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2012年2月26日日曜日

英国王のスピーチ('10)        トム・フーパー

<「『リーダーの使命感』・『階級を超えた友情』・『善き家族』」という、「倫理的な質の高さ」を無前提に約束する物語の面白さ>



1  吃音症は言語障害である



本作から受けるメッセージを誤読する不安があるので、これだけは理解する必要がある。

それは、現在、多くの国において、吃音症が言語障害として認定されているという点である。

且つ、言語障害として認定されていながら、原因不明であるため、最も有効な治療法が存在しないという現実があること。

これが、厄介なのだ。

然るに、今なお、親の厳しい躾による過緊張状態を強いたために、吃音になってしまったという精神的要因に問題の一切を起因させてしまう世俗的な見方が跋扈(ばっこ)しているのは事実。

言うまでもなく、吃音症は精神病とは無縁な障害である。

恐らく、脳部位の機能不全に関連するだろうが、先天性因子の問題を含めて、一切が不分明であること。

経験的なことを書けば、私の小学校時代に吃音症の友人がいたが、彼の家庭はとても温厚で、厳しい躾とは無縁であった。

どうやら彼の吃音は、乳児期の発語の段階から目立っていて、専門の医師に看てもらっても、全く分らなかったらしい。

但し、本作のように、親の厳しい躾にルーツを求められるケースもあるので、後天的な要素との関連も、当然ながら否定し得ないだろう。

そのような事情を踏まえて言えば、全ての吃音症が精神的要因に起因するという世俗的な決め付けだけはしないこと。

これに尽きる。

いつも思うことだが、「自閉症」(現在、「広汎性発達障害」と呼称)や「依存症」、「脊髄損傷」等のケースに典型的に現れているが、何某かの疾病が描かれるドラマを観ていると、疾病に関わる正確な情報が与えられることなく、明らかに、「ドラマの嘘」が稚拙に暴れてしまっている例が多いので、それが結果的に「差別の助長」に加担してしまう事態を惹起させている不幸を見逃せないのである。



2  「ご主人を治すには、信頼と対等な立場が必要です」 ―― 負荷されるプレッシャーの増幅の中で ―― 物語の梗概①



「もう、嫌だ」

これは、本作の主人公の弱音丸出しの言葉。

初老の言語聴覚士からビー玉を口に入れさせられて、本を読まさせられる苦痛と屈辱に耐えられず、咄嗟に出た本音である。

件の主人公の名は、アルバート・フレデリック・アーサー・ジョージ・ウィンザー。

後の英国王、ジョージ6世となる人物で、ここではファーストネームであるアルバートと呼んでおこう。

そのアルバートは、幼い頃から吃音というコンプレックスで煩悶し、それがトラウマのようになっていた。

当の本人が、すっかり諦念を持つ心境下に置かれているのに、後のエリザベス2世の母である、伯爵家出身の妻のエリザベスだけは諦めない。

演劇俳優でもあった、オーストラリア人の言語療法士のライオネルを訪ねたエリザベスは、その中年男から思いも及ばないことを言われた。

「ご主人を治すには、信頼と対等な立場が必要です。治療はここで行ないます。連れて来て下さい」

エリザベスは期待薄の思いの中で、隠れるようにして夫を連れて来させるだけでも難儀だったのに、またしても「恥」をかかせてしまった。

アルバート王太子を「バーティ」という愛称で呼ぶライオネルは、喫煙でストレスを解消しているように見えるアルバートに禁煙を強いたのである。

そんな不穏な空気が漂う中での、短い会話。

「生まれつき吃音の子はいない。いつから?」

このライオネルのタメ口調の言葉に、ぶっきらぼうに答えるアルバート。

「4,5歳の頃・・・普通に喋った記憶がない。原因など知るもんか。ただ吃るんだ。誰にも・・・治せない」

治療に全く気乗りがしないアルバートにヘッドホンをつけ、大音量の音楽を流しながら、シェイクスピアを朗読させるライオネルの手法に憤慨したアルバートは、室外で待っていたエリザベスを連れて、早々に引き上げてしまった。

そんなアルバートを待っていたのは、実父である英国王ジョージ5世の厳しい説教。

「誰が立ち向かう?ナチ政権とソ連共産党に。お前だろ?兄に代り、お前に演説する機会が増えるぞ」

兄とは、恋を愉悦し、恋に生きる自由人のエドワード(画像)のこと。

メディアに「王冠を賭けた恋」として揶揄された、米国女性ウォリス・シンプソンとの恋愛騒動で、王位を捨てたエドワード8世その人であるが、些か辛辣でありながらも、物語のテーマと関与する部分に限定されて描かれていたのは当然であろう。

それをパパラッチの如く、単なる俗流好奇心の筆致で執拗にフォローしていったら、確実にドラマの内実が拡散・希釈化され、討ち死にしたと思われるからだ。

ともあれ、厳格な父は、心のどこかで、派手な女性遍歴を止めず、政治に無関心なエドワードより、吃音症に悩むアルバートの生真面目さに期待しているように見える。

だから、アルバートに負荷されるプレッシャーは、日々に増幅されていくのである。

父の前で、項垂(うなだ)れるばかりのアルバート。

演説原稿を読むが、一向に治らない吃音症。

「読むんだ!」

怒鳴るだけの父。

そんな折り、ライオネルから提供された自分の録音テープを聴いて、アルバートは驚嘆した。

大音量の音楽の洪水の中で、「ハムレット」の台詞を吃らないで読んでいたのだ。

自分の声が吃ることなく、滑舌も良く、流暢に話すことができていたのである。

以下の稿で、その辺りの心理的文脈を考えてみたい。



3  吃音 → 緊張 → 吃音症状の増幅、という負の連鎖の構造性。



緊張 → 吃音 → 緊張の負の連鎖。

正確には、吃音 → 緊張 → 吃音症状の増幅、と言い換えた方が本質を衝いているだろう。

そんな中で起こった「奇跡」。

大音量の音楽の洪水の中での、相応の滑舌の成就という出来事だ。

そのことが意味している心理的文脈は自明である。

即ち、大音量によって自分の朗読の語りが掻き消されることで、その語りを特定的に聴き取る者が存在しない状況下では、ごく普通の会話が可能になるということを意味している。

それは、逆に言えば、自分のスピーチを特定的に聴き取る他者の前では、それが困難になるということ以外ではない。

それ故、自分のスピーチを特定的に聴き取る他者の視線が媒介されることによって、自分の思いを表現することが叶わないのである。

対他意識を特段に発現しない、特定他者の視線が希釈化されている状況下では、アルバートの吃音もまた希釈化されるのだ。

言わずもがなのことである。


だから彼は、二人の無邪気な娘や、夫への受容感度が高く、包容力のある妻の前では、それほど吃音障害が目立たないのである。

加えて、アルバートは特定他者に対して、激しい感情を噴き上げるときにも吃音障害が発現しないのだ。

これは、憤怒の感情が、特定他者への視線の恐怖よりも勝っているからである。

自然に噴き上がった憤怒の感情が、特定他者への視線を意識する「間」の形成を遮断してしまうのである。

然るに、憤怒の感情の情感的サポートがなければ、自分の言語表現を特定的に聴き取る他者の視線と無媒介に対峙してしまうから、その視線が鋭利になるほど、彼の吃音もまた「凄惨さ」を極めてしまうのだ。

アルバート個人に関わるその現実は、彼の吃音障害が、自分の言語表現を特定的に聴き取る他者との関係の中で生まれる、緊張感の強度のレベルによって支配されていることを意味している。

まして、アルバート個人を囲繞する関係構造が、世界史的に甚大な影響を与える〈大状況〉に呑み込まれた中で、殆ど寸分の誤謬が許されない「戦争スピーチ」を義務付けられるという〈状況性〉こそ、シャイなキャラクターという、自己像に関わる鎧(よろい)の脆弱さを意識することで、必要以上に武装する彼にとって、過緊張による吃音障害の強度を最も高めてしまうということ。

何より、これが厄介だったのである。

緊張とは、予想される事態の出来に対する、自我の過剰な反応形成の状態であると言っていい。

緊張状態が延長されていくならば、心拍数が上昇し、脈拍も高まる。

生存・適応の恒常的安定の中枢を司る自我が、「予期恐怖」(心配症)の意識に搦(から)め捕られることによって、自分の近未来に対する不安や恐怖を増幅させていくと、〈私的状況〉のコントロールが困難になり、吃音恐怖を強めるという悪循環が形成されていく。

「やっぱり、来たぞ」

こんな意識がべったりと張り付いてしまうことで、吃音 → 緊張 → 吃音症状の増幅という負の連鎖が強化され、そこに、「何をやってもダメだ」という諦念が生まれてしまえば、もう容易に、この袋小路のトラップから抜け出せなくなってしまうだろう。

この負の連鎖の心理構造の中で由々しき事態は、緊張するから吃音になるのではなく、 吃音だから緊張するということ。

この把握を無視し得ないのである。

今や、自我が、プレッシャーによって雁字搦(がんじがら)めにされてしまうのだ。

私の定義によると、プレッシャーとは、「絶対に失敗してはならない」という意識と、「もしかしたら失敗するかも知れない」という、二つの矛盾した意識が同居するような心理状態である。

そのため、固有の身体が記憶した高度な技術が、〈状況〉の中で心地良き流れを作り出せない不自然さを露呈してしまうのだ。

この二つの矛盾した意識が自我の統括能力を衰弱させ、均衡を失った命令系統の混乱が、恐らく、神経伝達を無秩序にさせることで、身体が習得したスキルを淀みなく表出させる機能を阻害してしまうのではないか。

そう思うのだ。

生理学的に言えば、自分のスピーチを聴き取る他者の視線を過剰に意識することによって、自律神経の司令塔である視床下部(自律神経系の高次中枢の機能に関与)に貯留したストレスが、副腎皮質刺激ホルモン(ストレスから身を守るように働くACTHのこと)の分泌を促し、これがストレスホルモン(コルチゾール)となって呼吸の顕著な乱れを惹起させていく。(画像は、脳内での視床下部の位置。赤色で示す領域が視床下部/ウイキ)

同時に、間脳に位置する視床下部は交感神経を刺激させ、発汗作用を促す。

更に脳内では、この視床下部から記憶中枢の海馬(短期記憶に関わる大脳辺縁系の一部)に情報が伝播し、封印したい忌まわしき記憶が噴き上がってきて、益々、不安を増幅させていく現象が起こるのである。

恐怖心が発生するのだ。

「もしかしたら失敗するかも知れない」という意識が、「絶対に失敗してはならない」という意識によって寸止めにされるので、吃音 → 緊張 → 吃音症状の増幅という、負の連鎖が強化される悪循環から解放されなくなってしまうのである。

それこそが、負の連鎖の構造性である。



4  「私に向かって指図するな!」 ―― 溶かし切れない「身分の障壁」を突き抜けた「友情」の砦 ―― 物語の梗概②



録音の一件で、ライオネルを再訪したアルバート。

再び、ライオネルの指導のもとで、レッスンに励むアルバートだったが、特段に「奇跡」を期待しているようには見えない。

そんな折り、父のジョージ5世が逝去し、兄のエドワード8世が即位するが、前述したように、アメリカ人であるシンプソン夫人との許されざる結婚を求めていたエドワード8世は、「王冠を賭けた恋」を選択するに至り、どうしてもそれだけは回避したかったはずの、王位に就くアルバートの繊細な自我は、今や、自分に負荷される心理圧に押し潰されそうになる。

案の定、大切な王位継承評議会のスピーチで、またしても頓挫する始末。

アルバートにとって、益々、ライオネルの存在だけが頼りになっていく。

まもなく、ライオネルの存在に身も心も預ける程の信頼関係を築いたアルバートは、封印されていた自分の過去の記憶を解き放っていく。

左利きの矯正や、下肢が外側に曲がる外反膝(がいはんしつ)、所謂、X脚の矯正の際の辛さ。

「金属の補正具を・・・昼夜、装着させられた・・・」

本人の吐露の一端である。

矯正用のギブスの装着の痛覚の記憶は、アルバートにとって、余程、屈辱的だったのだろう。

更に、社交的な兄との比較によるコンプレックスに悩まされた例に、兄を贔屓(ひいき)する最初の乳母から受けた差別。

「食事を与えてもらえない。いつまで待っても・・・」

洞察力に抜きん出たライオネルの的確なサポートを得て、歌うことなしに語れないアルバートが、そこにいた。

言語障害である吃音症が、アルバートのケースのように、幼児期の厳格な教育との因果関係のうちに発現する事態の一例が垣間見えるエピソードである。

ともあれ、この告白がもたらした心理的なバイプロダクト ―― それは、「平等だが、対等ではない」(注)二人の男の関係の最近接の現象でもあった。

まさに、アルバートのケースは、過去の忌まわしき経験が失敗記憶に累加されていって、それらが、幼児期の不安を増幅させる典型的パターンである事実を知り、そこに、ライオネルとの「秘密の共有」が成立したのである。

後述するが、「秘密の共有」こそ、ある意味で、「友情」の構成要件の肝となるものであると言っていい。

アルバートの告白と、それを受容するライオネル(画像)との関係が、「平等だが、対等ではない」という形式的枠組みを保持しつつも、その心理的関係において、「友情」の肝となる辺りまで最近接していったという把握は誤謬ではないだろう。

この「秘密の共有」によって、心理的に最近接していった二人の情感が溶融していくことで、アルバートの自我に負荷された心理圧が、一定程度、希釈化されていく。

この現象が、アルバートの自我に巣食う負の連鎖の構造性を変容させていったのである。

しかし、負の連鎖の構造性の変容のプロセスには、当然ながら紆余曲折があった。

「友人の意義は?」

アルバートに問うライオネル。

「私には分らない」

それが、アルバートの身も蓋もない答え。

王子の孤独が窺える。

心からの友人を持ち得ない王子の孤独に、負荷される一方の心理圧。

そんな王子の人間性を評価するライオネルは、王子にとって、最も触れられたくない難題に切り込んでいくのだ。

「私は兄が王座に留まるように努める」

アルバートの本音である。

「あなたがなったら」とライオネル。

明らかに、「平等だが、対等ではない」という形式的枠組みを超えた「越権行為」である。

だから、当然の如く、アルバートを怒らせた。

「兄の代りは御免だ」
「彼以上の・・・」
「不敬なことを!反逆罪だぞ」
「いい王になれる。恐れに負けてはいかん」

無視して立ち去っていくアルバート。

そんな王子の後方から、執拗に「越権行為」を表現するライオネル。

「何を恐れる。なぜ、私の元に来た?喋りを治すためだろう」
「私に向かって指図するな!」

ライオネルを平民と馬鹿にして、立ち去っていくアルバートにとって、プライドラインに侵入してきた男の「越権行為」は、「秘密の共有」によって心理的に最近接していった二人の情感の溶融によっても、溶かし切れない「身分の障壁」だった。

その溶かし切れない「身分の障壁」を逆手に取って、見事な「教育的治療」を具現した、印象的な二人の会話がある。

トレーラー(映画の予告編)でも紹介されていた有名な会話である。

王の椅子に踏ん反り返るライオネルを視認して、激怒するアルバート。

「それは王の椅子だ!」
「たかが椅子だ」
「話を聞け!」
「なぜ、あなたの話を?」
「伝えるべきことがある!」
「それでいいのです」

伝えるべき仕事を有するのが、「英国王の絶対的使命」であるということ。

ライオネルの「越権行為」のメッセージは、それ以外ではなかった。

この微妙な距離の出し入れを、機知に富んでいるものの、決してゲームに流さなかった二人の男の真摯さが、最後まで繋いだ「友情」の砦となっていくのである。


(注)正確には、産まれ持った能力においては不平等だが、人間としての基本的人権においては平等であると同時に、拠って立つ地位・立場・役割においては対等ではない、という意味で使用。



5  「試練の道を乗り越えるのだ」 ―― 「防衛的大義」でしかなかった脆弱なものが「攻撃的大義」に変容した瞬間 ―― 物語の梗概③



吃音症に関わる負の連鎖の構造性の変容の中で、「王冠を賭けた恋」を選択した兄のエドワード8世に代り、今や逃げられない状況下にあったアルバートは、本来的な責任感の強さから、ウェストミンスター寺院において、王位への就任を宣明する儀式である戴冠式を執り行い、王位に就くに至った。

一介の海軍士官に過ぎなかった王子が、ジョージ6世となった瞬間である。

既に、この時点でライオネルの素性を知っていたアルバートは、「ドクター」の資格を有しないパートナーを受容した。

それは、二人の心理的関係において必然的な流れ方だった。

溶かし切れない「身分の障壁」を突き抜けた「友情」の砦の堅固さが、「平等だが、対等ではない」という形式的枠組みを超えて、「秘密の共有」によって心理的に最近接していった、二人の情感の溶融濃度の高さが検証されたのだ。

「やがて世界は、絶望的な二度目の戦争に突入するでしょう。ヒトラーの狙いは戦争でしょう。この危機のときに、陛下を残して残念です。心から恐れています。陛下に最大の試練が訪れることを」

これは、時の保守党政権の首相、スタンリー・ボールドウィンの言葉。

1937年のことだ。

1938年のミュンヘン協定で頂点に達した、ナチ政権への宥和政策を招来させた、チェンバレン(保守党)への政権交代が具現したが、見事に頓挫したのは周知の歴史的事実。

物語のラストシーン。

今や、破竹の勢いにある、「第三帝国」率いるヒトラーの野望の稜線が伸ばされて、ナチス・ドイツとの開戦直前の不安定な国情を抱えた英国は、長期間にわたる塹壕戦という名の消耗戦が登場し、機関銃の大規模運用や毒ガスまでが使われた、人類史上最初の世界大戦であった、第一次世界大戦の惨状の記憶が生々しい国民の不安を鎮めるためのみならず、侵略と戦う「攻撃的大義」を奮い起こさせる強靭な意志による結束が求められた。

英国首相チェンバレンの、対ドイツ宥和政策の頓挫を知る多くの国民は、もう回避し得ない戦争を覚悟し、英国王の力強い言葉を待ち望んでいたのだ。

このような揺動激しい背景を全人格的に受け止めた、ジョージ6世の世紀のスピーチが開かれた。

「我々は戦うことを余儀なくされた。異なる主義の国家の持つ挑戦を受けたのだ。もし、それが勝利すれば、世界史のあらゆる文明秩序が危機に瀕する。そのような主義から全ての虚飾を取り払ったら、その本質はただ単に、力だけが正しいという原子的なものでしかない。我々にとって大切なものを守るため、その挑戦を受けて立たないことなどあり得ない。この高潔な目的のため、私はここに求める。国内にいる我が民。海外にいる我が民。全ての国民たちよ。大義を抱いて欲しい。そして冷静に、毅然として団結して欲しい。試練の道を乗り越えるのだ」

それは、「防衛的大義」でしかなかった脆弱なものが、人の心を動かすに足る、「攻撃的大義」に全人格的に変容した瞬間だった。

一貫してオーソドックスな映像は、最初は拙劣な印象を拭えなかったが、眼の前で助言するライオネルのサポートを必要としたものの、スピーチの草稿の内実に「攻撃的大義」を読み取ったことで、情感投入し得た英国王の思いが乗り移る変容を映し出し、それが、国内各地で真剣に耳を傾ける国民を鼓舞するに至る成功譚を、大真面目なカット繋ぎの中で具現したのである。

大演説の重荷を果たした英国王が、バッキンガム宮殿(画像)のバルコニーから、自国民に手を振る予定調和の勇姿のうちに括られていくラストカットは、観る者の心に届き得る感銘を齎(もたら)したと言えるだろう。



6  「『リーダーの使命感』・『階級を超えた友情』・『善き家族』」という、「倫理的な質の高さ」を無前提に約束する物語の面白さ



この「英国王のスピーチ」のうちにピークアウトに達した物語を、総括的に要約すると、こういうことだろう。

即ち、相対的な意味で、個人史的な煩悶の枠内で収まっていたに過ぎない吃音症という、幼児期に淵源(えんげん)するトラウマに起因する言語障害のコンプレックスが、「英国王の絶対的使命」という巨大な呪縛に搦(から)め捕られることによって、今や、個人史的な煩悶の枠内で収まり切れなくなった自我に負荷される、「英国王の絶対的使命」に関わる圧倒的な心理圧を、「善き友」の、豊富な経験則に根差した的確なサポートを得ることで希釈化され、その「善き友」との良好な関係の中で、件の心理圧を共有し得た特筆すべき成功譚であると同時に、そこで貯留された由々しきコンプレックスの負の情報群が、単に、「防衛的大義」でしかなかった脆弱な内的防波堤を突き抜けて、人の心を動かすに足る「攻撃的大義」にまで、特段の違和感なく情感投入し得たことで、言語障害に起因するコンプレックスを昇華させた物語 ―― それが、本作についての私の基本的把握である。

過緊張を解(ほぐ)すに足る、「善き友」の世俗的・日常的感覚の緩やかな挿入によって解放された自我が、いつしか見事なまでに自己のサイズに見合った律動感を手に入れることで、負の記号の巣窟であったプレッシャーの岩塊を削り落していく。

その律動感の中で、自然裡に、「攻撃的大義」の情感世界に自己投入することに成就したということ。

何より、一貫して対等な関係性を保持することで、身近に「心を通わせる友」のいない、特別な立場に置かれた男の空洞感を、世俗的・日常的感覚の緩やかな身体表現を繋ぐ「善き友」が、幼児期に淵源するトラウマに起因する言語障害のコンプレックスの中枢にまで入り込んで、特別な立場に置かれた男が貯留した内的世界の疼(うず)きを拾い上げ、浄化させることに成就したこと。

それが、決定的に大きかった。

「本作が、社会での人々の平等についての物語」

授賞式で語った、トム・フーパー監督(画像)の言葉である。

一貫して対等な関係性を保持することを心がけたライオネルと、差別のターゲットになりやすい言語障害で煩悶する、特別な立場に置かれたアルバート=ジョージ6世が、それを内奥で許容した関係を通して提示された作り手のメッセージは、充分に了解可能だが、物語の視野には、前述したように、「英国王の絶対的使命」という巨大な呪縛に搦(から)め捕られた者の内面の懊悩にまで及んでいたことで、本作が、フラットな「魂の救済譚」の範疇に収斂し切れない深みを表現し得たと言えるだろう。

それ故、「英国王の絶対的使命」を果たしていったという心理的文脈こそ、この物語の肝であるとも言えるのだ。

だから、主人公を演じたアルバートの内面描写の構築度のうちに本作の成否の全てがかかっていた。

英国王室への配慮があったのか、言語障害の背景となった児童期のトラウマを、「秘密の共有」に至るライオネルへの「告白」というエピソードで流したとしても、それ以上に説明的な描写を挿入しないオーソドックスな手法によって、アルバートの内面描写がほぼ達成できたと評価できたから、シンプルな物語で繋いだ本作が成就し得たと思われるのである。

最後に一言。

この映画が、アメリカ人に受け入れられた理由は自明であるように思う。

ナチス・ドイツという「絶対悪」に対する「攻撃的大義」を推進力にして、「逃避拒絶」(覚悟)と「恐怖支配力」(胆力)を果たしたリーダーの使命感が、苦闘の末の「奇跡の逆転譚」に収斂される、アメリカ人好みのシンプルな物語のうちに感動的にまとめられていたこと。

そこに、「親愛」、「信頼」、「礼節」、「援助」、「依存」、「共有」という構成要件を持つ、階級を超えた「友情」の感動譚と、「善き夫」に尽くす「善き妻」、更に、「素直で可憐なる子供たち」によって構成される「善き家族」という、「倫理的な質の高さ」を無前提に約束する由々しきエピソードが張り付いていたこと。

これに尽きるだろう。

しばしば、「先祖返り」志向が機能するかのような、アメリカ人のバランス感覚がそうさせるのか、良かれ悪しかれ、それらは少なくとも、アメリカ人が最も好むストーリーラインの一つであるからだ。

そう思う。

(2012年2月)

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