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2013年4月7日日曜日

おとなのけんか(‘11)       ロマン・ポランスキー



<隠し込まれた「当事者熱量」が噴き上げてしまったとき>



1  「一対三」の捩れ方を必至にした「当事者熱量」の意識の落差



子供同士の喧嘩を通して「事故」が発生し、そのことで「加害者」と「被害者」という風に仕分けられたとき、状況の中枢にいる子供たちの「当事者性」が、その子供の親たちに引き渡されるのは社会規範の王道でもある。

「事故」を惹起した子供たちの親たちが、その後始末のために「和解」の場を設けた時点で、既にその親たちには、「当事者熱量」が抑制的に隠し込まれている。

「当事者熱量」を抑制的に隠し込むことで、感情に任せた衝突を回避するという知恵が、大抵の大人には内包されているからである。

鋭角的な闘争を回避するために情動系がコントロールされている限り、「プライドライン」に関与する「当事者熱量」の突発的な表出は理性的に食い止められている。

だから、「大人の喧嘩」は簡単に起こらない。

価値観の相違を相互に認知し合って、情動系の出し入れを上手に表現するスキルを学ぶことで、「距離の感覚」を学習する心的プロセスを通過してきていること ―― それが、近代社会に呼吸を繋ぐ者の学習的達成点でもあった。

本作の二組の夫婦もまた、この学習的達成点を相応に内化していて、特段の破綻もなく、大人の知恵を媒介した「和解」に流れ込んでいくルールを踏襲していた。

しかし、「当事者熱量」を上手に隠し込んでいたはずの4人の大人の中で、限りなく、「当事者熱量」を内包しない男(アラン)が存在したために、マンションの一室という、特化されたスポットに空気の濁りが形成された。

「加害者性」を自覚しているはずのアランが、「被害者性」を意識する相手の親の元を、妻のナンシーと共に訪ねながら、男には「第三者熱量」の客観性が滲み出ていたのだ。

それを象徴するのは、アランの携帯に度々飛び込んでくる、仕事上の懸案事案に殆ど掛りっ切りになる行為を、被害者宅のスポットの中枢で執拗に表現してしまうシーンである。

大手製薬会社の顧問弁護士であるアランには、当該会社製造した薬を飲用したことが原因で、甚大な「事故」が発生し、それに対する法的対応の合理的指示を、逸早く出すことの方が問題だったのだ。

無理矢理、妻ナンシーに連れて来られたアランにとって、最初から、「加害者性」を抱懐して、被害者宅に訪問するという意識が欠落していたのである。

この訪問もまた、アランには、食うか食われるかというビジネス前線の、単に一つの、小さな「事故」でしかない行為だった。

事の発端となったのは、アランが作り出した空気の濁りが、看過できない〈状況性〉に膨張していく事態の必然的帰結だったと言える。

アランとペネロペ
そんなアランの所作に、逸早く神経を昂ぶらせたのは、被害者宅の妻・ペネロペである。

ダルフール紛争への人道的救済を、常に由々しき問題意識として内化することで、リベラルな表現活動を繋いでいる彼女には、アランの振る舞いは、自分と対照的な立場にある者に対する「敵対感情」を惹起させる許容し難い何かであった。

だから、事務的な処理を簡便に済ませて帰ろうとするアラン、ナンシー夫婦に対する、最初の不満が放たれていく。

それは、「良い夫婦だな」と相互に褒め合っていた柔和な空気感の中で、これまで隠し込んでいた「当事者熱量」が、緩やかに噴き上がっていく〈状況性〉の、最初の小さな炸裂だった。

思えば、被害者宅の夫・マイケルがハムスターを遺棄した事実に、動物愛護の心が強いナンシーが緩やかに反応しても、それを口外しなかったのは、当然の如く、「加害者性」を意識する彼女の中で、「当事者熱量」が抑制的に隠し込まれていたからである。

然るに、アラン本人には、その意図がないのだが、間断のない携帯での遣り取りが、「形式的謝罪」を印象づける振舞いに違和感を覚えた「正義派」のペネロペは、「当事者熱量」隠し込む抑制系の態度を緩めてしまうのだ。

元々、顧問弁護士という職業柄、係争に馴致し過ぎているアランには、子供同士の喧嘩の後始末など、「女の職掌」と括っているから、「第三者熱量」の客観的立場を越えられないし、その気持も持ち得ていないのである。

それ故、この四者関係の本質は、「当事者熱量」の意識の落差において、「一対三」の捩(ねじ)れ方を必至にしていたのである。

恐らく、「第三者熱量」の客観的立場を越えられないアランの随伴がなければ、「当事者熱量」を抑制的に隠し込む者たちによって、和解交渉が円滑に進み、そのまま、ナンシーの帰宅という軟着点に流れ込んで行ったとなっていたと思われる。

しかし、もう手遅れだった。

「ザッカリーは、今回の件をどう考えているの?」とペネロペ。
ナンシー
「多くは語らないわ」とナンシー。
「友達の顔を変形させたことは?」とペネロペ。

ザッカリーとは、アランとナンシー夫婦の子供であり、子供同士の喧嘩で惹起した「事故」の「加害者」である。

ここでアランが、初めて「当事者熱量」を自然に噴き上げて、「正義派」のペネロペに反論する。

「違う。変形なんぞ、させちゃいない。暴力は反省しているが、変形させたとは思っていない」

彼は、法廷の場などで、適度に緩急を織り交ぜながら、異議を唱えるプロの弁護士なのだ

「でも、適切な表現よ」とペネロペ。
「変形させてはいない」とアラン。
「させたわ。口も歯も」

ここで、ペネロペは感情を荒げてしまう。

「正義派」のペネロペには、大手製薬メーカーの顧問弁護士という肩書きそのものが、充分に「悪徳性」を張り付けていて、言ってみれば、彼女の価値観の「敵対者」なのである。

「唇は腫れが引くし、歯の治療費は援助する」

感情を荒げず、合理的な説明をするアラン。

「保険がきく。子供たちに仲直りして欲しいんだ」

マイケル
これは、穏健な印象を与える、ペネロペの夫・マイケルの言葉。

「場を設けましょう」とナンシー。
「それがいい」とマイケル。

こうして、看過できない〈状況性〉の第一幕が開かれていった。



2  隠し込まれた「当事者熱量」が噴き上げてしまったとき



子供同士で話し合わせるかどうか、両者の意見が衝突した。

親の介在を必要とすると説くナンシー。

「息子は問題児でね。父親の役割を期待されても困る」

またしても、意見の衝突にうんざりさせられたアランの本音が投入された。

早く帰りたいのだ。 

彼には、自らが負っている仕事の「重量感」によって、貴重な時間を奪われる事態こそ、何より由々しき問題なのである。

アランとナンシー
しかし、今や、頻繁に飛び込んでくるアランの携帯の「雑音」によって、彼の「第三者熱量」の客観性が増幅されるに連れ、「一対三」の捩(ねじ)れ方は極点に達しつつあった。

「今夜、息子を7時半に連れて来るわ。何か、ご不満?」とナンシー。
「もし、ザッカリーに責任能力がないなら、睨み合って終わり」とペネロペ。
「責任能力?何の話だ」とアラン。

ここで、両者は完全に感情的に対立するが、「責任」という概念が挿入されるようなときだけ、アランの「当事者熱量」が洩れてくるから、却って事態を悪化させるである。

「穏やかにやろう。もう一杯コーヒーをどう?」とマイケル。

この男は、万事、鋭角的な闘争を回避する振る舞いが目立つが、それも、少しずつ限界点を迎えつつあった。

ここで、両者が納得し、部屋に戻って来る。

仕切り直しの場でも、「正義派」のペネロペは、「他人事みたい」と言って、相手の心からの誠意を要求するから、事態の収拾に軟着できないである。

息子が問題児である事実を率直に認知する、アランの冷めたような合理的な態度と、それを不満に持つペネロペとの衝突は不可避だった。

アランが携帯を取っているときの、3人の大人は、感情を抑えて沈黙するだけだったが、アランに対するマイケルの不満が炸裂するに至った。

「妙な仕事をしているな」

大手製薬会社の汚い遣り口に、ストレートな物言を突きつけたのだ。

空気の濁りが浄化されないまま、ここから、四者入り乱れての混乱が惹起する。

その極めつけは、ナンシーの嘔吐騒動。

一貫して、「当事者熱量」を抑制的に隠し込んでいた、ナンシーの理性の限界が、ディストレス状態を身体化させたである。

この嘔吐騒動が、「一対三」の捩(ねじ)れ方を壊し、「当事者熱量」を存分に噴き上げていく新たな〈状況性〉を作っていく。

「あんたは事なかれ主義よ」

夫のマイケルに、批判の刃を向けるペネロペ。

今や、子供同士の喧嘩の後始末のための「和解」の空間は、呆気なくテーマを拡散させていく厄介なスポットに変容していた。

「私たち、ごまかさずに言うべきだったかも」

嘔吐から立ち直ったナンシーの吐露である。

それまで堪えていたものを出し尽くすかのように、本音で語る大人の面々が、限定スポットで存分に炸裂していくのだ

「親同士の下らない喧嘩に」

こんな状況下にあっても、「第三者熱量」の客観性を捨てずに、帰ろうとするアランの言葉である。

「息子は、前歯を二本失ったの」

「最大の仮想敵」に指弾を加えるペネロペの言辞には、常に毒気がある。

「どうせ“うわべ”だけの誠意よ」

相手の「形式的謝罪」の欺瞞性を衝くペネロペ。

そこに、マイケルの母から電話があって、体の具合が悪いことを訴えてきた。

「例のインチキ薬か?母が飲んでいる」

電話を置いた後、帰りかけたアランに、存分の嫌味を吐き出すマイケルは、もう、「事なかれ主義」の仮面を捨てていた。


「親がこのざまじゃ、ザッカリーも問題児だろうよ!」

これも、自分に対するペネロペの非難を反転させるかのような、マイケルの毒素の放出である。

帰ろうとする夫婦を、この一言が、リターンさせるに至る

「ハムスター殺し!道徳者ぶって、ねちねち私たちを責めて。動物は殺すくせに」

ナンシーの爆発的炸裂だ。

今度は、ハムスターの遺棄の一件で、火付け役のマイケルは、ペネロペとの醜悪な夫婦喧嘩を晒していく。

「こんな茶番やってられるか!俺は短気な野蛮人なんだ!」とマイケル。
「こんなに否定的な男だったとは・・・」とペネロペ。

男たちは、ここでアルコールを注入する。

女たちは、自分の配偶者を愚痴り捲る。

「平凡な人生が一番と決め込んでいる男よりマシよ。それが私の夫なの。何も変えたくない。何の刺激も要らないって男」

夫のマイケルに対する不満が乗じて、「最大の仮想敵」であるはずのアランに対する、頸から血管が浮き出る表情を露わにしたペネロペの愚痴は、いつも毒気満点である。

一方、ナンシーの爆発的炸裂は、今度は、本命の夫に向けられていく。

あろうことか、彼女は、夫の生命線である携帯を、花瓶の中に捨ててしまうのだ。

「全部入ってた。俺の人生が」

この男の本質を衝く決め台詞の如き、アランの嘆き節である。

携帯をドライヤーで乾かす男たち
大笑いする女たちを横目に、携帯をドライヤーで乾かす男たち。

「男は手ぶらでいるべき。孤独を身にまとわない男なんて、薄っぺらに見えるわ」

このナンシーの切っ先鋭い言辞こそ、「何でもあり」の空間と化した、厄介な〈状況性〉の抵抗虚弱点(ウイークポイント)を見事に言い当てていた。

本音のバトルトークを開いてしまったら、アルコールを必要とせざるを得ない男たちの脆弱性は、どんなときでも、携帯というツールなしに生きられない男の脆弱性をも炙り出していて、それまでギリギリに、「当事者熱量」を抑制的に隠し込んでいた妻の爆発的炸裂によって粉砕される、裸形の様態の惨めさを存分に曝されてしまったである。

携帯という名の絶対的ツールを失った男の意気消沈のさまは、遅れて、アルコールで酩酊した女たちの爆発的炸裂の迫力の前で、「男が好きなのは、官能的でクレイジーな女たちだ」という嫌味しか吐けない、無力なる男を演じているに過ぎなかったという訳だ。



3  言いたいことを言うが、殴り合う愚かさをギリギリに防ぐ民主主義社会の包括力



本作の面白さは、「当事者熱量」隠し込む態度を解放してしまったら、個々の価値観や性格の落差によるコンフリクトの炸裂によって、いつになっても、解決しない事態が延長される現象を徹底的に描き切ったところにある。

思うに、他人の喧嘩に簡単に入れないのは、「当事者熱量」と「第三者熱量」に大きな落差があるからだ。

 当事者同士は、相手の僅かな態度の挑発に激しく反応し、相乗効果によって益々納まらないし、周囲はバックドラフトを回避しようとするので、そこに熱量落差が広がるばかりとなる。

しかし、当事者の多くは、プライドが充たされるような「第三者的調停」を望んでいるから、熱量落差の中でクールな棒が挟まれることで、一気にリバウンドに向かっていく。

言いたいこ とを全部言い切って、且つ、プライドラインの補正が有効なら、あとはただ「引け際のタイミング」だけである。

 「第三者熱量」の存在こそが、当事者を救うのだ。

熱量落差の状況こそが、多くの争いに様々な選択肢を導入するのである。

集団には、常に一定の熱量落差が必要なのである。

クールな棒もまた捨ててはならないのだ。

ところが、本作の四者関係の本質は、「当事者熱量」の意識において、一対三の捩じれ方を必至にしていたにも拘らず、単なる無関心のアランの態度形成が、却って、事態を混乱させる役割しか演じられず、クールな棒の挿入が削り取られたまま、肝心要の、「本物」の「第三者熱量」の不在を露わにするばかりだった。

子供の喧嘩の後始末に、当事者を救うに足る、「第三者熱量」の介在が拾えないのは当然のことである。

そこでは、言いたいことを全部言い尽した果てに、傷つけられたプライドラインの補正の可能性が拾えず、いつまでたっても、「引け際のタイミング」に到達し得ないで、疲弊し切った精神だけが置き去りにされてしまったのだ。

「当事者熱量」の炸裂のうちに、「第三者熱量」の余地が弾かれてしまったら、こういう陰惨な風景が露呈されるという典型例が、そこに晒されていた。

それにも拘らず、ここまで本音の衝突が現出するのは、必ずしも悪くはないだろう。

言いたいことを言うが、その代わり、殴り合う愚かさをギリギリに防いでいたという解釈は、決して粗雑な見方ではないからである。

民主主義社会では、ここまでは許容されるのである。

民主主義社会の包括力が、そこにある。

傷つけられたプライドラインの補正は、自己責任の問題として受容すれば、自らの欺瞞性に向き合う余地もまた、拾えないとは言えないからである。

「人生最悪の一日」(ペネロペ、ナンシーの言葉)の一件が惹起したことによって、夫婦関係が壊れるに至ったとしても、そのような由々しき問題を隠し込んでいた者が、いつか露呈されることなしに済まないだろうから、それは単に、夫婦関係の破綻が前倒しにされただけであると考えるべきである。

―― 以下、本作に対する、私の簡潔な感懐。

その緻密な構成力によって、高く評価できる佳作であると、率直に私は思う。

しかし、どうしても、私の中でオーバーユーズされた者の如き触覚だけが生き残されて、それが、「言外の情趣」を削り取ってしまったようなのだ。

舞台劇ベースの過剰な表現の連射に、些か食傷気味になってしまったのは、人間心理の機微の範型を押しつけられたような違和感が最後まで張り付いてしまっていて、それが本作を、「一級の名画」と呼ぶことに躊躇する原因になっていたように思われる。

(2013年3月)

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