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2015年12月15日火曜日

マレーナ(‘00)      ジュゼッペ・トルナトーレ

<戦略的映像の理念系映画の鮮やかな着地点>



1  「心に残るのは、あの少年の日に愛した女(ひと)だけ。マレーナ・・・」



「ファシスト党のムッソリーニ首相の演説があるから、カステルクルトの町民はラジオ放送を聞け!」

軍の宣伝カーから開かれる物語は、少年時代を回想する主人公・レナートのナレーションに結ばれる。(因みに、カステルクルトは架空の町)

「初めて彼女を見たのは、1940年のある春の日。私は12歳半だった。あの日、イタリアは英仏に宣戦布告。私は初めての自転車を手に入れた。町中の人々は参戦を喜んでいた」

半ズボンをはいた、このレナート少年の視線によって語られる物語は、参戦によって沸き立つカステルクルトの町民の熱気を映し出し、自転車に乗って、その時代の空気を共有する少年の、決して忘れ得ない回想シーンに繋がっていく。

レナートが見た「彼女」とは、ラテン語教師の娘であるマレーナ。

そのマレーナが通るカステルクルトの海岸線の一本道の堰堤に蝟集(いしゅう)して、町の年長の少年たちと、彼女を凝視し続け、彼女の後を追い駆けていく。

「ヤリてえよ。結婚してなけりゃな」などと大口を叩く年長の少年。

それが、思春期前期の少年たちの、どこにでもあるごく普通の風景だった。

ところが、夫が出征しているマレーナに対するレナートの想いは、他の少年たちより膨張し過ぎていた。

半ズボンじゃ恥ずかしいよ

だから、父親の長ズボンを勝手にお直しして折檻されても、自分の思いを吐き出すのである。

この程度なら、ごく普通の「思春期スパート」(第二次性徴期)の範疇の行為と言えるかも知れない。

ところが、レナートの行為は些か常軌を逸していた。

マレーナの家の中を、壁穴から覗くというストーキング行為に振れていくのだ。

愛する夫のフォトスタンドを抱き締め、甘いメロディに合わせて、一人で踊るマレーナ。

レナート妄想
そのレコードを買って来て、それを自室で聴きながら、自慰行為をし、妄想の世界で愉悦するレナート。

町中の男たちの視線を一身に集めが故に、女たちからの嫉妬の視線が、「アバズレ。品の悪い女」という悪意に変換されていくのもまた、男と女の自然の摂理でもある。

「マレーナに情夫がいる」

この根拠のない噂が、女たちの悪意の根柢にある。

これも、よくあることだ。

「ニノ・スコルディーア中尉は、北アフリカの戦闘で勇敢に闘い、命を落とした。未亡人マレーナは悲しみに打ちひしがれ、ここには来ていない」

広場でのファシスト党の集会で、マレーナの夫・ニノの戦死が報告されたことで、彼女の人生が一変する。

女たちの悪意の膨張とは裏腹に、その時、マレーナは愛する夫の死に衝撃を受け、ベッドに横たわり、咽び泣いていた。

その事実を、レナートだけが知っている。

「僕があなたを守ります。永遠に。大人になるまで待って」

咽び泣くマレーナに向かって吐露するレナート。

無論、少年の妄想である。

以降、未亡人となったマレーナに、町の人々の好奇の視線が集中したのは言うまでもない。

日常的な会話を繋いで来なかった彼女の生き方に起因するが故に、マレーナに対する噂の大半が、「浮気して好き放題やっている」という、悪意に満ちたものになるのは必至だった。

だから、レナートの思いが、マレーナを守ろうとする行為に走るのも当然だった。

喪服に身を包むマレーナへの悪口を言う者に投石し、自転車で疾走するレナート。

13歳にも満たない少年には、この程度のことしかできないのだ。

そんなレナートが、例の壁穴からファッシスト党のカディ中尉と浮気する現場を目撃し、衝撃を受ける。

一切は、遺族年金を減らされ、生活の糧を失った未亡人の、それ以外にない生存戦略だった。

更に、歯医者との浮気が喧伝され、歯医者の妻の提訴で裁判沙汰になっていく。

醜男だが、有能な弁護士を頼んだことでマレーナの裁判は勝訴するが、その代償が件の弁護士に手篭(てご)めにされるという手痛いものだった。

マレーナの置かれた状況が、いよいよ悪化していく。

連合軍がイタリア南部に侵攻して来たことで、シチリア島に避難民が押し寄せて来て、より深刻な食糧不足と病気の蔓延が懸念されるようになる。

この渦中にあって、マレーナの不幸は終わらない。

マレーナの噂に振り回され続けた、ラテン語教師であるマレーナの父親が、シチリアへの空襲で落命するに至るのだ。

長い黒髪を切り落とマレーナ
孤立無援のマレーナが長い黒髪を切り落したのは、その直後だった。

「何て下品なの」

ライトブラウンに染め、町を歩くマレーナへの女たちの視線は、嫉妬というよりも軽侮の感情に満ちていた。

しかし、男たちは違っていた。

広場のオープンカフェのテーブル席に座ったマレーナに、好奇の視線が集中し、彼女の煙草にライターの火が一斉に差し出されるというコメディカット。

それは、堂々と居座るかのようなマレーナの心境の変化を示していた。

だから、男たちにとっては、より近接感が増幅したのだが、同盟国のドイツ兵の進駐によって、彼らを相手にする娼婦になり下がったことで、町の連中の視線が「売国奴」というネガティブなイメージに変換されていく。

誹謗中傷の氾濫の風景に、レナートが衝撃を受けたのは言うまでもない。

「悪魔払い」で息子を正気に戻そうとする母親と、「一発やらせてやればいいんだ!」と反論する父親との対比が強調され、当のレナートが、マレーナに似た商売女と「筆下ろし」をするシーンが挿入されるが、未だ、物語はコメディラインで固められていた。

敗北したドイツ軍に代わって進駐して来たのは、「ハスキー作戦」(シチリア島上陸作戦)による米主体の連合軍だった。

連合軍を迎える町民たちの熱気が蔓延し、ここから、物語の風景が一変する。

「薄汚い商売はお終いだよ!」

マスヒステリアによるリンチ
そう言うや、女たちが下着姿のマレーナを引き摺り出し、殴る蹴るの乱暴を働き、挙句の果ては、彼女の髪をズタズタに切り落していく。

明らかに、マスヒステリア(集団狂気)による凄惨なリンチである。(注)

悲鳴を上げるマレーナのその姿を見て、何もできない男たちの中にレナートがいる。

「町から出てお行き!」

女たちのこの最後通告によって、隠れ忍ぶように町を去っていくマレーナと、それを黙って見送るしかないレナート。

そして、連合国の傘下にあるシチリア島に、マレーナの夫・ニノ・スコルディーア中尉が帰還する。

右腕を喪っていたが、マレーナの夫は戦死していなかったのである。

妻・マレーナを必死に探すニノ。

「誰も真実を教えられんな」

この言葉は、シチリアの男たちの間で共有されていた暗黙の了解事項だった。

しかし、ニノに幸運がもたらされた。

レナートからの手紙が届けられたからである。

「スコルディーアさん。男らしく会って話す勇気がありません。でも、奥さんの真実を知っているのは僕だけです。町の人々は悪意に満ち、奥さんの悪口しか言おうとしませんが、どうか信じて下さい。マレーナさんは、あなた、ただひとりを愛していました。でも、生きていくために他に方法がなかったのです。最後に見たとき、奥さんはメッシーナ行き列車に。迷いましたが、手紙に僕の名前を書きます。レナートです」

この手紙を受け取ったニノが、愛する妻を探しに行くために、町を去っていくシーンに繋がっていく。

因みに、メッシーナとは、シチリア島北東部にある都市である。

そして、1年後。

右腕を喪ったニノがマレーナを随伴させ、町に戻って来たのだ。

広場に現れた二人の姿を見て、 町の人々は驚きの視線を向ける。

夫婦の帰還
凛としたニノの表情とは対象的に、マレーナの視線は俯(うつむ)き加減だった。

二人の帰還を視認するレナート。

妹に似たガールフレンドを連れたレナートの表情から、小さな笑みが洩れていた。

「よく市場に来れるわね」
「目尻にシワができてる」
「太ったわね」

市場の女たちの露骨な本音が、マレーナを囲繞する。

その中の女から、「スコルディーアさん」という声がかかった。

「こんにちは」

マレーナもまた、相手の顔をしっかり見据えて、凛として返答する。

笑みを見せる相手の女たちからも、「トマトはいかが?」などという言葉がかかる。

あろうことか、町の人々から、マレーナは「歓迎」の挨拶を受けるのだ。

しかし、挨拶を受けるマレーナの表情には無理がある。

自然で柔和な笑みなど返しようがないのだ。

市場を離れ、オレンジを路上に落としたマレーナに、自転車で逸早く駈けつけたレナートが拾い、一瞬、二人の目が合うが、当然ながら、マレーナは少年を特定できない。

「ありがとう。ご親切に」

そう言って帰宅するマレーナの後方から、言葉をかけるレナート。

「お幸せに、マレーナさん」

振り返ったマレーナの顔から微かな笑みが洩れ、小さく頷いた。

「逃げるように、ペダルをこぎ続けた。彼女や少年時代と決別するために。切ない思い出さえ、すべて振り払うかのように。長い人生で、私は多くの女性を愛した。彼女たちは皆、別れ際に、“私を忘れないで”と言った。でも、心に残るのは、あの少年の日に愛した女(ひと)だけ。マレーナ・・・」(レナートのナレーション)

相変わらず、テーマを説明してしまう科白に馴染めないが、印象深いラストシーンである。


(注)このような事例は、フランスにおいて顕著だったので、以下、その事例の一部を引用する。

「1944年夏、フランス解放の喜びに湧く人々の渦の中心には、丸刈りにされた『ドイツ人兵士と性的関係を持った』とされるフランス人女性がいた。彼女らは、占領中の不品行な行為に対する制裁として、見せしめとされ た。髪を刈られただけでなく、その剥き出しになった頭皮と肉体に鉤十字をペイントされ、服や下着を剥ぎ取られ、通りを引き回されるという非道な暴力の形まで存在した。

ドイツ人兵士と性的関係を持ったとされたフランス人女性たちは、1944年夏の解放時にフランスのほとんど全ての地域で、丸刈りという暴力の標的となった。(略)フランス解放の時に髪を刈られた女性たちは、社会に訴えるどころか、名乗り出ることすら不可能に近い立場であり続けている。拘留され髪を刈られる直前にあまりの恐怖から自殺した女性や、丸刈りにされた後に絶望から自殺した女性は少なくないといわれている」(Adobe PDF「丸刈りにされた女たち」第二次世界大戦時の独仏比較・平稲晶子)



2  戦略的映像の理念系映画の鮮やかな着地点



精巣からテストステロン、アンドロゲン、卵巣からエストロゲンが分泌され、性別による個体差を明瞭に分ける「性的二形」の現象によって、性的成熟を顕在化させる「第二次性徴」が発現する時期 ―― それを「思春期」と呼ぶ。

この時期の男子に性的欲求が高まるのは、このテストステロン、アンドロゲンの分泌によるもので、「精通」=射精の経験は、男子が性的に成熟していくごく普通思春期現象であって、映画の主人公・レナートのケースも、当然の如く、異常な傾向などではない。

大体、思春期は美しくもなければ、清くもないのだ。 

ただ、情動が騒ぎ、噴き上げ、抑えられないほど暴れ出す。

だから、この「思春期爆発」を経験することは全く悪いことではない。 

寧ろ、必要なことなのだ。

「思春期スパート」を発現する少年が、年上の女性に憧れるのは極めて自然な現象である。

まして、少年の憧憬対象が「心に残るのは、あの少年の日に愛した女(ひと)だけ」と言わしめる、マレーナのような美女なら尚更のこと。

但し、レナートのストーキング行為は過剰であり、これは映画的に仮構された設定であると解釈すべきだろう。

そのレナート、マレーナへのマスヒステリアによる凄惨なリンチに何も為し得なかったのも、「自己解決能力」の脆弱さから解放されない思春期前期の能力の限界を示すもので、全く問題がない。

屈強な男たちでさえ何も為し得ない状況下で、マスヒステリアで狂乱する女たちの暴力に、レナートが立ち向かうことなどあり得ないと言える。

それでもレナートは、自分の能力で為し得る行為を具現する。

マレーナさんは、あなた、ただひとりを愛していました」という内容の手紙を届けた後、それが真実であることを示すために、敢えて「僕の名前を書きます。レナートです」と記すのである。

私が最も感動したシーンである。

煩悶するレナート
自分の名前を書くという行為は、手紙を届けて逃げ去ったことで、悪戯であると思われる事態を回避しようという認識があることを意味するのだ。

言わずもがな、この行為は、苛酷な状況に陥っている白眼視されている帰還兵の心情を理解し、且つ、相手を傷つけることなく、最も適正な行動を選択して欲しいと願うレナートが、物事を客観的に見る能力を身につけるまでに成長した証でもある

「お幸せに、マレーナさん」という言葉をかける行為に象徴されるように、年上の女性への憧憬が、相手の幸福を切望する「愛」に昇華されていくのである

このような感情傾向を「赤心慶福」(相手の幸福を素直に喜べる心情)と呼称するが、まさに、レナートのピュアな思いを代弁する言葉であると言っていい

「思春期スパート」を逸早く発現したレナートは、今や、「思春期早期」の壁をも乗り越えていったのである

―― ここで、本作を総括してみよう。

「展開のリアリズム」を縮小し、「描写のリアリズム」をデフォルメさせ、主題提起力を際立たせた典型的な理念系映画。

これが、本作に対する私の基本的解釈である。

だから物語は、極端から極端に振れる構成になった。

コメディラインからシリアスラインへの劇的変容のフォーマットを構築したのである。

全面的に陰湿さを押し出すような映画にしないために、レナートの家族に象徴されるように、敢えて、極端にテンションの高いコメディ基調の物語を仮構し、そのラインを、ラストシークエンスで一気に反転的に炸裂させていく。

一種の戦略的映像なのである。

この戦略的映像で炸裂するラストシークエンスで、作り手は何が描きたかったのか。

「我々夫婦はこの町で生活し、生きてきた。不幸にも、狂乱の時代状況の中で離れ離れになってしまったが、無事に再会することができた。夫婦の愛は変わらない。心理的移動などなかった。まして、物理的移動の必然性など更々ない。だから、帰るべき場所に戻って来たのだ。帰宅したのだ」

これが、「展開のリアリズム」を縮小した理念系映画のエッセンスであると、私は考える。

一切は、このメッセージに収斂させるための構成だったのである。

このラストシークエンスこそ、理念系映画の凝縮である。

心理学的に考えて見れば、命の危険にまで遭うほどに、マスヒステリアによる凄惨なリンチを被弾したマレーナが、マスヒステリアの中枢スポットに戻って来ることなど、殆ど困難であると言っていい。

マスヒステリアとは、「爆発的共同絶交」を本質にする、集団ヒステリー現象の爛れの様態の極点である。

彼女は、人間の尊厳を全人格的に蹂躙され、自我の破壊の危機に遭遇したのである。

PTSDの破壊力を舐めてはいけない。

「絶望から自殺した女性は少なくないといわれている」

前掲の「丸刈りにされた女たち」の中の一文である。

生活の糧を失った未亡人の、それ以外にない生存戦略として娼婦になったマレーナ、一体、誰が誹議(ひぎ)できるだろうか

自我の破壊の危機に遭遇したであろうそんな女が、帰るべき場所に戻って来た。

夫・ニノの粘り強い説得があったと想定されるが、だからと言って、凄惨なリンチを被弾したマスヒステリアの中枢スポットに戻って来ることが可能だろうか

それを否定できない辺りが人間の複雑さの所以である。

しかし、この映画は、「夫婦の帰還」に理念を掲げて確信的に勝負する。

俯き加減のマレーナの視線が、夫のように凛とするには、市場の女たちから声がかかる〈状況性〉まで待たねばならなかったが、相手の顔をしっかり見据えたマレーナが、凛として返答することで、一切が反転するのだ。

作り手によって余すところなく仮託され、夫婦の勝負にケリがついた瞬間である。

何も恥じることなく、夫婦は帰るべき場所に戻って来たのだ。

帰宅したのだ

マスヒステリアに情動炸裂した女たちから、「爆発的共同絶交」の中枢にあった「爆発」と「共同絶交」が削がれたのは、時の流れの遷移(せんい)にのみ起因しないだろう

女たちの自我の底層に張り付く、隠し込まれた「罪の意識」が、堂々とした「夫婦の帰還」によって希釈化されことで安堵したのである。

「こんにちは」というマレーナの返答によって、露骨な本音を振り撒いていた女たちは、胸を撫で下ろすという心境に近い辺りに落ち着くことができたのだろう。

ジュゼッペ・トルナトーレ監督(ウィキ)
凛として、帰るべき場所に戻って来た夫婦の勝負の帰趨(きすう)は、圧倒的に夫婦側に軍配が上がったのだ。

ジュゼッペ・トルナトーレ監督の作品の中で、私は、この「マレーナ」が一番好きである。

戦略的映像の理念系映画の鮮やかな着地点。

この一言に尽きる

【参考資料】  Adobe PDF「丸刈りにされた女たち」第二次世界大戦時の独仏比較・平稲晶子   拙稿・人生論的映画評論台風クラブ
  
(2015年12月)


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