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2014年4月21日月曜日

JAWS/ジョーズ(‘75)    スティーヴン・スピルバーグ


<「三人の男VS人食い鮫」の直接対決を本丸の物語にした、海洋アドベンチャー映画の決定版>



 1  「三人の男VS人食い鮫」の直接対決を本丸の物語にした、海洋アドベンチャー映画の決定版



 アメリカ東海岸の海辺の町・「アミティ島」(架空の島)を餌場と決めたホオジロザメから、海水浴場というレジャーランドを守る争いは、「人がいる限り襲う、縄張り持ちの一匹狼」(海洋学者フーパーの言葉)との戦争だった。

 この時点で、5人の死者が出ている。

 僅か1週間である。

 遊泳者の動きと音に反応し、「人食う機械」(フーパー)と化した「縄張り持ちの一匹狼」との戦争は、「殺すか、餌を断つか」(フーパー)の戦争と化していた。

  平均体長が4~5メートルで、体重は1キログラムと言われるホオジロザメだが、この映画での人食い鮫の体長は、鮫狩りの地元の漁師・クイントの直感によると、優に7.6メートル、重さ3トンという「得体の知れないモンスター」である。

 何回でも生え変わり、肉を切り裂く鋭利な鋸歯を有し、今でも、世界中で死傷事故が多発している。

 沿岸域に生息しているが故に、人間の生存圏に近接しているからである。

 だから、この映画のように、海水浴場での遊泳中に襲われる場合が多いのである。
 
 「この食う機械は、厄介なことに泳ぎ、子を産むことだ」

 
左から市長フーパーブロディ
これは、アミティ市長に「遊泳禁止」を訴えたときの、海洋学者・フーパーの言葉。

 ところが、遊泳禁止に躊躇(ためら)う市長は、海開きを強行する。

 東海岸に浮かぶ小さなアミティ市の経済が、夏の海水浴客に依拠しているためである。

  今や、メディアの注目の下、好奇心でアミティ島の浜辺に集まる人々。

 人食い鮫の存在を否定する市長の後押しで、恐々と、海に入っていく海水浴客。

 そこに新たな犠牲者が発生したことで、パニックになる海水浴場

 最悪の事態が発生したのである。


 「縄張り持ちの一匹狼」の出現時に、ニューヨーク出身の作曲家・ジョン・ウィリアムズの音楽(アカデミー作曲賞)が効果的に使われて、「得体の知れないモンスター」への恐怖が増幅される。


  ニューヨークから赴任まもない温厚な警察署長・ブロディはアミティ市長の同意を得て、「鮫ハンター」として名高い地元の漁師・クイントを雇い、更に、クイントの反対を押し切ってフーパーを同乗させ、「得体の知れないモンスター」との直接対決に挑むに至った。

左からフーパーブロディ、クイント
 クイントの漁船・「オーガ号」が、大海原へ乗り出していくのである。

 その名を知らぬ者がいないほど有名な本作は、緊張感溢れるパニック映画を誘導因にして、「三人の男VS人食い鮫」の直接対決を本丸の物語にした、海洋アドベンチャー映画の決定版と言っていい。

 その意味で、この映画の成功は、「自然を侵す人間の生存圏の拡大への、自然からのリベンジ」というような、形而上学的メッセージを徹底的に排除した、殆ど「完全無欠」のエンタメムービーとして描き切ったことにある。

 従って、この映画の求心力が、三人の男たちの人物造形によって支えられていると言っても過言ではない。

 以下、その点に注視して、本稿を繋いでいきたい。




2  「得体の知れないモンスター」の破壊的攻撃力に無力な男たちの攻撃限界点




  「船が小さい」

 
「得体の知れないモンスター」の出現に気づく直前のブロディ
突然、出現した「得体の知れないモンスター」を視認したときの、ブロディの言葉である。

 かくて、人食い鮫を合理的に屠る戦法が具現化していく。

 樽の浮力によって深く潜らせることなく、常に、「得体の知れないモンスター」の遊泳地点を特定する。

 この戦術は、クィントの考案による「樽の撃ち付け」という、「鮫ハンター」の異名を取る、如何にも海のプロフェッショナルならではの方略だったが、当初こそ成功裡に収めていたものの、「得体の知れないモンスター」の破壊力の前では容易に効力を発揮し得なかった。

 ある夜のこと。

 フーパーと傷自慢をしていたクイントが、意想外な話を切り出した。

 「“インディアナポリス”・・・日本の魚雷攻撃を食らった。広島用の原爆を、密かに届けた帰りだ。1100名が海に投げ出された。すぐイタチザメが来た。まずいことに極秘任務だった。SOSも打てん。次の朝、サメの群れが来た。我々も円陣を作った。サメが迫ると、全員で喚いて追っ払うわけだ。だが、逃げずにまっすぐ進んで来るサメもいる。サメの目には表情がない。ところが、食いつく瞬間、死んだような目が、ひっくり返って白くなる。そして、悲鳴が響き渡り、血の海だ。最初の朝だけで100人やられた。木曜の朝、ロビンソンの体にぶつかった。元プロ野球選手だ。眠ってるらしいから、揺り起した。波間でコマみたいに揺れていたからだ。だが、腰の下は食われていた。5日目に友軍機が来て、我々を発見してくれた。おかげで、3時間後に救援機が到着した。救助を待つ間が、最も怖かった。もう、救命胴衣は着ないぞ。1100名の将兵のうち、サメの餌食にならなかったのは316人だ」

 クイントの話を真剣に聞いていた二人は、人食い鮫との戦争に入れ揚げる男の心のルーツを知るに至った。

「救助を待つ間が、最も怖かった」

この言葉には、異様なリアリティがある。

バハマのイタチザメ(ウィキ)
 本作でも、「縄張り持ちの一匹狼」と誤認されたエピソードがあったが、世界中の温帯・熱帯海域に分布するイタチザメは、ホオジロザメ同様、サメの中で大型の部類に属し、どのような海洋生物をも捕食する食性も手伝ってか、その攻撃的な性格が人食い鮫として恐れられている。


  因みに、クイントのトラウマと化していた“インディアナポリス”の話は、「インディアナポリス号の悲劇」として、つとに有名であるが、このシーンは、自作の中で、第二次世界大戦に言及することが多いスピルバーグ監督らしい挿入でもある。

 クイントの言葉通りに、極秘任務でテニアン島(原爆投下作戦の発進基地になったサイパン島南部の島)へ原子爆弾を運んだ直後、米海軍巡洋艦・インディアナポリス号は、フィリピン海で日本海軍の「伊号第五八潜水艦」の魚雷により撃沈された。

 乗員約1200名のうち、救助が完了するまでの5日間に、体温低下によって多数の乗組員が死亡したという由々しき事件である。

 その中には、イタチザメの犠牲者になった者もいたが、実際は、体力的限界が決定的な死因とされている。

 いずれにせよ、生存者が僅か316名であったというクイントの説明は、紛れもない事実である。
 原子爆弾の投下の1週間前、1945年7月30日のことだった。


 物語に戻す。

左からクィント、フーパーブロディ
 その後、3人が酔って歌っているとき、恰も忍び込むように樽が近づいて来て、「オーガ号」に向かって攻撃が開かれていく。

 過去の失敗経験から学習するホオジロザメの能力の高さは、近年の研究で判明しているが故に、「オーガ号」への攻撃も周到であるように見えるのだ。

 そんな「得体の知れないモンスター」の破壊力の威力を見せつけられた3人は、想像以上の「戦争」の困難さに逡巡するが、クィントだけは士気が衰える気配がない。

 それでも船底は破られ、海水が止め処なく浸水してきて、さすがのクィントも、防戦一方の「戦争」に為す術がなかった。

 そのシビアな状況下で、フーパーは鉄製の檻を海中に投下し、そこに自ら入って、「得体の知れないモンスター」に毒を打ち込むという作戦を実行する。

 この檻は、「オーガ号」に乗り込むときに用意され、学術的知識に裏付けられた、海洋学者らしい合理的な戦法だが、しかし、現在でも観察用に使用されているこの戦法が有効なのは、鉄製の檻がフーパーの安全を保証するという絶対条件を不可避とする。

 残念ながら、モンスターの破壊力は、海洋学者の合理的な戦法を呆気なく砕いてしまうのだ。

 だから、「得体の知れないモンスター」なのである。

 鉄製の檻が砕かれて、ホオジロザメの支配下にある海中に投げ出されたフーパーの命は、もはや風前の灯だった。

 一方、海上では、「オーガ号」に体当たりしてくるモンスターの餌食になることなく、必死に格闘しているクィントとブロディ。

 
クィントの最期
しかし、モンスターの破壊的攻撃力は、半壊し切った  「オーガ号」の崩れの中で、ほんの僅かな攻撃限界点(攻撃優勢の頂点)を身体表現しただけの男たちを、その絶体絶命の際(きわ)にまで追い込んでいて、「戦争」の帰趨は瞭然たる現実を露わにしていた。

 最も好戦的なばかりに、「鮫ハンター」のプロとしての冷静さを欠くクィントが、モンスターの餌食になったのは、殆ど必然的な悲劇と言ってよかった。

 イタチザメの執拗な攻撃から生還し得たクィントの幸運は、獲物と定めた人間を特定的に狙って来るモンスターの攻撃の前で、呆気なく粉砕されてしまったのである。

 ただ一人残ったブロディには、己が命の死守という防衛的意識が強かった分だけ、「戦争」の偶然による僥倖が彼に天恵を与えてくれたが、その防衛的意識が、「得体の知れないモンスター」に対する攻撃的意志に瞬時に変換されたことで、彼は初めて、この苛烈な「戦争」の主体として立ち上げることが可能になった。

 酸素ボンベをモンスターに咥(くわ)えさせた状態で、崩壊し切った「オーガ号」のマストに登り、そこから専門分野であるライフルを手に、ボンベに狙いを定めて撃ち抜くのだ。

 この決死の射撃によって、壮絶な爆発音と共に、多くの人間の肉塊を格好の餌にしてきたモンスターが自爆していったのである。

 海底に沈んでいったフーパーは、「戦争」の終焉の静寂に合わせるように、洋上に姿を現わした。

ホオジロザメ(ウィキ)
 「ニュージャージーサメ襲撃事件」(1916年にアメリカで起こった事件)を題材に小説化したピーター・ベンチリーの原作と、そこだけは違って、フーパーは生還するに至ったのである。

 跡形もなく破壊された「オーガ号」の中で、皮肉にも鮫狩りのために用意された樽に命を預け、そこに掴まって、泳ぎ出すブロディとフーパー。

如何にも、ハリウッドらしいラストシーンの構図である。



 3  「得体の知れないモンスター」への攻撃的意志による自己投入の奇跡の逆転譚



 本作の人物造形の中で興味深いのは、ロイ・シャイダー演じるブロディと、ロバート・ショウ演じるクイントの対比性である。

 警察署長としての責任感が強くとも、アミティ市長への提言が無視され、途方に暮れるような押し出しの弱さを露呈しつつも、鮫退治に出ていく行為には、職業意識の使命感が垣間見える。

 思えば、幼少時の水難事故のトラウマから水恐怖症を抱えているブロディは、旦那思いの妻に、「酔い止め」、「鼻や皮膚の薬」の携帯をチェックしてもらった上で、人食い鮫との「戦争」に向かった男である。

 何より、水恐怖症という「抵抗虚弱点」(最も脆弱な部分)を認知している男が、海洋に自己投入する職業意識の使命感は、人間としての誠実さの証明でもあった。

 そんな男が、モンスターとの「戦争」を通して、確実に変容していく。

 当初は救命胴衣を着ていて、異常事態の前触れで、他の二人が機敏に動いていても、「オーガ号」の船内を右往左往するばかりだった。

 モンスターとの「戦争」が開かれるや、早々と直接対決を断念し、通信機で沿岸警備隊に救援を要請しようとするのだ。

左からクィント、ブロディ、フーパー
 彼にとって、モンスターとの「戦争」の主役は、どこまでも、「鮫ハンター」のプロであるクィント以外ではなかったのである。

 しかし、その「戦争」の主役の無残な死を目の当たりにして、ブロディには、もう逸早く逃げ込めるシェルターの存在を持ち得なかった。

 既に、海洋学者とも思えない大胆な作戦を遂行するフーパーも、クィント同様にモンスターの犠牲になっていると考えていたであろう。

 万事休すだった。

 獰猛なるモンスターの破壊的攻撃力は、いよいよ、最大出力のパワー全開の状態で向って来る。

 モンスターの獲物が特定できていたからである。

 獲物として特定されたのは、逃げ込めるシェルターの存在を喪ってしまった、水恐怖症のトラウマを抱えるブロディ以外ではないのだ。

 ここまで来たら、開き直るしかなかった。

 「オーガ号」のマストに登ったブロディには、もう、一か八かの攻撃に懸けるしかない。

 ほんの僅かな攻撃限界点が、開き直った男を決定的に変容させていく。

 その、ほんの僅かな攻撃限界点が奇跡的な炸裂を噴き上げたとき、追い詰められしブロディの「戦争」は終焉した。

 
激突」より
思えば、追い詰められしブロディの奇跡的な炸裂の成就は、大型タンクローリーが崖から転落していく、テレビ映画用に製作された「激突」(1971年製作)のように、開き直った主人公のドライバーの激発的変容の物語に酷似している。

 逃げ込めるシェルターもなく、じりじりと追い詰められた末に、果敢に、「得体の知れないモンスター」を誘い込んで「恐怖突入」していくドライバーにとって、激突寸前に、車内から飛び降りるというハイリスクを冒した男の、それ以外にない覚悟の決断だった。

 それは、「追い詰めるモンスター」と「追い詰められし逃走者」という構図を反転させていくという、ハリウッドお得意の「予定調和の奇跡の逆転譚」へのシフトだったが、「Duel」という原題にあるように、「状況脱出」という選択肢を塞がれた男にとって、「決闘」=「戦争」の決意以外の行動選択を持ち得なくなったとき、内側から突沸(とつぷつ)した感情が、理不尽な状況に対する憤怒を噴き上げて、攻撃的意志のスイッチが入るに至ったのである。

 「恐怖突入」していくドライバーの心理は、「得体の知れないモンスター」に対する憎悪の感情が恐怖を突き抜けた瞬間だった。

 生還する確率など考える余地がなかったことが幸いして、ブロディもまた、「得体の知れないモンスター」に対する攻撃的意志のスイッチが瞬時に入るや、「戦争」への自己投入を具現するに至った。

 攻撃的意志のスイッチが瞬時に入ったとき、水恐怖症という「抵抗虚弱点」を持つ男は、フラッシュバックの激甚な急襲もなく、恐怖を封印し、最大の難局を乗り切ったのである。

 
マストに登ったブロディの「戦争」
生還の蓋然性が低く、自己防衛戦略の一分の可能性が断たれてしまったら、瞬時に発動する「恐怖突入」によって、人間は「何者か」に化ける可能性があるというところだが、そこは映画的に解釈し、受容すべきだろう。


 では、そんな男と対比的に描かれていたクイントの場合は、果たしてどうだったのか。


  最も個性豊かなクイントの人物造形は、物語を引っ張る推進力になっていて、この男なしに成立しない映画であると言っていい。

 このクイントのエピソードの中で、深く印象づけられるシーンは、沿岸警備隊への救援要請の唯一の手立てであった通信機を、バットで叩き壊す行為である。

 そこには、紛れもなく狂気がある。

 この狂気が、「鮫ハンター」という、男の過剰な人生の骨格を成している。

 本人は「金目当て」と言いながらも、一切は、インディアナポリス号で被弾したトラウマに起因する。

 
インディアナポリスの生存者(ウィキ)
本来的に気が強い男が、「インディアナポリス号の悲劇」による恐怖感を憎悪に変換していくことによってしか、トラウマの克服を開く方略がなかったのだろう。

 だから、男は「海の男」になって、「鮫ハンター」の人生を駆け抜けていく。

「鮫ハンター」の人生を駆け抜けていく男にとって、どこまでも、終わりの見えない「戦争」が無限に延長されていく。

 恐怖感を憎悪に変換していけば、憎悪の稜線だけが伸ばされていくのだ。

 伸ばされていく一方の憎悪の稜線が、「得体の知れないモンスター」と遭遇したことは、「鮫ハンター」の人生を駆け抜けていく男にとって、何にも増して幸運だったのである。

 だから、この「戦争」は過剰になる。

 過剰になるから、冷静さを欠ける。

 冷静さを欠けるほどの負荷を自らにかけて、嬉々として、男は「戦争」に突入する。

 それは、終わりの見えない男の「戦争」を、自己完結させる遭遇だったと言えるかも知れない。

 それ故なのか、男は沿岸警備隊への通信機をバットで叩き壊した。

 退路を断って臨む男の「戦争」は、「殺るか殺られるか」という、断崖を背にした「戦争」以外ではなかったのである。

 その結果、殺られた男の「戦争」の結末は、憎悪の稜線だけが伸ばされていくだけの男の人生の終焉を意味したが、それは覚悟の上であっただろう。

「鮫ハンター」の人生を駆け抜けていった男・クイント
 男には、そういう人生しか生きられなかったのだ。
 
 私は、そう理解している。

 一方、鉄製の檻に自ら入り込んで、モンスターに毒を撃ち込むという合理的な戦術を選択し、呆気なく砕かれたたフーパーの場合はどうだったのか。

 海底に姿を隠すことで奇跡の生還を遂げたのは、如何にも、ハリウッドムービーの「予定調和の奇跡の逆転譚」をトレースするものだが、常識的には、フーパーの場合、「アウト」の職業的殉難者で終わったケースである。

 結果的に、フーパーは何も為し得なかったのだ。

 寧ろ、この映画で興味深いのは、海洋学のプロである若き学者・フーパーに何もさせなかったという点にある。

 正確に言えば、彼は何もしなかった訳ではない。

「オーガ号」の船内で、文句言いながらもクイントに協力し、それなりに貴重な戦力となっていた。

 その意味では、殆ど戦力にならなかったブロディと比較すれば、フーパーの役割は、この一世一代の「戦争」の中で、軽視し難い戦力になっていたと言えるだろう。

 且つ、彼は学者に似合わず、極めて勇敢な男でもあった。

 しかし、学術的知識に基づいて練られた彼の作戦は、予想を越えるモンスターの破壊力の前で全く為す術がなかった。

 体調8メートルで3トンもあるという、「得体の知れないモンスター」に対する学習的情報に決定的なズレが生じたことで、彼の作戦は自壊してしまったのである。

フーパー
 フーパーの思考には、モンスターに酸素ボンベを咥えさせ、それをライフルで狙い打つという、確率の低い作戦など選択する余地などなかったのだ。

 ところが、人間が考える合理的な戦法を遥かに超えるモンスターの出現は、「鮫ハンター」であるクイントどころか、海洋学のプロであるフーパーの思惑をも突き抜けてしまったとき、もう、この「戦争」の帰趨は約束されてしまったのである。

「洋上の戦い」に最も相応しくない男の開き直りが、この苛烈な「戦争」に最終的な決着をつけたという括りは、本作をエンタメムービーの極上のファンタジーとして受容すれば、存分なアイロニーが詰まっていて、蓋(けだ)し興味深かった。

 それにしても、スピルバーグ監督の初期の作品は、掛け値なしに素晴らしい。


【拙稿・人生論的映画評論·続・「激突」から一部引用】

(2014年4月)


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