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2014年2月17日月曜日

パーマネント野ばら(‘10)    吉田大八


<ブラックコメディの暴れようが、ヒューマンドラマに一気に回収されていく秀作>



1  ブラックコメディの暴れようが、ヒューマンドラマに一気に回収されていく秀作



山下敦弘監督と共に、吉田大八監督は、私にとって、邦画界で最も愛着の深い映画監督である。

その殆ど全ての作品が好きな山下監督は別として、吉田監督はその明晰な頭脳で、巧みな構成力を構築する抜きん出た才能が印象づけられて、私にとって次回作が最も楽しみな監督であると言っていい。

作品の肝となるクライマックスを作り出し、そこに、物語の基幹的な構成要素を収斂させていく手腕の凄さに驚かされる。

桐島、部活やめるってよ」(2012年製作)の映画的成功は、その典型的な作品だった。

そこだけは、解放系の限定スポットとして、天に向かって開かれている屋上に物語の主要な登場人物たちを集合させ、そこで各自の情動が衝突し、炸裂する青春を描き切った構成力の見事さに震えが走ったほどである。

不必要なまでに、交わらないことによって守られる若者たちの自我によって、巧みに棲み分けされた「知恵」を駆使し、「スクールカースト」と揶揄される部活のヒエラルキーの中で、自分の居場所を確保しながら、悩みつつも、一生懸命、「現在」に呼吸を繋いでいる彼らの姿に率直に感動した作品 ―― それが、「桐島、部活やめるってよ」だった。

本作もまた、作品の肝となるクライマックスに向かって、物語の基幹的な構成要素を収斂させていて、蓋(けだ)し圧巻だった。

緻密に練り上げた構成によって、決定的に反転していく映像の風景の訴求力は絶大であり、ラストシークエンスのうちに悉(ことごと)く伏線を回収していく見事さは、吉田監督の蓄積された技量の一端を検証するものだろう。

―― 以下、「パーマネント野ばら」と題する、一見、蠱惑(こわく)的な映画の梗概を簡便にまとめてみる。

高知の片田舎の海辺の町。

その一角に、港町で唯一の美容室がある。

その名は、「パーマネント野ばら」。

離婚して帰郷したなおこが、一人娘のももを随伴し、母が経営する美容室を手伝っているが、そこに通う常連の女たちは、店を社交のスポットにして、下ネタ満載の「パンチパーマ」のおばちゃんトークが炸裂する。

「あのチンコは、ほんま良いチンコやったね」
「どのチンコ?」
「誰やったろう。年のせいか、どの顔がどのチンコやったか、よう思い出せん」
「キミちゃん、ボケるには早いで」
「まだまだ、元気やろ、あんた」と他のおばさん。
「やったもん勝ちや。食える男は、食う」

こんな逞しい女たちがいるからこそ、この国が壊れそうで壊れないのだと、つくづく思う。

ともあれ、「食える男」の一人のような、なおこの義父は、他の女の家に入り浸っているが、母には離婚する気が更々ない。

そのなおこには、幼少時からの友人が、二人いる。

フィリピンパブを経営しているみっちゃんと、男運の悪いともちゃんである。

二人とも、この土地の風土が生んだようなダメ男たちに馴致しているから、他の女たちと同様に、相当にタフな気性を身につけている。

それでも、男を求め続けるから、しばしば厄介な事態を招来する。

フィリピンパブを経営しているみっちゃんは、浮気夫に悋気し、相手の女共々、車で轢き殺そうとする事件を起こし、夫婦揃って病院行き。

みっちゃん
ところが、退院したみっちゃんは、浮気夫を捨てられず、金の無心をするダメ男の甘えを許容するので、彼女の「男断ち」は、いつまで経っても実現困難なのだ。

一方、男運の悪いともちゃんが、漸く手に入れた「幸福夫婦」の夢は、敢えなく頓挫する。

ギャンブル三昧の挙句、行方不明となった夫の身を案じる始末。

そして遂に、行路病者になり果てた末の、夫の死を知るに至る。

「失敗は失敗のもと」という卓見で有名な岸田秀の言葉を援用すれば、ともちゃんは「失敗のリピーター」と言えそうだ。

失敗をするには失敗をするだけの理由があり、それをきちんと分析し、反省し、複合学習しなければ、かなりの確率で人は同じことを繰り返してしまうからである。

そんな中にあって、出戻りのヒロイン・なおこだけは「純愛」を繋いでいた。

カシマ
子連れ再婚になるだろう相手は、地元の高校教師カシマ。

他のダメ男たちと一線を画すカシマの人間性は、人も羨むほどの抱擁力に溢れているが、なぜか、彼女は、自らの「純愛」を親友たちに秘匿する。

しかし、二人で温泉に出かけた日、他の女たちのように、感情を表出しないなおこに異変が出来することで、彼女の内深く張り付く心的外傷の負荷が、一気に炸裂していく。


それは、ブラックコメディの暴れようが、ヒューマンドラマに一気に回収されていくシグナルだった。




2  フラッシュバックの発現によって開かれた、「対象喪失」の悲嘆の激甚さ




ここから、物語を一気に進めて、作品のクライマックスに入っていく。

なおこ
二人で温泉に出かけた日のこと。

カシマと待ち合わせしたなおこが、窓から見える海を見ながら、温泉宿の一室で男を待っている。

すると、男の乗る赤い乗用車が走行して来るのが、なおこの視界に入った。

嬉々として、駆け走っていくなおこ。

エレベーターが開いて、降りて来たカシマを、背後から驚かすなおこ。

部屋に入るや、カシマはなおこの体に帯を巻き、彼女を回して触れ合い、じゃれ合ううちに、情感が合わさって、二人は睦み合う。

なおこの至福の時間が極まった瞬間だった。

夜になった。

いつの間にか、なおこは眠りに就く。

覚醒したなおこの視界に、カシマが収まらない。

ビールの栓も抜かれていない。

旅館中を探すが、どこにもいない。

駐車場からも、カシマの乗用車が消えていた。

焦燥感に駆られるなおこ。

温泉宿の女将や仲居に聞いても分らないのだ。

苛立つように、帰宅するなおこの表情から漏れ出る脱力感。

そのときだった。

既に認知症に罹患している、みっちゃんの父による停電事件が惹起する。

あろうことか、チェーンソーで電柱を切り倒すのだ。

いつものことだが、この日もまた、辺り一面がが停電し、小さな街全体が閃光のように輝く絵柄が提示されたが、この日ばかりは様子が異なっていた。

この閃光は、そこから一気に開かれる、なおこのフラッシュバックを象徴したものであったからだ。

そのなおこは、キッチンの椅子に座り、テーブルに伏せたまま、いつしか眠りに就いていた。

その直後の映像は、電話ボックスでの「非在なる相手」との会話。

「どうして、いなくなったの?ううん、怒ってないよ。びっくりした。うん、いいよ、また、今度どっかに行こう」

ここで「間」ができる。

電話ボックスから嗚咽が漏れ、なおこは受話器を持ったまま、崩れるようにしゃがみ込んでしまう。

最後は激しい嗚咽となっていた。

「うち、もうあんたのこと、よう分らん。いつも黙って話、聞いてくれるやろ。傍におってくれて、優しゅうしてくれるやろ。けんど、もう、よう分らんき。うちのこと、好きでおってくれる?うちと会うてない時、うちのこと、ちょっとでも考えてくれゆ?会いたいね、どうしているのやろかって思ってくれゆ?うちは、いつもそうやき。いつもそう。なんでうち、こんなに寂しいが?なんで、寂しゅうて、寂しゅうて、たまらんが?なんで?」

恐らく、「入眠時幻覚」の中で、最も心地悪き妄想に捕捉されたなおこは、今や、脆弱でナイーブな自我のうちに、抱え切れなくなった強烈な心的外傷(トラウマ)の記憶が、一気に炸裂したのだろう。

心的外傷の鮮明な再体験=フラッシュバックの発現である。

それは極めて強い感情の襲来で、自我の抑制力が瞬間的に劣化した状態である。

しかし、「入眠時幻覚」の中のフラッシュバックであるが故に、「対象喪失」の強烈な心的外傷の破壊力は希釈されてしまうが、それでも、このような現象の発現は、「対象喪失」の破壊力からの「防衛機制」の戦略として、「恐怖突入」を回避、重い負荷のかかる心的状況に捕縛された自我を守るために、愛情対象者の「非在」を否定し、「悲嘆は悲嘆によってのみ癒される」というグリーフワークの基本命題を受容しなかった、物語のヒロイン・なおこの内側に、「再生」への重大な転機への萌芽の、小さな一歩が顕在化した事態を示している。
 
しかし、人間は極めて複雑な生物体である。

内側に閉じ込めていた由々しき記憶が動き出すことによって、それまでぎりぎりに守られていた内的秩序が壊れ、「防衛機制」の戦略のうちに回避してきた「恐怖突入」を、内部から強いられていくという、未知なるテールリスク(発生すると非常に巨大な損失をもたらすリスク)に被弾する危機と共存してしまうのである。

「再生」への小さな一歩は、同時に、新たな危機の襲来でもある。

PTSDの底知れない破壊力を、決して侮ってはならないのだ。

なおこは、今、このような得体の知れない時間の渦中にあった。



3  一人の掛け替えのない「母親」に変容していくイメージを乗せた、ラストカットの重量感



「入眠時幻覚」の中でのフラッシュバックの発現によって、映像の風景は、ここから決定的に反転していく。

そのことを示すエピソードがある。

親友のともちゃんが、野垂れ死にした夫の唯一の形見である、スロットのコインを埋めるエピソードがそれである。

ともちゃん(右)
「人は二度死ぬがやと。一回目は生きるのがやまうてしまう、この世におらんようになった時。二回目は人に忘れられてしまう時よ。人の心におらんようになったら、いよいよ最後だと。今度こそ本当に死ぬ。二度と生き返らん」

それを聞いたなおこは、思い余って、ともちゃんに告白する。

「今まで誰にも言わんかったけんど、うち、カシマとつきあってる」

笑みを湛えながら告白を聞く、ともちゃんの表情を不思議に思ったなおこは、その思いを表現する。

「このこと、ともちゃんに話した?」
「何遍も聞いたよ。忘れん坊やな、なおちゃんは。平気。何遍でも話して」

ともちゃんは、カシマという愛情対象者の「非在」を否定し続けて、妄想を繋いで生きるなおこの現実を、とうに認知しているのだ。

ともちゃん
然るに、なおこは、野垂れ死にした夫を埋葬することで、永遠の別離の儀式を遂行するともちゃんのように、愛情対象者との別離の儀式(グリーフワークを済ませていないから、可愛い娘がいながら、凍結した時間の海を漂流するばかりだった。

しかし、この漂流感覚が、なおこの内側で、内的秩序が壊れそうなダッチロールの様相を露呈してきたのである。

それでも、変えられない「記憶の変換」がある。

カシマの「非在」を否定する強い思いである。

カシマの死を認めたら、現実の重くて辛い行程のリアリティーを、全人格的に突き抜けていく自信がないのだ。

だから厄介なのだ。

「一緒に暮らすか?ほっといたら、どっか行っちゃいそうだからな、あんた」

海辺でのカシマの言葉だが、無論、なおこの妄想の世界における彼女の内的言語である。

この言葉は、相当の危うさに満ちている。

カシマなおこ
カシマが棲む「黄泉」の世界への誘惑に、なおこ本人が、浮遊する心的風景の中で、怪しげに駆られているからである。

そのとき、後方から声がかかった。

「なおこ、おいしい焼酎入ったけんど、どう?」

みっちゃんだった。

彼女は、なおこの様子を瞬間的に察知し、すぐに言葉を添えた。

「あ、デート中かい。邪魔してごめんね」

現実に戻り切れないなおこは、辺りを見回している。

いつものように、突然消えた、カシマの姿を探しているのである。

今度は、帰ろうとするみっちゃんに、後方から声をかけたのは、現実に戻り切ったなおこである。

「私、狂ってる?」

なおこの表情を見詰めながら、みっちゃんは、きっぱりと言い切った。

「そんなんやったら、この街の女は、みんな狂うちゅう」

みっちゃんの言葉には、冒頭でも書いたように、警察沙汰になるレベルの事件を起こしながらも(ブラックコメディの範疇で映画的に処理)、一人で生き抜いていく気迫に満ちているから、なおこをアクチュアル・リアリティ(現勢的現実)という名の、「人生の最前線」に戻すに足るパワーを秘めていた。

 嗚咽を堪える表情を見せながら、なおこは、依然として海辺で立ち竦んでいる。

 彼女は、今、初めてトラウマのルーツと向き合ったのだ。

それ故にこそ、危うさと共存してしまうのである。

 この直後の映像は、なおこのトラウマのルーツが何であったのかという根源的テーマへの解答が、一気に映像提示されていく。

 そのコアにあるのは、ただ一点。

禁断の恋を繋いでいた高校教師のカシマが、海難事故で死んだと思われる、あの日の惨事によって、高校生のなおこの時間が凍結してしまったという厳然たる事実である。

カシマと睦み合うなおこの至福が、突然、破壊されて、「一人芝居」を演じる女の凍結した時間の海が、虚しく漂流するカットがインサートされる。

一切が明らかにされたとき、なおこの内部世界で凍結した時間が内包する、途轍もない重量感に慄然とするが、そのような行為の振れ具合こそが、裸形の人間の紛れもない脆弱性の様態であることを認知せざるを得ないだろう。

 一方、なおこと別れたみっちゃんは、「パーマネント野ばら」に顔を出した。

 「なおこ、見んかった?」

またも、行方が分らなくなって心配するなおこの母は、みっちゃんに尋ねた。

 「デートしゆう。海で」

殆ど了解済みのような口調で答えるみっちゃん。

 下ネタトークで盛り上がっている女たちが、一斉に、みっちゃんに視線を移す。

 「大丈夫やき」

笑みの中で、ここでも、きっぱりと言い切るみっちゃん。

 
なおこの母
その言葉に安堵する母。

 「なおこのデート」という一言で、全てが了解し得るほどに、女たちには情報が共有されているのだ。

 「パーマネント野ばら」に集う女たちにとって、「なおこのデート」を案じつつも、丸ごと包括していく柔和な思いで、薄幸の女を見守り続けている。

 なおこだけが、それを知らない。

 だから、この二つの世界がクロスすることはない。

クロスすることがないから、「なおこのデート」が延長されてしまったのだ。

しかし、「なおこのデート」は、今、破綻しかかっている。

フラッシュバックが発現してしまったからである。

トラウマのルーツと向き合う状況性のただ中に、薄幸の女が、ぎりぎりに呼吸を繋いでいるのだ。

薄幸の女は、トラウマのルーツである忌まわしき海辺に、その裸形の身体を晒していた。

 
海岸の砂を掴んで、目を瞑りながら、海を見詰めている。

 しかし、もう、なおこの狭隘な視界の中枢に、カシマの姿形が現出しない。

なおこは、海で死んだ男に、蠱惑(こわく)的に誘(いざな)われていく危うさから抜け出すことができたのだ。

「大丈夫やき」と言い切った、みっちゃんの確信的な言葉には嘘はなかったのである。

そのときだった。

「お母さん」

 母を迎えに来た、ももの明るい声が、清澄な空気を伝播して、母の中枢にストレートに届いた。

笑みを返す母。

既に、眼を開いている母には、今、この時の、辛い現実を受容するに足るだけの力が生れていたのだ。

なおこが少しずつ、しかし確実に、一人の掛け替えのない「母親」に変容していくイメージを乗せて、印象深い映像が閉じていったのである。



4  悲嘆は悲嘆によってのみ癒される



なおこもも
「対象喪失」のトラウマの破壊力を、より効果的に表現するためなのか、リアリティを蹴飛ばすブラックコメディという手法の駆使が、どこまで、映画的構成力の成就として評価し得るかどうか意見が分れるところだが、少なくとも、私はこの映像構成を受容する。

だらしない男たちを担ぎ上げてまで生きる女たちの、無類の逞しさを拾い上げたブラックコメディの、その途轍もない包括力が、「対象喪失」の破壊力に震える女の悲しみを吸収する映像構成において、破綻しそうで破綻しない物語をギリギリの際(きわ)で掬い取っていたからである。

一切は、物語を反転させるクライマックスに向かって決定的に開かれていく、「対象喪失」の破壊力に震える女の悲しみに関わるシークエンスを、映画的に際立たせるための構成力の勝負であって、それは決して、「どんでん返し」という「驚かしの技巧」のゲームの範疇を突き抜けていたと、私は考えている。

 「どんな恋でもないよりましやき。好きな男がおらんなるゆうて、ウチは我慢できんのよ」

みっちゃん
これは、魚を鷲掴みにして闊歩するようなみっちゃんが、夫と愛人を轢き殺そうとした事件で重傷を負ったときの言葉。

間違いなく、前半のブラックコメディのコアとなっている。

「私、狂ってる?」
「そんなんやったら、この街の女は、みんな狂うちゅう」

ヒロインとみっちゃんのこの会話こそ、後半のヒューマンドラマのコアであるばかりか、映像総体を通底する風景のイメージであると言っていい。

また、「対象喪失」の破壊力が尋常でないことは、既に、現代心理学の揺るぎのない定説になっていることは周知の事実。

思えば、高校時代に、なおこが被弾した自我のトラウマは、恐らく、海難事故死と思われる、カシマという名の高校教師への、それ以外にない激甚な「対象喪失」の破壊力を受け入れるには、揺動する思春期のナイーブな自我では負荷が重過ぎる。

「決して失ってはならないものを、奪われたときの辛さ」

これが、なおこの辛さの本質である。

求めても得られない寄る辺無き関係状況。

これが、「孤独」についての私の定義である。

当然、物理的な意味での「孤立」という概念と分れている。

この「孤立」に起因する、「独りぼっち」という寂しさの感情を生み出すケースも多いが、ヒロイン・なおこの「孤独」の本質は、愛情対象者・カシマとの、求めても得られない寄る辺無き関係状況であるが故に、どれほど強く求めても、愛の稜線の延長を永遠に手に入れられないカシマとの、最も辛い別離の儀式(グリーフワーク)なしに、「再生」という名の自己完結を遂行し得ないのである。

思うに、何某かの深刻な心的外傷を経験すると、自我による人格統一が困難になりやすく、しばしば自己防衛のために、外傷の記憶を封印する手段として様々な心的機制を図っていく。

 例えば、心的外傷に対して「あのときは何も感じられなかった」と、体験者自身が後に語ることが多い「感覚鈍磨」の反応を示したり、もっと積極的に、心的外傷を封印する「回避反応」に逃げ込んだりするというケースがそれだ。

本作のなおこの場合、自我を「感覚鈍磨」させ、愛情対象者の「非在」を否定することで、「防衛機制」の戦略を駆使していった。

カシマの死を受容できないから、「その後の二人の幸福な人生」のイメージを追い続け、学校訪問したり、二人で温泉に出かけたり、海辺のデートを重ねる。

しかし、これらの行為は全て妄想の産物だから、現実の他者から見れば、「一人芝居」を演じる、精神障害者の「狂気の沙汰」の現象に映ってしまうだろう。

例えば、学校訪問の際の二人の逢瀬は、なおこという「外部闖入者」の校内彷徨でしかないから、階段を一人で下っていく女を目視する女子生徒から、不思議な目で見られてしまうのである。

深刻なのは、夜間のデートをした際に、自分の娘のももを置き去りにした行為に象徴されるように、母親のアンモラルが問われることになるという切実な現実である。

なおこの母から、夜遅く彷徨するなおこが咎められたのは、あまりに当然のことだった。

なおこもも
自宅に戻ったなおこは、娘がぐずって泣いている姿を見て、初めて「現実の世界」に戻っていくのだ。

どこまでも、高校時代に被弾したトラウマを封印することで延長される、なおこの人生の歪みは修正されることなく、「現実の世界」との往還を繋ぐという異常な精神様態は、悲嘆は悲嘆によってのみ癒されるという、グリーフワークを通過してこなかった者の自我の破綻の危機を露わにするだろう。

然るに、当時の高校生にとって、「対象喪失」による悲嘆を受け入れることは、果たして可能だったのか。

結局、カシマ「非在」を否定し、妄想の世界に潜入する自己防衛戦略以外の選択肢が存在しなかったのだろう。

PTSDの破壊力を、今更ながら思い知らされる。

思えば、なおこは、少女時代に、母の再婚を受容し得ず、車から飛び降りた行動を考えれば、その後の彼女の思春期の浮遊感が理解できる。
 
「可愛い傷?何の傷?」
「ウチはこの傷嫌い。この街も嫌い。まともな人間は、全部よそへ出て行って、残り滓ばかり住んでる」
「俺も残り滓か?」

小さく首を振るなおこ

カシマとのこの会話の中で、カシマの存在が、思春期の彼女の自我の安寧の絶対基盤になっていた事実が検証されるだろう。

いつまでも、「現在」という時間を、普通の日常性の枠内で流していけない、彼女の悲哀の風景に同情を禁じ得ないのである。

グリーフワークが自己完結することなく、内側に抱えた不条理の感情を引き摺って、彼女は虚空を浮遊する以外になかったのだ。

悲嘆は悲嘆によってのみ癒される。

つくづく、この言葉の重さに身震いする思いである。

なおこを演じ切った菅野美穂の、その内的表現力が素晴らしかっただけに、深い余情を残す秀作になった本作を、私は全面的に受容したい。

私の好きな「パーマネント野ばら」。

主演の菅野美穂(彼女の最高傑作)は言うに及ばず、小池栄子(懐の深い女の最高のレベルの演技を披露し、圧巻だった)、池脇千鶴(この演技で見せた彼女の笑みこそ、池脇千鶴の独壇場)、夏木マリらの女優陣と、高校の理科教諭を抑制的に演じた江口洋介(これほど魅力的な江口洋介を観たことがない)の、男優としての魅力をマキシマムに引き出したことで、「パーマネント野ばら」は、「桐島、部活やめるってよ」(2012年製作)と同様、怒涛のように収斂されていくラストシークエンスの感動を約束させたのである。

素晴らしい映画だった。


(2014年2月)



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