検索

2013年9月6日金曜日

魚影の群れ(‘83)       相米慎二



<壮絶なる「全身プロフェッショナル」の俳優魂を炸裂させた完璧な結晶点> 



 1  壮絶なる「全身プロフェッショナル」の俳優魂を炸裂させた完璧な結晶点



微塵の妥協を許さないプロフェッショナルな映画作家の手による、「全身プロフェッショナル」の映画の凄みを改めて感じさせてくれる一級の名画である。

 1か月のロケの中で、「演技指導は行わず、役者が内面から自然な感情を表わすまでじっくりと待つ」(NHK・BS「邦画を彩った女優たち」より)プロフェッショナルな映画作家にとって、「まずは、役者さんの芝居が固まるまで、初日から60回、70回のテストをする」(同上)徹底ぶりは、プロの役者魂の表現を引き出すための、それ以外にない演出の戦略だった。

 そこで引き出されたのは、「精神的に追い詰められて、最後はもう、本番終わったら海に突き落としてやる」(同上)とまで言わしめるほど、自分の夫の生命の安否を気遣って、内面的に震えつつも、必死に耐えるヒロインを演じ切った夏目雅子の女優魂である。

その夏目雅子の芝居が固まるまで緊張感を保持し、何の指導も受けることなく、待たされ続けたのは、伝説的なマグロ漁師を演じた緒方拳。

 マグロ漁で有名な、下北半島・大間という、津軽海峡に面する漁師町に呼吸を繋ぐ人々の生活の律動感の、その漁民の日常的風景の視線のうちに俳優が溶融し切るまで、突き放すように待機する映画作家の苛酷な演出が、ここでもまた、切っ先鋭い刃となって炸裂する。

待たされ続ける俳優の緊張感が苛立ちを募らせ、それが噴き上がっていくぎりぎりの辺りで、クレーン移動を駆使しての、くどいほどのワンシーン・ワンカットの長回しによるカメラが捕捉する。

だから、これは凄い映画になった。

「魚影の群れ」という驚嘆すべき一篇は、父娘の役を演じた緒方拳と夏目雅子との、迸(ほとばし)る俳優魂の化学反応の結晶であると言っていい。

この国にあって、「最高表現者」という「勲章」を付与するのに相応しい、緒方拳の表現の総体が完璧であるのは織り込み済みだが、その「最高表現者」の演技に屹立し、火花を散らせた夏目雅子の表現の総体もまた、観る者に、鮮烈な印象を鏤刻(るこく)させる訴求力の高さにおいて決定的であった。


下北・大間の方言を、殆ど完璧に内化したプロの俳優による徹底したリアリズムが、本作の生命線を成して、苛酷な北の海で生業(なりわい)を繋ぐ漁師と、それを見守る女の生きざまの悲喜交々(ひきこもごも)の物語を、ワンシーン・ワンカットの長回しのカメラが、〈生〉と〈性〉の切れ目のない呼吸の生理的運動のうちに写し取っていく。


 本作のロケ地は、言うまでもなく、マグロの一本釣り漁で名高い、本州最北端の青森県大間の町。

大間・マグロの一本釣り
今や、「大間マグロ」がブランド視されるようになって、つとに商品価値が上がったが、物語の舞台では、そんな世俗の臭気と切れて、一本釣りに命を懸ける男たちの生態がリアルに活写されていた。

数千メートルに及ぶ幹縄(みきなわ)に枝縄(えだなわ)を一定間隔で垂らし、枝縄の先端に疑似餌をつけて大規模な漁を展開する、大型延縄(はえなわ)漁船によるマグロ延縄漁と違って、一人乗りの小型漁船を駆使し、100キロ級以上のホンマグロを豪快に釣りあげる大間の一本釣り漁は、当然の如く、漁師の高度な技術と腕力・気力に依拠するから、長年の経験の差を無視できないのである。


更に、一本釣りで漁獲したマグロの品質を劣化させないため、迅速且つ、適宜に処理する技術が求められるので、どうしたって、ベテランの域に達した頑強な男の力量に依拠せざるを得ないのだ。


 大間の一本釣り漁は、夏の終わり頃、サンマやスルメイカを餌として、時速40キロの速度で回遊するマグロを、生餌や疑似餌を海に投入し、マグロのヒットをひたすら待ち、反応があったら手で引上げるが、「最後の勝負」は、マグロの急所に手鉤(てかぎ)を繰り返し打ち込んで止めにする。


 映像は、この最後の勝負を、2回の目立たないカットが入っただけで、殆ど完璧に近い長回しによってリアルに活写する。

 
相米慎二監督
緒方拳演じる男の「最後の勝負」を、この長回しによって捕捉する撮影・演出技術は、殆ど奇跡的快挙と呼ぶ他にない。


 大間の一本釣り漁に命を懸ける男たちの生態が、この大胆な長回しよって、ドキュメンタリーと見紛うばかりに再現される迫力は、デジタル化した時代を越えて、映画史の中で語り継がれていくだろう、壮絶なる「全身プロフェッショナル」の俳優魂を炸裂させた完璧な結晶点であった。

  
 脱帽と言う外にない。




 2  「板子一枚下は地獄」の世界の現実を、殆どワンカットで見せるマグロ漁の凄絶さ




恋人トキ子の父・房次郎に結婚を拒絶され、強烈な平手打ちを受けながらも、大間町と隣接するむつ市内で経営する喫茶店を一時(いっとき)閉鎖して、トキ子の住む大間のアパートに引越して来た若者の名は俊一。

俊一トキ子
幼児期に母を失った娘・トキ子を不幸にさせたくないという思いの強さが、リスクの大きい漁師の妻にさせることを拒む房次郎を、いっそう頑なにするのだが、その心理の根柢に張り付くものは、自分の世話を焼くトキ子を失う事態への恐怖感だった。

かつて妻に失踪され、またしても娘を失うかも知れないという、孤独への恐怖感。

これが、海の男の心を漂流している。

それでも、トキ子との結婚を諦め切れない俊一は、「あの人のような漁師になりたい」という気持ちを捨てることなく、毎朝、房次郎の船・第三登喜丸の前で待ち続けるが、一顧だにされず、無視される日々を経て、遂に思いが通じるに至った。

乗船の許可を得た俊一は、緊張感の中で、束の間、「一本釣りの名手」と時間を共有する。

しかし俊一は、船酔いに甚振(いたぶ)られる惨めさを晒すばかりだった。

当然である。

「あの人のような漁師になりたい」という気持ちがどれほど強くとも、幼い頃からダッチロールする海上経験に馴れていなければ、一人乗りの小型漁船で船酔いし、嘔吐するのは必至であるだろう。

そんな俊一が、幾らかでも小型漁船に馴れてきたとき、由々しき事故は起こった。

第三登喜丸が、黒潮にのって北上するマグロの群れに遭遇したときのことである。

餌を投擲する房次郎の手馴れた動作に全く無駄がなく、ここから開かれる一本釣りの豪快な漁法が展開していく。

 ところが、房次郎の手馴れた一連の動作には、絶えず障害物があった。

狭い漁船内で、自らが選択する行動を持て余すだけで、ウロウロする俊一の存在である。

一本釣りの漁法を学ぼうとする俊一の物理的存在が、真剣勝負の房次郎の行為を遮り、その度に、「おーら、どけてろ!」などと怒鳴られる始末だった。

 事故は、そのとき起こった。

餌に喰い付いてきたマグロが房次郎のテグスを引っ張り、それを引っ張り返すプロの漁師との死闘が演じられる中で、あろうことか、テグスが俊一の頭部に巻きついてしまったのだ。

 見る見るうちに出血し、その血飛沫(ちしぶき)が房次郎の顔面を鮮血の赤に染め上げる。

 俊一の頭部に巻きついたテグスを外そうとするが儘(まま)ならず、却って引っ張り返される状況下で、叫びを上げる俊一の頭部からテグスをを外した房次郎は、額にタオルを巻いて止血する。

 「すいません。すいません。マグロは、マグロは・・・」

応急手当ての処置を施される俊一は、謝罪しながらもマグロが気になっている。

「あれはいい。あっちの方が強かった」

 そう言って、マグロを諦めた房次郎は、応急手当ての処置を済ませるや、大間漁協に救急車の手配を漁業無線で求めた。

 そのときだった。

 テグスが激しく反応したのである。

房次郎と俊一
房次郎のテグスに、マグロがなお抵抗しているのだ。

房次郎は、漁協への要請を忘れて、再び、マグロとの死闘を継続する。

 「おっちゃん、何とかしてけれ」

 出血多量で苦痛に歪む俊一の、助けを求める言葉である。

 マグロの急所に手鉤(てかぎ)を繰り返し打ち込んで止めにする、壮絶なマグロとの死闘に勝利した房次郎が、「正気」に戻ったとき、既に、声もなく船内で倒れている俊一を視認し、慌てて漁協に連絡するが、殆ど手遅れの状態だった。

 その直後の映像は、俊一の生死を分ける大手術を、夜遅く、おでん屋の屋台で待つ房次郎のカット。

 そこに、トキ子が走って来た。

 「見分けつかねぇだい。意識が混濁して、わいの顔、見分けつかねぇだい。手当するのが遅れたして、傷口が化膿しかかってるして、化膿してまったら、助からねえって。助けてけせ。何とかしてけせって!頼んだたっけさ!そたらにマグロが大事なの。人間より、マグロが大事なの!このまま死んでまったら、おとさ、人殺しだってば!」

 自分の父に、愛する男の命を奪われそうになった娘が、全人格的な思いを乗せて叫ぶのだ。

 娘の激しい難詰(なんきつ)に対して、何も反応できない男は、娘に「銭こ、かかると思って・・・」と弱々しく吐露しながら、自分の持っている金を渡すのみ。

 それを、奪うように取り上げた娘は、父の顔を睨みつけながらも、その口調からは荒さが希釈化されていた。

 「ちゃんと食べせよ。漁師だけ、体、資本なんですっての」

そう言って、走り去って行った。

煩悶する父の心痛も理解できるのだろう。

然るに娘には、大手術を受けている恋人の命を救うことだけが全てだった。

だから、その恋人の命より、一匹のマグロの捕獲に神経を集中し続けた、父のエゴを許す訳にはいかなかったのだ。

この複雑な感情を抱懐する娘が、短い季節の沸騰する渦中で、幸運にも生還を果たした恋人との新たな生活にその身を預けるに至ったのもまた、当然過ぎる振れ方だった。

 
それにしても、CGのない時代での、マグロ漁のシーンの凄まじさに言葉を失う。

「板子一枚下は地獄」の世界の現実を、殆どワンカットで見せるマグロ漁の凄絶さに言葉を失うのだ。



 3  「海の男」になるための「二重課題」の苛酷な「戦争」のリアリズム ―― 若者と男の心の風景



これは、厳密に心理分析すれば、一人の若者の苛酷なるトラウマの克服と、峻烈なイニシエーションの突破によって、「海の男」になる艱難(かんなん)な行程を描く物語でもあった。

 本質的には一つのテーマのうちに収斂されるものであるが、敢えて峻別したこの二つのテーマが、若者の自我に「二重課題」として重なってしまったことによって、自らの能力の範疇を越える苛酷な現実の風景を露わにするばかりだった。

 言うまでもなく、「前者」の若者のトラウマとは、図抜けた強度を持つ漁業用ナイロンテグスに頭部を絡まれた挙句死の淵で彷徨う事故のこと。

 また、ここで言う、「後者」の峻烈なイニシエーションの突破とは、死の淵で彷徨う事故の悲惨な「絶対経験」のトラウマの克服を遂行することによってしか、大間の海で漂流する若者の自我を、容易に軟着させられない重荷を背負ってしまった苛酷な現実以外ではなかった。

 しかし、この苛酷な現実を突き抜けるには、若者の能力の不足は決定的だった。

「二重課題」を負う若者・俊一
それでも、漁師という、大間の海で生業(なりわい)を繋ぐ件の若者が、独立系・理念系の「海の男」になるというテーマを自らに課すことによって、その課題の重荷との内的葛藤を必然化し、いつしか、簡単に降ろせない「戦旗」と化していく。

降ろす訳にいかないのである。

そこに、若者の〈生〉の全てがあったからだ。

だから、この物語は、「約束された悲劇」と言っていい。

しかし、それでも良かった。

若者は、自らの命を代償にしてまで、「二重課題」の重荷から解放される行為を選択したからである。

そうしなければ、若者は「海の男」になれないのだ。

「夫」にも「父」にもなれないのだ。
 
このような厄介な観念が、若者の自我を搦(から)め捕っていたのである。

既に、喫茶店を売った金で自分の船(第一登喜丸)を持ち、好きな女と結婚し、好漁場の和歌山の海に行った若者にとって、覚悟を決めて戻って来た大間の海は「戦場」だった。

「男」や「夫」、「父」になるための「戦場」だった。

俊一トキ子
その「戦場」で、雄々しき「戦士」として自らを立ち上げた若者にとって、大間の海での、マグロとの命を賭けた苛烈な闘いは、「戦争」と呼ぶ以外にない何ものかだった。

そんな若者の「戦争」を目視する、マグロ漁の名人と称される男が、その「戦場」にいる。

その「戦場」にいて、苛烈な闘いを繋ぐ「戦争」を、その若者と「共有」するためだ。

しかし、その「戦争」は、どこまでも若者の「戦争」でなければならない。

男は、2日間に及ぶ若者の「戦争」をサポートするだけだ。

「二重課題」の重荷から解放せんと命を懸けて戦う、若者の気丈な自我を甚振(いたぶ)る訳にいかないのである。

男は、この若者の情感系の暴れ方に潜む一切を認知し得ていた。

何より、若者が背負ってしまった「二重課題」の重荷のルーツには、人間の命よりマグロとの「戦争」を優先した男の、殆どそれ以外に振れない、生理とも言うべき厄介な自己像が張り付いていた現実を、誰よりも、この男自身が最も認知し得ていたからである。

全ては自分の責任である。

しかし、マグロとの「戦争」の突沸(とっぷつ)の渦中では、そんな世間一般を支配するごく普通の倫理学が、男の内側に入り込む余地などなかった。

 それが男の人格の、変容しようがない現実の様態なのである。 

 
漁業用ナイロンテグスに頭部を絡まれた若者の命を、優先的に救わなかった男に待っていた現実は、予想していたとは言え、夏の季節とも思えぬような冬枯れの隙間風漂う風景だった。 


幸いにも、一命を取り留めた若者を随伴し、たった一人の愛する娘が、簡単に浄化し得ないトラウマを封印できないまま、そのトラウマのルーツとなった、マグロ漁で潤う漁村を後にするに至った。

その結果、男の拠って立つ自我の安寧の基盤が激しく揺動する。

かつて、妻に逃げられた男は、今度は、娘に「三下り半」を突き付けられたのである。

もう、大間の寂れた漁村には、その身を縛る何ものも存在しなかった。

男の孤独が極まった瞬間だった。


一年後、男は漁協のテリトリーを破ってまで、北海道に渡った。

マグロ漁でしか自己像の継続力を持ち得ない男には、それ以外の「脱出」の方略がなかったのだろう。

それは偶然だった。

漁協のテリトリーを破って渡った北海道で、孤独な男は、元妻と20年ぶりに再会したのである。

因みに、この偶然のシーンは、リアリズムのパワフルな映像総体を壊すエピソード挿入に堕していなかった。

元夫を視認した元妻は、ずぶ濡れの雨の中、裸足で必死に逃げる。

追い駆ける男。

弾丸の雨に濡れた路傍で、仰向けに寝そべる女。

逃げることを諦めた女と、追い駆ける男の奇妙な再会が、その夜のうちに、かつて睦み合ったような関係を、束の間、修復する。

しかし、そこまでだった。

元妻の愛人が出現するに及んで、激しい暴力を振う男。

 「おめえ、なんも変わってねぇじゃないか!マグロと人間の区別がつかねぇで、針さかかったら、あんばいよく泳がしておいてよ、苦しがって暴れたら、殴りつけるんで。死ぬほど殴って、手の内さ入れておくんだ!変わってねえってばよ、なーんも!あー終わりだ」

これは、20年ぶりに会った「暴力亭主」に対して、再び、「三下り半」を突き付ける女の別離の言辞。

結局、男の北海道行きは、男の孤独の相貌の闇を、弥増(いやま)して深めただけに終始してしまったのである。

北海道から帰って来た男は、すっかり、「一本釣りの名手」という名に相応しいイメージと切れていた。

「力なくなったし、気もまいってまいたし、船降りる時期かなぁ」

あと一息というところで、初めてテグスを切られた男の愚痴である。

精神的に打ちのめされ、すっかり漁から縁遠くなったそんな男が、今、自分を捨てた娘から土下座され、漁から帰港しない夫の救済を懇願されたのだ。

娘夫婦に大きな借りがある男に、「拒絶」という選択肢などある訳がなかった。

かつてそうだったように、娘に手伝ってもらい、「勝負服」である真紅のとっくりセーターを着込み、間髪を容れず、勘を頼りに大間の海に出ていった。



4  「海の男」になるための「二重課題」の苛酷な「戦争」のリアリズム ―― 若者と男、そして女の心の風景



男は今、若者の「戦場」を発見した。

男は、体にテグスを巻いて、マグロと必死に戦っている若者を視界に収めるや、「ダメならば、ぶった切れって!」と叫ぶ。

自分の船を隣接させ、若者の船に乗り込み、ぐったりしている若者を胸に抱え、水を飲ませるや、若者はそれを血と共に吐き出してしまった。

若者の身体の劣化と衰弱は限界点に達していたのだ。

男がテグスを切ろうとすると、若者の振り絞った声が遮った。

「切らねぇでけろ!わいも大間の漁師だし」

必死に抵抗する若者。

男は今、マグロより若者の命を優先的に救おうとしている。

それは、かつて若者の命を犠牲にしたことで、娘を失うことになった男のトラウマを払拭する行動の振れ方であると言っていい。

もう、その若者を死なせる訳にはいかなかったのだ。

しかし、若者はそれを受容しない。

「切らねぇでけろ!」

この言葉に、小さいが、しかし覚悟を決めた男は、「よし」と答えた。

男は若者の「戦争」を受容し、自らがサポートすることを決意し、若者の体に巻きついているテグスを、力の限り引っ張り上げていく。

 血の臭いを嗅ぎつけたのだろうか、上空にはウミネコが群れている。

 男と若者は協力して、テグスを引っ張り上げていった成果があって、大きなマグロが海上に浮き上がってきた。

 「よし、おめぇのものだ!頭、ぶち込め!」

 男の声に反応し、身体の衰弱と出血の激しい若者は、最後の力を振り絞って、マグロの急所であるエラに銛をぶち込んだ。

 
全てが終焉した瞬間だった。

 第三登喜丸を曳航する第一登喜丸。

 第一登喜丸には、マグロを釣って、今や、虫の息の若者が横たわっている。

男は、無線で連絡する。

 「俊一の傷は重てぇ。骨も折れている。腸(はらわた)も破れている。何度も血を吐いた」

 大間漁協からの漁業無線の反応は、「マグロなんか捨てて、全速で帰港しろ!」というもの。

 男は、きっぱり言い切った。

 「ダメだ!マグロ捨てることはできねぇ。俊一が釣ったマグロなんだ。俊一が承知しねぇ」

 男は、自分の船である第三登喜丸のロープを切った。

少しでも速く帰港するために、第三登喜丸を捨てたのである。

 同時に、その行為が含意するのは、男が、自分の人生に最後の区切りをつけたことをも示唆したとも考えられる。

 第三登喜丸こそ、男の人生の全てだったのだ。

 その第三登喜丸を捨てた男が、今、虫の息で横たわっている若者の傍らに寄り添って、看病している。

 「来年の春、赤ん坊が産まれます」

 虫の息で横たわっているとは思えない明瞭な声で、若者は、来年の春、祖父になる男に言葉を添えた。

 「今、4か月です。男だったら漁師にします」
 「トキ子がなぁ。ヘヘヘヘ」

 男の声は弾んでいる。
 
 「なんぼになるべか?」

 若者は、自分が釣ったマグロの入札価格が気になるのだ。

 「んだなぁ、まんず、100万は下らねぇべよ」
 「ん、いやいやいや、漁師ちゅうのは、なーんぼ楽な商売だべか」
 「ハハハハハ、漁師にゃぁ、地獄か極楽しかねぇ。大博打打ちだ」

 そんな会話が突然、途絶えた。

 無理に元気を装っていた若者が、息を引き取ったのである。

しかし、その顔は悶絶のイメージと切れていた。

若者は、自ら仕掛けたマグロとの壮絶な「戦争」の果てに、「海の男」になったのだ。

「夫」になり、そして、「父」になる資格を得たという観念のイメージに辿り着き、絶命していったのだろう。

若者の自我に張り付く「二重課題」の重荷からも、初めて解放されたという実感を手に入れたのだろうか。

少なくとも、「約束された悲劇」によってしか軟着させられない、若者の〈生〉の全てが終焉したのである。

男は、実に厄介な存在である。

厄介な観念系の「虚栄の城砦」に縛られる若者
 それは、「男」であることを証明しなければ落ち着けないような、一種、特殊な「プロの仕事」に拘泥する者の、厄介な観念系の「虚栄の城砦」に縛られる場合が多過ぎるからだろう。

しかし、女は、男のそれと、その心象風景の差異を見せることが多い。

拠って立つ自我の安寧の基盤が、男と違って、観念系のゲームに振れることが少ないからである。

 それでも、物語の女は、普通の女性以上に、観念系のゲームに振れる男たちの情感を理解できていた。

理解できていたが故にこそ、物語の女は、心労が重なる日常性に馴致し得ていた。

夫である若者を深く愛するその女は、「海の男」になろうと焦る夫の思いが理解できているからこそ、余計な口出しを控えるように努めていた。

 一切を封印し、漁に出た夫を見守り、ひたすら祈るのみ。

 その日、いつまで待っても帰って来ない夫を待つ時間の重さは、女の心労をピークアウトにまで押し放ってしまった。

 心労を癒す何ものもない。

 そんなとき、大間漁協の事務所の漁業無線が反応した。

第一登喜丸からの無線である。

しかし、無線の主は夫ではなかった。

もう、それだけで、ひたすら祈る時間を必死に繋いでいた女の心は揺動し、震えが走った。

胸騒ぎが収まらないのだ。

 「トキ子を出してけせぇ」

 
マグロ一本釣り漁船
父の声である。

 その瞬間に、女の自我は充分に被弾してしまっている。

 漁業無線機に出ることを拒む女。

 無理に無線機を持たされた女は、顔面蒼白の表情を露わにしつつ、疲弊し切った声を吐き出した。

 「トキ子だい・・・」

 そう言った後、そこに、「間」ができた。

 「トキ子だい」

 その「間」を自ら破って、今度は、声を振り絞った。

 「トキ子。気を落ち着けてしっかり聞け。俊一が、今死んだ。産まれてくる子が、もし男の子だったら、漁師にしてくれと」

 父は、それだけの事実を報告した。

 「わかんねぇじゃ・・・」

 予想していたこととは言え、夫の死を知らされた女は、それだけの言葉を吐き出した。

 漁協の事務所の椅子に倒れるように座り込んで、「数え歌」を歌い出す女。

一つ  日向の山道を
二つ  二人で行きました
三つ  港の蒸気船
四つ  よそから着きました
五つ  急いで見にゆけば、
六つ  向こうの青空に

  嗚咽の中で吐き出される「数え歌」も、次第に、女の号泣に掻き消されていく。

 海の見える、事務所の外に走り出し、号泣する。

 「わかんねぇじゃ!漁師だけぇ、わかんねぇじゃ!」

 女の号泣を置き去りにして、映像は閉じていった。



 5  プロの女優魂の炸裂のピークアウトの壮絶さ



ここに、ラストシーンにおける夏目雅子の超絶的演技についての貴重な証言がある。

 出典は、先の「NHK・BS「邦画を彩った女優たち」。

榎戸耕史監督
以下、些か長いが、相米作品で助監督を務めた榎戸耕史(現映画監督)のインタビューを再現したい。

 「あれは、あの、夏目さんが相米さんに直々に、ここはずっと連続して撮って下さいってお願いしたんですよ。で、それはスタッフにもちゃんと回ってきて、ここは夏目がずっと休まないで撮りたいって言うんで、徹夜で一晩半、夕方から一昼夜、次の日の夕方まで。そのときは、本当にもう、夏目さん、グィっと上がっちゃって、相米さんもオロオロしちゃって、ま、とにかく早く皆準備してくれって。そうでないと、夏目も終わっちゃうからって言って、皆に慌てさせて撮った覚えがありますね。せかしたことなんて一回もないですよ。こっちがいくらせかしたって絶対に撮らない人でしたから。それこそ、役者さんが出来上がるまで絶対に撮らないって人ですから。何て言うのかな、鬼気迫るって言うか、本当に凄い顔してますから、画面に出ていますからね、あれは。あんな芝居は、なかなかないなと思いますよ」

 この証言が、映像での表情がこれまでと全く異なる夏目雅子の、ラストシーンにおける鬼気迫る演技の実相であったことを知り、充分に納得できた次第である。

もう、それ以上、上がり切れない辺りにまで自らの表現総体を上り詰めていった女優の、内側から湧き上がる叫びに動揺したとき、そこでは今や、プロの役者魂の表現を引き出すために、60回、70回のテストを厭わず、何もアドバイスすることなく、ずっと待機し続けた映画作家の苛酷な演出が成就したにも拘らず、そこで惹起した風景は、プロの役者魂が開いた、未知なるゾーンに吸収されていく映画作家の、反転的情感体系の裸形の相貌だったという訳だ。

 
トキ子を演じた夏目雅子
そこまで上り詰めていく、プロの女優魂の炸裂のピークアウトの壮絶さ。

 それを、弱冠25歳の夏目雅子が表現し切ったのだ。

 本作は、紛れもなく、夏目雅子の最高到達点である。

 言葉を失うほどの素晴らしい映像に、嗚咽を堪えるのに苦労したが、それでも泣かされてしまった。

 夏目雅子の女優魂の表現の炸裂に、お手上げだったからである

 相米監督の映像の中で、唯一、泣かされた作品だった。




 【余稿】  クロマグロ保護に関わる日本の責任の問題について





クロマグロ保護に関わる日本の責任の問題について、簡単に書いておきたい。



 折しも、2013年9月3日の現時点で、クロマグロの漁業規制を話し合うWCPFC(中西部太平洋まぐろ類委員会)が福岡市で開かれているが、クロマグロの資源量の急速な減少の責任が日本にあるという、国際科学機関(北太平洋まぐろ類国際科学委員会)からの指摘はもはや否定し難い事実である。



 親マグロの資源量は90年代後半から減り続ける一方で、今や、過去最低の水準に近づいていて、近未来には、1・8万トン(60年代には推計13万トンの漁獲量)すらも下回る危険性があると言われている。



巻き網漁
この急速なクロマグロの資源量の減少の原因は、我が国が巻き網漁などを通して、一網打尽に漁獲してしまう実情と無縁でないと、北太平洋まぐろ類国際科学委員会から指摘されているのだ。



 何より問題なのは、20年の寿命を有すると言われるマグロの産卵が、3~5歳で可能であるにも拘らず、産卵以前の幼魚を乱獲してしまう事実の重さである。



 そして、太平洋で漁獲されるクロマグロの9割を、産卵以前の幼魚が占めている事実の重さは、それを知らずに消費する私たち消費者の問題でもあるだろう。



 現在、稚魚や未成熟なマグロを、生け簀(いけす)で餌(イワシ・サバ・イカなど)を与えて成長させていく「蓄養マグロ」が注目されているが、産業としての成立の是非に関わるコストパフォーマンスの問題が常にある。



更に、「蓄養マグロ」の体重を増やすためには、10倍もの餌を必要とする問題も無視できないのである。



 結局、資源を減らす必要以外にないのではないか。



 そう、考えざるを得ないのである。


 (2013年9月)

0 件のコメント:

コメントを投稿