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2024年5月8日水曜日

波紋('23)   狂わなければ〈生〉を繋げない女の突破力  荻上直子

 





圧巻の筒井真理子。

 

現時点での最高到達点ではないか。


そう思わせる完璧な表現力だった。

 

 

1  「あなたがしたこと、なかったことにはならないから。癌だからって何だって」

 

 

 

須藤依子(以下、依子・よりこ)が目を覚ますと、目の前に夫・修(おさむ)の足の裏があった。

 

二人はダブルベッドで互い違いに寝ている。 


須藤家のリビングでは、福島第一原発事故による放射能汚染のニュースが流れていた。

 

依子はソファに寝転んでスマホを見ながらSNSの情報を読み上げる息子の拓哉(たくや)に、「水道水は絶対に飲まないでよ」と言いながら、義父の食べるお粥(かゆ)を水道水で作り、介助する。 

依子


会社から帰って来た修は、原発事故のニュースをぼんやりと聞いた後、趣味のガーデニングで奇麗に植えられた庭に出て、降り出した雨の中でホースの水を出し、浮草の間をメダカが泳ぐ水鉢を見て立ち竦む。 


夕飯の支度が出来て、拓哉に修を呼びに行かせるが応答がない。

 

降りしきる雨の中、依子が庭に出ると修の姿はなく、水を出したままのホースを拾うのだ。 


夫は失踪したのである。

 

11年後。

 

依子は新興宗教・緑命会(りょくめいかい)の勉強会に参加して、波紋を映す動画の前でリーダーの橋本昌子(以下、昌子)の訓話を聞く。

 

「私たち一人ひとりは、この小さなひと滴(しずく)のようなものです。でも、このひと滴がなければ、波は決して起こりません。生きていれば辛いことも、苦しいことも沢山ありますが、憎しみや恨みなど、濁った魂はそこに停滞し、浄化されることはないのです。緑命水の尊い一滴は、私たちのよどんだ心を、きれいに洗い流してくれる作用があります。私たち一人ひとりの善い行いは、波紋のごとく確実に、広く世界に伝わっていきます。皆さん、切磋琢磨いたしましょう」 

昌子


全員で祈りを唱えた後、「♪信仰あらば、恐れなし♪」などと歌いながら、満面の笑みで真剣に踊る信者たち。 


穏やかな表情の依子は、家でも緑命会の祭壇を作り、信仰の文言(もんごん)を唱え、緑命水を飲む。 



スーパーで働く依子が家に戻ると、突然、戻って来た労務者姿の修を冷たく見据える。 


「親父に線香あげたいんだけど」


「半年も前だけど」

 

修が育てていた花壇は、枯山水様式の庭に代わっていた。 


【枯山水(かれさんすい)とは、水を象徴した白砂(はくさ)を庭に敷き詰め、その白砂の上に景石(けいせき)を置き、白砂に波紋を描いたりして、自然を表現する日本庭園のこと。砂紋(さもん)を描いた庭を守るために「飛び石」を置く。京都の「龍安寺」(りょうあんじ)や「大仙院」(だいせんいん)などの庭が知られている】 

龍安寺庭園“石庭”



依子が引き出しから出した手を合わせた修が振り返り、依子に頭を下げた。 

依子に案内され遺影に向かう修は見慣れない仏壇を見て驚く


「親父のこと、すまなかった」

「もう、いいでしょ」

 

立ったまま腕組みをしていた依子は、義父の遺影を修に押し付け、帰そうとする。

 

拓哉が九州で就職したと聞かされた修は、「実は、癌なんだよ」とポツリの一言。 


キッチンで背を向けていた依子は、「え?ご飯食べるの?」と振り返る。

 

依子が作ったご飯を美味しそうに食べる修が、酒がないかと聞くと、水しかないと答える依子は、緑命水ではなく水道水を差し出した。 


「最期は君の所でって思って」

 

依子の箸の手が止まり、修を一瞥するが、何も答えない。 


最初から虚言だと分かる修を、その日、義父の介護ベッドを用意して修を泊める依子。

 

二人の会話は拾えない。

 

翌朝、起床した修の視界に飛び込んできたのは、枯山水の庭で白砂利(しろじゃり)の上にレーキ(砂かき棒)を使って砂紋を描いている依子の真剣な表情。 



「大自然のお恵みを。森と水の精霊が、清らかなる我らの心に宿りたまえ」 


その依子は、いつものように祭壇で唱えた後、パートの仕事に出て行った。

 

一人になった修は、次々に引き出しを開け、金目のものを探し回る。 


目当てのものが見つからず、祭壇の大きな水晶玉を持ち上げ、光に翳(かざ)す。

 

帰って来た依子が祭壇で祈りを始めると、水晶玉に修の指紋がベタベタとついているのを気づいて呼吸が荒くなった。 


依子はその水晶玉を持ち上げ、緑命水を飲んでいる修の頭を打ち付けんと想像するが、その感情を必死に抑えて、祈りを続けていくのみ。 



依子は昌子に相談するが、「あなた今、試されているんじゃないかしら」と夫を許すことをアドバイスされる。 



修は相変わらず家の中を物色し続け、大量の緑命水が置かれた部屋を見つけ、帰って来た依子に、「一体、何を信じているのか。何百万も金を騙されているんじゃないか」と訊ねるが、返事はない。 

緑命水のスプレーをかけて心を鎮める


自己犠牲を自らに強いる依子は、夫が探し出した酒を飲むことや、一緒に病院で説明を聞くことも受け入れるのだ。

 

そこで担当医から、保険適用外の治療で一回150万を3回で1クールと高額なので、奥様と相談するようにと言われる。 


帰路、歩きながら、修は父親の遺産について訊ねてきた。

 

「フッ…そういうことだったの。いや、そんなことでもなければ、帰って来るはずないか」


「頼む」

「考えさせて下さい」

「こっちはもう、ライフラインそれしか残されてないんだぞ!家は俺も名義だからな。いざとなったら…」

 

本音を吐いた男と、それを淡々と聞き流す女の構図に掬い取れる情感が希薄だった。

 

更年期の症状に悩まされる依子を案じて、市民プールを勧めていたスーパーの清掃員・水木(みずき)と、思い切って行ってみたプールでばったりと会い、突然、帰って来た夫の話をする。

 

夫を受け入れられないと依子が吐露すると、水木はさっさと追い出してしまうようにアドバイスし、癌だと聞かされると、「あとで後悔したくなかったら、死なれる前にしっかり仕返ししとかないと」と言い放つのだ。

 

「仕返し?そんなことしたら魂の次元が…人を呪うと、やがて結局、自分の所へ返ってくるって」

「“肉を切らせて骨を断つ”って諺(ことわざ)もあるよ。捨て身で敵に勝てってこと。自分も傷つく覚悟で、相手に大打撃を与えてやるのよ…昔の女じゃないんだからさ。そんな風に自分の感情を抑えつけることないんだよ」 

水木


この水木の言葉が、依子の澱んだ心を浄化していく。

 

未承認薬の件を催促してきた修に対して、依子は義父の相続を自分に遺すという遺言を書いてもらっていたことを話す。

 

「あなたが捨てたお義父さん、私が看取ったんだから」

 

机を叩いて立ち上がり、興奮する修。

 

「死ねって言うのか!」

 

それぞれの足元の波紋の上に立って、向き合う二人。

 

「あなたがしたこと、なかったことにはならないから。癌だからって何だって」


「時間がないんだよ。時間がないんだよ!あんな水に大金使い込みやがって。騙されてるんだよ。インチキなんだよ!目を覚ませ!」

「何言ってるの?全宇宙生命体の魂を浄化できるのは緑命水だけなのよ」

 

ぶつかり合う二人の波紋の描写が、VFX(視覚効果を付与する技術)によって表現されていた。

 

「許さなくていい。許してくれなくていいから、助けて下さい」 


深く頭を下げる修に対して、満面の笑みで答える依子。

 

「あなたも、緑命水のパワーを信じましょうよ」

「信じたら、金出してくれるの?」

「さあ、どうかしら」

 

それだけだった。

 

ひとみ、節子ら緑命会のメンバーらが、公園でホームレスに炊き出しで食事と緑命水を配っている。 

ひとみ(左)と節子(右)


ひとみから「見習わらくちゃ」と言われる依子



長蛇の列に修も並び、黙って食事を受け取っていた。

 

ベンチに座って依子が休んでいると、修が隣のベンチに来て座る。

 

「俺のことは助けてくれないのに、ホームレスの人たちのことは、随分熱心に手助けするんだね…この水、消費期限が一年前だった」


「貧しい人たちは、癌になっても黙って死を待つだけね。じたばたする余裕もない…薬のお金は出します。でも、ちょっと付き合ってもらうから」
 


付き合わされたのは緑命会の勉強会


勉強会での昌子の言葉。

 

「残念ながら、私たちは誰も死から逃れることはできません。でも、魂の純真を保っていれば、死という運命にさえも対抗できる」

 

挨拶を求められた修は、口籠りながら、ここだけは場の空気を読んだ出任せ言辞に結んでいく。

 

「これから先、もうそんなに長くないかも知れません。そんな私が、家族のために、最後に何ができるんだろうか…考えたんです。でも、考えても考えても、何もないんです。情けないことに、何も…」 


そこで修は閃(ひらめ)いたように、手を祭壇に合わせる。

 

「祈ること以外には…妻が日々熱心に祈ってる姿を見て、正直、最初はバカにしてました。でも人間は結局、最後は祈ることしか残されていないんですね。そのことを、妻の祈りの姿から教わりました…祈ることで心を鎮め、謙虚につつましく、穏やかに余生を過ごしたい。妻には感謝の気持ちでいっぱいです」

 

「感動しました」と言って涙ぐんで拍手する信者たち。

 

リーダーが修のために祈ろうと呼びかけ、全員で唱和しながら祈りを捧げるのだ。 


呆れた顔で信者たちを見回し、一緒に合掌し、その後、輪になって踊りが始まり、修も適当に合わせていく。

 

ともあれ、自らのステータスを上げるために修を同行させ、信者を増やすという依子の目論見(もくろみ)が奏功したというエピソードだった。

 

まもなく、修が入院して点滴治療を受け、傍らに座る依子は、一滴ごとに「はい15万…はい20万」とカウントしていく。 



一転し、ストレス解消の有効な手立てであるプールで泳ぎ終わった依子は、水木から「いっそ、やっちまったら」と声を掛けられる。

 

「ウソよ。ハハハ。どうせ癌なんでしょ。ほっといたって、先にくたばってくれるんだから。でも、念じるだけなら罪にはならないよ」 


目を輝かせた依子は、早速、自宅の祭壇前で手を合わせるのである。 


彼女の変容の初発点になっていくのだ。

 

 

 

2   「原発事故の時に放射能が怖くって、家族捨てて自分だけ逃げたの。だのに、癌になって帰って来て、バカでしょう?」 

 

 

 

拓哉が九州から戻るとの連絡を受け、笑顔で帰宅する依子。

 

ギョーザを大量に作っていると、拓哉が難聴者の珠美(たまみ)を一緒に連れて帰って来た。 

拓哉と珠美


戸惑う依子だったが、拓哉の方でもリビングで座る修を見て驚き、不快感を露わに顔を背けるのだった。

 

4人は食事を始め、修がビールを拓哉に注ごうとすると、自分で手酌をして拒絶する。 


聴覚性構音障害で発音に難がある珠美が、明るく話しかけてくると作り笑いをして応える依子。

 

拓哉と手話で話した後、拓哉がいない間、珠美の東京案内を頼まれた依子は困惑してしまう。 

拓哉は手話で母の話を珠美に伝える


依子は珠美に年を聞くと、32歳と答え、拓哉よりも6つも上であることに驚く。

 

拓哉と二人で洗い物をしながら、依子は二人がもう同棲していると知らされ、「聞いていない」と言うや、ここでも荒い息となって、リビングの祭壇前に座り、特別な緑命水のスプレーを頭にかけるのだ。

 

【聴覚性構音障害は難聴によって正しく発音することを学習できない状態のこと】 

聴覚性構音障害



翌日、スカイツリーへ珠美と行った依子は、展望台ではしゃぐ珠美と距離を置いて歩き、昨夜の珠美の言葉を頭に巡らせながら、フラストレーションを募らせるばかりだった。 

「わたち、拓ちゃんと一緒に暮らしてます」と言われ、顔をしかめる



一方、拓哉が会社から早めに自宅に戻ると、修は癌を告げ、自分の失踪を詫びた。

 

「今さら」

「お母さん、いつから始めたの?」

「父さんが出て行って、じいちゃんを施設に入れた後、すぐ」

「じゃあ、拓哉は、お母さんがこれにハマっていくところ、傍で見てたんだ」

「何?俺のせいだって言いたいの?」


「まさか。そんなお母さんを傍で見ているのは、きっと辛かっただろうなと思って」

「…だから、九州の大学受けた」

 

その頃、依子は珠美を湯島天神に案内した後、唐突に珠美に話しかける。

 

「拓哉と別れてくれる?お願いします」 


珠美は口を押えて笑い出す。

 

「拓ちゃんから言われていました。もしお母さんに別れろと言われたら、必ず知らせてくれって。そんなことを私に言うような母親とは縁を切って、もう二度と実家には帰らないって。それから、あの人、頭おかしいから、何を言われても気にするなって」 


目を見張り、顔を背ける依子に近づき、顔を覗き込む珠美。

 

「どうします?お母さん。今のお話、拓ちゃんにしちゃってもいいですか?」 


依子は気持ちを切り替え、ちょっと付き合って欲しいところがあると言って珠美を誘う。

 

帰って来た珠美の様子がおかしいと気づいた拓哉が、手話で話すと、珠美は勉強会へ行ったと答えた。

 

顔色を変える拓哉と修を尻目に、珠美を連れて行って自分まで褒められたと得意げに話す依子に、修の怒りが炸裂した。

 

「いい加減にしろよ!」

 

それに対して、依子は「この人ね…原発事故の時に放射能が怖くって、家族捨てて自分だけ逃げたの。だのに、癌になって帰って来て、バカでしょう?」と言い放つ。 


「うるさい!俺のことはともかく、珠美さんまで利用して!」

 

依子の波紋に抗して、修の波紋が押し寄せていく。

 

「俺、珠美と結婚するから」 


今度は、拓哉の波紋が後ろから依子を打つ。

 

首を横に振り続ける依子。

 

「ダメよ。それは許しません」 


依子の足元から、幾つもの波紋が広がる。

 

「父さんは放射能からじゃなくて、母さんから逃げたんだよ!」 


拓哉の波紋が、依子と修の足元まで広がっていく。

 

「わたち…妊娠してます」 


珠美の波紋が大きく広がり、決定打になった。 



スーパーの控室。

 

「なんか…遺伝するみたいなんですよね…したたかで。騙されているんですよ。うちの息子。五体満足に産んであげたのに、なんでわざわざ、よりによってあんな…」

「ハハハハハ!ストレートに差別すんのね、あんた…普段、そうじゃないつもりでいてもさ、どっかで、ね…みんな、ね?…みんな、どっかで誰か見て、自分より下とか、自分より上とか思ってるとこあるよね」 


そんな水木がプールで倒れてしまった。 

倒れている水木を見て驚く依子



水木が入院している病院に、依子が見舞いに行く。

 

飼っている亀が心配な水木に、預かってあげると申し出た依子は、鍵を受け取り水木の家に向かった。 


古い団地の部屋を開けると、そこは悪臭が漂うゴミ屋敷と化していた。 


奥の部屋の仏壇には、幼い男の子の遺影が飾ってあり、先日、「ちっとも息子が帰って来ない」と話していた水木の言葉を思い出し、その意味を悟った依子は、さめざめと嗚咽する。 


依子は預かった二匹の亀を、庭で微笑ましく眺めている。

 

再び、水木をお見舞いに訪ねた依子に、気まずそうに水木は話し出す。

 

「…あの大きな地震の日、仕事終わって家に帰ったら…色んなものがそこら中に落ちててね。それ見たら、ぷっつり、片付けられなくなっちゃって。みんな、もうなかったことみたいに暮らしてるけど、あたし、あの日からずっと埋もれたまんま。亀は万年って言うでしょ。いざとなったら、あたしは野たれ死にすりゃいいけど、あの子たちがどうなっちゃうのかと思うと、そればっかり気になって」 


依子は亀をしばらく預かると水木を安心させ、更に、家の片づけの手伝いを申し出た。

 

早速、水木の家を奇麗に片付け、仏壇に花を備える。 

奇麗に片付けた部屋の隅に男児の遺影がある


帰路、晴れやかな表情で自転車を漕ぐ依子。 



仕事から帰ると、修が倒れており、動転する依子は、傍らには水が出しっぱなしのホースを手にし、乱れた砂紋の上に立ち尽くす。 



勉強会で元気のない依子の様子を見て、昌子に呼ばれ、癌にも効くという特別な緑命水を勧められる依子は涙を堪える。 



修は介護ベッドに横たわり、拓哉が古いアルバムの若かりし日の両親を見て微笑む。

 

「父さんが出て行ったあと、母さん、雨の中、突然庭に出て、花壇の花を端から一本一本すごい勢いで抜いていったんだ。それがさ、あの人、雨に濡れながら笑ってたんだよね。マジで怖かった」


「俺…さっさと死ぬわ」
 



そう言い残した修は逝去し、棺が枯山水の庭の飛び石を通って運び出される。

 

葬儀屋が砂に足を滑らせ、棺が横倒しとなり、修の遺体の手が出てしまった。 


それを見て、大声を立てて笑う依子に驚き、凝視する拓哉。 


今や、修の骨壺を置く台には緑命会の祭壇はない。 


大雨の中、赤い傘を差した喪服姿の依子が拓哉を送り出す。

 

拓哉が振り返り、またフラメンコをやってみればと勧める。 


乱れたままの砂紋で立ち尽くしていた依子は傘を置き、濡れたまま、砂紋の上を信仰の歌を口ずさみながら踏み歩き、砂利を何度も蹴り上げたかと思えば、突然、フラメンコの踊りを始めた。 


フラメンコの曲が流れ、依子は喪服のまま、情熱的な踊りを続けていく。 


砂紋はすっかり消え去り、依子は尚も踊り続け、玄関を出て、道路で最後の型を決めるのだ。

 

「オーレイ!」 



 

 

3  狂わなければ〈生〉を繋げない女の突破力

 

 

 

物語を時系列ごとにフォローしていく。

 

義父の介護をする専業主婦の依子の前から、夫の修が突然、失踪した。

 

この痛手は尋常ではない。

 

自分の父の介護を押しつけた状態での失踪だから赦しようもない。 


この時の母・依子の振る舞いを、当時、高校生だった拓哉が回想する。

 

「母さん、雨の中、突然庭に出て、花壇の花を端から一本一本すごい勢いで抜いていったんだ」 


修の趣味の破壊から開かれた依子の行為が、修の痕跡の消却だったことが分かる。

 

興味深いのは母の突発的行為には余談があったこと。

 

その時、依子は怒り叫ぶことを捨て、雨に濡れながら笑い飛ばしたのだ。

 

拓哉に恐怖心を抱かせるほどの、この哄笑(こうしょう)が内包する依子の思いは何なのか。

 

「放射能を怖れ、全てを捨てていったバカな男」

 

そう思ったのではないか。

 

原発事故を報じる新聞を読み続けた後、雨中でホースを手に持ち、花壇とメダカが泳ぐ水鉢を見入る修を、家の中から凝視する依子。 


このシーンが依子の「放射能説」を決定づけたのだろう。

 

だから、義父の介護を押し付けて自分だけは危機回避の逃避行に振れる身勝手な夫に、怒りを超えて笑殺する。

 

その度量の小ささに呆れ果てたのではないか。

 

思えば、笑殺するほどに、この夫婦関係は冷え切っていたということ。

 

これは、ダブルベッドに互い違いに寝て、依子の頭の位置に修の足があるというトップシーンの構図に凝縮されていた。 


ここで、修の失踪の原因を整理してみる。

 

「放射能が怖くって、家族捨てて自分だけ逃げたの」

 

依子は、こう決めつけたが、拓哉は「母さんから逃げたんだよ!」と言い放つ。 


前者は、指摘された修が「放射能説」を否定しなかったことで了解可能。

 

後者は、大学受験を九州に決めた拓哉自身の投影であるが、的を射ないとは言えない。

 

いずれにしても、コミュニケーションを失った中年夫婦の「ミッドライフ・クライシス」(中年クライシス・中年危機)を想起させるに十分過ぎると言っていい。

 

自己の存在意義を失なって心理的な混乱を生むアイデンティティ・クライシスの〈現在性〉。

 

夫の失踪によって極まった「ミッドライフ・クライシス」を埋めるには、最も可視的で安寧が得られるヘビーな何かが必要だった。

 

依子の自我が求めるナラティブが必要だったのである。

 

取り敢えず、依子の胸に手を伸ばすような義父を施設に入れてパートの仕事に就く。 

スーパーで働き出した依子は、「傷ついているから半額にしろ」と言う常連客の老人の対応に腐心する


在宅介護を延長させる道理など更々ないのだ。

 

修が遺棄した義父との縁が切れた依子が踏み入れていった世界は、水を御神体(ごしんたい/神霊の宿るもの)とする「緑命会」という名の新興宗教。 


これが、依子が求めるナラティブのサイズに丁度いい頃合いで釣り合っていた。

 

そこに行けば一人暮らしの孤独を癒され、不必要な波紋が払拭されるのだ。

 

精神の安定化装置。

 

これが宗教の本質である。

 

信仰・実践・組織という宗教の三要素が溶融し、人と人が穏やかにリンクしていく。

 

エンパワーメントを存分に被浴して、依子の中枢が解放されていくのだ。

 

本作の特徴は新興宗教=「集金目当ての如何わしい偽善組織」という範疇で一括(ひとくく)りにしていないこと。

 

「真剣に世の中の役に立とうという人たちを見てきたので、新興宗教だからといっておかしな集団という紋切り型で描くことはしなかった」       

 

荻上直子監督のインタビューでの言葉である。 

荻上直子監督



【生命活動の根幹を成す水のイメージが本篇を貫流している。緑命水・枯山水・プール・メダカが泳ぐ水鉢・そしてスカイブルーの空から降りしきる雨の構図(このシュールは圧巻)に象徴される波紋の連鎖が、難聴の女優が演じた珠美を含めた家族4人の応酬によってピークに達し、VFXの表現を駆使して、独特の映像構成を構築していた】 



空想の翼が広がる宇宙で呼吸を繋いでいた依子の前に修が出現し、厚顔無恥な要求をしてきたから厄介だった。

 

払拭してきた波紋が広がってしまうのである。

 

保険適用外の癌治療を受けること。

 

波紋の広がりを防ぐために、得手勝手(えてかって)な修の要望を受け入れていく。

 

顔も見たくない男に対する依子の辛抱が、教団のリーダー・昌子のアドバイスを得て一時(いっとき)収めたものの、どうしても残されてしまう恨み節。

 

「自分の感情を抑えつけることないんだよ」 


プールで近しき関係になっていたスーパーの清掃員・水木の毅然とした物言いは、昌子の教えと矛盾するが、昌子の洗脳力を遥かに超える活力を内包していた。


 

忍耐にも限界があるのだ。

 

依子との言い争いのストレスを抱える修によって庭の砂紋を踏み荒らされた仕返しで、洗面所で夫の歯ブラシを排水溝の淵を磨いた後、排水溝の中に突っ込みゴミを付着させていく。

 

その歯ブラシで歯を磨く修を見てほくそ笑む依子。 


ブラックな内的世界が暴れ出していた。

 

「ほっといたって、先にくたばってくれるんだから。でも、念じるだけなら罪にはならないよ」 


水木のこの本音の一撃は、人生経験を積んできた者の強さによって支えられていると信じられたから誰も敵(かな)わない。

 

自宅の祭壇前で、手を合わせて本気で念じる依子のダークな風景が可視化されていくのである。 


胸襟(きょうきん)を開いて語り合う者の強さが、そこにあった。

 

鈍感な修が、拓哉から失踪直後の依子の行為を知らされて、「俺…さっさと死ぬわ」と吐露し、その怖さを感じ取っていくほどの依子の狂気。 

「俺…さっさと死ぬわ」



狂わなければ〈生〉を繋げない依子の突破力が、この辺りから本領を発揮していくのだ。

 

だからと言って、短兵急(たんぺいきゅう)には進捗(しんちょく)しない。

 

まず、依子の保守性が試練を受ける。

 

「拓哉と別れてくれる?お願いします」 


拓哉と同棲中の珠美に対する差別言辞が、突として跳び出した。

 

「どうします?お母さん。今のお話、拓ちゃんにしちゃってもいいですか?」 


相手の方が一枚も二枚も上手だった。

 

自己主張する障害者の強さが際立っているのだ。 

別れてくれと言われて、口を押えて笑い出す珠美


それは、一方的に「弱者」とラベリングされる欺瞞を打ち破る強さである、

 

その珠美を勉強会へ連れて行ったことで、拓哉と激突することになり波紋を広げるが、それでもめげない依子の保守性の濃度の高さ。

 

行動の加工は最低限の道理を弁(わきま)えていれば何とかなるが、染みついた観念を変えるのは容易ではない。

 

斯(か)くして、妊娠という決定打を喰らった依子の攻勢が萎(しぼ)んでしまった。 

「わたち…妊娠してます」



依子の保守性が砕けていくイメージは想定し辛いが、水木の裸形の〈生〉の相貌を視認した依子が大きく変容していく。

 

悪臭が漂うゴミ屋敷と化した水木の部屋の隅に飾ってある男児の遺影。 


「肉を切らせて骨を断つ」と言い放たねばならない何かが、水木の内面に巣食っていたのだ。

 

水木の人生行路に詰まっている辛い記憶の束に思いを馳せ、嗚咽が込み上げてしまう依子。

 

その水木が最も大切にしている二匹の亀がいた。

 

ヨシオとピーちゃんである。 


ヨシオが水木の部屋に飾られた遺影の男児であることは想像に難くない。

 

ピーちゃんが水木の遺児に与えたかったであろう新妻のイメージを彷彿させる。

 

この二匹の亀だけが水木の生きる縁(よすが)となっていた。

 

だから、二匹の亀の話をすることで、ゴミ屋敷と思しき団地の自室に行って預かってもらうことを頼んだのだ。

 

正確を期して言えば、自分からは言い出していない。 


依子の善意を信じたのである。

 

恥を忍んで吐露するほど、二人の関係は密になっていたのである。

 

ここで、昌子から特別な緑命水を勧められたシーンを想起する。 


映像は映し出さなかったが、依子が断ったことは明らかである。

 

大体、修の癌が治癒する余地がないことは自明。

 

依子は早く逝ってもらいたいとさえ念じているのだ。

 

そんな依子を支えているのは水木のみ。

 

その水木に依子は緑命会のことを話していない。

 

話したら、「そんな如何わしいとこ、さっさと止めちゃいなさいよ」と言われるのがオチだろう。

 

緑命水のスプレーを頭にかけても事態は全く好転していない。

 

水木と緑命会の存在価値は、反比例の関係になっていたのである。

 

身近なところにこそ、親愛なる友がいる。

 

そういうメッセージだった。

 

緑命会との縁が切れた依子は、水木のように孤独に耐え切って生きる強さを手に入れていく。 


観念的には、そういうことだろう。

 

これがラストシーンの炸裂に繋がっていく。

 

ここから何かが始まり、何かが終わる。

 

終わって失ったあと拓かれていく〈私の生〉。

 

これが喪服姿でフラメンコを踊る依子の〈現在性〉のうちに脈打っていた。

 

ついでに書いておくと、フラメンコに向かわせるトリガー(きっかけ)にもなっていた依子の哄笑の含意は、「死に切れない貴方は最後まで無様(ぶざま)だったわね」というブラック風味の味付けだろうか。

 

【余稿】

 

「セルロイドの天井」という言葉がある。

 

女性監督・女優の活躍を阻む目に見えない障壁のことで、米国の映画界で使用されている。 

「なぜわたしの報酬は男性共演者よりも少ないのか?」/画像はジェニファー・ローレンス



政治フィールドにおける「ガラスの天井」の映画版である。

 

映画界の男女格差は日本でも同じだから、閉経、更年期障害を内包する中年女性の「ミッドライフ・クライシス」(中年危機)を本格的なテーマとして描かれた映画は、ついぞ見かけない。 

ミッドライフ・クライシス


ミッドライフ・クライシス/イメージ



如何せん、世界経済フォーラム(WEF)が公表したジェンダー・ギャップ指数2023によると、日本の男女格差は146ヶ国中125位という数字。 

ジェンダー・ギャップ指数2023



これは女性の「政治参画」と「経済参画」の低さに特徴づけられるが、映画界でも同じ。

 

そんな渦中で放たれた荻上直子監督の「波紋」。

 

中年女性の「ミッドライフ・クライシス」をブラックユーモア全開で描き切って爽快だった。

 

BGMは、物語が最後に収束されるフラメンコ用カスタネットとギターのみ。

 

しかもオリジナルシナリオ。

 

「日本は特に女性の若さと美しさばかりがもてはやされて、キャリアは二の次。私の時代なんて家庭と仕事を両立させるという選択肢がなかった。専業主婦になるか独身のキャリアウーマンになるか。で、専業主婦として、子どもを産んで育てて、家庭を支えた先がこの映画の依子みたいな話だったら、もう救われないよね」

 

これは、ヒロイン依子へのインフルエンサーとなる水木を演じた木野花の言葉。 

右から木野花、筒井真理子、キムラ緑子、荻上直子監督


「波紋」は、狂わなければ〈生〉を繋げない中年女性の悲喜交々(こもごも)の日々を、絶妙に切り取った秀作だった。

 

(2024年5月)