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2014年2月7日金曜日

蒲田行進曲(‘82)     深作欣二


<「全身映画的」を構築し切った「活動屋魂の復元」の情感のうちに結ばれた、「カーテンコール」という自己完結点>




1  「全身映画的」なヒューマン・コメディの一代の傑作



良かれ悪しかれ、いつの時代でも、その時代の風景に見合った映画のサイズが存在することを慮(おもんばか)れば、本篇が、「映画命」と幻想し、その身を削っていた者たちが、なお命脈を繋いでいた、「古き良き時代」の産物であるとは更々思わないが、それでも、様々なコードの縛りに後込みすることなく、融通無碍に対応し、これほどの破壊力溢れるヒューマン・コメディが構築されたことに、正直、驚きを禁じ得ない。

私の主観では、この映画は、この国で数多(あまた)作られてきて、昨今でも作られ続けているヒューマン・コメディの一代の傑作であると考えている。

 相当に暑苦しく、過剰な芝居の臭さも気になるが、敢えて確信犯的に、「全身映画的」という問題意識を抱懐して作ったであろう、深作欣二監督の強靭な思いが、自給熱量のマキシマムな発現に変換され、それが作品総体のうちに、見事なまでに計算され、凝縮されたコメディとしての眩い輝きを放っていた。

コメディなのに感涙に咽ぶシーンに、情動が反応してしまうのは、本作が紛れもなく、ヒューマン・コメディとしての力量が、一ランク上の凄みを表現し切っていたからである。

一貫してテンポが良く、無駄のないエピソードの繋ぎは殆ど完璧であり、それが、観る者の鑑賞スタイルの律動感を壊すことなく、弛緩を生むことも全くない。

何より驚かされるのは、児戯性丸出しで、喜怒哀楽が激しいスター俳優の銀四郎(銀ちゃん)を演じた風間杜夫、その銀ちゃんに心酔する、大部屋俳優のヤスを演じた平田満、そして、腹ボテという一因も手伝って、関西興業界の実力者の令嬢の娘に現(うつつ)を抜かす銀四郎に捨てられるという、売れない女優の小夏を演じた松坂慶子の三人によって演じ分けられた、物語の主人公の圧倒的な表現力の高さである。

それぞれのキャラに成り切って、そのキャラを全身で表現する。

その中にあって際立つのは、非常に難しい役どころを演じ切った、松坂慶子の内面的表現力の秀抜さ。

映画の前半で見せた彼女の、「落魄した無気力感」が鮮明に焼き付けられるや、小気味のいいほどテンポのいい物語の中で、その「落魄した無気力感」が浄化されていく心的行程を、精緻に表現したその凄みに驚かされる。

小夏を演じた松坂慶子
一貫して、訴求力の高い表現力を見せつけた、松坂慶子の内面的表現力の秀抜さは、二人の男の狭間にあって、最後は夫の無事を思い、軟着し得た小夏の、何とも言えない柔和な表情が、“階段落ち”のエピソードという中枢の物語の、そのサイドラインを支え切た絵柄の出色さによって検証されたのである。

これらの要因が、人情喜劇としての強度を決定づけていて、些か「時代限定性」の印象を拭えないながらも、「全身映画的」なヒューマン・コメディの一代の傑作と評価し得る作品に昇華したのだろう。



2  「全身児戯性」のスター俳優と大部屋俳優の「半身悲哀」



 ここに、本作の物語の本線である“階段落ち”に関わる、興味深い丁々発止の会話がある。

 会話の主は、映画監督とスター俳優の銀四郎。

40段近い階段の時代劇(「新撰組」)のセットを作っても、肝心のスタントマンが不在で、危険過ぎる撮影に対する警察当局のクレームがあり、会社側の中止の方針が内定された事情への不満が、両者の感情的軋轢を生むというエピソードである。

以下、土方歳三役の銀四郎の憤怒の異議申し立て。

「それは、警察は立場上、止めるよ。人一人死ぬかもしれねぇんだから!でも、それを押してもやるのが映画なんじゃないの!第一、“階段落ち”のねぇ『新撰組』なんか、お客が入ると思いますか!そうだろ、皆!」

ここで、「皆!」と相槌を求められたのは、銀ちゃんに憧れているの大部屋俳優のヤスたち一同。

 「これは、俺の映画だよ」

監督も、ここまで言われたら黙っていられない。

 「俺の映画だ!監督だぞ、俺は!」

ここで、銀ちゃんの泣きが入っていく。

「“階段落ち” やりましょうよ」

“銀ちゃん”こと倉岡銀四郎の不満の炸裂が、監督に向かっていくから、監督も厭味を言わずにいられない。

「新撰組」の監督
「俺だって“階段落ち”やりてぇんだよ、本当は。何のために、こんな化け物みたいな階段作ったと思ってんだ!ところがな、落っこてくれる奴がいないんだよ。東京から呼んだスタントマンもビビって、逃げて帰っちゃったんだよ。そうだ、銀ちゃん。誰か心あたりないか。このてっぺんから転がり落ちて、背骨を折っても、ドタマかち割っても平気な、威勢のいいの!昔のスターさんには、そんな子分の5,6人もいたっちゅう話だけどね」
 
そこまで言われて、銀ちゃんは階段下に控えている子分に向かって、居丈高に叫ぶのだ。

「どうなんだ、てめえら!」

お互いに顔を見合わせて、誤魔化し笑いをする子分たち。

一際(ひときわ)目立つ「おいしい役回り」であっても、“階段落ち”までして、命を喪いたくないのは、大部屋俳優と言えども同じである。

彼らが逡巡するのも当然のこと。

その後、ご機嫌斜めな銀ちゃんは、美人のファンにサインを頼まれ、脚にサインをするサービスぶり。

もう、これで気分が変わる。

スター俳優のアイデンティティは、こんな他愛もない行為で解消されるのだが、銀四郎の場合は、子分たちから「銀ちゃん」と呼ばれているように、そのキャラの喜怒哀楽の激しさと上手に付き合うスキルさえあれば、「おこぼれ」に預かることができるほど、この人物は「全身児戯性」に溢れているのだろう。

ともあれ、そんな男の児戯性丸出しのキャラが全開する一方、そんな男の権威に縋って、何とか、見過ぎ世過ぎを繋ぐ大部屋俳優の悲哀もまた、このエピソードは雄弁に物語っていた。

だから、却って始末が悪いのである。

先の美人のファンにすっかりのぼせた銀ちゃんは、ヤスに電話番号を聞きに行かせ、成功し、有頂天の天然ぶり。

ところが、子分たちを連れた飲み屋で、自分にサインを求める者が一人もいないことに腹を立て、店に火をつけるぞと恫喝し、大暴れする始末。

「全身児戯性」のスター俳優
このように、「全身児戯性」に溢れ返っている銀ちゃんのキャラが立ち過ぎて、もう、手のつけられない暴走に至れば、「おこぼれ」に預かる大部屋俳優のスキルも種切れになるのだ。
 
まさに、「全身児戯性」のスター俳優と、大部屋俳優の「半身悲哀」の風景が、そこにあった。

この一連のエピソードで読み取れるのは、銀ちゃんと大部屋俳優の関係が、明らかに「権力関係」であると把握し得ること。

ただ、その「権力関係」に、ヤスのように、「銀ちゃん命」の「人情」が絡んでしまうから、厄介な展開を開いてしまうのだが、この点に関しては、稿を変えてフォローしていきたい。



 3  「落魄した無気力感」の女と、「情の深さ」を体現する男

 

「銀ちゃん命」のヤスのアパートに、その銀ちゃんが、落魄した女優の小夏を連れて来たことから、厄介な展開が開かれていく。

脚にサインをした美人のファンが、関西興業界の実力者の令嬢の娘と分って、いよいよ、彼女に現(うつつ)を抜かす銀四郎は、スキャンダルも恐れて、腹ボテで、売れない女優の小夏をヤスに押し付けるのだ。

 銀ちゃんの頼みとあらば、断れない事情を知悉するスター俳優の狡猾さが、そこに垣間見える。

 以降、そんな理不尽な頼みを引き受ける、ヤスの「卑屈さ」を軽蔑する小夏の心情は、「落魄した無気力感」そのものだった。

 小夏の「落魄した無気力感」を象徴するように、彼女の身体に不幸の種が被さっていく。

極めて母体死亡率の高い、妊娠中毒症で入院するに至ったのである。

 毎日、病院に通うヤス。

 「コレがコレなもんで」

以降、小指を立てて、妊娠中の妻を持った男として、危険な仕事を次々に引き受けていくから、体中、傷だらけの日々を送っていく。

退院後の小夏の生活環境を整えようとするためである。

退院した小夏が、何より驚いたのは、新品の家具や電化製品で埋まった、利便性のある環境を用意する男の精神構造だった。

「全身児戯性」のスター俳優に憧憬しているとは言え、大部屋俳優の、この度を越した従順さに対する不可解さである。

単に、人が良いだけで、これだけの行為ができるのか。

小夏にとって、共存の時間が継続性を保持するにつれ、侮蔑の対象人格でしかなかったヤスの人間性の中に、「卑屈さ」にのみ収斂し切れない「情の深さ」を感じていくのは、「落魄した無気力感」から、少しずつ抜け出しつつある心境の変化と軌を一にしていた。

そんな折、関西興業界の実力者の令嬢と恋仲になった銀四郎から、信じ難いことに、 その令嬢のご機嫌伺いと、銀ちゃんの人となりのアピールを頼まれた小夏は、言われた通りに、令嬢に会って話すという屈辱を経験する。

小夏
さすがに、ここまで屈辱を味わえば、自尊心を傷つけられたというレベルの心境すら突き抜けてしまうだろう。

その直後、銀四郎のマンションに行き、散らかった部屋を片付けるや、思わず嗚咽する。

完全に、銀四郎への思いを断ち切る決意をし、別れのケジメをつけにきたのだ。

銀四郎への思いを断ち切った小夏には、今や、自分に献身的に尽くしてくれるヤスの存在が眩しく映る。

以下、「落魄した無気力感」に捕捉され続けた小夏と、その小夏への思いが募っているヤスとの真剣な会話。

「あんた、本気なの?本気で、あたしのお腹の子の父親になるの?あたしと結婚するつもりなの?」
 「それはもちろん・・・ただ、俺、大部屋だし、稼ぎもないし、俺の方から言う訳にはいかないっすから」
 「どうして言えないのよ、自分の問題じゃない。ちゃんと、プロポーズしてよ」
 「じゃあ・・・結婚して、ください」
 「じゃあ、って何よ」

ヤスの手を握る小夏。

そこに、「間」ができる。

 「お受けしました。大事にしてよ。私、めちゃめちゃ甘えるからね」
「おふくろも喜んでたでしょ。九州弁分りました?」

ここでヤスは、照れ隠しに、故郷・熊本県人吉市の実家から電話があった件に話題を変える。

「でも、田舎の人、あたしのお腹の子が、あんたの子じゃないこと知ってるの?」
「いいえ、でも、いいんです、もうそんなこと。関係ないっすよ」
「ほんとね。あんた、絶対後悔しないでよ。お願いします、お願いします」

頭を下げながら、嗚咽する小夏。
 
「分りました、分りました」
  
ここだけは、凛として答えるヤス。

言わずもがな、この時点で、ヤスに対する小夏の異性感情が、決定的な膨らみを持ち得ていた訳ではない。

そんな器用な女ではないのだ。

ただ、自殺を考えるほどの孤独感の中で、もう、誰かに縋るしかなかった。

浮遊し、空洞化した情感系をコントロールできない危うさの際(きわ)で、誰でもいい、自分を思ってくれる誰かに、自分の心を受け止めて欲しかったのだ。

その直後の映像は、ヤスの故郷・熊本県人吉市挙げての大歓迎シーン。

「祝・おかえりなさい!我らのスター 村岡安次 水原小夏」

熊本県人吉市(ウィキ)
大きく書かれた横断幕と、ブラスバンドでの大仰な歓迎が、ヤスと小夏を派手に出迎えるのだ。

その夜のこと。

「あんた、安のどぎゃんところに惚れた?」

ヤスの母から、唐突に聞かれた小夏は、一瞬、答えに詰まったが、笑みを返しながら反応する。

「真面目なところです」
「真面目じゃよ。ウチの安は真面目ばい。あんた、お願いじゃけん。ウチの子を裏切るような真似だけはせんといてね」

そう言われて、小夏は、ヤスの母の顔をまじまじと見る。

「小夏さん。ウチは構わんよ。お腹の子が誰ん子でも。・・・第一、安は、そげん甲斐性のある男やないけんね。ウチは若うても、安には惚れん」

ヤスの母は、自分が産み育てた子の何もかも分っていながら、妻にするには不相応な美人の小夏に頼むのだ。

ヤスの母の言葉の重量感を感受する小夏の心は、この経験の中で、少しずつ、しかし確実に変容していくのである。

人吉から帰ってまもなく、ヤスへの弁当の差し入れを、笑みを湛えながら、撮影所に届けに行く小夏がいた。

「大部屋なんてのはね、いったん入ったら、性根が腐ってしまうんだってよ」

 撮影所のメイク女性の言葉だが、「銀ちゃん命」のヤスには、「真面目じゃよ」と言った、ヤスの母の言葉に嘘がない仕事ぶりを見せて、円満な夫婦像を作り上げていくイメージをトレースしていくのである。

―― ここで、私は勘考する。

なぜ、この映画がこれほど面白く、且つ、観る者を感動させるのかという自問について。

この自問に対する一つの自答が、この人吉市への帰郷のシーンのうちにあったということ ―― この点を粗略に扱えないのだ。

熊本県人吉市(ブログより)
まるでスター俳優のように成功し、美人女優を妻にした男の凱旋を、ブラスバンド演奏とバトンガール、それに市民総出で盛大に出迎えるという、あり得ないようなバカバカしい派手な演出を見せつけられれば、たとえ、それがコメディと分っていても、白けてしまうのがオチであろうと思われるが、ところが、本作の印象は違っていた。

哄笑しつつも、感動してしまうのだ。

なぜ、感動できるのだろうか。

それは、そこに至るまでの、ヤスと小夏の心理の微妙だが、物理的距離の最近接を通して、複雑に絡み合っていく内面風景がきちんと描かれていて、それを演じる俳優の表現力の高さが、充分に観る者の心を鷲掴みしていたからである。

まさに、ヒューマン・コメディのツボに嵌った素晴らしいシーンだった。

しかし、ヤスと小夏の関係が濃密に描かれている、このシーンの後に待っているのは、ヒューマン・コメディがリアリズムに変容していく描写であった。

以下、稿を変えて、物語の本線である“階段落ち”のシーンへと至る、緊張前夜の風景を再現していく。



4  男の叫びと女の涙が一時(いっとき)溶融した夜の、情動の屈折的氾濫



 関西興業界の実力者の令嬢の娘との関係も上手くいかず、仕事の出番がカットされて腐っている銀四郎が、小夏との結婚を求めてきて、マンションを売った金で、4カラットのダイヤをプレゼントした。

 あれほどの「仕打ち」を受けても、銀四郎への愛情が消えていない小夏は、それでも動かなかった。

小夏と銀四郎
嗚咽の中で断り、別離のシグナルを送るのだ。

「ウチの子を裏切るような真似だけはせんといてね」

 このヤスの母の言葉の重量感が、小夏の心を縛っているだけではない。

小夏の心の中で、ヤスへの異性感情が生れているからである。

 一方、銀四郎の孤独がリアリティーを増幅する。

撮影現場から、銀四郎が消えたのである。

 慌てふためく子分たち。

 奔走するヤス。

「俺はもうダメだ」

銀四郎を見つけたヤスに、当人は、失意のどん底の心境を漏らすのだ。

正月のポスターから外され、お盆の映画も中止になったばかりか、令嬢とも別れたと嘆く銀四郎。

関西興業界の実力者の令嬢
そればかりではない。

一世一代の芝居の醍醐味を見せる機会であった、“階段落ち” の正式中止が決定されたのである。

「新撰組」の撮影でのイメージができているのに、正式中止の決定によって、銀四郎の喜怒哀楽の「哀」を極めてしまう姿を目の当たりにしたヤスは、思いも寄らない言葉を発する。

「銀ちゃんの、のるかそるかの瀬戸際じゃないですか。俺がやらなくて誰がやるんですか」

ヤスは、驚嘆する銀四郎の止めるのも聞かず、その脚で監督の所に走って、自分の決意を訴える。

ここでも、驚嘆する監督。

監督は、ヤスの意志が固いのを知って、“階段落ち” の続行を決断する。

「よーし、やるぞー。人一人、殺すぞ」

今度は、監督のこの言葉に驚嘆するヤス。

まもなく、3000万の生命保険に入って、驚嘆するのは愛妻の小夏。

酩酊して帰宅するヤス。

「そんなバカなこと、どうして引き受けたの!」

 
松竹キネマ蒲田撮影所跡
叫ぶ小夏に、「銀ちゃんのためだろうが!」と怒鳴り飛ばすヤス。

 「もう、手遅れなんだよう。会社中が乗ってるしな、社長も監督も、俺の手を握ってお酌し、”活動屋の精神、未だ死なず”って、泣いてるんだぜ。今さら、やめられるか」

銀ちゃんを救うために引き受けた“階段落ち”によって、自らの命の危険を感受しつつも、「約束は守る」という信念で生きるヤスには、酔った勢いで、妻となった小夏や、大部屋俳優の仲間たちの前で、本音を吐き出してしまうのだ。

このシーンは、生命保険に入ってまで、引き受けた仕事の重さが、徐々に重圧となっていく心理を精緻に描いていて、チープなコメディの「感動譚」に収斂されないような深みがあった。

しかし、この「銀ちゃんのため」というヤスの男っ気の行為の根柢が、呆気なく崩されていく。

 銀ちゃん自身が、ヤスの男っ気の行為を、全く受容する態度を見せなかったからである。

あろうことか、極めつけの毒まで吐き出したのだ。

「とうとう、俺を人殺しにしやがって」

ヤス本人の前で、そう言ったのである。

この銀ちゃんの言葉には嘘がない。

銀ちゃんは、ヤスに“階段落ち”を頼んだ覚えもないし、ヤスが男っ気を発揮して、“階段落ち”を引き受けたときも止めようとしたのである。

ただ、銀ちゃんは、ヤスに“階段落ち” のイメージプランを聞いてもらいたかっただけなのだ。

“階段落ち”に賭けた自分の思いを、誰かに聞いてもらいたかった。

このときのヤスへのイメージプランの提示によって、銀四郎の喜怒哀楽の「哀」を、束の間、「楽」という幻想に変換したかった。

それだけなのである。

ヤス
銀ちゃんの性格を熟知しているはずのヤスが、その心情を早合点したのは、ヤスの人情深い性格が、銀ちゃんのシグナルを誤読してしまったからである。

更に、“階段落ち”の前夜のこと。

 「最近よ、銀ちゃん、妙に冷たいんだ、俺に。何が不服なんだ、この飲み込みのヤスのよ!このお腹の子供まで飲み込んじゃった、このヤスさんをよ!」

 銀ちゃんへの不満を小夏に転嫁して、家財道具を壊し、暴れ捲るヤス。

 家中の物を壊し切った男の暴走には、10年間、銀四郎(「あの野郎」と表現)に支配され、殴られ続けてきた、「飲み込みのヤス」の屈折が露わになって、そこで貯留された鬱憤を炸裂させる心理が張り付いている。

 無論、戸籍上の妻である小夏が憎いわけではない。

 寧ろ、小夏を愛すれば愛するほど、嫉妬感情が飽和点に達してしまうのだ。

一切は、銀ちゃんへの憤怒から開かれた心理である。

「飲み込みのヤス」の惨めな自己像を、嫌と言うほど意識させてしまう心理であると言っていい。

統御不全と化した自己の愚昧さを分っていながら、どうしようもなく、情動氾濫を身体化してしまうのである。

だから、一頻り暴れ捲ったら、もう、裸形の自我を露呈していく以外になかった。

「前はね、平気だったのよ。何言われてもね。ヘラヘラヘラヘラ笑ってやってきたの。それが どうしちまったんだろうね、俺・・・お前のことをね 好きになればなるほどね、 哀しいんだよなぁ、この心が・・・」

深作欣二監督
存分に嗚咽し、項垂(うなだ)れていた小夏が、夫であるヤスの傍に近寄っていく。

「お前とね 一緒に生きていこうと思えば思うほどね 切ないんだよな、この胸が・・・

抱擁する夫婦。

「あんたぁ!」

小夏の情動は、それを受容する男の懐に潜り込んでいく。

ヤスの吐露は終わらない。

「お前とね、離れられなくなればなるほどね、苦しいんだよな、体中が・・・どうしちまったんだろうね、俺!ほんとに!」

男の叫びと女の涙が一時(いっとき)溶融するが、全てを吐き出した男の情動の屈折的氾濫は、女の制止を振り切って、そのまま静かに家を出ていく。

置き去りにされた女の涙が、破壊し尽くされた部屋の中枢に捨てられていた。



5  “階段落ち”という、一世一代の大芝居に向かう大部屋俳優の意地



 
銀ちゃんとヤス
銀ちゃんと大部屋俳優の関係を、私たちは、日本的な「義理・人情」の関係という風に、肯定的に看做(みな)してしまう観念傾向に陥りやすいが、この点に関しては、注意深く見ていく必要がある。

大体、「義理・人情」と括ってしまうが、両者は本質的に違うものである。

特定他者に対する柵(しがらみ)が重厚に関与する、一種の精神的な「債務感情」をベースにする「義理」に対して、「人情」の場合は、「債務感情」とは無縁な「援助感情」をベースにする、極めて情性の深い感情傾向である。

 だから、「人情」には、柵(しがらみ)が重厚に関与する、利害・貸借の縛りから解放されている。

 その意味から考えれば、銀ちゃんと大部屋俳優の関係の本質を、「義理・人情」の双方と無縁な関係と言い切れない点があるにせよ、いみじくも、ヤスの主体性の欠如を難詰(なんきつ)した、小夏の指摘が的を射るような「権力関係」であると把握すべきであるだろう。

 この「権力関係」の従属関係の中で、「銀ちゃん命」の「義理・人情」絡みで、ヤスは動き、奔走したのである。

ここで、「義理・人情」絡みと言っても、双方のボーダーが見えないほどに入り組んでしまっている事情を知っておく必要がある。

 
3人の主人公
このヤスの感情傾向を、一概に奴隷根性と決めつけることはできないが、自ら男っ気を出して引き受けた“階段落ち”
に対して、まるで、人が変わったような冷淡な態度を取る銀ちゃんへの不満から、これもまた、人が変わったような荒れ方を身体化する、ヤスの行動傾向の根っこには、双方のボーダーが見えないほどに入り組んでいる、「義理・人情」絡みの「権力関係」への、「倒錯的反乱」の要素が伏在したと見るべきである。

それが、“階段落ち” の本番の渦中で噴き上がったと考えられるのだ。

 “階段落ち”のシーンに入るときだった。

 ヤスは、階段の半ばまで上っていったとき、古釘を発見し、スタッフ一同に怒鳴りつける。

 「誰か説明してくれや!納得するまで、ここを動かんぞ!」

 そう怒号して、階段の半ばで座り込んでしまうのだ。

「俺は大部屋だからよ、スターさんみたいによ、たっぷり『間』をとった、恰好良い死に方なんぞ、できねえよ!」

明らかに、眼前の銀四郎に向かって放たれた挑発的言辞である。

最後の煙草の一服を吸うために、高価なライターで火をつけろと、我がままの言い放題のヤス。

そのときだった。

高価なライターを手に、銀四郎が階段を上っていって、ヤスの煙草に火をつけたのである。

池田屋跡(ウィキ)
煙草の煙を、銀四郎の顔にフーと吐くヤス。

「いい加減にしねえか、てめぇ!」

そう言うや、間髪を容れず、銀四郎の平手打ちが飛んできた。

階段下に倒れるヤスが、突然、態度を変えて、それを求める者のように言い放つ。

「やっぱり銀ちゃん、そうでなくっちゃ!俺、久しぶりに銀ちゃんに殴られて、いい落ち方ができそうですよ」

古釘を自ら用意して打った「大芝居」が成就した瞬間である。

銀ちゃんの気の弱さを、本来の親分的な態度に復元させる「大芝居」に成就したヤスには、双方のボーダーが見えないほどに入り組んでいる、「義理・人情」絡みの「権力関係」から、「人情」=「情性の深み」の側面を引き摺り出す「倒錯的反乱」において勝利したのである。

「上って来い、ヤス!」と絶叫する銀ちゃん
これが、「上って来い、ヤス!」と絶叫する銀ちゃんの行為に繋がったと言っていい。

思うに、損得計算を希釈させた「援助感情」に発する行為を、「権力関係」で結ばれた親分の銀ちゃんと「共有」したかった。

この心理が、「飲み込みのヤス」を疾駆させたのである。

しかし、「飲み込みのヤス」の疾駆が頓挫したとき、駆動する張本人の自我を錯乱状態にさせてしまった。

だから、古釘を使った姑息な「倒錯的反乱」を身体表現するに至ったのである。

そこに、歪んだ情動の屈折的氾濫が垣間見られるが、ヤスはもう、このような関係でないと落ち着けない感情傾向を形成してしまっているのだ。

 しかし、このヤスは、大部屋俳優の悲哀を突き抜ける、革命的な行為を身体化する。

 「皆さん、すいませんけど、撮影は晩飯の後にしてくれませんか。俺にだって、一生にいっぺんくらい、役作りというやつをさせて下さい。俺、いま、どんな死に方がいいか、迷ってるところなんで」

 そう言って、大勢の関係者が集合している現場から消えていく。

この言葉は、大部屋俳優の反転的な意地とも言える「アファメーション」(自己肯定宣言)である。

 このシーン、ヒューマン・コメディのフラットなエンタメ性を突き抜けていたからこそ、この映画の表現価値を決定づけていると私は考える。

 会社関係の上層部に、その名を知られることのない一人の大部屋俳優が、肝心要のシーンを占有し、撮影現場に集合する全ての者の時間を支配し切ったからである。

ここから、ヤスの一世一代の、本物の大芝居が開かれていくのだ。

“階段落ち”のシーンである。

 
「新撰組」の撮影のクライマックスである「池田屋事件」の中で、土方歳三役(史実は近藤勇で、土方歳三隊は四国屋に行った後、参戦)の銀ちゃんが、長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派志士を追い詰めていく。

 池田屋の長い階段を一段一段上っていって、尊攘志士を階段上まで追い詰めていって、斬り合いになっていく。

 その傍らに、尊攘志士の一人のヤスがいる。

雪が降り頻る中、撮影所の門前で、夫の無事を願いつつ、立ち尽くしている小夏。

 銀ちゃんの刀が火を噴いた。

 ヤスが斬られて、背面から転がり落ちていく。

“階段落ち”
思わず、視線を背けるような“階段落ち”である。

 しかし、階段下まで転がり落ちたヤスは死んでいなかった。

 必死の形相で、一段一段、這い上がっていくのだ。

 「上って来い、ヤス! お前は志半ばに倒れていく勤皇の浪士だ、 簡単にくたばるな!」

 銀ちゃんの叫びが、重苦しい空気を裂いていく。

顔に鮮血の赤が張り付いていて、階段上にいる銀ちゃんや、勤皇の浪士に扮する大部屋俳優たちから、嗚咽の声が洩れる。

もう、凄まじい形相の男の一人舞台と化していた。

そのときだった。

ヤスの手が、ピタリと止まった。

 「どうしたヤス!這って来い!上って来い、ここまで!」

銀ちゃんの叫びが連射される。

「銀ちゃん、格好いい・・・」

動かなくなったヤスの体から、絞り出すような一言が、小さな声で放たれた。

その瞬間、ヤスは力尽きて、階段下まで滑り落ちていったのだ。

「あんた~!!」

撮影所前まで様子を見に来ていた小夏が、事態の異変を目撃して、そう叫ぶや、雪降る路面に崩れ落ちていった。

“階段落ち”というクライマックスシーンが終焉した瞬間だった。



6  「全身映画的」を構築し切った「活動屋魂の復元」の情感が結ばれた、「カーテンコール」という自己完結点



クライマックスシーンが終焉したとき、場面が変わっていた。

「赤ちゃんが泣いてる。やっと産まれたのね。お腹の中で、散々、甚振られ続けた赤ちゃんが・・・」

まさに、この日に分娩した小夏の声が、柔和な絵柄の中で洩れていた。

「小夏、小夏」

ヤスの声である。

「誰かが呼んでる」と小夏。
「小夏!」とヤス。
「ヤスさんの声だ。あんた、無事だったの?・・・眼を開けるのが怖い。もし、あんたがそこにいなかったら、生きていけないじゃない。でも、赤ちゃんが呼んでるんだもんね。あたし、眼を開けるわ」

頭部に包帯をぐるぐる巻きながら、ヤスの笑みを湛えた相貌が、小夏の視界に入ってきた。

産まれたばかりの女の子の赤ちゃんを抱いているヤスが、小夏の覚醒を待って、笑顔で迎え入れるのである。

「これから、三人で生きていこうな。俺とお前と赤ん坊と、三人でな」
「うん」

そのときだった。

「カット!オーケイ!」

物語を仕切った監督の声と共に小夏が置き上がり、ベッドの背後のカーテンが開くと、“階段落ち”のスタジオが現れた。

小夏に花束が贈られ、出演者、スタッフ一同がベッドの周りに集まって、観客に手を振りながら、ドラマの完成を讃え合うのだ。

ヒューマンコメディの終わり方の一つの範形を提示した、全く違和感のない素晴らしいラストカットだった。

―― 冒頭でも触れたが、要するに、この一つのシーンに象徴されるように、相当に気合の入った作り手の思い凝縮し、それが「全身映画的」と呼ぶ以外にない、相当の強度を持つコメディを構築し切ったのである。

「全身映画的」を構築し切った作り手の思いの中枢にある、「活動屋魂の復元」への情感が全篇を通して貫流していたこと ―― これが最も大きかった。

この「全身映画的」のコメディの収束点が、ラストに用意された「カーテンコール」のうちに自己完結することで、「活動屋魂の復元」という基幹メッセージに結ばれていくのである。

そして何より、この映画の最大の魅力は、銀ちゃんの「小夏の譲渡」によって、三人のキャラクターが少しずつ、しかし確実に変容していく心理プロセスが、本来の人間味を増幅させるように描かれている点にある。

 “階段落ち”が決まってから寡黙になり、自分でコントロールできない状況に置かれた者の寂しさを全身に負って、本番に臨む銀ちゃんの秀麗な姿は、それまで描かれていたスター俳優の愚かさを極めたエピソードと切れいてた。

また、その銀ちゃんに「倒錯的叛乱」を剥き出しにした状態で、“階段落ち”の本番に向かっていくヤスが、大部屋俳優の「アファーメーション」を表現し切っていくエピソードは、この映画を根柢から支配し切った者の矜持に溢れていた。

そして、そのヤスの心情に最近接し、自分が失ってはならない者を実感して、煩悶し、深い愛情表現を具現した小夏の存在感が際立っていたのは言うまでもない。

 頗る良い映画だった。

(2014年2月)


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