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2014年5月9日金曜日

ゼア・ウィル・ビー・ブラッド(‘07)     ポール・トーマス・アンダーソン


「絶対個人主義」というルールで駆け抜けた孤高の男の、その収束点の陰翳感




 1  剥き出しの大地にへばり付き、穿っていく男の強烈なる個我の裸形の風景



 風荒(すさ)ぶ荒野の一角で、一人の男が鶴嘴(つるはし)を振るっている。

夜になり、男は野営する。

 その直後の映像は、小さな暗い穴の立坑で、右手に槌(つち)、左手に鑿(のみ)を駆使して、金鉱を掘削しているカット。

 炎天下に出て来て、自ら仕掛けた発破(はっぱ)が、穴の中に残した鉱具をロープで引き上げる前に爆発してしまった。

再び、暗い穴の中

自ら作った梯子を降り始めたとき、梯子が折れて、そのまま落下してしまった。

爆発による炸裂で、階段の劣化が激しくなっていたのである。

背中を強打して、暗い穴の底で激痛に悶えていた。

そんな凄惨な状況下で、骨折した左足を引き摺りながら、一人で懸命に移動する。

ダニエル・プレインビュー
「やったぞ」

男は一塊りの金の原石を掴んで、再び、炎天下の地上に出て来た。

思うように動かない体を、仰向けの姿勢で這っていくのだ。

男の心の風景を表現するように、BGMの無機質な機械音が異様に響き渡り、提示されたインパクトの強い画像を追い駆けていく。

荒涼とした大地を這っていった男は、金の原石を町の鑑定所に持って行き、分析結果を待つ。

342ドル。

これが、男が手にした戦利品の全てだった。

男の名は、ダニエル・プレインビュー(以下、ダニエル)。

冷徹なカメラは一定の距離感を保持し、一貫して客観的に、ゴールドラッシュの時代の終焉下での男の仕事捕捉するだけだった。

この冒頭のシーンが、この映画のエッセンスを表現していると言っていい。

 そこで提示された画像から見えてきたもの ―― それは、自力で作った男の仕事場で、命を懸けて仕事に打ち込み、その報酬を手に入れたという現実である。

一攫千金を求め、その原始的な達成動機を推進力にして、剥き出しの大地にへばり付き、穿っていく男の強烈なる個我の裸形の風景。

それが冒頭のシーンで、観る者に鮮烈に印象づけるイメージだった。

野営するダニエル
何より、たった一人で、命を懸けてまで遂行する男の生きざまが、この映画を貫流しているのだ。

場所はニューメキシコ州。

1898年のことである。



2  “石油屋”の複雑な心の風景の裸形の騒ぎ方 ―― 梗概①



ニューメキシコ州での金鉱掘削から時を経て、カリフォルニアの荒涼とした大地で、ダニエルは石油の採掘に全人格を懸けていた。

 劣悪な環境下での採掘仲間の事故死によって、ダニエルは仲間の乳児を引き取り、「子連れの石油屋」として、全幅の信頼を寄せるフレッチャーと共に、有力な油脈を求めて彷徨していた。

ダニエルとHW(乳児
乳児の名はHW

1902年のことだった。

それから9年後の1911年。

 ダニエルが、サンデー牧場の石油を知ったのは、サンデー家のポール青年の訪問を受け、有力な情報を得たからだった。

 穀物栽培すら困難な不毛の土地であるが、莫大な油脈があると断言するポールの言葉を信じ、なお半信半疑ながらも、早速、ダニエルは、サンデー家の牧場の所在地・リトル・ボストンに向かった。

 牧場で山羊を飼う、貧しいサンデー家の父と、ポールの双子の兄イーライと交渉したダニエルは、採掘権を買うに至った。

その間、今や、少年期に入ったHWは、父のダニエルから、自立的で、充分な養育を繋いでいて、野営のための狩猟をし、ウズラを獲るほどの貴重な戦力となっていた。

採掘権を買うや、油脈の存在を確信したダニエルは事業の仲間をリトル・ボストンに集合させ、本格的に試掘の準備を整えていく。

油井の建造を進める一方、リトル・ボストンの村民の土地を次々に買収するが、入植法で土地を得て、孫と暮らすバンディだけが買収に応じなかった。

 
集会所に集まった村民たち
村の集会所に集まった村民たちを前に、自分を“山師”ではなく、“石油屋”であることを繰り返し強調する、ダニエルのスピーチが狭いスポットに響き渡る。

 「井戸を掘りましょう。井戸によって灌漑し、栽培できます。不可能だった作物を育てるのです。多くの穀物が手に入り、有り余るパンとなります。新しい道路、農業、雇用、教育。これらは、ごく一部です。保証します。もし、石油を見つけたら。きっと見つかるはずです。皆さんの町は生き残り、豊かに繁栄するのです」

これを、“山師”の籠絡と決めつけてしまうのは穿った見方と言えるだろう。

自分の仕事に誇りを持つダニエルは、石油の採掘に成就すれば、町の再生が可能であると本気で考えているのだ。

更に、イーライの質問に答えて、教会への5000 ドルの寄付を約束するダニエル。

福音派伝道師(牧師)としてのイーライが主催する、聖霊派系の「第三の啓示教会」の拠点になっている小さな教会で、「悪魔払い」のような儀式を見せつけられ、「すごいショーだった」と、イーライに向かって揶揄するダニエル。

 頑固なまでに無神論者のダニエルの観念系の世界は、「資本の論理」で動く男には邪魔なだけなのだろう。

その構図において、自分の力のみを信じ、命を懸けて仕事に打ち込み、その報酬を手に入れていくという、冒頭のシーンで提示された映像を想起すれば、一切の宗教を信じない男と、汗水流して労働せずに、「悪魔払い」のような、カルト紛いの信仰によって村人たちとのコミュニティを形成する若者との決定的な乖離が顕在化していた。

アメリカには、この頃、「聖霊のバプテスマ」を受けた結果、忘我状態に陥ってしまう信者が頻発した、「ペンテコステ教会」という名の、原始キリスト教的な布教運動を活発に展開する福音派系の集団が有名だが、「癒し」や「奇跡」を売り物にするイーライの観念系のみを切り取れば、その種のイメージを被せることも可能である。

油井やぐらの爆発炎上事故
一方、油井やぐらの建造を経て本格的な採掘が始動するが、ガスの噴出によって、油井やぐらが爆発炎上事故を起こしたことで、爆風に吹き飛ばされたHWの聴力が奪われる惨事が出来する。

この辺りから、物語の風景は人間ドラマの陰翳感を深めていく。

大袈裟に言えば、HWの被弾で、ダニエルには、脳血管性認知症に特異的な症状である「情動失禁」(情動のコントロール不全)にも似た行動傾向が見られるが、そこで貯留された憤怒が偽善的なイーライに向かって炸裂するのは不可避だった。

「いつ、金をくれる」

教会への寄付の約束を履行しないダニエルへ、イーライの要求が突きつけられた。

「癒し」や「奇跡」を売り物にして、「悩める者」を救うはずのイーライが、金銭の請求にのみ拘泥し、HWの容態に無頓着で、見舞いにも来ない態度を目の当たりにしたダニエルの憤怒が炸裂するのだ。

イーライの頬を繰り返し強打し、叩き伏せ、コントロールが不全化した情動を言葉に結ぶ。

「お前は治癒師で、精霊の”宿主”だろ?いつ、息子の耳を治しに来る?」

それでも、ダニエルの怒りは容易に収まらない。

泥水の上にイーライを叩き伏せたダニエルは、その顔に泥水をかけ、原油のような黒を塗りたくるのだ。

「お前を亡き者にしてやる。葬り去ってやる」

イーライの顔に泥水をかけるダニエル
ダニエルの暴行の心理的背景にあるのは、紛れもなく、聖霊の働き「奇跡」を具現するスポットであ、表面的には立派なだけの体裁を保持する教会に象徴される、イーライの偽善・欺瞞性に対する激しい怒りである。

イーライの顔に泥水をかけ、それを塗りたくる行為こそは、冒頭のシーンで象徴的に描かれたように、大地に塗れ、命を懸けて労働することに、一頭地を抜いて誇りを持つ男の情動が、「神」への信仰という名で、自分たちが住む痩せた土地を開墾することもなく、偽善的な言動を許容する地域コミュニティの精神風土に寄生する偽善者に対して、危険性の伴う仕事に挺身する者の生きざまを刷り込んでいくシンボライゼーションであった。

「神は愚か者は救わない」

凄い言葉である。

イーライの実父に対して、「悩める者」を救うはずのイーライが放った言葉である。

泥水で汚れた顔を拭うこともせず、その屈辱感を露わにしたイーライは、ダニエルに土地を売った父に、信じ難い言葉を吐き、「八つ裂きにしてやる!愚か者め!」とまで愚弄し、殴りかかっていくのだ。

ヘンリー
そのイーライの顔を原油の黒で染め抜いたダニエルは、腹違いの弟を名乗るヘンリーの唐突な訪問を受けていた。

このヘンリーの言葉から、ダニエルが父と長く不仲な状態が続いていて、ダニエルの性格に張り付く狂気が、この父との関係の中で形成されたことを窺わせる情報が明らかにされる。

そのことは、父の死の報告に特別な関心を示さなかったダニエルの反応で判然とする

「地質調査所の仕事をして、カンザスへ。家にはいられなかった。どうしても。詳しくは言いたくない」

ヘンリーに語った、ダニエルの過去に関わる唯一の情報だった。


 一方、聴力が回復せず、屈折していくHWは、ヘンリーのバッグから取り出した母の写真を見て、ヘンリーに猜疑心を持っていく。

HW抱擁するダニエル

今や、HWの行く末を案じ、煩悶するダニエル戦力にならないと考えたのか、HWに代わって、ヘンリーを随伴し、仕事に挺身する。

HW精神的な屈折の極点で出来した放火事件。

この許し難い行為を視認したダニエルは、即座に、HWを騙して、サンフランシスコの寄宿舎学校に封じ込めてしまうのだ

このような敵対的行為を絶対許さないのが、ダニエルという男の性格傾向の尖りであるが、その辺りの分析は後述する。

そんなダニエルの仕事に、正真正銘の「敵対者」が出現た。

ヘンリーを随伴して仕事一筋に邁進するダニエル「敵対者」は、1863年に、ジョン・ロック フェラーによって設立されたスタンダード・オイル社。

既にこの時点で、アメリカにおける石油精製能力の9割以上を保持していた、メジャーの石油会社である。

スタンダード・オイルの第1製油所・1899年(ウィキ)
そのスタンダード・オイル社からの、100万ドルの土地買収案を拒絶したダニエルにとって、今や、ユニオン・オイル社との契約という選択肢しかなかった。

更に、海に通じるパイプラインの敷設のためには、土地の買収に乗らないバンディを説得する方略を成功裏に進めること。

この障壁を突破することが、スタンダード・オイル社との「戦争」の完璧な勝利を約束するのだ。



 そんな苦境下で惹起した事件 ―― それは、半疑半信ながらも相棒にしていたヘンリーが、既に病死していたダニエルの実の弟を騙った男である事実を知って、ヘンリーを射殺し、葬った忌まわしき出来事だった。

ヘンリーを射殺し、葬った直後、弟の日記を読みながら、そこに挟んである一枚の写真がダニエルの視界に入った。

「僕の兄」

 日記に書かれていた文字を読み、感情が一気に溢れ返って、慟哭するダニエル。


それは、人に言えない過去を持ち、それをなお封印しているダニエルの情動が、言語に絶する悲哀に包まれて、激しいエクスプロージョンを惹起した瞬間だった。



3  このような男なら、このような人生の振れ具合を見せると思わせる、その人生の断面を完璧に描き切った映画の括り ―― 梗概②



「もっと、早く来いといったはずだ。地上げの前に」

最後まで買収に応じなかったバンディが、ダニエルに放った言葉である。

「20センチのパイプを、同意のもとで埋めたい」

あれほど協力的でなかったバンディが、パイプライン敷設のために土地買収に同意したのである。

「第三の啓示教会」で洗礼を受けること。

これが、信仰に熱心なバンディが、ダニエルに突き付けた条件である。

「第三の啓示教会」の信徒になることを拒むダニエルは、金銭で解決することを提案するが、頑固なバンディは譲らない。

「犯した罪を許してもらうのだ」

バンディの言葉だが、その背景に、かつてダニエルに愚弄され、屈辱を受けたばかりか暴行されたイーライの存在があることは自明だった。

ダニエルは今、イーライの「第三の啓示教会」で洗礼を受ける決意を固めた。

全ては、海まで繋ぐ石油パイプライン敷設のためである。

 
イーライの「第三の啓示教会」で洗礼の儀式という名の「精神的虐待」
その日がやってきた。 

 「ダニエル、あなたは罪人か?」とイーライ。
 「はい」とダニエル。
 「神の耳には届いていない。神に言うのです。もっと、はっきりと。跪(ひざまづ)いて祈るのです」

教会の信徒たちが見ている前で、イーライの言う通りに従うダニエル。

 「ダニエル、あなたは我々に富をもたらした。だが、悪の常習者として悪習も持ちこんだ。女に欲望を抱き、子供を見捨てた。その手で育てた子を見捨てたのだ。病気の子を捨て、罪を犯した。言うがいい。“私は罪人だ”」

 「私は罪人」とダニエル。
 「もっと大きく!“私は罪人”」とイーライ。

 言われた通りに、声を大にして、「子供を見捨てた」と復唱し、「罪」を悔いる言葉を放つダニエル。 
 
 「私は我が子を見捨てた!」

 もう、怒りを突き抜けて、絶叫になっていた。

 かつて、平手打ちを加えられた男によって、今、その復讐の平手打ちを加えられるのだ。

 最も屈辱的な報復行為に被弾しているように見えるダニエルだが、悔しさを抑えつつも、「パイプライン」という言葉を発する割り切りがある辺りが、この男の真骨頂である。

単に、一時(いっとき)の時間を耐えれば、万事OKなのだ。

思うに、イーライの報復行為は、洗礼の儀式という名の「精神的虐待」だった。

しかしこの「精神的虐待」は、徹底したプラグマチズムで精神武装しているとも評価し得るダニエルには、全く通用しない。

中枢の魂を売り渡した訳ではないからだ。

そのように思考を巧みに使い分けることで、充分に守られる彼の堅固な自我の要塞には、自らのルールで生きる男の意志が貫徹されているのだ。

それ故、そこに敗北感を拾えない。

この一件で、口先だけで生きる脆弱な若者に対する、報復の意志が強化されていくだろうが、だからと言って、執拗に追い回してリベンジするに足る価値ある男と見ていないことだけは確かである。

誇りの高きダニエルの人格像の強靭な風景だけは、一貫して変わらないのである。

 いよいよ、石油を海に運ぶパイプラインの敷設工事が開かれて、「石油屋」としての順風満帆な日々が流れていく。

油井のもたらす利益が、貧困の町を活況にし、風景を一変させたのだ。

「石油屋」として切ったダニエルの大見得は、約束の遂行によって完結されていったのである。

 ダニエルの影響力が、貧困の町で呼吸を繋ぐ人々の心を捉えたのと軌を一にするように、ダニエルへの報復を果たしたイーライは、満足げに伝道の旅に出て行った。

そして、サンフランシスコの寄宿舎学校からのHWの帰還。

そのHWのために、手話の教育者を世話して、父子の会話を具現せんとするダニエル。

メアリーを可愛がるダニエル
いつしか、イーライの妹・メアリーと共に手話を学ぶHWエピソードが、そこだけは抒情的なBGMの中で柔和な映像が添えられていく。

1927年。

青春期に達して、メアリーとHWが結婚する展開の軟着点は、殆ど必然的な結果だった。

 手話の会話の中の感銘深い結婚式と相俟って、今や、苛酷な労働から解放されたダニエルは、執事が持って来る小切手に署名するだけの日々を繋いでいた。
 
宏壮な邸宅を構えて、蒐集した高価なグラスの山を的に、まるで射的ゲームのように、ライフルで破砕する豪奢な暮らしを愉悦していた。

 手話の教師を従えて、HWが父を訪ねて来たのは、ダニエルがそんな生活風景を露わにしているときだった。

 訪問早々の父子の会話から、執事と住む宏壮な邸宅に父を訪ねることなく、HWが父に知らせず、移動の不分明な期間を過ごしていた事実が判然とするが、恐らく、メアリーと共に父親の元を離れてメキシコに行くと言うHWの話から、父の仕事のパートナーを継続してきた過程で意見の相違が際立つことで、油井の仕事に関わる「新たな旅立ち」を決意し、その下準備のためにメキシコに行っていたのだろう。

 
ダニエル(左)とHW(右)
以下、その直後の父子の会話。

 「お前の会社だと?」
 「そうだ」
 「メキシコ?」
 「そう」
 「とんだ過ちを犯している。なぜ、こんな真似をする?」
 「僕達の意見の違いが沢山ある。父さんはパートナーでなく、父親でいて欲しい」
 「お前の口から言ってみろ!」

 そう言われて、迷いながらも、通訳を介した手話ではなく、毅然と自分の声で言い切ったのである。

 「妻とメキシコへ行く。父さんから離れて」

 ここまで言われた父・ダニエルは、憤怒を隠し切れず、単当直入に吐き出していく。

「我々の絆を断ち切るのか。お前は、私の中の“息子”を殺した」
 「父さんは頑固だ。聞こうとしない」
 
「お前は息子ではない」
「お前は息子ではない」
 「そんなこと言うな。本心じゃないだろ」
 「事実だ。お前は私の息子などではない。お前は孤児だった。この数年間、お前は私への憎しみを築き上げた。お前が分らん。血の繋がりもない。赤の他人の子だ。お前の怒り、そして悪意。私に対する邪心に満ちた態度。お前は籠ごと、砂漠に置かれた孤児だった。土地を買うための“小道具”として、お前を育てた。私の血など引いとらん。籠に入ったろくでなし」
 「あなたの血を引いてなくて、神に感謝する」

 永遠に袂別する覚悟を決めて、通訳と共に、そのまま帰っていくHW

 求めても得られない、寄る辺無き関係状況。

 これが、孤独についての私の定義である。

 絶望的なまでの、この孤独の瞑闇(めいあん)の世界に補足された男に、もう、立ち直るパワーなど拾えない。

以前より増して、アルコールに溺れる男は、だだっ広いだけの宏壮な邸宅の一角に備えた、「贅沢」の象徴として仮構されたと思える、ボーリング場のレーンの上で酔い潰れ、寝転がっていた。

そこに来客があった。

ダニエルを訪問するイーライ
イーライである。

「家が火事だ!」

酔い潰れたダニエルを、大声で怒鳴っても、鼾(いびき)をかいて起きる気配がない。

「イーライだ」

静かに放つその言葉に、ダニエルは意識を取り戻した。

この辺りの描写は素晴らしい。

「家が火事だ!」と怒鳴られても起きなかったダニエルが、「イーライ」という言葉にだけは反応したのである。

「神のために旅をした」

相変わらず、こんな物言いでお茶を濁すイーライの訪問の目的は、投資に失敗して、それを補填するために経済的支援を受けることだった。

 その魂胆を見透かしているダニエルは、イーライの話を聞く姿勢を見せていた。

「バンディ家の土地の契約のことで、『第3の啓示教会』が間に立って、彼と話をつけて欲しいと思うかい?リトル・ボストンの手つかずの土地を掘るチャンスだぞ」

このイーライの話に、ダニエルは心にない反応をする。

「君と仕事がしたい」
「本当?嬉しいよ。実に素晴らしい」
「だが、一つ条件がある」
「いいとも」
「“偽預言者だ”と言うんだ」
「“偽預言者だ”と言うんだ。言って欲しい。お前は今も昔も偽預言者だと。神は迷信に過ぎないと」

当然の如く、ダニエルは、「第3の啓示教会」での屈辱的洗礼を忘れていなかった。

「でも、それは嘘だ。嘘は口にできない・・・・契約時に10万ドルの上積みと、約束の5000ドルとその利子をもらう」
「妥当だな」

この言葉を聞いて安堵したのか、イーライはダニエルが提示した条件に従うのだ。

「僕は偽預言者で、神は迷信に過ぎない。あなたが、そう信じるなら言おう」
「本気で言うんだ。教会での説教のように言え」

繰り返し、大声で言わせられるイーライ。


 その直後、バンディ家の土地はもう掘ったとダニエルに告げられ、絶望の淵に落とされ、嗚咽の中で経済的支援を求めるが、ダニエルにきっぱりと言われる。

「お前は神に選ばれなかった」

ポールの方が預言者で、今は事業で成功していることなど、散々、愚弄し、甚振(いたぶ)った後、ダニエルは、「偽預言者」に対する積年の憤怒を炸裂させる。

イーライにボウリングのピンを投げつけた後、そのピンで撲殺してしまうのである。

「終わった」

騒ぎを聞きつけ、階段を下りて来た執事に、ダニエルが漏らした一言である。

ここで閉じていく物語を見入って、このような男なら、このような人生の振れ具合を見せると思わせる、その人生の断面を完璧に描き切った映画の括りに、言葉を失うほどだった。

以下、本作の評論に入っていきたい。



4  掘って、掘って、掘り捲って、遂に、自分自身の中枢まで掘り尽くした男の物語



掘って、掘って、掘り捲って、遂に、自分自身の中枢まで掘り尽くした男の物語。

なぜ、そうなったのか。

男の能力が、自分の欲望を具現する能力の高さに十全に届いていたからである。

自分の欲望の具現に集合する感情の強靭さが、希有なほどの堅固な継続力を保証するが故に、男の内面の達成動機には微塵のブレがない。

達成動機とは、目標を成し遂げたいという動機のこと。

男の達成動機の強靭さが、男の人格総体を支え切っているのだ。

そして、達成動機の強靭さによって、男富と権力を手に入れていく。

このようなタイプの男が概してそうであるように、達成が麻薬となって自己膨張していくのである

と言うより、人間にとって、いつでも達成は麻薬なのだ。

ここで、私は勘考する。

私が思うに、快楽には、「達成の快楽」と「プロセスの快楽」がある。

 「プロセスの快楽」は、欲望の達成に至っても至らなくても、そこに至るまでの過程を楽しむことができる快楽である。

ある目的を実現するプロセスの中で、人はしばしばゴールラインの遥か手前に佇んで、陶然としたひと時を愉悦することがある。

「文化」という名の余剰の時間と遊んで以来、私たちは、そのような佇みの価値を自立化させて、そこからたっぷり蜜を舐め、時には、そこで自らの時間のうちに上手に自己完結させることで、果てることさえ厭わない。

その快楽を、私は「プロセスの快楽」と呼んで、所謂、ゴールの快楽(「達成の快楽」)と分けている。

それは「想像の快楽」を伴走させることで、達成を目指した遥かな行程を、意識が自らを加工して独りで支え切ってしまうのだ。

 それは甘美な夢遊びのゲームともなって、時間の曲線的な航跡に絡みつく様々な凹凸を潤し、フラットな人生の記憶に彩りを添えるのである。

ただそれだけのことだが、気恥ずかしくも、添えられた彩りが物語のサイズを異化しない限り、ゲームは私たちを、私たちがそれでしかない存在し得ない場所に、迂回のコストを幾分乗せながらも、しかし確実に軟着陸させてくれるのだ。

 だから、「プロセスの快楽」で突き抜けられたら、人間の過剰な苦悩を幾らかでも削り取ることができるはずである。

然るに、この「プロセスの快楽」を一気に突き抜けて、「達成の快楽」にまで辿り着かないと落ち着けない感情を持ってしまうと、人間は必ず過剰になる。

達成は麻薬である(油井やぐら建造式で)
本作の主人公・ダニエルもまた、そうだった。

まして、彼は自己基準で動く傾向が極端に強く、自分と異なった他者の意見を聞く耳を全く持たない。

それを、自分の利益だけを追求する思考・発想としての利己主義という範疇で括れないのだ。

 ダニエルの場合は、その極端な生きざまから考えると、私は敢えて、詳細は後述するが、「絶対個人主義」という言葉の方が相応しいように思えるのだ。

 それほどまでに、ダニエルという男は、自分と異なった他者の意見を一切受容せず、「絶対個人主義」というイメージで把握し得る性格・行動傾向が強いのである。

これは、ダニエル自身が自ら吐露している。

ダニエルの弟と称する、腹違いのヘンリーとの短い会話が、物語の総体を支配する男の、その人格の芯に張り付く澱のようなものを開示して見せたのである。

最も重要なダニエルの吐露が、ここで吐き出されてくる。

「怒りを抱えているか?」とダニエル。
「何に対して?」とヘンリー。
「妬み深いか?」
「たぶん違う」
「私は競争心が強い。他人を成功させたくない。人を罵っている」
「競争心は消えた。働いても成功しない」
「兄弟なら同じ資質が。いつも私は、人を見ても好きになることがない。充分な金を稼ぎ、すべての人々から遠ざかりたい」

この会話は、ダニエルの人格像に肉薄する重要なシーンであると言っていい。

怒りこそが、ダニエル心理的推進力であった
怒りこそが、ダニエルという特異な男の感情傾向を、時には、狂気にまで膨張するような心理的推進力に変換されるという過剰な排他性と攻撃性。

「人を見ても好きになることがない。充分な金を稼ぎ、すべての人々から遠ざかりたい」

例外はあるが、これは本音である。

明瞭に、ダニエルの人格構造の偏った意向性を、自ら言い当てているのだ。

人間嫌い」というカテゴリーをも突き抜けて、自らの能力を信じ、寄り道することなく、目標に向かってまっしぐらに突き進んで行く熱量の凄みすら感じるほどである。

この人生は、存分な達成を経て、徹底的にやり尽くし、最後に敵対者への完膚なき破壊を遂げた男が、もう、やり残し、破壊し尽くす何ものもないほどに、全てをやり切った男の「予約された収束点」を連想させるほど、自分自身の中枢まで掘り尽くした男の自爆のイメージが炙り出されていくようなのだ。

存分な達成を手に入れても、達成という麻薬が「再燃性への準備」に憑依して、なお涸れない自給熱量を推進力にして、エンドレスな行程をひた走る厄介さが人間の業でもあるが、ダニエルは、「すべての人々から遠ざかりたい」ために充分な金を稼ごうと言うのである。

この男のこの言葉の凄みは、もう狂気ではなく、「大狂気」である。

「大狂気」とも言える、ダニエルの怒りに集合する過剰な排他性と攻撃性が炸裂するシーンがあった。

ラストシーンである。

イーライ撲殺
イーライ撲殺のラストシーンでの、この男の壊れ方を観て、鑑賞者の中には、「腐り切った資本家」の「爛れ切った人生」の末路を目の当たりにすることで、溜飲を下げる向きも少なからずいると思われるが、私の場合は些か違った。

前述したように、このような男なら、このような人生の振れ具合を見せると思わせる、その人生の極北のようなシーンを見せつけられて、一人の人間の人生の断面を完璧に描き切った映画に打ち震えるほどだった。

自称「民を救う宗教家」であるにも拘らず、自分が決定的な屈辱を与えた男の人物像の中枢を全く理解することなく、よりによって、その男の元に、金の無心をするために訪ねるという、その呆れるばかりの鈍感さは、「民を救う宗教家」という名の偽善・欺瞞性の極点でもあった。

このラストシーンでの「大狂気」の発露を観る限り、この映画のテーマの中心にあるのは、掘って、掘って、掘り捲って、遂に、自分自身の中枢まで掘り尽くした男の物語であると、私は考えている。

 過剰な達成によって仮構された風景には、常に、諸刃の剣と化して危うい光芒を放っているのである。

結局、「私は競争心が強い。他人を成功させたくない」という心情を吐露したように、「人を見ても好きになることがない」ダニエルは、自らの言葉をトレースして、充分な金を稼ぎ尽くした挙句、それ以上、求める何ものもない辺りにまで突き進んでいき、すべての人々から遠ざかるという、理想なる「異界」の場所に降下してしまったのである。

それは、これだけの偏頗(へんぱ)な自我を隠し込んで、「世俗世界」で呼吸を繋いでいけば、それ以外の人生の振れ方を体現し得ないと思わせる括りだった。

自分の支配下に踏み込んで来たイーライへの報復
自分の支配下から敵対的な印象を与えて離れていったり、自力で生きようとせずに人に依存したり、或いは、甘えるだけの他者の存在を認知しないが故に、「共有」、「援助」、「信頼」という、「世俗世界」で普通に繋がり得る一切のコードを断ち切ってしまう現象を必至にするのだ。



5 「絶対個人主義」というルールで駆け抜けた孤高の男の、その収束点の陰翳感



 この映画から政治的メッセージを読み取ることは充分に可能である。

 しかし私は、「暴力的資本主義」の象徴としてのダニエルと、「偽善的宗教」の象徴としてのイーライと言ったような政治的メッセージに拘泥しない。

確かに、背景となった時代状況が精緻に写し取られていたにしても、単に、「富によって人生が狂っていく」という、狭隘な視座で一蹴する類の暴力的資本主義、且つ、「偽善的宗教」への鉄槌をテーマの中枢に拾えないのだ。

幾らでも読解可能な政治的メッセージに拘泥すれば、長々と見せられたオープニンシーンに象徴される、肝心要のダニエルの人物造形へのアプローチが弱くなってしまうと思うからである。

イーライの報復
私は、イーライに特化された人物造形は、基本的に、ダニエルの生きざまを際立たせるための効果を狙ったものと考えている。

確かに、ダニエルとイーライには、共通すると思える性格傾向を見出すことが困難ではない。

 それを要約すれば、以下のように把握できるだろうか。
 
 即ち、自分の支配領域に他者が侵入し、その特定他者に対して敵対性を感受したら、その者を排除していくということ。

 単に排除していくだけなら、境界を策定して生きる人間なら、誰でもそれを身体表現すると言えるが、この二人の場合は、敵対的他者に対して排除する行為を突き抜けて、相手を平伏(ひれふ)し、屈辱を与え、征服感を手に入れるまで遂行しないと気が済まないのである。

 だから、この二人の折り合いの悪さが惹起したら、そこに緊張が生れる。

この緊張が沸騰し、物理的に最近接してしまったら、相手を心理的に葬る限界をも突き抜け、物理的に葬り去るところまでいく危うさを顕在化するだろう。

ラストシーン
これがラストシーンの根柢にある。

 ダニエルの場合を考えると、利害関係が絡むビジネスを除けば、自分から求めて人間関係を作ろうとする行為は一切ない。

 同性愛者というチープな解釈とは切れて書くが、彼は女を求めることもないのだ。

憎悪の対象人格だったイーライに対しても、相手が物理的に最近接しない限り、報復する行為に走らなった。

 自分の支配領域に他者が敵対的、或いは、欲得感情を隠し込んで侵入して来ない限り、その特定他者に対して加害行為に及ぶことはない。

基本的に人間嫌いので、敢えて、他者を求めることもないのである。

しかし、自分の支配領域に、自らが許容し得ないモチーフで侵入して来る他者に対しては、過剰なまでに攻撃的になる。

その筆頭がイーライだった。

 自分に屈辱を与えた過去の記憶を忘れてしまった、金目当てで現れという、ダニエルが最も軽侮する行為を厚顔にも見せつけられたら、ラストシーンの撲殺に流れていく暴走を止める術などあり得ないだろう。

 それが、ダニエルという男の生きざまなのだ。

 イーライばかりではない。

中央がダニエル、右がヘンリー
腹違いの弟と名乗る、ヘンリーに対しても容赦しなかった。

ダニエルには、どのように物静かな性格であっても、このような詐欺行為によって他人に完全依存し、安楽な消費をする生き方を絶対許容しない。

それもまた、命を張って生きてきた男の、誇りの欠片すら見えない者への鉄槌であるが、その怒りが殺害に至る辺りにダニエルの狂気を窺うことができる。

ダニエルが、如何にも、尤(もっと)もらしく騙る者の、その狡猾な侵入を許容しないのは自明だった。

ましてヘンリーは、ダニエルの弟の死を利用して、彼の支配領域に潜り込んで来た気の弱い小悪党なのだ。

「家族」という幻想に特別な情感を有するダニエルが、弟の死を利用する小悪党を射殺したのは、彼の生きざまの陰翳が内包する表現の、しごく普通の行為でしかなかったのである。

 更に、もっと悲哀な振れ方を見せたのは、息子・HWに対する攻撃的言辞。

以下、物語の父と子の関係の様態について言及したい。

物語を支配し切ったの情感濃度の振れ具合が、そこで確認できるからである。

「家族」という幻想を求めた男
元より、HWを随伴して、一攫千金を目論む投機師としての「山師」ではなく、一大事業として試掘し、油脈を掘り当て、地域を活性化する責任を負う「石油屋」という矜持(きょうじ)を喧伝することで、ビジネスを成功裏に運んでいった経緯には、この国の人間の信頼感の根柢に、「家族」という中枢的なモチーフが前提になっているので、「息子を連れた父」という物語を利用する魂胆が包含されていた事実を否定できないだろう。

しかし、果たしてそれだけだったのか。

HWが聴力を失うほどに被弾した、油井やぐらのガス爆発炎上事故(油溜まりの上にある天然ガスの噴出が原因)の際に、ダニエルが炎の中に真っ先に駆け走って、息子を救い出す行為には、父としての情愛が表現されていた事実を否定できないのだ。

それでも、ダニエルが息子の介護より、炎上事故の消火活動を指示する行為を以って、「息子より石油の方が大切な男」という情緒的な括りで解釈する見方は、あまりにナイーブ過ぎる。

息子の救助に向かう父
この時点で、ダニエルの取った行動は、それ以外に選択肢があり得ない、事業責任者としての義務を果たしただけで、息子への介護放棄という文脈と同列に扱われるべき行為ではない。

その後、聴力を失ったHWを、サンフランシスコの寄宿舎学校に強制的に送り込んだ行為は、確かに、息子の思いを無視した振舞いであったと言える。

しかし、ここでもまた、際立って目立つダニエルの性格傾向が露わになる。

即ち、自分の支配領域に、自らが許容し得ないモチーフで侵入して来る他者に対する包容力の欠如である。

HWによる放火事件は、たとえ相手が息子であっても、それを敵対的行為と見做すが故に相応のペナルティを課す。

この辺りが、利害関係で結ばれた対象人格との距離の取り方に特段の情感を投入する代わりに、その内側に貯留する、決して疎漏にできない情感系が、「家族」にのみ開かれているダニエルであったとしても、彼の中で不文律の妖怪の如き定点を有する、言わば、ルールへの侵犯に対する攻撃の熱量が全く劣化しないという、その食えなさ・厄介さの集合的なメンタリティーである。

だから、放火事件さえなければ、HWの寄宿舎学校送りはなかったに違いない。

事実、ダニエルは、聴力を失ったHWの対応について悩んでいた。

「事業の相棒」を「家族」に限定しているダニエルが、当初、猜疑心を持たなかったヘンリーを選択したのは必然的帰結だった。

同時に、「事業の相棒」という中枢のポジションを失ったHWが、子供の嫉妬心も絡んで放火事件を起こしたのも、それ以外にない自己主張であった。

なぜなら、HWは、身体現象の聴力と、精神現象の「事業の相棒」という、二つの枢要な能力のカードを喪失してしまったのである。

しかし、この二つのハンデを目の当たりにしたダニエルには、もう迷う余地がなく、HWの寄宿舎学校送りを具現する。

HWへ情愛は変わらない
情愛は変わらない。

このことは、映像を通して、ダニエルがHWに暴力を振うシーンが皆無だった事実に注目したい。

恐らく、思春期頃までの間に、父親からの虐待を継続的に受けていたと思われるダニエルは、子供への情愛が特段に厚い感情傾向を育んでいたからこそ、サンデー家のメアリーへの包容力を身体表現していたのだろう。

ここで想起したいのは、HWへの情愛の深さは、最も信頼が厚く、ダニエルの最初からの仕事のパートナーであるフレッチャーに、サン・フランシスコの寄宿舎学校の環境について執拗に確かめているシーンである。

印象深いシーンであるが故にか、物理的に最近接する領域侵犯者に、例外なく、ペナルティを与えるダニエルの心の風景が切ないのだ。

これが、身内の如何を問わない、ダニエルの特定他者との関係の取り方なのだ。

従って、息子に対するダニエルの行為がペナルティであったとしても、この対応を遺棄と言うのは筋違いであろう。

但し、ヘンリーの死後、再び、HW自分の元に戻した行為にもまた、「商売道具」としての息子を利用する意味を否定し得ない辺りに、この男の行為の振れ方が、プラグマティックな発想を駆動力にする行動傾向を垣間見ることができる。

それでも、この土地で青春期を迎え、仕事のパートナーとしての時間を繋いでいくプロセスには、唯一、「家族」と呼べる強い求心性の継続力を読み取ることが可能である

父から拒絶された息子
しかし、仕事のパートナーという限定状況下において、HWは父との価値観の違いを感受し、パートナーとしての継続力に限界を感じた果てに、結婚後まもない中で、相互の不必要な乖離感を浄化すべく、物理的に距離を取る方略を選択する。

だからと言って、父子の関係の破綻を覚悟した選択などではなかった。

然るに、ダニエルはHWの意思表示を受容しない。

訣別する意志の発露としか見ないのだ。

またしても、自分の支配域を侵す者の意志を、息子の表現の中から拾い上げてしまったのである。

これが、息子への辛辣な言辞に変換されていった。

このときのダニエルの心理を考えるとき、観る者は、それがこの男の真情であるとは思わないだろう。

その証拠に、HWが手話の通訳を連れて、ダニエルの宏壮な邸宅を離れていった後、一人、誰もいない暗い部屋の中枢で、最も懐かしかった頃の想い出に浸っていたのである。

油井やぐら建造中の頃の、HWとの他愛ないエピソードを思い出しているのだ。

「我が子との懐かしき日々」
「我が子との懐かしき日々」を、ダニエルの自我は、深々と記憶の奥に大切に隠し込んでいたのである。

明らかに、この男は本来の関係を継続したかった息子への思いを封じ込め、自らの狭隘な情感系のルールに従い、その関係を断ち切る憎悪に満ちた言葉を突き付けてしまったのである。

最も失いたくない者を失ってしまった男の心の風景は、生気の欠如した陰惨な彩りに満ちている。

生きていく気力すらも失ったかのように、以前より増して酒に溺れ、何かが壊れていくのだ。

怒りこそ、ダニエルという男の心理的推進力だった現実が、ここでも想起される。

その怒りを、唯一、情感的関係を繋いできた対象人格に、不本意な攻撃的言辞を放ったとき、もう、復元し得ない風景の陰翳感だけが生き残されていく。
 
 以上、縷々(るる)言及してきたように、私はこの男の生きざまに対して、前述したように、「絶対個人主義」という概念を提示したいと考えている。

 私の造語である。

不可侵なる自らのルールを持ち、そこに狡猾な意図で侵入してくる者を決して許さない。

 まして、イーライのように、敵対的に侵入してくる者など許しようがない。

 「父さんは頑固だ。聞こうとしない」

意を決して言い切ったHWのように、それが本意でないとしても、不可侵なる自らのルールと乖離する者までも切って捨ててしまうのだ。

孤高の男の陰翳感
このような生きざまを、「絶対個人主義」という概念で、私は把握したい。

 即ち、「絶対個人主義」という不可侵なるルールで駆け抜けた孤高の男の、その収束点の陰翳感 ―― それが、この映画だった。

 「ザ・マスター」(2012年製作)の主人公と同様に、そこだけはかなり酷似していると思うが故に、相当程度の高い確率で、男は「死に至る病」としてのアルコール依存症で果てるであろう。

 全てを失った男には、それ以外のイメージが思い浮かばないのである。

 確かに、男のその生きざま=死にざまは、男の本意ではないだろうが、しかし、このような生き方を貫徹すれば、このような人生の収束点しか、男の近未来に待ち受けていないだろうという孤高のイメージが、私の中で漂流して止まないのである。

 「終わった」

 それは単に、未だ完結していなかったイーライへの報復の吐露であると共に、孤高の果ての男の生きざま=死にざまを予約する言辞でもあったと考えられるのだ。

 
  一人の人間の「人生」を、ここまで描き切った映画に、私は完全にお手上げだった。

 またしても、総合芸術としての映像が構築し得る極点まで描き切った本作に、アメリカ映画の底力を感じた次第である。


【参考資料 拙稿・人生論的映画評論: 日の名残り

(2014年5月)


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