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2017年11月5日日曜日

淵に立つ


<「視界不良の冥闇の広がり」と「絶対孤独」〉



1  「彼のような人こそ、神様から愛されなければならないのに」





「視界不良の冥闇(めいあん)の広がり」と「絶対孤独」という、人間の〈存在性〉の懐深(ふところふか)くに潜り込んでいる風景が、「異物」の侵入によって、寸断された時間の際(きわ)に押し込まれた者たちの〈迷妄〉と〈渾沌〉のうちに露わにされ、そして、その〈状況性〉が分娩する〈不条理〉を、一見、縮こまって呼吸を繋ぐ平凡な一家族が被弾する、無秩序と非日常の日々の渦中に描き切った傑作

その〈不条理〉が生み出す〈絶望〉と〈罪悪性〉を突き抜けようとしても、突き抜けられない〈状況性〉の酷薄さを、邦画界で衰退している作家主義の精神で、「理想の家族像」とは縁遠いように見える核家族の崩壊という、ミニマムでありながら普遍性を有する物語として再現される。

―― 物語をフォローしていく。

侵入者としての「異物」の唐突の破壊力によって、寸断された時間の際(きわ)に押し込まれた、平凡な一家族の〈迷妄〉と〈渾沌〉が露わにされ、救いようのない物語が一気に開かれていくが、それは、映像の序章から前半までの落ち着いた風景を決定的に裏切るものだった。

八坂
11年ぶりに県の施設を経由して出所したその男・八坂は、一緒に働くことになった知人の住む山形に行く前の3週間限定で、友人であり、小さな金属加工工場を営む鈴岡利雄の自宅兼職場に厄介になる。

「家族は死んだ」と言う八坂は、僅かな期間で、鈴岡利雄の妻・章江(あきえ)、10歳になる娘の蛍と懇意になる。

「何卒よろしくお願いします。迷惑はかけませんから」

常に、敬語で話す礼儀正しい八坂の温厚な態度に、敬虔なプロテスタントである章江は深い興味を持ち、好感を抱くようになるが、それが異性感情に遷移していくのも早かった。

左から章江、八坂、蛍
オルガンを習う蛍に近づき、そのオルガンを親切に教示する八坂。

「腐れ縁ですね」

章江に、夫・利雄との関係を聞かれた八坂の反応である。

「あんまり甘やかすなよ、俺を」

これは、利雄が八坂に放った一言。

利雄と八坂の関係の曖昧さを示すこの伏線描写は、終盤で回収される。

利雄(左)
家族団欒に他人が入り込んでも、違和感が薄れてきたそんなある日、八坂は章江に、自分が殺人犯であった事実を正直に告白する。

以下、存分の感情を込めた八坂の、計算されたかのような「間」を保持しながらの長い告白。

「私は独善的な人間でした。幼い頃から、約束は命がけで守れと教えられてきて、それをできる限り正しく、私は実践して生きてきたつもりでした。私の犯した過ちというのは、四つあります。

一つは、約束を守ることが、命よりも法律よりも優るという歪んだ価値観を持ってしまったこと。二つ目は、当然、他人もそのように生きていると思い込んでしまったこと。三つ目は、私は間違いないと、自分自身の“正しさ”を頑なに信じてしまったこと。そして最後は、そういった、私自身の歪んだ価値観を根拠に人を殺めてしまったことです。

…刑務所に入る覚悟はありました。しかしそれは、反省の気持ちからではなく、何かこう、自分は逃げも隠れもしないという、男らしさへの子供じみた憧れからでした。だから、法廷でも、自分が不利になる証言を包み隠さずしました。死刑になる覚悟もありました。私は自分自身で身勝手に作った“正しさ”という枠から逃げることができなかったのです。

…しかし、それは突然、本当に一瞬の出来事でした。

私は法廷で、遺族の方から、罵声を浴びせられることを覚悟していたのですが、傍聴席を見ると、母親は全く泣いておらず、能面のような表情を浮かべて、しかし最後には、彼女は自分自身の頬を、二度三度と彼女の右手で打ったのです」

ここで、自分の頬を強く叩いて見せる八坂。

「彼女は私ではなく、自分の頬を打ったのです。それから堰を切ったように泣き出しました。どうしてそんなことをしたのか、私には咄嗟に分りませんでした。本当のことは今でも分りません。ただ私は、何て取り返しのつかないことをしてしまったのかと、本気で自分を悔いました。一人の人間の命を奪うことの重大さ、被害者と遺族の方の深い絶望を思いを実感しました。私は死刑になるべきでした。しかし、こうして生かされています。ですから、私のこれからの人生というのは、遺族の方に預けられたものだと思っています」

八坂の告白
驚くべき告白だが、それを傾聴するプロテスタントである相手の女性が、より深く、自分に好意を寄せることを確信する者の弁舌だった。

案の定、話を聞きながら涙ぐむ章江。

この告白の真偽のほどは定かではないが、あまりに理路整然とした告白の内実に驚きを隠せない。

それでも、被害者の遺族に八坂が手紙を書いていて、その手紙を、章江が自ら求めて読ませてもらうシーンがある事実から、遺族への贖罪という告白の内実の核心が、あながち作り話であると言い切れないのも事実である。

或いは、自分に好意を寄せることを確信する八坂の思いが、このような場面の設定を予想した上での打算的行為であったとも考えられなくもない。

章江と蛍
この作品は、「視界不良の冥闇(めいあん=闇)の広がり」を随所に映像提示しつつも、最後まで、心理描写を希薄化させた作家性の強い映像なので、観る者一人一人が、「システム2」(より多くの時間をかけて、頭を使う「熟慮思考」)を駆使して、限定的なシチュエーションでの、限定的な登場人物の内面の搖動にアプローチする行為が要請されるのである。

そういう映像なのだ。

「彼のような人こそ、神様から愛されなければならないのに」

殆ど約束された章江の反応だが、八坂の狙いは完璧なまでに成就したと言うべきか。






2  「俺、お前んちに居て思うんだよな。何で、この生活が俺じゃなくて、お前なんだって」





「おめぇ、本当に小せえ野郎だな。そんなに俺が怖ぇかよ。おめぇのことなんか、話さねぇよ。お前もあんとき、一緒にいたとか、一度も話したことねぇよ。なのに、何だおめぇ。俺がクソみたいなところで、クソみたいな奴ら相手にしている間に、女つくって、セックスしてガキまで作ってよ。どうなってんだよ。俺、お前んちに居て思うんだよな。何で、この生活が俺じゃなくて、お前なんだって」

八坂と利雄
利雄に放った八坂の悪罵(あくば)である。

この悪罵が重要なのは、刑務所行きを余儀なくされた八坂の犯罪に利雄が関与していたという事実が、既に、物語の前半に露呈されていたこと。

第2に、八坂の侵入者としての「異物性」が具有する、破壊的暴力が顕在化する予兆であったという点。

そして第3に、利雄に対する八坂の悪感情が率直に反映されていること。

特に、「何で、この生活が俺じゃなくて、お前なんだって」という、最後の八坂の言辞は看過できないものがある。

まさにれが心理的推進力と化して八坂の破壊的暴力を具現化させるのだ。

八坂と章江
自分に好意を寄せる章江を犯そうとして拒否された直後、あろうことか、八坂に馴染んでいた蛍に加えた何某かの暴力によって、少女の人生を車椅子生活の状態に強(し)いてしまった。

しかし、こシーンは映像提示されることがない。

だから、蛍に何があったかについて、観る者は想像するしかない。

脳に致命的ダメージを与える何某かの暴力が行使された可能性が高いが、或いは、蛍自身が招いた事故の可能性も否定できない。

八坂と蛍
ただ、この映像の構築性の高さを考える時、偶発的事故という選択肢は採用しにくいのだ。

因みに、この時、八坂の白いワイシャツが、その下に隠し込まれた赤のTシャツに化けているが、この辺りは、「イノセンス=非武装性の=偽善」と「DISORDER=無秩序・武装性の赤=本性」という風に、分りやすくシンボライズされていた。

いずれにしても、「視界不良の冥闇の広がり」から相対的に解放されている少女のイノセンス(この場合、「贖罪不要の〈存在性〉」)が、侵入者としての「異物」の破壊的暴力によって根柢から奪われる理不尽さは、人間存在の〈不条理〉の極みであると言う他にない。

「事件」直後の八坂と利雄
理不尽な〈状況性〉が、縮こまって呼吸を繋ぐ平凡な一家族の「視界不良の冥闇の広がり」を顕在化し、「絶対孤独」という本質的な風景をも露わにしていく。

だから、この家族に残された時間は、破壊的暴力によって根柢から奪われた娘のイノセンスと向き合い、如何にその悲哀と折り合いをつけるかという、予約された苛烈なタスク(課題)以外になくなっていくのである。

―― こんな苛烈なタスクを負った家族の時間が、8年間経過した。

一体、あのとき、蛍に何があったのか。

それを知るために、夫婦は興信所に依頼し、八坂を捜索するが、依然として八坂の行方が分らない。

8年前の蛍に対する八坂の行為の真相が知りたいと同時に、それ以上に、中年夫婦は八坂が犯したと信じる蛍への犯罪に対する復讐を果たしたいのだ。


しかし、全くコミュニケーションが取れない蛍を必死で守る章江は、犯される悪夢によって強迫観念に囚われている。

八坂に被弾したトラウマである。

八坂と身体接触をした章江の「フラッシュバルブ記憶」(強烈な感情を伴った「閃光記憶」)が皮膚感覚として生き残され、過剰なまでの潔癖症に罹患していた。

執拗に繰り返される洗浄は、「強迫性障害」の代表的な症状なのである。

そんな折、退職した工員に代わって、孝司(たかし)という礼儀正しい青年を雇うことになるが、彼こそ、未だ顔を見たことがない八坂の実子だった。

孝司
父が収監中に産まれたと言う孝司の存在は、家族の「フラッシュバルブ記憶」を掘り起こさせるには充分過ぎた。

八坂の消息を求めていた孝司が利雄の工場に勤めるに至った経緯は、音信不通の実父が利雄の工場に勤めていた事実を求職中に知ったからである。

その契機は八坂の妻、即ち、孝司の母を死ぬまで介護していた孝司自身が、八坂が母に送った最後の手紙の中に、利雄の一家と共に父が写っている写真を見たこと。

ピクニックの写真
言うまでもなく、それは、8年前の例のピクニックの写真だった。

その事実を、利雄と章江は、孝司経由で別々に知るに至る。

ピクニックの写真を利雄に見せる孝司
利雄と章江の関係の希薄さを象徴的に伝えるエピソードであるが、「父が殺人犯で、共犯者がいた」事実(注)を、母から伝え聞いていたという孝司の言葉に衝撃を受けた章江が、夫・利雄にその事実を確かめることで、一切が判然となる。

利雄は、八坂が犯した殺人事件の共犯者だった。

利雄
「蛍は俺とお前への罰だったんじゃないかって思うんだ、時々。お前、八坂とできてたろ。正直、蛍があんなになって、どこかでほっとしたんだ」

共犯者である事実を告白した利雄の、自棄的だが、本音を吐露する言辞に、章江は絶句する。

章江が憤怒を炸裂するのは、その直後だった。

繰り返し、自らの頬を打ち付けるのだ。

のカットは、八坂が犯した殺人事件の遺族(母親)が、傍聴席で自身の頬を打ち付ける行為と同質のものである。

章江もまた、遺族の行為と同様に、事件(蛍が犠牲になった重い現実)への強い責任意識を持っていたということである。

だから、自罰行為に振れたのだろう。

それでも、より悪質であると信じる利雄を、「汚らわしき何者か」と見るから、「近寄るな!」という怒号に結ばれるのだ。

「8年前、家族は一つになった」と漏らす利雄の思惑と切れ、離婚という選択肢以外にない夫婦の関係が、今や、復元不能の辺りにまで流されている。

金属加工工場で働く八坂と、経営者の利雄(右)
(この映画は、登場人物のセリフが、常に、正直で正確な情報を反映していない辺りが、まさに、人間の本質を衝いていて非常に面白い)

まもなく、興信所から、八坂と思われる人物が見つかったという連絡があった。

別人である現実を目の当たりにする3人
孝司を随行させ、家族は地方の田舎町へ向かうが、八坂と思われた人物が別人である現実を目の当たりにして、帰途につく。

絶望感に苛(さいな)まれた章江が、蛍を道連れにして、橋の上から入水自殺を図ったのは、八坂の幻覚を見た直後だった。

それを視認した利雄と孝司は、躊躇(ちゅうちょ)なく川に飛び込み、必死に助けようとする。

救助に向かう利雄と孝司
章江は利雄に、蛍は孝司に抱えられ、川の淵に運び出すが、孝司は既に息絶えていた。

ラストシーン。

妻・章江への心肺蘇生を繰り返し、水を吐き、息を吹き返した章江の蘇生が落ち着くや、迅速に、命を絶えた孝司の蘇生を試みるが、断念する利雄。

そして、何の罪もない蛍の心肺蘇生を、ずっと映し出すラストカットが、父である男が負った贖罪である行為を深々と印象付けて、作家性の強い鮮烈な映像が閉じていった。

八坂の代わりに息絶えた孝司が横たわるもう一つの構図



(注)八坂が、惚れ抜かれても入籍しなかった孝司の母に、共犯者がいた事実を話していたエピソードは、非常に興味深い。「お前もあんとき、一緒にいたとか、一度も話したことねぇよ」と利雄に言い放った八坂だが、特定他者にのみ、共犯者の存在について話していたのである。そこに、自分が貫徹した、「男らしさへの子供じみた憧れ」が延長されていたのかどうか、一切、不分明である。但し、状況次第で誰でも嘘をつくのが自明である事実を、この八坂のエピソードは物語っている。八坂=「絶対悪」という記号性とは、無縁であったことを印象づけるエピソードだった。






3 ―― 「視界不良の冥闇の広がり」と「絶対孤独」





ここから批評に入る。

贖罪意識と思われる、ラストシーンにおける利雄の行為は、「蛍があんなになって、どこかでほっとしたんだ」という言辞と矛盾するが、心理学的に言えば、こういうことだろう。

元々、自らが原因で招来した八坂の出現と、その後の破壊的暴力によって犠牲になった蛍への罪悪感を希釈するために、「蛍は俺とお前への罰だったんじゃないかって思うんだ」という言辞を放つことで、八坂と性愛関係にあったと決めつけ、その「悪徳性」を分け合う自己防衛反応だったと言える。

入水自殺を図る直前に章江が見た母と元気な娘の夢
これは、章江の自罰行為によっても検証される。

夫婦は、それぞれの微妙に隔たっているスタンスで、辛うじて、悲惨な現実への「適応」を可能にしたのである。

―― 次に、母子心中について、些か説明的で、ベタな印象を拭えない映画的メタファーの提示を考えてみる。

以下、章江に語った八坂の興味深い話。

「信仰というのは、『サル型』と『ネコ型』に分れるらしいですね。章江さんは多分、『ネコ型』ですね。子供がどうやって親に運ばれるかって話らしいですけど、サルというのは、子供が自分から親にしがみつきますよね。それに対して、ネコというのは、親が首を咥(くわ)えて運んでくれる。この親っていうのが神様らしいんですよね」

まさに、「神様」=章江は、絶対に喪ってはならない「子ネコ」=蛍を抱き締め、「親が首を咥えて運んでくれる」ように入水心中を図ったのである。


そこには、今や、家族崩壊の危機に立ち会い、離縁という意識しか拾えなかった章江が抱え込んだ、「絶対孤独」と「視界不良の冥闇の広がり」という、人間の〈存在性〉の懐深くに潜り込んでいる、くすんだ風景が露わになっていた。

孤独と心の闇。

深田晃司監督
深田晃司監督が、インタビューで繰り返し言及した概念である。

それを私は、「絶対孤独」と「視界不良の冥闇の広がり」という表現に変換して、批評に結んでいるが、母子心中のシーンこそ、この心象を強化する映像的提示だった。

ついでに、もう一つの興味深い映画的メタファーを考えてみたい。

蜘蛛の話である。

「ほら、あの蜘蛛のあれ、うじゃうじゃ群れてて、気持ちワルーってなってた。カバキコマチグモといって、赤ちゃんにお母さんが食べられてたんだって。お母さんも食べられるとき、全く抵抗しないんだって」

朝食での蛍の言葉である。

その話を、父が受け継ぐ。

「母蜘蛛を食べた子はどうなるんだろう…地獄に行くのかな」と利雄。 

これに対する蛍の反応は、「そんなことない。だって、可哀そうじゃん」というもの。

「子供が地獄に行くなら、母蜘蛛だって同じか。昔やっぱり、食ってるんだもんな、親」

これは、八坂が同居するようになった夜、利雄が団欒の場で吐露した言葉である。

カバキコマチグモ(ウィキ)
ここには、人間が人間を食(は)んで、連綿と命を繋いできたというメタファーが提示されているが、この寓話は、「親が子供の首を咥えて運んでくれる」という「ネコ」の寓話と表裏一体をなす。

「生きとし生けるもの」の母親が、自己犠牲の精神によって「神様」に昇華する。

そういう宗教的メタファーを感じ取れる寓話である。

然るに、この映画は、母親の自己犠牲の精神の枠組みをも超え、「神様」に昇華する宗教性のイメージと切れて、一方的に食い潰されていく悲哀なる犠牲者を生み出したのだ。

オルガンをサボるだけの「罪」しか犯していない少女・蛍

言うまでもなく、悲哀なる犠牲者とは、オルガンをサボるだけの「罪」しか犯していない少女・蛍以外の何者でもなかった。

悲哀なる犠牲者の極みとして、一つのエピソードがあった。

蛍に深い関心を持った孝司が、蛍をモデルにデッサンを繋いでいた時のこと。

孝司と章江
デッサンの中で、蛍に近づいた孝司が、意想外の行為に振れていく。

蛍が息をしているかどうか。

ただ、それだけの関心の範疇で、孝司はそれを確かめる行為に振れていくのだ。

当然の如く、モニターでそれを見ていた章江が激昂し、弁明する孝司を追い出したという顛末(てんまつ)だが、このシーンは、相当に残酷な描写である。

モニターに写し出された孝司の行為
悪気がなく、蛍の呼吸音を確かめようとしたに過ぎない誠実な孝司もまた、越えてはならないレッドラインに踏み込んでしまったのだ。

これは、〈生〉と〈死〉という際(きわ)に踏み込むという、あってはならないレッドラインである。

「動かない蛍」=「自己運動する生命という、絶対的機能を失った何者か」という、単純化した形貌(けいぼう)性。

これは、「動かない蛍」の「存在性」それ自身の否定である。

このシーンの映像提示の酷薄さは、映像総体の酷薄さであり、同時に、映像総体を貫流する、「絶対孤独」(「動かない蛍」という形貌性)と「視界不良の冥闇の広がり」(「強迫性障害」に罹患している章江の「閃光記憶」)というイメージのうちに収斂される〈不条理〉であると言っていい。

―― 次に、物語の中で最も重要な展開について考えたい。

「八坂はなぜ、破壊的暴力に振れたのか」という根源的な問題である。

この厄介なテーマを考える時、利雄に放たれた八坂の悪罵が想起される。

俺がクソみたいなところで、クソみたいな奴ら相手にしている間に、女つくって、セックスしてガキまで作ってよ。どうなってんだよ。俺、お前んちに居て思うんだよな。何で、この生活が俺じゃなくて、お前なんだって」

このセリフだけは、相当のリアリティがある。

「あんまり甘やかすなよ、俺を」

利雄放った一言である。

このセリフも相当のリアリティがある。


どうやら、八坂の破壊的暴力の発現の根柢には、「約束」したか否かは不分明ながら、事件の共犯者だった事実を供述しなかったにも拘らず、自分が収監されている刑務所への差し入れや、出所の迎えにも来なかったばかりか、まるで、逃げ隠れるような生活をしている利雄に対する、恨み・懲罰的感情が伏在していたと想像できる。

加えて、そんな小心な利雄が、親から継いだ工場を経営し、美人と結婚した。

そして、美人妻との間に娘を儲け、オルガンを習わせている。

殺人事件の共犯者が、「普通の生活」をしているのだ。

それは、「のものであって、お前のものではない」。

だから、お前の「もの」を奪う。


そんな懲罰的感情を抱いて、八坂が利雄の工場に出現したか否かについては断言できないが、少なくとも、「親友との再開」のために、八坂の工場訪問が具現したとは到底考えられない。

或いは、仮に利雄一家への破壊的暴力それ自身が目的でなかったとしても、懲罰的感情を抱いて訪問したモチーフを抱懐し、知人の住む山形に行くまでの3週間限定で金属加工工場に厄介になり、そこで惹起した八坂の行動が、偶発的要素が詰まった状況下で身体化されたであろうことは否定できない。

「白」から「赤」への変換という八坂の行動変容は、あまりに説明的で分りやすく、些か漫画的だが、章江に対するレイプ未遂事件を起点に発動する破壊的暴力は、偶発的要素の中で、赤」が欺瞞的な「疑似平和家族」である「白」を甚振(いたぶ)り、屠(ほふ)っていくという構造性を成す。

八坂と蛍
しかし、そこで屠られたスケープゴートが、欺瞞的な「疑似平和家族」を根柢から支えていた蛍であった事実こそが、この映像の最も酷薄な風景を開示すると言っていい。

それは、蛍への破壊が「疑似平和家族」の根本的な破壊に直結するからだ。

理不尽ながら、「贖罪不要の〈存在性〉」という少女のイノセンスへの破壊なしに、自分を裏切った利雄の抹殺よりも、その利雄が仮構した「疑似平和家族」の中でぬくもっている、一切の欺瞞性を剥(は)ぎ取れなかったということか。

そういう風に考えるのも、有りだろう。





4  「疑似平和家族」の風景が変容していく





八坂の破壊的暴力の対象となった「疑似平和家族」の風景は、文字通り、晴天の印象を与えない。

風雨でもない。

どちらかと言うと、曇天か、良くても薄曇りというイメージに近い。


団欒(だんらん)のイメージが弱いからである。

その象徴は、両親を相手に、蛍によって開かれた蜘蛛の寓話の会話の際、利雄と章江が別々に反応(章江は無関心)するシーンのうちに提示されていた。

大体、この夫婦には、日常会話が削り取られているのだ。

務の仕事を手伝う章江と、金属加工の仕事に従事する利雄との会話も、映画は拾い上げなかった。

「事件」以降、映画が拾い上げたのは、八坂を無断で住み込ませた時に、利雄に章江が怒りを炸裂させたシーンのみ。

その章江は、敬語を話す八坂の温厚な態度に惹きつけられた挙句、彼の告白で完全に魅了される。

プロテスタントの章江はポジティブな性格で、且つ開放的だから、礼儀正しい八坂の外見上の態度を、丸ごと吸収する包容力があった。

その意味で、八坂は夫・利雄のぶっきらぼうな振る舞いと対蹠的(たいしょてき)だった。

夫婦の価値観・性格の違いは明らかである。

―― ここで、「家族」について言及したい。

思うに、現代家族とは、「パンと心の共同体」であると私は考える。

現代家族のイメージ(映画「ぼくたちの家族」より)
それ故、家族成員にとって、「家族」を実感的に感じるものは、家族間の情緒的交叉の内に形成される見えない親和力の継続的な確認であり、そこで手に入れる安寧の感情と言ったものだろう。

そこで、安寧に達する家族成員のそれぞれの自我こそが、まさに、それが解き放たれた実感となって、家庭という空間に、しばしば、過剰なまでに身を預けるのである。

解放された自我は、そこで裸形の自我を曝(さら)け出す。

外部環境で溜め込んだ、膨大なストレスを存分に吐き出すのである。

言うまでもなく、そこには暗黙のタブーやルールがあるが、ルールをほんの少し突き抜けても、それを修復するだけの情緒的復元力が、いつでも、そこに担保されているのである。

映画「ぼくたちの家族」より
このような「ミニ共同体」に、人が大きく振れていくのは、人間が本来的に「絶対孤独」の状態にあり、それを埋める必要があるからである。

この辺りについて、前述したように、私は深田晃司監督と同様の人間観を持っている。

「絶対孤独」の状態にある人間が、その状態に耐えられない社会的動物であるが故に、私たちは多くの「疑似共同体」を作らざるを得ないのである。

物理的共存をしないが、身近に住んで助け合う家族・「インビジブル・ファミリー」などは、その典型であると言える。

しかし、近代以前の普通の家族的共同体の結合力の中枢には、「情緒」よりも「パン」の方に、より比重が置かれていたと考えられる。

だから、人々は我慢した。

戦前の日本の家族(イメージ画像)
家族が餓死せずに生きてい くこと ―― それこそが、一般大衆家族の最大の課題であった。

乳児を除く家族の全てが、パンの確保のためにギリギリまで身体を動かし、心を削っていた。

そんな時代があったのだ。  

従って、そんな時代では、何よりも「パン」の確保が優先順位の筆頭にあり、「心」の紐帯の結合力は、それを強力に補完するものとして存在価値を持っていたのである。  

然るに、現代家族の多くは今、「パンの共同体」という役割が絶対的な価値を持たなくなっている。

その結果、「年金分割制度」(離婚した場合に、婚姻期間中の厚生年金を分割する)によって熟年離婚が増加した。

「パン」の保証を得て、「話もしたくない」配偶者との物理的共存の意味を失ったからである。

年金分割制度
「パン」の問題を解決すれば、あとは、「情緒」の問題に限定されてしまうのである。

情緒的復元力が脆弱ならば、もう、物理的共存の価値を拾い上げることが困難になってしまうのだ。

閑話休題。

この問題意識をもって、映画に戻る。

―― 映画の夫婦が関係濃度を劣化させていても、情緒的復元力が脆弱な「家族」の機能をぎりぎりに繋いでいたのは、一人娘の蛍の存在だった

蛍の存在が、今にも壊れそうな「家族」を支え切っていたのだ。


あろうことか、その蛍が決定的に被弾した。

蛍は「非在」(死)ではないが、脳科学的には「非在」に近い存在と化す。

そうなれば、情緒的復元力が脆弱な夫婦の関係濃度の劣化が顕在化する。

だから、離婚の問題が出てくる。

「パン」の保証を得ていたなら、情緒的復元力の強度が一切を決定するのである。

物語の流れを偏見なく俯瞰すれば、この夫婦の離婚は不可避になるだろう。

ところが、ラストシーンにおいて、小心で、「逃げるが勝ち」の〈生〉を引っ張ってきた利雄が、映像で見せたことがない行動を取った。


入水した河に躊躇なく飛び込み、担(かつ)ぎ上げた妻の章江を、必死に救済したのである。

そして、最後は蛍の救済に走っていく。

このラストシーンを観る限り、夫婦の離婚が反故(ほご)になる可能性を持つとも思われる。

結局、「絶対孤独」の状態にあっても、人間は社会的動物であるが故に、その状態に耐えられないのだ。

それが、人間の弱さであると言える。

しかし、それ以上に、身近な集団内で利他的行動を示す人間の強さの証明でもある。

章江と蛍は、どうしても救済しなければならない。

「家族」を再構築する。

この強い愛着心が、利雄の利他的行動の根柢に張り付いていたのだろうか。

少なくとも、利雄の自我は、「絶対孤独」に居直るような、ペシミズムやニヒリズムとも無縁であったということである。

ラストの絵は、「疑似平和家族」の風景が変容していく契機であるかのようだった。


また、物語の中で、孤独感を最も印象付ける存在は、殺人犯を父に持ち、若くして母を介護しつつ、最期を看取ったであろう誠実な若者・孝司である。

既に、この時点で天涯孤独となり、明日の「パン」を求めて職探しをする孝司の心の奥に、このような青年期を余儀なくされたペシミズムが濃厚に漂っている。

だから、八坂の復讐を赤裸々に語る章江に対して、父の代わりに自分の命を投げ出そうという、驚くべき表現に結ばれた。

本音だろう。

孝司と利雄
誠実な性格とは裏腹に、自分が負っている理不尽な重石の不快感は、彼の自我をどこかで食い潰しているようだった。

一方、孝司の父・八坂の存在は、期間限定なら、どのような環境にも適応できる能力を具備しているので、常に「定着」よりも、「移動」に振れていく浮遊感が漂う。

この浮遊感の本体はニヒリズムである。

ニヒリズムを漂動(ひょうどう)させている男が、映像総体を支配し切っているのだ。

物語を支配する男の異様な浮遊感が、登場人物たちの人生の、時々刻々と動く非日常の時間に決定的な影響を与え、それが「視界不良の冥闇の広がり」と化していた。

姿を消した男の残像が、映像の其処彼処(そこかしこ)にべったりと張り付いているのだ。


(2017年11月)

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