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2015年10月27日火曜日

少女は自転車にのって(‘12)     ハイファ・アル=マンスール

<「通過儀礼」を突破するテーマを引き受け、闘い切った少女の颯爽感>



1  「自転車を買います」と言い切った少女の、何ものにも妥協しない強(したた)かさ



いつものように、コーランを暗唱することに不熱心なばかりに教師に叱られ、一人だけ屋外に出されても、一向に気にする様子を見せない少女。

少女の名はワジダ。

サウジアラビアの首都・リヤドの中流家庭に育った10歳の小学生である。

ジーンズを制服の下に履き、学校で禁止のスニーカーで登校するワジダは、欧米の自由なポップスをラジオで聴くのが趣味だから、この国の古い伝統文化には全く関心がない。

そんなワジダが登校中に、男の子の友達であるアブダラにベールを奪われ、必死に追い駆け、ベールを取り返すものの、自転車に乗ったアブダラに追いつけず、悔しい思いをする。

「君が勝てるわけないだろ」

ワジダアブダラ
アブダラの意地悪に対して、「自転車、買ったら競争よ」と反駁はんばくするワジダ。

少年たちが一堂になって、自転車で登校する後ろ姿を見て、睨み返す気の強い少女の物語の発端だった。

「女性の声は肌と同じです」

登校中に笑い声を立てただけで、少女たちを注意する校長先生は、ヘジャブ(ヒジャブ=スカーフ)を被っていないワジダにも叱咤する。

「女が自転車なんてダメだ」
「じゃ、私に負けたら男の恥ね」

その後のワジダとアブダラの会話だが、ワジダの思いが真剣である事実は、新品の自転車を荷台に積んだ車を見つけ、雑貨店の店先まで追い駆けていき、その自転車を羨ましく見つめ、触れる行為によって判然とする。

「800リヤルだ。買えないよ」(注)

店主の一言にも、笑みで反応するワジダ。

早速、黒ブルカを脱いで帰宅した母に、自転車が欲しいと強請(ねだ)るのだ。

当然、相手にされない。

だから、ミサンガを作り、それを学校の友達に売って、自らの手で800リヤルを調達しようとする。

そればかりではない。

上級生に頼まれ、彼女の密会の手伝いで、40リヤルを上増しして儲けるずるさも持っている。

ワジダ
既に87リヤルに達し、その残りを上機嫌の母に貸してもらおうとするが、今度もまた却下されるに至る。

更に、校長先生にワジダの行為が知られ、先の上級生が宗教警察に捕捉された事実を聞かされたワジダは万事休す。

この一件で、母親が学校に呼ばれ、退学問題にまで発展し、ワジダの夢は遠のくばかり。

母親の逆鱗(げきりん)に触れても、耳を塞ぎ、ポップスをラジオで聴く10歳の少女の強(したた)かさだけが際立っていた。

そんなワジダでも、勤務しながら、たまにしか帰宅しない父親と母親の夫婦喧嘩には入っていけない。

男の子を作れない母親への不満で、第二夫人との婚姻を考えている父親に反発する母親を目の当たりにして、何もできず、部屋の中での自分の居場所を失っているのだ。

「来週は1日も帰って来ないからな」

ワジダの両親
それが、ワジダの父親の捨て台詞だった。

その父親を引き留めるために、ショッピングモールの洋品店で、赤いドレスを試着する母親を横目に見るワジダにとって、800リヤルの自転車が売り切れていないかどうかだけが最優先事項なのだ。

宗教クラブ主催の「コーランの暗唱大会」が5週間後に開かれ、1000リヤルの賞金が供与される事実をワジダが知ったのは、その直後だった。

「暗唱するのは、コーランの最初の5章。2つの部門があり、第1部門は、語彙(ごい)と神の啓示に関するテスト。第2部門は暗唱です。すべての発音が正確であること」

校長先生の言葉である。

この事実を知ったワジダの行動は素早かった。

「私、心を入れ替えます。宗教クラブに」

「自転車に乗ったら妊娠できない」と言う母親に対して、こう言い切った後、ワジダは例の雑貨店に行き、今度はコーランの学習用カセットを62リヤルに値引きさせ、それを買って、早速、自宅で練習するのだ。

そんな折、アブダラがワジダのために補助輪付きの自転車を持って来た。

「子供扱い」と言って、工具の入った箱を蹴飛ばし、泣き出す(嘘泣き?)ワジダ。

困ったアブダラは補助輪を外し、「泣き止んだら5リヤル」と言って慰めた挙句、5リヤルを受け取って笑みに変わるワジダの強(したた)かさ。

アブダラに補助輪を外させたワジダの行為こそ、未だ成人的自覚に届き得ないが、「女・子供」に対するネガティブな特別扱いが常態化している、この国の男性優位社会の文化風土へのワジダの拒絶の意思表示であると言える。

まもなく、補助輪を外した自転車に乗るが、初経験のため、アブダラの援助なしに始動できなかった。

しかし、憧れていた自転車に馴致(じゅんち)するのもあっという間だった。

宗教クラブでワジダ(左から二人目)
同時に、「生理中は聖典に触れないこと」と言われて開かれた宗教クラブで、ワジダの学力不足が目立ったが、「ワジダは皆のお手本よ」とまで評価されるのも、さして時間がかからない。

欲望達成のための目標を立てたら、一直線に進んでいく。

ワジダとは、そんな少女なのだ。

だから、聖典コーランの暗唱を短期間でマスターする。

当然ながら、聖典コーランの暗唱をマスターしても、敬虔な信徒である母親のように、欧米のポップスを「悪魔の音楽」などと考えないから、宗教クラブに入会し、どれほど聖典に触れる時間を累加させようと、聖典の教義の寸分も内化するベクトルに振れていかないのである。

そんな中で拾われた一つの小さなエピソード。

壁に貼られた家系図には父の家の家系しかなく、男性の名前のみだった。

「あなたは入ってない」

母親の言葉である

家系図の前で
その事実を聞かされたワジダが取った行為は、父の家の家系図に“ワシダ”という紙を貼り付けてしまうこと。

無論、剥(は)がされてしまうが、これが、長い時間を要して形成された保守的な伝統・価値観・ルールに対する、10歳の少女の精一杯のレジストなのだろう。

物語を進める。

いよいよ、その日がやってきた。

宗教クラブ主催の「コーランの暗唱大会」である。

プレッシャーで頓挫するライバルたちの後で、ワジダの暗唱の番になる。

校長先生から与えられた課題は、「コーラン“雌牛章” 第7節」。(注2)

“雌牛章”とは、「日本ムスリム情報事務所」HPによれば、「雌牛をアッラーに供える物語にちなみ雌牛章と名付けられる。本章はクルアーンの総説ともいうぺく,イスラームの教えが全般にあたって記されている」というもの。

この重要な教義の暗唱がワジダに求められたのである

初めは緊張していたワジダだが、さすが、目標を立てたら一直線に進んでいく少女の集中力は凄かった。

「コーランの暗唱大会」
律動感溢れる暗唱によって、決勝に残った3人の女子の中で、ワジダの優勝が発表されるのだ。

「皆さんも見習うように」という校長先生の言葉が添えられるが、その直後のシーンは圧巻だった。

「賞金は何に使うの?」という校長先生の問いに、全く悪びれる様子もなく、ワジダは答えたのである

「自転車を買います」

爆笑の渦に包まれる講堂。

一瞬、言葉を失った校長先生は、パレスチナの同胞への寄付を求めのである

今度は、ワジダが言葉を失う。

校長先生の言葉に逆らえない空気の中で、「コーランの暗唱大会」は閉じていくが、なお追い打ちをかけるような校長先生の嫌味が待っていた。

「あなたの愚かさは、一生、直らないわ」

気の強いワジダも負けていない。

「校長の“泥棒”と同じね」

そう言ったのだ。

ワジダを睨みつける校長。

それを無視し、涼しい顔をして壇上を去っていくワジダ。

ワジダアブダラ
外で待っていたアブダラがワジダから事実を聞かされ、「自転車、あげる」と慰めるが、「じゃ、競争は?」と答えられ、もう、慰める術もなかった。

「いつか結婚しよう」

足早に去っていくワジダの後方からのアブダラの言葉に、一瞬、笑みを見せるが、そのまま帰宅するワジダ。

帰宅して待っていたのは、男の子を儲けるために第二夫人と結婚する父だった。

父が去ったバルコニーで、その事実を母から聞かされ、寂しさの中で抱き合う母娘。

「これからは二人よ」

赤いドレスで夫を留めようとした母の言葉である

その母から、例の雑貨店の自転車をプレゼントされたのは、その時だった。

母は「コーランの暗唱大会」で起こった出来事について、すべて知っていたのだ。

戒律に厳しい母から見れば、優勝賞金で「自転車を買います」と言い切った娘の、何ものにも妥協しない強さが恨めしかったのかも知れない。

「世界一、幸せになって。私の唯一の宝物よ」

第二夫人との結婚式で派手に打ち上げられる花火の音を聞きながら、強く抱擁し合う母と娘。

ラストシーン。

自転車に乗ったワジダとアブダラの競争が、軽快な律動感の中で映像提示される。

アブダラを振り切って、どこまでも、疾走するワジダの表情から笑みが洩れていた。

これがラストカットとなって、目標達成のために闘い切った少女の物語が閉じていく。

痛快、且つ、鮮度の高い映画だった。
                                                                                                                                                                                     
(注1)1リヤルは約32円だから、800リヤルは約25600円。

(注2)「真理を理解しながらも、それを隠してしまう者に対しては、アッラーは,彼らの心も耳をも封じられる。また目には覆いをされ、重い懲罰を科せられよう。人間と動物を比較した場合、人間には知性と理解力と神を正しく認識する洞察力という特権が与えられています。しかし、信じようとしない人々はこの優越性をも失ってしまうのです」(「日本ムスリム情報事務所」HP・「光の彼方への旅立ち」HPより)



2  「通過儀礼」を突破するテーマを引き受け、闘った少女の颯爽感



「自転車には加速、自由、推進力という意味があるのです。その一方で、ぶつかっても大きな衝撃を与えない穏やかなものなのです。この点で、自転車は私の表現スタイルにふさわしいのです。私が求めているのは、衝突ではなく対話なのです。(略)自国の文化を尊重しながら長い間考えた結果です。映画を通じて、私は衝撃を与えないように注意をしながら、自分の考えをサウジの人たちに伝えたかったのです」

アル・マンスール監督
本作のエッセンスは、アル・マンスール監督のこの言葉に集約されるのではないか。

「女性が抱く自由への渇望を行間からにじませるメタファーとしました」と語りながら、補助輪を拒絶し、自らの人力を動力源にした、「自由・推進力・非武装性・非依存性」を象徴する自転車への自在な駆動にのめり込んでいく、主人公の少女・ワシダの奔放な児童期を描き出すのである。

「基本的に女性と男性は“隔離”されているんです」(ハイファ・アル=マンスール監督)と嘆きつつも、製作時点で38歳の女性監督の描き出した世界は、フラットな政治批判に流れることなく、「自転車、買ったら競争よ」と言い放つ少女・ワシダの「現在性」以外ではなかった。

それは、「女性が身につけているベールの下には、人生、笑い、喜びを愛する、感情を持った人間がいるのです」(同上)という普遍的な情感で呼吸す、ごく普通の人々の裸形の様態である。

「イスラーム諸国の中で最低レベルであると広く認識されている」(ウィキ)サウジアラビアにおける女性の人権は、「2009年の世界経済フォーラムのジェンダー・エンパワーメント指数では134カ国中130位」という数字によって一目瞭然だが、それでも、「諮問評議会」(サウジの議会)の議員に30名の女性が初任命された事実に見られるように、女性教育の近代化も遅々としながらも進んでいる現実も無視できないだろう。

「女の私でも自転車に乗って走り回りたい」

そんな環境下にあって、「自由・推進力・非武装性・非依存性」を象徴する自転車に憧れ、その自在な疾駆への快楽にのめり込むワシダのこの思いは、自力で手に入れる方略しかなかった。

そして、自力で手に入れる方略の選択肢は限定的だった。

気の遠くなるような長い時間を経由して形成された、男尊女卑の保守的な伝統・価値観・ルールに踏み込むこと。

宗教クラブで
たとえ、それが表層的であったとしても、その感情系が乖離する世界に踏み込む以外にないのだ。

「コーランの暗唱大会」で優勝し、1000リヤルの賞金を手に入れること。

だから、宗教クラブに入会し、聖典コーランの暗唱を短期間でマスターする。

欲望達成のための目標を立てたら一直線に進んでいく、少女・ワジダの真骨頂が存分に発揮されるのだ。

この映画の面白さは、この一点にあると言っていい。

残念ながら、優勝を目指して猛特訓するシーンの不足で、その内面描写が脆弱だったが、10歳の少女は、聖典の暗唱をマスターするための努力を求められ、それを完遂する。

「校長の“泥棒”と同じね」という決め台詞にシンボライズされているように、男尊女卑の保守的な伝統・価値観・ルールに最後まで馴致(じゅんち)できなくとも、どうしても馴染(なじ)めない自国文化の中枢スポットに自己投入したのである

自分の欲望を具現するには、自国文化の中枢のルールを経由せねばならないのだ。

自己投入し切って、努力の結果を具現化する。

かくて、それでも移動し得ない「現在性」に停留するが、この経験は、10歳の少女の自我の確立運動に何某(なにがし)かの滋養と化して、いつの日か役に立つだろう。

「あなたの愚かさは、一生、直らないわ」と嘲弄(ちょうろう)されたが、それでもいいのだ。

欲望達成のための努力もせずに、「自転車に乗って走り回りたい」と叫ぶだけだったら、それはもう、「快・不快」の原理で駄々をこねるだけの幼児の世界でしかない。

だから、ワジダは闘った。

ワジダの闘いは、ワジダの国で呼吸を繋ぐ少年少女が回避できない文化の、一つの枢要な「通過儀礼」だったのである。

10歳の少女は、「コーランの暗誦」という「通過儀礼」を突破するテーマを引き受け、闘った結果、思いもよらない自国文化の壁に弾かれたが、欲望達成のための努力の結晶は、その思いを受容する母親からのプレゼントに繋がった。

「世界一、幸せになって。私の唯一の宝物よ」という言葉を添えて。

10歳の少女の闘いは報われたのである。

考えてみるに、この物語は、「自国の文化を尊重しながら長い間考えた結果です」と言う、アル・マンスール監督のぎりぎりの妥協的な収束点だったのだろう。

正直言って、映画的な完成度の高さに少々疑問を抱くのは事実だが、「私が求めているのは、衝突ではなく対話なのです」と言う作り手の思いがストレートに伝わってきて、素直に受容できる。

映画館がない国の不備を、家庭でのソフトの視聴によって埋め合わせる幼少期を過ごし、レンタル作品の鑑賞の累加の経験的知識で、映画製作を志すようになったというハイファ・アル=マンスール監督の果断な意志と勇気を讃えたい。


【余稿】  「蟻の一穴」から堤も崩れる
  
最後に、マクロな視点で簡単に総括してみたい。

ムハンマド(マホメット)の血統重視のシーア派に対し、ムハンマドの教えを重視するスンニ派(スンナ派)のイスラム原理主義・ワッハーブ派を国教としているサウジアラビア。

言ってみれば、「コーラン至上主義」に拠って立っているが故に、サウド家の支配による絶対君主制の下で、悪名高い「宗教警察」(勧善懲悪委員会)の厳しい取り締まりが常態化していて、ヘジャブ(髪を隠すスカーフ)の着用の義務化、車の運転禁止、付き添いなしの外出禁止、異性交遊禁止、女性の婚前・婚外交渉やレイプ被害による処女に対する「名誉の殺人」、家庭内暴力の横行等々、女性の人権侵害は目を覆う惨状を否定すべくもない。

そんなサウジアラビアの惨状を、自由と民主主義を基調とする国民国家で呼吸を繋ぐ私たちが一刀両断するのは易しいが、「国民から恐れられている勧善懲悪委員会の委員長が交代したほか、同国初の女性副大臣が誕生した」(AFP通信)という記事を読んだりして、この国の歴史を丹念に掘り起こしていく限り、「最悪な国家」であると簡単にラベリングする言動に翻弄されることへの自戒の念を捨ててはならないだろう。

このAFP通信の記事をフォローすれば、強硬派とされてきた勧善懲悪委員会の委員長が交代し、後任に決まった人物の衛星テレビ局での会見では、国民の心配事に配慮すると述べ、宗教警察の姿勢が変わる可能性を示唆していた。

アブドラ前国王(ウィキ)
今、内政と外交において、イスラエルに対する和平の最初の試みである「アラブ和平イニシアティブ」(2002年)を提唱したり、映画館の解禁や女性の登用などサウジアラビアの近代化に努力したアブドラ前国王の死去後、サルマン現国王が後継者として即位するや、サルマン国王は数日のうちに権力構造を変革し、多くの日常実務を子息や甥に委譲した。

世界で最も抑圧的国家の一つであるサウジアラビアだが、新国王政権は旅行禁止の緩和・撤回の実施など融和的な措置も取っていて、相応の効果を上げているのも事実である。

現に、欧米の観念系を有するサウジの王族が、映画製作の資金を提供出したとも言われるが、このような政治的背景なしに、「自転車を買います」と言い切り、何ものにも妥協しない強(したた)かな少女の物語の製作・公開は不可能だったであろう。

それにも関わらず、男女が公的な場所での物理的同居が禁止されている国であるが故に、「屋内や学校の敷地内のシーンを除いて、私はバンに乗り込み、モニターを見ながら無線で指示を飛ばすというやり方」(インタビュー)で撮影した、ハイファ・アル=マンスール監督の苦労を思うとき、このような女性監督の出現自体が、充分に画期的だったと言えるのである。  

複雑な事情を抱える国・サウジアラビアの未来に何が待っているか、私には全く見通しが定かでないが、この映画を観る限り、ハイファ・アル=マンスール監督が言うように、ドラスティックな変革が困難である以上、自国の文化を尊重しながら、「衝突ではなく対話」の累加を通して、「自由・推進力・非武装性」を象徴する自転車への自在な駆動に届き得るに足る、「今・ここ」からの有効なメッセージを提示し続ける選択肢しかないような気がするのである

―― ここまで書いていたら、嫌なニュースが飛び込んでいた。

24時間ニュース専門局として有名なCNNによると、リヤドの某家庭で家事手伝いとして働きに来ていたインド人女性が、雇い主から虐待され、その事実を地元警察に通報した後、件の雇い主によって右腕を切り落とされたという事件ある

事件発覚後、インド政府はサウジ政府に抗議の意思を伝え、雇用主を殺人未遂罪で訴追することを要求し、第三者による事件捜査の着手も要請したが、CNNはニューデリー駐在のサウジ大使にコメントを求めても正式回答はなく、今後の展開も不分明ある。

現在、被害女性はリヤドの病院で手当てを受けているということ。

その後、判然とした事実は、被害女性が家事手伝いとして働いても給料は支払われず、十分な食事も与えられない劣悪な労働環境を強いられていたというのだ

他にも、ネパール人女性の家事手伝い労働に従事した女性に対する、ニューデリー駐在のサウジ外交官による性的暴行や集団強姦への関与の疑惑も浮上した挙句、件の外交官は罪に問われることなく、出国してしまったというニュース。

まだある。

今年になって、インドネシア政府は、サウジを含む21カ国に家政婦として自国の女性を送ることを禁止したが、その理由は、殺人罪の立件の根拠が希薄あるにも関わらず、殺人罪に問われたインドネシア人家政婦2人が斬首刑に処されていたという嫌なニュース

これは、サウジ国内での出来事あるが故に、倦(あぐ)むばかりだ

他にもあるが、滅入るだけだから、もう止めよう。

ジーンズとスニーカーを履く少女
いずれにせよ、これらの事件は氷山の一角であろうから、サウジアラビアにおける女性の人権の顕著な現実を変えていくには、前述したように、「今・ここ」の状況で「何が可能であり、何が可能でないか」を客観的に分析し、「可能であることから始めていく以外にないのだろう。

極端な理想主義に暴走することなく、「蟻の一穴」(ありのいっけつ)から堤も崩れる譬(たと)えのように、旧来の陋習(ろうしゅう)を一気に破壊していくことなど殆ど不可能であ現実を受け入れ、どこまでもリアリズムの視座を失わずに、自分の代で見届けることができなくても、一歩一歩前進していくこと。

それ以外にないと、私は思う。


【参考資料】 「サウジアラビアにおける女性の人権」(ウィキ)「もう一つのサウジアラビア」の声を届けたい」 「日本ムスリム情報事務所」HP・「光の彼方への旅立ち」HP  CNN10月10日付けニュース

(2015年10月)



2 件のコメント:

  1. 話しが主題と逸れるかもしれないですが、子供達がいろいろな経験を通じて成長する過程を、親として見守る立場としては、非常に心が落ち着かない思いがあります。
    娘はまだ幼稚園生ですが、それでも時々仲間はずれにされたといった話しを聞きます。子供は正直だから、きっと悪気もなく「あっち行って」とか言うのでしょうが、言われた子供は子供なりに傷ついたりしているようです。
    夜うなされてバタバタしていたりするのを見ると、親としては何か嫌な夢でも見ているのかなと心配になったりもします。
    それもこれも、親にとっての、また子にとっての成長するための通過儀礼なのかもしれませんが、なかなか複雑な心境です。
    姪っ子は小学生ですが、先日親に隠れて友達の手提げバッグの取っ手を縫っていたそうです。理由を聞いたら、触ってもいないバッグの取っ手を壊したと友達に指摘され、「縫って直してこい」と言われたそうです。
    妻にどう思う?と言われましたが、どう思うかと言えばもちろん不愉快な事ですが、じゃあ私に何が出来るのだろうかと思うと、正直私の出る幕じゃないだろうという感じです。
    しかしながら、子供は子供達の世界の中だけで、いろいろな出来事が処理されていってしまうという世間の様々な出来事を耳にしますので、常に気にしてあげようと思うばかりです。

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    1. 子供は子供なりの自尊心を守ろうと必死に戦ってストレスを溜めているのでしょうね。何ともいじらしい。おっしゃる通り、子供は子供の世界で大人の助けを借りず対処することで、自然と耐性を獲得しながら自我を育んでいくのだと思います。適度なストレスは成長の糧ですが、過剰であれば大人同様身体に表れてくるので、よくよく目を配る必要もあるでしょう。すべては、やがては自立していくプロセスなのだとしか言いようがありませんが、時として過酷なこともありますね。

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