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2014年10月20日月曜日

ブロークン・フラワーズ(‘05)     ジム・ジャームッシュ


<鈍足の一歩を疾走に変換させた男の一瞬の煌めき>




 1  以心伝心で行動が噛み合う親和性の高さ



久し振りに観て大満足した、ジム・ジャームッシュ監督の演出が冴えまくった映画。

あまりに面白過ぎた「ストレンジャー・ザン・パラダイス」(1984年製作)のハードルが高過ぎたのか、それ以降の作品に、今一つ、消化不良の感が否めなかったが、この映画は、私のストライクゾーンにドンピシャに嵌った。


ジム・ジャームッシュ監督の本作を、うっかり観忘れていたことを悔いた次第である。


―― 以下、その大満足の映画の梗概と批評。

 何者かによって投函されたピンク色の手紙が、航空輸送を経て、アメリカ国内を郵送され、受け取り主の家まで届けられるオープニングシーンでの、擬人化された移動それ自身が、既に、本作のロードムービーのイメージをトレースしていて、いきなり笑いを堪え切れなかった。

 ジム・ジャームッシュ監督のオフビート全開のシーンは、ロードムービーに入っていく無表情の中年男のエピソードを描く冒頭のシークエンスで、「勝負の成否」が約束されたと言っていい。

コンピューター関連の仕事の成功で、毎日ジャージを着て、悠々閑々な日々を過ごす中年男・ドン・ジョンストン(以下、ドン)の無気力さに愛想が尽きたのか、同棲中の愛人・シェリーは自分の思いをダイレクトに吐露した。

「あなたって、そういう男。一生、変わらないわ。老いた女たらしとは、暮らしたくないのよ」
「何が望みだ?」とドン。
「あなたは?私は愛人のままなの?結婚する気はないのね」

ドンシェリー
そう言って、シェリーはドンの家を出て行った。

一瞬、止めようと呼びかけたが、諦めの気持ちの方が先行し、結局、愛人と別れる羽目になった。

その後も相変わらず、ジャージ姿のドンは、「ドン・ファン」のテレビを観て、そのまま、ソファに横になって寝てしまうのだ。

それは、殆ど表情を変えない男の、ごく普通の日常生活の一端だった。

その直後、隣人のエチオピア人・ウィンストンに呼ばれ、パソコンの操作を教えながらも、コンピューターに精通しているのに、自分はインターネットの世界に全く無関心。

どうやら特定他者との関心も希薄なところから、不特定他者との関心など、初めから起こりようがないだろう。

そんな男に突然出来した驚嘆すべき現象 ―― それは、ピンク色の封筒に入った手紙を受け取ったこと。

「あれから20年たった今、伝えておきたいの。あなたと別れてから、私は妊娠に気付いた。現実を受け入れ、子供を産んだわ。あなたの息子よ。私たちは終わったので、私一人で育てました。息子はもう19歳です。内気で秘密主義の子よ。あなたと違うわ。でも、感性は豊かです。数日前、急に旅立ちました。きっと、父を捜す旅でしょう。あなたの話はしていませんが、想像力の豊かな子です。もし、この住所が正しいなら、知らせておきたいの」

 タイプで打たれた、差出人の署名がない手紙を受け取ったドンは、特段の関心の素振りを見せないが、「当時の恋人のリストを作ってくれ」と言うウィンストンの要請を拒みながらも、せっせとリストを書き上げるドン。

 そんなドンの性格を見透かしているウィンストンのトラップに嵌っていく展開の可笑しさは、会話が噛み合っていなくても、以心伝心で行動が噛み合っていくという、二人の親和性の高さを明示するものだった。

 
ドンウィンストン
ドンもまた、ウィンストンの能動的な性格を知悉(ちしつ)しているから、会話が噛み合わなくても、行動の軟着点を初めから予約済みなのだ。

 お互いに、相手が何を考え、どのような行動に振れていくことかというイメージを予測できているから、単にその会話形式的なものであっても、何の問題もないのである。

 「服装はコンサバ系で、上品に決めろ。必ず花を持って行け。ピンクの花だ。息子の手がかりを探せ。写真でもいい」

 この無謀な旅の計画に拒絶反応を示すドンが、「もし留守中に、息子が訪ねて来たらどうする?」などと気にする可笑しさは、既に、ウィンストンの甘いトラップに対して、彼なりに乗り入れていく心理が、絶妙な「間」の会話の中で息づいているからである。

 以上の、ドンとウィンストンの遣り取りの面白さは絶品だった。



 2  「遥かなる過去への旅」のくすんだ彩り



 かくて、「旅には絶対出ない」と言い切った男の、「遥かなる過去への旅」が開かれた。

 ウィンストンの指示通り、ピンクのバラの花を手に持ち、スーツを着込んで、「過去の恋人」を訪ねて行く奇妙な旅である。

 一人目の女の名はローラ。

 いきなり、「ロリータ」と名乗るローラの闊達な娘が出て来るや、その直後には、全裸で携帯をかける挑発に驚嘆したドンは、そのまま帰ろうとした。

 帰宅して来たローラと20年ぶりの再会を果たしたのは、その時だった。

 「今は、娘のローと2人暮らし」

 
ドンローラ
レーサーだった亭主を、レーサー中の事故で喪ったのである。

 それをテレビ中継で観戦していたローラには、その空洞を埋める何ものもないトラウマを抱えながら、彼女なりに、母娘二人の生計を繋いでいるようだった。

 セックスに対するハードルが低いローラの、内深く封印しているかのような寂しさの世界にも自己投入できず、単に、ベッドを共にする関係を復活させただけの滞在でもあった。

 途轍もなく広いアメリカの旅は、飛行機、バス、レンタカーを使っての、長時間に及ぶ「遥かなる過去への旅」である。

 二人目の女の名はドーラ。

 「不意に現れるなんて変ね」

 このドーラの含意には、明らかに、ドンの訪問を迷惑がる心理が窺える。

ハイクラスな暮らしをしているドーラの亭主は、不動産業でバリバリの仕事をするやり手の印象を受けるが、ディナーの気まずさもあって、最後まで空気を濁らせていた。

 訪問の真意を伝えることができないドンのハンデが、すっかり生活風景を変えてしまった過去の恋人の〈現在性〉の前に弾かれるだけだった。
 
 子供のいない寂しさを抱えつつも、一見、仲睦まじいように見える夫婦の関係の前に、唐突に訪問した男が侵入する余地などないのだ。

 ウィンストンからの電話に、ホテルの部屋から答えるドン。

 「自分がどこで、何をしているのか分らない。もうウンザリだ。そっちに帰るよ。もうこれ以上、会いたくない。」

 
ドンカルメン
すっかり意気阻喪したドンだが、当然の如く、ウィンストンに説得され、その直後の映像は、「遥かなる過去への旅」を繋ぐ時間の中に入っていた。

 「動物伝達者」

邸の入り口のプレートに書かれたこの文字が、カルメン・マーコウスキー博士という名の、三人目の女である職業の肩書。

 ピンクのユリの花に換えたドンは、「動物との対話」をするというカルメンから、「ウィンストン」という名の愛犬の死を悲しむ話を聞かされたりして、肝心のドンには全く関心がなさそうだった。

 「私とあなたが話しても、お互いの心が読めない」

 カルメンの言葉であるが、「でも、動物の心は読める」と言うのだ。

 食事の誘いも断られて、まるで噛み合わない会話を繰り返すだけだった。

 何より、独り身のカルメンが子供を儲けている事実知らされても、年齢の計算が合わない娘ということで、ここでも目標の達成は叶わなかった。

カルメンに持って来たピンクのユリの花が、「忘れ物よ」と言われて送り返されたことに懲りたのか、今度は、摘んだ野草を手に持って、四人目のペニーの住む農家を訪問するドン。

 「何しに来たのさ?ハッピーエンドじゃなかったのよ。ヨリを戻す気はないわ」

 ペニーから、出会い頭に言われた言葉である。

 おまけに、子供がいるかどうか尋ねただけで、「クタバレ!」と叫ばれた挙句、周囲の短気な男たちに殴られる始末だった。

 
ドンペニー
顔面への殴打の一撃で気を失い、農家の敷地の一角で意識を取り戻したドンの顔面には、痛々しいまでの傷痕が残されていた。

悲哀を深めつつある物語は、ドンの顔面の傷痕のリアリティに象徴されるように、冒頭のオフビート・コメディの彩りから、限りなくくすんだ黒に近いシリアス系の彩りに変色していた。

そんなドンが、次に立ち寄った場所は「リバー・ビュー墓地」。

そこに眠っているのは、既に逝去したミシェル・ペペ。

 今や、物言わぬ彼女こそ、5人目の女性だった。

 花屋の若い女性に傷の手当てをしてもらったドンは、そこで買ったピンクの花束を墓前に添え、「やあ、ペペ」と柔和に語りかける。

 墓前の前の木にもたれて座り、深々と感傷に浸っていた。

 涙を流す中年男の悲哀を、ジム・ジャームッシュ監督は引き摺らない

 そこがいい。



 3  鈍足の一歩を疾走に変換させた男の一瞬の煌めき



 
 旅の帰路、偶然、空港で、ニット帽を被った一人の青年と目があったが、やり過ごしていくドン。

 自宅に戻り、今までもそうであったように、二本のラインの入った、いつものジャージを着て、ソファに横になっている。

 突然、覚醒する。

 いつものように、何の感懐もなくテレビを付け、そこで映し出されたアニメの文字に喚起された。

 「BOY」

 この文字を視認したドンは、テレビを消し、玄関に行くと、そこにピンクの封筒が届いていた。

 ウィンストンと会い、何の成果もなかった旅の現実を話し、ウィンストンへの恨み節を、小さく炸裂させるドン。

 「あんたの人生を生きてみろ」
 「だから、生きてきた。今も生きている」

 そう言って、ウィンストンに手書きのピンクの封筒を見せたが、散々の結果に終始し、「遥かなる過去への旅」を終えたばかりのドンの気持ちは、すっかり萎えていた。

 例の、ニット帽を被った青年を自宅から視認し、ドンの気持ちが動いたのは、そんな折だった。

 慌てて街路に出て、キョロキョロする青年に話しかけるドン。

 「空港で会ったろ」
 「さあな。そうかな?」と青年。
 「そうだ。ヒッチハイクか?」
 「そんなとこだ」
 「サンドイッチでも食うか?」
 「いらない」
 「私はゲイでも、警察でもない。奢りたいだけだ」
 「もらうよ」

  あっさりとした会話だった。

 店の外で食べると言って、外で待っていた青年にサンドイッチを奢るドン。

 
ドン青年
サンドイッチを食べる青年のバッグに、ピンクのリボンがついているのを目視したドンは、その青年が息子であることを確信する。

 「お袋が付けた。お守りだ。悪いな」

 そう言って、二本のラインの入った、似たようなジャージを着た二人がコーヒーを飲んでいる。

 「哲学と女に興味がある」という青年が、手持ち無沙汰なのか、眼の前のドンに質問する。

 「・・・それで・・・サンドイッチを奢る男として、哲学的な助言みたいなものはある?旅する男に対して・・・」

 ゆっくり「間」を置きながら、ドンは経験したばかりの自分の思いを正直に吐露する。

「過去は、もう終わってしまった未来は、まだこれからどうにでもなる だから、大事なのは・・・つまり… 現在だ

 再び、「間」を置きながら、ドンは一言添えた。

「今してやれるのは、これで精一杯だ」

 息子であることを確信する男の、正真正銘の真実の吐露である。

 「感謝してるよ。いい助言だ。ずっといい。オヤジ臭い説教よりも・・・」
 「それが、君の父親像か?」
 「苦手な話題だ・・・行くよ。本当に、ご馳走さん」

青年はそう言って、バッグを持って立ち上がった。

 「ちょっと待て」

振り返った青年に、ドンは最も聞きたいことをダイレクトに訊ねた。

「私を父親だと思ってるんだろ?」
 
中年男の意想外の物言いに、後ずさりする青年。
  
「イカレてるぜ」

そう言い捨てて、慌てるように走り去っていく青年。

全力疾走で追いかけるドン。

中年男の脆弱な脚力では追いつかず、去っていく青年を見詰めながら、道路に立ち尽くしている。

そこに、一台の車が通り過ぎる。

窓から顔を出した若い男が、ドンの顔を凝視しつつ、通り過ぎて行った。

ドンの顔によく似たその男もまた、ドンにそっくりなジャージを着ていたのだ。

街路に置き去りにされたドンの表情から、確信的に特定できたはずの「19歳の息子」のイメージが揺らいでしまったのか。

それとも、「19歳の息子」の存在それ自身が幻想でしかないのか。

全力疾走したドンの内側が、一気にクールダウンしていく。

かくて、ニット帽を被った青年との奇跡的な再会の偶然に象徴されるように、結局、最後まで何も分らない、「映画的な寓話」の世界の幕が下りていく。

しかしドンは、真剣に疾走した。

本気で息子を追ったのだ。

この「疾走」こそ、この映画の肝なのではないか。

それだけは、無気力にも見える、悠々閑々な日々を過ごしてきた中年男の、「非日常」の時間の渦中での、一瞬の煌(きら)めきだったのだ。

それまでの鈍足の一歩を、疾走に変換させた男の一瞬の煌めき。

これが、本作に対する私の中枢イメージである。

ジム・ジャームッシュ監督
「ドンの息子が誰であるか」というミステリーは、もう、その時間の渦中では、全く意味を成さないのである。



 4  毎日ジャージを着て、悠々閑々な日々を過ごす日常に戻っていく男の「生き方」



 最も合理的な行動を要求される経済行為ですら感情で動いていることを説いているのは、心理学と経済学を融合した行動経済学である。

 不合理な行動をするのが人間であるということ ―― この認知が私の把握の中枢にある。

 人間の感情が、大脳の基幹的な働きによって動く、その身体の密接な相互作用で成り立っているが故に、感情と思考は密接不可分に関係し合っている。

 言うまでもなく、感情で動くことのない人間は存在しない。

 一つの行動は、そのような感情の総和であるが、常にそれが、「感情の決定力」の強度によって動くから、その強度が行動選択の重要な尺度になるのは仕方がないとも言える。

 しかし、「感情の決定力」の強度が脆弱であるからと言って、その主体が行動選択を放棄したことにはならないのである。

 人間は不断に選択し、動いていく。

 人生は行動選択の連続なのである。

 仮に、行動を先延ばしたり、動いていく気配が見られなかったりしたとしても、その主体が行動選択を放棄したのではないのだ。

 その主体は、そのとき、「動かない」という選択をしたのである。

「感情の決定力」の強度が脆弱であるからと言って、その主体が「非決定」の「無為」な人生を送っていると決めつけるのは、あまりに傲慢過ぎる。

 「感情の決定力」の強度が脆弱な人生もまた、一つの「生き方」なのである。

 
  映画の主人公・ドンが、自分に愛想が尽きて女に逃げられた時、彼は、その女を、「強い感情」によって止めなかっただけのことである。

 彼は、そのとき、「女を止めなかった」という選択をしたのである。

 その選択もまた、一つの「判断」であり、それ以外にない一つの脆弱な感情系による「決定」なのである。

まかり間違っても、脆弱である感情傾向の様態を、「善悪」・「正不正」の尺度で短絡的にジャッジしてはならない。

 能動的にコミットメントをしない人生もまた、一つの「生き方」なのだ。

 特定他者に働きかける空白への不安を、特段に持ち得ない人生もある。

 「過去はもう終わってしまった 未来は、まだこれからどうにでもなる だから、大事なのはつまり… 現在だ」

 言わずもがな、これは、息子と信じるバックパッカーの青年から、「人生訓」を求められたときのドンの答え。

ドンにとって、これは継続的に「学習内化」された堅固な「人生訓」というより、単なる経験則の発露に過ぎない。

元より、定着志向の強い彼の移動の行程は、「遥かなる過去への旅」への拘泥意識を心理的推進力にしたわけではなく、ピンクの手紙に触発されて動いただけの、「非日常」の「特化された時間」に過ぎなかった。

彼は程々に、自分の〈現在性〉に適応し切っていて、昔、「ドン・ファン」だったというプレイボーイの面影の片鱗すらなく、相応に自分の「物語のサイズ」を繋いで生きていた。

「あんたの人生を生きてみろ」とウィンストンに言われても、「だから、生きてきた。今も生きている」と答えたドンの言葉が、自分の「物語のサイズ」を繋いで生きている彼の〈現在性〉を検証しているのである。

そこに、何の不都合があると言うのだろうか。

ウィンストンにしても、決して彼をバカにしていないことは、彼にパソコンの使い方を教えてもらっている風景を見れば自明である。

彼を「無気力」呼ばわりするほどに、私たちは、彼の人生の「軌跡」を知り得ないのである。

そんな男が、「今も生きている」という自己の「物語のサイズ」を、決定的に変容させていくモチーフなど最初から持ちようがなかった。

それ故に、「遥かなる過去への旅」で被弾した彼の現実は、肯定的に捉えるべく何ものもなかったのだ。

従って、彼の移動の行程が、「自分探しの旅」などという、内実の乏しい物語の把握のイメージとは無縁であったと考えた方がいい。

「大事なのは現在だ」という、気恥ずかしくなるようなベタなメッセージの中に、作り手の強い思いを読み取ることができないのである。

恐らく、この映画には、如何にも取って付けたような、観る者に物事の是非の判断を求める種類のメッセージは存在しない。

そう考えた方が無難である。

大体、如何ような映画からも作り手の直截(ちょくさい)なメッセージや、そこで構成された物語からカタルシスの返報を存分に得ようとする発想それ自身が、「予定調和」のハリウッドや、情感系満載の邦画に馴致した鑑賞者の「自己完結」型のルールになっているのではないか。

その意味においてのみ、本作は「反映画的」だし、「反物語的」でもある。

では、本作は何を描きたかったのか。

ナチュラル・ボーン・コメディアンとも言うべきビル・マーレイを、物語のヤマ場の決定的瞬間で本気にさせ、全力疾走させ、そして最後に、カオスの森に封じ込める。

 だから、ビル・マーレイの全力疾走は、「一瞬の煌めき」でしかなかった。

 そこに、本作の核心がある。

 それまでの鈍足の一歩を、疾走に変換させた男の一瞬の煌めき。

 「描写のリアリズム」を包括したオフビート感覚の映像に、これを焼き付けたかった。

 思い切り主観的だが、私はそう思う。

ウィンストンへの恨み節は頂けないが、「一瞬の煌めき」の渦中で本気で息子を追い、真剣に疾走した事実 ―― これだけが何より枢要だった。

「一瞬の煌めき」を通過したビル・マーレイは、それまでもそうであった世界に吸収されていくだろう。

毎日ジャージを着て、悠々閑々な日々を過ごす日常に戻っていくのだ。

それ以外の人格イメージを、この男からとうてい印象づけられないのである。

 それもまた、彼の「生き方」なのだ。


【余稿】  「言外の情趣」という「鑑賞利得」


観た後の「言外の情趣」(余情)が、私の脳裡にいつまでも張り付いていて、簡単に払拭しづらい何かがある。

この「言外の情趣」こそ、私が大切にする映画の「鑑賞利得」でもある。

ある意味で、「言外の情趣」こそが、私の映画鑑賞の全てであると言っていい。

何かねっとりとした、見えない糸が張り付いているような余情が脳裡から消えないということは、その映画が存分にカタルシスを保証してくれなかったことを意味する。

「予約された感動譚」のハッピーエンドの括りのうちに、カタルシスを観る者に存分に保証する作品の多くは、もう、それだけで浄化されてしまうから、鑑賞後、5分も経ったら忘れてしまう類の映画であるだろう。

既に、それで自己完結してしまうからである。

自己完結してしまった映画からは、何も開かれることはない。

何かどこかで、喉の奥に引っかかった小骨の如く、作品総体が残した余情が消えないからこそ、その映画から提示された主題を含む様々な思いが脳裡を巡らすのである。

だから、喉の奥に引っかかった小骨を取り出すために、もう一度、この映画を観ることになる。

 「ブロークン・フラワーズ」こそ、そんな映画だった。


(拙稿・人生論的映画評論・続: カティンの森」参照)


(2014年10月)




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