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2016年3月15日火曜日

私の、息子(‘13)    カリン・ピーター・ネッツァー

〈状況〉を開き、その〈状況〉の中枢点に自己投入する「胎児」の「恐怖突入」の物語>



1  階級的特権が優位に、且つ効果的に機能し、温存されている社会の中枢で起こった交通事故



凄い映画を観た。

余計な描写を切り取ったラストシーンに震えが走った。

全てとは言わないが、説明セリフを捨てられるヨーロッパ映画の厳しさを観せられると、徹底したリアリズムから逃げ、情緒過多な多くの邦画を観る気が失せる。

〈状況〉と心理を深々と描き切るか否か、そこで分れてしまうのだ。

こういう映画と出会うために、私はこれからも映画を観る。

―― 以下、梗概と批評。

「あの女と一緒になってから、息子は彼女の言いなり。送り迎えも買い物も。息子を尻に敷いてるの」
「コルネリア、それが人生なのよ。だから、子供は二人作れと言ったのに」
「私たちの世代は絶滅すべきだそうよ」

コルネリアの誕生日パーティー
ルーマニアの首都・ブカレストに住む舞台美術家のコルネリアが、自分の誕生日パーティーだと言うのに、肝心の息子・バルブが恋人・カルメンにうつつを抜かし、訪ねて来ないことに腹を立て、義妹の女医・オルガを相手にストレスを発散している会話から、冒頭のシーンが開かれる

そのバルブがアウディを運転中、一人の少年を撥(は)ねて、死なせてしまうという交通事故を起こした事実を、そのオルガから聞いたのは、コルネリアがオペラを観劇しているときだった。

早速、オルガの運転で、バルブが拘束されている警察署に出向くが、そこに居合わせた被害者遺族の悲哀にも同情を示さないコルネリアの偏頗(へんぱ)で、エゴイスティックな性格が透けて見える。

更に、弁護士でもなく、事故の現実を正確に把握していないのにも拘わらず、憔悴し切った目の前の息子を一方的に擁護する態度は、かつて「社会主義国家」であったが故にか、この国に大きな格差が生まれ、膨張し、引き続き、階級的差別が形成されている現実を如実に示していた。

ルーマニアの首都・ブカレストの街
2004年にはNATOに、2007年に欧州連合に加盟し、民主化されたと言っても、階級的特権が優位に、且つ、効果的に機能する社会環境が、隅々まで温存されている現実 ―― これが、この映画の背景に横臥(おうが)する。

閑話休題。

「息子はハイエナの餌食ね。好きで子供を刎ねたと?息子の身になって」

家政婦のクララに息子・バルブの家をスパイさせるコルネリアだからこそ、被害者遺族の目前で、こんなことまで言ってのけるのだ。

警察の陳述書で、時速140キロで前方の車を追い越そうとして、人身事故を起こしたという事実が判然とする。

高速の制限速度が110キロであるため、息子に陳述書を書き換えさせるほどにイニシアティブを発揮し、自ら関与しない死亡事故の処理を弁護士然として誘導していくコルネリア。

この時点で、高速道路に飛び出して来た少年の「被害者性」に関心を寄せる向きなど全くない。

だから、警察の上層部にもコネクションを持つコルネリアは、事故の処理を息子に有利なように、地元警察をインボルブしていくのである。

事故の鑑定書も、当然、コルネリアの意向に沿った書類に化けていた。

更に、事故の証人となっている目撃車(バルブが追い越した車)の男・ラウレンツィウに会って、金銭で片付けようとするのだ。

そのラウレンツィウとの交渉の場にバルブを出席させようとするが、何もかも、母親が事故処理をする現実に、肝心のバルブは苛立ちを隠せない。

バルブ
「あんた一人で片付けろ」
「私たちに、どんなに不満があろうとも、お葬式だけには出て」
「正気で言ってるのか?」
「哀悼の気持ちを伝えるの。分るでしょ」
「哀悼だって?奴らに殺されてしまう」
「何も手出しはしないわ。お父さんも行くし、カルメンも。皆で行くのよ。正面から向き合うのは、お前のためになるわ。時間が経てば分る。お葬式に出なきゃ、お前は刑務所行きよ」

それでも、母親を無視し、カルメンを連れ、実家を出て行こうとする息子に言い放つ母の以下の言葉は、この母子の関係の様態を言い当てていた。

「自分の部屋も与えた。食事の世話もしている。衣類まで運んでいるのよ」

この会話の現場に医師の父親・アウレリアンもいながら、その無力さを晒すばかりだった。

コルネリアアウレリアン
両親の関係の歪みをも知り尽くしているバルブにとって、一切が排除すべき遮蔽物なのだろう。

そんな状況下にあって、自分が犯した事故の処理すら満足にできない「大きな子供」の、その自我の未成熟さこそ、まさに、この母子の養育環境の歪みを顕在化するものだった。

かくて、母・コルネリアのみが、ショッピングモールのカフェで、事故の目撃車・ラウレンツィウに会うに至る。

金銭目的の相手への思惑を読み取ったコルネリアに、ラウレンツィウは具体的な金額を提示する。

「そっちが不起訴で済まそうという魂胆なら、8万、もしくは10万ユーロ」
「そんな大金はない。あっても渡す気はない。どうせ法廷で争うことになれば、私もあなたも時間を無駄にし、最悪でも執行猶予で済む」
「なったとしても、息子に前科がつく。気持ちを見せてくれ」

ここでラウレンツィウは、コルネリアが自分の息子を刑務所に送らないために、法外な「8万、もしくは10万ユーロ」を支払う意思があるかどうかを試しているのである。(2013年2月の時点で、1ユーロは約128円)

「気持ちを見せてくれ」という男の要求は、「今、この場」で、100ユーロを手付として支払うことだった。

手持ちの金が不足するのでATMで引き出すというコルネリアの反応で、交渉の継続を望む意思を確認した時点で、この話は取り下げる。

今度は、カフェでの「飲み物の支払いでいい」と言うなり、男は自分で支払ってしまうという行為に振れていく。

コルネリア
自分の優位の立場を示しつつ、コルネリアの揺れ動く心理を攪乱(かくらん)し、男はどこまでも、交渉を有利にリードしていくのである。

まさに、この男は、コルネリアが体験したことがないであろうタフネゴシエーター(手強い交渉相手)だったというわけだ。

この会話の背景には、特権的階級の既得権が優位に横行する文化が垣間見える。

それを一言でいえば、どのような事態においても、「便宜・利益供与」で処理する非民主的な構造的体質であると言っていい。

無論、特権的階級の既得権を有しているのがコルネリアであるからこそ、タフネゴシエーターの餌食にされるのだろう。



2  人生の時間を喰い潰す澱んだ空気の広がりの中から



「あなたは世界一の善人じゃない」

カルメンは、ここまで言い切った。

「私は息子に、別の未来を期待してたの。そこに、あなたが重荷を持ち込んだ」

コルネリアも、ここまで言い切った。

「実は私たち、別れるんです。だから子供は考えてません」

その理由を、カルメンは淡々と話していく。

カルメンとの関係の中で、バルブが異常な潔癖症で、HIV、肝炎、遺伝子検査、カンジダなど、ありとあらゆる検査を受けさせられた上、いざ、子供を作ろうとすると、それを回避してしまう臆病さに嫌気が差してきたことに、「まるで理解できない」とまで、正直に吐露するのだ。

この話を聞き、衝撃を受けるコルネリア。

以下、母と息子の会話。

「あんたは絶対に変わらないと、僕は確信している。10年前も5年前も、そう言った」
「なぜ、こんな扱いを?」
「分ってないな。今から言うことを受け入れてくれ」
「なに?」
「このままじゃ、もうダメだ」
「私はすべて受け入れてる。お前に嫌われることも。敬意を払って欲しいだけ」

息子に対する自分の深い「献身的愛情」を理解してくれと、この母は今、目の前の息子に甘えているのだ。

バルブ
「僕から、そっちに電話する。僕の電話を待っててくれ」
「私が掛けちゃダメ?」
「僕から、歩み寄りたい」
「今は困難なときだから、ゆっくり考えたいんだ。助けを借りるまでもない。電話するさ。1か月後か、1年後か。半年後かもしれないが、僕から電話する。そしたら関係が作れるかも。このままでは、10年後、20年後でも、今と全く変わらない」
「私はもう、若返れない。残りの人生を近くで過ごしたいの。これから先どうなるのか」
「僕はここからやり直す。何が起ころうと、僕が原因の問題であれ、あんたが原因であれ」
「私が原因って?」
「それはいい。とにかく決めてくれ。僕が掛けたくなるまで、電話を待つかどうか。一つ提案がある。寂しければ、代用品を。愛人を作るとか、友人と旅行に行くとか」
「私の友人は皆、子供と普通に付き合ってるわ。親は子供に期待するの。自分の叶えられなかった夢を」
「それじゃ、同意だね」

母と息子の長い会話が終わった。

この映画で最も重要なシーンである。

意を決したバルブは、母とカルメンに同行し、自らが起こした事故の被害者・アンゲリウの家を訪ねて行く。

しかし、人間は簡単に変わらない。

結局、肝心な所で母に任せてしまうのだ。

「傍にいるだけでいいの」

この母の言葉が、「分離ー個体化」=自立化できない母子関係の歪み(注)を引き摺っている。

この国の決して豊かではないエリアに住むアンゲリウの家を訪問する、コルネリアとカルメン。

「可哀想に息子は、ひどく苦しんでいます」

夫人の泣き声が聞こえる狭い部屋の一角で、「お悔やみ申し上げます」という儀礼的な挨拶の後のコルネリアの言葉である。

14歳の息子を喪ったアンゲリウの嗚咽が止まらない。

その嗚咽の中から、必死に封印していたアンゲリウの憤怒が炸裂する。

「あの子を撥ねたバカは、事故を起こしたくせに、車から降りもしない!」

バルブが車内で待っている事実を知らされていたアンゲリウの怒号に、「たぶん、警察に止められたんです」と弁明するコルネリア。

「警察はまだ来てなかったし、どうせ汚職警官ばかりだ!」

なお、嗚咽の中から吐き出すアンゲリウの怒号には、この国の治安当局の本質を衝くものだった。

「息子の人生を壊さないで」

未だ、その思いに決定的な変化が見られないとは言え、それまでのコルネリアの態度とは些か切れていた。

コルネリア
彼女の身体表現は、相手の心情が理解できる者の情性を印象づけるのだ。

助祭が来たことで、その場を抜けたアンゲリウに代わって、夫人に対して、「子供の頃から成績は優秀でした」などと、嗚咽を漏らしながら訴えるコルネリア。

コルネリアの嗚咽が号泣に変換したとき、息子の形見の携帯を手に持ったアンゲリウ夫人の嗚咽が、狭い部屋の空気の明度を一気に下げていく。

この空気のくすみの広がりの中で、持参して来た金銭をアンゲリウ夫妻に渡そうとするが、それを拒む夫妻。

葬儀への出席も拒む夫の心には、事故に関わる一切のイメージを払拭したいのである。

それでも、この金だけは受け取ってもらうことを懇望するコルネリアは、持参して来た金銭を置いて、アンゲリウ家をあとにする。

ラストシーン。

車に戻った母の思いを汲み取ったのか、バルブに変化が生まれる。

「母さん、降ろして」

そう言うや、一人で車を降り、眼の前にいるアンゲリウの前に歩み寄っていくバルブ。

アンゲリウの前で、何かぼそぼそ話しているが、手持ちカメラが近寄らないので、観る者には分らない。

アンゲリウの視線が、車内で嗚咽を漏らすコルネリアを、繰り返し捕捉するシーンを考えてみれば、バルブの行動が自らの意志によって具現したか否かについて、重要な関心を寄せているように見える。

思いも寄らないバルブの行為が、彼自身の主体的意志の発現である事実を確認できた時、バルブに対するアンゲリウの憤怒は、相当程度、希釈化されたに違いない。

バルブの表情から懊悩する男の感情を読み取ったことで、少なくとも、「この時、この場」でのアンゲリウの感情も、相対的な着地点に潜り込むことができたのだろう。

ほんの少し和らいだ空気が、特化された限定スポットを、束の間、包み込む。

アンゲリウは、そっと手を出し、バルブと軽い握手をする。

「もう分った、帰れ」

そんな風に言われたのかも知れない。

車に戻って来たバルブから、嗚咽が止まらない。

双方に過失があると思われる、一人の少年の命が喪われた一つの事故が、その周囲の人間の人生を、ここまで苦しめ、ここまで悲しませ、ここまで狂わせていく。

どこまでも続くような深い闇が、彼らの人生の個々の時間を喰い潰していくのだろうか。

それは、観る者の宿題として突き付けてくるのだ。


マーガレット・マーラー
(注)ハンガリー出身の米国の精神科医・マーガレット・マーラーの「分離ー個体化理論」とは、乳児が母親との一体感から、徐々に分離していく過程を4つに分けた、発達心理学の理論として注目されている重要な仮説である。拙稿・「少年は残酷な弓を射る」(2011年製作)参照



3  〈状況〉を開き、その〈状況〉の中枢点に自己投入する「胎児」の「恐怖突入」の物語



この映画のエッセンスは、ラストシークエンスに収斂されていると言っていい。

以下、意を決して、コルネリアら3人がアンゲリウの家を訪問する、ラストシークエンスの意味を考えてみる。

とりわけ、アンゲリウ夫人に対して、コルネリアが嗚咽の中から「息子自慢」を吐き出すシーンは、この映画の白眉である。

「息子のためなら魂を売ってもいい」と吐露する言葉に結ばれる辺りに、コルネリアの〈現在性〉が凝縮されているが、息子を必死で守ろうとする彼女にとって、この心情こそが、彼女の偽りなき真実の声を代弁するが故に、アンゲリウ夫妻の中枢を射抜くパワーに欠けていたとしても、「今、この時」の彼女の人格総体から振り絞った能力では、この言辞しか持ち得ないのだ。

しかし、これだけは言える。

14歳の息子を喪った、アンゲリウ夫妻の「悲嘆(グリーフ)」の現実を突きつけられたコルネリアは、「今、この時」、「我が子を喪う辛さ」の正真正銘のリアリズムに捕捉され、自分の内面と初めて向き合ったのである。

だから、コルネリアの嗚咽は、息子が待つ車内にまで持ち込まれる。

かつて、体験したことがないような異様な状況に捕捉され、コルネリアの情動が騒ぎ立て、心の安寧を保てなくなっているのだろう。

この状況下で、もう、人も羨むセレブとして、自分の思うように立ち居振る舞いしてきた経験則など、全く何の価値も持ち得ないのだ。

コルネリアの嗚咽は止まらない。

今はただ、情動の氾濫に留まっているが、本気で自分の内面と向き合い、葛藤し、懊悩する時間の累加の心的過程の中で、底層に澱む対象を客観化し、精神の相対的安寧を確保できるまで、その厄介なものを払拭し得るかどうか、全く分らない。

しかし、今や、それなしに済まない現実が、コルネリアの喉元にまで突きつけられているのだ。

カリン・ピーター・ネッツァー監督
カリン・ピーター・ネッツァー監督が、コルネリアの何某かの変容の可能性について、少なくとも、希望的観測を映像提示しているのは間違いない。

そして、言わずもがな、この苛酷な一件を介して、自分の内面と初めて向き合ったのはコルネリアだけではない。

そのコルネリアに対峙し、「僕はここからやり直す」と言い切ったバルブである。

彼は、想像だにしなかったろう母の嗚咽を目の当たりにして、激しく動揺する。

然るに、それ以‎前から、バルブの内側で、深刻な葛藤が蟠(わだかま)っていた現実を否定しがたいだろう。

深刻な葛藤の内実は、暴力を振るわれることへの恐怖に耐えてまで、自らが起こした事故の被害者に会いに行く行為に対して、都合のいい逃げ道を用意する一切の方略を閉ざし、それを遂行する意志の具現化に関与することだった。

その葛藤を経て、バルブはアンゲリウ家を訪問する。

それにも拘わらず、「傍にいるだけでいいの」と言う母の言葉に甘んじて、バルブは車外に跳び出せない。

なお延長される、バルブの内側での深刻な葛藤。

しかし、もう、限界だった。

「怖い」と言いながらも、母親が自らを盾にしてまで息子を守ろうとする行為を見せつけられ、肝心の息子自身が狭い車内=「胎盤」に身を屈め、鬱屈(うっくつ)しつつ閉じこもり、出入り口を塞ぐという「逃亡」に振れることができなくなったのだ。

それは、「逃亡」の延長の不可能性を意味する。

「胎盤」に閉じこもる「胎児」の如き「大きな子供」は、「今、この時」、「僕はここからやり直す」行為への飛翔が不可避になったのである。

「僕はここからやり直す」という勇ましい自己宣言が、「今、この時」、決定的に試されるのだ。

それが、「絶対状況」に追い詰められた「大きな子供」の〈現在性〉だった。

「今、この時」、「胎盤」に閉じこもる「大きな子供」が、「胎盤」に閉じこもるという安易な「逃亡」を拒絶する。

「胎盤」に閉じこもる「大きな子供」もまた、自分の内面と初めて向き合ったのだ。

正確に言うと、深刻な内面的葛藤に決着をつけるために、バルブは恐怖の本体に向き合ったのである。

暴力を振るわれることを覚語し、アンゲリウへの「恐怖突入」に向かったのである。

居ても立っても居られない心境下にあるアンゲリウは、なお車内に閉じこもっている「バカ息子」を精神的に追い詰め、プレッシャーを与えるために、戸外に出て来たように見える。

無理だと思っていても、「バカ息子」に謝罪を求めているのだ。

車内から後ろを振り向き、アンゲリウが自分を見ている視線に気づいたことで、バルブは決定的に動いていく。

バルブ「恐怖突入」
アンゲリウの目の前に立ち、恐らく、震えるような小声で、謝罪の言葉を結んだのだろう。

前述したように、このとき、アンゲリウにとって重要なことは、バルブの行為が母親の指示で動いたか否かという一点にあったと思われる。

だから繰り返し、車内のコルネリアに視線が向けられたのである。

コルネリアが車内で嗚咽を漏らす現実を確認したことで、もう、半分は許していたに違いない。

「バカ息子」が、自らの意志で車外に出て来た事実をも疑わなかったからである。

しかも、「バカ息子」は、自分の目の前で泣いているのだ。

「今、この時」の状況が、取りあえず、終焉した瞬間である。

結局、コルネリアがバルブを同行させていったことが全てだった。

母に随行する意志の中に、既に、「恐怖突入」の行為に変換される条件が揃っていたと言えるだろう。

自らの意志を隠し込みながら、アンゲリウの家を訪問する行為こそ、バルブにとって最も重要な選択だった。

〈状況〉を開き、その〈状況〉の中枢点に自己投入し、隠し込んだ意志を行為に変換させることで、その〈状況〉を〈私の状況〉に昇華する可能性を開いたとき、もう、何かが変わり、何かが動いているからである。

しかし、人間は簡単に変わらない。

それでも、変化の兆しだけは描き切った。

それこそが決定的な現象なのである。


思うに、バルブの異常なまでの潔癖症は、コルネリアの乳母日傘」(必要以上に過保護に育てられること)によって、無菌状態にされた養育環境に淵源(えんげん)すると言っていい。

その意味で、「僕はここからやり直す」と言い切ったとき、もう、何かが変わり、何かが動いていたのである。



(2016年3月)

2 件のコメント:

  1. こんにちは。
    母と息子の関係というのは、非常に難しいですね。
    私自身、母はとても大切な存在ですが、一線を引く機会が無かったら、きっと主人公のようになっていただろうと思います。
    優しければ優しい母だからこそ、起こりえる事なのだろうとも思います。
    また、被害者の悲痛さには、最近の被害者遺族が発言できるようになった日本の裁判の事例を挙げるまでもなく、とても心が痛みます。
    特に弱い存在の子供達が犠牲になる事件を耳にする度に、最近は本当に涙が出てきますし、自分自身何か出来る事が無いのだろうかと、本当に悩んでいます。


    最近いろいろな事があり、簡単に言えばてんてこ舞いな感じなんですが、会社で急に役職がついたために、ただでさえ忙しかったのに・・という感じです。
    上司よりデール・カーネギー「人を動かす」という本を読むようにとの指示をいただきましたので、今は時間を見つけてその本を読んでいる感じです。
    どうしても私は言葉が多い方なので、今後は意識的に相手の話を聞いていかないといけないなと自戒しているところであります。
    ではでは。

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    1. コメントをありがとうございます。
      この映画の母と息子の関係は、その生い立ちが容易に理解できて、観ていて、痛切に心に響くものがありました。だからこそ、無言のラストシーンには、この母子の関係の歪みが凝縮されていて、観る者に訴える力があったと思います。それは、マルチェロヤンニさんが自分の体験を語るように、テーマが普遍的であるからでしょう。
      私の場合、母親に迷惑をかけっ放しの青春期を送りましたが、社会から逸脱しなかったのは、幼児期の母親の愛情があったからだと今でも思っています。

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