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2012年11月12日月曜日

家族の庭(‘10)     マイク・リー




<今まさに、奈落の底に突き落とされた「孤独」の恐怖の崩壊感覚>




1  人間洞察威力の鋭利なマイク・リー監督の比類ない作家精神の独壇場の世界



人間洞察力の鋭利なマイク・リー監督の厳しいリアリズムが、一つの極点にまで達したことを検証する一級の名画。

主に下層階級の家族をテーマにして、そこで呼吸を繋ぐ人々の喜怒哀楽を、恐らく、「様々な偶然性に依拠しつつも、〈自力突破〉なしに糧を得られるほど人生は甘くない」という視座で描き続けてきたと思われるマイク・リー監督の表現宇宙が、本作で最高到達点を極めたのではないか。

とうてい映像によってしか表現し得ない、シビアなるラストカットで閉じる、本作のラストシークエンスの決定力の構図の提示の凄みに、身震いするほどだった。

そんなマイク・リー監督が構築した本作の基幹メッセージを、私なりに解釈すれば、以下の文脈に収斂されるだろう。

難しく言えば、無数の選択肢から、時には懊悩しつつ、特定的にチョイスしてきた時間の終結点である「現在の〈私の生〉」の有りようは、「現在の〈私の生〉」というリアルな着地点に至るまでに形成してきた〈自己像〉の価値の総体であって、特別なケースを除けば、基本的には、「自己責任」のうちに還元されるべき何かである。

「自分の人生に責任を持ちなさい」。

要約すれば、以上の把握に尽きるだろう。

この把握に則って、私なりに捉えた本作の心象世界の基本骨格に言及したい。

即ち、本作は、単に「同情」の対象人格として受容される行為の中で感受する、単に「寂しさ」でしかない甘え含みの「孤独感」が、正真正銘の「孤独」の恐怖のうちに対象人格を搦(から)め捕ることで、今まさに、奈落の底に突き落とされたときの対象人格の崩壊感覚 ―― この解釈に止めを刺すのではないか。

ここから、物語の世界に入っていきたい。

単に「寂しさ」でしかない甘え含みの「孤独感」を託(かこ)つ、その対象人格の名はメアリー。

ロンドンの某病院に勤める女性事務職員である。

そのメアリーに対して「同情」を注ぎ、事あるごとに、彼女の「孤独感」を吸収し、浄化する役割を果たすのが、「地産地消」を意識下に据え、一定の収入が期待し得る市民菜園を熱心に勤(いそ)しみ、規則正しい禁煙生活に象徴される、セルフメディケーション(自己健康管理)を継続させるような共通の価値観によって結ばれているが故にか、仲睦まじい夫婦生活を40年にわたって延長させている中流家庭を、仕事と両立させつつ難なく切り盛りしている、極めて自立的な女性医療カウンセラー。

その名はジェリー。

メアリー(左)とジェリー
メアリーと同じ病院に勤めていて、医師と連携しながら、心理カウンセラーの仕事をこなす初老の婦人である。

物語は、現役の地質学者であるトムとジェリーの、人も羨む円満夫婦の生活拠点を中枢スポットにして、そこで拾われた日常的営為の中に、メアリーに代表される、「孤独感」を託つ者たちが、市民菜園に勤しむ休日に訪ねて来て、かの円満夫婦の人生経験豊富なアウトリーチによって慰撫(いぶ)されるという、至ってフラットなエピソードを繋ぐものだが、そこで選択されたエピソードが醸し出すリアリティの濃度の高さは、人間洞察威力の鋭利なマイク・リー監督の比類ない作家精神の独壇場の世界であった。

 本作の心象世界の基本骨格への考察については、物語の肝に相当するものなので、「友情」というテーマに絡めて後述する。

 以下、比較的詳細な梗概をフォローしていきたい。



 2  「癒しの中枢スポット」での3季の風景の喜怒哀楽



春から秋にかけての3季から、一転して変容する、くすんだ冬の寒々とした風景への一年を通して、特定的に拾いあげられたエピソードが包含する内実は、冒頭での印象深いシーンのうちに集約されている。

冒頭のシークエンスで、眠剤のみを要求る中年患者が、担当医から医療カウンセラーの必要性を求められ、不満げに対応する相貌には、眠剤を必要とするに足るプライバシーの事情が露わにされていた。

その直後のシーンは、担当医から紹介された医療カウンセラーのジェリーが、件の患者にプライバシーの内実に触れる質問に立ち入ることで、相手は益々、不機嫌な相貌を露呈し、苛立ちすら見せるのだ。

「幸福度を10点満点にすると何点?」

これは、医療カウンセラーとしてのジェリーの発問。

 「1点」

この件の患者の反応には、明らかに、家庭の事情に起因する問題が読み取れるが、一貫して、肝心なカウンセリングから逃避するが故に、眠剤を必要としない生活設計の構築の困難さを印象付けるばかりだった。

貧富の差に拘らず、様々な人生の、様々に入り組んで澱みを広げている様態が、其処彼処(そこかしこ)に潜んでいる現実を、このシークエンスは特定的に切り取って見せたのである。

春。

軽走感覚の乗りで、恐らく今までもそうしてきたように、トムとジェリーの家を訪問するメアリー。

市民菜園で寛ぐトム(左)とジェリーの円満夫婦
その訪問を、快く受容する夫婦。

マシンガントークの如く、息をつく間もなく、一方的に喋り続ける彼女のトークの最終到達点は、中年期に入っても若作りを止められない心理に張り付く、独り身の「寂しさ」の吐露のうちに閉じられていく。

徹頭徹尾、自己基準で喋り続ける彼女の愚痴を上手に吸収し、それを浄化させていく能力に長けた円満夫婦。

人生に余裕があるからこそ可能になる能力の発露が、観る者に印象付けるエピソードが内包するのは、「依存と吸収」という、際立って目立つ関係濃度の偏頗(へんぱ)性の問題だが、この問題が由々しき事態として顕在化されるのは、もう少し、季節を先に進めていく必要があることを暗示させていた。

メアリー
この夜もまた、ワインで酩酊状態と化した一人の中年女の、生産性のない愚痴だけが捨てられていた。

夏の夜。

「誰と休暇を過ごせばいい?相手は誰もいない」

円満夫婦の生活拠点である、「癒しの中枢スポット」を訪問したのは、二人の共通の友人であるケン。

そのケンの不安を吐露したのが、この言葉。

「日曜には列車に乗るのが嫌だ」
「なぜ?」とトム
「故郷には職場以外何も残っていない。友だちも亡くした。奴の顔が浮かぶんだ。奴の葬式を思い出すんだ」

ケンの内側には、親友の夫妻を亡くしたトラウマがなお張り付いていて、トムとジェリー夫妻の前で嗚咽するばかり。

「俺たちが力になる。今のままじゃダメだぞ」

夜の庭で、ケンと二人になったトムが、元気のないケンを励ます構図は、メアリーの愚痴を吸収するジェリーのアウトリーチとオーバーラップする。

悩みを抱える者たちの愚痴を聞き、それを浄化し、励ます行為の相乗効果の威力は、価値観を共有する夫婦の絶大な推進力を生み出すようでもあった。

次のシーンは、ケンを交えてゴルフに興じる男たち。

元気を取り戻したケンの笑顔が弾けていた。

まもなく、多くの訪問者でごった返す夫婦のガーデン。

春に次いで、陽光眩い夏の季節にもメアリーが居て、相変わらずのマシンガントーク。

この日は、苦労して車を買った話を、一気に喋り捲っていた。

そのメアリーに思いを寄せるケンも居るが、他の者とハグするメアリーは、ケンとのハグを拒絶する露骨な態度に現れる彼女の幼児性が映像提示されていた。

車で乗り付けてきたのに、ワインを飲み干すメアリー。

今度は煙草を吸おうとすると、トムとジェリー夫妻や他の訪問者が、さっとその場を離れていくシーンは観る者の笑いを誘うが、このシーンには、煙草を吸いながら、ワインをガブ飲みする文化を普通に過ごす連中と、禁煙と節酒こそ、セルフメディケーションと考える中流階層との価値観の乖離が投影されていた。

そんな中で、ケンだけが残っている。

ケン(左)メアリー
メアリーと共に彼もまた、前者の価値観の範疇に包括されることを示すが、ここでは、メアリーへの思いの深さが推進力になっていた。

「調子はどう?まだ独りかい?」とケン。
「独りが合ってるの」とメアリー。素っ気ない。
「俺もだ」とケン。

ケンの肥満を嫌うメアリーに、ジェリーは、「昔はハンサムだったのに。人生は甘くないわね」と言葉を添えた

「人生は甘くないわね」という言葉の重量感は、メアリーの軽走感覚にはフィットしないようである。

「何の束縛もない自由な女。世界は自分のもの」

これは、トムとジェリー夫妻の一人息子で、弁護士で自立するジョーの、年齢が大きく離れているメアリーへの添え言葉である。

「車が私の人生を変えたの」

メアリーは、こう言った後、ジョーを特定した物言いを吐露するのだ。

「あなたと私って、きっと相性がいいと思うの・・・私、20代で結婚して人生を間違えたわ。30代で正しい相手に出会えた。結局、捨てられたけど仕方ないわ

明らかに、ジョーに対するメアリーの、彼女としては遠慮深げな、愛情告白のファーストステージである。

このファーストステージでは、飲みに行く約束だけをゲットしたメアリーの愉悦が、帰りの車に乗せたケンの愛情告白を、きっぱりと拒絶する行為のうちに延長されていた

秋。

市民菜園で始まる季節の彩りは、淡々と進行する物語の中枢に決定的な変容をもたらす劇薬を運んできた。

ジョーが、恋人のOT(作業療法士)のケイティを連れて、実家を訪問したからである

季節が変わっても、トムとジェリー夫妻の家を訪ねるメアリーの行動には変化がなかった。

職場の同僚であるジェリーの一人息子・ジョーに対するメアリーの思いもまた、特段の変化がなかった。

だから、この思いも寄らないジョーの訪問と重なった、メアリーが受けた衝撃の深さは、感情コントロールのスキルを持たない中年女性の、激しい動揺を露わにする振舞いのうちに身体化されてしまったのである。

一切が見透かされても、自己統制能力を身につけてこなかったペナルティを受ける以外にない脆弱性が、そこに晒されたのである。

「悪化しているわ」

円満夫婦のベッドでの、ジェリーの言葉である

「悲しいな」とトム
「動揺してたわ」とジェリー
「君は驚いた?」
「勿論。いいえそうじゃないわ。むしろ失望ね」

決して、冷淡な会話ではない。

これが、一貫して変わらぬ円満夫婦の、メアリーに対する基本スタンスなのである。

言わずもがな、軽走感覚の乗りで人生を繋いできたメアリーだけが分らない。

その分らなさへのペナルティを、人間の〈生〉の実存性のレベルで経験する、厳寒の季節の到来が待機している事態が迫っていたのだ。



3  「居がい」を失った老人の孤独 ―― 厳寒の季節が拾い上げたもの



冬。

風景の変容が物語の変容を予約させるイメージは、既に、三季の終結点で観る者に映像提示されていた。

三季の終結点である秋に出来した出来事 ―― それは、単に会話の多さの故ではなく、物語の登場人物をコントラストに彩色させてきた一方の存在、即ち、メアリーの失恋譚の悲哀であった。

ここから開かれる風景の劇的な変容の中に、メアリーが負った悲哀の内実が、その実存性の極点において決定的に炙あぶり出されていくことになるが、それは、厳寒の季節にこそ相応しい物語の構図の極点でもあった。

その物語の構図の極点こそが、登場人物をコントラストに彩色させてきた物語のラストシークエンスを抉じ開けるものだったが、厳寒の季節が最初に拾い上げたのは、物語の中に初めて登場してくる人物の不幸の描写だった。

その人物の名はロニー。

トムの実兄である。

齢70歳前後と思われる、ロニーの配偶者の逝去による葬儀。

恐らく、その伴侶なしに自らの日常性を繋いでいくことが難しかっただろうと思わせる、寡黙なイメージが張り付く男の孤独の様態は、「老いは『生きがい』よりも『居がい』である」という人生訓を鮮明に想起させるものだった。

「居がい」を失った老人の孤独を炙り出していくこのシークエンスには、2年前に不意に訪ねて来たらしいが、40年前に家出していた一人息子カールの、葬儀への参列に遅れた陰鬱な交叉のカットの連射のうちに集中的表現されていた。

実父であるロニーに対して、ダイレクトに不満を炸裂させる息子カールの、そこだけが特定的に切り取られた関係破綻の構図の中に、親思いの弟夫婦とのコントラストが鮮やかに浮き彫りにされていく。

もうそこには、自分の居場所を手に入れられない、カールの尖り切った感情だけが置き去りにされていた。

置き去りにされたのは、カールばかりではない。

過去に息子と何があったか分らないが、自分の家族の全てを失ってもなお表現を結ぶことをしないロニーの、物言わぬ孤独感もまた、他に誰も住む者がいない家屋の中枢に置き去りにされたのである。

それを慮(おもんぱか)って、実兄を自宅に招くトム。

まさに、この円満夫婦は、ここでもまた、人の心の澱んだ感情を吸収し、少しでも浄化する「救いの神」を延長させていたのである。

そんな水入らずの空間に、季節を超えてメアリーが訪ねて来たのは、2年ぶりの訪問となる弟夫婦の解放系の家屋で、市民菜園にいる弟夫婦に代わってロニーが留守番をしているときだった。

ここから開かれるラストシークエンスを、稿を変えてフォローしていこう。



4  「私の家族」という名の食卓の宴が生んだ疎外感の破壊力



「衝動的に来ちゃったの」

初対面の留守番のロニーに、そう言って、寒さに震えるメアリーの要領の得ない説明を受容したロニーは、彼女を家内に入れるが、相変わらず、話をするのはメアリーのみ

しかし、その様子には、かつてのハイテンションの振舞いとは切れていた。

化粧の施しもなく、しどけない恰好で訪ねて来たメアリーの様子には、不眠の状態ゆえの、心身の不調を露わにするだらしなさが際立っていた。

「温まるわ。ここ、落ち着くわ。本当に久しぶりだわ。よく招かれるの。古い友人で」

寡黙なロニーの傍で、自らお茶を作って飲むメアリーの言葉の含意からは、自らの身を預ける場所が、今や、この家にしか拾えないと印象づけられる寂寞感が漂流していた

しかし、この日のメアリーの訪問は、あまりに間が悪かった。

しばしば、円満夫婦の解放系の家屋が「駆け込み寺」と化す温暖系スポットは、この日ばかりは様子が違っていた。

そこは今、ジョーとケイティを招いた、「親しき家族」というテリトリーによって仕切られた、特別なる食卓の宴と化す限定スポットだったのだ。

その事実をロニーから聞き知って、自らのしどけない恰好を気にするメアリー

「私のこと知っている?」

初対面のロニーに尋ねるメアリーの言葉の含意には、トムの実兄であるロニーなら、当家と最も親しい関係を築いていると信じる自分の存在が、多少なりとも認知されていることを確認したい思いが潜んでいる。

「いいや」

この素っ気ないロニーの言葉に動揺を隠せないメアリー

戸外で煙草を吸うロニー(左)メアリー
煙草を吸おうとするメアリーは、ロニー「外で吸わなきゃ」と言われ、寒々とした戸外で吸うメアリーとロニー。

未だ弟夫婦の空気感に馴染めないようなロニーだが、弟夫婦が固持する生活のルールだけは理解できていた。

「居がい」の形成は容易ではないのだ。

それでも、伴侶を喪った自宅での一人暮らしよりは、幾分かは浄化されるのだろう。

そんなロニーとメアリーの会話は、当然弾まない。

それでも、孤独の境地にある二人には、空洞化されたものを抱えている分だけ、寄り添える情感が反応し得る余地を生んでいたようにも思われる。

室内に入って会話を繋ぐメアリー

「話し相手がいるって素敵ね」
「ああ」
「静かだわ。どこかへ引っ越そうかな。やり直すの」

如何にも荒んだ生活風景を想像させるメアリーにとって、そこに内実が汲み取れなくとも、悪意を全く感じさせないロニーのような存在との会話こそが、余計な神経を消耗させないで済む空気感を生み出すのだろう。

トム夫妻が帰宅したは、メアリーがそんな空気感に浸っていたときだった。

「来る前に電話してね」

明らかに迷惑がる反応を示すジェリーの言葉に、言い訳するだけのメアリー

「招かれざる客」の訪問に不満を露わにするジェリーの心情に、メアリーは怖々と侵入していく。

「怒っているの?」
怒っているんじゃないの。あなたに失望したのよ」

はっきりと言い放つジェリー

「本当にごめんなさい」
「理解はしてるわ」
「寂しかったの。職場で顔を合わせても話しかけてもくれない。悲しかったわ」
「これは私の家族なのよ。それは分って」

メアリーの存在が「私の家族」ではないという事実の認知を迫るような、ジェリーのシビアな物言いには、特段に毒気がある訳ではない

物事を曖昧にしないジェリーの、ただ単に、普通のスタンスの表現なのだ。

しかし、こんなとき、嗚咽する児戯性を露わにするだけのメアリーを抱擁しながら、ジェリーは言葉を繋ぐ

「自分に責任をもたなきゃ」
「分ってるわ」
「よく聞いて。誰か相談相手を」

自ら抱擁を解いたジェリーのアドバイスである。

「必要ないわ」
あなたのためよ」
相談ならあなたに」
「同僚に頼んであげる」
「あなたがいれば大丈夫よ」
「違うの。専門家の助けが必要なのよ。幸せになれるわ」

これまでのジェリーの親切の意味を把握できていないメアリーの依存的態度は、ジェリーのシビアな物言いによっても延長されているのだ。

左からジェリー、ケイティ、ジョー
「私の家族」という枠内の中枢にいる、ジョーとケイティがやって来たのは、このシビアな会話の直後だった

メアリーが来ている事実を、ジョーに身振りで知らせるジェリーの仕草を察知したジョー反応から、ユーモア含みの困惑気味の表情が洩れても、「私の家族」という枠内に収まる4人(トム、ジェリー、ジョー、ケイティ)の対応は、どこまでも大人の振舞いを崩さない。

メアリーに対して、彼らは露骨に「邪魔者」扱いをしないが故に、食卓の宴の中で、「私の家族」という名の4人の会話が弾めば弾むほど、却って、居場所の確保が難しくなる現実の疎外感を、メアリーはたっぷり味わうことになる

映像提示された会話は、円満夫婦の学生時代の馴れ初めから開かれた。

トムが大学卒業後、2年間、地質調査のためオーストラリアで働いていた時代に、既に恋人だったジェリーが会いに来て、そこから7カ月間要して、二人で世界旅行を愉悦した思い出を語り合う夫婦の会話の中に、オーストラリアでの仕事の経験譚を差し挟むケイティの絡みには、今や、「私の家族」の中枢のポジションを得た者の自然さがあった

その間、トムとジェリーがギリシャにも立ち寄ったエピソードに及んだとき、ギリシャに行ったことがあるというメアリーに、束の間、話題が振れた。

「浜辺のバーで仕事をしていた」

これが、殆ど口を挟む余地のないメアリーが放った唯一の言葉だった。

彼女は、ギリシャでウエイトレスの仕事をしていたのである。

今や、メアリーから、春夏の季節で炸裂したマシンガントークが完全に封印されていた。

無論、「私の家族」という名の4人の会話の中で、メアリーを排除する悪意が撒き散らされていた訳ではない

それは、ほぼ価値観を共有する者たちで開かれる、「私の家族」という名の4人が囲む食卓の風景の、しごく等身大の風景なのだ。

その風景の中に、メアリーだけが決定的な疎外感を感受している。

元々寡黙なロニーの場合は、価値観を共有せずとも、そこで生まれた「私の家族」の枠組みから疎外されたという意識が特段にないから単に、取り立てて関心のない話題に入らないだけなのだろう。

「私の家族」という名の4人
だから、「私の家族」という名の4人が囲む食卓の話題に侵入できないメアリーの、その悲哀なる相貌を覗き込むロニーには、彼女の感情濃度が理解できるのだ。

そのロニーに、愛想笑いを小さく返すメアリーの表情を映像は捕捉した後、ギリシャの話題に振れていくのである

一転して、話題を変えていく団欒の夕餉(ゆうげ)。

メアリーの疎外感を映し出すラストカットが極まった瞬間だった。



 5 今まさに、奈落の底に突き落とされた「孤独」の恐怖の崩壊感覚 ―― まとめとして①



「孤独は山になく、街にある。一人の人間にあるのでなく、大勢の人間の『間』にあるのである。孤独は『間』にあるものとして空間の如きものである。『真空の恐怖』── それは物質のものでなくて人間のものである」

三木清(ウィキ)
これは、「人生論ノート」に収められている、三木清の有名な孤独論の骨子であるが、「孤独」の本質を衝いている。

「孤独」とは、狭義に言えば、自分の存在それ自身が、自分の生活圏に関わる特定他者から全く受容されていないと感じる、極めて主観的な感情に占有されている心象世界の様態であるが故に、まさに三木清が言うように、「真空の恐怖」へのリアルな実感性である。

自分だけが見捨てられたような、「真空の恐怖」を感受する疎外感情こそ、「孤独」の本質と言っていい。

本作に即して言えば、ラストシークエンスで存分に味わったメアリーの「孤独」こそ、正真正銘の「孤独」という名の、「真空の恐怖」のリアルな実感性それ自身であるだろう。

従って、それまで彼女が振り撒いていた「孤独」の言動は、明らかに、その言動を受容してくれる対象人格、即ち、職場の同僚であるジェリーの存在を前提にすることによって保証された、言わば、単に「寂しさ」でしかない甘え含みの「孤独感」でしかなかったということである。

これは前述したように、職場にあって、いよいよ自堕落な生活を露わにするメアリーに対して、相談相手の必要性を求めるジェリーのアドバイスを、相談ならあなたに」と言ってなお甘えてくる、児戯性を延長させるだけの中年女の「孤独感」の軽佻浮薄な様態のうちに、集中的に身体化されていたことでも検証可能であった。

メアリーは、紛れもなく、「友情」と「同情」を履き違えているのだ。

職場の同僚として、限りない抱擁力をもって、メアリーへのアウトリーチを可能にしたからと言っても、それは、決して捨てられない大切な「友情」の維持の故ではないと思われる。

 言わずもがな、ジェリーの限りない抱擁力の源泉は、共通の価値観によって結ばれている仲睦まじい夫婦生活が、拠って立つ自我の安寧の基盤になっていたことの余裕と、心理カウンセラーという自らの職業意識から自給し得ていたこと。

 恐らく、この辺りが、喫煙のエピソードにも露呈されていたように、とうてい、共通の価値観によって結ばれているとは思えない、メアリーへのアウトリーチを可能にした心理的風景だろう。

しかし、その枢要な部分が、メアリーには理解されていなかった。

大体、友情の重要な構成要件(注)である、「深い親愛」の感情の不足の事実を履き違えたメアリーは、ジェリーのアウトリーチを過大に評価し、それを「深い親愛」による「友情」の発現として誤読し、ストレートに受け止めてしまったのである。

市民菜園での円満夫婦
思うに、ジェリーの価値観の根柢には、「年をとると、何が大切か分ってくる」という夫のトムの言葉にシンボライズされるように、人格の独自性と自律性を重んじるが故に、一貫して自己統制的な生活スタイルを崩さず、何より、他者の拒絶によって成立する「利己主義」とは明瞭に一線を画し、他者の存在を決して排除しない、言わば、オーソドックスな「個人主義」の合理主義的な思考スタンスが凛として横臥(おうが)している。

例えば、冒頭でのシークエンスにおいて、眠剤のみを求める、イメルダ・スタウントン扮する中年患者が、不満げな態度を露骨に表している表情を視認したジェリーは、その帰り際、件の患者に、「来週も来て。あなた次第よ。強制しないわ」と、感情を交えず、言い放ったカットには印象深いものがあった。

心のケアが必要だと判断しても、相手が拒絶的ならば、「病院に来なくてもいい」と言う彼女の思考スタンスには、他者の人格の独自性と自律性を尊重する「個人主義」が媒介していると言っていい。

また、ラストシークエンスにおいて、「無視された不安と恐怖」を主観的に訴え、ジェリーの前で嗚咽するメアリーのシーンを想起してほしい。

「自分に責任を持たなきゃ」

これは、ジェリーがメアリーを抱擁しながら、その抱擁を自ら解いた際に直言した言葉である。

怒っているんじゃないの。あなたに失望したのよ」

このジェリーの直截(ちょくさい)な言葉のうちに表現されている文脈こそは、他者の人格の独自性と自律性を尊重する「個人主義」思考スタンスのストレートな反映であって、自分勝手に幻想を抱いて、都合のいいときだけ訪問して来て、愚痴を零すだけのメアリーの「利己主義」の負の情動系の氾濫に対する、シビアだが、今やそれなしに済まない状況下における抑制系の言辞であると解釈すべきだろう

「個人主義」という基幹的価値観と遥かに乖離した、メアリーの自我の救い難い脆弱さと、異性観における児戯性が招来したであろう自堕落な生活への顕著な劣化の様態。

もう、そこには、他者の人格の独自性と自律性を尊重する「個人主義」思考スタンスに起因する、特段の感情を交えないアウトリーチの許容範囲を逸脱した、メアリーの自己統制の劣化の様態が極まった風景の残像しか、ジェリーの射程に収め切れなくなっていたのである。

恐らく、かつて経験したことがないような、奈落の底に突き落とされた「孤独」の恐怖の崩壊感覚が、メアリーの脆弱な自我を激甚にヒットしたであろう。

思うに、ケイティの存在価値の決定力によって、「駆け込み寺」としての「居がい」を失うメアリーが味わう、正真正銘の「孤独」の恐怖の本質は、単に、ケイティの「侵入」が起因となって感受した疎外感などではなく、「友愛」で結ばれていたと勘違いするジェリーの息子・ジョーへの失恋の影響で、いよいよ自堕落な生活に搦(から)め捕られていく〈生〉の有りようを、最後まで変容し切れないメアリーの救い難き脆弱性にこそあると言っていい。

その脆弱性は、例えば、横恋慕するケンのような優しい男こそ、その共通の価値観において、最も自分のサイズに見合ったパートナーであるように見えるのに、「いい男」を物色する愚昧さに懲りることなく、自らが幻想する膨張した物語を延長させてきたペナルティに還元される類の何かだろう。

ケン(左)メアリー
(たで)食う虫も好き好きだから、それは一向に構わないのだが、しかし、映像が提示して見せたメアリーの異性観・人間観を想像する限り、「こんな女はどこにでもいる」というレベルにおいて認知するものの、そのチャイルディッシュな内実に受容の限界を超える御仁もいるに違いない。

ここで、「俗流心理学」を持ち出すのは些か気が引けるが、「外見」、「態度」、「話し方」、「話の内容」という「四つの壁」が、他人を受容する最も大きな障壁になっているという有名な「メラビアンの法則」を援用すれば、メアリーの場合、人間を「外見」と「態度」の2点のみによって判断し、評価する傾向を否定するのは困難であるように思われる。

これは、自分に惚れているケンに対する態度を通して顕著だったが、それ以上に、対象人格の自律性を尊重するが故に、自己の独自性と自律性を尊重し得る合理性において、「個人主義」という基幹的価値観で動いているトムとジェリーの夫妻、なかんずく、職場の同僚であることによって、「個人主義」の普通のサイズでアウトリーチし、求められた関係性の枠内で、相手の愚痴を吸収するジェリーに対する、メアリーの人間観の甘さの中に集中的に表現されていた。

無論、ジェリーが悪いのではない。

彼女の場合、「メラビアンの法則」をトータルに包括する能力があり、その能力によって、自らのパーソナルスペースを確保した状態で、相手との適正な距離を測り、その関係性の枠内で遂行することが可能であるが故に、求められる限り相手を慰撫し、飲酒に付き合い、そこで吐き出されたストレスを吸収することで、時間限定の浄化を遂行し得ていたのである。

しかし、それはどこまでも、物事を客観化し、相対化し得る能力を有する、彼女の「個人主義」の支配域の及ぶ範疇において可能であったに過ぎないのだ。  

「悪化したわね」

これは、夫に語ったジェリーの言葉。

ジェリーはメアリーの崩れ方について、そこに特段の感情を含めずに、淡々と評価する客観性を保持しているのである。

メアリーだけがそれを分っていない。

彼女の自我はあまりに未成熟であるが故に、「失敗のリピーター」を延長させるばかりなのだ。

この人間観の脆弱さが、彼女の異性観の狭隘さを決定づけてしまったのである。


(注)私は、友情の成立の基本要件として、「親愛」、「信頼」、「礼節」、「援助」、「依存」、「共有」という心理的な因子を考えている。



6  「真空の恐怖」に捕捉された「心の風景」の出口の見えない疎外感情



「自分の人生に責任を持ちなさい」。

円満夫婦と、自立して生きる一人息子のジョー
これが、本作を貫流する基幹メッセージである、と私は考える。

言わずもがな、この基幹メッセージのうちに、ファーストシークエンスにおける女性中年患者の問題が収斂されると考えるのが妥当な解釈だろう。

「幸福度指数1」と答えるほどに、自分の「不幸」の問題に対して根源的に対峙し、打開していこうとする一切の努力を放棄した状態で、闇雲に眠剤のみを求める、彼女の対処療法的な生き方を延長させていけば、「不幸指数」の確率は増幅してくる近未来像が透けて見えるのだ。

メアリーもまたそうだった。

特定他者に「依存」するだけの彼女の生き方は、それを吸収してくれる「善き個人主義者」の懐の中で、一定程度浄化されるだろうが、しかし、「善き個人主義者」の受容限度を超える振舞いを常態化するに及んで、メアリーには今や、何某かの形式的なアウトリーチしか届くことなく、まさに「真空の恐怖」に捕捉された「心の風景」を、出口の見えない疎外感情が席巻し、寄る辺なき脆弱な自我がセルフネグレクト(自己遺棄)のリスクを増幅させるばかりの心象風景が極まったのである。

彼女もまた、眠剤を求める患者のように、セルフメディケーションの決定的脆弱性によって、益々、飲酒と喫煙に溺れゆく自堕落な生活風景の凄惨な風景イメージが、観る者に提示されてくるのだ。

マイク・リー監督(ウィキ)
この映画の完成度の高さは、季節の変化と、人も羨むべき生活を繋ぐ円満夫婦の価値観を対比的に映像提示することによって、ラストシークエンスへの決定力が、より鮮明に描かれていたことに尽きるだろう。

世の中が悪いのではない。

一切の根源は、「自分の人生に責任を持つこと」を継続的に構築できない、脆弱なる人格総体の問題のうちに還元されてしまうのである。

マイク・リー監督は、かくまでにシビアな、リアリズムのラインを寸分も崩すことなく、優れて心理学的な映像を構築し切ったのである。

脱帽と言う外はない。

(2012年11月)




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