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2013年4月7日日曜日

アーティスト(‘11)       ミシェル・アザナヴィシウス



男の「プライドライン」の戦略的後退を決定づけた、女の援助行為の思いの強さ>



1  今、まさに、防ぎようがない亀裂が入った「プライドライン」の防衛的武装の城砦



特定のフィールドで功なり名遂げた者が、そのフィールドで手に入れた肯定的自己像を放棄することが困難であるのは、その者が拠って立っていたフィールドの総体を否定することに繋がるからである。

フィールドの否定は、自己否定に繋がる。

その自己否定によって更新される心理的文脈を通して、心地良き既成の自己像を革命的に変容させていくモチーフが内側に累加されていて、それが新たな肯定的自己像を立ち上げていくプロセスを包括的に保持し、その心的行程それ自身を認知するならば、人間は、いつでも変わることができるだろう。

しかし、特定のフィールドで功なり名遂げた者が手に入れた、その肯定的自己像の自我の中枢に、それを相対化する何ものもないほど、快楽の記憶が存分に詰まっているならば、既にその自我には、そこで形成された「プライドライン」が堅固な城砦を巡らせてしまっている。

この「プライドライン」という奴が曲者なのだ。

人間は皆、どこかでそれだけは守りたいという「プライドライン」を、人には見えにくいバリアを内側に張り巡らせて、日々、呼吸を繋いでいる。

張り巡らされた「プライドライン」は、拠って立つ自我の防衛的武装の城砦と化しているので、それを戦略的に撤退させていくのは極めて難しいのだ。

まさに本作は、堅固な「プライドライン」を構築してきた男が、功なり名遂げたフィールドの自壊の危機に晒されることで、男の人生の総体が激しく揺動し、それでもなお捨てられない、形成的な肯定的自己像との深刻な葛藤を描き切った物語である。

男の名は、ジョージ・ヴァレンティン(以下、ジョージ)

「サイレントの大スター」。

これが、サイレントという特定の文化前線で、ジョージが手に入れた肯定的自己像の全てである。

その自己像には、ジョージの半生を通して紡ぎ出し、辿り着いた、「アーティスト」という、特段の価値を有する概念に収斂される矜持が集合しているから、彼にとって、それだけは絶対に手放すことができない全人格的な財産なのだ。

それを手放したら、全てを失うというところにまで膨れ上がった、「プライドライン」の防衛的武装の城砦が、今、ジョージの喉元を切っ先鋭く突き付ける、トーキーという名の鮮度の高い文化が浸蝕してくるが、男は意地でも、サイレントへの拘泥を捨てることはなかった。

「サイレントの大スター」ジョージと、ファンのペピー
サイレントを捨ててしまったら、肯定的自己像が自壊してしまうからである。

以下、その辺りを切り取った、映画会社・キノグラフ社の社長と決別する簡単な件(くだり)である。

「大衆は声を聞きたがっている。新鮮さを求める大衆こそ、常に正しい」と社長。
「僕のファンは声など求めないさ。君はトーキーを作れ。僕は自力で名作を撮るから」とジョージ。

これだけだった。

トーキーという鮮度の高い文化に全く振れることのないジョージには、「サイレントの大スター」という幻想に酩酊できるほどに、「アーティスト」という「プライドライン」に収斂される以外の何ものもない、合理的根拠の希薄な余裕があった。

「観客が私の声を求めてるの。演技を誇張する昔の役者に飽きたのね。“老兵は去り、後進に道を譲るべし”それが人生よね」

これは、ジョージに憧憬して、ハリウッド入りし、今や、飛ぶ鳥を落とす勢いで、トーキーの売れっ子女優になっていたペピーの言葉。

彼女には他意がなく、落魄しても、サイレントに拘泥するジョージへの尊敬の念を失っていなかった。

そのペピーの言葉を、同じレストランの傍らで聞いていたジョージは、「どうぞ、譲ったよ」と捨て台詞を残して去っていった。

「さらば、ノーマ。この愛も終わる」

これは、ジョージが倒産の危機を覚悟して製作・主演した、「愛の涙」というサイレント映画のラストシーンでの台詞。

恋人との愛の終焉を告げるこのカットは、砂地獄に呑み込まれていくジョージの心境を能弁に語っていた。

「愛の涙」を上演する、客の入らない劇場を視界に収め、悄然たる後ろ姿を残して去っていくジョージと、その劇場の一画で、嗚咽しながら映画を観るペピーがいた。

それは、ジョージの「プライドライン」の防衛的武装の城砦に、今、まさに防ぎようがない亀裂が入った瞬間だった。



2   男の「プライドライン」の戦略的後退を決定づけた、女の援助行為の思いの強さ



落魄の身を実感したジョージが流れ込んだ世界には、もう、復元力を失った者の悲哀が晒されていた。

泥酔状態で、自らが主演したサイレント映画のフィルムに火を放つジョージ。

逃げ場のない状況での火事騒ぎ。

それは、ジョージの自壊行為の一つのピークアウトだった

娯楽映画の定番で、愛犬によって救われた男の命は、彼を慕うペピーによって保護されるに至る。

ペピーの邸宅で、束の間の安寧を手に入れるジョージ

そこには、ジョージへの献身性において一貫して変わらない、かつてのお抱えドライバーのクリフトンがいた。

そんなジョージに手渡された、一冊の脚本。

トーキー映画への共演を願う、ペピーの計らいによるものだ。

拒絶するジョージ

一切を失ったジョージ「プライドライン」は、こんな状況下でも壊れ切っていないのだ。

壊れ切っていない「プライドライン」を侵蝕する出来事 ―― それは、オークションに出したジョージの全ての財産を、ペピーが買い取っていた事実を知ったこと。

決定的に傷ついた男は、女の屋敷を離れ、街を彷徨する。

とある洋服店の、ショーウインドーのガラス越しに目視したタキシード。

「サイレントの大スター」の物理的シンボルに憧憬するペピー
それは、「サイレントの大スター」であった男の物理的シンボルだった。

それを、うっとりと眺め入るジョージの頬が緩むとき、自分の思いがなお、洋服店のショーウインドーの中で、眩く輝く心地良さに届いていた。

その直後の映像は、ジョージを横目で視認した警官が、何やら、長々と語り尽くすシーン。

映像は、この由々しきカットに字幕を挿入しなかった。

ジョージが、拳銃で自殺未遂を起こしたのは、その直後である。

間違いなく、警官の放った言葉が、ジョージ「プライドライン」を決定的に侵蝕する内実を持っていたことは読み取れるが、これについて後述する。

ジョージには、もう帰る場所がないのだ。

だから、火事騒ぎで、すっかり朽ち果てた我が家に戻る。

一方、ジョージの不在を知って、必死の形相で、馴れない車を飛ばして、男の廃屋に駆けつけるペピー

予定調和の娯楽映画は、ペピーによって、間一髪で助かったジョージの、全身から力が抜けて、ぐったりした相貌を映し出す。

男は女を恨んでいる訳ではないのだ。

ただ、今や、肯定的自己像を自壊させた絶望感が、そこにしか振れていかない世界に拉致されてしまったのである。

「私に任せて」

ペピーの言葉だ。

ジョージに対する、ペピー援助行為の思いの強さが、頑な男の心を溶かしていく。

ペピーが提案したものとは、「サイレントの大スター」だったジョージの得意とする、タップダンスを売りにした、ミュージカルの共演の提示だった。

タップダンスを踊る男と女の、華やかなラストシーンのうちにフェードアウトしていく物語の軟着点は、一貫してハリウッドベースの、フランスのロマンティック・コメディである「無声映画」が、「発声映画」と呼称されたトーキーに収束するシーンの、フルスロットルの騒がしき駆動であった。

ジョージ「プライドライン」は、ギリギリのところで守られたのである。

それは、自らが拘泥する「プライドライン」を、澱みなく、戦略的に後退させることに成就したからである。

ジョージ「プライドライン」の戦略的後退を決定づけたのは、そこだけは守り抜きたい男の防衛的武装の城砦にまで、女が降りていったからである。



3  女の援助行動によって守られた、男のプライドラインの欠片
 


「ただこの映画は、古典的なところがある中にも現代性がミックスされている。それが人の心を引き付けたのではないか。ストーリーがシンプルなことも功を奏したと思っている」(東洋経済ONLINE  無声映画でフランス初のオスカー--映画『アーティスト』監督 ミシェル・アザナヴィシウス 2012年5月7日)

私は、サイレント映画という手法を非常に評価している。その魅力は観客側と監督側、二つの側面からいえる。サイレント映画では、説明されることのないミステリアスな部分は観客自身が想像力を駆使して埋めなければならない。それで映画が観客により近しい存在になる。監督の側面からいうと、サイレント映画は映画の純粋型で、せりふがないがゆえに、映画が純粋な形で動くし、画像だけで語られる。文学にも演劇にも頼らない純粋な映画の本質が、生かされる手法だ」同上)

ミシェル・アザナヴィシウス監督
このミシェル・アザナヴィシウス監督の言葉が、本作の全てを物語っていると言えるだろう。

娯楽映画として、ほぼ完璧な映像の成就は、短絡的な懐古主義によって物語を流すことなく、まさに、現代の映像技術の粋と、古典的なサイレントの技巧を巧みに結合させたところにあると思われる。

「説明されることのないミステリアスな部分は観客自身が想像力を駆使して埋めなければならない」というミシェル・アザナヴィシウス監督の言葉は、サイレント映画が高い芸術性を持っていることを示す意図を持って、本作の中で、最も重要な場面で挿入された字幕抜きのシーンのことを指している。

それは、ジョージが拳銃自殺未遂に流れ込んでいったときの、決定的モチーフとなるような警察官の言葉のこと。

あのとき、警察官が何を言ったのか、観る者は、作り手から与えられたこの課題に対して、想像力をフル稼働させねばならない。

文学にも演劇にも頼らない純粋な映画の本質」を経験的に実感するためである。

提示された画像を追っていこう。

既に質入れしていたので、自分のタキシードでないのは分明だが、洋服屋のショーウインドーに飾られていたタキシードを目視し、今や戻るべき場所を失ったジョージが、自らの体を合わせて、小さな笑みを零していく。

男はこのとき、「サイレント映画の大スター」という肯定的自己像が、自分の内側で、なお繋がっていることを確認したかったのだろう。

ところが、その確認を引き裂くような警察官の表情が、そこだけは執拗に、唇だけを大きく映し出し、小気味笑いをするような調子でクローズアップされているのだ。

「あんたの時代はもう終わった」

件の警官が、このような含みを持っていったという印象が強いが、果たして、この警官がジョージのことを、「サイレントの大スター」であったことを認知していたかどうか疑問である。

既に、「サイレントの大スター」であった時代から、3年間も経っているのである。

普通、「サイレントの大スター」を3年間で忘れられてしまうような人物だったら、ジョージの肯定的自己像はあれほど堅固なものになっていなかったとも考えられるが、この警官には、ジョージに対するそのような強い印象が張り付いていなかったと、ここでは解釈しておこう。

従って、このとき、この警官の脳裏に過ぎったのは、ジョージに対する「怪しい人物」という意識であったに違いない。

なぜなら、殆ど衝動的に、ジョージがペピーの邸宅を後にしたときの姿は、火事騒動で救出されたときの出で立ちだったのだ。

当然、「怪しい人物」と見紛われても不思議ではないだろう。

だから警官は、そのようなニュアンスを含んだ言葉を、ジョージに投げかけたのではないか。

要するに、この警官は、自らの職務に忠実なまでの「職務尋問」を遂行したのである。

ジョージは、この警官の振舞いによって、自らの存在が、疾(と)うに、「過去の人物」であったことを否応なく知らされるに至ったのである。

これが、ジョージの自殺未遂の引き金になったと、私は考えている。

しかし、彼は死ななかった。

本作娯楽映画の「予定調和」の流れの中で、人生を反転させていく物語のうちに括られていった点については、既に書いてきた通りである。

言うまでもなく、ジョージの反転の推進力になったのはペピーであった。

―― ここで、自殺について考えてみよう。

人は、なぜ、自殺に向かうのか。    

簡単に言えば、〈私〉の〈生〉の在りように、特別の価値を見い出せなくなったからである。

そこでは、肯定的自己像を一欠片(ひとかけら)も拾えず、命を繋いでいく何ものもない感情に捕捉されてしまっているのだ。

自分の存在を心から必要とする人物も、その視界に収められなければ、自殺の既遂が、家族や知人に対して及ぼす心理的影響への重圧からも解放されているだろう。

―― ここで、ジョージのケースを勘考してみよう。

ジョージが、〈私〉の〈生〉の在りように、特別の価値を見い出せなくなったのは事実だろう。

然るに、彼には、自分の存在を決定的に必要とする人物がいたのだ。

クリフトン
警官から「怪しい人物」と見紛われる程に、「サイレントの大スター」という肯定的自己像を失ってもなお、自分に対する献身的な援助行動に振れる存在がいたこと ―― それはペピーのみならず、かつてのお抱えドライバーのクリフトンであり、更に加えて言えば、彼の命を救出した愛犬である。

この「三者」の存在が、ジョージの心に、一陣の涼風を吹き込んだのである。

中でも、ペピーの存在が決定的な役割を果たしたことは、言うまでもない。

ジョージ対する彼女の、必死な思いを推進力にする献身的な援助行動は、本作の生命線であった。

ジョージに対する、ペピー援助の思いの強さが、頑な男の心を溶かしていく物語の基幹ラインとなって、観る者の思いをも浄化させたのである

観る者が、彼女に感情移入することで、この娯楽映画は自己完結に向かうのだ。

要するに、「サイレントの大スター」という男のプライドラインの欠片が、ペピーの援助行動によってギリギリに守られたのである。


【余稿】 安直に懐古主義に振れていく欺瞞性について

―― 最後に、もう一度、私自身の鑑賞ポイントを確認することで、安直に懐古主義に振れていく欺瞞性について、【余稿】として書いておきたい。

本作は、「この映画は、古典的なところがある中にも現代性がミックスされている」という作り手の言葉によって語られているように、サイレントの良質な達成点が、トーキーの映像のうちに昇華されていくラストシークエンスのうちに表現されている括りを見れば、短絡的な懐古主義によって読み解くべきではないということは瞭然とするだろう

だから、「行き過ぎた文明社会に暮らす僕たちの、原初の状態に戻ろうという渇望から生まれた映画ですよ」(朝日新聞デジタル:映画「アーティスト」の魅力とは 大林宣彦×中野翠 2012年4月13日)などと言う大林宣彦監督の言辞や、「技術の進化で得たものよりも、失ったものの方が大きい」と言い切る中野翠の、根拠なき物言いを眼にすると、いつもながら、「やれやれ」という気分になってくる。

失ったものの大きさ」を、明瞭な論拠を挙げて説明しても、せいぜい、「物は溢れ、生活は豊かになったが、心の豊かさを失ってしまった現代の状況」(レビューより)というような決めつけをする「感覚的論拠」に流れるのが自明だから、「抗生物質がないところにも住めない」と言い切るウディ・アレン監督の指摘(「ミッドナイト・イン・パリ」でのインタビュー)によって、立ち所に破砕されてしまうレベルの床屋談義でしかないのである

「欲望の開拓」によって開いた「文明」批判をする覚悟があるならば、まず、「自分自身を総括し切る」ことである

その人たちは、「進歩」なしに、本気で、人類が、その固有の軌跡を辿ることが可能だったと考えているのか。

甘いものを散々摂取してきた私たちができ得るのは、明日に繋がる、「今日」という時間を、どれほど丁寧に生きていけるかというその一点のみであって、それ以外ではない。

私たちはそこに辿り着きたいと、どこかで思っていた場所に本当に辿り着いたのであり、これからも、新たな地平を開いていくだろう。

だからと言うべきか、その辿り着いた場所を壊してまで、戻りたい場所があるはずがないのである。

 仮に、そのような者がいたとしたならば、その者は決して、私たちが辿り着いたこの場所で心地良く共存している訳がないのだ。

だから、奇麗事で塗りたくった中身のない言辞を吐き散らすのは、もう止めた方がいい。

私たちは常にどこかで愚かであり、醜悪であり、あまりに不完全なるホモ サピエンスでしかないのである。

それは、私たちホモ サピエンスの宿痾(しゅくあ)であると言っていい。

ついでに書くが、都市生活者が身近な距離に住む者の不幸に鈍感でいられるのは、その者との心理的、且つ、生活的な距離感が隔たっているからである。

そして、そのことによって他人の不幸が自分の不幸に直結しないという現実 ―― この把握が何より重要なのだ。

  同時にこのことは、私たちが、より豊かな生活と私権の拡充を求めて、半ば確信的に壊してきた村落共同体の社会において、その成員が、他者の不幸の現実に寄り添うことができたのは、まさに他者の不幸が自分の不幸に直結してしまうからであることを示している。

だから人々は、皆、「優しかった」のであり、過剰なまでに、「他人のプライバシーの中に侵入してきた」のである。

 この社会が今、もうこの国では殆ど絶え絶えになっているということ ―― その認知こそが、ここでは重要なのだ。

都市生活者が常に冷淡であるという把握は、事態の本質を無視する、極めて乱暴な議論という外にないのである。

(2013年4月)

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