検索

ラベル

2014年4月27日日曜日

トト・ザ・ヒーロー(‘91)    ジャコ・ヴァン・ドルマル


<人生の行程で起こり得る多くのものが詰まった、反転的な「人生賛歌」のメッセージ>



 1  観る者の視覚に強烈に鏤刻する名画の圧倒的な切れ味



 これまで観た多くの映画の中で、初見時に、言葉に言い表せないほどの感動と鮮烈なインパクトを受けた作品の一つ。

後にも先にも、これほどの独特な筆致で描かれた作品と出会った記憶はない。

ジャコ・ヴァン・ドルマルという、ベルギー出身の監督の名前は、その日のうちに覚え、一生忘れない映像作家として、私の脳裏に刻まれている。

その後、再見しようと思ったが叶わず、殆ど諦めていたが、偶然、DVDが出ていることを知って、やっと再鑑賞することができた。

変わらなかった。

いや、それ以上に、これほどまでに完璧に構成されている映画であることを再確認させられ、まさに「映像」と呼ぶに相応しい逸品であった。

「障害者のタブー」に挑戦したかのような「八日目」(1996年製作)も出色だったが、私にとって、やはりこの「トト・ザ・ヒーロー」。

「空を飛んでるぞ。アルフレッド、ここだよ」

すでに遺灰と化して、空から撒かれていくトマ老人が、哄笑しながら独言するラストシーンの構図の切れ味は、説明的な活字なしに済まない文学と切れて、映像それ自身の独壇場の世界だった。

心に凝固していた一切の思いを浄化し、大地に溶融していくトマ老人の遺灰が、別の生命のうちに吸収されていくのだ。

 「時計はチクタク。アヒルはピクパク。七面鳥はグルグル。教会の鐘はディンダンドン。ブン。僕らの心はブン!リズムはブン。耳にこだまするブン!」

軽快なテンポで流れる歌の訴求力は、サーカス出身のドルマル監督の才能が見事に表現されていて、観る者の視覚に強烈に鏤刻(るこく)する。

その圧倒的な切れ味に溜息が出るほどだった。

ジャコ・ヴァン・ドルマル監督(ウィキ)
無駄な説明的台詞が一切なく、映像のみで繋ぐ物語の展開はテンポが良く、抑揚の効いたBGMの効果も抜きん出て、感傷的なカットを全く引き摺らないから、僅か90分で、これだけの完成度の高い映像に仕上がったのだろう。

偶然性に依拠し続ける展開に些か閉口するが、それなしに済まないテーマ性を持つ映画として、綿密に構築された映画であるという視座で包括することで、充分に軟着し得る作品でもあった。

なぜなら、この映画に詰まっているテーマが、「人生とは何か」という一点に収斂されるからである。



 2  幼い自我が被弾した凄惨な現実を転嫁して繋ぐ人生の陰翳感



「君を殺すぞ、アルフレッド。これは殺人ではない。私が生れた日に、君が奪ったものを返してもらう。私の人生を。泥棒め!君は、私の人生と愛を奪った。お陰で、私の人生は空っぽ」

ファーストシーンでの、老人トマのモノローグである。

老人ホームで余生を過ごしているトマには、幼少時から信じ切っている妄想がある。

出産の際の火災で、隣家のカント家のアルフレッドと誤って取り替えられてしまったという妄想だが、「自分は、この家の子ではないのではないか」という思いを持つ現象は特段に異常な事態ではないので、通常、このような思い込みは、時の経過と共に雲散霧消していくもの。

 
アルフレッドカント氏
ところが、トマの場合は様子が違っていた。
 
アルフレッドが裕福に暮らす生活風景に対する羨望感があるだけなら問題なかったが、カント家への恨みが媒介される事態の出来によって、トマの羨望感が無化されたばかりか、そこに、アルフレッド自身への否定的な個人的感情が累加され、それが軟着し得ない辺りにまで膨張してしまったことで、「君は、私の人生と愛を奪った」という思いを、老年期に至ってまでも延長されてしまったのである。

ここで言う私の人生と愛とは、父と姉の死、更に、中年期での恋の破綻に象徴される、アルフレッド絡みの不幸のトラウマである。

 パイロットの父が、カント氏の依頼で英国ジャムの運搬のため、雷雨の夜に飛行したことで遭難死してしまった不幸は、明るいトマの家庭を根柢から崩していく。

 この一件で、カント家への復讐を誓うトマと、その姉のアリス。

 カント氏が経営するスーパーに放火し、ボヤ騒ぎで終わったアリスは、今度はカント家をガソリンで燃やし尽くすと言い切った。

しかし、スーパーに放火した張本人であるアリスは、肝心のカント家の息子・アルフレッドと、思春期前期の純愛模様への変化を見せていくのだ。

姉のアリスに、この時期の男児に往々に見られるように、異性感情との境界が見えにくい思いを抱くトマは、普段から「チキンスープ」とからかわれていた反発も手伝って、激しい嫉妬感から、アリスにカント家への復讐の誓いを執拗に迫っていく。

その結果、アリスは、可愛い弟との誓いを果たすために、カント家にガソリンで火をつけ、自らも焼死してしまったのである。

トマの心を凍結させるアリスの死
信じ難き不幸の連鎖が、児童期中期のトマの心を凍結させてしまう。

とりわけ、アリスをアルフレッドに奪われた挙句、焼死してしまうという記憶は、永遠に消えないトマの由々しきトラウマと化し、児童期の幼い自我に刻印され、一生を左右する「妖怪」にまで膨張していった。

テレビ番組の格好いい名探偵・トトへの同化によって、アルフレッドを中枢にしたカント家への復讐を遂行する幻想が、いつしか、辛すぎる現実逃避の防衛戦略を突き抜けて、「アルフレッド殺し」のスーパーマンへと同化していく。

思うに、「お姉ちゃんと結婚したい」というトマの情感は、児童期の物理的接触快感・心理的接合快感を満たすもので、特段に異常な現象ではない。

だが、トマの場合は、姉アリスとの血縁を否定するから、その特殊な時間が延長されても、異性感情としての稜線が延ばされる可能性が高かったのである。

厄介なのは、アリスとアルフレッドの、思春期前期の異性感情の交歓の現場を視認したトマの嫉妬が、アリスへの行動圧力を執拗に求める情動の氾濫を心理的背景にしていた現実の重さである。

 「僕がアリスを殺してしまったんだ」

 この意識を封印しなければ、トマは生きていけなくなるのだ。

 だから、一切の責任をアルフレッドに転嫁せねばならなかった。

 
名探偵・トトへの現実逃避
都合のいい方略だが、幼い自我が被弾した凄惨な現実を、そのまま受け止めてしまったら、トマの人格の骨格は根柢から自壊してしまうだろう。

 嫉妬とは、「独占感情の喪失への恐怖」である。

 アリスを独占したいというトマの嫉妬が、アリスの死に繋がったことで、アルフレッドへの恨みに都合良く変換されていくのだ。

しかし、それでも張り付くトラウマが、トマの一生を支配してしまうのである。

ここで見落としてはならないのは、アリスの死に被弾したのがトマだけではなかったという事実である。

アリスに思いを抱いたアルフレッドもまた、アリスの死を受容できなかったのだ。

だから、彼もまた、アリスの幻影を追い駆けてしまうのである。

それが、中年期のトマに二重の被弾となって、重くのしかかっていく。

そして、トマのその特殊な時間が、アリスの死によって凍結されることで、アリスへの「永遠の愛情」となって無限に延長されてしまうのだ。

 「永遠の愛情」と化した姉への思いは、トマの自我の奥深くで生きていく。

アリス
生きていくから、現実の〈生〉の中で、姉が残した蠱惑(こわく)的な芳香を求めてしまうのである。

アリスこそ、この物語を支配し、動かしている最も重要な存在なのである。

 その現実の重量感は、二人が中年期に入って証明されることになる。

トマの自我の奥深くで生きている、その「永遠の愛情」が、中年期に入って、音楽家エヴリーヌとの出会いとなったが、しかし、アリスと似た愛情対象を追い続けるトマにとって、彼女は、アリスの再来(復活)でなければならなかった。

 当然、これも妄想である。

 本人だけがエヴリーヌ=アリスと決めつけているだけで、ダウン症の弟・セレスタンは「似ていない」と一蹴する。

そんなトマに、信じ難い衝撃が襲う。

エヴリーヌとトマ
エヴリーヌと愛し合い、駆け落ちまで約束したのに、エヴリーヌと行き違いになった事実を知ることなく、裏切られたと思い込み、意を決して、彼女の自宅を訪ねたトマは、彼女の夫がアルフレッドである事実を目の当たりにして、失いたくない大人の恋が根柢から崩壊し、決定的に打ち拉(ひし)がれる。

 打ち拉がれた男は、自暴自棄になって、列車内で禁煙を注意した男に暴行を加えるのだ。

しかし、アリスの死によって心が凍結されたのは、アルフレッドも同様だった。

 トマもアルフレッドも、共にアリスの幻影を追い駆けていたのである。

 
エヴリーヌとトマ
だから、似たような女性を愛してしまったという風に解釈すべきなのか。

 些か都合のいい展開だが、リアリズムで勝負している作品ではないので、その辺りを履き違えたら、この種の映像に入り込めなくなるだろう。

閑話休題。

かくて、苦い人生の日々を回想する老人トマは、ホームを抜け出し、積年の恨みを晴らすべく、老人ホームの警備室から盗んだ拳銃を懐に抱いて、憎きアルフレッドへの復讐に向かっていく。

今、アルフレッド殺しを遂行しない限り、もう、復讐を完結できないと考えていたからである。

なぜなら、金融事業で成功していたアルフレッドの会社が倒産し、殺し屋に命を狙われていることをニュースで知ったことで、自らの復讐が頓挫してしまう不安を感じたからである。

「私がアルフレッド殺すのだ」
「私がアルフレッド殺すのだ」

そう、心に抱懐して、老人トマの復讐の旅が開かれたのだ。



3  人生の行程で起こり得る多くのものが詰まった、反転的な「人生賛歌」のメッセージ



「君が羨ましかった。好きなことを自由にやっていた」

 アルフレッドという「悪」が、トマに放った言葉である。

 アルフレッドという「悪」を退治するために、「トト・ザ・ヒーロー」というスーパーマンの物語を、自らに寄せて仮構してきたトマは、現実のアルフレッドと出会ったことで、一切が相対化され、途方に暮れるのだ。

トマの捩れた人生が、晩年になって再会したアルフレッドの現実を視認し、それを受容することで、彼に対する積年の怨念が完全に無化されてしまったとき、トマは、その自我を根柢から支えていた目的を喪失する。

更に、自分を裏切ったと信じていたエヴリーヌが、実は、忘れることなくトマとの再会を懇望していたという思いを知らされ、そこに集合したトマの喪失感のトラウマもまた、同時に解消されてしまった。

「ずっと、あなたを待っていたのよ」

年老いても、トマを忘れていなかったエヴリーヌの言葉である。

老人トマ
今や、トマの自我を搦(から)め捕っていた由々しきトラウマが消失してしまったことで、トマにはもう、為すべき何ものもない。

「何もなかった人生」を自己完結させるために、アルフレッドを殺害に来たトマが最終的に選択した着地点は、その捩れ切った人生に終止符を打つことだった。

拳銃を頭部に当て、自殺を図ること。

それ以外にないと括った老人トマが、自分の命を絶つ選択肢を拒んだとき、物語の風景は劇的に反転していく。

為すべき何ものもない男が最終的に自己投入していった風景の内実は、アルフレッドを生かし、自らが代わりに死ぬことで、本来、妄想の世界で自己運動を繋いでいたネガティブな観念の一切を、根柢的に止揚するという振れ方だった。

要するにトマは、自分の人生の最期の時間に、その最期の場所で、幼少の頃の思いを遂げ、思い残すものも何もない心境下で昇天していくという軟着点を手に入れたのである。

それは、「アルフレッドの身代わりとなって死んだトマ」という、自分の人生に括りをつけた決定的な選択であった。

「アルフレッドの身代わりとなって死んだトマ」
単なる、一人の孤独な老人の死ではなく、「何もなかった」と思い込んでいた人生に、それ以外にない意味を与えたのである。

その命を自分が奪うはずの男の死の代わりに、アルフレッドに変換したトマの死。

それは、妄想に生きた自分の人生の総体を止揚するための死でもあった。

自殺を考えた時点で、アルフレッドを殺すために「トト・ザ・ヒーロー」を仮構し、妄想を繋いで生きてきたトマが、アルフレッドに成り変わって殺し屋の手中に収まり、思い通りに殺害されることで、二つの人生を止揚し、そこにしか辿り着かない世界のうちに自己完結したのである。

二つの人生とは、自分が本来、「幸福」な日々を継続的に繋いでいったに違いないと信じる「アルフレッドの人生」であり、もう一つは、過剰な妄想に囚われて、「何もなかった人生だった」と述懐する「トマの現実の人生」である。

「昨日から、この世は、すっかり別世界。心が弾めば、世界はバラ色」

 
父とアリス
エンドロールの歌の一節であると同時に、トマの幼少時に、温和な父がピアノで弾き語ってくれた歌でもある。

あれほど心が捩れていた男は、幼少時の楽しい思い出を想起し、今や、「心が弾めば、世界はバラ色」という境地を手に入れたのだ。

そんな男が、自分のネガティブな観念の総体を遺棄し、それを反転させることで、最後だけは、精霊に導かれるように昇天していったのである。

この映画は、二人の老人の最晩年の風景を、物理的には〈生〉と〈死〉に分岐させつつも、精神的には解放感を内包させて、蘇生し切った映像構成において決定的に成就した。

本来は、ダウン症の弟・セレスタンのように、つまらない観念に囚われないで、伸び伸びと、特段の不満もなく、凹凸の少ない人生を生きられれば、それに越したことがないのだろうが、だからと言って、トマの人生の断片をを切り取ったこの映画を、トマ本人が自嘲するように、くだらないことで懊悩する一人の老人の、意味のない人生を揶揄するものと見下してはならない。

誤解し、羨望し、嫉妬する。

嫉妬し、錯乱し、憤怒することで、決定的に喪失する。

喪失による悲嘆によって、煩悶や後悔を恨みに転嫁し、憎悪に結ぶ。

憎悪に結ばれた情動が妄想に補完され、憧憬、思慕、純愛の対象喪失による絶望的な孤独から現実逃避しつつ、特定的に仮構された「敵」への殺意を延長させていく。

その長い人生の行程には、不安、落胆、別離、自棄にも捉われてもいたが、決してそればかりではない。

左からアリス、トマ、母、セレスタン
援助、依存という、家族愛に集合する信愛の継続力に癒され、成人後の孤独を浄化する純愛や性愛もあった。

それが誤解による落胆によって、別離による喪失のトラウマを生み、孤独が極まるが、共感や共有という心地良き思いも拾えたではないか。

最終的に妄想が自壊することで、決定的な人生の反転に振れていくのだ。

〈生〉と〈死〉、その総体の受容。

どれほど辛くとも、決定的な人生の反転によって、その人生の総体の一切を受容し得たではないか。

 一人の人間の人生の行程で起こり得る多くのものが詰まった、この映画の反転的な「人生賛歌」のメッセージに、私は深い共感をもって受容したい。


(2014年4月)


0 件のコメント:

コメントを投稿