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2012年3月21日水曜日

ヤコブへの手紙('09)      クラウス・ハロ

<「映画の嘘」の自在性の中で暴れ過ぎてしまった物語 ―― 感動譚の軟着点ありきという、ラストシークエンスに収斂される御都合主義の映像構成>



1  内面的に必要とする他者の存在を感受していない中年女と、内面的に必要とする他者の不在を認知せざるを得ない老牧師の物語



自己の人格的存在性を、内面的に必要とする他者の存在を感受していない継続的な心的現象の有りよう ―― 私は、この狭義な定義を「孤独」と呼んでいる。

それは、内面的に必要とする他者の存在を否定できなくとも、本人が感受していなければ、その者は「孤独」なのである。

本作で描かれた二人の人物の物語を、「孤独」という概念で説明するならば、以下のように括られるだろう。

即ち、内面的に必要とする他者の存在を否定できないにも拘らず、本人が、その事実を継続的に感受していない中年女=レイラと、内面的に必要とする他者の存在を感受することで、それを生き甲斐にしている老牧師=ヤコブとの関係を通して、内面的に必要とする他者の存在を認知することによって、「孤独」の深い闇から脱却し得た前者が、内面的に必要とする他者の存在を感受していたという幻想が、「どれも私のためだったんだ」という現実に晒されることで、内面的に必要とする他者の不在を認知せざるを得ない心的現象に搦(から)め捕られた、後者の自我の最大の危機を「小さな奇跡譚」の挿入によって、その最期を看取り、新たな人生を起動させていく物語である。

「孤独といふのは独居のことではない。独居は孤独の一つの条件に過ぎず、しかもその外的な条件である。むしろひとは孤独を逃れるために独居しさへするのである。隠遁者といふものはしばしばかやうな人である。孤独は山になく、街にある。一人の人間にあるのでなく、大勢の人間の『間』にあるのである」(三木清 『人生論ノート』 新潮文庫) 

これは、三木清(画像)の有名な孤独論の一節。

まさに言い得て妙な表現だが、本作の二人の人物の場合、殆ど、「街」という空間と無縁な片田舎で「独居」している老牧師と、獄舎という「異界」で、大勢の人間の「間」にあるという印象を持ちにくいが故に、「独居」していたように見える中年女の「孤独」の様態が映像提示されている。

ところが、本作で映像提示されている、二人の人物の係り合いの物語に対する私の評価は、幾つかの点において受容し得ない一篇になっている。

「映画の嘘」の自在性の中で暴れ過ぎてしまっているからだが、本稿の批評は、この点についての瑕疵が中心となる。



2  攻撃性が自己に向かう老牧師と、攻撃性が他者に向かう女との決定的乖離が晒された関係構図の凄惨さ



物語を、テーマに関与する部分において起こしてみる。

件のレイラの「孤独」の実相は、既に、冒頭のシーンのうちに映像提示されていた。

「12年間、休暇をとっていない。一度も申請してないそうだな」
「必要なかったから・・・」
「家族との面会もか?」
「それも必要なかったので・・・」

刑務所長とレイラの短い会話である。

「頼んだ覚えがありません」

これは、終身刑の囚人レイラの恩赦による釈放が決まり、ヤコブ牧師宅での住み込みの仕事が手配されても、怪訝(けげん)な表情を見せるレイラの反応。

追われるように出所したレイラの行き先は、盲目の老人ヤコブの古い牧師宅。

ヤコブ牧師宅でのレイラの「仕事」は、日々欠かすことなく届けられる手紙を読み、聖書の言葉を引用した返書を代筆すること。

これまで代筆を依頼していた近隣の女性が老人ホームに入所したので、レイラが代りに頼まれたという顛末(てんまつ)が背景にあるらしいが、恩赦による釈放に対しても不本意な反応を示したレイラには、牧師宅の存在自体、ほんの一時(いっとき)の休憩スポットという観念しか持ち得ない。

そんなレイラを温かく迎え入れるヤコブ牧師。

早速、レイラの「仕事」が開かれるが、ここから登場人物が、もう一人加わる。

新品の自転車に乗った郵便配達人である。

彼によって、毎日届けられる手紙を読み、代筆するレイラ。

「親愛なるヤコブ牧師様…」という常套表現から始まる文面には、日常・非日常に出来する様々な悩みごとの相談ばかりだが、全ての相談に対して丁寧な代筆をさせるヤコブ牧師。

この「仕事」への使命感に支えられたヤコブ牧師の自我にとって、自らの存在そのものが、手紙を書いてくる人々の「希望の灯」であるという確信が、敢えて雨漏りのする家屋に住み続ける唯一の理由だった。

ところが、レイラの牧師宅での住み込みと時を同じくして、ヤコブ牧師への手紙が途絶してしまうのである。

毎日の仕事に嫌気が差していたレイラが、汚水槽に捨ててしまう不徳行為も関与しているが、夜間に忍び込んで、レイラに恫喝された郵便配達人の不可解な態度も関係しているようにも見える。

件の郵便配達人は、ヤコブ牧師の「生存」の有無が気になったと弁明するが、この不毛な「謎」は、最後まで明かされることがないのだ。

「そんな日もあるさ」と淡然と構えていたヤコブ牧師だったが、この状態が延長されるに及んで、明らかに心境の変化が起こってきた。

「私のように眼の不自由な、ただの老いぼれは必要ないのだ」

頼まれもしない結婚式に教会に赴いた際に、随伴者の役割を果たしたレイラに吐露したヤコブ牧師の言葉である。

以下、そのときの二人の会話。

「この聖書は、幼い頃から持ち歩いているものだ。よく誰かを捕まえては、読んでくれとせがんだよ。どの節も、どの章も、どの詩篇も。全て覚えて、そして人に教え始めた。そうすべきだと、思い込んでいたんだ。それが私の役目だと・・・人のために祈るのが私の使命だと信じてきた。とんだ自惚(うぬぼ)れだったな。もう、手紙も届かないというのに・・・」

信仰心の希薄なレイラに、「孤独」を実感して脱力感の顕著な老牧師が、弱音を吐くのだ。

「それが何だと言うの?」

老牧師の偽善性を感受して、突き放す女。

「誰も私を必要としていないなら、神も私には何も求めていないのだ。必要ないということだ。恐らくそうだ。さっき、祈りの言葉を思い出そうとしたがダメだった」
「そう。なら、もう祈らなければいい。私の恩赦も、自分を満足させるため。私がいつ、あなたに頼んだ?」

どこかで慰撫(いぶ)されることを望みながら、攻撃性が自己に向かう老牧師の偽善性を見透かすような女は、内側に貯留する攻撃性をダイレクトに放つことで、どこまでも、そこに露わにされる相互の距離を埋める柔和なる情感投入を拒絶するのだ。

「連れて帰ってくれ」

偽善性に張り付く者の弱さを見せつけられて、遂に、老牧師の懇願をも拒絶する女の攻撃性が炸裂するのだ。

盲目の老牧師を遺棄して、一人で帰っていく女。

誰もいない教会に遺棄されて、虚しい祈りに向かう老牧師。

攻撃性が自己に向かう老牧師と、攻撃性が他者に向かう女との決定的乖離が晒された関係構図が、教会という名の、「良心」を開陳(かいちん)する特化された限定スポットの中枢で露呈され、凄惨なまでの印象が炙(あぶ)り出されて閉じていった。



3  「最後の仕事」を為し終えた老牧師の昇天と、「最後の仕事」を深い睦みのうちに随伴した女の再起動という「奇跡の感動譚」



牧師宅に戻ったレイラは、ヤコブ牧師の金を盗み、一人でタクシーを呼んで出奔しようとした。

しかし、タクシーに行き先を聞かれて、答えられないレイラ。

出奔しようとしても、行き先を持たないレイラは、結局、牧師宅に戻るしかなかった。

牧師宅に戻っても、アイデンティティの喪失を延長させるだけのレイラが流れていった選択肢は、内面的に必要とする他者の存在を感受し得ない「孤独」の深い闇の世界で、自己の存在を否定し切る方略しかなかった。

自殺を決行するが、未遂に終わったレイラがそこにいた。

そのレイラの息遣いが聞こえて、苦労して帰宅して来た老牧師の、いつもと変わらぬ柔和な声がアウトリーチされていく。

「レイラ、まだ、この家にいてくれたんだね」

この一言が、頑なレイラの自我が潜り込んでいた、「孤独」の深い闇の世界にまで届いたとき、この世に自らを必要とする他者の存在を、魂の芯の辺りで感受し、そこから未知のゾーンを開き、何かが決定的に動き出していく。

まもなく、「孤独」の深い闇を抉(こ)じ開けて、決定的に動き出していった中年女と、「孤独」の深い闇に呑まれていく老牧師が、内面的に絡み合う時間が分娩されていく。
「今まで私は、神のために役立つと信じてきたが、逆だったかも知れん。手紙はどれも私のためだったんだ。神が与えて下さったのだよ。全ては、この私を天国に導くため」

内面的に必要とする他者の不在を認知せざるを得ない、シビアな心的現象に搦(から)め捕られた老牧師にアウトリーチしたのは、今度は中年女の方だった。

攻撃性が自己に向かうヤコブ牧師に、深い空洞の時間を突き抜けて、再び届けられた手紙。

それは、ヤコブ牧師宛ての、他者からの手紙を偽装した、神の救いを求めるレイラの告白だった。

以下、他者からの手紙を偽装したレイラの、その屈折した人生の流れ方を吐露する告白の内実。

「親愛なるヤコブ牧師。神や恵みの話を聞きました。母は暴力癖があり、姉が私を守ってました。赤ん坊の私が眠るベッドの前に立って、母の機嫌が悪いと、私の身代わりに、姉が殴られていました。“赤ちゃんを殴らないで”と叫びながら・・・姉はとても勇敢でした。身をもって守るなんて。私の体の方が大きく成長した後もです。大人になり、力も強くなった私は、男性の多くいる仕事に就きました。姉が嫁いだ相手は、母同様、暴力を振るう男で、四六時中、姉を殴っていました。止める気配はありませんでした。一度、姉を訪ねた時に、殴られる姿を目撃しました・・・休憩を挟みながら殴り続けました。私は木陰に隠れました。こっそり見ているうちに、怒りが爆発しました。家に入り、そいつにナイフを突き刺しました。彼を殺したんです。姉を救うつもりが、大切な夫を奪うことに。私は赦されますか?教えて下さい」

涙交じりのレイラの告白が閉じたとき、それを聞き入ったヤコブ牧師からの、了解済みの問いがアウトリーチされた。

「名前は書いてあるか?」
「はい」
「レイラ・ステーンか?」

既に、一切が了解済みの短い会話には、もう、答えるべく何ものもなかった。

「“それは人間にできることではないが、神は何でもできる”」

それが、ヤコブ牧師の答えだった。

心奥に秘めた思いの一切を吐き出し切ったレイラが、映像の中で初めて見せる神々しいまでの表情を視認し得なくとも、それを清廉なイメージのうちに受容したヤコブ牧師は、「見せたい物がある」と言って、家の中に戻って、持って来たもの ―― それは、手紙の束だった。

その手紙の束の差し出し人は、レイラの姉。、

以下、レイラが読む手紙の文面。

「妹のことが頭から離れません。私の苦痛の唯一の理解者です。刑務所に面会を申請しても、毎回、妹に断られました。送った手紙は、未開封のまま戻ってきます。二度と会えなくても、暮らしぶりも知れないなんて耐えられません。たった一人の妹です。彼女のいない今、私は一人ぽっちです。だからこうやって、何度もお願いするんです。妹は今、どこかで平穏に暮らしているのでしょうか。それさえ分れば、安心できるのです リーサ・ステーンより」

この世に自らを必要とする思いの、それ以外にない対象人格の存在を認知した瞬間を、まさに狙い済ましたかのように、物語のピークアウトに持っていく映像の決定的な軟着点が、そこで情感深く拾われていくのである。

それは、「最後の仕事」を為し終えたヤコブ牧師の昇天と、「最後の仕事」を深い睦みのうちに随伴したレイラの、「孤独」の闇深い、屈折した人生を再起動させていく構図をラストカットにして、「奇跡の感動譚」のうちに括った映像が閉じていった。



4  自らの「マインドセット」として看過し難い、あまりに出来過ぎた映画の感動譚のトラップ



感動を予約して映画を観る人が、その予約された感動を手に入れられなければ、木戸銭の返還を求めるレビューを寄せるかも知れないし、また、予約された感動以上のものを手に入れれば、未だ件の映画を観ていない人に、その感動を話したいと思うだろう。

人間には、自らが占有していると看做(みな)す心地良き情報を、自分と最近接する他者と共有したいという願望を持つからである。

それは、ごく普通の人間の心理であると言っていいので、特段に問題はない。

ただ、一つ言えることは、そのような人には、既に、ある種の「心の構え」が存在するということだ。

この類の「心の構え」を「マインドセット」と呼ぶには、些か概念定義に問題があるだろうが、取り合えず、ここではこの概念を使用したい。

そのことを前提にして言えば、この「マインドセット」が意外に厄介な代物なのだということである。

「マインドセット」の対象となる情報に対する情感濃度が、初めから特化されて形成されているからである。

中には、その瑕疵を貶(けな)し、悪態をつくために、映画を観る人もいるかも知れない。

それもまた、「趣味」の範疇に属するものとして看過すべきなのだろう。

ところで、感動を予約することも、悪態をつくことも、映画を観る目的のうちに収斂されていない私は、体の不自由さの故に限られた時間と、行為の内実の物理的制約から、いつしか、映画を観るフラットな趣味を、自分の思考トレーニングの格好の手立てとして付き合う習慣を身につけてきてしまっている。

そんな私が、この映画の途中から気になった疑問が、最後まで回収されない伏線の問題として認知することで、些か落胆したのは事実である。

それ以上に、私にとって看過し難い問題が内側で湧き起こったのは、ミニマムにまとめられた感のある本作を、一気に観終わった直後に分娩されたものである。

多くの人々に、感動の涙を誘(いざな)ったであろう本作の、あまりに出来過ぎた軟着点に根本的な疑問を持ったのである。

あまりに出来過ぎた映画の感動譚のトラップこそ、私には既に、自らの「マインドセット」として看過し難い問題意識になっているからだ。

本作もまた、その例外ではなかった。

以下、本稿では、その辺りについて言及したい。



5  「映画の嘘」の自在性の中で暴れ過ぎてしまった物語 ―― 感動譚の軟着点ありきという、ラストシークエンスに収斂される御都合主義の映像構成の瑕疵①



はっきり言って、本作は、「映画の嘘」の自在性の中で暴れ過ぎてしまっている。

そこだけは狙い済ましたかのようなラストシークエンスを、物語のピークアウトに持っていく軟着点に収斂される、御都合主義の印象濃度の高さを否定し得ないような、ヒューマンドラマとしての感動譚の、「展開のリアリズム」に重厚に関与する映像構成において、殆ど致命的とも言える瑕疵を犯しているからだ。、

シンプルだが、心理サスペンスの気分を漂わせる物語の振られ方のうちに、ごく普通の感性で入り込んでいくことができた人々には、これ以上のカタルシスを得られない感動譚の中で、束の間、「贖罪」=「神の包括的愛」などと夢想して軟着できるかも知れないが、観る者を感涙させるための感動譚のトラップを最も嫌う私には無理だった。 

そこに挿入された、とうてい許容し難い瑕疵の問題を簡単にスル―できないからである。

一つ目は、殆ど末梢的なものとして処理されるだろうが、なぜ、突然、手紙が牧師宅に届けられなくなったのかという問題だ。

これは、後述する二点目に比べればスル―してもいいのだが、些か気になったのは事実。

それについての映像的提示が殆どないので、観る者に完全に委ねられてしまっている。

しかし、観る者の想像力に委ねる物語の内実には、基幹テーマが包括する問題の解決の困難さの故に、解釈の自在性が許容される場合に、ほぼ限定されると私は考えているので、回収されない伏線の杜撰さとは無縁に、この問題の処理に関わるサスペンス気分の漂流感に大いなる違和感を覚えるのだ。

しかも、この手紙の問題については、明らかに、日々配達される手紙を受け取り、その返事を口述させる行為を、多大な使命感によって遂行する牧師の自己像の、決定的な変容を告げるモチーフとなっているので、まさに映像構成の肝と言える由々しきエピソードなのである。

物語の骨格の中枢点であると言ってもいい。

この由々しきエピソードについて、殆ど映像的提示をせず、観る者の想像力に委ねるという展開はあまりに粗雑過ぎる。

なぜなら、それによって、観る者が、映像構成の肝と無縁な辺りで、不必要な想像力の駆使の要請を強いられるので、物語の推進力としての人物造形に無用な幅を作り、ラストシークエンスの決定力を希釈化してしまうのである。

例えば、「郵便配達夫犯人説」などの解釈が可能(注1)だが、しかし、このような不必要な想像力の喚起を、観る者に強いる意味は全くないのだ。

映像的提示が殆どないのは、それを提示する説得力ある描写を持ち得ないからという外にない。

脚本の致命的瑕疵と言ってもいい。

杜撰過ぎる。

稚拙過ぎる。

「贖罪の風景」の切り取り方において、あまりにも巧みに、且つ、「良い所取り」を摂取し、美味しくまとめられた「映画の嘘」の自在性の中で、恰も、「神意」に沿って殉教していくかの如く、老牧師が昇天することで、深い「孤独」の闇から解かれた女の、既に、贖罪を経た人生の再起動を導くかのような、それ以外に考えられない感動譚の軟着点ありきという、ラストシークエンスへの爆発的な突沸(とっぷつ)に収斂される御都合主義の所産であった。

そう印象付けられるのである。


(注1)郵便配達人が夜間に忍び込んだのは、ヤコブ牧師宛ての手紙の回収という仮説が最も相応しいと思われるが、それすらも曖昧に流していた。



6  「映画の嘘」の自在性の中で暴れ過ぎてしまった物語 ―― 感動譚の軟着点ありきという、ラストシークエンスに収斂される御都合主義の映像構成の瑕疵②



二つ目は、レイラが面会を一切拒絶し、姉が出した多数の手紙の封をも切らないで返送したという設定。

これは、物語の根幹に関わる問題であるだけに、私としては、とうてい看過し難かった。

姉に対するレイラの、殆ど全人格的拒絶とも思える、屈折した行動の心理的背景には、特段に、「神と対峙した者」が特定的に選択する自罰行為として解釈し得る映像提示が全くないので、彼女のこの行為が、明らかに、義兄を殺害したことで配偶者を喪った姉からの倫理的制裁を畏怖する感情もあったのか、少なくとも、「姉から見放された存在」という自己像に振れるに足る、極端な主観的把握が横臥(おうが)していたという印象を拭えなかった。

この映像構成の設定のうちに、「配偶者を奪った妹」であることによって、「姉から見放された存在」という心的状況下に置かれた彼女が、それ以前の蜜月期を形成したであろう、拠って立つ自我の唯一の安寧の基盤だった姉との関係を途絶されたことで、「誰からも求められない存在」という自己像に流れ着いた経緯が容易に読み取れる。

自己の人格的存在性を、内面的に必要とする他者の存在を感受していない、継続的な心的現象の有りよう ―― 即ち、内面的に必要とする他者の存在を否定できないにも拘らず、本人が、その事実を継続的に感受していない深い「孤独」の闇の世界に潜り込んでいったのである。

然るに、私は、その映像構成の設定に根本的な疑問を持つ。

終身刑を受けた刑事裁判所において、姉の証言が存在しなかったとはとうてい考えられないという前提に立てば、レイラは姉からの、「妹を思う心情」の吐露を、法廷の場で受容していたはずである。

もし仮に、姉の証言の内実が、「配偶者を奪われた寡婦」による「恨み節」が吐露されていたとすれば、収監後の、姉からの自分に対するアプローチを拒絶した理由が説明できなくもない。

しかし、そうであるならば、ラストシークエンスでの、姉の心情が吐露される、ヤコブ牧師宛ての手紙の中で、「配偶者を奪われた寡婦」による「恨み節」についての、弁明に近い思いが表現されていなければ、この極上の感動譚の物語は自己完結し得ないのだ。

言うまでもなく、ヤコブ牧師に頼らざるを得なかった姉の手紙の文面から察する限り、「妹への恨み節」を想像し得るような心情が全く読み取れないのである。

この手紙から類推する限り、「彼女のいない今、私は一人ぽっちです」とまで書いた、妹に対する姉の心情は一貫していると見るべきである。

それ故に、妹に対する姉の心情が、刑事裁判の証言の中で吐露されない訳がないのだ。

仮に吐露されなかったとしても、妹を思い遣る姉の切実な感情を集合させた行為、即ち、刑務所への複数回に及ぶ訪問や手紙の送付が、妹から拒絶されるという事態は考えにくいと言わざるを得ないのだ。

このときのレイラが置かれた屈折した状況心理を斟酌してもなお、彼女が姉を追い返し、手紙の文面に全く眼を通さなかったという事態は、ごく普通の人間の心理学的な考察に依拠するまでもなく、理解し難い行為であった。

加えて、看過し難い設定 ―― それは、「自分を拒絶する妹」をヤコブ牧師に委ねたとしても、未来のない絶望的な人生の自己像がイメージされない訳がないので、レイラが牧師館に住み込みで働くようになる状況下にあって、「妹は今、どこかで平穏に暮らしているのでしょうか。それさえ分れば、安心できるのです」と手紙に書いた姉が、いの一番に駆け付けていく行為こそ自然であるだろう。

敢えて毒突けば、それ以外に考えられない自然な行為を捨象することで作り出した映像の浅薄さは、寧ろ、このような自然な行為に対する鈍感な稚拙さに淵源すると思われるのである。

物語の基本骨格を左右する程のエピソードの伏線が、詰まるところ、ラストシークエンスの感動譚に持っていくための、ご都合主義的な映像構成の大団円のうちに、安直な回収をする何かでしかない印象を拭えないのだ。

何のことはない。

一切は、ラストシークエンスへの爆発的な突沸(とっぷつ)を演出するための稚拙な作為が、短編映画と思しき極めて均衡感の乏しい、粗雑な映像構成の小宇宙の感傷系の世界で暴れていたとしか受容し切れないのである。

感動を意識して狙った映画の多くが、その場限りのカタルシスに終始するのは映像構築力の脆弱さに起因すると言っていい。

だから私には、相当厭味な映画になった。

「映像の嘘」の自在性をも突き抜けて、このような作為性丸出しの映画を見せられても、深い余情が残るような完成度の高さとは無縁な、ジャンクな作品群の一つでしかない凡作という評価しかできないのである。

「まったく知らない人からメールで原案が送られてきました。寝込んでいなかったら、名前も知らない人が書いた原案など読まなかったと思う。とりあえず最初だけ読んでみようと思ったのですが、あっという間にこの素晴らしい世界に引き込まれてしまい、涙を流しながら読み終えた自分がいました(笑)。脚本を書いたのは、40歳の元ソーシャルワーカーで、休職して映画学校に通っている女性でした。彼女は教師に勧められるまま、私のところに送ってきたに過ぎませんでした。原案を読んですぐに彼女に連絡を取り、登場人物がいかに魅力的で素晴らしい物語かを伝えました。そして、書き直しを快諾してもらいました」(「ヤコブへの手紙」クラウス・ハロ監督インタビュー・インタビュー/鈴木こより)

これは、作り手であるクラウス・ハロ監督(画像)の言葉。

件の元ソーシャルワーカーの人生経験の多寡や、人生観の拠って立つ思想的基盤については不分明だが、限りなく「携帯小説」風の物語をメールで受け取って、それに嗚咽しながら読み終えた作り手の、手に負えないようなナイーブさと稚拙さに、正直、閉口する。

だから、これは存分にナイーブで、映像構築力の高さにのみ関心を有する者が恥ずかしくなるような、致命的瑕疵を持つ構成力を晒すに充分な稚拙な映画になった。

最後に、余稿として書いておく。

以上、縷々(るる)書いてきたが、重箱の隅をつつくように、決して貶し、悪態をつくために言及した訳ではない。

本来なら、もっと素直に受容すべきなのだろうが、どうしても私には、この映画が、レイラが郵便配達人を詰問する場面から開かれる、ラストシークエンスのみにリアリズムを挿入しただけの、一貫して、「大人の童話」という印象を拭えない映画だった。

「大人の童話」とは、「行間を語らない、或いは、行間を語ることから回避した物語」という意味である。

加えて、登場人物が3人しかいないのに、姉を思うが故の殺人を犯したレイラの人格の崩れ方や、且つ、「死んでもいい」という思いで遺棄したはずの牧師に対する感情が、単に、牧師の一言のみで成就する「レイラの改心」に象徴されるように、人物造形が極めて脆弱であるばかりか、時系列の曖昧さ(注2)も気になって、最後まで馴染めない「ヒューマンドラマ」を仮構した「大人の童話」という印象を拭えなかった訳だ。

私にとってそれ以上でも、それ以下の作品でもなかったということだ。

(注2)牧師宛ての姉の手紙が、いつ書かれたかなどだが、それに関しては、ラストカットを観る限り、レイラの姉の健在が約束済みでなければ可笑しいのである。

(2012年3月)

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