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2014年12月17日水曜日

そして父になる(‘13)     是枝裕和


<「眼差し」の化学反応 ―― その融合にまで内視する男の風景の変容の物語>



Ⅰ  「事故」の発生



これは、「資本主義の戦士」にシンボライズされ、幾重にも層化されたラベリングで武装した、「眼差し」という、格好の非言語コミュニケーションに潜り込んだ男の、その心の風景の変容を精緻に描き切った一代の傑作である。

微妙に揺れ動く「眼差し」を的確に表現することを求められた俳優(福山雅治)のハードルが高くなったのは、一連の表現から、「怒号」とか「号泣」といった、極めて分かりやすい身体表現によるカタルシス的軟着点が封印されていたからである。

だから、心理描写で埋め尽くされる。

是枝監督の独壇場の世界だ。

その監督から求められた難しい内的表現力の成否 ―― これに全てがかかっていた。

福山雅治は目立たないが、この難しい役どころを、「内発的」(是枝監督の言葉)に演じ切ることに決定的に成就した。

それは、「眼差し」という非言語コミュニケーションの表現力の底力を、状況の微妙な落差の中で演じ切る俳優の内的表現力の結晶点だった。

素晴らしい俳優だ。

素晴らしい演出力だ。

是枝監督の一部の作品は、今でもどうしても馴染めないが、この映画は、私にとって、劇場映画デビュー作の「幻の光」(1995年製作)、「歩いても 歩いても」(2007年製作)と同様に、どんぴしゃりのストライクゾーンだった。

正直、「眼差し」の振れ幅に翻弄される福山雅治の心理描写が冴え捲って、嗚咽が止まらなかった。

―― 以下、詳細な梗概。

早春。

「お受験」の入試風景・左から良多、慶多、みどり
私立の小学校への「お受験」の入試風景から開かれる家族の、その幸福像を描き出すファーストシークエンス。

「今の時代、優し過ぎるのは損だからな」

スーパーゼネコンに勤務し、現在、新宿駅西口の再開発のプロジェクトに挺身する、建築設計担当のエリート社員・良多(りょうた)の言葉には、明らかに、自己基準に見合った彼の生き方が垣間見える。

このような映像提示は、今や、この国の文化で、ごく普通に共有されているカテゴリーであるが故に、対象を極端に単純化する「ステレオタイプ的認知」の典型であると言っていい。

この「ステレオタイプ的認知」の中枢を占有する、「大いなる秩序」の風景の土手っ腹に風穴を開け、瞬く間に、混乱に陥れるカオス的状況が開かれたらどうなるのか。

精密に練られて構築されたこの映画は、「ステレオタイプ的認知」に寄りかかってきた「日本版・アッパーミドル」の家庭の、その染色された虚構の相貌性に、人間に関わる様々に厄介な問題の中でも、拍動感脈打つ腹部を急襲し、超ド級の風穴を開けていくシーンを、含みを隠し込みながら、観る者に切っ先鋭く提示してくるのだ。

想像の域を遥かに超えた、「新生児取り違え事故」が発生し、有無を言わさず、その当事者に呑み込まれてしまったこと。

「不育症」の故なのか、流産のリスクが高い妻との関係の中で、「一児豪華主義」を余儀なくされた環境下で育てた、エリート意識丸出しの良多の一人息子・慶多(けいた)が、血を分けた「我が子」ではない現実を産院からの連絡で知らされたとき、それまで培った「資本主義の戦士」という「最強のスキル」によっても、全く対応できない由々しき事態を招来する。

良多の「眼差し」①
「お受験」に合格した歳になる一人息子・慶多のお祝いパーティーの夜、両親に挟まれ、ベッド上で遊ぶ慶多の顔を凝視する良多。

その「眼差し」のうちに、軽々に言語化し得ない感情が封印されている。

まもなく、その父子の生物学的ルーツが明らかにされた。

「資料1 野々宮良多 資料2 野々宮みどりと資料3の野々宮慶多は、生物学的親子ではないと鑑定し、結論する」

これが、野々宮慶多のDNA鑑定の結果である。 

前橋の病院を選んだ妻を責める、夫の良多。

「でも、何で気づかなかったんだろう。私、母親なのに」

自分を責める妻・みどり。

家族の幸福像の破綻を表現するような、ピアノの旋律が物語に溶融していく構成はとても効果的だった。

対極的な人物設定を敢えて類型化したようなパターンだが、まもなく、「新生児取り違え事故」の当事者である、前橋で電気店を経営する、相手の斎木雄大(ゆうだい)と、妻・ゆかりと面談する野々宮夫妻。

誕生日は同じで、慶多と取り違えられた新生児の名は、琉晴(りゅうせい)。

良多とみどり
お互いに、子供の写真を見せ合いながら、確認し合う両夫婦。

「とにかくこういうケースは、最終的には100%ご両親は、交換という選択肢を選びます。お子さんの将来を考えたら、ご決断は早い方がいいと思われます。できれば、小学校に上がる前に」

この事務的な病院側の説明に、「突然、そんなこと言われても」と、みどりは柔らかに反駁する。

「犬や猫ならともかく」と斎木雄大(以下、雄大)。
「犬や猫だって無理よ」と妻・ゆかり。

実家に帰り、嗚咽が止まらないみどり
気の強そうなゆかりの非難の言辞に対して、実家に帰り、嗚咽が止まらないみどり。

3人の子供を儲け、オープンな養育環境を醸し出す斎木一家と落ち合って、野々宮一家が、ショッピングモールで子供中心の時間を過ごしたのは、その直後だった。

無邪気に遊び戯れる子供たちを横目にしながら、両家の大人の会話はリアリティに満ちていた。

「どんくらい貰えるんやろな、慰謝料って。ヘヘ」と雄大。
「大事なのはお金より、どうしてこうなってしまったのかという、真相を・・・」と良多。
「そりゃそうだけどさ、俺だってね、勿論」
「でもねえ、誠意を形にするっていうのは、やっぱり、そういうことになるじゃないですか」

非武装な夫の傍から、このように、絶えず援護射撃する妻・ゆかり。

相手が「金銭」の問題に拘泥する気配を知った良多は、自分の知人である弁護士絡みで、事態に対応しようとする。

彼には今、素人の「四方山話(よもやまばなし)」で事態に対処して、徒(いたず)らに時間を浪費するよりも、あくまでも合理的に解決しようとする意思が明瞭だった。

ここで言う、合理的に解決しようとする良多の意思の内実は、その心理が理解し得ても、真の子供である琉晴(りゅうせい)をも引き取って、非常識極まる「金銭」の問題で一気に解決しようとするものだった。

このとき彼は、都心の超高層マンションに住むほどに経済的に余裕のある自分が育てれば、トラブルにならずに解決できると考えていたのである。

その辺りが、両家の知的環境の決定的な相違点だった。



2  「ミッション」の試行



「これは、慶多が強くなるためのミッションなんだよね」

父の良多に言い包(くる)められて、生物学的ルーツの違う一人息子の慶多は、父親が一方的に決めた環境の中に潜り込んでいく。

土日を利用しての一泊二日の、両家の「子供の交換」が遂行されていくのだ。

斎木家での慶多の「ミッション」
一度会っただけで相手の何ものも知らない、前橋にある寂れた電気店(「つたや商店」)で、一日を過ごす慶多にとって、まさにそれは「ミッション」だった。

電気店を一瞥して嘲弄する、差別視線丸出しの良多の「眼差し」には、ここでも当然の如く、スーパーゼネコンのエリート社員のマインドセット(経験的な思考様式)から解放されていなかった。

一方、野々宮家にやって来た琉晴は、「おいしい。おいしい」と言って、すき焼きを貪っている。

しかし、6歳になるのに、箸の持ち方が満足にできない態度を見て、それを指導する良多には、電気店への「ミッション」を通して、完璧な箸の持ち方を実行する慶多との養育環境の乖離を、まざまざと知らしめられるに至った。

それは、「明日できることは今日やらない」と言い放ち、子供をフレンドリーに育ててきた家族と、どこまでも、「お受験」を目指し、それをクリアした後、このような「日本版・アッパーミドル」の家庭にあって、ごく普通にエリートコースを辿っていくことを当然のように考える家族との相違であった。

「子供の交換」という、一見、非常識とも思える行動を淡々と実行することで見えてくる、心地良きイメージに近づくために努力する大人たちの、殆どそれ以外にないと思われる選択肢だったのか。

「慶多。こまま、どこか行っちゃおうか?」
「どっかって?」
「誰も知らないところ。遠い所」
「パパは?」
「パパ、お仕事あるからな」

これは、最初の「ミッション」で慶多を迎えに行った帰りの電車内での、母・みどりと慶多の、極めて重要な会話である。

「慶多。ここまま、どこか行っちゃおうか?」
慶多を手放すことを拒絶する母の心情が、痛切に伝わってくるシーンであった。

彼女の心中では、琉晴の生活態度を傍観しながら、養育環境の乖離感の大きさを感受し、仕事をプライオリティー(優先順位)の筆頭にする夫・良多から、今までもそうであったように、学童期に踏み込んでいく琉晴の養育を一方的に委ねられる事態をイメージするだけで憂鬱になっていくのだろう。

更に言えば、「倫理的当為」の方が「情」に追いつけない中で、琉晴の産みの母である現実から逃れられないことで、「義務」のみが先行する〈状況性〉の重量感は、劇的に変わる人生を背負う彼女の自我を押し潰してしまうのだ。

まして、劇的に変わる人生の内実は、最愛の慶多に対する「背徳的行為」でもある。

そんな複層的に交叉する、縺れ合って解決の糸口の見えない絡み合った感情が、みどりの心の振れ幅を大きくしてしまったのではないか。

みどりの心の振れ幅を大きくしたストレッサーの一つである良多は、今、学童期に入った慶多を祝う場で、雄大とのラジカルな会話を繋いでいた。

「お風呂も一緒に入んないんだって?」と雄大。
「ウチは、何でも独りでできるようにって方針なんですよ」
「まあ、方針なら仕方ないけど、でもさ、そういうとこ面倒くさがっちゃダメだよ。だって、俺、この半年で、良多さんが一緒にいた時間よりも、長く慶太といるよ」
「時間だけじゃないと思いますけどね」
「何言ってんの。時間だよ。子供は時間」
「僕にしかできない仕事があるんですよ」
「父親かて、取り換えのきかん仕事やろ」

ここで、「間」ができる。

価値観や生活観が異なる男同士が、今、お互いに睨み合っているが、それだけだった。

一応、妻たちが入り込んで来て、帰宅の準備をしているときだった。

「じゃあ、二人ともこっちに譲ってくれませんか?」

良多の上役の入れ知恵もあり、良多が「ミッション」の目的として、最初から考えていた腹案を、唐突に、且つ、真顔で切り出したのだ。

ここで生まれた「間」は、反応する言辞を簡単に持ち得ない性質の時間だった。

「それ、本気で言ってる?」と雄大。
「ええ。ダメですか?」と良多。

憤怒の感情を抑えられない雄大は、良多の頭を軽く叩き、震えるように言葉を吐き出す。

「何を言うかと思ったら・・・」
「失礼よ、ちょっと、な、何よ!」

雄大の妻・ゆかりは、怒号を抑えつつ、吐き出すのだ。

「子供の幸せを考えた時に・・・」
「あたの子供が不幸だと言うの?」
「お金なら、まとまった額、用意できますから」

左から雄大、ゆかり、良多、みどり
ここまで言われて、雄大は炸裂する。

「金で買えるもんとな、買えんもんがあんねん!お前、金で子供買うんか。あ?」
「この間は、誠意は金だって言ってたじゃないですか!」

お互いに取っ組み合い寸前になるところを、夫の言葉に呆れたみどりが割って入り、「当事者熱量」をクールダウンさせていく。

「負けたことない奴ってのは、本当に、人の気持ちが分んないんだな」

これが、興奮冷めやらぬ雄大の捨て台詞だった。

人間はここまで侮辱されれば、このような反撃を試みる。

自明であるだろう。

それほどまでに、相手の心理を読んだつもりの「エリート」が、一切を金で処理できるという、典型的な人間洞察力の決定的欠如が、こんな醜悪な形で曝されるのだ。

「何で俺が、電気屋に、あんなことを言われなきゃいけないんだろうな」

妻に吐露する、良多のこの言辞に露わにされたメンタリティーの中枢は、なお変わらぬ男の「眼差し」のうちに、幾重にも層化されたラベリングで埋め尽くされていた。



3  「事件」への変容



晩春。

病院側への慰謝料の請求を求める前橋地方裁判所・民事法廷の場で、驚嘆すべき事実が判明する。

宮崎という名の、一人の若い元女性看護士が、「新生児取り違え事故」が「新生児取り違え事件」であり、連れ子連れの男との結婚で、その子との情感関係を形成できないストレスのため、彼女の嫉妬の対象となった「日本版・アッパーミドル」の野々宮家の新生児を、自ら取り違えたという旨の証言をするのだ。

風景が一変する瞬間だった。

しかし、事件が「時効」となっているから、犯人の女は刑事罰の対象から解放されていたのである。

だから証言したとも言えるが、宮崎元看護士は、義理の子との関係が順調に推移したことで、この衝撃的な証言に及んだと弁明する。

この時の彼女の心理を推測し得るならば、贖罪の観念が「罪深き無言の逃避行為」をほんの少し上回っていて、それが訴訟での証言を強いられる状況下で、覚悟を括って臨んだと考えられる。

しかし、その心理には、「時効」を意識することなしに訴訟に臨む決断をしたと解釈するには無理があるので、あくまでも、厄介な状況への「消極的関与」というスキーマ(心理の枠組み)が、この女の自我に張り付いていたに違いない。

なぜなら、刑事罰を受ける覚悟で訴訟に臨めば、再婚家庭で手に入れたであろう幸福なる日常性を失ってしまうからだ。

「一生、許さない!絶対、あたし!」

人格が豹変したような、強い憤怒を吐き出すみどり。

まもなく、良多は、具合が悪いという実父の家を訪問する。

そこで、実父は良多に直言する。

「いいか。血だ。人も馬と同じで血が大事なんだ。これからその子は、どんどんお前に似てくるぞ。慶太は逆に、どんどん、その相手の親に似ていくんだ。早く子供は交換して、二度と相手の家族とは会わないことだな」

義母良多
「血が繋がっていなくても、一緒に暮らしてたら情は湧くし、似てくるし、親子もそうなんじゃないかしらね」

これは、義母の真逆の進言。

良多の心理を見透かしたつもりなのか、肝心の良多は、両親の二つの異なった見解に、形式的に耳を貸しているだけのように見える。

何よりも、訪問する気がなかった「息子」には、両親との温和な関係を確保する意欲など全くないようなのだ。

だから、何も答えないのか。

反応しないのか。

反応しないが、「血よりも情」を重視する女房たちの言語コミュニケーションが弾めば弾むほど、なお、明瞭な言語コミュニケーションを結ばない良多だけが置き去りにされている。

「皆が、あなたみたいに頑張れる訳じゃないのよ。慶多はきっと、私に似たのよ」

ピアノの演奏会で、まるで競争心を持ち得ない慶多を見ながら苛立つ、夫の「眼差し」への妻の反撃だった。

彼女もまた、それまでの風景を一変させる人間関係の絡み合いの中で、「夫唱婦随」という狭隘な枠組みを逸脱する。

みどりは、今や、自分の心情をきっぱりと表現するまでに、スキーマを変換させているのだ。

「あなたは、慶多がウチの子じゃないと分ったとき、何て言ったか覚えてる?」
「覚えてるよ。何で分んなかったんだって」
「違うわよ!そんなことじゃない!あなたはこう言ったの。やっぱり、そういうことかって。やっぱりって、どういう意味?あなたは、慶多があなたほど優秀じゃないのが、最初から信じられなかったんでしょ!あの一言だけは、あたし一生忘れない!」

やっぱり、そういうことか
妻の言葉に、茫然とするだけの男が、何も反応し得ず、そこに立ち竦んでいた。

そして、この夫婦喧嘩を、ベッドで洩れ聞く慶多。

この時点で、賢い慶多は、「ミッション」の本質を理解してしまったのだ。

かくて、その「ミッション」という虚構に塗れた、土日にかけての一泊二日ではなく、本物の「子供の交換」が実行に移されていく。

「向こうのおウチに行っら、おじさんとおばさんを、パパとママって呼ぶんだぞ。寂しくても、泣いたり、電話して来たりしちゃダメだ。約束だ」

この「ミッション」の実行を前に、まさに「成長の記録」と同義の、慶多の思い出の写真を整理し、それを斎木家に送る事務的な作業を、黙々とこなす母・みどり。

誰よりも、彼女が最も辛いのだ。

愛する息子の「成長の記録」が、今、この時から、決定的に削られてしまうからだ。

静謐なピアノの旋律が、我が子と最後の添い寝をする母の心情に被さってくる。

盛夏。

まもなく、「ミッション」とは無縁な斎木家の琉晴が、野々宮家にやって来た。

琉晴に箸の持ち方を指導する良多
野々宮家の「息子」としての「ルール」を一方的に教えられ、「何で?何で?」と反応するだけの琉晴にとって、それは、親が決断した「子供の交換」の意味を知らされずに、「情動調律」(親子の情感関係)を束の間失った児童期初期の喪失感が、こんな反応のうちに炸裂したのである。

琉晴の悪戯書きに説教する良多。

「お休みなさい」も言えない琉晴のアクションが、いよいよ反抗的な様相を身体化していく。

慶多のピアノを滅茶苦茶に叩いたことで、良多の怒りがダイレクトに吐き出された。

「やめろって言ってんだ!」

そんな注意を受けても、無視する琉晴の幼い自我に累加されたストレスがピークに達した瞬間である。

同時に、このときの良多の怒りの心理に張り付いているネガティブな感情 ―― それは、自分が全く責任のない立場に置かれたにも拘らず、会社から宇都宮の技研への転勤命令を受けた現実への不満だった。

幾重にも層化されたラベリングで武装した、良多の「眼差し」は、なお尖り切った視線を収斂させていく最適のゾーンを手に入れていないのだ。

そんな良多に、事件を起こした元看護士から「誠意」という名の金銭が届いたのは、その直後だった。

「あんたのせいで、俺の家族は滅茶苦茶ですよ」

冷たく言い放って、「誠意」を送り返す良多。

そこに義理の息子が、アパートの玄関の前に出て来たとき、貯留された良多のストレスは、初めて見る子供に向かっていく。

「お前は関係ないだろ」
「関係ある。僕のお母さんだもん」

良多の「眼差し」には、特段の変調が見られないが、血の繋がっていない親子の関係を見せつけられたこの一件が、彼の内的風景の変容の重要な契機になっていく。



4  「ミッション」の終焉



良多の「眼差し」②
一切、無駄な描写のないこの映画は、良多の心の風景の揺動感のみを追っていく。

激しく揺れる彼の心情が、義理の母に電話する行為に及んだのは必至だった。

「血が繋がっていなくても、一緒に暮らしてたら情は湧くし、似てくるし、親子もそうなんじゃないかしらね」

この義母の進言に、迷妄の森で彷徨(さまよ)う良多の内面が動いていく。

自らのルールで人を動かし、自己を駆動させてきた「眼差し」も動いていくのだ。

その良多は今、宇都宮の技研に左遷され、壮年の研究者から貴重なレクチャーを受けていた。

スーパーゼネコンが必ず所有する技研の管轄下にある森で、セミの抜け殻を発見した良多に、研究のために人工的に作ったと話す彼は、躊躇なく答える。

「セミがここで卵を産んで、幼虫が土から出て、羽化するようになるまで15年かかりました」

この話に驚いた良多に、「長いですか?」と答える研究者。

このエピソードの意味は明瞭である。

通常、私たち人間には感じられない生態系の営為が、独立系の命を繋ぎ、それを立ち上げるまでに長い年月がかかるということだ。

この何気ない教訓が、良多の「子供観」に影響を与える出来事が起こったのは、その直後だった。

凧揚げをしている様子を見る琉晴
外で凧揚げをしている東京の子供の様子を、窓ガラス越しに琉晴が見て、衝動に駆られ、家出したのである。

前橋にある斎木家に、要領よく電車を乗り継いで戻ってしまったのだが、この辺りのリアリティは正直言って脆弱である。

以下、琉晴を迎えに行ったときの良多の言葉。

「僕たちのこと、すぐにお父さんとお母さんって、呼ばなくていいから」

後部座席に座る琉晴の眼から、液状のラインが滲んでいた。

帰宅し、疲れて眠る琉晴の髪を撫でながら、みどりは呟いた。

「こうして触ると・・・同じなの。あなたと」

妻の言葉に、意想外の言葉を添える良多。

「俺も家出したんだ・・・母親に会いたくて・・・すぐ、親父に連れ戻されたけど・・・」

今までにない柔和な「眼差し」を挿入する良多が、そこにいる。

思えば、良多はこの程度のプライバシーすらも、妻・みどりとの関係性のうちに共有されていなかったのだ。

スーパーゼネコンのエリート社員の残像
要するに、この家は「資本主義の戦士」として、知性と身体の総体を駆動させてきた男のルールによって仮構された城塞だったのである。

だから、ルールの逸脱など許せない。

逸脱という選択肢を持ち得ない妻は、ただ、このルールを完璧に遂行する役割を与えられただけの、一人の脆弱な「野々宮夫人」でしかなかったのである。

そんな家族に変化が起こったのは、その翌日からだった。

敢えて接触するのを避けて来たようなみどりは、悪戯好きの琉晴と無邪気に遊び、その輪の中に、初めて「お父さん」という言葉を耳にした良多が加わっていく。

良多の「眼差し」は、「共に遊び、共に食べ、共に外出する」という「共有」への思いが、具現化する「自己像」のイメージを弄まさぐ)って、下降しつつ、なお中枢に潜入し得ずに漂流しているようだった。

澱みを浄化できずに沈潜しているだけなのか。

大体、6歳の児童の自我に鏤刻(るこく)された心地良き記憶が、容易に希釈されることなどあり得ない。

夜空を見上げて、「お願い事」をする琉晴に、みどりが尋ねた。

「琉ちゃん、何、お願い事したの?」
「パパとママの場所に帰りたいって」

そこに、顔を覆いながら、「ごめんなさい」という一言が加わったことで、「共に遊び、共に食べ、共に外出する」という親子ゲームを繋いだとしても、健気に同化しようとする児童の真情が、どこかで、何かを捨てながらゲームを延長させ、そこに負荷される時間の苛酷なリアリズムだけが際立ってしまうのである。

「いいんだ。もういいんだよ」

今、その「眼差し」から、厄介なエリート特有の差別視線がすっかり消えた、良多の包活力のある言葉が緩やかに差し込まれ、少しずつ、夫婦間に張り付いていた澱みが浄化されていくようでもあった。

「琉晴が可愛くなってきた」

咽(むせ)び泣きしつつ吐露するみどりの言葉には、「共有」の時間の累加の中で、否が応でも意識する、コントロールし得ない感情が内包されている。

「じゃあ、何で?」
「だって、慶多に申し訳なくて。あの子を裏切っているみたいで」

妻の背を優しく撫でることしかできない夫との、どれほど辛くとも静謐な構図には、これ以上、何も付け加えるものがないカットのうちにフェードアウトしていく。

その直後の映像は、良多の「眼差し」の変容をフォローしてきた極めつけのシーンだった。

デジタル一眼レフカメラで父の寝顔を撮っていた慶多
慶多にプレゼントしようとして断られた、デジタル一眼レフカメラに保存されていた画像は、父親との交歓を求める息子が、自ら足し加えた画像だったのだ。

その衝撃に嗚咽を堪え、打ち震える父親が、そこにいる。

もう、何もできなくなった。

ラストシークエンス。

琉晴を連れて、斎木家を訪問する野々宮夫婦。

父の顔を見て、慶多は走り去っていく。

「ミッション」の意味が、既に理解できているからだ。

いつまでも追い続ける良多。

慶多もまた、父の追走を待っている。

だから、次第に歩行になり、声が届く位置で、父の言葉を待っているのだ。

「慶多!ごめんな。パパ、慶多に会いたくなっちゃって、約束破って会いに来ちゃった」
「パパなんか、パパじゃない」
「そうだよな。でもな、6年間はパパだったんだよ。できそこないだけど、パパだったんだよ。カメラ、写真も一杯撮ってくれてたんだな。ピアノもさ。パパもピアノ、途中で辞めたから。もうね、ミッションなんか、終わりだ!」

並行しながら歩き続ける父と子が、今、その足を止めた。

しっかりと自分の胸に、自分の「6年間育てた息子」を抱擁する父。

ラストシーン。

我が子への想いによる「ミッション」の終焉
「ミッション」の終焉を宣言することで、「子供の交換」という、極めて困難な問題を抱えるテーマを、恐らく、それ以外にない軟着点に結ばれたのだ。



5  「眼差し」の化学反応 ―― その融合にまで内視する男の風景の変容の物語



極めて質の高い映画である。

感傷に流さず、不必要なBGMを垂れ流すことすらなく、一貫して場面転換が早く、「怒号」と「号泣」を捨てた映像の切れ味は、カタルシス的軟着点を封印することで自己完結した。

テーマ優先のあまり、そのテーマに合わせたエピソードの繋ぎ方が、ご都合主義的であることが気にならなくもなかったが、常に自我を武装して生きる主人公の心の風景の変容のプロセスが、「心理的リアリズム」の濃密度において、ほぼ完璧な構築力を見せていたことで、この映画は一級の傑作に仕上がったと、私は評価する。

「眼差し」の化学反応 ―― その融合にまで内視する男の風景の変容の物語。

「心理的リアリズム」の濃密度が高いこの物語の本質は、ここにあると考えている。

様々に絡まり合った内的・外的条件の中で、微妙に揺れ動く人間の心理の変容を形式的な時系列で概観するのに無理があるのを承知しつつも、無駄な描写を剥ぎ取って残されたエピソードには、テーマに関わる濃密な感情が張り付いていると考えるので、ここでは、この文脈に沿って言及していきたい。

良多の「眼差し」③
父と子の「眼差し」の化学反応が融合・昇華に辿り着くまで、幾重にも層化されたラベリングで武装した「眼差し」の、その非言語コミュニケーションに潜り込んだ男の心の風景の変容は、当然ながら容易でなかった。

「お金なら、まとまった額、用意できますから」と言って、「二人ともこっちに譲ってくれませんか?」と真顔で切り出す男が、自己の総体を内視し、そこに層化されたラベリングの膿(うみ)を抉(えぐ)り出し、浄化する行程が困難であるのは必至だった。

機械的なまでに合理的思考で武装した男の、尖り切った「眼差し」が変化する契機になったのは、事件を起こした元看護士へのアパート訪問のエピソードである。

「僕のお母さんだもん」

再婚した連れ子との折り合いが悪く、そのディストレスで事件を起こしたという元看護士の、当該少年の言葉である。

元看護士の「現在性」を目視したことが、良太の心に少なからぬ影響を及ぼしたと言えるのは、その直後の義母への謝罪の電話で検証し得る。

自分もまた義母に育てられ、頑固な父に反抗した過去を否が応でも想起させるのだ。

思うに、観念的な「父殺し」を経て強くなった男は、この「強さ」を推進力にした自我を仮構し、そこに拠った「ルール」を作り、この「ルール」を我が子に強要する。

「ルール」さえ遂行されれば、我が子の自我も「強さ」を手に入れられると考えたからだ。

それが、全ての誤謬の起点だった。

だから良太は、自らの思考構造の変換なしに軟着し得ないゾーンにまで追い詰められざるを得なかったのだ。

そんな良太の訪問が与えた波動は、正直、取ってつけたような宇都宮技研での短い会話を経由し、血を分けた琉晴の家出事件に繋がっていく。

「家に帰りたい」

この琉晴の言葉は、7歳になった児童の家出を巧みに回収し、「親子ゲーム」で戯れていた時間の後で発せられたものであるだけに、いよいよ、適度な湿潤性を失った良多の「眼差し」の中枢に、抜き難い刺として発現するに至るのだ。

そして、この厄介な刺を抜き取らない限り、時間を前に進ませることができなくなっていく。

デジタル一眼レフカメラに収められた画像を見せつけられた良多の「眼差し」が、抜き難い刺との共存を無化することで、決定的な価値観の転換を迫られるに及ぶ。

父の寝顔を慶多が撮っていた事実が意味するのは、常に、「寝顔」でしか会えない慶多の父への思いの強さである。

良多は、父を求める思いの強さを表現する、慶多の「眼差し」と出会ってしまったのである。

一人の男の心理の振れ方を追ってきた物語は、ここで一つの極点を示す。

その衝撃に打ち震える良多は、もう、何もできなくなった。

ここで、良多が決定的に動く。

慶多に会いに来た良多
慶多に会いに行くのだ。

しかし、慶多は良多の迎えを拒絶する。

それは、厳然としたルールで縛ってきた父親に対する、一人息子の生まれて初めての意志的なレジスタンスだった。

当然ながら、このレジスタンスは、「関係性としての権威・権力」に対する「異議申し立て」=「感情的反発」であって、「関係性としての権威・権力」を粉砕するための「抵抗」などではない。

学童期に踏み込んだばかりの児童に、そんな「抵抗」を具現するパワーなど持ちようがない。

まして、慶多はナイーブで心優しい性格の子である。

父を目視して、走り去っても、父が追って来ることを知っている。

だけど、走り去っていく。

そうしなければならない「感情的反発」を抑えられないのだ。

だから、ほんの少し疲弊したら、早足の歩行にシフトする。

追って来る父の柔和な「眼差し」を、一人息子の「眼差し」が捕捉する。

それだけを待っていたのだ。

息子を求める良多の「眼差し」と、生身の温感のあるその「眼差し」を受け止め、その継続力を求める慶多の「眼差し」。

今、この二つの「眼差し」が、本来の非言語コミュニケーションとしての底力を発揮する。

「眼差し」と「眼差し」が触れ合う「空間」が、そこに生まれたとき、その「空間」こそ、非言語コミュニケーションの物言わぬ結晶点と化したのである。

二つの「眼差し」が溶け合ったのだ。

幾重にも層化されたラベリングで武装したが故に、情緒的感情の不必要な侵入を拒み続けてきた、偏頗で、湿潤性の乏しい良太の「眼差し」は、一連の厄介な出来事を通して濾過される行程の中で、少なくとも、物理的接触の希薄な6年間であったとしても、その「眼差し」が無化される辺りにまでは腐っていなかった関係の温感の記憶を復元させていったのである。

それは、「血」よりも「情」を選択するに至った一人の男の、その心の風景の変容が極まった瞬間である。

十全な「父」のイメージと無縁でありながらも、それだけは捨ててこなかったに違いない、6年間で堆積された「情」の重みこそ、この化学反応が溶融するパワーの源泉だった。

「眼差し」を決定的に変換させた男の旅の着地点は、仕事のために全てを犠牲にしてきたレガシーコスト(負の遺産)を払拭し、浄化・昇華し得る地平への風景の開示だったのである。


「ミッション」は終わったのだ

いずれの親にもなれなかった男の結晶点が、そこにあった。

「ミッション」は終わったのだ。


【付記】

「新生児取り違え事故」を防止するための、現在の産院の状況について一言。

出産直後に、母親に新生児の顔を見せ、分娩室で臍(へそ)の緒を切る前に、「性別・出生時刻・母親の名前」を記した「母子標識(バンド)」を、新生児の手首や足首に装着する取り組みが定着している。

多くの産院では、胎児の段階から、身体的特徴を母親の名前と共に登録した後、出産後にも照合させるなど、二重三重のチェックが行われているのが現状である。(MSN産経ニュース 2013年11月)

【参照資料】

「そして父になる」(是枝裕和 佐野晶 /宝島社)

(2014年12月)









6 件のコメント:

  1. 初めまして。
    すばらしい評論を移動中など時間があるときに読ませていただいております。

    私はすばらしい映画だとは分かっていても、なかなかうまく表現できないのが現実だったりします。
    ここまで分析して頂けると、本当にスッキリします。

    「そして父になる」は、取り違えを行った女性の話は蛇足なのではないかと私は感じていました。
    「嘆きのピエタ」で指摘されていた、最後に出てくる老婆のように、描く事によって主題が薄まるのではないかという感じです。
    しかし、「そして父になる」ではその描写にこそ、父親の心の変化を促す大切な意味合いがあったと捉えられるんですね。
    全くもって、私に映画の見方の浅はかさに、痛感してしまいます。

    これからもいろいろな映画の人生的評論を読ませて欲しいですが、希望としてお伝えさせていただくなら、注釈がもう少し欲しいと感じる時があります。
    心理学の専門用語など、常識的に皆さんが知っているような事でも、私には時々理解できず、調べなくてはなりません。
    また、難しい漢字を使ってくださるのは勉強になって大変うれしいのですが、単純に私には読めない文字が多いです。情けないですが、本当にもっとふりがなを付けて頂きたいのが正直な所です。

    はじめてのコメントなのに、注文を付けて申し訳ないですが、本当にすばらしい評論だと思います。
    お体を大切に。
    今後もよろしくお願い致します。

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    1. 丁寧に読んでくださり、感謝申し上げます。ご指摘の点は、なるべく気を付けていきたいと思います。コメントありがとうございました。

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  2. 昨年、ブログで「そして父になる」について書いたことがあり、その時にあれこれネット上にある「そして父になる」論を読んだのですが、失礼ながら貴ブログの存在を見過ごしておりました。この度、別な映画について書かれた記事からたどり着いて、この「そして父になる」論を読み、その丁寧な論考に感銘を受けました。とりわけ「眼差し」というキーワードでこの映画を読み解くという視点に「なるほど」とうならされました。
    ただ、こちらのブログの関心事であった「慶多は野々宮家に帰るのか?」という結末の解釈をめぐっては貴ブログは反対の解釈をしているようで驚きました。私はあの結末が、慶多があのまま斎木家にとどまるという展開を示しているのだと考えております。
    http://yuuhisahumi.blogspot.jp/2015/02/blog-post_19.html
    http://yuuhisahumi.blogspot.jp/2015/02/blog-post_22.html
    いかがでしょうか。お考えを聞かせていただけると幸いです。

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    1. コメントをありがとうございます。
      映画のラストは、育てた時間過程の重さを思い知ることで、父親の役割、家族のあり方を再認識し、それを受容し、自分と家族の人生を再構築していくスタートラインに初めて立てたというところで終わっています。監督自身がインタビューでも言っていたように、交換するか否かについては明確に示すことを想定していません。監督自身にも分からないからです。つまり、その後の家族の様態の是非については、どれが正しく、どちらがより幸福かとは決められないということです。それは、それぞれの置かれた状況が持つ事情や、成長段階によって必要な家族の様態を選んでいく可能性を示唆しているとも言えるのです。小説の最後、大型ワゴンを買おうと主人公が思いついたことの意味は、当面は両方の家族が密に交流しあう中で、最大適応戦略の選択肢を求めるというイメージを感受させられるものでした。
      映画は子供の交換という重い題材を通して、「父になる」ことの意味を問うた作品であって、それ以上でも、それ以下でもないと思います。私自身は、子供の性格を考えて元の家族に戻すことからリスタートする選択がより自然であり、逆に、血縁を選択するという選択をすると解釈するには、別のステップが描かれる必要があったと思われます。

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    2. 素早い返信、恐縮です。
      なるほど、どちらとも明確には描いていないことは、監督自身が明言しているのでしたっけ。「血縁を選択するという選択をすると解釈するには、別のステップが描かれる必要があったと思われます。」との指摘は納得です。子供たちがそれぞれ血縁の家庭に引き取られるという結末としてしか解釈しないというのは、単なる私の期待に過ぎませんでした、そういえば。
      ともあれ、とりあえずは「育ての親の元に戻る」という解釈が当然のように見受けられる「そして父になる」の大方の受容状況に対して、ささやかなアンチテーゼを掲げておきたいと思ったのでした。
      丁寧で冷静なご返答に感謝します。

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    3. 返信をどうもありがとうございました。「血縁を選択すると解釈するには・・・」でしたね。失礼いたしました。

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