検索

2016年1月5日火曜日

ローマ環状線、めぐりゆく人生たち(‘13)     ジャンフランコ・ロージ

<光と色彩のシャワーによる摩訶不思議な世界の昼夜の光景の変容>



1  固有の人生を人知れず繋ぐ人々の時間の断片を切り取る映像空間



「GRA環状高速道路はイタリアで最長を誇り、土星の輪のようにローマを取り囲んでいる」

冒頭のキャプションである。

サイレンを鳴らして走る救急車が患者を搬送するシーンから開かれるGRA(グランデ・ラッコルド・アヌラーレ)は、周囲約68kmの無料の環状高速道路で、ファシスト党政権下のムッソリーニによって建設が始められた「アウトストラーダ」という名で有名である。

土星の輪のようにローマを取り囲むGRAには、世界有数の大都市・ローマの眩(まばゆ)い輝きを放つ観光イメージと切れ、殺到する旅行者たちが出会うことのないイタリア人の様々な暮らしがある。

疾走していく車の洪水の激しい音声が聞こえるGRAに接する周辺の一角に羊牧場があり、そのエリアで、ヤシの植林から害虫の発生を防ぐために、樹の中の害虫の声を音波探知機で聞き取っていく植物学者。

自分の広大な土地を、映画撮影や宿泊施設などとして貸し付ける元貴族のオーナー。

撮影への貸し出しを許可し、当人の元貴族は、その撮影中にパソコンのカードゲームで愉悦した後、豪勢な部屋の浴槽で葉巻を燻(くゆ)らせている。

その後、元貴族は妻と一緒に華美な衣装をまとい、リトアニアからの訪問客を接待する

また、「あなた生む素晴らしさ」などと歌い、キャンピングカーで暮らしながら、自由を謳歌するゲイの街娼らの陽気な生活者。

それでも、警察への恨みを持ち、弁護士を雇うことなど、極めてリアルな会話を繋いでいる。

「本当にゴミみたいな人生だわ。金持ちばかり、いい思いをする世の中なんて」

そんな愚痴を吐きながら、一人のゲイの街娼は、色彩の芸術とも言えるような「マジックアワー」(日没後の薄明の時間帯)の中枢で、体を揺すりながら楽しそうに歌っている。

「もし、フランスからウナギを持って来たら?アメリカとアフリカのウナギを、この国の環境で養殖したらどうなる。そいつらが10個、病原体を持ってたら、生息環境の違いのせいで、200万個に増殖するさ。そして、それを全部ごちゃ混ぜにするわけだ。こいつらの調査をするなら、ロシアかアメリカでやればいいんだ。だが、ごちゃ混ぜはダメだ。養殖するなら、この国のウナギでしたらいい」

これは、イタリアで3番目に長く、ローマ市内を流れるテヴェレ川で、自国産のウナギ漁を本業にする漁師の愚痴である。

言葉を選びながらも、外国産ウナギの輸入に憤慨しているのだ。

その隣で、縫物をしながら、恐らく、日々聞かされているだろう夫の話を無視するウクライナ移民の老妻との対比が滑稽だった。

自国産のウナギ漁を本業にする漁師
近くには、カメラを意識しつつ、笑みを浮かべている若者がいた。

更に、運河に転落した男性の体を救助して、凍死しないように必死に体を温めたり、横転事故の車から130キロほどのスピードで走行する若者を助け出す先の救急隊員。

「休むと給料をもらえない」

命が救われたそのドライバーの苦衷(くちゅう)の吐露である。

件の救急隊員は帰宅後、食事の支度をしながら、パソコンのデスクトップで二人の友人らとチャットをしている。

その雰囲気から独身らしい。

救急隊員
そして、いつものように実家(?/明らかに、物理的環境や会話などから自宅と異なる)に寄り、認知症と思しき母親の介護(画面から判断すれば在宅介護とは思えない)をする、この中年の救急隊員にとって、他者の生命を守り、搬送する仕事を延長させつつ、「この美しい肌。まるで王女様だ」などと優しく言葉をかけ、寄り添う日常性こそ、何より捨ててはならない人生なのか。

生々流転する人生をなぞっていくように、場面を目まぐるしく遷移させながら、GRAを円環的に囲繞し、恣意的に切り取った人々の暮らしの断片が次々に紹介されていく。

高層のアパートには、色々な人生が彩りを添えていた。

そのアパートの窓から世俗の光景を覗いて、世間話を繋ぐ男がいる。

イギリスの作家・ロレンス・ダレルの話題など、知的な会話まで娘と喋り続ける、好奇心旺盛な老紳士の言葉である。

「どこからでもサンピエトロ大聖堂が見える」

有名な観光スポット・バチカン市国の象徴のカットを映さない辺りに、この映画のメッセージが読み取れる。

饒舌すぎる老人の世間話
それにしても、饒舌すぎる老人の世間話が1日中引っ切り無しに続き、まるで終わりがないようだった。

裏寂れた街の色彩の洪水の中で踊る風俗嬢たち。

彼女たちも、噂好きの饒舌を止めることはなかった。

一方、先の植物学者は、ヤシの害虫を手に持ち、極めて哲学的な語りを繋いでいる。

「組織化された社会構造を持つ。中には、卓越した能力を持つ者もおり、遠く離れた距離から獲物を嗅ぎつける。そこに仲間を呼び集めて、繁殖のために団結する。彼らは一斉に敵を攻撃し、卵を産みつけることで、その場を占拠する。なくなるまで、1つのヤシを食べ続ける。ヤシにとっては深刻であり、人間にとっては象徴的だ。ヤシは人間の魂の形をしているからだ」

自宅の書斎に戻り、害虫退治の研究を惜しまないこの植物学者のエピソードだけが、大都市・ローマを取り巻く高速道路の周囲に呼吸する人々と切れる静寂な空間を作り、何か深淵な雰囲気を醸し出しているようだった。

植物学者
そんな摩訶不思議(まかふしぎ)な映像空間が、突然、究極のリアリズムの世界を映し出す。

引き取り手のない親類縁者のいない無縁仏の遺体が、共同墓所に移されていく風景のシーンである。

「生理的寿命」(人間の個体の限界寿命)の臨界点の中で、固有の人生を人知れず繋いできたであろう人たちの最終到達点の一つが、そこにあった。

その共同墓所に雪が降り積もっていくのだ。

渋滞する車に積もる雪が、この大都市に季節があることを、観る者に映像提示する。

ラストは、様々な色彩に彩られたローマ環状線をコラージュさせて閉じていく。

最後まで、不思議ワールドを切り取った映像宇宙は、紛れもなく、私たちホモ・サピエンスの裸形の相貌だった。



2  光と色彩のシャワーによる摩訶不思議な世界の昼夜の光景の変容



ジャンフランコ・ロージ監督自身がカメラを持ちながらも、撮影カメラを被写体となる人物に意識させないように、被写体との心理的関係を近接するまで構築し、限りなく打ち解けていく。

それでも、カメラを意識する被写体となる人々の心を溶かすに至るまで、多くの時間を共有する。

「実際に撮影を始める前に私はとても、とても長い時間をかけて、(被写体である)彼らと時間を過ごす。彼らをよく知るために、そして、彼らに私という人間をよくわかってもらうためにね。彼、彼女が、いったいどのような人間なのか、何に興味を持っているのか、どんな哲学を持っているのか、何が嫌で何が好きなのか、どんな瞬間にどのような表情をするのか・・・。カメラを回す以前、そういった知識を得るために、たくさんの時間が費やされる」

ジャンフランコ・ロージ監督
ジャンフランコ・ロージ監督の言葉である。

「『人と人との関係』を築かなければならない」とも言い切った。

これが、「カメラで撮影する」という行為を、被写体となる人々に意識させないためのドキュメンタリー映画作家の極意なのだろう。

だから、撮影クルーが、監督一人きりとなる。

一切は、被写体となる人々の自然な日常性を切り取っていくためである。

それは、被写体がカメラを意識した行動・発言を「純粋な現実」ではないと言う、森達也のドキュメンタリー映画論を想起させるイメージに近い。

「映像はそもそもが主観」であるとも断言する森達也の「純粋な現実」は、不思議ワールドを切り取った「ローマ環状線、めぐりゆく人生たち」の映像宇宙にあって、最後まで、思い切り退屈の極みを見せられたアパートの父娘の会話に象徴されると言っていい。

自然な振る舞いであるが故に、他人のどうでもいいプライバシーを、観る者はたっぷりと聞かされる羽目になる。

それはまるで、赤の他人の携帯から弾かれてくる、知りたくもないプライバシーを聞かされる気分に近い何かだった。

現代のドキュメンタリーの風潮をトレースするように、ノンフィクションとフィクションの境界は曖昧なものとなり、本質的な差が解体されている。

被写体意識が無化されていのだ

その意味で、ジャンフランコ・ロージ監督の意図は見事に成功している。

「純粋な現実」を絶妙に描き出すという一点において、ドキュメンタリー映画の王道と言っていいかも知れない。

ここ、私は勘考する。

「面白いドキュメンタリー映画」を作るには、被写体を並外れた「変人」・「奇人」に特化すればいいのではないかなどと、不謹慎で無責任な発想が湧いてきてしまうのである。

例えば、李纓(リ・イン)監督の「靖国 YASUKUNI」(2007年製作)について、最も重要な被写体であるはずの肝心の「現役最後の靖国刀匠」とのインタビューに頓挫(とんざ)を来して、気まずい沈黙が運ぶ精気の希薄な空気感だけが残されたが故に、私の評論のサブタイトルに、「強引な映像の、強引な継ぎ接ぎによる、殆ど遣っ付け仕事の悲惨」という辛辣な言辞を添えるに至ったのだが、それにも拘わらず、正直言って、この映画は充分に面白かった。

軍服のコスプレ姿の初老の男性の参拝、右翼と勘違いしてしまうような我が国の現役自衛官の堂々たる参拝や、台湾原住民の靖国神社への抗議の折衝、靖国神社参拝に反対する日本青年の激しい抗議と、その青年を殴打する暴行事件等々、普段は見ることが全くできない非日常の世界が巧みに挿入されていて、完成度は高くないが、飽きることなく「面白いドキュメンタリー映画」を堪能できたことだけは確かである。

他にも、原一男監督の「ゆきゆきて、神軍」(1987年製作)や「全身小説家」(1994年製作)という完成度も高く、「面白いドキュメンタリー映画」がある。

前者に至っては、昭和天皇にパチンコ玉を発射した前科を持つ奥崎謙三が被写体だったの、面白くないわけがなかった。

実際、撮影中に、元上官宅に改造拳銃を持って押しかけ、殺人未遂事件を起こすのだ。

ここまでくると、奥崎謙三は「奇人」と言うより、「狂人」のイメージに近い。

後者は、自らの履歴や体験を詐称していた事実を描き出し、まさに、「全身小説家」・井上光晴の実像に迫り、圧巻だった。

この映画で面白いのは、「リアリティ」を二つに峻別している点にある。

「客観的事実」としての「客観的・公共的リアリティ」と、本人の思い込みである、「主観的事実」としての「主観的・個人的リアリティ」の二つである。

この二つの「リアリティ」の落差感を描き出したことで、「全身小説家」は完成度も高く、「面白いドキュメンタリー映画」として成功したのである。

被写体を「変人」・「奇人」に特化し、それを上手に切り取って編集すれば、映画の完成度とは無縁に、少なくとも、「面白いドキュメンタリー映画」ができるのではないかとさえ、不埒(ふらち)にも考えてしまうのだ。

ところが、「ローマ環状線、めぐりゆく人生たち」という映画には、様々に個性的な人々が入れ替わり立ち代わり登場して来るが、彼らの人生の断片を表層的に切り取り、恣意的にコラージュしていく。

当然ながら、「モンド映画」(見世物感覚で構成された悪趣味なドキュメンタリー映画)や「リアリティ番組」(素人の出演者による演出なきテレビ番組)を否定し、加えて、被写体を「変人」・「奇人」に特化しなければ、被写体意識を無化させ、ノンフィクションとフィクションの境界を曖昧にし、大都市・ローマに被せられた華美なイメージとは無縁に生きる、名もなき人々の、その固有の人生の断片を淡々と映像提示することで、「純粋な現実」を貫徹し得る「メッセージ性の強いドキュメンタリー映画」で勝負するしかないだろう。

「土星の輪のようにローマを取り囲んでいる」GRA環状高速道路を円環的に囲繞する、摩訶不思議な世界の昼夜の光景の変容を、目眩(めくるめ)く光と色彩のシャワーによって視覚的効果をもたらす一篇のアートにまで昇華させていく。

内側と外側の世界のアナーキーな交差と混沌、そして、そのコントラストを重層的に且つ、絶妙に描き出したのである。

その恣意的な構成の中で提示された作り手のメッセージ。

植物学者
それは、繰り返し登場し、ラストシークエンスでの植物学者の印象深い語りであった。

「何百、また何百とヤシを噛み砕く。そして吸われ、破壊される。むさぼり食っとる。我々はこのような状況に備えてはおらず、これほど強い組織を相手に戦うことはできぬ。仲間同士、会話している。たとえ破滅を招いても。レストランに響く人間の話し声みたいだ」

害虫に向かって、言い放つのだ。

「お前たちを窒息死させる。もしも強度が強過ぎるようなことがあれば、その時は爆破する」

ここで窒息死させられるのは、「ヤシを噛み砕く害虫」=「レストランに響く人間」の生存の「加害者性」それ自身のように印象づけられるのである。

この植物学者の存在なしに、本作の成功は叶わなかったのではないか。

そう思った。

(2015年1月)


0 件のコメント:

コメントを投稿