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2012年8月7日火曜日

空気人形('09)         是枝裕和

 
<社会に適応する努力を繋ぐ人間の営為を愚弄する、センチメンタル且つ、傲岸不遜な映像構成の救いがたさ




1  視線を同化した存在性のうちに、強い紐帯をも強化させた瞬間の炸裂



「恐怖突入」を回避して、最後はファンタジーに流れ込んだ、「誰も知らない」(2004年制作)の物語の制約を突き抜けて、本作は丸ごとファンタジー映画になってしまった。


正確に言えば、社会派的なメッセージを包含する、そこだけはどうしても捨てられないリアリズムを残す、不完全形のファンタジー映画であると言った方がいいだろう。


「何でもあり」という「ファンタジーの自在性」が、「映画の嘘」と強力にリンクすることで、雨垂れに触れた瞬間に、心を持った「空気人形」が自在に街を彷徨し、ビデオショップの店員にまでなってしまうのだ。


理由は、件の店員の純一に「一目惚れ」したことによるが、「異界」の住人と思しき「空気人形」を素直に受容し、彼女に様々な言語情報を与える描写では、明らかに「展開のリアリズム」と切れた行動自在性が許されるという訳だ。


更に、店内の金具に引っかかったことが原因で、空気人形の空気が抜けていくシーンでは、単に、一つの大きなミスを犯したに過ぎない程度の、驚きの感覚で受容する純一が、空気の栓を確かめ、そこから息を挿入し、単にプラスティックの加工品でしかない「空気人形」を、先程までそうであったような、心を持った「空気人形」に復元させていくという「描写のリアリズム」までもが簡単にスルーされてしまうのである。

 「空気の栓はどこ?」


そのとき放った、純一の言葉である。

「お腹…」


純一を意識する「空気人形」は、そう言うのみだった。

「見ないで…」

そう言われても、見るに見かねた純一は、必死に空気栓から、息を吹き込んでいくのだ。

プラスティックの加工品が、見る見るうちに復元していく。

それを遂行した純一に抱きついて、「もう少し、このまま」と吐露する「空気人形」。

「愛」の告白である。

「空気人形」の唯一の生命線である延命ポンプを、ゴミ置き場に自分で捨てたのは、翌朝だった。

ここから「空気人形」が、浅草から日の出桟橋までの12橋を往来する、隅田川水上バスのシーンに象徴されるように、天をも突き抜ける舞い上がった感覚で躍動していく描写に流れ込んでいく。

この描写の伏線には、ビデオショップで意気投合した二人の会話が挿入されていた。

 「年を取るってどういうこと」

 「老いて、だんだん死に近づくこと」

 「死?」

 「命を喪うこと」

 海を見たことがないと言う「空気人形」と、純一との海辺の会話である。

 この「命を喪うこと」を身体内化した、「空気人形」の弾ける思いが、以下のカットに繋がっていく。

「あたしね、年を取るの」

 ベンチで寂しく孤食するハイミスの受付嬢に、自分の率直な思いを吐露する「空気人形」。

この一連のシークエンスを根柢から支え切った、延命ポンプの廃棄のカットについて、是枝裕和監督は語っている。


是枝裕和監督
「彼女にしてみれば、ポンプを捨てないということは、永遠が保証されてしまって、同じことが何度も繰り返されるということなんですよね。ポンプを捨てたことで全てのことが1回限りの体験になるから、実はそのことがすごく楽しいわけですよ。全てのものは初めてであり、最後である。それって素敵なことだと思うんです」(是枝裕和監督インタビュー CINRA.NET. 2009年9月18日)


永遠が保証された「空気人形」が、いつしか年を取って、「命を喪うこと」を意味する、人間の一回的な〈生〉のラインに踏み込んで、覚悟を秘めて未知のゾーンを開いたという訳である。

例の空気栓からの蘇生のシーンの、ビデオショップでの後日談がある。


「びっくりしたでしょ」

「うん」

「でも、他にも結構いるんだってね」

「僕もだよ」

「そうなの?」

驚くように、純一の真剣な表情を見つめる「空気人形」。

「同じようなもんさ」

「でも…そうだよね。初めて会ったとき、何となくそんな感じがしたの」


その直後の映像は、純一のオートバイの後ろから、男の匂いを嗅ぎながら、抱きつく「空気人形」。


それは、「他人である恋人」が、自分と思いを共有する心を持った「空気人形」と、視線を同化した存在性のうちに、強い紐帯をも強化させた瞬間の炸裂だった。

ここで、リアリズムについて簡単に言及しておく。


本作が、不完全形のファンタジー映画であると言うのは、「展開のリアリズム」において呆気なくその辺りをスルーしながらも、「空気人形」の本来の所有主である、うだつが上がらないファミレス店員が、ラブドールを相手に射精した膣の器具を、石鹸でゴシゴシ洗うというシーンに象徴されるように、肝心なところで「描写のリアリズム」を残しつつ、そこで張り付けたリアリズムを伏線として確保すことで、ラストシークエンスの決定的な爆轟(ばくごう)に繋げていく基幹ラインとして存在するからである。



 2  人間の心を持つ「空気人形」を対極にして、「壊された共同体」に呼吸を繋ぐ人々の、「閉鎖系社会の閉塞感」を炙り出すという使い古された二元論


 

 「心を持つことは切ないことでした」


空気が抜けたときの心境を聞かれて、「苦しかった」と答えたときのモノローグ。



純一に彼女がいたことを写真で視認し、心を痛める空気人形。

映像は、「空気人形」もまた、かつての純一の恋人の「代用品」であるという不安が過(よ)ぎるアップの表情を映し出していた。

それでも、純一へのイノセントな愛は延長されていく。

切なさを覚えた異性感情の澎湃(ほうはい)の逆巻くうねりは、そのことで却って抑制が利かなくなるだろう。

 「君が見た世界は哀しいものだった?美しいものも、少しはあったかな?」

人形師
 これは、自分を制作した人形師を訪ねた際に、その人形師から「空気人形」が問われた言葉。

頷く空気人形。

「生んでくれてありがとう」

「こちらこそ」


 この短いシーンは、純一と「空気人形」の「予約済の残酷なる悲恋譚」をなぞってしまう伏線になっていた。


ここで、改めて「空気人形」の「内面世界」を考えてみたい。

―― 以下、本作に対する評論としては、極めて不釣り合いな印象を与えるかも知れないが、本稿は「人生論的映画評論」と銘打ってあるので、極めて辛辣な批評含みで、その文脈で言及していきたい。


さて、この人形師によって生み出された「空気人形」が持ち得た「心」とは一体何だろうか。

それは、「ファンタジーの自在性」と「映画の嘘」によって、その説明を簡単にスルーし得る何かではないと思うからだ。

私が眼を通した限り、多くの批評やレビューでは、「これは人間の本質を描く映画」という決めつけのような把握をするものがとても多かったので、余計気になるところだった。

敢えて私は、その人たちに聞きたい。

ここで映像提示された情報群の中で、「人間の本質」が根源的に問われる問題意識が含まれていると思うのかと。

そうであるなら、「人間の本質とは何か」について、批評家やレビュアーの答えを期待したいものである。

しかし私は、一度もそれを眼にしたことはない。

なぜなら、この程度の映像提示で、「人間の本質」に迫るような根源的な問題提起が拾えるなどとは到底思えないからだ。

恐らく、その人たちは空気人形が、「普通の人間の心」を持ったという前提で言及しただけなのだろう。

考えてもみたい。


「心」を持つ「空気人形」
「空気人形」が獲得したとされる人間の「心」とは、私たちが「自我」と呼んでいるイメージに近い何かに違いない。


例えば、馬を厩舎に閉じ込めた状態で、「移動中枢」を刺激すると、その馬は必ず暴れ出してしまうという報告があるが、私たちはこれを「本能行動」と呼んでいる。
 無論、人間には「真空行動」は存在しない。

   「本能的行動」は部分的に残っているが(「睡眠欲」、「食欲」など、「生存」に関わる欲望に限定)、しかしそれは、必ず同様の行動を発現させる「真空行動」とは切れている行動様態である。

ティンバーゲン(左)とローレンツ(ウイキ)
従って、ニコ・ティンバーゲン(オランダ人の動物行動学者)が概念提示した、遺伝的にプログラム化された行動を誘引する発現様態である、動物の「生得的解発機構」という「本能的行動」を不全にしか持ち得ない人間には、「自我」と呼ばれるもので補填して生きていくしか術がないのだ。

これは、岸田秀の有名な仮説だが、私もそう考えている。

加えて、「自我」は相当程度複雑な何かであって、「情動」、「意識」、「認識」、「記憶」、「運動制御」などという、人間の脳の基本機能の全てに関与していて、しかもそれは、人間の生命と安全の司令塔の役割をも果たすと私は考えているので、この「自我」の形成は、当然の如く、その「自我」を作り出した母親、もしくは、それに取って代わる大人によってしか形成されないのである。

「自我」が形成的であるが故に、「順序」、「秩序」、「臨界期」という基本命題によって成る、人間の発達課題をクリアしていく中枢的機能に関与しているはずだから、そのような複雑極まる脳の仕組みを考えたとき、極論すれば、人間の本質とも言うべき、「自我」によって人生を繋いでいくことは、まさに私たち人間の根源的営為であるだろう。

言わずもがなのことだが、この「空気人形」が、そのような「自我」を形成的に獲得し得る訳がないのである。

敢えて言えば、それは、異性を意識する児童期後期、或いは、思春期前期の女の子の「自我」というイメージに近いということか。

然るに、コンピューティング技術が遍在する環境であるユビキタスや、「人口構成比では15.5%の高所得国が、インターネット利用者数構成比では59.7%を占めている状況である」(平成23年版 情報通信白書)と指摘されている、デジタル・ディバイド(情報格差)の問題に象徴的に顕在化されているように、情報量が加速的に増幅化されている状況下で、こまめにメモを取って覚える彼女が手に入れる情報量は、当然ながらあまりに限定的なのだ。

と言うより、彼女は人間の「心」の周縁に届いたと言えるかも知れないが、人間の「心」の複雑な事情と、その背景にある複雑極まる状況との折り合いとの付け方、更に、その折り合いを付けるのに必要な言語情報の大半を持ち得ていないのである。

そのことは、愛する純一を、自分と同じ「空気人形」の「仲間」と思ったか否かに拘らず、既に、延命ポンプを廃棄した「空気人形」である彼女は、純一を助け出すために、彼のお腹の辺りのあると信じる栓を探し、見つからないと言って、そこに孔を抉(こ)じ開けてしまった「予約済の残酷なる悲恋譚」のうちに顕在化されていた。


要するに彼女は、どこまでも延命ポンプなしに生きられないラブドールの延長線上に、あろうことか、「普通の人間の心」を持つという、稚拙なるファンタジックな設定で仮構された「空気人形」以外ではないのだ。


そう、考えるしか説明不能な物語を、この作り手は、「ファンタジーの自在性」のうちに、社会派的なメッセージを包含する、そこだけはどうしても捨てられないリアリズムを残す、不完全形のファンタジー映画を作り出してしまったのである。 

人は僅かしか見ず、更に僅かしか理解しない。メジャー映画だけだよ。何もかも分っていると言い張るのは。うんざりだね。20世紀の文学においても、少なくとも、20世紀後半には、全体を知っていると主張して、ものを書く作家はもはや存在していない



ミヒャエル・ハネケ監督
これは、自作である「71フラグメンツ」(1994年制作)を解説した際の、人間洞察力に抜きん出た映像作家、ミヒャエル・ハネケ監督の言葉。


しかし本作は、作り手自身の思惑と違うと抗弁するかも知れないが、私には、「人は僅かしか見ず、更に僅かしか理解しない」という、現代社会に呼吸を繋ぐ者が必然的に負う根源的制約性を、「ファンタジーの自在性」と「映画の嘘」によって安直に蹴飛ばした挙句、そこだけはどうしても捨てられないリアリズムを挿入することで、社会派的なメッセージを張り付けた確信的言辞を振り撒いて止まないように印象づけられるのである。


詳細は後述するが、本作の作り手は、人間の「心」を持つ「空気人形」を対極にして、超高層ビルが尖った相貌を見せる、下町の「壊された共同体」に呼吸を繋ぐ人々の、「閉鎖系社会の閉塞感」を炙り出すという使い古された二元論に振れることで、「イノセント⇔ウイキッド」、「解放系⇔閉鎖系」、「共有⇔専有」、「充実⇔空虚」、「互助⇔孤立」、「完成形⇔欠如性」、「純粋⇔不純」、「木の香りへの伝統回帰⇔無機質なるコンクリートの近代」等々という、極めて分りやすい構図を映像提示したようにしか見えないのだ。 


一見、形而上学的なメタファーを衣裳に被せつつも、その内実は、「ファンタジーの自在性」と「映画の嘘」によって仮構された、「こんな社会でいいのか。人間らしく生きたい」などという、ライブドア版キャッチコピーに載せた、赤旗のキャッチフレーズのような抽象的なメッセージを、イノセントな「空気人形」と、その「愛」を受容する青年が流れ込んだ、「予約済の残酷なる悲恋譚」という関係様態の有りように特化されただけの、単にそれだけの映画であり、人間存在の根源に肉薄するに足るような、そこから汲み取るべきラジカルな問題提示は殆ど皆無であると言っていい。

 ここまで書きたくないが、どうやら、この監督は、「社会派性」の濃度の高い映像を作るとき、いつもそこに、いつの時代でも、必ず一定の確率で現出する、人間社会の残酷なる現実と凛と対峙し、その冥闇(めいあん)の世界を突破する覚悟で突き抜けられない、ある種、幼稚な人間観を露呈するセンチメンタル・ヒューマニズムが張り付いてしまうようだ。

幻の光(1995年制作)、「歩いても 歩いても(2007年制作)が出来過ぎた映画だっただけに、その落差に戸惑うばかりである。




3  ファンタジーのギミックに流れ込まなかった「予約済の残酷なる悲恋譚」



ここで、本作の肝である、純一と「空気人形」との「予約済の残酷なる悲恋譚」について、簡潔に言及してみたい。


「空気を抜かせて欲しい」

純一
純一が「空気人形」に懇願し、それを受諾する「空気人形」。

 ここから、全てが開かれていった。


「私は性欲処理の代用品」

毎夜、冴えない男の夜の相手を「務めて」いた、ラブドールである「空気人形」が「心」を持ったときの、この直截なモノローグを突き抜けていったのは、「恋人いるの?」と聞いてきたビデオ店長に対して、「私は心を持ったので嘘をつきました」と答えた原因となった、純一への「恋心」に端を発していたので、その当人からの頼みを拒絶するという選択肢など初めから持ち得なかった


今や、永遠の生命を保証するポンプを廃棄する行為によって、「あたしね、年を取るの」と嬉々としていた「空気人形」には、空気を抜く行為は、「一回的な〈生〉」の終焉を意味していた。


それでも、純一の懇願を受諾したのは、空気を抜いた後、再び、自分の息を吹き込んで、蘇生させるという言葉が添えられていたからである。


純一にとって、「のぞみ」という固有名詞を与えられていた「空気人形」が、単なる「性欲処理の代用品」であってはならなかった

プラスティックの加工品でしかない「空気人形」との「性」の範疇の中からでは、本来の「性愛」の情感を被浴するに足る充足感を手に入れることが不可能であるからだ。

そんな「性」の範疇の中から、空虚な日常性を繋いでいた自己の内側を、「一回的な〈生〉」を実感させるに足る時間を確保することで、その拠って立つ自我のアイデンティティを再構築したかったのだろう。

然るに、このとき、純一が、「空気人形」との「性愛」による歓喜を求めていたとしても、「のぞみ」という固有名詞との肉感的な絡みを通して、プラスティックの加工品としての「空気人形」との本来の「性愛」の情感を、どこまでも継続力を持つ、「人と人」との関係性の構築への意志のうちに捕捉していたとは到底思えない。

だから、この決定的なシーンが見せる描写は、紛れもなく、決定的な〈状況〉を構築したのである

ここだけは、リアリズムの律動感が確保されていて秀逸だった。
「空気人形」を束の間、フェイクのイメージを削り切った「人間」に仮構させて、そこで、本来の「性愛」の情感を被浴する。本来の「性愛」の情感を被浴することで、失われた空虚な時間を復元させて、その拠って立つ自我のアイデンティティを再構築する。そのような意志を駆動させなければならないという、追い込まれた〈生〉の様態が、彼の内側に根を張っていたのだろう。かくて、彼は決定的な〈状況〉に流れ込んでいったである。純一は、「空気人形」の空気を抜いて、そこに再び、「欠如」を「本質」にする人間の「心」を吹き込んでいく

尖り切るほどのエロチシズムが画面一杯に広がり、映像を決定的に占有した。


本作の中で最も評価できる描写である

自己完結した純一の身体は、束の間の休眠に入った。

しかし、純一によって人間の「心」を吹き込まれた「空気人形」は、そこに一人置き去りにされている。

「空気人形」もまた、自らが吹き込まれた人間の「心」を「愛」に変換する儀式を返報していくのだ。

「私の息は、純一の中に吹き込めませんでした」

言うまでもなく、この残酷な着地点は予約済みだった。

当然である。

人の「心」を持ったとは言え、「空気人形」が手に入れた言語情報には、人間プラスティックの加工品でしかない「空気人形」との、「」と〈生〉を包括する「愛」の形成的、且つ、継続的展開に関わる絶対的な制約があったのだ


何より、「空気人形」には、空気栓を通して生命の出し入れをするという言語情報しか与えられていなかったのである

自分が愛する「対象人格」が、自分と同じ「空気人形」であると思ったか否かに拘らず、「のぞみ」という固有名詞を与えられた「空気人形」が、愛する男の空気栓を弄まさぐり、それが見つからないことで、そこに金具で孔を開けるという行為は必然的であった。


ここだけは、リアリズムを蹴飛ばせないのだ。 
この由々しきシーンにも、ファンタジーのギミックを求めて止まない、観る者の過剰な思い入れこそ、チャイルディッシュな反応と言う外にない。



だから、作り手が仮託したイメージと乖離することを敢えて承知で書けば、「私は性欲処理の代用品」(「空気人形」のモノローグ)に成り得ても、それでも、極めて複雑な大脳を保持することで、常に、自己の「物語のサイズ」に見合った防衛機制を駆使して生きる人間の、自我の高度な仕組みにまで届き得ないと思われる、その決定的な〈状況〉を描き切ったこのシーンを、私は評価する。

自分が愛する「対象人格」の中に吹き込めず、「生命」の頓挫を目の当りにした「空気人形」は、息絶えた男をポリ袋に入れ、「燃えるごみ」として廃棄するが、当然ながら、  「空気人形」のこの行為には、全く邪意が含まれていない。

「この子たちは?」

 「年に一度春先に、まとめて捨てるんだ。残念だけど、燃えないゴミだ。まあ、僕たちだって燃えるゴミだから、大して違いはないからね」

 これは、廃棄処分される運命を免れ得ない、多くの「空気人形」を視認した「のぞみ」の素朴な問いに反応した、制作者である人形師の言葉である。


人間と「空気人形」との差は、「燃えるゴミ」と「燃えないゴミ」との差でしかないと言い切る、人形師の決定的な言辞に、作り手のメッセージを読み取ることも可能である。

即ち、「心」を持った「空気人形」と、「心」を捨ててしまっている人間との落差は、ゴミの分別の差でしかないとまで言い切る含意が、そこにあるか否かについては不分明だが、少なくとも、「心」を捨ててきた人間に、一定の理解と抱擁力を見せる印象を観る者に抱かせた作り手が、愚民視とまでは言わないまでも、本作を通して映像提示したシーンに込められている、現代人に対するシニカルな見方を読み取ることをも否定できないのである。

「こんな町に住んでいる人たちはからっぽだよ」

後述するが、私には、一人の老人に、この言葉を言わせた作り手の、優しさを装ったカットに大いに違和感を持ってしまったのだ。

私には超高層ビルを睥睨へいげいしながら、「空気人形」に呟いた言葉の中に、本作の邪気が露呈されていたとしか思えなかったからである。

以下、その辺りについて書いていく。



 4  「都市社会で呼吸を繋ぐ者の孤独・閉塞感」という決めつけ発想の貧困さ


 かつて、高校の代用教員を勤めた老人が、超高層ビルを睥睨しながら、「空気人形」に呟いた。

自分も含めて、この町に住む者もまた、「ずっと、からっぽの代用品」と皮肉ったのだ。

私にとって、最も看過し難いシーンが、そこに堂々と張り付いていたのである。


「都市社会で呼吸を繋ぐものの孤独・閉塞感」を、取って付けたような人物を特定的に拾い上げて、その人生の空虚さを存分に皮肉る程度においてしか、語る言葉を全く持ち得ない作り手の映像提示力の空虚さをこそ、私は感受してしまうのである。

 このシーンの重要性については、どうしても看過し難いので、次の項でも後述する。

 ここでは、本作の登場人物の中で、最も印象深い人物の小さなエピソードを書いておこう。


ハイミスの受付嬢のエピソードである。

件のハイミスの受付嬢が、美人の派遣社員(三郷)に職を奪われる不安を解消するために、自ら携帯に励ましの留守録を入れた声を、帰宅後、再生して「会話」を繋ぐシーンがそれである。

 「三郷さんて、若いだけ。どうせ、すぐにいなくなっちゃうんだから。あなたが気にすることないわ。大丈夫、大丈夫、あなたの代わりになる人なんかいないんだから」

 「本当に?本当?」

 私は、このハイミスの受付嬢の防衛機制の張り方に深い感銘を覚えた。

 自己のサイズで必死に生きる人間の様態が、そこに読み取れるからである。

また、恋人に逃げられ、ラブドール「空気人形」のことで自らを慰撫(いぶ)する男の、寂寥感と思わせるエピソードも執拗に拾われていた。

 「空気人形」が心を持ったことに違和感を抱いたが、「空気人形」に直截な思いを吐露するシーンだが、この辺りはファンタジー半開の場面である。

 「元の人形に戻ってくれないか?」

 「心なんか持たない方が良かった?」

 「面倒臭いんや。面倒臭いから、こういうのにしたのに」

 「面倒臭いって、ひどい。そんな言い方」

そう言い放って、男の元を去っていく「空気人形」

既に、「行方不明」になった「空気人形」に代わって、別の「空気人形」を購買して、せっせと性欲の処理をする男の生き方を情けないと嘲罵(ちょうば)するのは自由だが、こんな男でも、ラブドールの存在によって、辛うじて、日々の身過ぎ世過ぎを繋ぐために、能力不足の仕事を継続させて頑張っているである。

人形の持ち主・秀雄(右)
 自らが「のぞみ」(男の過去の恋人の名)と命名した「空気人形」への「裏切り」のエピソードを、ファンタジー全開のラインで流さずに、そこもまた、ねちっこいリアリズムを張り付けた分だけ、ファンタジーの律動感を半開させた画像で抑え込んでいるから、却って、男の生活風景の、あまりに小さな自己完結感の「閉塞性」を浮き彫りにさせる効果を決定づけていた。

「お前の代わりなんか、幾らでもいるんだから」

「すいません」

これも、職場で叱咤される中年のファミレス店員の、自慢にもならないエピソードの一つ。

然るに、ストレスフルになって鬱屈した男が、犯罪に走らずに頑張っている姿は、決して醜悪ではないのだ

こんな男の生活風景を、他者を必要としなくなっている人間と括ってしまう是枝裕和監督が、決してネガティブなイメージラインのうちに把握していないだろうことを想像し得てもなお、私には疑問が残る。


他者を必要としなくなっている人間と括ってしまう、その把握こそ問題なのである

是枝裕和監督とペ・ドゥナ
なぜ、そんな風に、俯瞰する者の如く括れるのだ。

大体、そんな男の生活風景の、どこが問題なのか。

辛さを忘れるためだけの娯楽を、決して揶揄してはならないのだ。


それを揶揄するほど、私たちは強かったのか。

真に「健全な社会」とは、「性風俗」のような、厄介なる犯罪の温床と切れた、適度な「不健全な文化」を包括するからこそ保持し得ているということを、私は信じる者である。

ところが、本作の作り手は、このような「日常性」を繋ぐ庶民の人生を、恰も「都市社会で呼吸を繋ぐの孤独・閉塞感」として決めつけ、それを「克服」せねばならない卑小な「人生」と見ているようなのだ。

 こういう御仁が、一番厄介である。

 言語的コミュニケーションが容易に成立し得ない現実を、「都市社会で呼吸を繋ぐの孤独・閉塞感」として決めつける発想の貧困さこそ、私は憂うる者である。

 ついでに、これだけは書いておきたい。

 この世に、言語的コミュニケーションが容易に成立し得ない現実が存在すること ―― これを認知し得ない限り、「人間は皆、通じ合える」などという幻想を過信することによって、却って、迷妄の森に嵌り込む現実を露わにするであろう。



同質性の文化濃度の高い我が国にあっても、様々な方向に拡散した情報の無数の束が、それぞれの律動で自己運動していけば、個人がコントロールし得る能力が限定的であるが故に、厭味なまでに博識ぶったり、形而上学の浮薄な言辞を振り撒いたりすればするほど、共通言語の確保が困難になるに違いないのである。


然るに、そういう者に限って、「人間は皆、通じ合える」という大義名分に隠し込んで、セルフプロモーション含みの「無理な理想」を、俯瞰する者の如く他者に押し付けるのだ。

だが、いつしか、その幻想が呆気なく破綻する。

厄介なことに、その破綻を認知したくないばかりに、膨れ上がった幻想をスモール化できず、その破綻を招来したと信じる特定他者の「洞察力の欠如」と、その「物言い」のつまらぬ言辞に拘って立腹し、相手の「モラルの欠如」を責め立てるのだ。

更に厄介なことに、この国では、単に、自らの「物言い」が相手に通じるだけでは物足りず、自らの「思い」をも察知し、柔和に斟酌してくれないと満足しないから、言語的コミュニケーションの成立のハードルは極めて高いのである。

だから、他者に押し付けた、セルフプロモーション含みの「無理な理想」が破綻したときの反動が大きくなる。


「君との関係は、これで終わりだ」

そんな捨て台詞を残すことで、自らのプライドラインを死守するのである。

私は経験的に、最後には必ず、「察知しない者」への「モラリズムの糾弾」を連射して止まない、「空気」でしか反応しない脆弱性に無頓着な「インテリ層」の裸形の相貌を、何度も目の当たりにしている。

そこにぶら下がるのは、この国の人々に相当程度共通していると思われる、「鋭角的闘争回避」のメンタリティであると、私は考えている。

 ―― だらだらと書き散らしてきたが、別に以上の文脈は、是枝裕和監督に対しての特定的な物言いではないものの、しかし何という、卑小な態度であろうか。

大体、言語的コミュニケーションが容易に成立し得ない現実が存在すること ―― この厳しい認知から出発してこそ、真に自らと共通言語を持ち得る相手を発見できるのだ。

「都市社会で呼吸を繋ぐの孤独・閉塞感」として決めつけるかのようなメッセージを送波するかの如き本作の作り手の中で、最も「欠如」しているものがあるとすれば、この厳しい認知ではないのか。




5  社会に適応する努力を繋ぐ人間の営為を愚弄する、センチメンタル且つ、傲岸不遜な映像構成の救いがたさ




「特に、こんな町に住んでいる人たちは…君だけじゃないよ」


酸素吸入ボンベの携行を不可欠にして、超高層のビルを前にしながら、ベンチに座る老人の言葉だ。

「君だけじゃないよ」という言葉の後に、「からっぽなのは」という厭味な言辞が省略されている。

こんな不愉快な台詞を、死期の迫っている老人に言わせる、作り手の喰えなさに辟易するばかりである。
超高層のビルの住人は、皆、「からっぽ」であると言わせる傲慢さ。


大体、からっぽ」とは、どういう意味なのか。
まさかそれは、複雑極まる脳の仕組みを持ち、母親、もしくは、それに取って代わる大人によって形成された、本来的に不完全形の「自我」の機能を必死に駆使し、自らが手に入れた能力のサイズに見合って、何とか社会に適応する努力を繋ぐ人間の営為を、「からっぽ」にしているというイメージで捉えているほどに、極めつけの傲慢な物言いであるとは思えないが、しかし、人間の「心」を持ち得たと信じる、「空気人形」と簡便に等価交換し得る「代用品」というイメージで、「からっぽ」の住人について把握する何かを意味するものなら、それこそ、ファンタジー全開のラインで流さずに、ねちっこいリアリズムを張り付けた姑息な作品の逃げ場のギミックのうちに、訳知り顔の説教を垂れす、極めて幼稚な人間観を露呈するセンチメンタル且つ、傲岸不遜(ごうがんふそん)な映像構成であったと言わざるを得ないのだ。



そこに、どれほど「普通の庶民」の「味方」ずらした「優しさ」を、ふんだんに添えるポーズをセールスしても、私から見れば、ほんの少し「普通の庶民」より情報量を持っているという、ただそれだけの「優位性」のみで、苦労して人生を繋ぐ「普通の庶民」の「普通の処世術」を愚弄する、「反体制」を気取るこの国の、「命の保証」が担保された「インテリ層」に共通する、精神的幼児の発想を想起して止まないのである。

 それは、自らは「物質文明」の相当程度の恩恵に与っているにも拘らず、「都市社会で呼吸を繋ぐ者の孤独・閉塞感」の象徴であるという、「共同体回帰」を訴える「進歩的文化人」の、独善的な決めつけに対する辟易であると言ってもいい。

 前述したように、容易に言語的コミュニケーションが成立し得ない現実の中で、自らを守り、必死に生きようとする、このハイミスの受付嬢の防衛機制の張り方の意味が理解できない「進歩的文化人」の、相も変らぬ俯瞰的なスタンスの愚かしさ。

生命はすべて 

そのなかに欠如を抱き 

それを他者から満たしてもらうのだ 

世界は多分 他者の総和 

しかし互いに 欠如を満たすなどとは 

知りもせず 知らされもせず 

ばらまかれている者同士 無関心でいられる間柄 

時に疎ましく思うことさえも 許されている間柄

老人から教えられた詩の一節だ。

それを読む「空気人形」。


 「ずっと、からっぽ」と嘲罵を浴びせられる、超高層のビルの住人に象徴される、「無関心でいられる間柄」にある「ばらまかれている者同士」を「欠如」と呼び、「他者から満たしてもらう」ことによって、「欠如」を埋めていくと決めつけるメッセージに隠し込まれた、相も変らぬ俯瞰的なスタンスの愚かしさ。


ノスタルジックな「共同体回帰」のフレーズをセンチメンタルに語らせる、吉野弘の青臭い詩に説明してもらわなければならないほどの映像を作り上げたこと ―― それ自身に、私は驚きを禁じ得ない。

まさに、その映像表現の「欠如」を補完させるに足るシーンは、過剰なまでに余分であると言う外ないだろう。

大体、現代社会に生きる者にとって、「空虚」とか「欠如」とかなどという言辞自体、そこに含意される内実が疾(と)うに朽ち果てている程に、余りに当然な心的現象であるに過ぎないにも拘らず、語るべき言語を持たない者は、いつもそんな朽ち果てた言辞に頼らざるを得ないようだ。


物語で描かれた者たちの、特定的に切り取られた日常性の「空虚」さなど、殆ど自明のことではないか。

「個人情報保護法」(注)を作ってまでも、守りたいプライバシーを持つ者にとって、そのプライバシーの隙に生まれる「空虚」を、自ら求めようとしないのも、また自明ではないか。

その運用の不馴れさが災いして、「孤独死問題」の深刻さをメディアは騒ぎ立てるが、メディアによって「共同体回帰」の欺瞞的な駄文を書き散らされてもなお、守りたいプライバシーに縋りつく現代人の「空虚」さを、センチメンタル・ヒューマニズムの口先だけの問題提示を吐く議論とは無縁に、特段に由々しき社会問題として考えるまでもないのだ。


隣人祭り
プライバシーへの過剰な潜り込みに不安や不満を感じる者がいたら、その人たちは、パリのアパートでの老夫人の「孤独死」を契機に、各地のコンシェルジュ(管理人)が主催し、持ち寄りのささやかなパーティーを開くという、フランスで始まり、今や、好奇心旺盛な我が国にも伝播している、「隣人祭り」などの疑似コミュニティに参画していくだろう。

ただ、それだけのことだ。

 別に、そのプライバシーの隙に生まれた「空虚」を、「他者に埋めてもらう」というお強請(ねだ)りの発想で生きている訳がなく、いや、仮にそうであったとしても、その者はその者なりの「物語のサイズ」を不断に測定し、他者からの特段の「援助」を享受するという発想からではなく、自らのちまちまとした日常性を繋いでいくだろう。

一体、そこに何の問題があるのか。
無関心でいられる間柄」の、一体、どこが問題なのか。


他者から満たしてもらう」とは、一体、何なのか。

他者から満たしてもらう」ことなく、「生命」の欠如」と決めつけられる庶民が、ちまちまと「日常性」を繋ぐ人生の、一体、どこが問題なのか。

吉野弘
偉そうな言辞を吐くが如く、「ばらまかれている者同士」という、フレーズを引用する程に、この詩人は気高いのか。

それは単に、その愚かさが僅かなために、「目立たない程度に愚かなる者」であるとは思わないのか。

無関心でいられる間柄」という「物言い」ではなく、交叉しないことによって守られる自己像の延長戦略もまた、余計なリスクを増幅させるだけの、「恐怖指数」からの適正距離の確保の有りようとは思わないのか。

 自らができない、「無理な理想」を語るだけの奇麗事の連射は勘弁して欲しい。

悪態をつくのは、もう止めておこう。

 以下、形而上学的な味付けを、些かペダンチックに仮構しただけで、殆ど中身の希薄なる本作の評価から離れて、稿を変えて、都市社会に生きる者の「心の冷淡さ・荒廃」という、独善的な決めつけへの反論について言及したい。


(注)2003年5月23日成立、2005年4月1日全面施行。

以下、第1条。

 「基本理念 高度情報通信社会の進展に伴い個人情報の利用が著しく拡大していることにかんがみ、個人情報の適正な取扱いに関し、基本理念及び政府による基本方針の作成その他の個人情報の保護に関する施策の基本となる事項を定め、国及び地方公共団体の責務等を明らかにするとともに、個人情報を取り扱う事業者の遵守すべき義務等を定めることにより、個人情報の有用性に配慮しつつ、個人の権利利益を保護することを目的とする」



 6   都市社会に生きる者の「心の冷淡さ・荒廃」についての嘘話  



 本稿の最後に、本作の批評の一助として、都市社会に生きる者の「心の冷淡さ・荒廃」についての嘘話について、簡単に言及したい。


―― 15~16世紀のヨーロッパ経済の出現は、他の文明を圧倒し、ひとり資本主義的発展のコースに踏み出してしまった
ここから、あらゆるものが変貌を遂げていく。 


16世紀から18世紀にかけて展開された、手工業生産中心のプロト工業化を経て、18世紀後半の産業革命は機械制工業の道を開き、牙を剥き出しにした資本主義は暴力化するが、近代市民社会を支える主要な原理の浸透によって、暴力的な資本主義がそれぞれの国民国家の枠内で、その暴力性の牙を相対的に、漸次削り取っていったとき、私たちはいつのまにか、「皆、アメリカになろう」と唱和していたのだった。

イスラエルのキブツでは、キブツ外で手に入れた電気製品を誰かが持ち込むと、その本来的な平等の原理の内的要請によって、遂にそれを買う羽目になり、キブツ経済は外部文明の圧力で逼塞状態であるというレポートもあった。


更に古い話だが、中国の奥地に一台の外車が入り込んだら、車を見たことのない人々の人だかりの騒ぎで、車が動けなくなってしまったというのだ。

ウォルト・ロストウ
全ての社会は、「伝統的社会」⇒「テイク・オフ(離陸)期」を経て、必ず高度大衆消費社会に至ると予言したのは、「経済発展の諸段階」(5段階)で著名なロストウ(アメリカの経済学者)であるが、歴史学からの批判がありながらも、これは不気味なほど説得力を持つ観察である。 

言わずもがなのことだが、「豊かさは共同体を破壊する」という命題を、私たちは確認しておく必要があるだろう。 

家族が豊かになるほど、個食化、個室化がすすみ(ニワトリ症候群)、その個室にテレビや電話、そして、バストイレとガスレンジが入れば、家族はビジネスホテルになるだろう。 

それでも、愛情イデオロギーが求心力を持つ「血縁・疑似血縁家族」は簡単に解体されないだろうが、その時代に見合った果実を強(したた)かに含有させながら、少しずつ、しかし時にはドラスチックな変容を遂げていくに違いない。 


どうやら、ストレス発散の場としての家庭の中に、不必要なまでのプライバシーが入り込むほど、家族の情緒的結合力が稀薄になるという宿命だけは回避できないようである。
大体、私たちは誤解していないだろうか。

都市社会に生きる者の「心の冷淡さ・荒廃」や、「関係の形式化」の日常性が、豊かさを求める高度成長の産物であり、そのことによって、「自己中心的な生き方」が跋扈(ばっこ)しているなどと一方的に決め付けていないか。 

この類の把握は、本質的に誤っていると言わざるを得ない。 

 都市社会の様々な快楽装置の只中に囲繞されている者が、他者の不幸に無関心になりやすいのは、隣人の不幸が我が家の不幸になりやすかった共同体社会の構造性と無縁でいられるからであって、恐らく、それ以外の何ものでもないであろう。 

従って、それは、都市社会に生きる者たちの心の荒廃感の本質を説明するものではないのだ。

例えば、「深呼吸の必要」(2004年製作)という地味な邦画がある。


「深呼吸の必要」
これは、深呼吸を必要とする都会の若者たちが、沖縄の大自然に抱かれた未知のゾーンで、束の間、濃縮された時間の中での苛酷な労働体験を通して、その青春の曲折的な軌道に初めて深呼吸することの素朴な歓びを、過剰な感傷を排したかのような落ち着いた映像作りの中に、様々に手の込んだエピソードで上手にまとめた一篇だった。


特定化された主役のいない作品ながら、一応、冒頭のシーンで紹介された少女が物語の中心にいて、そこに8人の主要登場人物が絡んでいく。

その中の二人は、「きび刈り隊」を受け入れる沖縄の、とある離島の老夫婦。

彼らの名は、平良(たいら)と言い、皆から、それぞれ、「おじい」、「おばあ」と呼ばれている。
 その老夫婦の下に毎年、出稼ぎのようにきび刈りにやって来る、放浪のアルバイターの名は、田所豊。

この田所という万年青年のような男の指導によって、都会から「きび刈り隊」としてやって来た5人の若者たちの、想像を絶する苛酷な協同作業が展開されることになるというストーリーラインは、至ってシンプルなもの。 

 そのストーリーラインについて言えば、都会における、現代青年の「閉塞状況」と孤立感を、「なんくるないさー」(なんとかなるさ)という「おじい」の言葉と、田所の無神経とも思える発言によって強調される定番的手法には、正直なところ、少なからぬ違和感を覚えざるを得なかった。 


なぜいつも、このような状況設定の中で、都会に住む者たちの「閉塞感」を、それが既に認知された人々の観念のように決めつけて表現されてしまうのか。


その辺りが遣り切れないのだ。


この地味な邦画を取り上げた理由は、この遣り切れなさを言いたいだけのこと。

大体、「閉塞感」とはどういうことなのか。 

その定義を、私は未だ、きちんとした形で耳にしたことがない。

それは、何となく人々がそうだろうと思っている感情を、メディアや活字文化を通して多用されている都合の良い言葉として、極めて感覚的に流布されているようにしか思えないのだ。 


私から言わせれば、人生のその多様な軌道の展開において、当然ながら、そこに能力の差異が存在しながらも、多くの選択肢が用意されていて、且つ、これほどまでに自由が保障されている社会は他にない。 


人々が「閉塞感」と言うとき、それは様々な情報の洪水の包囲網にあって、自らの意志的決断による人生の切り拓きを、能動的に向えない脆弱なメンタリティの言い訳であるか、或いは、明日のパンの保障がないギリギリの生活環境とは無縁に生きてきた者たちの、それぞれのアイデンティティの欠如感覚を言い換えた、安直なる概念に過ぎないのである。 

動くべきときに動かず、走るべきときに走らず、どこかで、何となく浮遊しているような気分の様態を、私たちは感覚的に、「閉塞感」と呼んでいるだけなのだ。

確かに現代社会は、目眩(めくるめ)く高速なる律動感によって動いている社会である。 

しかしそんな社会を、私たちは豊かさを手に入れるために確信的な思いで作り上げてしまったのだ。


誰が悪いのでもない。


私たちは、豊かさを手に入れるために失った代償の大きさを嘘っぽく嘆く前に、まず己自身の人生と生活様態を見直すことから始めるべきだ。 


本当に悔いているなら、近代文明の恩恵に一切与(あずか)ることなく、自らの人生設計を再構築していけばいいだけの話なのである。

カルロ・ペトリーニ
現代の高速化社会へのアンチテーゼとして、スローライフに通じる「スローフード宣言」 を発表し、スローフード協会会長カルロ・ペトリーニの提唱した生き方を選ぶなら、選び切るべきなのだ。
 
それも、一切自由なのである。
 
それでも、この国が嫌なら、自分がパラダイスと信じる異郷の地で呼吸を繋いでいけばいい。


ただ、それだけのことなのだ。



【余稿  データで見る「体感治安」と、人権感覚に対する加速的な定着傾向の顕在化】

―― もののついでに、余稿として「体感治安」について書いておきたい。


「体感治安」とは、治安に対する私たちの感覚的な把握である。

この「体感治安」が極端に悪化しているという報告があるが、この心理は、私たちの人権感覚に対する、加速的な定着傾向の顕在化以外の何ものでもないのである。

以下、犯罪に関わるデータを示したい。

 「殺人の認知件数は,おおむね横ばい傾向にあるが,平成16年から19年までわずかずつ減少し続け,20年はやや増加したものの,21年は1,094件(前年比203件(15.7%)減)と減少した。検挙率は,安定して高い水準(21年は98.2%)を維持している。

強盗の認知件数は,平成15年に昭和20年代後半以降で最多の7,664件を記録した後,平成16年から5年連続で減少したが,21年は,やや増加し,4,512件(前年比234件(5.5%)増)であった。検挙率は,17年から上昇し,21年は64.8%(同3.7pt上昇)であった」(平成22年版 犯罪白書より)

「軽犯罪法違反の受理人員は,近年,増加傾向にあり,特に,平成16年以降,その傾向が顕著であったが,22年の受理人員は,1万3799人(前年比15.8%減)と大幅に減少した。

(略)風営適正化法違反の受理人員は,13年から毎年増加していたが,20年から減少に転じ,22と私は同0.1%の微減であった。売春防止法違反の受理人員は,近年,おおむね減少傾向にあり,22年には同5.9%減であった。

ストーカー規制法及び配偶者暴力防止法の各違反の受理人員は,いずれも増加傾向にあったが,平成22年はいずれも減少し,ストーカー規制法違反が前年比14.0%減,配偶者暴力防止法違反が同5.6%減であった。

(略)交通事故の死亡者数は,5年以降,減少傾向にあり,22年には,4863人(前年比1.0%減)であった。

(略)平成22年の入所受刑者の罪名別構成比を男女別に見ると,男子では,窃盗(33.0%)の構成比が最も高く,次いで,覚せい剤取締法違反(22.9%, 詐欺(8.2%),道路交通法違反(5.7%),障害(5.2%)の順であった。一方,女子では,覚せい剤取締法違反(39.0%)が最も高く,次いで,窃盗(36.9%),詐欺(7.%),殺人(2.5%)の順であった」(平成23年版犯罪白書のあらまし 法務総合研究所より)

更に、ウイキから引用する。

 「法務省と警察庁の統計によると、人口10万人中の殺人(殺人、自殺関与・同意殺人、前記の各罪の予備・未遂の合計)の発生率は、1926年は1926年以後の最多の4.14件、1932年~1945年は減少傾向で1944年は第二次世界大戦終結前では最少の1.25件、1946年~1954年は増加傾向で1954年は第二次世界大戦後の最多の3.49件、1955~1996年は減少傾向で1996年は0.97件(当時は1926年以後の最少)、1997~2006年は1.02~1.14件の範囲で推移し、2007年は1926年以後の最少の0.94件である。


(略)法務省と警察庁の統計によると、人口10万人中の強姦(強姦、準強姦、集団強姦、前記の各罪の致死傷・未遂の合計)の発生率は、1933年は第二次世界大戦終結前の最多の2.35件、1934年~1946年は減少傾向で1946年は1933年以後の最少の0.81件、1947~1964年は増加傾向で1964年は1933年以後の最多の7.06件、1965~1996年は減少傾向で1996年は1947年以後の最少の1.19件、1997~2003年は増加傾向で2003年は1.97件、2004年~2007年は減少傾向で2007年は1.38件である」(「日本の犯罪と治安」 Wikipedia

「日本の暴力犯罪に関して、一部の報道機関・著作家・評論家・個人は、日本の社会保障・福祉・所得再分配の整備不十分、非正規雇用の増加、貧富の格差の増大、競争社会、新自由主義経済政策などの社会的状況が、人々から希望を奪い、人々に絶望を与え、人々の精神を荒廃させ、前記の社会的状況や人々の精神状況が原因となって、凶悪犯罪・暴力犯罪(または少年の凶悪犯罪・暴力犯罪)が増加している(著しく増加していると表現されることもある)との認識を表明している。

事実としては、日本の暴力犯罪は強制わいせつを除いて、殺人、略取・誘拐、強姦、傷害、強盗、放火、逮捕・監禁の各罪種の発生率は1920年代後半~1930年代前半に1926年以後または第二次世界大戦終結前の最多を記録し、1940年代後半~1960年代前半(罪種に拠り最多の年度は異なる)に1926年以後または第二次世界大戦終結後の最多を記録し、その後は単年度や短期間の増加はあるが30年・40年・50年・60年・70年・80年の時間単位では減少傾向であり、1990年代以後~2007年は最多を記録した年度より統計上有意に顕著に減少しているから、日本で凶悪犯罪・暴力犯罪(または少年の凶悪犯罪・暴力犯罪)が長期的に増加している(または著しく増加している、激増している)事実は存在しない。

長期的な推移を無視して単年度や短期間の複数年間の増加だけを指摘して、凶悪犯罪が増加していると断定することは、増加しているとの主張に都合がいい統計値だけを意図的に選択し、都合がわるい統計値は意図的に無視した情報操作である。

前記の理由により、2007年度までの統計によれば、凶悪犯罪・暴力犯罪が増加しているとの認識と、その原因と指摘されている社会的状況や精神的状況(日本国民や日本に在住する人々の多数派が絶望しているとの証明も無い)と凶悪犯罪・暴力犯罪の増加との因果関係もまた証明が無い」(同上)

以上、犯罪に関わるデータを示したが、それらは、「体感治安」が極端に悪化しているという感覚的な把握であることが自明である。

均しく貧しかった時代では、さして気にも留めなかった事態でも、人権が尊ばれる時代の幕が開かれ、それが加速的な定着傾向の顕在化によって、人間一人の命の「価値」が、少なくとも、毎日、メキシコで惹起している麻薬絡みの殺害に関わる、以下の報告との比較を見る限り、我が国の場合、相当程度、高いものになっているという事実を認知すべきであろう。

ミチョアカン州でのメキシコ軍による逮捕劇
「メキシコの検察当局の発表によれば、2011年9月までのおよそ5年間に麻薬組織による犯罪や抗争に巻き込まれるなどして4万7515人が殺害されている」(「メキシコ麻薬戦争」Wikipedia



だからこそ、都市社会に生きる者の「心の冷淡さ・荒廃」についての嘘話が、過剰に、且つ、声高に語られるのであるということ ―― それ以外ではない。


単なる「気分障害」であるのに、自分がうつ病であると思ってしまう「擬態うつ病」という言葉が独り歩きする昨今の風潮に如実に現れているように、例えば、本作の「空気人形」のような、「毒気少々・ファンタジー半開」の映画が作られる程に、我が国は緩い国民国家であることの証明であるということなのだろう。


そのことは、仮に我が国で、「メキシコ麻薬戦争」の如き事態が惹起したら、どういうことになるか想像するまでもないだろう。

余計なことを書けば、そのメキシコという、ラテンアメリカの連邦共和制国家が、「世界最多の憲法改正国で、建国以来2002年までに408回改正している」(ウィキ)事実を知っただけでも、我が国の国民は仰天するに違いない。


 更に、余計なことを書けば、本作で熱演したペ・ドゥナの母国では、韓国の校内暴力のネットワークである「一陣会」の暴走が収まらず、教師の成り手がいない現実は、殆ど教育の体をなしていないというニュースを、朝鮮日報が日々に伝えているところ。
朝鮮日報より
 「インターネットの発達により、校内暴力組織一陣会が広域化しており、団結のために500~1200人が参加するロックカフェを開き、男女の一陣(お互いを呼ぶ称号)が性行為をするセックスマシーンイベントも開催している」
 この配信は、2005年の古い報道の一文だが、インターネットを利用した広範囲な暴力ネットワークの存在は、低年齢化の加速化によって、今や小学校までも巻き込んで拡大的に定着し、セックスイベントに留まらず、虐め・恐喝・暴力・集団カンニングを常態化している現状には、手の打ちようがないらしい。


 政治シーンでは、2011年の韓米自由貿易協定(FTA) 批准案の採決阻止のために、あろうことか、国会本会議場で催涙弾を破裂させた、極左の統合進歩党の不正選挙の自壊ぶりばかりか、比例代表リストに北朝鮮工作員を載せるという報道もあり、この類のニュースを殆ど伝えない我が国のメディアには、常に対岸の火事でしかないのだろう。


 あり得ない話に近いが、もし、このような「事件」が出来したなら、「メキシコ麻薬戦争」の実態の恐怖に対しては、バーチャル化されたイメージでしか捉えられない現象とは異なって、寧ろ、韓国で出来している「一陣会」の暴走の現実には、それこそ、「体感治安」の「恐怖数値」が極限値にまで達するであろう。


 それこそ、都市社会に生きる者の「心の冷淡さ・荒廃」についての嘘話と、暢気に戯れているどころではなくなるに違いない。

 以上、本作への批評から脱線しつつ、最後まで、「人生論的映画評論」という視座で言及したことをお許し願いたい。


(2012年8月)



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