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2013年9月13日金曜日

櫻の園(‘90)      中原俊



<「年中行事」を「通過儀礼」に変換させた物語の眩い輝き>




 1  「年中行事」を「通過儀礼」に変換させた物語の眩い輝き ―― その1



地方都市にある私立櫻華学園高校演劇部では、創立記念日にチェーホフの「櫻の園」を上演することが、桜咲く陽春の日の伝統的な「年中行事」となっていて、多くの不特定他者の観劇を吸収するビッグイベントだった。

彼女たち演劇部員にとって、毎年、特定の時期に催される「年中行事」であった「櫻の園」の舞台は、同時に、思春期後期で通過せねばならない重要な節目でもあった。

 それは、演劇部員の「通過儀礼」であると言い換えられるだろう。

その「通過儀礼」を突破することで、「ほんの少し別の状態」の相貌を持つ「何者か」になるのである。

この「年中行事」と「通過儀礼」の対峙の風景の活写こそ、本作の基本骨格を成していると、私は考える。

「櫻の園」の上演が「通過儀礼」としての含みを持つ、演劇部員の個人的な例を挙げれば、演劇部長の志水由布子のエピソードのうちに集約されていたと言っていい。

敢えて、この日に合わせて、パーマをかけた髪で登校して来た行為それ自身が、大袈裟に言えば、彼女の自己像変換への意思を身体化させていたからである。

演劇部長の志水由布子
即ち、「しっかり者」という固定化されたイメージを、「周囲の圧力にめげるまで、このまま」という強い意識の下、自らの身体性に僅かながらも視覚的変化を加える行為を介して、「ほんの少し別の状態」の相貌を持つ「何者か」に変換するモチーフが含まれていたのである。

彼女自身の誕生日でもあったその日を、「特別の日」と考えたに違いない由布子にとって、「ハレ」の日における大胆な身体加工のパフォーマンスは、数多の観劇者の前で上演される、とっておきのステージの時間の総体を、自己史の次なるステップに何某かの意味を付与する「通過儀礼」と考えていない限り説明できない心理である。

それは、ところてん式に短大に進学する既定のコースを確信的に捨てて、一人の友人もいない4年制大学(?)への進路を選択しようとする彼女の強い意思の表れであることを想起するとき、彼女のパーマヘアによる身体表現には、表層的に括れば、「通過儀礼」を突き抜けんとする思春期自我の微々たる氾濫でしかないが、しかし、視覚的効果の鮮烈なる炸裂であった事実を否定する何ものでもなかったと言える。
 
知世子(右)と由布子
然るに、由布子のような思春期自我の炸裂にまで至らず、この日の「櫻の園」の上演をあっさりとスルーし、できれば〈状況〉から逃避したいと念じる演劇部員もいた。

倉田知世子である。

背が高いため男役専門であった知世子にとって、「櫻の園」のヒロインであるラネフスカヤ役を演じるという役割の重さは、何にも増して苦痛以外の何ものでもなかった。

知世子は、男役として馴致してきた自己像を壊す行為に震えるばかりか、男役の根拠となった自らの背の高さに劣等感を持つ始末だった。

倉田知世子のナイーブな自我が負った苛酷な「通過儀礼」 ―― それが、「櫻の園」の舞台の重量感だったのだ。

それでも、苛酷な「通過儀礼」を突破せんとする努力を繋ぐ知世子の性格の真面目さは、誰もいない校内の廊下で、必死に台詞を暗誦する行為に集中的に表現されていた。

いっその事、中止になって欲しいと願うネガティブな感情と、この苛酷な「通過儀礼」を突破せねば、より一層、自分が惨めになるというポジティブな想念が共存しつつも、彼女の自我の懐ろ深くに、誰かの心理的サポートを懇望する心情が張り付いていた。

そして、その心理的サポートの対象人格は、彼女の中で特定化されていた。

知世子が密かに憧れる志水由布子である。

由布子には、自分の中にないからこそ、特段に自分が欲する意志の強さがあった。

由布子に対する知世子のその思いが、ある種の「同性指向」に大きく振れていく。

知世子(左)と由布子
由布子にとっても、自分の中にない、知世子のナイーブな性向に惹かれるものがあったのだろう。

二人は、ツーショットの写真のうちに収まることで、心情を深々と交歓する。

「私、倉田さんのこと好き。だめ?」と由布子。
「ううん、だめじゃない」と知世子。
「倉田さん好きよ」
「うん」
「大好き」
「うれしい、もっと言って」
「好きよ。大好き。本当よ」
「うん」

 これは、最初の一枚を撮り終った後の会話。

心情のセンチメントな交歓の愉悦の中で、二人はカメラに繰り返し近づきながら、手動式のスイッチを押し続けていく。


この会話の一部始終を、「喫煙事件」の張本人である杉山紀子が教室内から見聞きし、由布子への自分の心情が「片思い」だったことを確認するカットが添えられていた。

杉山紀子
これは、概ね女子高限定の、微妙な女生徒たちの「同性指向」が、例えば由布子のケースで言えば、あと1年もすれば、風景が変わることで、「異性指向」のうちに自然に振れていく心理プロセスの一端を切り取ったものに過ぎないだろう。

だから、取り立てて問題にするような描写ではないのである。

寧ろこのシーンは、このような「同性指向」と「異性指向」が共存する少女たちの、複層的に絡み合った裸形の内的風景以外の何ものでもないと解釈すべきである。

 但し、これだけは押さえておく必要がある。

知世子に思いを告げる由布子の心理には、上演直前の極度の緊張感で前に進めなくなっているように見える彼女への、演劇部長としての責任意識が全く介在していなかったとは言えないという点である

 その意味で何より重要なのは、知世子が負った苛酷な「通過儀礼」の重石を、天然系の「しっかり者」とも思しき由布子の、「同性指向」の率直で自発的且つ、柔和なアウトリーチが相当程度軽減するに至ったという事実である。

 かくて、「櫻の園」の舞台で主要な役割を担うナイーブな思春期中期の自我のうちに、苛酷な「通過儀礼」を突破せんとする心理的構えが形成されるに至ったのである。

その心理的構えは、苛酷な「通過儀礼」という恐怖への精神的な余力の分娩にも通じる、心理学で言うところの「認知的構え」の形成にも大いに寄与したであろう。


このエピソードは、それほどに重要な、天然系の「しっかり者」の本領発揮の由布子からの、「同性指向」の濃密な柔和なアウトリーチだったのだ。




 2  「年中行事」を「通過儀礼」に変換させた物語の眩い輝き ―― その2




そして、この「年中行事」と「通過儀礼」の対峙の風景が、集中的に表現されていた重要なエピソードがある。

城丸香織
それは、杉山紀子の喫茶店での「喫煙事件」に端を発し、「櫻の園」の上演の中止が演劇部員の噂になっている中で、舞台監督を担っている2年生の城丸香織が、自らの思いを情感的に訴えるシーンである。

以下、3年生を前にしての城丸香織の長広舌。

「あたし、さっき里見先生泣いているの見て、びっくりしちゃって、他の先生は皆、来年、来年って簡単に言うけれど、来年って、今、3年の先輩たちが皆いなくなって、なりたくても、なりたくなくても、私たちは皆3年になっていて、それで同じように創立記念日が来て、『桜の園』やって、そのときもやっぱり桜なんかいっぱい咲いていて、それって多分、今年と同じだと思うし・・・今年と同じって言うか、その前の私たちが入学する前も、ずーとずーと同じだったと思うんです。そんな中にずっといた坂口なんかには、全部同じに見えるかも知れないけど、先輩たちは今年しかないんですよ!私たちには、来年しかないんです。それしかないんですよ。それを、あの坂口なんかに、泣いて言っている里見先生って何て言うか、坂口なんかには、絶対に分んないだろうけど・・・あたし、毎年毎年、同じように咲く桜って、なんか許せないって言うか・・・こっちは次々、卒業して行くっていうのに、全然変わらないのなんて・・・そんなの・・・」

途中、叫んだり、嗚咽を結んだりしながら、広い部室の中で、一気に自分の思いを吐き出すのだ。

後輩の演劇部員の長広舌を、生徒の家族が差し入れたアイスクリームを食べながら聞いていた3年生が、思い思いに反応する。

「そうか、あと一年したら、私たち、ここにいないんだね」
「それはちょっと寂しいよね」
「でも、ここまで来たんだから、『桜の園』やりたいよね」
「来年さ、桜見たら思い出すよね。こうやって話していることとか」
「そうだよ、きちんとやって、里見先生のあの涙に応えないと」
「それって、すごい青春ものみたい」
「だって青春だもん」

ざっとこんな会話の応酬だが、一段落した後、アイスクリームの当たり外れで喧騒的な雰囲気に流れていくことによって、「青春ものみたい」な空気感が相対化されるが、凡俗のドラマ的な臭気を希釈するその辺りの演出の切れ味は冴えわたっていた。

しかし、城丸香織の長広舌が、3年生の心の中枢に入り込んだ事実には疑う余地がなかった。

直後の彼らが、「櫻の園」の上演の中止を前提にせず、揃って屋上に行って、ストレッチと発声練習を怠らなかったからである。

満開の桜の下を散歩する里美先生(右)
因みに、里美先生とは演劇部の女性顧問の名である。

この時点で、彼女が、職員会議の場で、「櫻の園」の上演を訴えていたという間接情報が駆け巡っていた。

また、マクガフィン的役割を演じる坂口とは、生徒指導に厳しい男性教諭のようだが、物語に実際に登場しているから、完璧なるマクガフィンとまでは言えなかった。

いずれにせよ、このシーンで、「年中行事」と「通過儀礼」の対峙の風景が、集中的に表現されていた点を重視せねばならないだろう。

言うまでもなく、「櫻の園」の上演の中止を説く坂口教諭が、一度きりのチャンスしかない個々の演劇部員の「ハレ」の身体表現を、「年中行事」としか考えていない「管理教育の権化」の象徴的人物であり、「毎年毎年、同じように咲く桜って、なんか許せない」という比喩によって指弾される、演劇部員の「仮想敵」と化すに至っている。

然るに、坂口教諭のような感覚の次元で、「櫻の園」の上演を「年中行事」としか考えていなかった女子も含まれていたに違いない演劇部員の心の中枢に、切っ先鋭い「問題意識」を侵入させた今回の突発的事態の惹起によって、彼女たちの心情変容を招来したであろうことが印象付けられる。

即ち、多くの3年生の演劇部員にとって、まさに「今年」の「櫻の園」の上演は、どうしても突き抜けねばならない「通過儀礼」の意味を持ったという現実 ―― それが決定的な事態だったのだ。

ラストカット
本作は、単なる「年中行事」であった、幾分特化された学校イベントを、突発的事態の惹起に起因する様々なる校内の揺動を推進力にすることで、その凝縮された時間に詰まった熱量の自給の分だけ、眩い輝きを放つだろう「通過儀礼」に変換させた物語だったのである。

これが、私の本作の基本的解釈である。

最後に一言。

「櫻の園」の上演を、単なる「年中行事」の一つと考えていたか否かに拘らず、「校則」という名のルールを破った事態にペナルティーを看過しない、坂口教諭のような大人の存在が必要であると私は考える。

但し、個人の問題に対して連帯責任を負わせる方法が、今回の事態への適性で、合理的ななペナルティーであったかについては別問題である。

ともあれ、自らが仮構した「仮想敵」と対峙し、そのハードルを突破していく一連の行為もまた、思春期中期の「通過儀礼」であることには疑問の余地がないだろう。

(2013年9月)











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