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2015年5月3日日曜日

その夜の侍(‘12)     赤堀雅秋

<捩れ切って完結するグリーフワーク ―― その風景のくすんだ広がり>



1  「8月8日 お前を殺して、俺は死ぬ  決行まで、あと二日」



綺麗事を完全に払拭した人間ドラマの傑作。

四人の主要登場人物(堺雅人、山田孝之、新井浩文、綾野剛)の心情がダイレクトに伝わってきて、その葛藤描写の痛々しさが、観る者の魂に食らいついてくるようだった。

山田孝之の表現力は圧巻だったが、それ以上に再認識させられたのは、堺雅人が性格俳優として秀逸であるということ。

堺雅人主演の作品の中でベストの映画。

嗚咽を抑えるのに必死だった。

―― 以下、梗概。
 
昼間の炎天下で、薄汚れた作業着に身を包み、ポリ袋に包丁を隠し込んだ挙動不審の男が、一人の男を尾行するシーンから開かれる映画の異様な風景の背景は、その直後の映像提示によって明らかにされる。

十字路でのドライバーの前方不注意によって、自転車に乗る一人の女性を、トラックが撥ねてしまう事故が発生する。

木島と小林
助手席にいた男に、路上に倒れた女性の確認をさせるが、出血していない状況を判断し、救急車を呼ぼうとする助手席の男を止め、必死に自分の責任を回避するのだ。

女性の方から飛び出して来たと断定することと、無出血の状態を見て、呼吸の粗い助手席の男と対照的に、「サバ味噌の匂いがする。今日、どっかの家サバ味噌だな」などと強がりを言ってみせるのである。

その心理は、自らの恐怖感を感覚鈍磨させることで、助手席の男に弱みを見せまいと虚勢を張っているように見える。

「8月8日 お前を殺して、俺は死ぬ  決行まで、あと二日」

唐突に挿入される、このキャプションの意味も、まもなく明らかにされる。

冒頭のシーンの男が、留守録に残る妻の声を聞きながら、プリンを食べている。

「健ちゃん。ちょっと、また隠れてプリン食べてるんでしょ。バレてるんだからね。ほんと、いい加減にしないと死んじゃうからね。冗談抜きで」

これが、東京の小さな鉄工所を経営する中村健一の妻・久子の声。

その妻・久子こそ、5年前にトラック運転手に轢き逃げされた女性である。

中村健一
今、その妻の対象喪失の悲嘆から解放されていない夫・中村健一は、傍らに遺骨を置き、妻の着衣の匂いを嗅ぎ、繰り返し、留守録に残る妻の声を聞くことで、亡妻との「精神的的共存」を常態化しているのである。

「私は、あなたと結婚できるような、そんな男じゃありませんので。申し訳ありません」

だから、妻の兄である中学校教員・青木が紹介する同僚の女性・川村との、場末のカラオケスナックでのお見合いの場で、薄汚れた作業着を着た中村が、ポケットから妻のブラジャーを取り出し、こんな失礼な物言いをするのだ。

一方、中村の妻・久子を轢き逃げしたトラック運転手(当時の職業)・木島は、同乗していた助手・小林が妻と住む団地の一室に寄食していた。

あろうことか、その木島は、タクシー運転手である小林の同僚・星に粘着テープを張り、体を縛りつけ、轢き逃げ事件のことを世間で言い触らしていると決めつけ、激しいリンチを加えている。

挙句の果てに、灯油をかけ、ライターの火を近づけることで、星の「自白」を得るや、玄関のチャイムが鳴ることで、このリンチは中断されるに至る。

リンチを加えつつも、唇が震える弱みを隠す木島の「悪」が、明らかに、「極道」の面々との差異を露わにすることが判然とする。

その辺りに、玄関のチャイムによって、一瞬にして興醒めしてしまう男の心の風景が垣間見える。

何より、小林の自首によって轢き逃げ事件が露見し、そのため2年の懲役刑を受け、出所後、タクシー会社で研修中の木島にとって、会社を馘首される不安を拭えないのだ。

玄関のチャイムの主は、轢き逃げされた久子の兄・青木だった。

木島と青木
一か月前から、毎日送られてくる脅迫状の主が中村であると断定する木島が、青木を呼び出し、その行為を止めさせるように恫喝し、100万の金と、中村自筆の詫び状を持って来ることを約束させるのである。

青木の、このあまりに脆弱な反応の意味を考える時、ごく普通の人間がそうであるように、「平凡な日常性」に罅(ひび)が入ることを怖れる心理の延長上にあり、そんな「平凡な日常性」の対極にある日々を繋ぐような、理不尽極まる木島の暴力性に正当に逆らえないのは必至だった。

加えて、犯行予告という行為が「偽計業務妨害罪」(刑法第233条・3年以下の懲役又は50万円以下の罰金)であることを知悉するが故にか、それが警察沙汰になることで、公務員である自分の立場が不都合になる事態を案じているのだろう。

当然過ぎる反応である。

同時に、ハッタリ含みの木島の暴力性もまた、弱さを見せる者たちへの限定的な反応形成であり、このような形でしかコミュニケーションを結べない男の適応力の脆弱性が露呈されていた。

要するに、自ら出向く行為を選択できないほどに、中村健一の殺意の「本気度」を怖れる本音が、青木への恫喝によって反転させているのである。

こんな男だから、交通整理する女性警備員のバイトの財布を奪い、その引き換えに、自分の性的欲求を満たす行為に走るのは日常的だった。

ここで重要なのは、自分より弱い立場にある者たちだけを甚振(いたぶ)ることで、好き勝手に生きる時間を延長させてきた底層に澱む、現実原則(損得の原理)で動けない男の未成熟な自我の、その振れ幅が大きい心の風景の人間的脆弱性に対する基本的把握である。

こういう男は、「ハインリッヒの法則」(1件の重大な事故には、300件の「ヒヤリ・ハット」が発生している)を援用すれば、不祥事を繰り返すことで、自らが受けるリスクの危険性を高め、その度に人生をやり直すチャンスを自壊させていくパターンをトレースしてしまうのだ。

その一つの例が轢き逃げ事件であり、その延長上に惹起させた、一連の厄介な事態であると言っていい。

これは、極めて高い確率で、「人生のやり直し」のチャンスを自ら摘み取っていく。

精神的に追い詰められ、不安と恐怖を隠し込んだこの悪循環の中で、「低自己統制尺度」(自己統制能力の欠如した行動傾向)が顕著な男は、いよいよ、厄介な事態を膨張させていく。

自業自得である。

一方、そんな男に目を付けられた青木もまた、その殺意の「本気度」を感受するが故に、「健一さんには幸せになって欲しいんだよ」(中村の見合い相手・川村への言葉)と言いながら、中村が起こすだろう事件を防ぐために、その川村を中村のキャッチボールの相手にさせるなど、下手な芝居を打ったりするのである。

青木
一切は、普通の生活を望み、それを繋ぐ青木自身が、「平凡な日常性」を守ろうとする思いの延長上にある。

これも当然過ぎる感情である。

今、その川村が、中村のキャッチボールの相手となって、全く笑顔を見せない中村の投げるボールを受け止めていた。

中村にとって、亡妻との思い出の一つであるキャッチボールを、結婚の意思のない女との時間を繋いでも、亡妻の代わりにはなり得ないのだ。

そこに、中村が被弾した対象喪失の甚大さが読み取れる。

彼の思考にはもう、亡妻を殺した男への復讐以外に入り込む余地がないのである。

そして、亡妻を殺した男の行動を止められない青木は、木島の暴力の餌食となった。

その木島の暴力の餌食となったばかりの星と、木島を寄食させる小林も、この暴力にインボルブされ、相変わらず、木島との「腐れ縁」(小林の言葉)の関係を繋いでいる。

そんな二人の会話。

「昨日あいつにやられたこと、覚えているよね?じゃ、何で?」と小林。
「俺にもよく分らないんだけどさ。かさ、俺、特に趣味とかないしさ、何かさ、一人はもうやだなぁと思って・・・」と星。
「だからって・・・これ、人殺しだよ?」
「じゃ、何で、君は、ここにいるの?」
「あいつには、俺が必要なんだよ」

重要な会話である。

星と小林の感情系に微妙な差異が窺えるという意味で、重要なのである。

単に、「孤独の埋め合わせ」というフラットな感情系で動く星に対して、小林の感情系は防衛的に構造化されているように見える。

それは、「自分が相手に依存していることを認めず、相手が自分に依存している」と考えることで、自我を安寧に導く防衛機制という心理学概念の説明の方が的を射ているということである。

しかし、「投影」という概念で説明可能なこの心理が根柢から揺らいでしまった時、退(の)っ引きならない行動が身体化される。

青木に対する過剰な暴力を行使する木島に対して、「あいつには、俺が必要なんだよ」と吐露した小林が暴力を振ったのだ。

それは、木島との「腐れ縁」によって延長されて来た、風景の見えにくい関係の澱みを相対化し得る行為であるように見える。

恐らく、轢き逃げ事件以前には、これ程までの「狂気」を露呈する暴力性を相応に抑制し得ていたが故に、「腐れ縁」の関係を延長することが可能だったが、事件と刑務所生活、そして、出所後、とりわけ、中村からの犯行予告以降、目立って膨張させている人格の破綻性を目視する中で、木島に対する小林の関係濃度が希薄になっていったと思われる。

木島との関係構造が急速に崩れ去っていくのだ。



小林
小林の変容は、彼の内部で自己の相対化が加速的に進行している現象を意味するが故に、「あいつには、俺が必要なんだよ」と嘯(うそぶ)いた時、その言辞には「必要」と言わせるほどの情感が削り取られているのである。

その木島の「狂気」が、犯行予告の脅迫状の連射の中で心理的に追い詰められ、より一層、その心情を暴力によってしか表現できない男の、情報伝達能力の決定的欠如が剥き出しにされていく。

その現実を目の当たりにした小林の変容もまた、クリティカルポイントに達してしまったのである。

一切は、「日常性」から遊離した男たちの、「非日常」の脆弱な裸形の風景だった。

「俺は平凡でいたいんだよ!」

木島に暴力を振った時の小林の叫びである。

会社の仲間に言い触らした星の「自白」が、小林を守るための嘘であることが分ったのは、その直後だった。

小林自身が木島に語ったからである。

既に、そこには、極端に悪化していく木島の人格に寄り添えない小林の感情が垣間見える。

「何か、疲れちゃったよ」

いつものように、その殺意の在り処ですら脆弱な、一貫して継続力を持ち得ない木島の「悪」が露わになり、自分で穴に落とした青木の「処分」を小林に委ねて、星を引き連れ、帰ってしまう男の心の風景には、所詮、この程度の覚悟しか持ち得ない小心なチンピラでしかないのだ。

その木島から青木の「処分」を委ねられた小林は、穴の中で蠢(うごめ)く青木から鋭利な言語を突き付けられた。

「平凡というのはね、全力で築き上げるもんだと思うんですよ」

明らかに、本作の基幹メッセージである。

その価値観を共有する青木を、小林が救い出した行為は当然の振れ方だった。



2  「この物語は、最初から・・・君には関係ない話だった」




犯行予告の前日、ホテトル嬢のカラオケの歌(「絢香の三日月」/注)に涙を流した中村は、今、くすみ切った夜の町を彷徨(さまよ)い歩いている。

そして、妻の命日に当たる8月10日がやって来た。

それは青木にとっても、自分の妹を轢き逃げされた特別な日だった。

刻々と迫る中村の復讐を止めようとする思いには、全く変わりがない。

だから、自分を助けてくれた小林に、木島と連絡を取るように依頼する。

しかし、その依頼を引き受けられない小林。

限りなく堕ちていく木島の人格に寄り添えないほど、小林は木島への恐怖を吐露するのだ。

「怖いですよ。木島は本当に怖いです。分んないっすよ、あいつが!俺には、分らないんです」

その木島は、例の女性警備員を自分の女にして、女のアパートの部屋に隠れ込んでいる。

「何かいいですね、人がいるって」

「孤独の埋め合わせ」を求める、その女の言葉である。

しかし、他人とまともにコミュニケーションをできない木島にとって、女との「共存」は、性欲を処理する対象でなかったら、「非日常」の状況に置かれた男のリトリート(隠れ家)でしかないのだ。

だから、外の気配を気にし続ける時間だけが過ぎていく。

台風が近づいて来て、弾丸の雨が、通行人の疎(まば)らな町から色彩を削り取っている。

人々の視界を奪いつつある町の一角を、男たちは動いていく。

自転車で疾走する小林は、木島に携帯を入れるが、反応がない。

青木もまた、自転車を飛ばしている。

そんな中、女の部屋で居ても立ってもいられない木島は、弾丸の雨の中に身を晒し、誰もいないグラウンドの中枢で叫んでいる。

「もう、いいだろ!早く出て来いよ!人のあと、ついて来たんだろ!俺は逃げも隠れもしねぇから!俺はここにいるぞ!」

見えない敵に対する恐怖感がピークに達しているのである。

傘も差さず、ナイフを持った中村が、木島の前に出現したのは、その時だった。

「今晩は!」

呼びかけに反応しない中村に、木島が叫ぶ。

「今晩は!」

大きい声で、中村も反応する。

「失敗した。さっき、松屋でカレー食べて来たんですけどね、こんな時だってのに、息がカレー臭くて叶わない」

こんなことを言う中村に対して、苛立ったように、木島は問い詰める。

「で、どうすんだよ、これから?どうすんだよ!」

そんな木島の問い詰めに、中村は、なお意想外のことを口に出す。

「できることなら、他愛のない話をしたい。例えば、昨日観たテレビの話とか、好きな食べ物の話でもいいです。あと、好きな女のタイプ」

ここで笑い出す木島。

「ほんとバカみたいだけど、そんな平凡で、他愛ない話ができたらなぁと思って!」

そこまで言い終わった後、ナイフを放り出す中村。

その中村に、ナイフを持った木島が近づいていく。

「お前だけ死ねよ」

如何にも木島らしい行動だが、「ずるいなぁ、俺は」と洩らした中村は、ナイフを持った木島の右腕を掴み、この5年間で封印していた感情を吐き出すのだ。

「俺を殺して、お前は死刑になれ!日本の法律では、2人殺したら確実に死刑だよ。久子を殺して、俺で二人目だ!」

この叫びに怖れをなしたのか、木島はナイフを放り投げ、中村への身体暴力を加えていく。

中村もまた反撃するが、一度も喧嘩の経験がないであろう男には、相手の攻撃を両手で払うような行為にしか振れないのだ。

相手が弱いと見るや、突然、強気になる木島にとって、まさに、「恐怖に怯えた日々」を無化するかのように暴れ捲るのである。

この雨中の暴走の中で、たまたま手に取ったナイフを持って、今度は、木島を追い詰めていく中村。

逃げ捲る木島。

この不格好さこそ、木島の裸形の相貌なのだ。

思えば、木島という男は、「臭い飯」を喰いたくないために、強がりを剥き出しにしつつ、低劣だが、この男なりの社会適応を果たすために、世俗の垢に塗(まみ)れて呼吸を繋いでいるのである。

要するに、この男は、マーガレット・ マーラー(ハンガリー出身の米国の精神科医)が言う、精神的な「分離-個体化」(自立化)に頓挫しているため、自他を区別する境界が非常に曖昧で、且つ、葛藤を自分だけで抱えることができず、「相応の社会的適応力を有する普通の大人」になり切れないのである。

従って、まともな自我を、親から作ってもらえなかったであろう男には、他人との適切な距離の取り方が分らず、情報伝達能力の決定的瑕疵を露わにし、事態の悪化に対応し切れない思慮分別の非武装性を晒して、年輪を重ねてきたと言い切れる。

それを理解しない限り、この映画は分らないだろう。

物語を続ける。

弾丸の雨で、取っ組み合う二人。

疲弊し切って、取っ組み合う腕力を失っていくのだ。

弾丸の雨が止み、最近接で向かい合う中、中村は自らの日記と思しきノートを読んでいく。

「7月10日。朝、セブンイレブンのツナと卵のサンドイッチ。昼、セブンイレブンのざるそばと牛丼。夜、フルタミで酒を飲む。7月11日。朝、何も食べていない。昼、ジャムとマーガリンのコッペパン、コカコーラ。夜、カップラーメンを2個。7月12日、朝、何も食べていない。昼、何も食べていない。夜、ウオタミで酒を飲む・・・」

こんな調子で日記を読み続けるが、それを聞かされる木島は、「何だって、聞いてんだよ!」と怒鳴る声に反応し、中村は、意想外の言辞を返していく。

「君の、ここ一か月の食事のメニューだよ・・・君の全てがここにある。君の人生がここにある。君は、本当に・・・何となく生きているよ。何となく生きているよ」

血だらけの顔を本人の目の前に晒しながら、中村は嗚咽の中で訴えていく。

「だから?」

突き放すような口調で、木島は問い詰める。

「この物語は、最初から・・・君には関係ない話だった・・・君には関係ない話だった・・・」

これが全てだった。

一切は、「対象喪失」の悲嘆から解放されていない中村自身の、グリーフワークの艱難(かんなん)な心的行程を軟着させ、自己完結するための内的闘争だったのだ。

予想だにしない結末に安堵したのか、これまでもそうであったような「日常性」の世界に復元していく木島が、自分への殺害を脅迫し続けた男と顔を会わせるや、雨で泥濘(ぬかる)んだグラウンドを去っていく。

この男にとって、今、犯行予告の脅迫状の恐怖から解放されたことで、不快極まる一本の棘を抜いたという事実のみが決定的だったのである。

人間は、簡単に変わらないのだ。

今、そのグラウンドに青木がやって来て、煙草を吸おうとする中村に、喫煙を止めることを忠告する。

この忠告に素直に従う男が、そこにいた。

帰宅して、ずぶ濡れになった服を脱ぎ、裸になった男が、いつものように、留守録での亡妻の言葉を再生するが、それを消去してしまうのだ。

機械の操作による音声から、虚構の生命を受け取って来た男の「凍結した時間」が、溶け出していく瞬間である。

手にはプリンがある。

しかし、男はそのプリンを食べることができない。

亡妻と自分を繋ぐ唯一の「物質的アイテム」である、大好物のプリンを頭からかけてまうのである。

寄る辺なき何ものも持ち得ない男の、「非日常の日常」を繋ぐ物語が終焉したのである。

それでも、男の中のグリーフワークのプロセスは形式的に終焉するが、しかし、心の浄化を切に求める本当の内的行程は、その先に待つだろう、「希望」の一欠片(ひとかけら)を手に入れるかどうかにかかっている。

―― 嗚咽が止まらないほどの素晴らしい映画だった。

但し、どうしても腑に落ちないシーンについて指摘せざるを得ない。

木島の一か月の食事のメニューを読み上げるシーンである。

これには無理がある。

探偵事務所に依頼した形跡がないことを思えば、木島の一か月の「日常性」の様態をフォローすることなど、殆ど不可能と言っていい。

その顔を知る者から全く気付かれることなく、相手に24時間の監視を前提にするからである。

ここに、この映画の生命線があるとは言え、些か、主題が勝ち過ぎてしまった。

他に工夫がなかったのだろうか。

残念であるが、だからと言って、この映画が自壊するほど脆弱な作品でなかったと、私は高く評価している。


(注)以下、「絢香の三日月」の歌詞の冒頭。

ずっと一緒にいた 二人で歩いた一本道
二つに分れて 別々の方歩いてく
寂しさで溢れた この胸かかえて
今にも泣き出しそうな 空見上げて
あなたを想った・・・



3  捩れ切って完結するグリーフワーク ―― その風景のくすんだ広がり



絶対に喪ってはならない特定他者を喪った時の衝撃は計り知れないだろう。

まして、その喪失が災害、事故、自殺などに起因する「突然死」だったら、残された者の衝撃は筆舌に尽くしがたいに違いない。

愛する者の死をしっかり看取りをする、「予期悲嘆の実行」という心理的余裕があれば、「対象喪失」の際の悲嘆・煩悶からの精神的復元が早いと言われるが、「突然死」は「対象喪失者」から、心の準備なく、突として、この時間を奪ってしまうのだ。

更に、その喪失が、赤の他人の重過失によって惹起され、それを「由々しき事件」にまで変換させたものだったら、「対象喪失者」を覆う心理は、しばしば、立ち直れないほどの深い悲しみばかりか、「突然死」による「対象喪失」を惹起させた者への憎悪を膨張するかも知れない。

少なくとも、私の場合は、「対象喪失」を惹起させた者への憎悪を容易に軟着させられないだろう。

その上、「対象喪失」を惹起させた者に深い反省の思いが感じられなかったら、その者への憎悪が、殺意にまで膨張する可能性を否定できないだろう。

綺麗事さえ言わなければ、絶対に喪ってはならない特定他者を喪った時の、その「対象喪失者」の心理とは、そういうものである。

だから、私たち人間は厄介なのだ。

絶対に喪ってはならない愛する者の理不尽な死を受容し、それを奪った者を許せるほど、私たち人間は寛容になりきれないのである。

堺雅人演じる映画の主人公のように、思いも寄らない激甚な「非日常」の襲来に遭うことで、愛する者と繋いだ「日常性」の日々を普通に繋ぐことの価値の有難さを知るのだ。

ここで、私は想起する。

「光市母子殺人事件」のこと。

実は、赤堀雅秋監督が、「光市母子殺人事件」の被害者である本村弥生さんが、夫・本村洋さんに宛てた交換日記(「天国からのラブレター」本村洋・弥生著 新潮社)に衝撃・感銘を受けたというインタビューでも語っていたが、その衝撃・感銘の内実は、愛する者と繋いだ「日常性」の日々を、普通に繋ぐことの価値を痛切に感受させたからであると思われる。

以下、「天国からのラブレター」(本村洋・弥生著 新潮社)からの抜粋である。

「・・・夕夏の歯が生えてきたから、おっぱいをあげるのが痛くって・・・。笑った時に、歯がのぞいているのが見えると、『アー、大きくなったな』と思う。もうあさってで、10ヶ月です。5月11日は、初めてのバースデーです。早く帰ってきてね。ケーキ予約しようか?名前を入れてもらうやつ。それでみんなで写真撮りたいな。お料理も夕夏の好きなもの作って♡♡早く帰ってきて。3人でお祝いしたいです」(3月10日)

本村弥生さんと夕夏ちゃん
これを読んで痛烈に胸を打つのは、ここに書かれているごく普通の「日常性」の風景の様態が、ほぼ一カ月後に、想像だにできない激甚な「非日常性」の襲来によって、呆気なく崩れ去っていく厳とした現実が、この世に存在するということである。

思うに、「日常性」とは、その存在なしに成立し得ない、衣食住という人間の生存と社会の恒常的な安定の維持をベースにする生活過程である。

従って、「日常性」は、その恒常的秩序の故に、それを保守しようとする傾向を持つが故に、良くも悪くも、「世俗性」という特性を現象化すると言える。

「日常性」のこの傾向によって、そこに一定のサイクルが生まれる。

よく書いていることだが、この「日常性のサイクル」は、「反復」「継続」「馴致」「安定」という循環を持つというのが、私の定義。

しかし実際のところ、「日常性のサイクル」は、常にこのように推移しないのだ。

「安定」の確保が、絶対的に保証されていないからである。

「安定」に向かう「日常性のサイクル」が、「非日常」という厄介な時間のゾーンに搦(から)め捕られるリスクを、私たちは宿命的に負っているからだ。

その意味から言えば、私たちの「日常性」が、普段は見えにくい「非日常」と隣接し、時には「共存」していることが判然とするであろう。

考えてみるに、轢き逃げ事件に関与する映画の主要登場人物の全てが、「非日常の日常」の日々を繋いでいことが想起される。

「平凡というのはね、全力で築き上げるもんだと思うんですよ」

山田孝之演じる木島からリンチを受け、「非日常」の極点である死の際(きわ)にあった、青木(新井浩文)が小林(綾野剛)に放った、本作で最も重要言葉である

平凡なる日常性」が如何に尊い価値を有するかについては、先の本村弥生さんの、情愛溢れる日記の一文で自明であるだろう。

「早く帰ってきて。3人でお祝いしたいです」

「日常性のサイクル」が「安定」を確保することで、全力で築き上げる平凡価値を検証するのである。

本村弥生さんと、そこだけは違って、子供のいない夫婦限定の平凡なる日常性」だったが、映画の主人公・中村健一もまた、夫の健康を案じる妻・久子との情愛溢れる生活風景を繋いでいた

夫婦の「日常性のサイクル」も、全力で築き上げる平凡「安定」を確保していのだろう。

「予期悲嘆の実行」という心理的余裕なしに、「突然死」による「対象喪失」という最悪の事態に被弾し、その平凡なる日常性」が破壊されてしまったのである。


恐らく、その結果、中村健一は、複雑性悲嘆と呼ぶ以外にない精神状況に捕捉されたのである。

複雑性悲嘆は、日常生活や仕事などで近接する者との人間関係に支障を来し、極端な適応障害を惹起し、心身に与えるダメージが深刻な症状に変移する究極の悲嘆である。

複雑性悲嘆は、長期間にわたって、激しいままの状態で悲嘆が続き心の危機を膨張させ、それが日常生活を破綻させる危うさを内包する厄介精神状況なのだ

それは、重篤な欝状態の陥穽に嵌ことで、〈生〉の再生=「物語の再構築」というイメージに辿り着けないという、絶望的なペシミズムに搦(から)め捕られてしまうのである

その「非日常」の極点である死の際(きわ)に、中村捕捉されていた

それでも中村は、自死に振れなかった

なぜか?

辛うじて〈生〉を繋ぐ理由がぎりぎりの辺りで確保されていたからである。

即ち「突然死」による「対象喪失」を惹起させた者への憎悪が生き残され、それが殺意にまで膨張ていったからだ

自死に振れていく僅かな熱量よりも、木島へ殺意に集合する熱量の自給の方が大きかったのである。

これが中村の感情系を支え切っていく。

ここで再び、「天国からのラブレター」を引用したい。

今度は、愛する妻子を突として奪われた本村洋さんの言葉である。

本村洋さん
「この日から突然、たった独りぼっちにされてしまった私にとって、それからの日々は生き地獄同然でした。愛する妻子を喪った大きな悲しみと深い孤独。やり場のない激しい怒り・・・。ある時は、殺された妻や子供に対する追慕の思いに耐え切れなくなり、後追い自殺まで真剣に考えました。こんな荒みきったこころで生きていた当時の私に、束の間安らぎと生きる勇気を与えてくれたのは、生前妻が私の手元に残していってくれたこの貴重な手紙の束でした」

本村洋さんのこの言葉は、中村の感情系と基本的に同質のものであることが判然とするだろう。

「愛する妻子を喪った大きな悲しみと深い孤独」とは、「対象喪失」という最悪の事態に被弾し、その平凡なる日常性」が破壊されてしまった心理であり、「やり場のない激しい怒り」とは、「対象喪失」を惹起させた者への憎悪である。

「後追い自殺まで真剣に考えました」という絶望的なペシミズムに搦め捕られながらも、自死に振れなかったは、「束の間安らぎと生きる勇気を与えてくれたのは、生前妻が私の手元に残していってくれたこの貴重な手紙の束だった。

中村の行動の振れ方と同じである。

中村のそんな心情を理解するから、中村の鉄工所の従業員の久保が、青木の同僚・川村と気のないキャッチボールをしている姿を目視し、嗚咽に咽んである

中村の心情を理解できても、自分の力では何もできないのだ

ワンカットで説明するこのシーンは、とてもいい。

同様に、中村に再婚を勧める青木の行為も、久保の嗚咽をトレースする。

しかし、何もできない

中村に、その気がないのは、とうに分っていからだ

そんな中村、木島への憎悪が殺意にまで膨張ていったのは、ある意味で当然過ぎる感情だった。

本村洋さんも、当時18歳の犯人の少年に対する殺意を口にした。

あろうことか差し戻し審の弁護団による信じ難き主張の故に、死刑が確定するに至ったと言っていい。

「乳児を押し入れに入れた理由はドラえもんによって蘇生できると思ったから」などという主張に人間洞察力の致命的欠如が露わにされていて、見るも哀れと言う外になかった

殺意にまで膨張た憎悪が拠って立つ国民国家の手で裁いてもらうに至った本村洋さんと異なって中村健一の場合は、妻への轢き逃げ事件の犯人・木島が有期刑で出所後も全く反省の態度を見せない現実目の当たりにして、自らの手による復讐の行動に振れていく。

しかし、中村木島殺さなかった

「この物語は、最初から・・・君には関係ない話だった」

中村は、こう言い切ったのだ

木島殺しても、何も意味がないことを分っていのだ

これも本村さんの思いに通じる。

犯人の少年の死刑が確定するに至った時、本村さんは、喜びの感情がないというような思いをしていた。

本村さんも中村も、理不尽な犯罪に対する赦しがたさ」を一つの行為に結ぶことで、無念に命を落としていった、掛け替えのない愛する者への「弔慰」(堺雅人もインタビューで、この言葉を作品のキーワードして使用に昇華させていっただろう。

そのような行為に結ぶ以外に、彼らのグリーフワークは自己完結しなかったである。

但し、本村さんと、そこも異なって中村健一のグリーフワークは、捩(ねじ)れ切って完結せざるを得なかった。

捩れ切って完結するグリーフワーク ―― その風景のくすんだ広がり。

このイメージに収斂されると言っていい。

木島に対して、不安と恐怖だけは、たっぷりと経験させておく。

このモチーフの延長上に、「お前を殺して、俺も死ぬ」という脅迫状を送り続けるが、その内実は、木島を殺人犯に仕立て、死刑囚にすることで、愛する者への「弔慰」のうちにグリーフワークを完結する。

これは、「ショック期」⇒「喪失期」⇒「閉じこもり期」⇒「再生期」という風に遷移するグリーフワークのプロセスが「再生期」への昇華を否定することを意味するのだ

何より、「再生期」への昇華を否定する中村にとって、木島の一か月の食事のメニューを読み上げ「君の全てがここにある。君の人生がここにある。君は、本当に・・・何となく生きているよ」という言葉は、木島の人生の浮薄さを衝いた告発であった。

しかし、これは、現在の中村自身の生活の様態でもある。

「その夜の侍」と化して、二人の男は、弾丸の雨の中に身を晒した。

その「決闘場」で、中村木島に殺意がないことを知った。

ここで、自我機能を後退させていて、半ば妄想状態の渦中でイメージしたであろう、中村のシナリオは崩壊する。

自分も相手を殺す意志がなく、相手も自分を殺す意志がない状況下にあって、二人の男は、力尽きるまで、身体を衝突させる時間を作り出す以外になかった。

互いに追い詰められ、累加させてきた時間が抱えた膨大なフラストレーションを炸裂させ、燃焼し尽くすまで、「その夜の侍」の闘争が続くのだ。

これは、内側から突き上げてくるものに、殆ど事態の成り行きに身を任せた、それ以外に流れ込めない裸形の〈状況性〉の所産だったと言える。

燃焼し尽くした「侍」には、もう、物理的・心理的交叉は消失していた。


赤堀雅秋監督
それが「再生期」への昇華を否定する中村の、捩れ切って完結するグリーフワークの振れ方だったのだ。


【申し訳ありませんが、本村洋さん、本村弥生さん、本村夕夏ちゃんの画像を使用させて頂きました】

【参考資料】 「天国からのラブレター」(本村洋・弥生著 新潮社) 「『その夜の侍』 赤堀雅秋インタビュー」 「境界例の治療技法6:患者への理解と対応-投影性同一視による操作」


(2015年5月)

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