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2014年7月9日水曜日

思秋期(‘10)    パディ・コンシダイン


<悲哀と絶望を直視して、中年男女の心的行程の様態をシビアに切り取った人間ドラマの傑作>




 1  荒れる男 祈る女



この日もまた、男は荒れていた。

ノミ屋で大敗したストレスが炸裂し、あろうことか、愛犬を蹴り殺してしまうのだ。

悔いても、いつも遅い。

身体反応としての情動が一気に噴き上げ、不快な感情の集合が不必要に炸裂し、攻撃的行動を抑制できないのだ。

そして、一過的な情動反応が沈静化した後、人間らしい理性系の一端を復元させて、今度は自己を責め抜く感情に苛まれる。

男は愛犬を胸に抱き上げ、土を掘り、埋葬した。

炸裂と埋葬。

この繰り返しである。

外部に向かった男の攻撃性が中和化されるとき、その攻撃性が反転し、自分の内側を襲っていく。

男の情動反応もまた一過的なものであり、そのサイクルをリピートするばかり。

それでも、危機を前に寸止めできる。

寸止めできるから、自壊するギリギリの際(きわ)で留まる。

この映画の最も重要なポイントだが、男は「殺意」をもって暴行に走る行為に流れないのである。

この心理については、映画の肝なので後述する。

ともあれ、この男の性格傾向を見る限り、「衝動制御障害」とも称され、攻撃的行動を突発的に剥き出しにして、周囲の者・物に当り散らす「間欠性爆発障害」のように印象づけられるが、ここでは勝手なラベリングは止めておこう。

そんな危殆なる男の性格傾向の特徴的様態が、典型的に体現されたエピソードがある。

その日もまた、懲りずに、男は荒れてしまった。

パブのビリヤード場で深酒する男は、パキスタンの若者たちの下品な会話を耳にして、いつものように炸裂する。

彼らに暴行を加え続けるが、これ以上暴走すると、相手を殺害する危うさを感じ取った瞬間、男の行動はピタリと止まった。

その足で、町を足早に彷徨し、イギリス国内で定着しているチャリティーショップ(寄付を受けた物品を販売する店)に入り込み、その衣服のハンガーの裏に小さく蹲(うずくま)ってしまうのだ。

その店の女主人が同情し、男のために祈りを唱える。

嗚咽する男。

それだけだった。

些か厄介な男が、男の自宅前で待ち伏せしていた、例のパキスタンの若者たちに襲撃されて、朝まで倒れていたが、覚醒した後、顔に目立つ傷を残す男が身を寄せたスポットは、男のために祈りを唱えた女の店だった。

ところが、男にお茶を出し、「神の愛」を説いて、優しく接触する女の言葉に嘘臭さを感じ取った男は、散々、悪態をつく。

「あんたみたいな連中は偽善者だ。チャリティと称してケーキを焼き、魂を救う。世の中の辛酸をなめたこともないくせに」

子供がいないことを聞いて、「旦那は種なしか」などと、一方的に決めつけるのだ。

女の涙が、そこに捨てられていた。

「何、やってる。俺はバカか。どうかしている」

そう言って、パブで自分を責めるジョセフ。

自己修正力のギリギリの辺りで、情動反応を一過的なものに留めているのだ。

一方、男に袈裟切りにされた女は、帰路、子供が遊ぶ姿を眺めていた後、自宅でワインを飲んでいた。

何気ない風景だが、これらの事象が内包するネガティブな風景が顕在化するのは、物語の彩色が、もう少しくすんでからである。

男の名はジョセフ。

女の名はハンナ。

この映画は、この二人の中年男女の出会いを通して、悲哀と絶望を直視して、相互に変容していく心的行程のリアルな様態をシビアに切り取った人間ドラマである。



2  甚振る男 怯える女



翌日、謝罪に行くジョセフ。

ジョセフの謝罪を受容したかのように、一緒にパブに行くハンナ。

しかし、ハンナに笑顔が見られない。

笑顔が見せないハンナが、今度はジョセフへの発問者になっていく。

「家族は?」
「いない」
「誰かいるでしょ?」
「親友はガンで死にそうだし、愛犬は殺しまったし」
「殺した?」
「アバラを蹴ったせいでな」
「なぜ、蹴ったの?」
「ノミ屋でイラついた。八つ当たりだ」

こんなジョセフの話の内容に不快な思いを隠せなかったハンナが、愛想笑いを見せたのは、如何にも、英国の下層階級を象徴するような、ノミ仲間のトミーの下品な話を耳にしたときだった。

元より、ハンナを訪ねたジョセフの本来の目的は、ガンで死にそうな親友への祈りを依頼すること。

敬虔なクリスチャンのハンナ
敬虔なクリスチャンのハンナには、自分を傷つけたジョセフへの許し難さが残っていても、この依頼を拒絶する道理がない。

かくて、末期ガンの病人の前で、真剣に祈りを繋ぐハンナ。

その姿を凝視するジョセフ。

印象深いカットだった。

また、物語の重要な伏線となるエピソードがあった。

ジョセフが愛犬を思い出したくないために、犬小屋をハンマーで壊しているときだった。

ジョセフに懐いている、近所に住む少年サミュエル(サム)の母の愛人が、より獰猛な性格に調教した犬を使嗾(しそう)し、ジョセフの行為を止めさせようとして、一触即発の空気になった。

「いい犬だ。お前は悪くない」

ジョセフはそう言って、ハンマーを下ろしたのである。

自らが殺した愛犬を思い出したために、攻撃性が萎えてしまったのだ。

「それでいい。腰抜けめ」

その愛人の捨て台詞だったが、このときのジョセフの心情が理解できないが故の、一端(いっぱし)の勝者気取りだった。

 
犬小屋をハンマーで壊すジョセフ

  このときのエピソードも含めて、末期ガンの病人の前で祈りを繋ぐハンナを凝視するシーンに象徴されているように、彼女との出会いの中で、暴力に振れる攻撃性が見られなくなったジョセフにとって、いよいよ、ハンナの存在価値の比重が増しつつあった。


それ故に、ハンナの顔の傷を視認したジョセフには、ハンナの存在が「気になる人間」と化していく。

 ハンナの顔の傷。

 それが、彼女の夫・ジェームズのDV(ドメスティックバイオレンス)に起因するという事実は、物語の半ばで明らかにされる。

 「階級にとりつかれた人びと―英国ミドル・クラスの生活と意見」(新井潤美著・中公新書)によれば、その住宅街の佇まいを見る限り、中流階層であるハンナの場合は、典型的なワーキングクラスであるジョセフと異なって、「ロウアー・ミドル・クラス」の英国人と言えるだろう。

 「ロウアー・ミドル・クラス」の仮面夫婦の中で、継続的に惹起されるDVの凄惨な風景。

 その日もまた、レイプし、暴行し捲ったジェームズの、一時(いっとき)の破壊的で、支配欲が満たされた後の「甘えの偽装」の儀式が、醜悪なエピソードのうちに拾われていた。

「ごめんよ、ハンナ。どうかしてた。僕はおかしい。病気なんだ」とジェームズ。

ワインを飲んで眠り込んでいた妻に、放尿する男とイメージと乖離するが、これはDV男の常套手段である。

「いいのよ。許すわ」とハンナ。

ジェームズとハンナ
これも、DV被害者の常套手段である。

「神に祈っても、聞いてくれない」
「大丈夫よ」
「もう、耐えられない」
「私がついてる」
「祈り続けるよ、ハンナ。だって、こんなのは本当の僕じゃない」
「ええ、違うわ」
「昔の僕を?」
「覚えているわ、大丈夫。私も祈る」
「僕のために?こんな僕に・・・君を愛してる」
「大丈夫」
「僕は君に相応しくない」

嗚咽の中で、「愛してる」と言って、顔が深い傷痕が残るハンナの胸に飛び込んでいくジェームズ。

「私もよ。愛してるわ」

そう言って、受容するハンナ。

私たちは、この欺瞞的なからくりに騙されてはならない。

これは、DVサイクルの典型的な「ハネムーン」の現象である。

相手が敬虔なクリスチャンであることを認知する者が、このような行為に及べば受容してくれるという経験則を逆手にとって、確信的に近接するDV男の精神の焼け野原の風景の爛れ具合が、そこに垣間見えるのだ。

「緊張」⇒「暴力」⇒「ハネムーン」という「DVサイクル」の中で、この「ハネムーン」のプロセスが存在するから、DVの連鎖に終わりがこないのである。

思うに、DVが「共依存」との関係で語られやすいが、それは「ハネムーン」のステージを過大評価するからであり、少なくとも、ハンナとジェームズの関係を見る限り、「共依存」という誤解されやすい概念では説明できないと、私は考える。

この二人の関係の本質は、「暴力」を背景にした「権力関係」以外ではない。

「ハネムーン」のステージでの、ハンナの心理の本質は、その後に待機する「暴力」を予想しているが故に、一時(いっとき)の「安寧」を得ていたに過ぎず、彼女がキッチンドランカーに逃避していたように、常に、夫の「暴力」への恐怖に怯えながら呼吸を繋いでいる現実を、私たちは直視せねばならないだろう。(注)

この夫婦の「権力関係」が「ハネムーン」のステージから、次のステージに移行するのも早かった。

「ハネムーン」のステージは継続力を持ち得ないのだ。

ハンナの店で、親友の葬儀に出るジョセフに、ネクタイを結んでいるところを、ジェームズに目撃されてしまったからである。

「アバズレめ」

そう言って、帰っていくジェームズ。

その夜、アルコールで泥酔するハンナ。

「誤解よ。殴らないで」

ケイタイで夫に嘆願するのだ。

ジェームズが車で迎えに来て、連れていく。

いつものように、「緊張」⇒「暴力」という悍(おぞ)ましいステージが開かれていく。

「折角、チャンスをやったのに、お前がぶち壊した!」

「チャンス」とは、先の「ハネムーン」での謝罪のこと。

ジェームズ
だから、この負の連鎖に終わりが来ないのだ。


(注)因みに、欧米では夫婦の強姦罪が成立する、我が国でも、1986年の鳥取地裁の判決において、夫婦の強姦罪が認知されている。



3  炸裂する女 射抜く視線を放つ男



ハンナは出した。

頼れる相手はジョセフしかいない。

「他人と暮らすのは無理だ。面倒は見切れん。俺は聖人じゃない。悪く思うな。俺も自分のことで手一杯だ」

これが、ジョセフの答えだった。

 同意する以外の選択肢しか持ち得ないハンナを伴って、彼女の家まで荷物を一緒に取りに行くが、恐怖で身が竦むハンナは逃げ出してしまった。

この状況下にあって、今や、ハンナを追い出すことができないジョセフには、ハンナとの共同生活を開く以外になかった。

かくて開かれた、二人の中年男女の共同生活。

ハンナとジョセフ(右)
ジョセフのプライバシーの一端が、二人の会話の中で自然に明かされていく。

「愛に満ちた女房を、俺は踏みつけにした。バカにしてたが、心の美しい女だった」
「生きてて欲しい?」
「いや。辛く当たってしまう」
「なぜ?」
「俺がダメな人間だから」
「あなたはいい人よ」
「君は知らない」
「一緒にいると安心」
「大間違いだ」

 多少、省略したが、二人の一連の会話から想像できるのは、5年前に死別したと言うジョセフの亡妻が、DVとまでは言えなくても、攻撃的な夫との関係の中で、相当程度のストレスを累加させていった過程で大食いになり、最後には両足切断し、失明した挙句、糖尿病による心臓発作で逝去したという事実である。

 それが、巨躯であったが故に、ジョセフが勝手にネーミングした、「ティラノサウルス」=亡妻の「悲哀」の背景から垣間見えるイメージは、睦み合った夫婦の良好な関係性の継続力の脆弱さであったと言っていい。

だから、その二の舞を踏む事態を恐れて、ジョセフはハンナとの共存を拒んだのだろう。

何より、ハンナとの共存を心から喜べないジョセフには、「夫から逃げ出した人妻」という立場にある、女の宙ぶらりんの状態を放置できる訳がなかった。

ハンナに黙って、ジョセフがジェームズに会いに行くのは必至だった。

話をつけるためである。

この男には、こういう生真面目な倫理観がある。

そんな複雑な感情が絡み合って生きているからこそ、人間に対する興味が尽きない所以でもある。

二階に上がり、血糊がべったりとつくジェームズの死体を見て、言葉を失うジョセフ。

「最悪だ・・・

ジョセフはその足で自宅に戻って、甲斐甲斐しく動くハンナを前に、ぼそりと呟く。

その場で立ち尽くし、射抜くような鋭い眼光がハンナを捕捉する。

全てを察知したハンナは、突然、抑制が効かない者の情動系を噴き上げていく。

「そんな目は何?責めないでよ。何も知らないくせに。私がどんな仕打ちをされたか!レイプされたの。無理やり、私の中にモノを突っ込んだ。ガラスを私の中に・・・子供も産めない。ひどい・・・助けて。抱きしめて。天の父よ、助けたまえ」

嗚咽の中の告白。

このときのジョセフの、訝るような厳しい視線には、敬虔なクリスチャンであるハンナが殺人を犯してきたのに、平然と装ってきた態度への違和感であると言っていい。

ハンナの苦衷を察する想像力にまで、なお及ばないのだ。

これまで散々、追い詰められ、甚振(いたぶ)られ、人間の尊厳を決定的に傷つけられた者が、それまでの延長線上に、この時もまた、嫉妬絡みのレイプを受けたのだ。

しかし、今やハンナは、恐怖で宙吊りにされた脆弱性を晒す者の「権力関係」に縛られていなかった。

恐怖を上回る憎悪の感情が発動したとき、まるで、動物的防衛本能が攻撃性に変換された時のように、自分を甚振り尽くした相手に、致命的な反撃を加える攻撃性を身体化したのである。

相手がズボンを履く時間さえ与えないほど、レイプを受けた瞬時に、咄嗟に手に取った凶器で殺害するに及んだのである。

ジェームズがハンナに向かっていくときの一瞬の画像で見分けがつかないが、この凶器は、妻を甚振るための道具としてジェームズが携帯していた物だが、気の弱い男が、妻の「抵抗」を恐れて隠し持っていたと考えらなくもない。

これは、ジェームズの死体の損壊状態が教えるものでもあった。

蝿が死体にとまっていたことでも分るように、少しづつ死臭が立ち込めてきて、ズボンを履きかけたまま死んでいた男と、その傍らに置いてあったナイフの存在。

それで充分だろう。

それは、キッチンドリンカーという非日常の閉鎖系の世界に逃げ込むことしかできなかったハンナにとって、その夜もまた、「誤解よ。殴らないで」とケイタイで嘆願する行為に象徴されるように、今や、彼女の自我破壊的恐怖の極点だったと考えられるのだ。

ところで、なぜハンナは、情動炸裂の果ての殺害行為に振れることが可能だったのか。

累加されたディストレス状態が、攻撃衝動を抑えることができないほどにクリティカルポイント(限界点)に達していたことは容易に想像し得る。

それだけだったのか。

恐らく、ジョセフという「リトリート」(避難所)が確保できていると、主観的に判断されていたからとも思える。

肯定的に「気になる人間」が存在したこと。

これが大きかった。

「気になる人間」の存在を意識すれば、意識した分だけ、行動に影響を与えるのだ。

大体、ハンナがジョセフの元に身を寄せるという行為が意味する心理を考えれば、既に、この世にいない夫からの「逆襲」から解放されたという「安堵感」なしに説明できないのである。

もし、夫のジェームズが生存していたなら、ジョセフの元に逃げ込むという行為の選択は無理であったと思われる。

それほどまでに、「夫の陰」に怯えていたからである。



4  悲哀と絶望を直視して、中年男女の心的行程の様態をシビアに切り取った人間ドラマの傑作



ジョセフには、時間が必要だった。

ハンナが背負ったものの大きさを理解し、共有し得る心の地平にまで届くには、一年間という頃合いの時間が必要だった。

二人の関係に「モラトリアム」の時間の設定を作り出したこと ―― この辺りに、リアリティを貫徹させたこの映画の卓抜さがある。

「思秋期」という愛らしい邦題をつけた、中年男女の愛の物語の肝が、この一年間という「モラトリアム」の時間の中で熟成されていく。

それまでのネガティブな重い時間のフラットな延長線と、闇の深さを負荷させた分だけ相対化し、仕切ってしまうのだ。

一年後。

ハンナへのジョセフの手紙。

ジョセフの声がボイスオーバーされていく。

サム
「この一年、俺の人生も散々だった。サムが犬に襲われたんだ。母親の男のせいで興奮し、凶暴になった犬が、サムの顔に。噛み千切られかけた。予感はあった。動物は過度に虐待されれば、反撃に出る。それが自然だ。俺も責任を感じる。いろいろ重なって、俺はブチ切れた」

ここでは、サムのDVが問題になる。

サムが実父からプレゼントされ、大切にしていたウサギのぬいぐるみを、母親の愛人の犬に喰い千切られ、抵抗するサムの顔には殴られた傷痕があった。

サムもまた、ハンナ同様にDVの被害者だったのである。

何しろ、母親の男がやって来ると、真夜中でも街路に放置されてしまうのだ。

ジョセフの耐性限界が、遂に切れてしまった。

男の犬を撲殺するジョゼフ。

ジョセフの犬殺しは2度目である。

今度はサムを守ることで、自分の責任を果たすためである。

「殺してやる!」

怒り捲る母親の愛人の言葉。

しかし、椅子に座り、落ち着き払って、男を待つジョゼフの前で、男は裸になって叫ぶだけで、肝心の相手に向かっていかないのだ。

いけないのである。

ジョゼフの落ち着き払った態度によって、勝負の帰趨は決したと言っていい。

かつて、「腰抜けめ」とジョゼフに言い放った男こそ、愛犬を殺されても何もできない、「腰抜け」である事実を自ら証明してしまったのである。

「俺が野性化しているとトミーは言った」(ジョゼフのボイスオーバー)

「動物は過度に虐待されれば、反撃に出る」

ジョセフは、そう言った。

正確を期して言えば、サムの母親の男の虐待的な「調教」によって、サムの顔を噛み千切らんとするほどに、件の犬が「凶暴性」を学習してしまったということだろう。

犬殺しの一件で、ジョセフは刑務所行きになるが、軽微な刑事事件だから、出所も早かった。

「“私でも同じことをした”という賛同の手紙がきたが、だが、彼らは実行には移さない。そこが、俺や君と世間の違いだ。出所後、再出発を誓った。もう、以前のように大酒も飲まない」(ジョゼフのボイスオーバー)

先述したように、この映画の最も重要なポイントだが、ジョセフは、「殺意」を持って暴行に走る行為にまで堕ちた経験がないのである。

多くの場合、危機の前で寸止めできるのだ。

愛犬を殺したときも然り。

パキスタンの若者たちに暴行を加え続けたときも然り。

サムの母の愛人が、獰猛な犬を使嗾(しそう)したときも然り。

しかしジョセフは、初めて、その獰猛な犬に対し、「殺意」を持って殺害したのである。

家庭内で、母の愛人から日常的に虐待を受けているサムの命を守るために、彼は「殺意」を持って殺害したのだ。

ハンナの苦衷
この行為によって、ジョセフは、ハンナの置かれた恐怖の「前線」のリアリティーを感受し、その心に同化し得たのである。

亡妻の墓に花を供え、ハンナのために祈る男。

「俺らしくないが、気づくと祈ってる。信仰心などないのに。君に会って話したいことがある。なぜ、あの日、君の店に行ったのか。神を求めてじゃない。君に会いたかった。俺に笑顔をくれるのは、サムと君だけだった。その笑顔に照らして欲しかった。美しい君を、ただ見ていたかった。知りたくはない。知れば、君の陰も見えてしまう。完璧な人間なんていない。新しい住所を書いたので、良かったら手紙をくれ」

ジョセフのボイスオーバーの最後の声である。

正直、「君に会いたかった」という台詞を挿入して欲しくなかった。

観ていれば、誰でも分ることである。

些か説明過剰なこのシーンへの違和感が残ったが、だからと言って、このボイスオーバーの流れの先にある「予定調和」のイメージを壊すことはない。

ジョセフは、「再出発」への本気の思いを乗せて、塀の中にいるハンナを訪ねる。

見詰め合うだけの二人。

再会の喜びで感無量だったハンナの表情から笑みが零れた後、ジョセフは、まっすぐ伸びた道の中枢を堂々と歩いていく。

ラストカットである。

この心境に届くに足る時間は、一年間。

濃密さが凝縮された、その長くて短い時間のうちに、中年男女の心的行程の変容の様態がこの映画の肝となり、それがザラザラとした画像の集合体と化して、観る者に迫ってくる。

深い感動が私の内側を占有して、声も出なかった。

悲哀と絶望を直視して、中年男女の心的行程の変容の様態をシビアに切り取った、人間ドラマの傑作と言う外にない。

デビュー作であるからこそ、そこに描き込まれた一つ一つのカットに、作り手の気迫が手に取るように分る映像だった。

因みに、ジョセフを演じたピーター・ミュランが監督・出演した、「マグダレンの祈り」(2002年製作)もまた、「システムとして保障された『箱庭の恐怖』」を描き切った痛烈な作品だっただけに、俳優としても映画監督としても、ピーター・ミュランの才能に瞠目させられた。

(2014年7月)


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