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2014年2月24日月曜日

舟を編む(‘13)    石井裕也


<辞書という名の「大海に浮かぶ一艘の舟」を丁寧に編む男の物語>




1  主題と構成が見事に融合し、均衡感を堅持した、邦画界での名画の誕生を告げる秀逸な一篇



特段にドラマチックな展開もない地味な物語の中で、歯の浮くような感傷譚を挿入することなくして、これだけの構築力の高い映画を作った石井裕也監督に最大級の賛辞を贈りたい。

主題と構成が見事に融合し、均衡感を堅持したことで、物語が自壊することがなかった。

これが最も良い。

無駄が描写がないからテンポが良く、中途で息切れせず、最後まで破綻することがなかった。

キャラクター造形にも成就している。

加藤剛扮する国語学者・松本
主人公・馬締光也(まじめみつや)を演じた、松田龍平の圧巻の表現力は言わずもがな、この映画に安定感を作り出す決定的な役割を演じたのは、加藤剛扮する、老練だが、洗練された教養を有する国語学者・松本の安定した存在感であると言っていい。

「ダサイ」、「キモイ」、「ヤバイ」、「マジ」、「ウザイ」、「チョベリバ」等々、若者用語を排除することなく、それを吸収する包活力を示し、大辞典の編纂のコアとなる役柄を、ここまで演じ切れるのは、私には加藤剛以外の俳優の名前が浮かばない。

この国語学者の存在が、主人公の内面の変化に大きな影響を及ぼす一連のエピソードの中に、年齢差を越えて、見えにくくも、志を同じにする者同士の「静かなる情熱」(石井裕也監督の言葉)の紐帯を、的確な構図のうちに提示した映像には、地味な物語を支える内的秩序があった。

そして、主人公の妻になる香具矢(かぐや)を演じた、宮﨑あおいの抑えた演技に加えて、オダギリジョー扮する、西岡との対比効果によって際立つ、主人公の内面的変容のプロセスを丁寧に拾い上げていたことも、この映画をヒューマンドラマの秀作に昇華させた一因でもあるだろう。

石井裕也監督
邦画界での名画の誕生を新たに告げる、蓋(けだ)し、秀逸な一篇だった。



2  「職業的負荷意識」と乖離する、対人的コミュニケーションという厄介な障壁



会社組織への適応を著しく顕在化させている男がいる。

そのため、会社内部では、「全身変人」扱いされている。

その遠因が、コミュニケーション能力の目立った苦手意識にあることを、男も認知している。

「人の気持ちが分らない」

下宿先の「早雲荘」の大家である、タケおばあさんに語った男の言葉である

そんな男が、玄武書房という、大出版社の営業部に配属されている現実自体が充分にミスマッチなのだが、男には転職の意思などないようだった。

と言うより、転職の意思を言語化する行為に振れないほど、男にはコミュニケーション能力の瑕疵が目立つのだ。

それよりも、社食で、好きな本を読んでいるだけで満足するのだろう。

そんな男に、思いも寄らない転機がやって来た。

玄武書房辞書編集部が総力を挙げている「大渡海」の編纂に当たって、貴重な戦力であるベテラン編集者・荒木が妻の具合が悪くて、定年を機に辞めるので、社内から後任の者を探す必要があり、その中で選ばれたのが、この男、即ち、営業部のお荷物的存在だった馬締光也だった。

「右という言葉を説明できるかい?」

大学院で言語学を専攻した履歴を有する、馬締に対する荒木の面接が、この発問の答えを求めるテストであったという導入は、未だコメディーの筆致であり、掴みとしてオーソドックスでありながら、馬締のキャラを端的に捉えていて悪くない。

その馬締は、唐突の発問に戸惑いながらも、手振りを不器用に交えつつ、考え抜いた末に、弱々しく、拙い言葉で答えていく。

右という言葉を説明する馬締光也
「西・・・を向いたときに、北・・・に当たる方が右」

 それだけ言って、挨拶もなしに、その場を離れていく馬締。

辞書編纂のプロ・荒木が、この馬締の反応に辞書作りの才能を見抜き、馬締が辞書編集部に転属するという顛末であるが、荒木の納得尽くの表情のみで、次のカットが馬締の転属のシーンにシフトする。

これはいい。

無駄な描写を省き、映像のみで見せているからである。

「辞書作りは、まず、言葉集めから始める。この資料室には、先生と編集部で集めた100万以上の言葉が保管されている」

辞書編集部の資料室・右が荒木
これは、転属早々の馬締を、辞書編集部の資料室を紹介し、荒木が説明するシーンである。

辞書作りの基本が言葉集めにあるという語りだが、対象となる言葉と使用例を、カードに記入していく作業を「用例採集」と言う。

このように、専門的な用語を、観る者に分りやすく映像提示するのは、所謂、「説明描写」と異なるので、以下の、辞書編集部の中心人物である国語学者・松本の辞書観もまた、同じコンテキストで受容できるだろう。

「言葉は生まれ、中には死んでいくものもある。そして、生きている間に変わっていくものもあるのです。言葉の意味を知りたいとは、誰かの考えや気持ちを、正確に知りたいということです。それは、人と繋がりたいという願望ではないでしょうか。だから私たちは、今を生きている人たちに向けて、辞書を作らなければならない。『大渡海』は、今を生きる辞書を目指すのです」

第1回辞書編集部会議での松本の言葉である。

真剣に耳を傾ける馬締。

辞書編集部会議で・中央が国語学者・松本、右が馬締
日本語の乱れの象徴とされる「ら抜き言葉」(「られる」から「ら」を除く言葉)にも理解を示し、合コンにも行き、PHSが販売されたら逸早く買うなど、新しい世代の考えを積極的に摂取する松本の辞書観は、この抱負に集約されると言っていい。

「言葉の海。それは果てしなく広い。辞書とは、その大海に浮かぶ一艘の舟。人は辞書という舟で海を渡り、自分の気持ちを的確に表す言葉を探します。それは、唯一の言葉を見つける奇跡。誰かと繋がりたくて、広大な海を渡ろうとする人たちに捧げる辞書、それが『大渡海』です」

この台詞は、飲み屋での松本の言葉だが、些かくどい印象を拭えないが、誰かによって語られねばならない、このメッセージなしに成立しない映画なので、ここは文学に譲歩するしかないのだろう。

「玄武国語辞典に載っている言葉には◎、これは、約6万語。全て『大渡海』に載せる。しかし、問題はそれ以外の言葉だ。大辞林と広辞苑の両方に載っている言葉には○をつけ、片方にしか載っていない言葉にはをつける。○は『大渡海』に載る可能性は高く、△はそれより低い。しかし、最も重要なのは『無印』の言葉だ。他の辞書には載っていないどんな言葉を選ぶかで、『大渡海』の個性は決まる」

飲み屋での辞書編集部の面々
口で言うのは簡単だが、ここで語られたものを遂行していく仕事の凄みを、ワンシーンのみで見せる映像の提示によって、観る者も納得せざるを得ないに違いない。

「用例採集」という仕事を地道に遂行するという、かくまでに労苦に満ちた仕事を担う者たちは、言葉に拘り、正真正銘のプロフェッショナルな集団以外の何者でもないだろう。

因みに、プロフェッショナルとは、「プロ意識」を持つ者のこと。

私のシンプルな定義である。

更に言えば、その「プロ意識」とは、専門的知識と技術を有し、それだけは誰にも譲れないという自負のもとに、約束した結果を果たすために、それを中途で放棄する行為に振れることのない「職業的負荷意識」である。

ところで、本作の中で、この「職業的負荷意識」に欠けていたのは、辞書編集の仕事にマッチングしたかのような馬締その人だった。

「職業的負荷意識」と乖離する馬締
馬締は、単に趣味で本を読み、無数の言葉を収集する、超一流のアマチュアの凄みを人格内化し得ても、それは「職業的負荷意識」と乖離する何かだった

この「職業的負荷意識」を内化するには、「チーム」として一丸となった、その道のプロたちが、対人的コミュニケーションを唯一の手段として相互に協力し合いながら、眼の前の小さな課題を一つ一つ処理し、「万人不同・終生不変」と言われる、個人の指紋が消えるほどの仕事をクリアしていくことによってしか術がないのである。

だから、この職場でも、馬締のハードルの高さは変わらないのだ。

この難儀なハードルを越えていくこと。

これが、彼の喫緊のテーマになったのは必至だったのである。

「人の気持ちが分らない」

国語学者・松本
国語学者・松本の言葉に真剣な眼差しを向けながらも、馬締の内部では、依然として、この自己像が障壁になっているのだ。



3  恋を成就させた男の、その艱難なハードル越え



ここで、私は勘考する。
 
ここまで観る限り、馬締の対人的コミュニケーション不足が、巷間、過剰なまでに流布され、誤解されているアスペルガー症候群に起因すると想起できなくもないが、それについて言及するには根拠と意味があまりに希薄なので、ここでは単に、彼の特徴的な性格傾向を羅列するに留めたい。

以下、そんな私が見た馬締観。

その1 外部刺激に弱い。

その2 内気である。

その3 協調性に欠ける。

その4 自分の趣味に対する拘りが強い。

その5 その名の通り、「マジメ」である。

その全ての列記に、「極端に」という形容動詞の連用形を頭に置けば、彼の性格傾向の特異性がより強く印象づけられるだろう。

以上、縷々(るる)、列記してきたが、最後の「マジメ」であるという一点を除けば、全て彼の対人的コミュニケーション能力の不足と関連づけられることが判然とする。

そんな男が、出版社の営業部に配属されても、即戦力にならないことは自明の理であった。

なぜなら、僅か4人の戦力で、気の遠くなるような年月を費して、「大渡海」を編纂するには、どうしても「チームワーク」を構築していく必要性が求められるからである。

即ち、「好きな仕事」を遂行していくのも、コミュニケーション不足の克服が切実に求められるのだ。

以下、タケおばあさんとの短い会話の断片。

「辞書には、一生捧げるつもりです。ただ・・・怖いです。辞書作りは、僕一人でどうこうできるようなものではなさそうで」
「じゃ、職場の人と仲良くしないとね」
「はい。ですが僕は、相手に気持ちを伝えるのが苦手で・・・」

タケおばあさん
タケおばあさんとは、10年近く一緒にいるので気持ちを伝えることができるが、他の人とは無理だと言うのだ。

「僕は、他の人の気持ちが分りません」

この馬締の弱気を目の当たりにして、「どんどん喋んなきゃ!」と鼓舞するタケおばあさん。

それに刺激され、辞書編集部の先輩である西岡に、唐突にスキンシップし、「良い天気です」などと、柄にもない言葉を吐き出すから、却って気持ち悪がられる始末。

辞書編集部に転属されてもなお、彼の高いハードルは、眼の前に立ち塞がっているのだ。

「誰かと繋がりたくて、広大な海を渡ろうとする人たちに捧げる辞書」

この言葉を語るに最も相応しい国語学者のメッセージのうちに、物語の基本骨格を読み解くのは容易である。

どれほど多くの言葉を集め、情報量を貯め込んだとしても、その言葉を精選し、読者に届けるプロの仕事を要求される馬締にとって、「誰かと繋がること」を身体表現する辞書部内での由々しきテーマに対して、今や「恐怖突入」するしかなかったのである。

この「恐怖突入」を必然化する事態が惹起することで、馬締の変容の決定的な転機となっていく。

香具矢初めての出会い
それは、一目惚れした女への告白という、馬締にとって、途轍もなく高いハードルの跳び越えだったのである。

女の名は香具矢。

タケオばあさんの孫娘である。

板前を目指して孤軍奮闘する彼女の、凛とした生き方に接することで、いよいよ自分にはない新鮮な魅力を感じたのか、一目惚れして以降の彼の内面世界では、まさに「恐怖突入」なしに済まない辺りにまで情動が氾濫し、煩(うるさ)く騒いで止まなかった。

その事実を知った辞書編集部の先輩たちは、彼の恋を成就させるためにサポートさえするのである。

「僕は香具矢さんの料理が好きです。一番好きです」

馬締の告白である。

タケオおばあさんから、馬締の誠実で内気な性格についての情報を得ていたであろう、そのイメージをトレースする相手の煮え切らない態度を理解できていても、板前見習いの「男前」の女の心を決定的に動かすには至らない。

馬締の情動の氾濫だけが置き去りにされたとき、いよいよ煩く騒ぐ情動を抑え切れず、勇気を振り絞って、内気な男はアクションを起こすのだ。

難しい漢字で埋め尽くされたラブレターを書き、それを直接、本人に手渡しするに至るのである。

しかし、そこまでだった。

それは、言語的コミュニケーションの体裁をとっているが、生気に満ちた言葉が放つ律動感のイメージと乖離していた。

古臭い表現で埋め尽くされたラブレターを手渡された香具矢は、自分の学力の欠如を指摘された屈辱への憤怒を、本人の前で炸裂させてしまうのだ

「すいません」と繰り返すばかりの、馬締光也の心情を理解している香具矢は、きっぱりと言い切った。

「手紙じゃなくて、言葉で聞きたい。みっちゃんの口から聞きたい、今」
「今・・・今ですか?」
「今は今でしょ!辞書で調べたら?」

本当に調べようとする馬締に呆れた香具矢は、咄嗟に反応する。

「本当に調べなくていいの」
「すいません」

多くの言葉を知る男には、この表現以外に反応する術がないようだった。

凛とした表情で詰め寄る女。

「はっきり言って」

そう言われた男もまた、「はい」と答えた後、香具矢に正対し、凛として答えた。

「好きです」

長い「間」を取りながら、香具矢も反応した。

「私もよ」
「え?ええ?」

予想もしない香具矢の返答に、驚きつつも、心の中の喜びの感情を未だ表現できないながらも、明らかに、これまで悶々としていた心の靄が一瞬にして晴れたのである。

恋を成就させた男と
かくて、二人の恋は成就したのである。

それは、恋を成就させた男の、その一つの艱難なハードル越えの瞬間だった。



4  辞書という名の「大海に浮かぶ一艘の舟」を丁寧に編む男の物語



この日以降、見違えるように、馬締は変容していく。

それは、恐らく生れて初めて、自分の率直な感情を、最も伝えたい相手に伝えることができた喜びが、それもまた、男にとって、生れて初めてとも言っていい自信に結ばれたからである。

それを検証する典型的なエピソードがあった。

西岡が宣伝部に転属することを知った馬締は、その西岡と、恋人の三好をタケおばあさんの下宿に呼んで、小さな宴を催した。

「僕は、西岡さんが異動になることを・・・本当に残念に思います。頭でっかちなだけじゃ、生きてる辞書は作れない。僕にそう教えてくれたのは西岡さんです」

西岡と三好の恋
心のこもった馬締の言葉は、軽薄な人生を送っているように見えた西岡の心を大きく動かした。

「馬締!俺、こいつと結婚するわぁ!」

号泣するのを抑えながら、隣に座る三好に、酔ってプロポーズする西岡を見て、小さな笑みを漏らす馬締。

彼はここまで変わったのである。

自己を相対化することで、人の心が分り、その心と繋がり得る人間にまで届いたのである。

馬締がこれまで蓄えてきた、内部世界で小さく自己完結し、漂流していただけの言葉の海が、初めて人の心を動かすほどの、言語的コミュニケーションという有効な表現に結ばれたこと ―― これが決定的に大きかった。

12年後。

2008年である。

一度、決定的な状況で手に入れた自信は、既婚者となった男を決定的に変えていく。

今や主任となり、自信を手に入れた男が、最も拘り続けた辞書の編纂の仕事に、全身をもって自己投入していく流れは、男を取り巻く小さいが、しかし、同じように誇りを持って仕事する僅かな仲間との、「静かなる情熱」によって成る連帯感を形成するに至る。

他社の辞典の模倣を嫌い、指に吸いつくようにページが捲れる、所謂、「ぬめり感」に拘泥する男の仕事には、言葉の海に遊ぶことで自己完結していた世界と切れて、「職業的負荷意識」で武装したプロフェッショナルの風景が垣間見える。

初期の辞書編集部の面々・左から西岡、馬締、松本、荒木、佐々木
徹頭徹尾、地味な物語を決定的に反転させていくこのシーンは、仲間との「静かなる情熱」によって成る連帯感を大きく駆動させ、およそ15年の長い年月を経た仕事を完遂させていくまでの、プロフェッショナルの集団による、艱難辛苦の経緯を描いていく。

そんな中で惹起したヒューマンエラー。

「大渡海」の発売が来年の3月に決まって、多くのアルバイトの若者を動員して、辞書編集部の一同が、今まさに、チームビルディングを形成していた只中に、それは起こった。

校正刷りの最終局面で、「血潮」という見出し語が抜けている事実を、馬締がアルバイトの若者に指摘されたのである。

それを、自らの責任として受け止めた馬締は、ほんの少しのミスを誤魔化さず、一切の校正の作業を中断し、男は言い切った。

「一つ抜けていると言うことは、他にも抜けている可能性があるということです。穴の開いた辞書を、世に送り出す訳にはいかないんです」

そう言って、作業を中断し、泊まり込み覚悟で、仕事のやり直しを依願したのである。

主任となった馬締の依願を承諾する、辞書編纂の仕事に関わるアルバイトの若者たち。

大仕事を遂行して歓喜する若者たち
決して声高にならない馬締の情熱を読み取って、一種異様な空気の中で、若者たち本来の馬力に火を点けたのである。

外部刺激に弱く、極端に内気で、協調性に欠け、コミュニケーション能力の不足で煩悶していた男が、期限の迫った大仕事への、局長命令という外部刺激に耐え、若者たちの馬力に正対し、言語的コミュニケーションの真っ向勝負の力で、一歩誤れば、緩みかねない状況を支配するまでの成長を身体表現するに至ったのだ。

1995年にスタートした「大渡海」の編纂の大仕事は、15年の歳月を経て、遂に完成する。

発売期限に間に合ったのである。

ラストシーン。

馬締と香具矢の夫婦は、道半ばで食道がんで逝去した、国語学者・松本の実家を訪問した帰りのタクシーを途中下車し、眼前に広がる大海原を深々と眺望する。

「言葉の海。それは果てしなく広い。辞書とは、その大海に浮かぶ一艘の舟」

大海原を眺望する馬締と香具矢
大海原という特定スポットは、この松本の言葉とオーバーラップする、波間に揺蕩(たゆた)う一艘の舟のように、胸に沁み入る情景のイメージの広がりだったのか。

「香具矢さん」
「ん?」
「これからもお世話になります」

いつものように静かな口調で、そう言って、頭を下げる馬締。

もう充分に、松本の言葉を内化し得た男は、辞書という名の「大海に浮かぶ一艘の舟」で海を渡り、自分の気持ちを的確に表す言葉を探す人たちのために、その舟を丁寧に編んでいく仕事を天職と心得て、一途に励む意志を妻に伝えることで、これまでの感謝の念を吐露したのである。

「みっちゃんて、やっぱり面白い」

「香具矢さん」と、夫に呼ばれる妻の言葉である。

夫の性格を理解し切っている、妻の香具矢もまた、このような言葉で、夫唱婦随の柔らかな情感を表現したのである。

それで、もう充分だった。

僅かな台詞と映像のみで、この映画のテーマと、そこで描かれた男と女の関係の濃密度を表現し切ったのである。

素晴らしいラストシーンだった。

―― ここで、本作を簡潔に要約すれば、以下のようにも言えないだろうか。

要するに、この映画は、前述したように、馬締光也の性格傾向の特徴として挙げた、1の「外部刺激に弱い」、2の「内気である」、3の「協調性に欠ける」という適応性の不具合を、コミュニケーション能力の強化の中で限りなく希釈していくことで、4の「自分の趣味に対する拘りが強い」、5の「その名の通り、『マジメ』である」という能動的側面が融合し、それが心理的推進力となって、人を動かし、関係を動かし、途方もないほど長い時間をかけて大仕事を果たす、一貫して変わらない男の物語であったということ。

そういう風に解釈し得る映画だったとも思われる

素晴らしい映画だった。



5  人間が学習的に獲得した最高の能力的所産としての言葉の決定力



「人間らしさとは、世界に上手く適応できること。人間の世界は、外の世界に適合する必要があります。風景や他の生き物、動物、他の人間のグループ。彼らとコミュニケートし、更にその記憶を刻み込む。ある特定の非常に固いものの上に、例えば壁や、木片や骨に。これがクロマニヨン人の発明です。動物や人間の“像”が発明されることによって、未来への伝達が可能になったのです。過去の記憶を情報として伝えるには、“像”は、どんな伝達手段よりずっといい方法です」

世界最古の洞窟壁画 3D 忘れられた夢の記憶」より
これは、「世界最古の洞窟壁画 3D 忘れられた夢の記憶」(2010年製作)というヴェルナー・ヘルツォーク監督の映像で語られた、ショーヴェ洞窟調査プロジェクト責任者・ジャン=ミシェル・ジュネスト氏の言葉である。

思うに、最も肝心な前頭葉の発達の相対的劣化によって、言語的表現において3種類の母音しか持ち得なかったが故に、発声器官の脆弱性を露わにしたことで、花を手向けることで死者を悼み、老人や身障者を丁寧に埋葬する文化を持っていたことで知られる(イラク・シャニダール遺跡)ネアンデルタール人と比べれば、構造的に5種の母音を全て発音できるクロマニヨン人の生存・適応戦略の抜きん出た能力の高さは圧巻であり、正直、深い感銘を受けざるを得ないのである。

群れを作りながらも、その限定的な空間の中で、集団の仲間に適切な意思伝達ができなかったネアンデルタール人と、好奇心旺盛で、逞しい生存適応能力によって厳しい氷河期を生き抜いたクロマニヨン人との能力との決定的差異は、外部世界に上手く適応できる能力の優劣となって顕在化したのである。

 そして何より、この発声器官の脆弱性は、コミュニケーション能力の劣化を決定づける証左になっていて、狩猟・採集という生存・適応戦略の広がりの足枷になっていたと思われる。

集団のパワーを存分に発揮してマンモスを仕留めるほどに、狩猟用の殺傷性の高い武器(投擲兵器や弓矢)を作る能力を有するか否かという一点によって、厳しい環境の劇的変動によって、両者の食糧確保の能力の優劣が、生き死にの極限状況下で露呈してしまったのだ。

ショーヴェ洞窟より
狡猾なまでにクレバーだったクロマニヨン人の強(したた)かさこそ、苛酷な氷河時代を生き抜き、優れた洞窟壁画をも残したばかりか、動物や人間の“像”を発明し、それを有効な伝達手段として使用した、まさに「全身最適戦略者」の本領発揮ではなかったのか。

「風景や他の生き物、動物、他の人間のグループ。彼らとコミュニケートし、更にその記憶を刻み込む」というクロマニヨン人の高度な能力は、“像”の発明によって、過去の記憶を未来に伝達する方略をも生み出していったのである。

まさに、コミュニケーション能力こそ、生存・適応戦略の中枢機能であるという事実が歴史的に検証されたのである。

非言語的コミュニケーションとしてのボディーランゲージなどで初発のコミュニケーションを繋ぐことで、言葉がない時代の意思伝達を可能にしつつ、私たちの祖先高度な言葉の文化を生み出していったのは、単に偶然の産物ではなかったのだ。

コミュニケーションの歴史的累積の結果、知覚・感情・思考の伝達を多角的に分娩し、私たちの人間関係が様々に繋がれてきたことで、「言語的コミュニケーション」ばかりか、相互のメッセージの伝達の強力な武器になっている、表情や様々な振舞いなど、身体表現としての「非言語的コミュニケーション」を有効に駆使する能力を、一つの文化として形成してきた驚嘆すべき事象に、私たちは誇りを持つべきではないか。

「言語的コミュニケーション」、「非言語的コミュニケーション」に集約される、表現の格好の手立てである言葉によって、相互の意志疎通が具現し、心の奥深い辺りまで思いが届き、それが特定の関係性の中に、「共感感情」という、私たち現生人類の心理のフィールドでの一つの到達点を検証し得ると言えるだろう。

動物における発現の様態と完璧に断割し得る、特定他者と喜怒哀楽の感情を共有する「共感感情」の深化こそが、個と個の人間関係の深化の源泉である。

 「ソクラテスやプラトン以来、私たちは“思考”をこう考えます。自分自身との静かな対話だと」
 
ハンナ・アーレント」より
これは、マルガレーテ・フォン・トロッタ監督による、「ハンナ・アーレント」(2012年製作)の中のアンナの言葉。
 
「自分自身との静かな対話」こそ、私たち人間が到達した言語能力の輝かしい達成点の一つである。

何も、アンナ・ハーレントのように難しい思考を媒介せずとも、多様な様態を見せながら、私たちが、「自分自身との静かな対話」を大切にする習慣を構築し得ていることは自明である

「自分自身との静かな対話」をを記録化すれば、非公開の日記として機能する。

日記を綴ることによって自らを省察し、そこに関与した様々な事象に思いを巡らせ、特定他者との関係の齟齬や、その関係を生み出した〈状況〉について、自分の能力の範疇で包括し得る限りにおいて思考の稜線を伸ばし、錯綜した情報を交通整理することで、前向きな内面的処理を遂行していく。

「個体内コミュニケーション」とも呼ばれるこの営為は、私たちの日常的な「対人的コミュニケーション」と共に、私たちのコミュニケーション能力の奥行きの深さを象徴しているものである。

私たち現生人類は、自我に依拠して物事を判断するが故に、本来的な脆弱性から解放されることがないが、それでも高度なコミュケーション能力を獲得することで、視界の見えない異文化との内的交流を構築し、それを繋いでいくことによって、不毛な争いを回避し得る能力をも作り出したのである。

「個体内コミュニケーション」を大切にする者は、言葉を大切にする者である。

そこで表現される言葉を、経験的に洗練させていくことで、コンセプチュアルスキル(概念化能力)を高めていくのだ。
  
 
まさに、言葉とは、人間が学習的に獲得していった最高の能力的所産なのである。



情報伝達手段として、適応戦略の中枢機能を担った言葉の獲得こそ、「人間らしさ」への誇るべき一里塚だった。

「人間らしさとは、世界に上手く適応できること」

 ジャン=ミシェル・ジュネスト氏の、この言葉の含意は相当に深いのだ。

 
(注)ショーヴェ洞窟のアートの世界に携わったであろうクロマニヨン人(学名は「ホモ・サピエンス・サピエンス」)は、欧州の一角で呼吸を繋いできた地域的集団であり、今は欧州における化石現生人類とされていて、コーカソイド(欧州の白色人種)との遺伝的な繋がりも検証されている。ミトコンドリアDNAの解析によって、ネアンデルタール人が私たちの直系の先祖ではない研究成果は、今や、周知の事実。


【参考資料】
拙稿・人生論的映画評論・続「世界最古の洞窟壁画 3D 忘れられた夢の記憶」(2010年製作)より


(2014年2月)

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