂論法」の初発点は、家族関係内の「近親憎悪」であった。

映画の中の印象深いエピソードに、家族関係内の「近親憎悪」を典型的シーンがあった。

前述したように、庭付き一戸建ての家を手に入れた若き夫婦の祝宴のシーンがそれである。

「稔ちゃん、赤ちゃんみたい」

「近親憎悪」の初発点
そう言うのは、祝宴に招待された伸子の友人。

幼児にもなって、母・伸子に抱っこされて甘える稔と対照的に、笑みのない保の頭を撫でながら、清は長男の自慢を友人たちに語るのだ。

「今の時代、大学くらい出てないと話にならないからな。こいつは、中々、見どころがあるよ。来年あたり、英語の塾に行かせようと思ってな。後継ぎは俺でお終い。こいつは、そんな柄じゃないよ」

このエピソードは、既に、若き夫婦が二人の子供を儲けた初発点から、父母と兄弟との関係構造の中で、「できのいい長男に、自分にない学力を期待する父」と「何をやっても続かない次男を、一方的に甘やかす母」という、対極的な構図が提示されている。

そして、このエピソードには、胸を打つような続きがある。

「こいつらが、すくすく育すようにって」

そう言って、蜜柑の苗木を植えたことを、清は自慢げに語るのだ。

「俺、この家、出るから」と言って、自立していく保と、それを見る稔

この父の思いを疑うことができないが、兄弟の性格傾向が際立つ思春期頃には、恐らく、「一流大学を目指す兄」と「落ちこぼれの弟」という対照的な関係が形成されていて、兄に対する弟の劣等感が鋭角的に膨張していったに違いない。

この膨張のプロセスに母親の溺愛が媒介されることで、弟の自我の中枢に「歪んだ自己愛」が不必要なまでに増殖されていく。

いつしか、この「歪んだ自己愛」が「落ちこぼれの尖った視線」と化し、兄と父に対する憎悪に変形する。

この憎悪の感情が、積極的な敵意を喚起する。

しかし、この積極的な敵意の着地点が、自己に対する相手の評価の反転を意味しない限り、いつまで経っても、「落ちこぼれの弟」というラベリングから解き放たれることはない。

だから、「落ちこぼれの尖った視線」だけは生き残される。

この致命的な「ディストレス状態」(有効なストレス処理が困難な精神状態)は、「ネガティブな感情の吹き溜まり」と化す。

「ネガティブな感情の吹き溜まり」の本質は、社会的適応力の欠損である。

社会的適応力の欠損の根柢には、母親の溺愛による耐性欠如がある。

社会的適応力の欠損の重要な因子になる、相当に深刻な耐性欠如の自我が、「ディストレス状態」を延長させてしまうのだ。

「ディストレス状態」が延長することで、兄と父に対する敵意が変形し、社会全体に対する「肥大し切った敵意」になる。

早晩、この「肥大し切った敵意」が社会全体への破壊願望になり、何らかの契機さえあれば、それを具現化する行動選択に最近接する。

「一発逆転」を具現する稔
行動選択に最近接した「肥大し切った敵意」は、唯一、破壊願望の具現化で存分な快感を得ていく。

それは、「間接自殺」という名の自爆によってのみ満たされるのだ。

それこそが、「一発逆転」の発想の本体だった。

明らかに、何某かのパーソナリティ障害が顕著に見られる稔は、もう、「反社会性パーソナリティ障害」という、他者の理解を超える「怪奇系」にまで膨らみ切ってしまって、自分の人生それ自身を破壊する。

これが「間接自殺」である。

同時に、「一発逆転」の行動総体が、自分の大きさを父に見せつけることになるのだ。

「やっぱり、死刑にしないでくれ。これじゃ、稔の望むとおりになるだけだ。むしろ、それでも生かして、生きる苦しみを味わしたほうが、奴にとって、一番の罰じゃねえか」


順子に対する父・清の言辞であるが、一片の贖罪意識なき稔の「間接自殺」は、「ネガティブな感情の吹き溜まり」が変形し、社会全体への破壊願望のうちに溶融することで、支配下に置く何者も持ち得なくなる父への反転的な報復であったのだろうか。

―― そしてもう一つ。

この映画の本質を語るのに不可欠なキーワード ―― それは「ディスコミュニケーション」である。

思うに、この映画の家族4人に共通するのは、コミュニケーション能力の不足である。

他の3人は言うに及ばず、セルフコントロール能力が勝ち過ぎるほどに、最も優秀な保ですら、コミュニケーション能力の不足によってリストラの憂き目に遭うのだ。

コミュニケーション能力こそ、社会的適応力の基準になる。

一切は、社会的適応力の多寡(たか)の問題であると言っていい。

「ディスコミュニケーション」の顕著な葛城家
社会的適応力の欠損は自我内部での「ネガティブな感情の吹き溜まり」と化し、それを放置すれば「ディストレス状態」を日常化してしまうのである。

その極点が、「一発逆転」の行動に振れた稔だった。

稔のコミュニケーション能力の致命的な欠損は、幼少期からの母の溺愛と、父との「近親憎悪」の関係構造に淵源(えんげん)する。

前者による過大な「自己愛」被浴と、後者よる差別的な「自己否定」圧力が、稔の自我の安定性を削り取っていたことは相当程度の確率で言えるだろう。

いずれの場合も、適切なコミュニケーションが保持されていたとは思えないのである。

もとより、コミュニケーションとは、会話・文字の「言語コミュニケーション」(バーバルコミュニケーション)に限定されるものではない。

「非言語コミュニケーション」(ノンバーバルコミュニケーション)という、コミュニケーション総体の65%を占有し、会話・文字以外の情報をベースに相手の心情を読み取る
コミュニケーションがある。



音楽・美術らの芸術文化表現に留まらず、身近なところで言えば、身振り・手振りなどのジェスチャー、表情・顔色・沈黙・触れ合い・アイ・コンタクト・目つき、性別・年齢・体格などの身体的特徴、そして、イントネーション・声色などの周辺言語。

更に、空間・時間・色彩などに至るまで、言語以外の様々な手段によって伝えられ、対人コミュニケーションが図られている現実を知れば、「非言語コミュニケーション」の包括力の大きさに驚きを禁じ得ないだろう。

例えば、家族が共有する「空間」の中で、「会話」が弾む食事風景は「食卓」と化し、一つの「食文化」を構成するが、「沈黙」の中での食事風景になれば、「非言語コミュニケーション」の「空間」になり、「食卓不在」の寒々しい風景を印象づけてしまうだろう。

そこに、「非言語コミュニケーション」が内包する、当該家族独特の関係構造の精神的風景が炙(あぶ)り出されてしまうのである。

映画の家族もそうだった。

葛城家
葛城清が仕切り、支配し、家族4人が共有する「空間」の中には、「権力関係」と思しき関係構造が露呈されていて、しばしば、息苦しくなるような構図が映像提示されていた。

葛城家には、会話中心の「言語コミュニケーション」が拾われていたにも拘らず、本稿の冒頭で言及した、「中華レストラン」⇒「帰宅後の保夫婦の子供の怪我」のシークエンスで露呈された、実質的に破綻した当該家族の関係構造の歪みが、このシークエンスのあとに続く「家族崩壊」の凄惨さを約束してしまうのだ。

そして何より、「非言語コミュニケーション」としての「空間」を作り出し、それを共有する格好の食事風景について言えば、手料理なきコンビニ依存に象徴されるの、「食文化」としての「食卓」の不在の精神的風景に止めを刺すだろう。

「非言語コミュニケーション」の欠損は、「情緒的結合体」・「役割結合体」としての家族の、救いようのない機能不全性を常態化し、家族の関係の実態を抉(えぐ)り出す。

「家族共同体」・葛城家の崩壊
詰まる所、「虚構の城」としての「家族共同体」・葛城家の「ディスコミュニケーション」の欠損の痛ましさは、「言語コミュニケーション」・「非言語コミュニケーション」という、私たちホモ・サピエンスの最強の武器を有効に駆使することなく、言語交通の偏頗性(へんぱせい=一方通行性)によって、まるで約束されたかのように、健全な「情緒的結合体」の構築を自壊させ、既に、顕在化していたダークな風景を全開したという一点に凝縮される。

均しく貧しい時代では、「パン」の確保が第一のテーマだったから、自ら必死に働く葛城家の権力的亭主であっても許容範囲を超えないかも知れないが、「パン」の確保を達成して得た便利すぎる現代社会では、「情緒的結合性」の強弱によって決まってしまうのである。

「情緒的結合性」が決定的に脆弱なら、「ミニ共同体」としての「虚構の家族」は自壊する。


「ネガティブな感情の吹き溜まり」が酸鼻(さんび)を極めた時、「家族」という物語に関わる一切の現象が終焉するのだ。

時代が変わったのである。





4  「応報刑主義」の立場に依拠し、死刑存置を迷いなく支持する





稿の最後に、死刑存廃問題について言及したい。

先進国で実質的な死刑存置国が日米だけであるという世界の趨勢とは無縁に、死刑存廃問題について、犯罪を抑止する目的で設置される「目的刑論」に対する概念である、「応報刑主義」を根拠とする存置論を支持する理由について、私の持論を書いておきたい。

1948年に起こった免田事件・免田栄(ウィキ・2007)
結論から言うと、免田事件・財田川事件など、無罪が確定した死刑事案による誤判の怖れの問題をクリアしていさえすれば、仮に、死刑制度の犯罪抑止効果が検証されたとしても、私は「応報刑主義」の立場に依拠し、死刑存置を迷いなく支持する。

日本人我慢強く且つ、臆病な民族(隣人と競争する「勝ち気」を有するが、「強気」にあらず)であると考えているので、最も大切な特定他者の命を奪われても、多くの場合、「その夜の侍」のような復讐劇に振れることがない。

それでも、対象喪失の危機に直面し、普通の日常性の再構築を手に入れられないだろう。

では、どうすればいいのか。

周知の通り、「光市母子殺害事件」の本村洋(ひろし)さんは、自殺未遂の辺りにまで精神的に追い込まれた絶望的状況の淵にあって、何とか踏み止まり、「犯罪被害者は泣き寝入りしてはならない」という思いを結集して、「全国犯罪被害者の会」の血の滲むような努力を繋いでいった。

その結果、国家を動かし、メディアを動かし、世論を喚起して、法廷の場で堂々と争う「犯罪被害者」を立ち上げ、加害少年に、死刑という究極の刑罰の適用を勝ち取るに至る。

「光市母子殺害事件」犯罪被害者のグリーフワーク ―― その茨の道の壮絶な風景

自らが負った甚大な心的外傷と必死に折り合いをつけた、本村さんの13年間の闘争には、正直、頭が下がる。

絶対に喪ってはならない愛する者を、喪った時の辛さ。

まして、その喪失が残虐な殺人事件に起因する「突然死」だったら、残された者の衝撃は筆舌に尽くしがたいだろう。

拠って立つ自我の安寧の基盤が、根柢から崩されてしまったのである。

そればかりではない。

本村さんは、絶対に喪ってはならない者の死の第一発見者だったのだ。

この激甚な心的外傷がフラッシュバルブ記憶(閃光記憶)と化し、これ以降の本村さんの自我にべったりと張り付いてしまうのである。


「私は死ぬ寸前まで助けを求めて私の名を呼んだであろう弥生を、抱きしめてやることもできなかつた。それどころか、妻の変わり果てた姿に恐怖すらした。いくら動転(どうてん)しょうと、いかに我を忘れようと、妻を抱くこともできなかつた私はなんと情けない人間か。私はそんな自分を、今でも許せない(略)妻が受けた屈辱、娘が受けた苦しみに比べたら、自分の苦悩など、いかほどのことでもない」(手記)

ここまで犯罪被害者の自我を切り裂き、言語を絶する懊悩(おうのう)の極限状態の渦中で、本村さんは言い切った。

「犯人をこの手で殺す」 

Fが死刑にならないのなら、今やそれだけが、妻と娘に対する罪悪感から解き放たれる唯一の方法だったのだ。

しかし当然ながら、本村さんは、自らを「もう一人の犯罪加害者」に変換させなかった。

「もう一人の犯罪加害者」に変換させない代わりに、国家権力に対し、制度として存在する、加害者への刑罰を行使する権力を委ねたのである。

だから、内閣府調査によると、「死刑もやむを得ない」とする存置論者が8割を優に超えているのだ。

つまり私たち日本人は、「犯人をこの手で殺す」ことができないが故に、拠って立つ国民国家に、然るべき刑罰の執行を委ねているのである。

報道機関に初公開された東京拘置所内の刑場
死刑判決が確定したら、6箇月以内に法務大臣は執行命令を出す。

この刑事訴訟法第475条によって、執行命令が規定されているのも周知の事実。

しかし死刑存置国であるにも拘らず、この制度は守られていない。

明らかに、行政府の怠慢である。

この行政府の怠慢が、遺族の人たちの心を深く傷つけ、膨大な数に上る地下鉄サリン事件の被害によって、PTSDで懊悩する人たちのラインが途切れることなく、その凄惨さな風景を、今なお晒し続けているのである。

この不条理は、遺族にとっては終わりの見えない煩悶と化し、PTSDで懊悩する人たちの人生の時間を食い潰していくのだ。

「私は死刑という制度に反対する人間です。偽善者だと思うかも知れませんが、私は人間に絶望したくないんです。死刑は絶望の証です。人間の可能性を根源的に否定する制度です…私は稔さんの本当の家族になるつもりです。そういう関係性の中から、何とか、他人の痛みが分る、そういう心が彼の中に芽生えることだけを祈り続けます」

順子と稔
この言葉は、「正義に向かって猪突猛進的な人物」(赤堀雅秋監督インタビューより)・星野順子の堂々としたマニフェスト。

相当程度、イデオロギーが塗(まぶ)されていて、それを隠れ蓑(かくれみの)にしているという印象を拭えないが、忌憚のない意見として認めたい。

そうであるなら、この国の立法府を動かすような、死刑廃止の持続的なムーブメントを起こし、その運動を繋いでいって欲しいと心底、思う。


(2017年11月)


2017年11月5日日曜日

淵に立つ


<「視界不良の冥闇の広がり」と「絶対孤独」〉



1  「彼のような人こそ、神様から愛されなければならないのに」





「視界不良の冥闇(めいあん)の広がり」と「絶対孤独」という、人間の〈存在性〉の懐深(ふところふか)くに潜り込んでいる風景が、「異物」の侵入によって、寸断された時間の際(きわ)に押し込まれた者たちの〈迷妄〉と〈渾沌〉のうちに露わにされ、そして、その〈状況性〉が分娩する〈不条理〉を、一見、縮こまって呼吸を繋ぐ平凡な一家族が被弾する、無秩序と非日常の日々の渦中に描き切った傑作

その〈不条理〉が生み出す〈絶望〉と〈罪悪性〉を突き抜けようとしても、突き抜けられない〈状況性〉の酷薄さを、邦画界で衰退している作家主義の精神で、「理想の家族像」とは縁遠いように見える核家族の崩壊という、ミニマムでありながら普遍性を有する物語として再現される。

―― 物語をフォローしていく。

侵入者としての「異物」の唐突の破壊力によって、寸断された時間の際(きわ)に押し込まれた、平凡な一家族の〈迷妄〉と〈渾沌〉が露わにされ、救いようのない物語が一気に開かれていくが、それは、映像の序章から前半までの落ち着いた風景を決定的に裏切るものだった。

八坂
11年ぶりに県の施設を経由して出所したその男・八坂は、一緒に働くことになった知人の住む山形に行く前の3週間限定で、友人であり、小さな金属加工工場を営む鈴岡利雄の自宅兼職場に厄介になる。

「家族は死んだ」と言う八坂は、僅かな期間で、鈴岡利雄の妻・章江(あきえ)、10歳になる娘の蛍と懇意になる。

「何卒よろしくお願いします。迷惑はかけませんから」

常に、敬語で話す礼儀正しい八坂の温厚な態度に、敬虔なプロテスタントである章江は深い興味を持ち、好感を抱くようになるが、それが異性感情に遷移していくのも早かった。

左から章江、八坂、蛍
オルガンを習う蛍に近づき、そのオルガンを親切に教示する八坂。

「腐れ縁ですね」

章江に、夫・利雄との関係を聞かれた八坂の反応である。

「あんまり甘やかすなよ、俺を」

これは、利雄が八坂に放った一言。

利雄と八坂の関係の曖昧さを示すこの伏線描写は、終盤で回収される。

利雄(左)
家族団欒に他人が入り込んでも、違和感が薄れてきたそんなある日、八坂は章江に、自分が殺人犯であった事実を正直に告白する。

以下、存分の感情を込めた八坂の、計算されたかのような「間」を保持しながらの長い告白。

「私は独善的な人間でした。幼い頃から、約束は命がけで守れと教えられてきて、それをできる限り正しく、私は実践して生きてきたつもりでした。私の犯した過ちというのは、四つあります。

一つは、約束を守ることが、命よりも法律よりも優るという歪んだ価値観を持ってしまったこと。二つ目は、当然、他人もそのように生きていると思い込んでしまったこと。三つ目は、私は間違いないと、自分自身の“正しさ”を頑なに信じてしまったこと。そして最後は、そういった、私自身の歪んだ価値観を根拠に人を殺めてしまったことです。

…刑務所に入る覚悟はありました。しかしそれは、反省の気持ちからではなく、何かこう、自分は逃げも隠れもしないという、男らしさへの子供じみた憧れからでした。だから、法廷でも、自分が不利になる証言を包み隠さずしました。死刑になる覚悟もありました。私は自分自身で身勝手に作った“正しさ”という枠から逃げることができなかったのです。

…しかし、それは突然、本当に一瞬の出来事でした。

私は法廷で、遺族の方から、罵声を浴びせられることを覚悟していたのですが、傍聴席を見ると、母親は全く泣いておらず、能面のような表情を浮かべて、しかし最後には、彼女は自分自身の頬を、二度三度と彼女の右手で打ったのです」

ここで、自分の頬を強く叩いて見せる八坂。

「彼女は私ではなく、自分の頬を打ったのです。それから堰を切ったように泣き出しました。どうしてそんなことをしたのか、私には咄嗟に分りませんでした。本当のことは今でも分りません。ただ私は、何て取り返しのつかないことをしてしまったのかと、本気で自分を悔いました。一人の人間の命を奪うことの重大さ、被害者と遺族の方の深い絶望を思いを実感しました。私は死刑になるべきでした。しかし、こうして生かされています。ですから、私のこれからの人生というのは、遺族の方に預けられたものだと思っています」

八坂の告白
驚くべき告白だが、それを傾聴するプロテスタントである相手の女性が、より深く、自分に好意を寄せることを確信する者の弁舌だった。

案の定、話を聞きながら涙ぐむ章江。

この告白の真偽のほどは定かではないが、あまりに理路整然とした告白の内実に驚きを隠せない。

それでも、被害者の遺族に八坂が手紙を書いていて、その手紙を、章江が自ら求めて読ませてもらうシーンがある事実から、遺族への贖罪という告白の内実の核心が、あながち作り話であると言い切れないのも事実である。

或いは、自分に好意を寄せることを確信する八坂の思いが、このような場面の設定を予想した上での打算的行為であったとも考えられなくもない。

章江と蛍
この作品は、「視界不良の冥闇(めいあん=闇)の広がり」を随所に映像提示しつつも、最後まで、心理描写を希薄化させた作家性の強い映像なので、観る者一人一人が、「システム2」(より多くの時間をかけて、頭を使う「熟慮思考」)を駆使して、限定的なシチュエーションでの、限定的な登場人物の内面の搖動にアプローチする行為が要請されるのである。

そういう映像なのだ。

「彼のような人こそ、神様から愛されなければならないのに」

殆ど約束された章江の反応だが、八坂の狙いは完璧なまでに成就したと言うべきか。






2  「俺、お前んちに居て思うんだよな。何で、この生活が俺じゃなくて、お前なんだって」





「おめぇ、本当に小せえ野郎だな。そんなに俺が怖ぇかよ。おめぇのことなんか、話さねぇよ。お前もあんとき、一緒にいたとか、一度も話したことねぇよ。なのに、何だおめぇ。俺がクソみたいなところで、クソみたいな奴ら相手にしている間に、女つくって、セックスしてガキまで作ってよ。どうなってんだよ。俺、お前んちに居て思うんだよな。何で、この生活が俺じゃなくて、お前なんだって」

八坂と利雄
利雄に放った八坂の悪罵(あくば)である。

この悪罵が重要なのは、刑務所行きを余儀なくされた八坂の犯罪に利雄が関与していたという事実が、既に、物語の前半に露呈されていたこと。

第2に、八坂の侵入者としての「異物性」が具有する、破壊的暴力が顕在化する予兆であったという点。

そして第3に、利雄に対する八坂の悪感情が率直に反映されていること。

特に、「何で、この生活が俺じゃなくて、お前なんだって」という、最後の八坂の言辞は看過できないものがある。

まさにれが心理的推進力と化して八坂の破壊的暴力を具現化させるのだ。

八坂と章江
自分に好意を寄せる章江を犯そうとして拒否された直後、あろうことか、八坂に馴染んでいた蛍に加えた何某かの暴力によって、少女の人生を車椅子生活の状態に強(し)いてしまった。

しかし、こシーンは映像提示されることがない。

だから、蛍に何があったかについて、観る者は想像するしかない。

脳に致命的ダメージを与える何某かの暴力が行使された可能性が高いが、或いは、蛍自身が招いた事故の可能性も否定できない。

八坂と蛍
ただ、この映像の構築性の高さを考える時、偶発的事故という選択肢は採用しにくいのだ。

因みに、この時、八坂の白いワイシャツが、その下に隠し込まれた赤のTシャツに化けているが、この辺りは、「イノセンス=非武装性の=偽善」と「DISORDER=無秩序・武装性の赤=本性」という風に、分りやすくシンボライズされていた。

いずれにしても、「視界不良の冥闇の広がり」から相対的に解放されている少女のイノセンス(この場合、「贖罪不要の〈存在性〉」)が、侵入者としての「異物」の破壊的暴力によって根柢から奪われる理不尽さは、人間存在の〈不条理〉の極みであると言う他にない。

「事件」直後の八坂と利雄
理不尽な〈状況性〉が、縮こまって呼吸を繋ぐ平凡な一家族の「視界不良の冥闇の広がり」を顕在化し、「絶対孤独」という本質的な風景をも露わにしていく。

だから、この家族に残された時間は、破壊的暴力によって根柢から奪われた娘のイノセンスと向き合い、如何にその悲哀と折り合いをつけるかという、予約された苛烈なタスク(課題)以外になくなっていくのである。

―― こんな苛烈なタスクを負った家族の時間が、8年間経過した。

一体、あのとき、蛍に何があったのか。

それを知るために、夫婦は興信所に依頼し、八坂を捜索するが、依然として八坂の行方が分らない。

8年前の蛍に対する八坂の行為の真相が知りたいと同時に、それ以上に、中年夫婦は八坂が犯したと信じる蛍への犯罪に対する復讐を果たしたいのだ。


しかし、全くコミュニケーションが取れない蛍を必死で守る章江は、犯される悪夢によって強迫観念に囚われている。

八坂に被弾したトラウマである。

八坂と身体接触をした章江の「フラッシュバルブ記憶」(強烈な感情を伴った「閃光記憶」)が皮膚感覚として生き残され、過剰なまでの潔癖症に罹患していた。

執拗に繰り返される洗浄は、「強迫性障害」の代表的な症状なのである。

そんな折、退職した工員に代わって、孝司(たかし)という礼儀正しい青年を雇うことになるが、彼こそ、未だ顔を見たことがない八坂の実子だった。

孝司
父が収監中に産まれたと言う孝司の存在は、家族の「フラッシュバルブ記憶」を掘り起こさせるには充分過ぎた。

八坂の消息を求めていた孝司が利雄の工場に勤めるに至った経緯は、音信不通の実父が利雄の工場に勤めていた事実を求職中に知ったからである。

その契機は八坂の妻、即ち、孝司の母を死ぬまで介護していた孝司自身が、八坂が母に送った最後の手紙の中に、利雄の一家と共に父が写っている写真を見たこと。

ピクニックの写真
言うまでもなく、それは、8年前の例のピクニックの写真だった。

その事実を、利雄と章江は、孝司経由で別々に知るに至る。

ピクニックの写真を利雄に見せる孝司
利雄と章江の関係の希薄さを象徴的に伝えるエピソードであるが、「父が殺人犯で、共犯者がいた」事実(注)を、母から伝え聞いていたという孝司の言葉に衝撃を受けた章江が、夫・利雄にその事実を確かめることで、一切が判然となる。

利雄は、八坂が犯した殺人事件の共犯者だった。

利雄
「蛍は俺とお前への罰だったんじゃないかって思うんだ、時々。お前、八坂とできてたろ。正直、蛍があんなになって、どこかでほっとしたんだ」

共犯者である事実を告白した利雄の、自棄的だが、本音を吐露する言辞に、章江は絶句する。

章江が憤怒を炸裂するのは、その直後だった。

繰り返し、自らの頬を打ち付けるのだ。

のカットは、八坂が犯した殺人事件の遺族(母親)が、傍聴席で自身の頬を打ち付ける行為と同質のものである。

章江もまた、遺族の行為と同様に、事件(蛍が犠牲になった重い現実)への強い責任意識を持っていたということである。

だから、自罰行為に振れたのだろう。

それでも、より悪質であると信じる利雄を、「汚らわしき何者か」と見るから、「近寄るな!」という怒号に結ばれるのだ。

「8年前、家族は一つになった」と漏らす利雄の思惑と切れ、離婚という選択肢以外にない夫婦の関係が、今や、復元不能の辺りにまで流されている。

金属加工工場で働く八坂と、経営者の利雄(右)
(この映画は、登場人物のセリフが、常に、正直で正確な情報を反映していない辺りが、まさに、人間の本質を衝いていて非常に面白い)

まもなく、興信所から、八坂と思われる人物が見つかったという連絡があった。

別人である現実を目の当たりにする3人
孝司を随行させ、家族は地方の田舎町へ向かうが、八坂と思われた人物が別人である現実を目の当たりにして、帰途につく。

絶望感に苛(さいな)まれた章江が、蛍を道連れにして、橋の上から入水自殺を図ったのは、八坂の幻覚を見た直後だった。

それを視認した利雄と孝司は、躊躇(ちゅうちょ)なく川に飛び込み、必死に助けようとする。

救助に向かう利雄と孝司
章江は利雄に、蛍は孝司に抱えられ、川の淵に運び出すが、孝司は既に息絶えていた。

ラストシーン。

妻・章江への心肺蘇生を繰り返し、水を吐き、息を吹き返した章江の蘇生が落ち着くや、迅速に、命を絶えた孝司の蘇生を試みるが、断念する利雄。

そして、何の罪もない蛍の心肺蘇生を、ずっと映し出すラストカットが、父である男が負った贖罪である行為を深々と印象付けて、作家性の強い鮮烈な映像が閉じていった。

八坂の代わりに息絶えた孝司が横たわるもう一つの構図



(注)八坂が、惚れ抜かれても入籍しなかった孝司の母に、共犯者がいた事実を話していたエピソードは、非常に興味深い。「お前もあんとき、一緒にいたとか、一度も話したことねぇよ」と利雄に言い放った八坂だが、特定他者にのみ、共犯者の存在について話していたのである。そこに、自分が貫徹した、「男らしさへの子供じみた憧れ」が延長されていたのかどうか、一切、不分明である。但し、状況次第で誰でも嘘をつくのが自明である事実を、この八坂のエピソードは物語っている。八坂=「絶対悪」という記号性とは、無縁であったことを印象づけるエピソードだった。






3 ―― 「視界不良の冥闇の広がり」と「絶対孤独」





ここから批評に入る。

贖罪意識と思われる、ラストシーンにおける利雄の行為は、「蛍があんなになって、どこかでほっとしたんだ」という言辞と矛盾するが、心理学的に言えば、こういうことだろう。

元々、自らが原因で招来した八坂の出現と、その後の破壊的暴力によって犠牲になった蛍への罪悪感を希釈するために、「蛍は俺とお前への罰だったんじゃないかって思うんだ」という言辞を放つことで、八坂と性愛関係にあったと決めつけ、その「悪徳性」を分け合う自己防衛反応だったと言える。

入水自殺を図る直前に章江が見た母と元気な娘の夢
これは、章江の自罰行為によっても検証される。

夫婦は、それぞれの微妙に隔たっているスタンスで、辛うじて、悲惨な現実への「適応」を可能にしたのである。

―― 次に、母子心中について、些か説明的で、ベタな印象を拭えない映画的メタファーの提示を考えてみる。

以下、章江に語った八坂の興味深い話。

「信仰というのは、『サル型』と『ネコ型』に分れるらしいですね。章江さんは多分、『ネコ型』ですね。子供がどうやって親に運ばれるかって話らしいですけど、サルというのは、子供が自分から親にしがみつきますよね。それに対して、ネコというのは、親が首を咥(くわ)えて運んでくれる。この親っていうのが神様らしいんですよね」

まさに、「神様」=章江は、絶対に喪ってはならない「子ネコ」=蛍を抱き締め、「親が首を咥えて運んでくれる」ように入水心中を図ったのである。


そこには、今や、家族崩壊の危機に立ち会い、離縁という意識しか拾えなかった章江が抱え込んだ、「絶対孤独」と「視界不良の冥闇の広がり」という、人間の〈存在性〉の懐深くに潜り込んでいる、くすんだ風景が露わになっていた。

孤独と心の闇。

深田晃司監督
深田晃司監督が、インタビューで繰り返し言及した概念である。

それを私は、「絶対孤独」と「視界不良の冥闇の広がり」という表現に変換して、批評に結んでいるが、母子心中のシーンこそ、この心象を強化する映像的提示だった。

ついでに、もう一つの興味深い映画的メタファーを考えてみたい。

蜘蛛の話である。

「ほら、あの蜘蛛のあれ、うじゃうじゃ群れてて、気持ちワルーってなってた。カバキコマチグモといって、赤ちゃんにお母さんが食べられてたんだって。お母さんも食べられるとき、全く抵抗しないんだって」

朝食での蛍の言葉である。

その話を、父が受け継ぐ。

「母蜘蛛を食べた子はどうなるんだろう…地獄に行くのかな」と利雄。 

これに対する蛍の反応は、「そんなことない。だって、可哀そうじゃん」というもの。

「子供が地獄に行くなら、母蜘蛛だって同じか。昔やっぱり、食ってるんだもんな、親」

これは、八坂が同居するようになった夜、利雄が団欒の場で吐露した言葉である。

カバキコマチグモ(ウィキ)
ここには、人間が人間を食(は)んで、連綿と命を繋いできたというメタファーが提示されているが、この寓話は、「親が子供の首を咥えて運んでくれる」という「ネコ」の寓話と表裏一体をなす。

「生きとし生けるもの」の母親が、自己犠牲の精神によって「神様」に昇華する。

そういう宗教的メタファーを感じ取れる寓話である。

然るに、この映画は、母親の自己犠牲の精神の枠組みをも超え、「神様」に昇華する宗教性のイメージと切れて、一方的に食い潰されていく悲哀なる犠牲者を生み出したのだ。

オルガンをサボるだけの「罪」しか犯していない少女・蛍

言うまでもなく、悲哀なる犠牲者とは、オルガンをサボるだけの「罪」しか犯していない少女・蛍以外の何者でもなかった。

悲哀なる犠牲者の極みとして、一つのエピソードがあった。

蛍に深い関心を持った孝司が、蛍をモデルにデッサンを繋いでいた時のこと。

孝司と章江
デッサンの中で、蛍に近づいた孝司が、意想外の行為に振れていく。

蛍が息をしているかどうか。

ただ、それだけの関心の範疇で、孝司はそれを確かめる行為に振れていくのだ。

当然の如く、モニターでそれを見ていた章江が激昂し、弁明する孝司を追い出したという顛末(てんまつ)だが、このシーンは、相当に残酷な描写である。

モニターに写し出された孝司の行為
悪気がなく、蛍の呼吸音を確かめようとしたに過ぎない誠実な孝司もまた、越えてはならないレッドラインに踏み込んでしまったのだ。

これは、〈生〉と〈死〉という際(きわ)に踏み込むという、あってはならないレッドラインである。

「動かない蛍」=「自己運動する生命という、絶対的機能を失った何者か」という、単純化した形貌(けいぼう)性。

これは、「動かない蛍」の「存在性」それ自身の否定である。

このシーンの映像提示の酷薄さは、映像総体の酷薄さであり、同時に、映像総体を貫流する、「絶対孤独」(「動かない蛍」という形貌性)と「視界不良の冥闇の広がり」(「強迫性障害」に罹患している章江の「閃光記憶」)というイメージのうちに収斂される〈不条理〉であると言っていい。

―― 次に、物語の中で最も重要な展開について考えたい。

「八坂はなぜ、破壊的暴力に振れたのか」という根源的な問題である。

この厄介なテーマを考える時、利雄に放たれた八坂の悪罵が想起される。

俺がクソみたいなところで、クソみたいな奴ら相手にしている間に、女つくって、セックスしてガキまで作ってよ。どうなってんだよ。俺、お前んちに居て思うんだよな。何で、この生活が俺じゃなくて、お前なんだって」

このセリフだけは、相当のリアリティがある。

「あんまり甘やかすなよ、俺を」

利雄放った一言である。

このセリフも相当のリアリティがある。


どうやら、八坂の破壊的暴力の発現の根柢には、「約束」したか否かは不分明ながら、事件の共犯者だった事実を供述しなかったにも拘らず、自分が収監されている刑務所への差し入れや、出所の迎えにも来なかったばかりか、まるで、逃げ隠れるような生活をしている利雄に対する、恨み・懲罰的感情が伏在していたと想像できる。

加えて、そんな小心な利雄が、親から継いだ工場を経営し、美人と結婚した。

そして、美人妻との間に娘を儲け、オルガンを習わせている。

殺人事件の共犯者が、「普通の生活」をしているのだ。

それは、「のものであって、お前のものではない」。

だから、お前の「もの」を奪う。


そんな懲罰的感情を抱いて、八坂が利雄の工場に出現したか否かについては断言できないが、少なくとも、「親友との再開」のために、八坂の工場訪問が具現したとは到底考えられない。

或いは、仮に利雄一家への破壊的暴力それ自身が目的でなかったとしても、懲罰的感情を抱いて訪問したモチーフを抱懐し、知人の住む山形に行くまでの3週間限定で金属加工工場に厄介になり、そこで惹起した八坂の行動が、偶発的要素が詰まった状況下で身体化されたであろうことは否定できない。

「白」から「赤」への変換という八坂の行動変容は、あまりに説明的で分りやすく、些か漫画的だが、章江に対するレイプ未遂事件を起点に発動する破壊的暴力は、偶発的要素の中で、赤」が欺瞞的な「疑似平和家族」である「白」を甚振(いたぶ)り、屠(ほふ)っていくという構造性を成す。

八坂と蛍
しかし、そこで屠られたスケープゴートが、欺瞞的な「疑似平和家族」を根柢から支えていた蛍であった事実こそが、この映像の最も酷薄な風景を開示すると言っていい。

それは、蛍への破壊が「疑似平和家族」の根本的な破壊に直結するからだ。

理不尽ながら、「贖罪不要の〈存在性〉」という少女のイノセンスへの破壊なしに、自分を裏切った利雄の抹殺よりも、その利雄が仮構した「疑似平和家族」の中でぬくもっている、一切の欺瞞性を剥(は)ぎ取れなかったということか。

そういう風に考えるのも、有りだろう。





4  「疑似平和家族」の風景が変容していく





八坂の破壊的暴力の対象となった「疑似平和家族」の風景は、文字通り、晴天の印象を与えない。

風雨でもない。

どちらかと言うと、曇天か、良くても薄曇りというイメージに近い。


団欒(だんらん)のイメージが弱いからである。

その象徴は、両親を相手に、蛍によって開かれた蜘蛛の寓話の会話の際、利雄と章江が別々に反応(章江は無関心)するシーンのうちに提示されていた。

大体、この夫婦には、日常会話が削り取られているのだ。

務の仕事を手伝う章江と、金属加工の仕事に従事する利雄との会話も、映画は拾い上げなかった。

「事件」以降、映画が拾い上げたのは、八坂を無断で住み込ませた時に、利雄に章江が怒りを炸裂させたシーンのみ。

その章江は、敬語を話す八坂の温厚な態度に惹きつけられた挙句、彼の告白で完全に魅了される。

プロテスタントの章江はポジティブな性格で、且つ開放的だから、礼儀正しい八坂の外見上の態度を、丸ごと吸収する包容力があった。

その意味で、八坂は夫・利雄のぶっきらぼうな振る舞いと対蹠的(たいしょてき)だった。

夫婦の価値観・性格の違いは明らかである。

―― ここで、「家族」について言及したい。

思うに、現代家族とは、「パンと心の共同体」であると私は考える。

現代家族のイメージ(映画「ぼくたちの家族」より)
それ故、家族成員にとって、「家族」を実感的に感じるものは、家族間の情緒的交叉の内に形成される見えない親和力の継続的な確認であり、そこで手に入れる安寧の感情と言ったものだろう。

そこで、安寧に達する家族成員のそれぞれの自我こそが、まさに、それが解き放たれた実感となって、家庭という空間に、しばしば、過剰なまでに身を預けるのである。

解放された自我は、そこで裸形の自我を曝(さら)け出す。

外部環境で溜め込んだ、膨大なストレスを存分に吐き出すのである。

言うまでもなく、そこには暗黙のタブーやルールがあるが、ルールをほんの少し突き抜けても、それを修復するだけの情緒的復元力が、いつでも、そこに担保されているのである。

映画「ぼくたちの家族」より
このような「ミニ共同体」に、人が大きく振れていくのは、人間が本来的に「絶対孤独」の状態にあり、それを埋める必要があるからである。

この辺りについて、前述したように、私は深田晃司監督と同様の人間観を持っている。

「絶対孤独」の状態にある人間が、その状態に耐えられない社会的動物であるが故に、私たちは多くの「疑似共同体」を作らざるを得ないのである。

物理的共存をしないが、身近に住んで助け合う家族・「インビジブル・ファミリー」などは、その典型であると言える。

しかし、近代以前の普通の家族的共同体の結合力の中枢には、「情緒」よりも「パン」の方に、より比重が置かれていたと考えられる。

だから、人々は我慢した。

戦前の日本の家族(イメージ画像)
家族が餓死せずに生きてい くこと ―― それこそが、一般大衆家族の最大の課題であった。

乳児を除く家族の全てが、パンの確保のためにギリギリまで身体を動かし、心を削っていた。

そんな時代があったのだ。  

従って、そんな時代では、何よりも「パン」の確保が優先順位の筆頭にあり、「心」の紐帯の結合力は、それを強力に補完するものとして存在価値を持っていたのである。  

然るに、現代家族の多くは今、「パンの共同体」という役割が絶対的な価値を持たなくなっている。

その結果、「年金分割制度」(離婚した場合に、婚姻期間中の厚生年金を分割する)によって熟年離婚が増加した。

「パン」の保証を得て、「話もしたくない」配偶者との物理的共存の意味を失ったからである。

年金分割制度
「パン」の問題を解決すれば、あとは、「情緒」の問題に限定されてしまうのである。

情緒的復元力が脆弱ならば、もう、物理的共存の価値を拾い上げることが困難になってしまうのだ。

閑話休題。

この問題意識をもって、映画に戻る。

―― 映画の夫婦が関係濃度を劣化させていても、情緒的復元力が脆弱な「家族」の機能をぎりぎりに繋いでいたのは、一人娘の蛍の存在だった

蛍の存在が、今にも壊れそうな「家族」を支え切っていたのだ。


あろうことか、その蛍が決定的に被弾した。

蛍は「非在」(死)ではないが、脳科学的には「非在」に近い存在と化す。

そうなれば、情緒的復元力が脆弱な夫婦の関係濃度の劣化が顕在化する。

だから、離婚の問題が出てくる。

「パン」の保証を得ていたなら、情緒的復元力の強度が一切を決定するのである。

物語の流れを偏見なく俯瞰すれば、この夫婦の離婚は不可避になるだろう。

ところが、ラストシーンにおいて、小心で、「逃げるが勝ち」の〈生〉を引っ張ってきた利雄が、映像で見せたことがない行動を取った。


入水した河に躊躇なく飛び込み、担(かつ)ぎ上げた妻の章江を、必死に救済したのである。

そして、最後は蛍の救済に走っていく。

このラストシーンを観る限り、夫婦の離婚が反故(ほご)になる可能性を持つとも思われる。

結局、「絶対孤独」の状態にあっても、人間は社会的動物であるが故に、その状態に耐えられないのだ。

それが、人間の弱さであると言える。

しかし、それ以上に、身近な集団内で利他的行動を示す人間の強さの証明でもある。

章江と蛍は、どうしても救済しなければならない。

「家族」を再構築する。

この強い愛着心が、利雄の利他的行動の根柢に張り付いていたのだろうか。

少なくとも、利雄の自我は、「絶対孤独」に居直るような、ペシミズムやニヒリズムとも無縁であったということである。

ラストの絵は、「疑似平和家族」の風景が変容していく契機であるかのようだった。


また、物語の中で、孤独感を最も印象付ける存在は、殺人犯を父に持ち、若くして母を介護しつつ、最期を看取ったであろう誠実な若者・孝司である。

既に、この時点で天涯孤独となり、明日の「パン」を求めて職探しをする孝司の心の奥に、このような青年期を余儀なくされたペシミズムが濃厚に漂っている。

だから、八坂の復讐を赤裸々に語る章江に対して、父の代わりに自分の命を投げ出そうという、驚くべき表現に結ばれた。

本音だろう。

孝司と利雄
誠実な性格とは裏腹に、自分が負っている理不尽な重石の不快感は、彼の自我をどこかで食い潰しているようだった。

一方、孝司の父・八坂の存在は、期間限定なら、どのような環境にも適応できる能力を具備しているので、常に「定着」よりも、「移動」に振れていく浮遊感が漂う。

この浮遊感の本体はニヒリズムである。

ニヒリズムを漂動(ひょうどう)させている男が、映像総体を支配し切っているのだ。

物語を支配する男の異様な浮遊感が、登場人物たちの人生の、時々刻々と動く非日常の時間に決定的な影響を与え、それが「視界不良の冥闇の広がり」と化していた。

姿を消した男の残像が、映像の其処彼処(そこかしこ)にべったりと張り付いているのだ。


(2017年11月)