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2016年2月16日火曜日

仮面ペルソナ(‘66)     イングマール・ベルイマン

<映画作家の煩悶が集中的に外化し、模索する稀有なアーティストの映画論>



1  海辺の別荘を拠点にした女の真摯な「内的会話」の結晶点



「3カ月間、そのままで、あらゆる検査も受けた。精神的にも肉体的にも全く問題はなかった。ヒステリー発作でもない」

これは、舞台女優として地位を築いていたエリザベートが、突然、舞台の出演中、セリフが発せられず、「失語症」になった旨を、25歳の婚約中の看護婦・アルマに説明し、その看護を依頼する精神科医の言葉。

エリザベートの射抜くような目が怖くて看護を断ったアルマだが、精神科の女医の要請で、引き続き看護を担当する。

病床から、ベトナム戦争で焼身自殺する僧侶のテレビ画面を見ながら、すっかり怯(おび)え切ってしまうエリザベート。

そのエリザベートは、善良な夫からの手紙に同封されていた自分の息子の写真を、思わず破り捨ててしまうのだ。

「本当の自分でありたいと思っているのね。いつも自意識に縛られている。他人の目に映る自分との大きなギャップ。”曝け出したい”という激しい欲望。裸にされ、切り裂かれ、無になってしまいたい。何を言っても嘘になり、あらゆる仕草が演技。自殺する?それは、誇りが許さない。でも、身動きせず、沈黙すれば、嘘をつかずに済む。自分を外界から守れる。もう、心にもない演技をしなくてもいい。現実は残酷よ。割り込んで来る現実を完全には遮断できない。誰も、あなたの真の姿など、気にかけてくれない。安心できるのは、演技している時だけ。だからこそ、わざと口をつぐんだのね。自分の弱さを逆手に取った」

この女医の言葉こそ、エリザベートの「失語症」の背景にあることを雄弁に示唆していると思われる。

かくて、この女医の勧めによって、海辺に面した彼女の別荘への転地療養が具現する。

エリザベートの看護を担当するのは、言うまでもなくアルマだった。

エリザベートとアルマの二人は、短期間で良好な関係を築いていく。

「こんなに満たされた関係は初めてよ」

自分の婚約者・カテリーナとの「愛の縺れ」や家族について、一方的に話しかけるアルマの言葉である。

ある日、そのカテリーナによって、少年とセックスさせられたばかりか、素姓も分らぬ男たちと戯れた挙句、妊娠し、堕胎した過去の過ちを、泣きながら告白するアルマ。

「あの時の私は、何だったのかしら。普段の自分の理性が、どこかに消えてしまう。私の中に二つの人格があるのかしら」

どちらが看護婦だか分らないようなアルマの身の上話を柔和に聞くエリザベートにとって、アルマが言う、「二つの人格」という含みのある言葉こそ、まさに自己を投影する何ものかだった。

エリザベート(左)とアルマ
それは次第に、エリザベートとアルマという「二つの人格」が溶融し合う現象でもあったのか。

しかし、この関係に亀裂が生じる

「こんな静かな生活を送るのが夢だった。傷ついた心が、息を吹き返すみたい。彼女も楽しんでいるみたい。どうやら私を崇拝しているようなの。観察するのは面白いわ。過去を嘆くこともある」

これは、エリザベートに投函を頼まれた女医宛ての手紙文面の一部。

の手紙を盗み読むアルマが、先日、エリザベートに告白した事実を、「過去を嘆く」と書かれた文面に怒りを覚えたのは当然だった。

「あなたの声が聞きたいの。一言だけでもいいの。冷たい人だわ。芸術家の心は、温かいものだと信じてた。私の言葉も、何もかも、自分のために利用した!」

アルマの怒りが、相変わらず「失語症」に陥っているようなエリザベートに対して、直截(ちょくせつ)に吐き出したのも当然だった。

叩き合いの喧嘩になり、アルマは出血する始末。

それでも口を開かないエリザベートは、笑みで返すのみ。

それを見て、益々、自分の感情が抑えられないアルマは、「あなたの心は、ひどく病んでいる。健康である演技をしているだけ」とまで言い切って、エリザベートへの言語的暴力を重ねていくのだ。

このアルマの言語的暴力に不快な反応を示したエリザベートは、その場を立ち去っていく。

それを追うアルマ。

必死に謝罪するのだ。

アルマの謝罪に反応を示さないエリザベートを視認し、アルマはいよいよ傷ついていく。

エリザベートの夫が妻を見舞いに来たのは、まさに、そんな状況下だった。

ところが、出迎えたアルマをエリザベートと思い込むエリザベートの夫に、「奥さんではありません」と答えるアルマだが、「息子が会いたがっている」という男には全く通じない。

この時点で、二人の女性がエリザベートの分裂した人格であることが判然とする。

なぜなら、この男の前に二人の女性が立っているにも拘わらず、その現実を視認できないからである。

これが、エリザベートとアルマの人格の入れ代わりの本質である。

「何もかも、嘘と芝居よ!」

アルマのこの叫びは、本質的に、エリザベートの心の叫びなのだ。

この把握をベースにして、物語を繋いでいく。

この直後、アルマはエリザベートに対する難詰(なんきつ)を連射し続けていく。

エリザベート(右)とアルマ
エリザベートが舞台女優の仕事を中断したくないが故に、妊娠しても、赤ん坊への憎悪から死産を望むが、望まない我が子を産んでしまう。

以来、産んだことを後悔し、息子を憎み続けていく。

そんなアルマの苛酷な非難を拒否するエリザベートと、非難を止めないアルマとの応酬がピークアウトに達したとき、エリザベートは「失った言語」を復元させていく。

以上の二人の深刻な対峙は、詰まるところ、エリザベートの「内的会話」であったのだ。

「失語症」にまで至ったトラウマを克服したエリザベートが、舞台女優に復帰していくまでの一連の苛酷なエピソードの意味は、海辺の別荘を拠点にした彼女の真摯な「内的会話」の結晶点であったという事実によって検証されたのである。



2  映画作家の煩悶が集中的に外化し、模索する稀有なアーティストの映画論



これは、ベルイマン監督の映画論である。

そのことは、当初、本作に「映画」というタイトルをつけようとした事実によっても判然とする。

更にそれは、映写機が起動するフィルムから開かれる冒頭のシーンが、映写機のフィルムが燃え尽きていくショットで閉じていくシーンの挿入によって、より鮮明になるだろう。

だから本作は、「私たちが映画を見ていることを意識させる映画」(「ベルイマン」小松弘著 清水書院刊より)なのである。

ここで、冒頭のシーンを再現してみたい。

甲高くて、こめかみに響く金属音のような不快なBGMが誘導する映像が提示するのは、異常なカットの連射だった。

剥き出しのペニス、蜘蛛、鳥の内臓、眼、羊の解体、釘で打ちつけられる手、今にも死にそうな老婆の顔と、遺体と思わせる少年が目覚ましの音で起き上がる姿、そして、その少年がスクリーンに大きく映し出された女性の顔を、右手でまさぐっている。

この間、オープニング・タイトルが提示されるが、ベトナムの焼身僧や女の顔が映像に挿入される。

そして最後に、少年がまさぐって映し出された女性の顔が少年の母であるエリザベートである事実を提示する。

この事実は、物語の中で明らかにされる、エリザベートの記憶・妄想の総体である。

焼身自殺するベトナムの僧侶や、少年が手を挙げる「ユダヤ人移送」の例の有名な写真に象徴されるように、エリザベートはテレビ画面に映されたネガティブな映像を見て、恐怖に怯(おび)えているのだ。

この極めつけの構図は、「舞台監督=芸術家=映画作家」としてのベルイマン監督の内面世界の反映である。

「舞台監督=芸術家=映画作家」としてのベルイマン監督が、自分の内面世界の葛藤を的確に表現する文化フィールドこそ、オリジナリティ溢れる独特の映像世界以外ではない。

その内面世界の葛藤が、「映画」というタイトルをつけようとした、この狂おしくも悩ましい〈映像〉のうちに表現されていく。

そこで表現された物語は、狭義に言えば、前述したように、「失語症」にまで至ったトラウマを、エリザベートの真摯な「内的会話」によって克服していく内実であるが、私は本作を、もっと広義な解釈で読み取りたい。

その意味で、「人間の外的側面=ペルソナ」というユング心理学の概念と無縁でないが、「アニマ」(男性の中の女性像)・「アニムス」(女性の中の男性像)という有名な概念とは、特段の関連性を持ち得ない。

思うに、「舞台監督=芸術家=映画作家」というベルイマン監督が、社会的ポジションから離れた私的な日常性の渦中に侵入する、社会や世界のネガティブな現実に付き合わされる時間を累加させていくと、どうしてもそこに、ごく「普通の社会人」としての無力感を感受せざるを得なくなるだろう。

この不快な現実の様態を、自分の中で浄化し得る手段として、映画作家は、その本来の芸術家としての相貌性に仮託させ、そのイメージの総体を、映画の嘘の「物語」である事実を認知しつつ、全人格的に表現し切っていく。

この映画では、ベルイマン監督に内在する二つの相貌性、即ち、「芸術家=映画作家としての表の顔」と「社会人としての裸形の人格」を分裂させ、葛藤し、融合しつつ、本来の芸術家としての姿に立ち返っていく自己像を、監督自身の映画論として「主張的自己呈示」したものと考える。

「映画作家」を排除した、「芸術家としての表の顔」はエリザベートに自己投入し、「社会人としての裸形の人格」はアルマに自己投入させるのである。

だから、エリザベートもアルマも、ベルイマン監督に内在する二つの相貌性が分裂的に表現された人格である。

映像表現に行き詰まって、ユング心理学に依拠し、大傑作「81/2」(1963年製作)で「主張的自己呈示」したフェデリコ・フェリーニ監督のように、「神の沈黙」三部作を撮り終えたベルイマン監督もまた、最後まで、正確な原因が特定されない「失語症」になったエリザベートに、映画作家・ベルイマン監督の煩悶が集中的に外化し、模索しているのだ。

それ故、本作が「映画」であることを敢えて見せるばかりか、「映画」とは何か、自分が創るべき「映画」とは何かという根源的課題を、突き詰めていくように思えてならないのである。

【参考資料】  「ベルイマン」(小松弘著 清水書院刊)   「教育心理学Ⅱ」(下山晴彦編 東京大学出版会)

(2016年2月)


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