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2014年2月12日水曜日

キツツキと雨(‘11)      沖田修一


<非日常の「祭り」の世界に変換された「異文化交流」の物語>




1  非日常の「祭り」の世界に変換された「異文化交流」の物語



ここでは、殆ど大袈裟な事件・事故が惹起しない、緩やかに、淡々と進む映画のストーリーラインから書いていく。

以下、本篇の簡単な梗概。

3年前に、病気で妻を喪った、「林業一筋」の初老の男・克彦は、無職の一人息子・浩一と、一見、会話の乏しい味気ない生活を送っていた。

折しも、克彦は、ゾンビ映画の撮影隊の一行と知り合いになり、当初、全く気乗りがしなかったが、ゾンビ役を乞われ、そのラッシュフィルムを観てから、俄然、映画撮影に関心を抱き、いつしか、スタッフの一員として撮影隊に溶け込んでいくばかりか、村民たちをも駆り出す熱の入れようだった。

駆り出された村民たちも、平凡な村の日常性が、非日常の「祭り」の世界に変換されて、その時間を束の間、身体疾駆し、存分に「異文化交流」を愉悦する。

既に、一人息子の浩一と派手なバトルを繰り広げた挙句、家出した息子に代わって具現したかのように、克彦は、撮影隊の「25歳の内気な新米監督」・幸一との関係を繋いでいた。

「林業一筋」の初老の男・克彦(左)と新米監督・幸一(右)
新米監督・幸一との「異文化交流」の中で、ピアプレッシャーに弱い「現代の若者たち」が漏出する風景の一端に触れて、自己を相対化できるようになり、息子への視線が柔和になっていく。

 

 2  「現実自己」と「理想自己」、或いは、「現実自己」と「義務自己」の乖離の居心地の悪さ



以下、「癒し系」にカテゴライズされるだろう、そんな緩々系全開の、映画の基本骨格を考えていく。

「異文化交流」の中で、お互いに影響し合った者たちが、彼らに関与する周囲の風景を変容させていくというパターンは、殆ど定番的だが、しかし、この映画は決して悪くない。

親子ほどの年齢差がある二人の男が、その距離感を埋めていく心的行程の様態が、幾分か、戯画的絵柄を拾い上げつつも、基本・ハートフル・コメディの柔和な筆致を崩すことなく、且つ、無駄な描写を極力削り取りながら、殊の外、丁寧に描かれていたからである。

「異文化交流」を通して、一方は、自分の息子に対する狭隘な認知から不必要な棘を抜き取り、また他方は、その男との何気ない日常会話等を通して、「現実自己」が負った過剰なまでに重い荷物を下ろしていく。

両者共に、相対的な水平思考を内化することで、それぞれの自我に張り付く余分な負荷を無化していくのである。

言うまでもなく、前者は、役所広司扮する、「林業一筋」の初老の男・克彦であり、後者は、小栗旬扮する、「25歳の内気な新米監督」・幸一である。

「林業一筋」の男・克彦には、本来的に、捩れ切った屈折的自我と無縁であり、無骨だが、過度な「偏見居士」や、頑固な「観念居士」でなかったこと ―― これが、異文化が誘(いざな)う風景への、男の溶融を可能にした心理的因子であると言っていい。

この男の分りやすいキャラと些か切れて、ここでは、「25歳の内気な新米監督」・幸一の内面世界がテーマになると思われるので、簡単に言及したい。

この「25歳の内気な新米監督」・幸一の、自らの「仕事」に全身投入し切れない心理を、私はコロンビア大学の教授・トリー・ヒギンスが提示した、「セルフ・ディスクレパンシー理論」によって説明できると考えている。

即ち、「現実自己」と「理想自己」の乖離が苦しみや哀しみを生み、「現実自己」と「義務自己」の乖離が不安や恐怖を生む、という現代心理学の興味深い仮説である。

内気な新米監督・幸一とベテラン助監督(右)
まさに、25歳の幸一は、初めて任された、映画監督としての栄誉を具現できるという「理想自己」が、それに負担を感じる「現実自己」との乖離によって、本来は、「楽しい仕事」であるはずの未知のゾーンから下降してくる、負荷のシャワーの連射に煩悶する。

また、「この仕事を遂行させなければ、もう、自分にはチャンスがない」とか、「撮影スタッフや出演者に、決して迷惑をかけてはならない」などという「義務自己」が、「現実自己」に襲いかかってきて、彼のために用意されたディレクターズチェアにも座れずに、「すみません」という、信じ難き言葉が常套句になっていたネガティブな風景が遂に破綻し、「前線逃亡」を図り、惨めに頓挫する。

ナイーブな若者ゆえに非武装性丸出しの、脆弱な「25歳の内気な新米監督」にとって、無骨だが、包括力のある、人生経験豊富な男との出会いは、台本の最後の余白に、大きく「自分」と書かねばならないほどに、「現実自己」との乖離に悩む自我の空洞を埋めるに足る、「話しやすい相談者」としての存在感を弥(いや)増していく。

人生経験豊富な「話しやすい相談者」にもまた、この時期の普通の難しさの範疇にある息子との、円滑なコミュニケーションが取れない日常性を常態化していて、遂には、「内気な新米監督」と同名の息子の「家出事件」を惹起する。

「本当に出ていくぞ!」
「出ていけ!」

「家出事件」を惹起した浩一
それだけだった。

既に、一人息子の浩一と派手なバトルを繰り広げていた克彦には、仕事を辞め、定職に就かない浩一の日常の風景が宙ぶらりんに見え、憤りを隠せないでいた。

ところが、「家出事件」を惹起した浩一が、亡き母の三回忌の前日には、父子二人分の喪服を用意して、帰郷するに至る。

東京に行くと言って家を出た浩一に何があったかについて、映像は何も提示しないが、少なくとも彼が、亡き母の三回忌を忘れない程度には、実家との関係の情感濃度が保持されていた事実だけは確認できるだろう。

この伏線は、翌日の三回忌のシーンで回収されていくが、これは重要なので後述する。

ここで、物語の本線に戻る。

克彦と新米監督・幸一との絡みである。

この二人が、なお、露天風呂での物理的距離感を保持しつつも、台本を読んで泣いたという克彦との、その心理的距離感が縮まりつつあったときの興味深い会話がある。

自然溢れる屋外で、弁当を食べるシーンでのこと。

「幸一君はよ、幾つやの?」
「あ、25ですけど」
「あーそー」
「何すか?若いって、言いたいんですか?」

「間」ができる。

克彦と幸一
向こうに見える松の木を指さして、克彦はさりげなく話を繋いでいく。

「あすこに、松が生えとるやろ」
「あれが松ですか?」
「あれが松だよ。バカやろう。あの、左から二番目のあるだろ。あれが大体、25年かそこらや。その横を3ついったのが、大体60年で、俺やな」
「どれですか?」
「横3ついけよ。どうや」
「あんま、かわんないっすねぇ」
「木が一人前になるのに、ざっと100年はかかるでな」

こんな何気ない会話を通して、「現実自己」と「義務自己」の乖離によって、不安や恐怖を、内側に不必要なまでに押し込んでいた幸一の心が、間違いなく相対化されていく。

「俺はまだ、25歳の新米監督だから、幾らでも失敗してもいいし、恥をかいても当然なのだ」

そう思ってしまえば、もう、怖いものなどない。

「現実自己」と「理想自己」の乖離を、「理想自己」に「現実自己」を無理に合わせていくのではなく、逆に、「現実自己」に「理想自己」を擦り合わせていけばいいのだ。

そんな心境の近くに、ようやく届き得たのである。



3  「義務自己」と「現実自己」との折り合いが付けられたとき



そして、その日がやってきた。

克彦浩一
浩一の母の三回忌の日である。

新米監督の幸一と同質の内的テーマを抱えていた、もう一人の若者・克彦の息子の浩一の重要なエピソードを、映像は丁寧に切り取っていた。

そこには、縁者たちが集合し、今や酒宴を張り、盛り上がっていた。

一人の縁者が、将来の展望を開けない、浩一の身の振り方を案じながらも、刺身のつまにする。

「ぬし、仕事やめたんやて!」
「まぁ・・・」と浩一。
「どうするよーし」
「どうにかしますよ」
「この際、克さんの後を継いだらどや?」と他の縁者。
「ははー、そりゃぁ、ええや」

今度は、別の縁者が笑い飛ばす。

「克さんやて、いつまでも、この仕事ができるわけないしの」

ここで、先の縁者が、決めつけるような言辞を被せていく。

「よし!明日っから、克彦さんの世話になれ!」

これで、万事OKの空気を作った縁者たちの、毒気含みの哄笑が巻き起こった。

この酔いの雰囲気の中で、寡黙な克彦と浩一だけが浮いている。

件の縁者が、その克彦に酒を注ぎに回って、「なあ、克彦さん」と笑いかけていく。

「こいつの気持ちもあるやろ」

克彦は、そう、ぼそりと答えた。

今度は、怪訝そうな縁者に向かって、怒鳴り飛ばす克彦。

「こいつの気持ちもあるやろ!」

 
父親を凝視する浩一
父親を凝視する浩一。

その表情には、本気で自分の身の振り方を案じつつも、息子の主体的判断を大切にする父親に対する、感謝の念が滲み出ていた。

これだけのエピソードだが、このシーンはとても良い。

物語の骨格を成す重要な描写でもある。

それは、父と子の葛藤が、息子の家出と、父親の「異文化交流」が内包する意味が、この親子関係の中で、一定の軟着点に達した事実を検証し得るからである。

このシーンがあるからこそ、得てして、フラットなハートフル・コメディに流れていくこの映画の危うさを救っていると、私は考えている。

出番は少ないが、浩一を演じた高良健吾の、抑えた内面的表現力は、相当程度存在感があり、出色だった。

浩一もまた、いつまでも自分の将来の展望を開けないような、モラトリアムを延長させてはならないという「義務自己」が、彼の現存在の「現実自己」との折り合いが付けられないでいたのである。

だからこそ、父の一言には重みがあり、決定力があっのだ。



4  映像と日常会話のみで語り継いだ、一篇の「御伽噺」の余情の心地良さ



 「現実自己」に「理想自己」を擦り合わせていけばいいという心境に、決定的に到達する辺りにまで近接した新米監督は、その日もまた、克彦と日常会話を繋いでいた。

 
 「幸一君はよ、その、どうして映画なんかやろうと思ったの?」
「えーと、親父がまずビデオカメラを買って来て、最初は運動会とか使ってたんですけど、だんだん、誰にも使われなくなって、で、まあ、俺が遊びで使い始めて・・・ま、そんな感じです」
「じゃ、お父さんに感謝やな」
「いや、親父はきっと後悔してます」
「何で?」
「ウチ、山形で旅館やってて。俺、長男だし」
 
ここで、長い「間」ができる。

「後悔なんかしとらんわ。自分の買って来たカメラが、息子の人生変えたんやもん。嬉しくて、しょうがないやろうな」

 そう言われても、幸一には、「人生変えた」という実感を、未だ具現していないのだ。

ただ、新米監督の内側には、未知のゾーンに踏み込んでいく観念が蠢動(しゅんどう)していて、もう、後戻りできない辺りにまで駆動していたのである。

 「この撮影中、僕が甘いもの食べなければ、無事に撮影終わります」

「松の木問答」
「松の木問答」をしたときに、克彦に吐露した際の幸一の言葉である。

克彦は、そんなジンクスに縛られていた幸一の口に、あんみつを強引に押し込み、ナイーブな新米監督が防衛的に仮構したルールを壊していく。

「うめえ、うめえ」

そう言って、二人で嬉々として食べ合うのだ。

 「いい若い者が、自分の仕事を遂行するのに、つまらぬ験担(げんかつ)ぎなどに頼らず、自信を持って臨め」

 そう、言いたいのである。

 しかし、この映画には、こんな気障な台詞を、決して登場人物に言わせない。

説教臭い気障な台詞を言わせない代わりに、行為で表現させる。

それも、あんみつを口に押し込むというコメディの筆致で表現させるのだ。

 その辺りに、この映画の良さがある。

 
克彦(右)と林業仲間
昔の邦画だったら、「都会育ちの内気な若者」と、「田舎一筋の無骨な初老の男」との情感交流の定番は、決め台詞に昇華された、重量感のある人生訓を垂れる後者の説教によって、前者の内面を支配し、変容させていくという「奇跡の感動譚」に収束される厭味なパターンが王道だったが、この映画は、そういう臭気を封じている。

良かれ悪しかれ、「豊かさ」⇒「自由」⇒「私権の獲得」⇒「相対主義」という、時代と文化の流れが辿り着き、「私権の拡大的定着による、匿名性と相対主義」が分娩した「個人主義」が、ごく普通に共有された時代状況下にあって、もう、このような「奇跡の感動譚」は通用しないのだ。

 それが、「古き良き時代」への過剰で、無茶な理想を押し付ける愚昧さであることを認知し得ず、「都市社会で呼吸を繋ぐ者の孤独・閉塞感」という決めつけの発想の貧困さを晒すのは、見苦しい限りである。

この映画には、そんな暑苦しい、鼻をつく厭味な臭気が入り込んでいないのだ。

村落の人々の「祭り」
都会と村落の人々の温和なる「共生」が描かれていても、そこには、単に「非日常の祭り」を愉悦することで、存分に一時(いっとき)の「祭り」を謳歌するだけであって、そこに加えるべき、「古き良き時代」への過剰で、無茶な理想を押し付ける愚昧さなど微塵も感じられないのである。

 閑話休題。

ジンクスを壊していく新米監督が、それを肝心の撮影現場で具現していくのは、防衛的に仮構したルール破壊の行為とパラレルに進行していく。

些か作為的だが、なお、「義務自己」に捕捉されていた新米監督が、「恐怖突入」の結果、その自信なさげな心境が、爆発的に浄化されていくシーンがあった。

「恐怖突入」とは、大物俳優の演技への不満から、繰り返しダメ出しをした演出のこと。

「また、呼んでよ。素晴らしかった。監督」

その大物俳優からの意外な言葉に、嗚咽が止まらない新米監督。

簡単に、OKを出さなかった幸一の「仕事」が、「形」となって成就した瞬間だった。

そして、クランクアップの日の大雨。

撮影中止を決め込むスタッフの意見に迷う幸一は、台本に書いてある「自分」という言葉に眼を通し、空が晴れるまで粘ろうとする行為を顕在化するまでに、「現実自己」と「義務自己」の乖離、そして、「現実自己」と「理想自己」の乖離を削り取っていったのである。

かくて、「キツツキ」(克彦)の長年の経験則が生き、撮影の天敵である「雨」が止むことを言い当てた男の予想通り、一瞬にして変化する晴天の空模様がクランクアップを成就させていく。

それは、「祭り」の終焉を意味するが、この映画は、それを特化して、「別離の感動譚」に流さないのだ。

そこが最高に良い。

村民たちは、また、いつもの日常性に戻っていくだけなのである。

ただ、それだけのエピソードを大袈裟に切り取る必要性などない。

作り手のそんな思いが伝わってくるようだった。

作り手のそんな思いは、「林業一筋」の初老の男の、「祭り」のあとの風景にも色濃く投影されていた。

「現実自己」と「義務自己」の乖離で煩悶する、もう一人の若者・浩一のこと。

彼もまた、どうやら、心地悪いモラトリアムを脱したようだった。

「祭り」が終焉した晴天の日の朝・克彦の自宅
「祭り」が終焉した晴天の日の朝。

「林業一筋」の男が、作業着を着て、いつものように朝食を摂っている。

この日も、鰥夫(やもめ)暮らしの男の味気なさが延長されているような朝食の風景だった。

ところが違った。

男の眼の前に、同じ作業着を着た息子の浩一が、一緒に朝食を摂っているるのだ。

例によって、全く会話はない。

無骨な父と、その性格を、恐らく、相当程度似通わせた息子との会話がなくとも、そこにはもう、特段の感情の軋轢が見られない風景を、この絵柄は提示している。

息子にとって三回忌での父の暴れぶりは、「義務自己」との乖離で煩悶していた若者の心を溶かし、浄化させていくのに充分だったのだろう。

自己をここまで相対化した、父の援護射撃に合わせるような非主体的な流れ方とは切れて、この若者は、自分が今、就くべき仕事が何であるかというイメージを感受したことで、少なくとも、「当面はこれでいい」という、ポジティブ思考のうちに自己投入し得たように思われる。

最後まで眼を合わせることなく、天気予報を伝えるテレビを見ながら、海苔を被せたご飯を頬張る息子と、同じく、海苔を被せたご飯を黙々と食べる父。

そこには、共存感情の濃度の高さを、言葉によって説明するような会話など不要なのだ。

父がいて、息子がいる。

そして、その後、一緒に仕事に行くであろう調和のイメージが、観る者の視線に収納されている。

それだけで充分だった。

一方、海辺で撮影を繋いでいる若者がいる。

幸一である。

相変わらず、台本を読みながら歩いている。

切り取られた構図の中枢には、「林業一筋」の男が造ってくれた檜(ひのき)のディレクターズチェアが置いてある。

その椅子に座ろうとした幸一に、「監督!」という声が掛かった。

「ハイ」

いつものように柔和な声で反応する。

幸一は、ディレクターズチェアを運ぼうとするが、あまりに重いので、そこ置いて走っていく。

「本番です」

幸一の元気な声が、潮騒の音を消すように響いていた。

この新米監督もまた、「現実自己」と「義務自己」の乖離を希釈させながら、「当面はこれでいい」というポジティブ思考のうちに自己投入していくであろう。

ラストカット。

「林業一筋」の男が、「あの日」のように、チェンソーの音を立てていた。

作業を中断し、ふっと遠望する男。

「あの日」の不思議な出会いを思い出しているのだろう。

「祭り」は、もう、終焉したのだ。

最後まで、映像と日常会話のみで語り継いだ、一篇の「御伽噺」の余情は、思いの外、心地良かった。

良い映画である。

(2014年2月)



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