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2013年8月30日金曜日

わが心のボルチモア(‘90)       バリー・レヴィンソン



<「映画の嘘」の飯事遊戯を拒絶した構築的映像の、息を呑む素晴らしさ>




 1  ノスタルジー映画の欺瞞性を超える一級の名画



「古き良き時代のアメリカ」を描いただけの、フラットなノスタルジー映画に終わっていないところに、この映画の素晴らしさがある。

 嘘臭い感動譚と予定調和の定番的な括りによって、鑑賞後の心地良さを存分に保証してしまう、数多のハリウッドムービーに集約される、「面白ければ何でもいい」という世界と、この映画は明瞭に切れている。

 だから、あまり観られることのない作品だが、私としては、そのような作品をこそ好むので、邦題名が見事に嵌った本作が、一級の名画であるという評価には全く揺るぎがない。

過剰な感傷と馬鹿げたストーリー展開と、大袈裟な演出。

これが完璧に捨てられていた。

そこが最高にいい。

 それに比べて、目も当てられないのは、我が邦画界における「情感系映画」の氾濫の風景の凄惨さ。

観る者の需要に応えたつもりで、「感動」のみを狙っただけの、「泣かせる映画」のあまりの浮薄さ、愚昧さ。

もうそこに、何某かのコメントを寄せる気力すら奪ってしまうほどの情緒の洪水。

古い例で恐縮するが、人気抜群のALWAYS 三丁目の夕日」の呆れるほどの欺瞞性には、正直、虫唾が走る。

私が最も大好きな成瀬巳喜男監督の「稲妻(1953年製作)で描かれていたように、他人のプライバシーを平気で蹂躙するばかりか、至近距離から連射される特定他者の悪口雑言を止めない、日常茶飯事の井戸端会議のうちに象徴的な「下町共同体」の醜悪さ、且つ、隣人との「幸福競争」に明け暮れた高度成長下の、凄まじいまでの「欲望自然主義」が炸裂するエネルギー。

ALWAYS 三丁目の夕日」より
これらの重要な因子が完全に捨てられ、逆に、一時(いっとき)、「平等な貧しさ」を「共有」したが故に具現し得ただけの、「下町共同体」の「美徳」のみを欺瞞的に切り取って、「昔は良かった」という床屋談義のレベルの視線の投入で作り上げた、「全身虚構」のエンタメムービーの決定版 ―― それが、ALWAYS 三丁目の夕日」(2005年製作)だった。

これは、私自身が「下町共同体」が本来的に抱え込んでいる醜悪な臭気の中で、ほぼ青春期までを過ごした経験を通して、嫌というほど感じ取ったものであるが故に、ほぼ断言できる文意である。

だから、「下町共同体」の醜悪さを脱することで、本来的な自我の確立運動の行程に踏み込んでいった、「稲妻」のヒロイン・清子(高峰秀子)の気持ちが充分過ぎるほど理解できるのだ。

閑話休題。

本来、「平等な貧しさ」が推進力となって、盤石な「共同幻想」を繋ぐことができるのは、「平等な貧しさ」それ自身が内包する求心力が、充分な供給熱量の命脈を保証し得ているからである。

ただ、この「平等な貧しさ」という不定形の代物が曲者なのだ。

サブサハラアフリカ(ウィキ)
それは、2000年代前半から個人消費が活発化するほど、GDPが関数的に上昇したにも拘らず、サブサハラの幾つかの国々で、却って、「富の配分」の問題が深刻になった現象に象徴(ジニ係数の高さ)されるように、部族間紛争の加速的増加も手伝って、一見、「平等な貧しさ」で繋がっていたはずの、盤石な「共同幻想」という手品は永劫の継続力を持ち得ないのである。

「平等な貧しさ」の中に、いったん亀裂が入り、それが修復困難な辺りにまで広がってしまうと、「共同幻想」の拠って立つ推進力の脆弱性が露わになってしまうのである。

「平等な貧しさ」に亀裂を入れるものの正体は、「不平等な豊かさ」という、もう一つの厄介なリヴァイアサンである。

とりわけ、出自を同じにする血縁系の集団によって盤石な「共同幻想」を繋いできた者たちが、「大家族」という「何ものか」として立ち上げられてしまうときほど、その内部に生じた亀裂の修復は困難になるに違いない。

アンビバレンツという言葉があるように、時として、血縁系の集団は厄介な「何ものか」と化し、内側に矛盾を抱えた感情が噴き上げ、グロテスクで剥き出しの相貌を露呈するのである。

濃密な関係を維持しようとする集団の思いの強さが、他者から見れば、枝葉末節に過ぎない血縁関係内限定の、見えない「倫理系」のルールへの拘泥を身体化しやすいこと。

これが始末に悪いのだ。

血縁系の結束力の強靭さを保証した「共同幻想」は、世代を同じにする集団の中でこそ一定の役割を果たすが、それが、世代を超えた「大家族」へと肥大していくことで分娩された「不平等な豊かさ」によって、その本来的な「共同幻想」の手品の賞味期限が、あっという間に切れてしまうというパラドックス。

これが惹起し、瞬く間に、内部矛盾が顕在化することで、アンビバレンツの感情が炸裂する。

イスラエル中部にあるベイト・グブリンのキブツ(ウィキ)

その昔、イスラエルのキブツ内部に、キブツ外で手に入れた電気製品を誰かが持ち込んだ行為によって、その本来的な「平等の原理」の内的要請によって、遂にそれを買う羽目になり、キブツ経済は外部文明の圧力で閉塞化するというレポートを読んだことがあるが、「不平等な豊かさ」の発現は、この内部矛盾をトレースすると言っていい。



同様に古いエピソードだが、サン人(「ブッシュマン」という差別的言辞からの改称)も馬上のハンターに変貌したり(その定住化も進んでいる)、ニューギニアの高地部族などは、文化人類学者の土産 (ラジカセ等)を期待したり、加えて、バリエム渓谷のアキマ村などいくつかの村ではミイラが公開されたりして(ダニ族)、「ミイラ観光」で算盤を弾くとも言われている。

 
「ミイラ観光」
また、メキシコのある部族では、白人のチャーター機が近づいていくると、部族全体がざわつき始めるや、突如、青年が交換用の煙草や
石器を持ち出して走り出すというエピソードが、真木悠介(見田宗介)の「気流の鳴る者 ── 交響するコミューン」(筑摩書房刊)に紹介されていた。

 更に、中国の奥地に一台の外車が入り込んだら、車を見たことのない村民たちの黒山の人だかりで、車が動けなくなってしまったという笑えない話もある。


ついでに書けば、かつてノルウェーは、インド漁民を救う目的で魚群探知機や大型冷凍庫を持ち込むが、設備維持によるハイリスクで住民の購買力をオーバーしてしまったため、仕方なく、住民たちは上流層の食用イカを獲るようになり、結果的に伝統漁業が消滅してしまったという報告もあった。

 これらは、すべて近代文明の底力である。

 全ての社会は、伝統的社会⇒テイク・オフ(離陸)期を経て、必ず高度大衆消費社会に至ると予言したのは、「経済発展の諸段階」(5段階)で著名なウォルト・ロストウ(アメリカの経済学者)だが、歴史学からの批判がありながらも、この仮説が不気味なほど説得力を持つ観察であることは確かである。

ウォルト・ロストウ(ウィキ)
これらの事例は、遥か昔の話であるが、嘘話として片づけられないエピソードの一部である。

「不平等な豊かさ」は共同体を破壊する。

これが、良かれ悪しかれ、突破力抜群の近代文明の否定し難い底力なのである。

そこに「アメリカ」がある限り、皆、「アメリカ」になりたいのだ。

「アメリカン・ドリーム」のお裾分けに与りたいのである。

それ故にこそと言うべきか、世代を超えた「共同幻想」によって延長されていた「大家族」の内部で、「本物」の「アメリカン・ドリーム」を具現する者が生まれることで、視界の明瞭な「不平等な豊かさ」が捕捉されてしまえば、次世代に経済的にサポートされた第一世代が依拠したはずの、「平等な貧しさ」が推進力となって繋がれた、盤石な「共同幻想」の求心力の命脈を保つのは難しくなっていくのは必至であるだろう。

だからトラブルになる。

今まで遣り過ごしていた「慣習」が、「不平等な豊かさ」を見せつけられた3親等以内の親族の不快感を生み、枝葉末節に過ぎない血縁関係内限定の、見えない「倫理系」のルールへの拘泥を身体化していくことになる。

サム・クリチンスキー(右)と孫のマイケル
この秀逸な映画の基幹テーマは、その辺りにあると私は思う。


以下、稿を変えて、それを映像から掘り起こしてみよう。





2  「映画の嘘」の飯事遊戯を拒絶した構築的映像の息を呑む素晴らしさ




本作の主人公であるサム・クリチンスキーが、東欧系移民として、アメリカの土地を踏んだのは独立記念日だった。

1914年の7月4日のことである。

オープニングシーン
独立記念日の祝祭に湧く盛大なパレードやイベントが開催され、その蠱惑的(こわくてき)な風景の中枢のスポットに魅入られた男が胸躍らせるオープニングシーンは、「アメリカン・ドリーム」を求めて、この「移民の国」に身を預ける者たちの心象風景を、眩いばかりに煌(きらび)やかで、フォトジェニック映像美のうちに特化され、切り取られていた。

まさに、そこに「アメリカ」がある限り、皆、「アメリカ」になりたいのだ。

近代文明の底力に吸収されていくサム・クリチンスキーが、そこにいた。

ボルチモアのアバロン通りで、既に働いていたゲイブリエルら4人の兄弟と共に、壁紙職人としての一歩を踏み出したサムは、週末は音楽とダンスを愉悦する日々の中で、生涯の伴侶となるエヴァと結婚する。

クリチンスキーという名の血縁系の集団は、まもなく「家族会」を結成し、皆で拠金し合って、兄弟たちの父親を筆頭に、欧州の身内を呼び寄せるまでに肥大していく。

サムとエヴァは、息子ジュールスを儲け、成長したジュールスも妻アンとの間に、孫のマイケルを儲けるに至り、嫁姑との関係の中で感情の亀裂を生むが、特段に尖り切ったものではなく、全てが順調にいっていたように見える。

左からサム、ジュールス夫妻、従兄弟
そんな渦中で、テレビの時代の到来を読んだジュールスは、従兄弟と共に、電化製品のディスカウントストアを立ち上げて成功する。

一貫して淡々と進む物語は、後半に入って、風景の劇的な変容を見せる展開との対比の効果を鮮明にしつつ、伏線的な連関性を映像提示していく。


以下、風景の劇的な変容を見せるシーン。

それは唐突に起こった。


既に、その年の「会長」を決めねばならない程に肥大した「家族会」が、これまでと同じような風景を繋いでいたにも拘らず、突然、東欧移民の第一世代の間でトラブルが惹起する。

感謝祭で集う「家族会」の面々が、いつものように遅れて来た、サムのゲイブリエルの不興を買ったのだ。

 
感謝祭で集う「家族会」での確執
 

 「食べているのか?私を待たずに、七面鳥を切って。帰ろう。我々を待たずに食べている」

遅れて来たゲイブリエルの第一声である。

 「遅れるからだよ。子供たちは腹をすかせている」

サムの反応であるが、兄のように特段感情を荒げていない。

 「自分の兄弟を待てないのか!感謝祭には二度と来ないぞ!」

帰っていく兄のゲイブリエルと、不貞腐れる兄を街路まで追うサム。


 「どうかしているわ」とエヴァ。
「毎年遅刻だ。彼が来るのを待って、七面鳥を切る」

 家に残っている者の率直な反応である。

「遠方からわざわざ来たんだぞ。私を待てないなら、近所に住む親戚を作れ!金ができると、人間はそうなるのさ。息子が金を作ったので、身内を待たずに七面鳥を切る!」

サムとエヴァ
追って来るサムを待つかのように、相変わらず怒鳴り散らすゲイブリエル。


 「息子の成功と、七面鳥は何の関係もない!」とサム。
 「アバロンにいた頃は、七面鳥を切り、食事を始めた」
 「子供は腹をすかせるとぐずる。仕方ないだろう」
 「いつだって、子供は腹をすかせてぐずるものさ!だが、七面鳥を切るのは、皆が揃ってからだ!もう来ないぞ!」


こんな確執があってもなお、辛うじて「家族会」は存続するが、しかしそれは、世代を超えた「共同幻想」によって延長されていた、「大家族」の崩壊の決定的契機のシグナルだった。


まもなく、家族会の議長となっているサムが、収容所(恐らく、ナチスの強制収容所)から生還した、エヴァの弟シムカの家族の面倒を看るに至り、一家を「家族会」に参加させようとする問題で、再び、兄のゲイブリエルと対立した事態を招来することで、家族会の基盤が決定的に崩され、自壊する。

感謝祭で集う「家族会」
それは、世代を超えた「共同幻想」によって延長されていた、「大家族」という名の一大「コミュニティ」が終焉した瞬間だった。

「平等な貧しさ」が「不平等な豊かさ」の発現によって、約束されたかのような内部矛盾を生み、「コミュニティ」のバランスを壊し、それが血縁系の集団であればこそ、そこに嫉妬感情がべったり絡みつくことで、自壊するときも呆気ない程の貧弱な風景を晒す、極めて人間学的な様態を露わにするである

豊かさは共同体を破壊するのだ。


その後、従兄弟と共に立ち上げたジュールスの新たな百貨店は、4Fを出火原とするトラッキング現象(漏電火災)によって全焼し、ジュールスらの「アメリカン・ドリーム」は、束の間、道半ばで頓挫するが、打たれ強い移民者のDNAを継いだ彼らのメンタリティが簡単に折れないイメージをも、「アメリカ」という「快楽装置」が放つ底力を隠し込むショットのうちに、この秀逸な映像は提示していく。


 この構築性の高い映画には、観る者の心の深い辺りにまで届くアウトリーチの長さがある。

 それが、この映画を根柢から支えている。

 
束の間の「アメリカン・ドリーム」
物語の風景が暗転し、決定的に変容していく映画の心理的推進力になっていると言っていい。

だから感銘も深かった。


 最後まで、「映画の嘘」の飯事(ままごと)遊戯を拒絶し、チープな懐古趣味のノスタルジーの陥穽に堕することのない物語が内包する、「人生」の真実を直視した構築的映像のリアリズムが、本作の成就を約束したからである




3  「コミュニティ」の崩壊を基調とする風景の変容の物語




これは、風景の変容の物語である。

「コミュニティ」の崩壊を基調とする風景の変容のイメージは、「陽」⇒「陰」、「明」⇒「暗」、という印象を、観る者の内側に深々と鏤刻(るこく)していく。

風景の変容の決定的モチーフになったのは、「アメリカン・ドリーム」という眩い輝きを放つ、蠱惑的(こわくてき)な観念の臭気である。

この臭気を鋭敏に感じ取った移民二世の二人の若者が、「アメリカン・ドリーム」の狭隘な躙(にじ)り口を抉(こ)じ開け、束の間具現し、酩酊する。

彼らは、「観念」を「実体感覚」に変換させたのだ。

風景の変容で炙り出されたもの。

それは、「平等な貧しさ」から「不平等な豊かさ」である。

人々は、「平等な貧しさ」に耐えられても、「不平等な豊かさ」には易々と耐えられない。

それが、一つの血縁系集団によって成る、「コミュニティ」の中枢で惹起したのである。


「平等な貧しさ」を、なお延長させている者たちにとって、「不平等な豊かさ」を作り上げた者たちに対する嫉妬感は、何にも増して厄介な「不平等な豊かさ」が、約束された「時間差」によって解消することで、「共生・共有」感覚の視界が開けない限り、噴き上げてしまった情感系の確執は、より激発化していくのは必至だった。

サム家の人々

「不平等な豊かさ」の片隅で安眠していたサム・クリチンスキーは、やがて出来する、「コミュニティ」の呆気ない崩壊を嘆き、吐き出した言葉が、観る者に強く印象付けられる。


「これは家族じゃない。家族じゃない・・・」

妻エヴァが病死しても、「コミュニティ」の親類縁者たちが葬儀に足を運ばなかった現実を目の当りにしたときの、サムの嘆き節である。



物語の変容は、独り残された孤独な老人が、もう他に頼る何者もなく、養老施設で余生を繋ぐシークエンスを映し出す。


そこに訪ねて来た孫のマイケルと、その息子に向かって、その老人、即ちサムは、噛み締めるように淡々と言い切った。


「一生懸命働いて貯めた金と、持っていた物を全部売り払って、人間、最後はこういうところで暮すことになる」
    
サムとマイケル父子
そして、かつてそうだったように、一貫して変わらぬアイデンティティを確認する者の如く、マイケル父子に語り継いでいくサムが、そこに呼吸を繋いでいた。

ここで私は、ニーチェの人生論を想起する。

ニーチェにとって、人生の問題とは、世界の客観的な存在の問題とは無縁であって、一切は〈生〉の主体の自己評価の問題であり、「解釈」の問題であった

 「遠近法主義」と言われる、この極めてニーチェらしからぬ相対主義的な人生観を、誰が何を言おうと、私は支持する。

 突き詰めてしまえば、〈生〉の主体が、どのように自己の人生を解釈」するかという問題に尽きるのである。


サムもまた、自己の人生を彼なりに解釈」し、〈生〉を繋いできた男である。

その人生の解釈」には、「残酷」もあり、「至福」もあったが、だからと言って、自分の人生を悔いている訳ではないのだ。

サムとマイケル
人生の一切が、オントラック(順調に進んでいる)の軌道を描く訳がないと括っていたからこそ、「人間、最後はこういうところで暮すことになる」と、泰然と吐露できるのだ。

サムは、移民として、「自由の国」に降り立ったことを誇りに持ち、それを最後まで捨てずに昇天していくだろう。

施設で〈生〉を繋ぎつつも、彼は全てを受容し切っているのである。

確かに、風景の劇的な変容の中で描かれた物語の後半のシークエンスには、人生の悲哀が漂っている。

しかし、そんなことで全てを失って、自壊していくような男だったら、このような物語が生まれなかっただろうというメッセージが、私の耳に届き、感覚器官の中枢にストレートに入り込んできた。


この地味な映画を観ながら、涙が止まらず、必死に堪えるのに難儀した程である。


「ミュージックボックス」より
ユダヤ人虐殺の犯人として、女性弁護士の娘から告発される「ミュージックボックス」(1989年製作)で、忘れ難い演技を見せてくれたアーミン・ミューラー=スタールの、その一級の内的表現力の凄みに脱帽した。

「わが心のボルチモア」

まさに、一級の「名画」の香り漂う傑作だった。


【参考文献・拙稿「心の風景・豊かさは共同体を破壊する」より】

(2013年8月)

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