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2012年1月30日月曜日

シコふんじゃった。('91)      周防正行


<「道修行」の奥の深さと、モチベーションの変容過程、そして、主人公の人物造形による訴求力の高さ>




1  極めて丁寧に映画を構築していく真摯さ・緻密さ・知的濃度の高さ



周防正行監督の映画は、なぜ、これ程までに面白いんだろう。

その答えの全ては、その後に作られた「Shall we ダンス?」(1996年製作)、「それでもボクはやっていない」(2007年製作)の中で、より鮮明になっていると思われる。

即ち、娯楽系の「Shall we ダンス?」では「社交ダンス」、社会派系の「それでもボクはやっていない」では、この国の司法制度の矛盾について、殆ど説明的とも思える、作家性の希薄なリスクを負っているにも拘らず、そのリスクに作品総体の価値が潰されることなく、極めて丁寧に映画を構築していく真摯さ・緻密さ・知的濃度の高さ ―― その辺りに収斂されるだろうか。

「裁判官に悪意があるとは思わない。毎日毎日嘘つきにあい、人の物を盗んではいけません、人を傷つけてはいけません、時には、人気歌手の歌を引用して説教もする。その繰り返しだ。怖いのは、99.9%の有罪率が、裁判の結果ではなく、前提になってしまうことです」

これは、「それでもボクはやっていない」における、痴漢冤罪事件の被告である主人公の青年の担当弁護士の言葉。

一審の公判中、保釈された主人公を含む支持者に、担当弁護士が語った内実には、「99.9%の有罪率が、裁判の結果ではなく、前提になってしまうこと」の怖さに肉薄するに足る、本作で提起された主題に関わる周防正行監督の最も重要な警鐘となっていた。

こんな説明的な描写を挿入しても微塵も揺らがない映像の完成度の高さこそ、周防作品の真骨頂であると言っていい。

そして「Shall we ダンス?」や、本作のような娯楽系の映画では、艱難(かんなん)な行程を踏まえる「道修行」が内包する、それぞれの文化・スポーツ系の奥の深さを丁寧に描き切っていく姿勢が一貫していた。

周防正行監督(画像)には、「たかが社交ダンス」、「たかが相撲」という風に一般的に流されやすい対象イメージを、単に、「娯楽映画の面白さ」という視野狭窄の範疇のうちに処理していくような姿勢で糊塗(こと)することなく、それぞれの特有の世界が包含する本来的価値の辺りまで、精緻な筆致が及ぶような基本的姿勢を崩すことがないのだ。

文化としての社交ダンスの奥の深さに触れることで変容していく主人公の、「アイデンティティの再構築」を描いて成功した「Shall we ダンス?」がそうであったように、本作もまた、「伝統的武道」という名の、スポーツとしての相撲の奥の深さに触れた弱体相撲部の面々が、学生スポーツ相応の「道修行」のオーソドックスなプロセスを描いた、殆ど盤石な予定調和のスポ根ムービーでありながら、最後までスラップスティックに流されなかったのは、「たかが相撲」という安直な把握で物語を構成しなかった、表現者としての真摯な姿勢が観る者に充分に伝わってきたからである。



2  弱体相撲部の力量総体の底上げを図る教授の戦略の手の内で ―― 「達成動機づけの帰属理論」の仮説を援用して



「達成動機づけの帰属理論」で有名なバーナード・ワイナー(米国の心理学者)は、成功と失敗の因果関係の要素を、「能力」・「努力」・「課題困難度」・「運」の4つの要素で示したが、前二者が内的要因で、後二者が外的要因という風に把握し得るもので、この仮説を援用して本作を批評したい。

本作で描かれた弱体相撲部の面々には、これらの要因の中で、最も重要な「能力」・「努力」・「課題の困難度」の3つの要素が、彼らの成功要因を妨げる重大な障壁となっていた。

まず、この問題意識が重要であるだろう。

とりわけ、「能力」・「努力」という内的要因の延長された低度と、3カ月後に迫った3部リーグ戦の突破という「課題困難度」との間には、相当の乖離があった。

従って、「出たとこ勝負」の「運」のみで突破するのは、殆ど絶望的状況であったと言える。

それ故、少しでも、「道修行」としての相撲の力量総体のレベルを上げていくに足る、絶対的必要条件がそこにあったにも拘らず、この重大な障壁を突破することの困難さを顕在化させていたもの ―― それは、彼ら自身が早々と、「課題困難度」の障壁の堅牢さを主観的に認知していたために、成功のための必須な内的要因としての、「能力」の向上に繋がる「努力」の無意味さを感受してしまっていたからである。

単に、だらだらとシコを踏み、稽古を重ねるだけでは、弱体相撲部の力量総体の底上げの強化は覚束(おぼつか)ない。

元より、未経験者を寄せ集めただけの、弱体相撲部に集合した面々の動機には、卒業に必要な単位取得の条件で、気の乗らない相撲部員となった主人公の他、家賃不要という理由で相撲部寮入りを果たした留学生、単に肥満だからという理由で勧誘された小心で孤独な学生、美人の相撲部マネージャーへの恋慕で入部した主人公の実弟、その実弟への恋慕で押し込みヘルパーとなった肥満女子、等々、それぞれ差異がありながらも、部員の全てが主体的意志によって媒介されたものでないことは確かだった。

だから彼らには、何よりも相撲部員としての、最低限の尊厳を保証するに足るモチベーションの革命的底上げが必要だったのである。

教立大学相撲部の顧問・穴山
このモチベーションの革命的底上げを巧みに誘導したのは、本作の主人公である山本秋平の卒論指導教授であると同時に、元学生横綱で教立大学相撲部の顧問・穴山だった。

穴山の実家に合宿に行った相撲部の連中が、そこで味わった決定的な屈辱。

それは、「辛抱・我慢」と掛け声を挙げて鍛える、地元の「腕白相撲」の小学生相手に練習試合を行うこと。

ところが、「腕白相撲」をバカにした相撲部の面々は、背丈の劣る「腕白相撲」の小学生に、悉(ことごと)く負けてしまうのだ。

「体力があれば勝てる」と豪語していた英国の留学生は、「内無双」(注1)で呆気なく倒されてしまう。

「相撲は、いかに相手のバランスを崩すか、それが大事なんだ」

穴山のレクチャーである。

秋平
その穴山から、最も勝負強いと見込まれている秋平もまた、背丈の劣る「腕白相撲」の小学生に投げられる始末。

更に、気が強いだけで、相撲部の面々の中で最も体力が劣る秋平の弟の春雄は、小学生に押し倒されて負けた悔しさで、相手の小学生に暴力を振るう体たらく。

それを視認した穴山が、「もう一回!」と向かっていく所に、的確なアドバイスを与えたことで、初めて小学生に勝ったのである。

「猫騙し(ねこだまし)」(注2)

それが、春雄に授けた穴山の戦法だった。

まもなく、穴山と相撲部員との戦法授受によって、連戦連勝の弱体相撲部の面々の得意顔が映し出されていく。

このような方法による、弱体相撲部の力量総体の底上げを図る穴山の戦略には、明瞭に、彼らのモチベーションの革命的底上げへの視野が包含されていた。

「相撲、舐めんのもいい加減にしろ」

やがて3部リーグ戦での最強のライバルとなる、他大学の相撲部員たちに嘲笑される教立大学相撲部の面々は、この挑発に乗って大立ち回りとなるが、これが弱体相撲部の面々のプライドに火を付けていく。

この喧嘩騒動以外は、弱体相撲部の力量総体の底上げを図る穴山の戦略の手の内にあったのである。



3  「道修行」の奥の深さと、モチベーションの変容過程、そして、主人公の人物造形による訴求力の高さ



小学生相手の練習試合を巧みに仕掛けた穴山の戦略が見事に嵌って、弱体相撲部の面々に変化が表れる。

即ち、モチベーションの革命的底上げによって、「能力」・「努力」・「課題困難度」という、成功と失敗の因果関係に大きく関与する内的・外的要因の圧倒的なハードルの高さを、ほんの少し下げるための覿面(てきめん)の効果を発揮していくのだ。

前述したように、この辺りは、如何にも、「道修行」のオーソドックスなプロセスを描いた予定調和のスポ根ムービーのフラットな物語であるという印象を拭えないが、登場人物の絶妙な関係構造と、その交叉が無駄なく描かれていたこと。

これが良かった。

とりわけ、100分という、長尺にならない物語構成の中で、主人公を補完する充分な個性の出し入れを拾い上げ、「道修行」としての、「相撲道」という名の伝統的スポーツの成功因子を、達成的に具現していくプロセスをきっちり描き切っていたこと。

これが最も良かった。

例を挙げると、以下のエピソードに集約されるだろう。

相撲部の存続のために8年生にまでなっている、竹中直人扮する、最弱の古参部員の青木が、3部リーグ戦での「運」による外的要因子の勝利(下痢が我慢できずに、立会いの際に突き出た頭が相手に当たって初勝利)が推進力となって、初めて自信が芽生え、「得意」の「内無双」で完全に勝利するケースに象徴されるように、内的要因である「能力」・「努力」によって、最大の障壁であった外的因子の「課題困難度」を克服する、2部交代戦の突破まできちんと描き切っていたこと。

恐らく、この辺りを「最終到達点」にした映像構成の落しどころの上手さが、考え抜かれた娯楽映画の骨格を成していた。

当然ながら、そこには、「たかが相撲」という安直な把握で物語を構成しなかった、表現者としての真摯な姿勢が明瞭に映像化されていて、最も好感が持てる一連のシークエンスだった。

このようなモチベーションの形成をしっかり描くことで、本作は極めて緻密な構成力による、構築性の高い娯楽映画としての輝きを放っていく。

この一連のモチベーションの形成過程を描いたことで、殆ど、後半の予定調和のサクセスストーリーの成就が約束されたと言っていい。

その辺りを厭味にならないような節度を保持して描き切るのは、まさに、コメディラインの中に爽やかな感動譚を嵌めこむ、この種の娯楽映画の王道なのだ。

ともあれ、サクセスストーリーが完成した物語のラストシーンでは、知的濃度の高い作り手である周防正行監督の、そこだけは外せなかったであろうメッセージが代弁されていた。

以下、そのシーンだけは書いておこう。

「どうしたの?」

一人で相撲部の土俵でシコを踏む秋平を見て、不思議そうに尋ねたのは、清水美砂扮する、相撲部の美人マネージャー。

「考えてたんだ。もう一年やってみようかって」と秋平。
「え?」

あれほど脱体育会系の乗りでキャンパスを舞っていた、秋平の想定外の反応に、驚く美人マネージャー。

「相撲部を潰したくない」と秋平。
「就職は?」
「もう、楽してズルするのは止めだ」

丁寧な映画作りに徹する周防正行監督の仕事を彷彿させる、本作の基幹メッセージである。

「ね、シコを教えてくれる」


歓びを隠せない美人マネージャーに、シコを教える秋平。

「私も、シコふんじゃった」

決定力のあるラストカットだった。

面白過ぎる映画の成功には、以上、縷々(るる)述べたように、「道修行」の奥の深さと、モチベーションの変容過程、そして、この映画を最後まで引っ張り切った主人公・山本秋平の人物造形という、3つが要素がきちんと描き切れていたこと。

それが、全てだったような気がする。


(注1)自分の上手で相手の足の膝 の内側を掬い上げ、体を捻って相手を倒す技。(Wikipedia)

(注2)立合いと同時に相手力士の目の前に両手を突き出して掌を合わせて叩くこと。(Wikipedia)


(2012年2月1日)

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