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2016年4月19日火曜日

海にかかる霧(‘14)   シム・ソンボ

左からワノ機関長、カン船長、チャンウク、ドンシク、ホヨン甲板長、ギョング

<悲劇の円環性 ――  その救いようのない海洋密室劇>



1  日の出と共にに沈降していった、海霧の中で炙り出される男たちの「野生合理性」




麗水(ヨス・全羅南道東南部の沿海部に位置する)で漁業を営むカン船長が、中国からの朝鮮族の密航(中国から韓国に運ぶ違法行為)を引き受けたのは、近年の深刻な漁業不振によって、アンコウ網で稼いできた時代が終焉し、漁船チョンジン号が廃船になる危機を打開するためだった。

「アジア通貨危機」(1997年)によって、国家破綻の経済危機に見舞われた韓国が、屈辱的なIMF管理体制下に置かれた時代が背景になっている。

「これで稼げば、機関室も全部、修理できる」

前金を船員たちに配りながら、5人の船員の前で語るカン船長の言葉である。

かくて、夜明け前の悪天候の中で、朝鮮族の密航をチョンジン号に、次々に乗り込ませていく。

その密航者の中にいた若い女が、どす黒い海に転落する。

その女・ホンメを救ったのが、26歳の若い乗組員のドンシクだった。

一人の女性密航者を介抱し、援助するドンシク。

その間、船を止め、ずぶ濡れの体を乾かすために、密航者たちを甲板に座らせるカン船長。

6年前に韓国に行って、消息が分らない兄を探すために、ホンメは密航者になったという事情を、暖かい機関室内でドンシクに話し、二人の心理的距離は近接していく。

「韓国で肉体労働すれば、中国の10倍は稼げるんです」

そこだけはホンメと切れ、この小学校教師の言葉が、密航者たちの違法行為の背景にあった。

そんな密航者たちを狭い魚艙(ぎょそう/漁獲物を収納する場所)に閉じ込めることになったのは、韓国の巡視船が出現したからである。

魚艙に入ることを拒絶する一人の密航者を徹底的に殴りつけるカン船長は、海に放り込むことをホヨン甲板長命じるのだ。

一瞬、躊躇(ちゅうちょ)するホヨンは、3人がかりで、その密航者を海に放り込み、殺人的行為を遂行するが、魚艙に閉じ込もるという条件をつけ、ワノ機関長の指示で、ドンシクが救命浮き輪を投擲(とうてき)した。

これが全ての始まりだった。

「船では、俺が大統領で父親だ!貴様らの命は俺が握ってる。忘れるな!」

このカン船長の居丈高(いたけだか)な恫喝によって、密航者たちは魚艙に閉じ込もるが、ただ一人、ホンメを機関室に匿うドンシク。

借金漬けの生活を送っているが、ワノ機関長がドンシクと親しい関係にあるので、ホンメを匿う許可を得るのだ。

「機関室では、船長よりおじさんの方が偉い」

この言葉が、船員たちの優劣関係の微妙さを示唆している。

そんな二人が、ソウルでの再会を約束する関係に発展していくのは、殆ど自然の流れだった。

かくて、巡視船からチョンジン号に、見知りのキム係長が乗り込んで来る。

網の大きさまで点検され、異音が聞こえる魚艙を開けようとするキムに対して、攻撃的感情を剥(む)き出しにするカン船長を目の当たりにしたキムは、ワイロを受け取って去っていく。

悲劇が起こったのは、その直後だった。

冷凍機のフロンガスが爆発したのである。

チョンジン号の船員たちがそこで見たのは、密航者たちの死体だった。

フロンガスの爆発が原因だった。

「まだ、生きている人がいる」と言うドンシクの言葉を無視して、カン船長が採った選択は、ガスを抜き、全員が魚艙に入り、遺体を引き上げさせ、密航者たちの身分証明書を廃棄し、彼らの遺体を切り刻み、それを魚の餌にするために海に放擲(ほうてき)するという、おどろおどろしい行為だった。

「一つでも陸に流れ着いたら、俺たちは終わりだ」

この船長の命令に逡巡(しゅんじゅん)する他の船員たちに対して、ホヨン甲板長は言い切った。

「船長の命令には従わないと。痛くも痒くもないさ」

ドンシクとワノ機関長
それでも命令に従えないドンシクを救ったのは、ここでもワノ機関長だった。

女好きのキョングがドンシクに攻撃的になるが、それを止めたのはホヨン甲板長。

「もう一人の女がいたはずだが…」と、常に女に餓えているチャンウクは言葉を挟むが、「早くやりましょう」というドンシクの督促で、機関室にいるホンメの存在は問われることなく済む。

ホンメを救うためにのみ、ドンシクもこの作業に参加するのだ。

事件の全貌を視認し、衝撃を受けるホンメ。



一貫して、罪の意識に苦しむワノ機関長。

極限状態が、自らが置かれた立場の微妙な違いの中で、6人を追い込んでいく。

狂気に捕捉され、煩悶するワノ機関長を殺害するカン船長。
一切をカン船長に転嫁するホヨン甲板長。

「俺の命に代えてでも、必ず、お前を陸にあげる。九老(クロ/ソウル西部)へ行くんだ」

ドンシクの言葉である。

ホンメ
守るべきものを持つこの若者だけは、狂気に捕捉されることがない。

しかし、他の3人の船員は、とうにモラルが壊れている。

ワノ機関長の死を知るキョングは、機関長の持ち金を盗み、機関長を代行するチャンウクは、兄貴と呼ぶキョングの上前をもらえず、不貞腐(ふてくさ)れるばかりだった。

そのチャンウクが機関室で、ホンメを発見し、「女を隠していやがった!」と残りの3人に報告することで、若い二人は最大のピンチを迎える。

「この子は何も知らないんです。それに、嫁にするんです。通報なんかしませんよ」

既に、誰も信じていないように見える船長は、このドンシクの必死の弁明から、ホンメが全ての秘密を知っていることを確信し、ホヨン甲板長にホンメの殺害を命じるのだ。

カン船長に、その殺害を止めるように懇願したのはチャンウクだった。

この男には、女と自由に交接するキョングの分け前に預かろうと、常に女の臭気を求めているのである。

ホンメを助けるために必死に動くドンシクと揉(も)み合いになって、ホヨンが甲板上で事故死したのは、その直後だった。

そのドンシクが韓国の海洋警察に連絡するが、船長らに捕捉され、魚艙に封じ込められてしまった。

その魚艙に忍んでいたホンメと抱き合い、辛うじて、命脈を保つドンシク。

そこにキョングが降りて来て、ドンシクと格闘するが、チャンウクによってキョングが殺害されるに至る。

その心理は、「自分の獲物」であると信じるホンメを横取りされる行為へのリベンジであると言っていい。

今度は、「自分の獲物」を獲得したと信じるチャンウクをスコップで倒したドンシクが、そのチャンウクを魚艙に閉じ込め、ホンメを抱きかかえ、最後の決戦に挑む。

カン船長との闘いである。

機関室の床に穴を空けたドンシクは、船内に水が溢れる中、カン船長と死闘を繰り広げるが、海洋警察によって視認され、救命ボートで脱出するドンシクとホンメ。

一方、自分の命であるチョンジン号と、運命を共にしたカン船長は、深い海の底に消えていく。

そんな中で、ゴムボートに命運をかけた若い二人は、無事に浜辺に乗り上げ、海洋警察から逃れることに成功する。

密航に成功したのだ。

冷たい海面に溶融する湿った空気が生む、海霧が覆う夜の闇の中で起こった凄惨な事件が終焉した瞬間だった。

海霧の中で炙(あぶ)り出された男たちの「野生合理性」(後述)も、日の出と共に沈降していったのである。

しかし、疲弊し切って意識を失っていたドンシクが覚醒したとき、浜辺にホンメの姿はなかった。

6年後。

九老で建設労働者になっていたドンシクは、たまたま入った食堂で、聞き覚えのある声を耳にする。

二人の幼い子供に食事を取らせるその母親こそ、ホンメだった。

気づくことがない相手を、呆然と凝視するドンシクの凍てついた表情がラストカットになって、インパクトのある映像は閉じていった。




2  悲劇の円環性 ――  その救いようのない海洋密室劇




テーマ性を敢えて広げて考えれば、この映画の基本構造は、世界中で惹起している就労ビザを持たない「経済難民」の問題と同質であるように思える。

その行為が違法であることを知りつつも、困窮する自国の生活で暮らしを立てられない少なくない人々が、より豊かな国を目指して脱出する。

そこには必ず、彼らを「支援」するブローカーが存在し、そのブローカーに支払うべき余地のある金を提供することで、密航の手立てを確保するのだ。

当然、密航者にはリスクが伴う 

密航者は、そのリスクを覚悟して行為に及ぶから、彼らの前途に、どのような危険が待っていようとも、ある意味で「自己責任」の問題とも言える。

それとも、そのような困窮者から暴利を貪る無責任なブローカーが存在することに、不法密航の責任があると言えるのか。

或いは、このような「経済難民」を生み出す国家の抑圧的体質に責任があるのか。

ひいては、そんな抑圧的国家に従属するだけの国民の民度の低さなのか。

更に敷衍(ふえん)すれば、「地政学的リスク」による歴史的・地理的悪条件の問題が背景に広がっているのか。

このように考えてみると、惹起した事態の原因を特定の因子に還元することが困難であることが判然とするだろう。

いずれもが「円環的因果律」(図示)として絡み合い、一つの要因は原因でもあり、結果にもなるという問題の複雑さを構造化しているのである。

ここから、実話ベースの映画を分析し、考えてみたい。

ここで起きた凄惨な出来事の全責任は、カン船長に収斂させるという見方が最も説得力を持ちやすいが、先述したような「円環的因果律」の文脈から言えば、彼個人に一切の責任を還元することが正解であると決めつけられるのか。

この問題意識が、私の中にある。

実はこのことは、シムソンボ監督もインタビューで語っている。

シムソンボ監督
「この映画で重要なのは『責任が等分してある』、もしくは『誰にも責任がない』という状況なんですね」

愛着の深い船と共に沈んでいくカン船長の情緒的な死のシーンや、本作のベースとなった実話(2001年に起こった「テチャン号事件」)との重要な相違点(死因がフロンガスの偶発的な爆死ではなく、密閉された通気口が全くない魚艙での窒息死)を考えれば、シムソンボ監督のこの言葉の意味や意図を理解できなくもない。

だから、このメッセージをコアにして、シムソンボ監督が言う、「責任の等分性」を船長・船員という6人の問題のみに押し込めずに、テーマ性を広げた、私なりの視座で本作を捉えたいと考えた次第である。

まず、経済的苦境に陥っている国家がある(「アジア通貨危機」)その国家で不漁に苦しむ船長がいるその船長が船員たちの生活のための金策に走った結果、密航ブローカーに仕事を依頼する機関長の逡巡がありながらも、他の船員たちの特段の反対もなく、船長の独断で密航を引き受ける巡視船が出現する密航者たちを魚艙に閉じ込める悲劇が起こる密航者たちの死体を傷つけ、海に放擲する船員たちの自我が麻痺し、悲劇が連鎖するそして、悲劇の根柢には「アジア通貨危機」が横臥(おうが)しているという円環性を成す。

「アジア通貨危機」で大きな影響を受けた国
物語のこの流れが行き着く先にあるのは、経済的苦境に陥っている船長を違法行為に振れさせていくに足る、脆弱な財政体質を持つ国民国家の存在であり、その国家が被弾した「アジア通貨危機」へと円環していくという構造性の問題である。

加えて、そんな国家に呼吸を繋ぐ国民の民度の低さも看過できないだろう。

では、この因果関係が不透明な物語の中で、「誰にも責任がない」と言えるのか。

思うに、ここで描かれた物語は、そのリスクをどこかで予期しつつも、ブローカーの介在による密航に加担することで、利益を限りなく等分してもらおうとする船員たちの存在を無視し得ないし、同時に、密航船に自らの命を預けた密航者の「自己責任」の問題も否定できないのだ。

更に、予想を超える人数の密航者を任せた暴利を貪るブローカーと、多くの「経済難民」を密航者に追い込んだ、中国共産党が支配する一党独裁国家の存在がある。

この文脈は、「円環的因果律」の複雑さを構造化していると言っていい。

一切は、この文脈の延長線上で発生し、偶発的に起こった事態を悪化させていく。

以上の問題意識を批評のコアに仮定させ、ここから、船長・船員という6人と、生き残った女性密航者に絞って、具体的にフォローしていく。

密航者の死という最悪の状況が偶発的に出来したことで、6人の船員たちの自我を蝕(むしば)み、極度に膨らむパニック的現象が発生する。

これが、極限状態で起こった異様な〈状況性〉を生んでいった。

「密航も死体の始末も、全部、船長にやらされただけだ」

手当たり次第、女と交接するキョングの言葉である。

既に、犯罪に決定的に関与しているのに、自らの行為を船長の責任に被せることで、半壊したこの男の防衛的自我は麻痺しつつも、辛うじて機能しているのである。

「俺たちは運命共同体だ」

これは、ホヨン甲板長の言葉。

彼の場合は、「犯罪の共有化」を認知することで、同様に麻痺しつつも、より責任の重い立場にある、この男の防衛的自我もまた、限界点に達する際(きわ)で生き残されているのだ。

これは、「責任分散」(他者と同調することで責任を分散する)の心理が機能している現象を示している。

この心理が加速度的に犯罪に馴致(じゅんち)し、犯罪を正当化していく。

「海霧」という自然現象に象徴されているように、異様な〈状況性〉に捕捉された6人の船員たちの自我機能を麻痺させてしまうのである。

しかし、自我機能を麻痺させられないで煩悶するワノ機関長は、機関室からのフロンガスの爆発(ホンメの誤動作)の責任もあり、ひたすら自己を追い詰め、贖罪の観念系に押し潰された挙句、カン船長に殺害されるに至る。

そのカン船長は、「これは事故だったんだ」と言い切ることで、自分の責任の重さを外部要因に転嫁させていくが、もう、封印を解いてしまった情動反応をコントロールできない極限にまで進んでしまうのだ。

要するに、それぞれが置かれた立場で、ぎりぎりに自己防衛を図っているのである。

しかし、彼らの底の浅い自己防衛の戦術は、呆気なく自壊する。

予測できない出来事の連鎖に対応できない能力の限界が露呈され、彼らの自我機能は致命的な破綻を来していく。

女のことしか頭にないチャンウクは、「兄貴分」のキョングに「自分の獲物」・ホンメを横取りされた恨みによって、「兄貴分」を殺害した挙句、今度は、ホンメを守ることしか頭にないドンシクによって、魚艙に閉じ込められてしまう始末。

そして、最後に待つのは、自らを「大統領」と呼ぶカン船長との運命を決する戦いである。

映画的に、戦いの帰趨は明らかだった。

殆どアクション映画の世界だが、心理的リアリズムは保持されている。

そんな状況下で、自我が壊れなかったのはドンシクである。

守るべき女の存在があったこと。

これが決定的に大きかった。

だから、男と女は結ばれる。

ホンメは外界の強烈すぎる恐怖から逃避するために、本能的に男との交接にのめり込むが、彼女の心理分析をすれば、こういうことだろう。

結婚相手として純粋にホンメを求め、強い異性感情が身体化したドンシクの情愛と微妙に切れ、彼女の場合は、極限状態の中で臨界点に達した恐怖感の中で、「凍りつき症候群」(「無思考状態」になる「非常呪縛」が起こる現象)とも思えるような心理状態に陥っていたと考えられる。

そのため、寄りすがる思いで、ドンシクに肉体を預けるのだ。

その意味で、この交接シーンは極めて重要である。

異性感情における、二人の微妙な差異が容易に想像できるからである。

ほぼ確信的に言えるが、「兄に会いに行くため」という彼女の密航理由は、自分を愛するドンシクの援助行動を引き出すための方便であると言っていい。

極限状態が惹起される以前の状況下であっても、女性密航者が二人しかいない現実が孕(はら)む異様な不安の中で、ホンメには、それ以外の自己防衛の選択肢がなかったのだろう。

密航時に海に落ちたというエピソードの挿入は、彼女の不安感を高めるのに充分過ぎた。

その時、命がけでホンメを救助したのが、ドンシクだったのだ。

以降、自分に関心を寄せるドンシクに対して、悪く言えば、自分を守るための楯にする役割を期待したのは、当然の行為だった。

だから、嘘をつく。

「恋人に会いに行くため」などと言える訳がないのである。

ラストシーン
そのことは、無事に浜辺に乗り上げたシーンで答えを出しているが、ホンメが二人の幼い子供を持つ母親である現実を映像提示したラストシーンによって、彼女の方便は瞭然とする。

思うに、ドンシクの僅かな愛着心を打ち砕くラストシーンを提示したことで、この映画がヒューマンドラマとして自己完結するという事実は検証されるだろう。

本作を総括する。

この映画のような極限状態に置かれた人間の心理は、生物学的に言えば、理性の中枢である前頭葉に情報が流れていかない心理の様態を表出することで、通常、人間が封印している、大脳辺縁系に依拠する動物的感情が限りなく炸裂してしまうのだ。

それはまるで、野生環境の特徴に適合した適応行動選択システムとして、高度に進化した感情である「野生合理性」を彷彿(ほうふつ)とさせる風景だった。

では、暴力だけが圧倒的に支配する、この悲劇の連鎖の不透明な物語の中で、「誰にも責任がない」と言えるのか。

この悲劇の連鎖を、「アジア通貨危機」「アジア通貨危機」という「円環的因果律」の構造的問題に収斂させれば、「誰にも責任がない」と言えるのかも知れない。

本当に、それで収まるのか。

「円環的因果律」の複雑さを構造化しつつも、私は、「誰にも責任がない」という見解に与(くみ)しない。

現代社会の宿命的な「経済難民」の問題や、「アジア通貨危機」という時代限定の厄介な問題に包摂されながらも、この出口の見えない不透明な物語の責任の起点が、事後承諾を得つつ、独断したカン船長にある事実は拭えないからである。

フロンガスによる「経済難民」の偶発死の時点で、密航の仕事は完全に破綻を来したにも係らず、カン船長は罪に問われる事態を恐れ、暴走した挙句、全てを失い、自壊してしまった。

自業自得である。

確かに、「経済難民」の偶発死の時点で、自首する行為に振れることは複数の罪を負うので、相当の覚悟を求められるだろう。

ひたすら、赤字経営からの脱却を図るために、博打を打った意図は理解できなくもない。

しかし、この博打はリスクが大き過ぎた。

だから、自ら出向いて、密航の仕事を受けた行為それ自体に、一切の責任がある。

従って、この映画で描かれた、「野生合理性」(生存のためにのみ有効な感情で、縄張りの侵入者に対する怒りの発動)を彷彿とさせる、おどろおどろしい物語を円環的に捉えるならば、「アジア通貨危機」「アジア通貨危機」=「全て国家が悪い」という流れではなく、「密航ブローカーへの仕事の依頼」を起点にしない限り、事件の核心に迫れないのだ。

「密航ブローカーへの仕事の依頼」巡視船の出現密航者たちの魚艙への閉じ込め偶発的事故の惹起海への遺体の放擲船員たちの自我の崩壊と凄惨な死「(悲劇の背景としての)アジア通貨危機」「漁業の壊滅的打撃」「密航ブローカーへの仕事の依頼」

敢えて言えば、この「円環的因果律」こそ、この映画の本質なのである。

一切が偶発的に起こったものとは言え、「誰にも責任がない」という見解は、理論的に成立しないのである。

なぜなら、些か乱暴だが、恐らく、唯一の生還者・ドンシクの届出によって、「遭難事故」として処理されたに違いない「漁船チョンジン号の悲劇」の後、麗水(ヨス)での漁業を辞めたドンシクが、建設労働者として身過ぎ世過ぎ(生活・生計)を繋いでいく余地があった事実を想起する時、その気持ちが分りながらも、殆ど廃船と化したチョンジン号に拘泥(こうでい)し続けるカン船長の独断専行的行為こそ、凄惨な事件のコアにある現実を見逃す訳にはいかないからである。

「悲劇の円環性 ――  その救いようのない海洋密室劇」。

本作には、このサブタイトルこそが相応しいであろう。


(2016年4月)

2 件のコメント:

  1. こんにちは。
    韓国映画は本当にダイレクトに突き刺さってくる映画が多くて、私はとても好きです。この映画はまだ見ていないですが、結講韓国映画はフォローしています。一昨年見た「嘆きのピエタ」と「母なる復讐」には本当に度肝を抜かれました。日本では「母なる復讐」はあまり取り上げられませんでしたが、まじめな作品だと思います。

    実は韓国ドラマにはまった経験があります。おばさんみたいですが、新大久保にグッズを買いにいった事も恥ずかしながら複数回あります。
    妻は全く見ないので、いつもストーリーを話してあげていました。おかげで当時の私の呼び名は「語り部」です。
    長いのでお勧めするのは恐縮ですが、やはりユン・ソクホの作品は良かったです。「秋の童話」「夏の香り」は大傑作でした。
    日本の韓流ブームは「冬のソナタ」で始まりましたが、実は東南アジアで「秋の童話」がヒットした事を受けての、「冬のソナタ」日本放映開始でした。「冬ソナ」は驚くほど私には合いませんでしたが、前後2作はドンピシャで、その後「悲しき恋歌」「フルハウス」などいくつかの面白いドラマを見ているうちに、いつの間にか韓国語教室にも行ってしまい、今も日常会話くらいは出来る自信があります。
    ちなみに、ユン・ソクホと倉本聰はお互いに認め合っているそうですが、「韓国テレビは私の代表作の放送権は買ったのにまだ放映していない。なぜなのだ?」との倉本聰の問いに、「名前に問題があったのでは?」という話しはユーモアがあって好きです。

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    1. コメントをありがとうございます。気が付くのが遅くなり、失礼しました。
      韓国映画は描写が過剰なので、好きとも嫌いとも言えませんが、ただし、ポン・ジュノ監督の作品だけは全て観るようにしています。
      過剰でありながらも、構築力がとても高いので大好きです。
      マルチェロヤンニさん紹介のテレビドラマは、どれも観ていませんが、恐らく、ハートフルな作品なのでしょう。ただ、日本を含めて、テレビドラマを観る習慣が全くないので、これからも観る機会はなさそうです。
      韓国語をマスターするほど自己投入できるのも、「自由人」の証ですね。



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