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2014年6月25日水曜日

凶悪(‘13)    白石和彌


<「凶悪さ」という概念のアナーキーな氾濫への違和感>



1  「正義」を盾にした夫の叫びを打ち砕く妻のリアリズム



「絶対正義」の名の下に、「私的制裁」に奔走する一人のジャーナリストと、その背後に隠れ込み、「絶対悪」を糾弾して止まない「映画鑑賞者」=「一般大衆」の裸形の懲罰意識を露わにすることで、人間の「悪徳性」を挑発的に炙り出し、その問題意識のうちに主題を鮮明にさせた一篇。

極めて挑発性の高い映画の破綻は特段に見られず、構成力にも瑕疵が目立つことがない。

所謂、鑑賞者の情動を必要以上に高める大仰なBGMも挿入することなく、「情緒過多」で、無駄な描写に溢れた綺麗事満載の「日本映画病」とも切れていて、取りたてて異議を唱える何ものもない。

但し、その根拠が理解できるにせよ、分りやすい説明描写で流していくという一点において、「日本映画病」とは言わずとも、映像本来の力のみで押し切れなかった印象を拭えなかったのも事実だが、決して完成度が低い作品ではなかった。

「主題提起力」が些か支配的な占有感を印象づけたが、「構成力」を破壊することがなく、「映像構築力」は無難に保持されていた。

その意味で、秀作と言っていい。
 
―― 以下、物語の梗概。

 月刊雑誌「明潮24」の編集部に、東京拘置所に収監中の死刑囚・須藤から手紙が届いたことから、一切が開かれていく。

編集部の藤井が須藤に面会して話を聞きに行き、そこで3件の殺人事件の余罪と、その事件の首謀者である、「先生」と呼ばれる男・木村の存在を知らされる。

「木村をこの手でぶち殺したい。どうせ死ぬなら、綺麗になって死にてえ」

頭を下げながら、拘置所の面会室で、藤井に語った須藤の言葉である。

ここで言う、3件の殺人事件とは、木村が殺した男を焼却炉で燃やした老人の事件、土地を転売して生き埋めにした老人の事件、借金を払えない電気店老人に保険金かけて、酒を飲ませて殺害した事件のこと。

死刑囚から余罪の告白を受けるという、信じ難き事実に疑心暗鬼の藤井が、自ら調査する過程の中で、3件の余罪の事件性に確信を抱いていく。

 
女性編集長
しかし、
芸能ネタのスクープを追っている女性編集長は、藤井の取材要請を無碍にする。

 「無理無理、3カ月も前の事件、終了してるでしょ。あの事件は、もうネタにならないの」

スクープ雑誌のビジネスで売っている月刊誌に、真実を追求し、報道すべきことを国民に伝えるジャーナリズムの精神を求めること自体が、充分にチャイルディッシュな発想なのだろう。

ここから、職場を放棄してまで、藤井の独断によるリスキーな取材活動が開かれるが、認知症の母を妻の洋子に押し付ける行為を必至にする。

映像の中盤は、須藤の告発の信憑性を裏付ける3件の殺人事件の内実が、その忌まわしき情報をフォローする藤井の空想の世界再現されていく。

 そこで映し出されたおぞましき実態は、事態を一面的にしか捉えられない暴力団組長・須藤の凶暴性と、それを巧みに操る木村の老獪な手口が融合し、身寄りのない老人をターゲットにした犯罪の執拗なまでの描写であった。

 その中でも、5000万円の借金の返済ができない、牛場電機の初老の経営者への殺害のシーンは常軌を逸していた。

  本人が「うわばみ」(大酒飲み)であることを利用して、90%の濃度のアルコールを飲まされ、絶えていく描写のおどろおどろしさは、これが実話ベースである事実を想起すると、まさに、「凶悪」なる男たちのイメージにフィットする非日常性そのものだったと言える。

 
借金を払えない電気店老人・牛場
「親から受け継いだ土地に胡坐をかいて、終いには借金まみれ。そんなどうしようもない老人が次々と現れる。そいつらをただ殺すだけで、金が溢れてくる。ふん、まるで油田だよ。ふふ・・・世の中は長い不況だけど、今、我々はせっかくのバブルじゃないか。一日も早く出所して、また一緒に仕事をしよう」

 これは、須藤に指名手配が出た際に、建物や土地を安値で買い叩いて、高値で転売する不動産ブローカー・木村が弁護士等を始め、万全の援助を欠かさないことを約束したときの言葉。

それを真に受ける須藤。

 しかし、知能犯の木村が、単細胞の須藤を騙すのはお手の物。

 須藤が最も信頼する舎弟の五十嵐が、須藤を裏切って逃走資金の援助を求めて来たという木村の嘘に騙され、五十嵐を射殺するに至り、これで「邪魔者」を一掃した木村だけが生き延びていく。

 少なくとも、知能犯の木村の思惑は、この稀代の犯罪者のプラン通りに進行しているように見えた。

 そこに現出したのが、懲罰意識を推進力にした藤井の奔走による、「正義」の暴走だった。

 この間、藤井は、雑誌社を休んだばかりか、認知症の母のいる自宅にも帰ることなく、須藤が拘置所から告発した3件の殺人事件の裏付けをとるために、孤軍奮闘していたが、当然、姑の介護に疲れ果てている妻・洋子との決定的な確執を生む。

以下、木村の邸を張り込んでいた藤井が、公務執行妨害罪で警官に逮捕されたときの、留置所での妻・洋子との会話。

 
藤井の妻・洋子
「修ちゃん。いつもそう。いつも逃げてばかり。騙し騙しやってきたけど、もう、限界。修ちゃんはさ、お母さんをホームに入れて、罪悪感を感じるのが嫌なんでしょ。それだけのために、私の人生が滅茶苦茶になってもいいの」

 この言葉に、本質を衝かれた者の感情が噴き上げた。

 「この記事を出せれば、殺人犯を死刑にすることができるかも知れないんだよ。死んでった人たちの魂を救えるんだよ!」

 「正義」を盾にした、この夫の叫びを、妻のリアリズムが打ち砕く。

 「死んでった人たちの魂なんて、どうだっていいよ。私にお母さんを押し付けて、綺麗事並べないでよ!あたしは、生きてるんだよ!あたしはただ、修ちゃんと普通の生活がしたいだけなの!」

 一貫して、嗚咽の中から吐き出す言辞には、「認知症の母を介護する妻」という重荷に耐性限界を越えた者の悲痛な叫びが、配偶者の弁明を拒絶する攻撃性に変換され、権力機構の小さなスポットを、存分な毒気で占有する破壊力に満ち満ちていた。

ともあれ、妻から「綺麗事並べないでよ」と難詰された、藤井の「正義」の暴走が功を奏して、「上申書殺人事件」の一端が巷間に明らかにされ、木村は逮捕されるに至る。

まもなく木村は、牛場悟保険金殺人事件の刑事裁判の被告人となり、検察側証人の須藤との対決の展開を呈するが、当然の如く、相手検事と自陣営の弁護人との応酬である。

「記者を使って、死刑執行を先延ばしにしようとしたのは本当です」

須藤の証言である。

「木村とは、どういう男ですか?」

検事の質問に、明瞭に答えていく須藤。

木村と須藤(右)
「人殺しです。人の死を金に替える錬金術師です。わしも死刑だと言うなら、木村も間違いなく、死刑に値する人間です」
「私は、人を殺した覚えなどない!」

咄嗟に、木村も反応する。

「もしかしたら、そうなのかも知れない。あんたには、本当に人を殺した実感がないのかも知れない。私はずっと、暗い牢獄の中で、このときを待ってた。この手で殺せないなら、せめて一緒に行きましょうよ。地の底まで」

須藤の証言は、激しい敵愾心に溢れていた。

須藤を睨みつける木村。

 牛場悟保険金殺人事件の裁判の結果、木村は無期懲役となった。

―― 以上、物語のポイントを押さえた梗概と、それに関わる簡便な批評を加えてきたが、以下の稿では、私にとって気になる問題に絞って言及していく。



2  「凶悪さ」という概念のアナーキーな氾濫への違和感



映画的完成度という一点で本作を評価しながらも、そこで映像提示された内実に違和感を持った私の問題意識に沿って、ここでは、人生論的映画評論の視座で本作を批評していきたい。

まず、本作のメッセージの一つと思しき、以下のコンテクスト。

「凶暴さは誰しもが根本に持っている。それが表に出るか、出ないか。殺人を犯すなんてとんでもないことだけど、実際にそれは起こっている。『凶悪』はそうならないための警告。『いかに自分がそこに行き着かないか』を考えるきっかけになる(白石和彌監督インタビュー・宅ふぁいる便)
 
白石和彌監督
私は、この冒頭の言葉を目にして、正直、驚いた。

「凶暴さは誰しもが根本に持っている」という、作り手の発言である。

大体、「誰しもが根本に持っている」「凶悪さ」とは、一体、何を指しているのか、判然としないからである。

「凶暴さは誰しもが根本に持っている」と言い切る根拠が知りたいのだ。

幼児期からの経験や大脳皮質前頭連合野の制御を受けていて,生物学的適応であると同時に、気の遠くなるような進化の過程において形成されてきた、私たち人間の感情の複雑な形成過程を軽視する「芸術表現者」の短絡思考性。

それを感じてしまったのである。

どのような人間観を抱懐しようと自由だが、根拠の希薄な「凶悪さ」という概念について、観る者それぞれが、思い思いのイメージを抱いてしまうこと。

それでいいのかも知れない。

「凶悪さ」という概念についてのアナーキーな氾濫。

それもいいのだろう。

映画とはそういうものだ、と言われたらそれまでかも知れないが、この映画の険阻な展開を追っていく限り、「特定他者」を消費するビジネス本位のメディア批判のメッセージをも包括し、「正義・人道・被害者人権」に極端に振れ、「犯罪者の人権利得」に攻撃的に指弾するジャーナリストの暴走をも含めて、鑑賞後、多くの観客は、その暴走こそが「凶悪さ」の具現化された形象であると解釈するだろう。

「正義・人道・被害者人権」に極端に振れるジャーナリスト・藤井
これは、本稿の冒頭で、本作に対する私なりの基本解釈を書いた通りだが、それもまた、私の勝手なイメージの結晶点でありながらも、大方の解釈と乖離するものではないと思われる。

然るに、「凶悪さ」の定義が、仮に、この物語の二人の重大な刑事犯のケースにのみ収斂されないのだとしたら、一体、「凶悪さ」とは何を意味するのか。

私は、この作り手の確信的言辞に共鳴し得ない立場から敢えて問うが、極限状況下で、急迫不正の侵害的暴力に対し、「構成要件」という犯罪のパターンに該当しても、人間が犯す生存本能的・自己防衛的な過剰な正当防衛の行為までをも包括するならば、決して首肯できない訳ではないが、では、その行為を「凶悪さ」と言えるのか。

このように、限りなく拡大解釈される事態を容認してしまえば、前述したように、「正義・人道・被害者人権」を特化して、その「絶対無敵」の「錦の御旗」を掲げて糾弾するあまり、暴走するジャーナリストの行為をも「凶悪さ」の範疇に収斂されてしまうのである。

この一点に、私の違和感が集約されている。

確かに、人間なら誰しも、殺意に似た感情を抱懐することがないとは言えない。

しかし、それはどこまでも意識のレベルの問題で、脳内で処理されて自己完結してしまう何かである。

だからと言って、その意識を「凶悪さ」とは言わない。

「凶悪さ」とは、あくまでも、身体表現としての行為について形容するものだからだ。

だから、この作り手がこの言葉を使用するとき、そこに収斂されていく事例には、身体表現化した藤井の法廷での過激な言動や、藤井の妻の義母に対する行為などが含まれるだろう。

また、直接、身体表現化されなくても、事件を取り上げた雑誌記事を好奇的に読む、一般市民の懲罰的感情をも視野に入れているようだ。

「凶悪さ」という概念は、このように拡大解釈される性質のものではない。

「性質が残忍で、ひどい行為をすること」

これが、「凶悪さ」の通常の定義である。

この定義を敷衍すれば、暴走するジャーナリストの行為が、「性質が残忍で、ひどい行為」と括れるのか。

「藤井が自分の頭のなかで思い浮かべているもの」(白石和彌監督の言葉)を前提に言及するとき、例えば、二人の刑事犯の例に挙げれば、「先生」なる人物の本質は、脳科学的仮説で言えば、「他者への共感性」を生む部位の機能の劣化に起因し、先天性心疾患の要素の高いサイコパスと解釈することが可能である。

右が須藤
ところが、この「先生」に命じられて殺人を遂行した、人情の機微に敏感に反応した須藤という刑事犯を見る限り、サイコパスというよりも、その自我の形成期に屈折した自己像を身につけてしまった男の、成れの果ての「腐れ外道」というイメージの方が当たっていると思われる。

「性質が残忍で、ひどい行為をする」という一点において、この二人の刑事犯に共通する「凶悪さ」に異論を唱える者は少ないだろう。

確かに、「藤井も正義という名の基で動いている懲罰感情が暴走している」(白石和彌監督インタビュー・ガジェット通信)が、彼の拠って立つ「正義」とは、概念的には「報復的正義」のこと。

復讐法と称される「ハンムラビ法典」にある、「目には目を、歯には歯を」という「同害報復」の概念に収斂される「正義」である。

ここで、私は勘考する。

人間は不完全なる存在体であるだけでなく、「正常」と「異常」の境界という観念が相対的であるが故に、時代によって移ろい、社会状況によって変化する厄介な代物である。

しかし、法治国家においては、それが「事件」として惹起したとき、それぞれの国の文化風土の中から、恰(あたか)も「絶対規範」の名の下に、特定他者に対して必要以上に指弾したりする現象をも誘起するだろう。

そのとき、「正常」は「善」となり、「異常」は「悪」となる。

「悪」となった「異常」が、「事件」として裁かれていくのだ。

未だ「悪」となり得ない「異常」だけが、未だ「善」となり得ない「正常」によって、「道徳」の名の下に存分に指弾されていく。

良かれ悪しかれ、これが一定の成熟を達成した法治国家の宿命である。

従って、妻からの指弾に象徴されるように、どこまでも「道徳」の名の下に存分に指弾されていくレベルの、自己欺瞞的な「家庭問題を等閑(なおざり)にした行為」を含めれば、藤井の「懲罰感情の暴走」の様態は、法治国家の名において、「悪」となった「異常」の暴走を身体化した他の二人とは位相が異なる、紛れもない「罪」=「悪」と峻別すべきである。

法と道徳を明瞭に峻別すべきなのだ。



3  「絶対正義」を盾にした男が置き去りにされた闇のスポット



「劇中の殺人シーンはすべて藤井が自分の頭のなかで思い浮かべているもの、という位置づけなんです。そして、どこか事件が狂っていればいるほど興奮していく。すごいものを追っかけているぞ、と。だから須藤、木村のあり方は、藤井が脚色・誇張させているもの」(前出)

これも、白石和彌監督の言葉。

物語の中盤が、須藤と「先生」木村の、おぞましい犯罪描写で埋め尽くされていることで判然とするように、この中盤の一連の映像提示によって、「自分の頭のなかで思い浮かべている」藤井の「懲罰感情の暴走」が一気に高まり、これがラストの法廷シーンでの藤井の爆発的炸裂に結びついていく。

 以下、法廷シーン。

木村が被告人となった、牛場悟保険金殺人事件の刑事裁判の第3回公判が開かれている。

 「情状証人として、彼を擁護する理由は何ですか?」と木村の弁護人。

 この弁護人の反対尋問に対して、藤井は冷静に証言する。

 「どうせ死ぬなら、すべてを明かして、綺麗になって死んでいきたいと須藤さんは言いました。そこに嘘はないと思ったからです」
 
裁判長から退席を求められれた藤井の傍らで、検察側証人の須藤が言葉を添えた。

「被害者の方は戻って来ませんが、残された人生で償い、歩いていきたいと思います」

裁判長から、発言を控えるように注意される須藤。

この満足げな須藤の言葉を耳にした藤井は、ここで、心の中で封印していた感情を炸裂させる。

「あなたは生きていちゃいけない。須藤!この世で喜びなんか感じるな!生きてる実感なんか感じるな!」

須藤が殺した5人の名を挙げ、絶叫していく藤井。

まさに、「藤井が自分の頭のなかで思い浮かべているもの」の集合的感情が、裁判長の注意を振り切ってまで噴き上げてしまったのである。

その藤井に向かって、嘯く(うそぶく)須藤。

「藤井さん、神様は俺に言いましたよ。生きて罪を償いなさいって」

既にキリスト教に入信した男が、最後に残した言葉である。

絶叫し切った後、「すみません」と裁判長に頭を下げた藤井の行為をして、「誰しもが根本に持っている」「凶悪さ」の発現と見る向きが多いが、彼の「懲罰感情の暴走」と、身体表現としての犯罪行為を具現した、位相が異なる二人の重大な刑事犯のケースと同質化する思考は、法治国家の初歩的ルールを弁(わきま)えていない短絡性の象徴と考えざるを得ないのである。

 
更に、物語は、「懲罰感情の暴走」の張本人への「断罪」を加えていく。

ラストシーン。

 藤井は、塀の中にいる木村に会いに行く。

「やっと会ってくれましたね。菅原さん、島上さん、牛場さん。あなたはそれ以外にも、人を殺していますよね?」

長い「間」の中から、木村はぼそりと、しかし確信的答えていく。

「あんたがそう言うんなら、そうなんだろ。でも、私は無期懲役だ。死刑じゃない。それが現実だ。生きてる」

そう言って、最後ににやりとして見せる。

「私は取材を続けますよ。まだ、この事件は何も終わっていない。そうでしょ」

木村は、今度は挑発するような態度で言い切った。

「一つ教えてやる。私を殺したいと一番強く願っているのは、被害者でも、恐らく須藤でもない」

そこまで言って、ガラス越しに藤井を指差し、ガラスを叩き、無言で去っていった。

この名うての犯罪者の邪気含みの行為の意味は、本稿の冒頭で言及した通り、「絶対正義」の名の下に、「私的制裁」に奔走する一人のジャーナリストと、その背後に隠れ込み、「絶対悪」を糾弾して止まない「映画鑑賞者」=「一般大衆」の裸形の懲罰意識の爛れ方を露わにすることだろう。

 
藤井が置き去りにされるラストカットの意味は、そこにこそある。

 藤井が置き去りにされた闇のスポット ―― まさに、そこは拘置所の狭い独房だった。

 「絶対正義」を盾にして、「懲罰感情の暴走」を身体化した藤井こそが、彼が訪ねた場所の住人でなければならない。

 そう、言っているのだ。

 そういう映画なのだ。

 そして、この映画の「メッセージ」に関わる私の異論は、この辺りのコンテクストにある。

 木村を殺したいと一番強く願っている張本人が、法廷の場で、「懲罰感情の暴走」を身体化した藤井であることの、一体、どこが問題なのか。

人間の情動の炸裂として相当程度過剰であっても、裁判長から注意されて、「すみません」と頭を下げて、自己完結するレベルの問題ではないのか。

 人間の感情だけは、この世で、「絶対の自由」なのである。

 更に、その藤井の自己欺瞞的な「家庭問題を等閑(なおざり)にした行為」を示す事例として、妻の指弾がある。

「読んだよ。記事になって、犯人捕まって、あなたはこれ以上何がしたいんだろうね」
「洋子に迷惑かけているのは分っているけど、ここで止めるわけにいかないよ。俺はこの目で、現場見てきてるんだから」

すっかり髭面に変貌した藤井の言葉には、忌まわしき事件に取り憑かれた男の執念だけが、どこまでも重く、乾いた空気を裂いていく。

夫の反応を予想したような妻の言辞には、諦念し切った者の毒気が存分に含まれていた。

「楽しかったんでしょ?こんな狂った事件、必死に追いかけて。あなたは楽しくて、楽しくて、仕方がなかったのよ」
「止めろよ」

気色ばむ夫。

「悔しいけど、私も楽しかった。怖いもの見たさで。世の中、こんな事件あるんだ、こんな怖い人がいる、こんな殺され方するんだ…」

炸裂する情動を、切っ先鋭く突き付ける妻。

離婚する覚悟ができているからだ。

「止めろ!」

藤井の激しい怒号。

睨みつける妻。

無言で、離婚届の用紙と印鑑を、机の上に載せる妻。

藤井の母
「あたし、随分前からお母さんのこと、殴ってる。もう、罪悪感も感じなくなっちゃった。お母さんが死ぬのをどこかで待ってるの。自分だけは、そんな人間じゃないって思ってたんだけどね」

藤井の妻にもまた、「誰しもが根本に持っている」「凶悪さ」の概念を被せていくのか。

藤井の妻の情動の炸裂を反転させたとき、この藤井の「懲罰感情の暴走」をも、「凶悪さ」の範疇に収斂させてしまう作り手の意図が瞭然としていると言っていい。

然るに、事件を必死に追いかける動機に、母親の問題から逃れる理由づけが根柢にあったにせよ、事件自体の重要性が、仕事に向かわせる職業柄からの心理的推進力を駆動させたこともまた、充分に考えられることだ。

その相俟った感情から、事件への没我を加速させ、その営為にアイデンティファイして、快感を得るに至ったことも想像がつく。

人間の意識、行動の動機付けとはそういうものだ。

問題は、そのスパイラルに嵌っている藤井の行動の、どの部分を「凶悪さ」の発現と認定し、指弾すべきなのか、判定しにくいテーマであると言っていい。

明らかに、この事件を暴くには、藤井の他に任せされる代替人物の存在はいなかったのである。

藤井の取材を続ける動機は、恐らく、木村自身に語らしめたように、「木村を死刑にしてやる」という執念に他ならないだろう。

監督は、それが「凶悪さ」の発現と言いたいのだろうが、しかし、果たしてそうだろうか。

些か激しい藤井の懲罰感情は、彼自身の能動的な取材活動でしか顕在化されないのだ。

その取材活動のどこに問題があるのか。

これが、本来のジャーナリズムの使命ではないのか。

彼がその活動を通じて情報を捏造したり、誤ったメッセージを意図的に流布させたりすれば、もう、それ自身が言論の自由という名の、限りなく犯罪に近い行為になる。

そこまで遂行したら、彼は法治国家によって裁かれるだろう。

ただ、それだけのことだ。

然るに、彼は、未だに「凶悪さ」を身体化していないのである。

それよりも、こうした動機は何であれ、記者の全人格的な自己投入なしに、一連の凶悪犯罪は世に問われることはなかったということに留意すべきである。

問題は、あくまでも、この過程とパラレルに惹起していた家庭問題への対処以外ではない。

彼が、「家庭問題を等閑(なおざり)にした行為」は、どこまでも夫婦間の問題であって、それ以外ではないのだ。

以上、「展開のリアリズム」において瑕疵の目立たない映像の中で、この忌まわしき風景の変換に印象誘導する辺りだけが、一貫して、私の中で違和感を拭えなかった次第である。

それも、本作の基幹メッセージを成しているが故に、蔑ろにできなかったのである。


(それにしても、感情の微妙な変容を演じ切った山田孝之の内面的表現力は素晴らしかった。絶賛したい。)



4  国民感情の当然の反映としての厳罰化の傾向



本稿の最後に、「裁判員裁判」についての言及があるので、本作のテーマと無縁でないと思われるから、簡単に私論を述べたい。

「数年前からスタートした『裁判員裁判』に興味があって色々調べていると、刑が厳罰化している様にしか思えないんですよね。無期懲役が妥当な裁判であって死刑が下されるとか。事件に全く関係の無い一般の人を法廷に巻き込んで、『より公平な裁判をしよう』って始めた割には、厳罰化してるじゃんって。じゃあ人間の懲罰感情って何なんだろうって思って。藤井も正義という名の基で動いている懲罰感情が暴走しているわけで」(前出)

 私は、白石和彌監督のこの指摘は間違ってないが、正確性を期していないと考えている

 まず、厳罰化の傾向が「裁判員裁判」によって端緒を開いた訳ではないこと。

この事実を確認したい。

一般的に言われているのは、「地下鉄サリン事件」(1995年)が転機になり、メディアの過剰報道の一つのピークを示した、「光市母子殺害事件」(1999年)により厳罰化の傾向が定まったということ。

とりわけ、「特に酌量すべき事情がない限り死刑の選択をするほかない」として、「永山基準」(犯罪の性質・犯行動機・残虐性の有無・被害者の人数・犯人の年齢・前科の有無など)の枠組みに縛られなかった「光市母子殺害事件」以降、被害者感情が重視されるに至った経緯を無視できないだろう。

 
更に、近年、顕著な現象を露呈している、私たち国民の「体感治安」の悪化(凶悪な事件が減少しているにも拘わらず、メディアスクラムによって「恐怖」を扇情化)も、厳罰化の傾向の加速因子になっているように思われる。

 この流れの中で、日本政府によって、「犯罪に強い社会の実現のための行動計画」を策定されたのが2003

 然るに、私は勘考する。

刑が厳罰化している傾向は、それだけ「被害者」の人権感覚に寄り添うようになった現実の反映であり、「地下鉄サリン事件」以後、一人の被害者の周囲で、PTSD(心的外傷後ストレス障害)に罹患する人々の苦衷の問題が軽視できなくなった事態を考慮するとき、厳罰化は国民感情の当然の反映であるのではないか。

これは、レイプ事件を考えれば分明である。

「セカンドレイプ」の問題が、これまで軽視されてきた現実こそが由々しき事態だったのだ。

裁判員裁判で、レイプ事件に対して厳しい判決が出ている現象こそ、健全な市民感覚の反映ではないのか。

因みに、6人の男たちからレイプされたことが原因で逝去した、「インド集団強姦事件」(2012年)では、4人に死刑判決が下された事件を、私は今でも忘れない。

要するに、相対的に豊かになり、私権が拡大的に定着する社会の流れが極まっていけば、必ずと言っていいほど、市民感覚を反映した傾向が強まっていくのである。

それが、山本七平流に言えば、人間を中心とする「和の思想」である、「日本教」に拠って立つかのような我が国では、「和の思想」を壊すような暴力に対する激しい拒絶反応の故に、厳罰化の傾向という形で顕在化してきたということなのだろう。

 
裁判員制度の導入は、ある意味で、人間を中心とする「和の思想」である「日本教」が、今なお、容易に削り切れない太い幹として息づいていることを検証するシステムであったのかも知れない。

 いずれにせよ、暴力に対する激しい拒絶反応が、「法」よりも「道徳」に傾斜していく傾向の瑕疵を認知してもなお、法治国家である我が国の民主主義を鍛えるシステムとして、私は裁判員制度の継続を切に願う者である。


(2014年6月)

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