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2017年1月13日金曜日

ぼくらの家路(’13)   エドワード・ベルガー


<「母を求めて彷徨する3日間」 ―― 射程の見えにくい風景の苛酷さ>




1  「僕、帰って来たよ。鍵がないから入れない」 ―― ベルリンの夜の街を彷徨した果てに





ほぼ完璧な映画。

主演の少年の圧巻の表現力に舌を巻いた。

この映画ほど、発達心理学の学習の重要性を痛感したことはない。

―― 以下、梗概と批評。

見知らぬ男を家に泊め、交接している母の部屋に、「お腹が空いた」と入室していく10歳の男の子がいる。

男の子の名はジャック。

女に子供がいることを初めて知って、驚く男。

「やきもち?」

そのジャックに、食パンを食べさせながら吐露する、全裸の母・ザンナ。

自分の母の愛を独占できない不安と苛立ちを抱懐しているという一点において、母のこの稚拙な指摘は外れてはいない。

ジャック
なぜなら、朝帰りの続く「不在の母」に代わって、常に6歳の弟・マヌエルの食事などの世話をする日常性を繋ぐ少年にとって、自分でパンとジュースを飲食することなど、あまりに容易いことだったからである。

だから、母の新しい愛人の衣服を、窓から放り投げてしまう行為に振れてしまうのだ。

怒った男が帰って、その男を母が追う。

明らかに、機嫌を損ねている母が帰宅しても、ジャックを責めることはしない。

ジャックに対する後ろめたさを感じる思いが、彼女なりに持ち得ているのだろう。

これが、若いシングルマザーの母親・ザンナと、年端もいかない二人の兄弟によって構成される家族の様態だった。

しかし、この家族に異変が起こる。

左から母・ザンナ、マヌエル、ジャック(児童福祉局で)
マヌエルを誤って熱湯の風呂に入れ、火傷をさせてしまったジャックが、ネグレクトの疑いで、児童福祉局から呼び出された結果、母親の猛烈な反発を押しのけ、ジャックが施設に入所されるに至るのだ。

ベルリン南西部の施設。

プロの職員の秩序だったそんな施設であっても、年上の少年に虐められたジャックにとって、「施設は自分の居場所ではない」という思いが強い。

「家に帰りたい」とジャック。
「約束したでしょ。ここに慣れるまで帰らないって。夏休みになれば、お母さんに会えるわ」

女性職員の柔和な言葉に納得するジャック。

施設で
そして、その日がやってきた。

母が迎えに来る日である。

「迎えに行けない。仕事なの。少し待って。我慢してね。週末はそっちにいて。月曜日まで、二日の辛抱よ。約束する。朝に行くわ」

これが、待ちに待った「迎えの日」の朝の、母・ザンナの答えだった。

マヌエルが、ザンナの知人・カティの家にいることも知らされる。

言葉を失い、悄然とするジャックは、同様に、「居残り組」の少年と川に入るが、再び、彼の虐めのターゲットにされる。

しかし、母の迎えがない苛立ちを、その少年・ダニーロに反撃し、彼を打ちのめしてしまうのだ。

慌てて、走り去っていくジャック。

事件を起こした恐怖によって、施設へ戻れなくなったジャックは、そのまま遁走してしまう。

母と弟に会うための少年の旅が、ここから開かれていく。

ファーストフード店で
ファーストフード店に入り、自宅の母に留守電を入れ、ケバブ・サンド(中東地域で供される)を買い、それにかぶり付く。

ファーストフード店を出て、自宅にまっしぐら。

しかし、家には鍵がかかっていて、中には入れない。

施設の職員が探しにやって来たが、隠れ忍ぶジャック。

「僕、帰って来たよ。話さなきゃいけないことがあるんだ。鍵がないから入れない」

置手紙を残し、母と弟を探す少年の旅が延長されていく。

その直後、マヌエルを預かっているというカティの職場を訪問し、彼女の自宅に直行する。

カティの自宅には男がいたが、明らかに迷惑そうな態度を見せ、マヌエルを放り出す。

今度は、母を探す兄弟の旅が開かれるのだ。

ベルリンの夜の街を彷徨し続ける二人。

母の愛人を訪ねても、全く埒が明かない。

母の携帯にかけても、留守電のまま。

再び自宅に戻るが、相変わらず鍵がかかったままで、今度も、ジャックはメモを残して去っていく。

公園のベンチで寝ていたマヌエルと共に、野外で一夜を過ごすジャック。

マヌエルに指示し、菓子を盗ませる
翌朝、菓子屋でマヌエルに指示し、菓子を盗み、それを食べる兄弟。

またジャックは、施設で遊んで、失った友人の双眼鏡を返すために、大型商業施設の電気店で双眼鏡を盗み、それが発覚し、必死に逃亡するという事件を起こす。

自宅の前で寝ていたマヌエルを起こし、他人の車で一夜を過ごそうとするが、管理人に咎(とが)められ、ここでも逃亡を余儀なくされる。

3日目の朝がきた。

疲弊し切ったジャックの目から、涙が零れ落ちる。

いよいよ、兄弟の旅が絶望的な雰囲気を醸し出していくのだ。

そんな兄弟を救ったのは、ヨナスという名の昔の母の交際相手だった。

ヨナスの世話を受ける
食事の世話を受けたジャックは、ヨナスが勤めるレンタカーの会社の手伝いをする。

しかし、現実は甘くない。

二人の子供の面倒を見ることを引き受けるつもりがないヨナスは、「君たちは母親に捨てられたんだ」と言い放ち、警察に連れて行こうとする。

それに反発するジャックは弟を連れ、再び、夜のベルリンの街を彷徨する。

そして、遂に、探し回って辿り着いた先に、母・ザンナがいた。

何度戻っても鍵がかかっていたアパートの自宅に、明かりが灯っていたのである

母の態度に一気に冷めていくジャック
喜びを隠せないジャックは、「新しい恋人が見つかった」と言う母の懐に飛び込んでいくが、この間の苦労に全く頓着せず、想像が及ばない母の態度に一気に冷めていく。

あろうことか、この母親は、子供との約束を守らず、そればかりか、何度も留守電やメモでメッセージを残しているにも拘らず、我が子への心配の念を持ち得ないのだ。

かくて、「母の愛」を感じることができないジャックは、マヌエルを連れ、施設に戻っていくのである。




2  「母を求めて彷徨する3日間」 ―― 射程の見えにくい風景の苛酷さ





私たちが、この映画で理解を不可避にする事実 ―― それは、映画の原題(「JACK」)にもなっている主人公の少年・ジャックが、「前思春期」とも言われる児童期後期の中枢で呼吸を繋いでいるという把握である。

ジャン・ピアジェ(ウィキ)
スイスの心理学者・ジャン・ピアジェが、「具体的操作期」(6歳前後から11歳前後)と名付けた児童期の特徴は、具体的な体験を通して、物事を客観的に見られるようになる時期であり、より抽象的で、一般的な象徴化が可能となる時期であると言える。

また、ピアジェから離れて、この時期を心理面の発達で見ていけば、他者による自己への評価による自尊感情が形成され、親からの自立へと向かう過渡期として、友人関係の構築が重要になる時期 ―― これが、児童期後期の特徴である。

脳科学的に言えば、脳の司令塔としての前頭葉(両側の大脳半球の前部に存在)の成長は、生後6~8ヶ月になってから活動を始め、「認知的成熟度」のピークである25歳程度まで続き、長期記憶の保持のための回路や、創造力・実行機能・注意力・意欲・自己抑制力を形成していく。

但し、7~8歳までの期間に、前頭葉の大半が決まると言われている(臨界期=「クリティカル・ピリオド」)ので、あとは、多くの学習や経験によって、脳細胞のシナプス結合が変わり、運動や行動に変化が現れる児童期以降の、環境の変化や教育による「脳の可塑性」(脳が自らを再構成する能力)に期待するしかないだろう。

言うまでもなく、私たちの前頭葉は、人類の進化の歴史の中で、最後に進化した部位であるが故に、より人間的な能力を持っているのである。

主要な脳溝と葉を側面から見た図。前頭葉は左側に青く示されている

だからこそ、前頭葉は「人間を人間たらしめる最高中枢」であると言われる所以なのだ。

そして、最も重要なのは、脳の発達が先天的なものにのみ依拠せずに、生まれてからの経験(良い刺激)で決定されるということが、遺伝子研究の急速な進歩の中で、科学的に検証されてきているという事実である。

それ故に、前頭葉の能力の低下が、実生活上における様々な障害を引き起こす事態に対し、私たちは真剣に考える必要がある。

IQの低下は起こらないが、精神的柔軟性や自発性の低下、更に、秩序感覚の障害によって秩序感覚の障害・社会的適応力の減少などが現出する危うさを内包しているのだ。

―― ここから、少年・ジャックの「現在性」について考えてみよう。

ネグレクト(育児放棄)が常態化している「機能不全家庭」で育ったために、過大なストレスの負荷をかけられているジャックの前頭葉の発達が未成熟であること ―― まず、観る者は、この現実を直視せねばならない。

ジャックが負ったネグレクトの内実は、充分な食事を与えられない状態で、6歳の弟・マヌエルの食事などの世話をするから、パンを食べながら登校するという日常性が、朝の生活の普通の風景と化しているのだ。

絶えず、愛人を作り、その愛人と過ごす時間を優先する母の視界に、自らが生んだ子供への関心が、常に置き去りにされている等々、もう、これで充分だろう。

それでもジャックは、愛人と過ごす時間を優先する母を求めていく。

見知らぬ愛人にも嫉妬する。

挙げ句の果ては、そんな身勝手な母親が、いつものように、「不在」を常態化してしまうのだ。

身体的暴力や理不尽な攻撃性を被弾していない分だけ、母からの〈愛〉を信じるジャックは、なお、母を求めて彷徨するのである。

これが、ジャックの「母を求めて彷徨する3日間」の内実の全てである。

当然のことである。

どのような愚昧な母親でも、その子供にとって、彼女だけが、自分を産んでくれた世界で唯一の人間であり、子供の自我の生物学的ルーツが、その母親の存在性のうちにしかないからだ。

母親を否定することは、自らを否定することに繋がってしまうのである。

子供の自我は、母親(それに代わる大人でもいい)によってしか形成されることはない。

その母親(または、それに代わる大人)によって作られた自我を、子供は、その母親との「内的ワーキングモデル」(養育者との相互交流の経験から、自分の要求に対して、親がどれほど応じてくれたか否かによって形成される認知的枠組)を通して作った、「私の物語」を繋いでいくしかないのである。

このことは、思春期以前の子供に、本来的に自立した「私の物語」を作り得ないという、発達心理学における峻厳な現実を意味する。

帰宅後の風景の寒々しさ
残念ながら、ジャックもまた、この宿命から逃れられない。

ジャックの「母を求めて彷徨する3日間」は、決定的に挫折する。

だからと言って、僅か10歳のジャックが、本来的に自立した「私の物語」を作り得るのは、殆ど不可能であると言っていい。

全人格的な情動を駆動した、母を求めるジャックの彷徨は挫折したのである。

では、ジャックの挫折が意味するのは、一体、何だろうか。

これは、ラストシーンの意味を解くことになる。

私が勘考するのは、こういうことだ。

即ち、ラストシーンの意味が示唆するのは、また、新しい愛人ができた母が、今度も、「僕たちを放置して、いつもの生活を続けていくだろう」という思いが、「母を求めて彷徨する3日間」の残酷な時間を繋いできた経験を通して、ジャックの内側で怒りとなって噴き上がり、母親への殆ど絶望的な感情が身体化されたもの ―― その射程の見えにくい風景の苛酷さ以外ではないだろう。

それ故、施設に戻ったジャックの行動選択が、大人への一気の跳躍と解釈するには、あまりに無理があり過ぎる。

大人になるという行程が、如何に大変なことであるか。

まず、この現実を認知すべきである。

大人になっていくという、射程の見えにくい風景には、それをインターセプト(妨害)する、幾つもの関門を突破していかねばならない艱難(かんなん)な行程が待ち受けているのだ。

だが、勘違いしてはならない。

ジャックにとって重要なのは、「早く大人になる」ということではないのだ。

彼には、本来の子供時代の「伸び伸びとした生活」を、母親のネグレクトによって奪われてきたというシビアな生活様態がある。

一時(いっとき)の団欒(冒頭のシーン/右が母)
だから寧ろ、ジャックは今、本来の子供時代の「伸び伸びとした生活」を再構築することの方が大切なのである。

その時間を、施設の中でどれほど手に入れられるのか。

それが切要なのである。

この行程を通して、自尊感情=自己愛を育てていくこと。

まさに、この自尊感情=自己愛を育てていくことが、ジャックの自我が真に成熟し、確立していく内的時間の中で、最も重要な教育プログラムと言っていい。

具体的に言えば、施設の職員との良好な関係が構築できるか。

ジャックの心情を理解し、彼にストロークする話の分かる大人がいるか。

屈折した少年たちのグループに吸収されることなく、安全な距離を確保し得るのか。

そして何より、真の友情と呼べるに相応しい友人が作れるか。

因みに、友情とは、「親愛」・「信頼」・「礼節」・「援助」・「依存」・「共有」という基本要件によって構成されていると、私は定義している。

とりわけ、子供時代は、「礼節」を除く5要件による友情関係の構築が生命線になるだろう。

この新たな環境下で、ジャックが、年齢相応の発達課題をクリアしていくことは決して不可能ではない。

しかし、保護者より友人を大切にし始める時期である「ギャングエイジ」の渦中にありながら、本来の子供時代の「伸び伸びとした生活」の時間の多くを、「母の愛の確保の全面的な保証」(エリク・H・エリクソンが言う「基本的信頼vs不信」)という、乳児期における発達課題の克服のための時間に費消してしまったところに、ジャックの最大の不幸があると言っていい。

それでも、ジャックには、まだ時間が残されている。

そこに、ジャックの救いがある。

問題なのは、弟のマヌエルの発達不安である。

母に甘えるマヌエル
「ママに会いたい」と泣き叫ぶマヌエルを、児童福祉施設が、マヌエルの母のもとに返すことはないだろう。

そんなマヌエルを、ジャックが保護していく行程が、恒久的に延長されると考えるのは甘いと言わざるを得ない。

ここで切要なのは、二人の発達課題が異なるというシビアな現実である。

本来の子供時代の「伸び伸びとした生活」の再構築による、自尊感情=自己愛の確保の保証というジャックと、「母の愛の確保の全面的な保証」というマヌエルの、双方の発達課題が異なること。

この冷厳な現実を認知せねばならない。

それとも、母の愛の確保の全面的な保証に代わる、特定他者の成人の適切な保護を不可避にするマヌエルは、未だ、「ギャングエイジ」の年齢にすら遥かに届き得ない幼児(せいぜい、児童期初期)なのである。

それ故、「思春期スパート」に一気に向かっていくジャックが、自己中心的な変容を果たしていくのは、思春期自我の特有な現象だから仕方がないのだ。

返す返すも、この兄弟が置かれた環境の難しさを認知せざるを得ないのである。

(2017年1月)


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