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2013年12月28日土曜日

夢売るふたり(‘12)      西川美和



<人間が複雑に絡み合うときの、複層的なイメージを存分に想起させる逸品の切れ味> 



1  人間が複雑に絡み合うときの、複層的なイメージを存分に想起させる逸品の切れ味



「良い映画」と「良くできた映画」。

「私の中の秀作」を勝手に分類すれば、この二つに収斂される。

「良い映画」とは「心に残る映画」であり、「良くできた映画」とは「完成度の高い映画」のこと。

この二つが融合される映画こそ、私が最も求めている映画であるが、滅多に出会うことはない。

敢えて言えば、ミヒャエル・ハネケ監督の殆ど全ての作品がこれに該当するが故に、当然、ハネケ監督の作品を観ることが、私にとって至福の時間になる。

古い映画を例に出せば、私が外国映画ナンバーワンと惚れ込む、ジェリー・シャッツバーグ監督の「スケアクロウ」(1973年製作)。

それ以外にないような、決定的なラストカットの切れ味の鋭さに言葉を失うほどだった。

更に、近年の邦画では、抜きん出た完成度の高さに驚かされた、吉田大八監督の「桐島、部活やめるってよ」(2012年製作)が印象深い。

観終わった後、「これを超える『学園ドラマ』は、もう出ないのではないか」と思った。

私にとって「心に残る映画」とは、人間の分りにくさを、分り切った者の如く、決して描かないタイプの映画である。

複雑な人間の複雑な振舞いの、主観的に目立った一点のみを切り取って、「この人は、こういう人間だ」などと分り切って見せるようなタイプの作品が多い、娯楽中心のハリウッド系の映画を、私は最も嫌う。

分りにくさと共存することへの不快感が、単純に語ってくれる言辞の集合に雪崩れ込んでいく。

この風潮に、私は全く馴染まない。

「愛こそ全て」などと言って、一切の人間の事象を、出入り口自在な、簡便な言辞で撮り逃げする映画を最も嫌う私の性向は、もう変えようがないのである。

以上の口幅ったい物言いで明瞭だが、人間の複雑さを、単純な言葉でトータルに総括することを拒絶する映画 ―― このような作品が、私にとって最も「心に残る映画」になる。

映画の分りにくさが、観る者の知的過程を開いていく。

存分に考えさせる余地を残してくれる作品が、最も良い。

だから、度々、へとへとになる。

黒澤明監督の「羅生門」(1950年製作)の批評を書く際に、一人一人の人物造形の心理を精緻に追う作業に、すっかり疲弊し切ってしまった記憶が、今でも深く印象付けられている。

「羅生門」は「良い映画」であると同時に、「良くできた映画」であると評価していたから没頭できたのである。

心地良き疲労感。

これが最高にいい。

これほどの映画が作られ、息づいていた時代の映像文化に誇りを持つ所以である。

さて、この「夢売るふたり」。

映像作家の本領を発揮して、確信犯的にリアリティを蹴飛ばしたばかりか、無駄な描写が多いように思われるこの映画を、100%「良くできた映画」と呼ぶのに躊躇するが、私はこの映画を大変気に入っている。

蛇イチゴ」より
シンプルな構成でまとめた「蛇イチゴ」(2003年製作)と、そこだけは切れて、複数の登場人物の心の振幅を様々に切り取ったこの映画は、一貫して、この作り手の問題意識を投影させる作品になっていた。

しかも、その中枢に据えた「物言わぬヒロイン」(西川美和監督の言葉)が身体表現する複雑な展開には、分りにくい人間の、その分りにくさを考えさせてくれるに足る鮮烈なインパクトがあった。

本作が最も素晴らしいのは、分りにくい人間の、その分りにくさを、一人の女性に特化して、そこだけは限りなく、「描写のリアリズム」を壊さないギリギリの辺りを、累加されていく非日常の〈状況〉の渦中で揺動し、冥闇(めいあん)の森で漂流する内的風景の振幅を包括しつつ、「心理的リアリズム」の筆致で精緻に描き切った構成力の成就にある、と私は考えている。

更に、この映画が、私にとって「心に残る映画」になり得たのは、僅かなシーンでの短い台詞を完璧に表現して見せた、安藤玉恵扮する、風俗嬢・紀代の人物造形の決定力である。

正直、思わず、目頭を熱くさせてしまった。

西川美和監督の映画で、初めての経験である。

「私は今が幸せだよ。こんなざまだけど、自分の足で立ってるもん。自分で自分の人生に落とし前つけられれば、誰に褒められなくっていいもの」

ただ、これだけのことを語ったに過ぎない。

しかし、力があった。

風俗嬢の紀代が、結婚詐欺を働く貫也と、彼女のヒモに放った言葉に力があったのは、静かだが、一言一言に深い情感が張り付いていて、体を売って生きる彼女の人生観と呼べる思いの結晶が、凛とした態度のうちに身体表現されていたからである。

この台詞に触れたときの感動は、決して忘れることがないだろう。

何より、多くの観客に、この映画で深い感銘を与えたのは、ウエイトリフティング選手のひとみの誠実な人柄であると想像し得るが、私には、結婚詐欺を働くことで、「偽造された人生」を繋ぐ夫婦の生き方に対する、極めつけのアンチテーゼの重量感を乗せた紀代の表現が内包する力に、殆ど絶句する思いだった。

「物言わぬヒロイン」を演じ切った松たか子。

里子役の松たか子と貫也役の阿部サダヲ
その夫役の阿部サダヲ。

風俗嬢・紀代を演じた安藤玉恵。

この3人が表現し得た内面描写の素晴らしさ。

そして、様々に解釈可能なラストカットの構図。

この映画は、人間が複雑に絡み合うときの複層的なイメージを存分に想起させて、私にとって逸品と言っていい作品だった。



2  ブラックコメディの基調で開かれる「偽造された人生」の渦中へ



料理人としての夫の虚栄を、決して侵蝕しないこと。

この隠し込まれた不文律の中で、広い東京の片隅に自分たちの店を持ち、順風満帆な日常性を繋いできた妻がいた。

夫の虚栄を上手に確保させつつ、継続されてきた、夫婦関係のイニシアティブを一貫して掌握しているのは、この妻だった。

これは、夫婦の店の繁盛を紹介する冒頭のシーンの中で、夫にサインを送る妻の、ごく自然な視線の投入によって映像提示されていた。

夫婦の店のルーツ
妻のサインを受ける夫と、サインを送る妻との夫婦関係の円満性は、順風満帆に繋がれた夫婦の店の、その安定的な継続力のうちに保証されていた。

夫を柔和に調教し、作り上げてきた夫婦像に全く破綻が起こらなかったのは、夫に対する深い愛情に裏打ちされた妻の、関係の構築力の巧みさに因っていたと思われる。

それは、夫にサインを送る妻の視線の投入の柔和さのうちに、夫の虚栄を上手に確保させることで成就する、尖りのない妻の包括力の凄みだった。

この妻の視線が、映像を一貫して支配しているのだ。

そんな尖りのない妻の包括力の凄みが、恐らく、持ち前の自我の強靭さとして反転的に身体表現されるに至ったのは、10年前に立ち上げた小料理店の全焼火災による、夫婦の店の自壊現象を契機にする。

敢えて、この全焼火災のシーンを、スローの画面で、些かくどいほど映像提示したのは、この決定的な事態の惹起によって、物語の風景が根柢において変容するからである。

妻の名は里子。
夫の名は貫也。

以降、拠って立つ自我の安寧の基盤を崩された貫也の腑抜けぶりは、女房の蝶子に全面依存する「夫婦善哉」(1955年製作)の維康柳吉とまでは言わずとも、この国の、このようなタイプの男がしばしば見せる脆弱性の極限値を示すものだった。

しかし、里子は動じない。

一向に立ち直ることが叶わず、怠惰を貪る貫也を尻目に見て、里子はラーメン屋のアルバイトに精を出し、夫を扶助する日々を繋ぐのだ。

「10年前と同じだよ。何も怖くないよ」と里子。
「10年は長かよ」と貫也。
「長くないって。二人でおったらすぐって」

里子の膝枕に泣き崩れる貫也の構図に関しては、「頼りにしてまっせ、おばはん」と言い放った、「夫婦善哉」の柳吉のキャライメージと殆ど被るものだった。

しかし、このようなタイプの夫婦が嵌る陥穽から、この二人も免れ得なかった。

貫也の浮気相手の玲子(左)
貫也の浮気による、隠し込まれた夫婦の裸形の様態の顕在化である。

ところが、この崩され方が、二人の場合、奇異な風景を見せていく。

自分の視線の中に捕捉されていた夫が、視線の枠外に姑息に踏み出したルール違反を看過できるわけがない、里子の情動の炸裂を回避し得なかったばかりか、そこから反転された風景の変容の様態は常軌を逸していた。

ほんの少し前まで、夫婦が経営していた小料理屋「いちざわ」のレギュラーカスタマーだった玲子との、酩酊状態の出会いの流れの中で一夜を過ごした挙句、彼女の不倫相手の事故死によって、親族から手渡された手切れ金を貫也が受け取るという奇妙な展開が、里子の情動の炸裂の由々しき背景になっていた。

玲子から受け取った札束を、まるで母親に褒めてもらうことを期待して、里子の元に転げ走るように運んで来た貫也だが、貫也の服から漂う女の臭気によって、夫の裏切りは難なく見抜かれていく。

その夜、遂に帰宅して来ない夫を、自転車で探し回っていた彼女の憤怒が身体表現されるのは当然だった。

彼女の情動の炸裂は、その紙幣を燃やす行為に集中的に表れていた。

それは、自分を裏切った夫に対する彼女なりの報復であったが、それ以上に、自分の精神的支配下から乖離する、姑息な振舞いへの許し難い感情の表れであったとも言える。

一万円札の束を燃やす行為を中断した里子は、風呂に入っている貫也に投げつけた後、すっかり濡れた一万円札を、 一枚ずつ拾い上げていく。

この行為に凝縮された里子の情動の炸裂が、自分を裏切った夫を結婚詐欺師として調教していく反転的行為への、決定的な契機となっていくという展開の基調は、どこまでも、人間が忌避する「毒素」で笑わせるブラックコメディのラインを踏襲していると言っていい。   

このブラックコメディの基調で展開する、「居抜きではなく、スカイツリーの見える円満夫婦の店の立ち上げ」を具現するための結婚詐欺という、確信犯的にリアリティを蹴飛ばしてまで仮構していく「風景を変容させた物語」が、ここから開かれていく。

「偽造された人生」のオープニングの幕が開いたのである。



3  「見栄を張って生きる小金を持つ女」から、「体を張って生きるひたむきな女」への風景の変容の中で



夫婦の「偽造された人生」の最初のターゲットとなったのは、高級料亭に通う結婚願望の強い女性たち。

高級料亭で料理包丁を握る貫也に、接客を務める和服姿の里子が、結婚詐欺の対象人格を逸早く特定し、間髪を容れず、接近のためのハンカチを手渡して、涙を拭わせる。

30にもなって未婚でいる咲月が、両親と同居する実情を妹に難詰されている姿を見て、その咲月にハンカチを手渡す貫也に、「結婚できない女であると見られること」に、一貫して嫌悪する自己像を抱懐する女の心が鋭敏に反応し、呆気なく男女関係にまで進んでいくのだ。

既婚男性であるという不如意の事実を伝えつつ、「不倫に脳む男」を演じる貫也の一挙手一投足を支配する、里子の思惑は悉(ことごと)く成就し、借用書を書きながら大金を掠め取る手口によって、次々に結婚詐欺の対象人格を増やしていく。

大金を掠め取る際の、咲月との別離の電話のシナリオを書く里子。

大金を掠め取られながらも、自分が騙されていないと信じる女性たちの中で、ただ一人、咲月だけは深傷を負うが、これが、タブーの臭気に抵触する小気味良い物語を閉じる伏線になっていく。

アパートの壁に貼られた多くの借用書を見ながら、「これを倍にして返そうね」という里子の心理には、行為の後ろめたさを希釈させるギミックが揺曳している。   

なお、ブラックコメディの基調で展開する物語は、高級料亭での「荒稼ぎ」のリスクの潮時を察知し得る里子が、結婚詐欺のターゲットを変えていくことで、夫婦の「偽造された人生」の快調な展開に変化が生まれていく。

それは、結婚詐欺の対象人格が、「見栄を張って生きる小金を持つ女」から、「体を張って生きるひたむきな女」への変容によって開かれた。

その変容は、「体を張って生きるひたむきな女」と接する貫也の感情の変容となって顕在化する。

その現実を捕捉していく里子の視線がリアリティを持ったとき、ブラックコメディの基調で展開する物語は、シリアス基調の色彩濃度を高めていく。

この流れに、特段の破綻がない。

だから、観る者は、物語の基調の変容が、夫婦の亀裂を生んでいく展開を容易に読むことで、物語それ自身の内実に好奇心が誘導されていくだろう。

シリアス基調の色彩濃度を高めていく中で露呈される内実こそ、「偽造された人生」を繋ぐ夫婦の情感世界の裸形の様態を炙り出すのである。

ここから炙り出される物語の展開 ―― それは、ハローワークで紹介された居酒屋で働き始める二人の前に、結婚願望の強い女性が出現しないことで、ポイントを絞って動いていく里子のアクションによって開かれる。

ウェイトリフティングの選手・ひとみ
里子がお見合いパーティーで出会ったひとみは、結婚願望の強いウェイトリフティングの選手だが、その誠実でひたむきな性格を目の当たりにした貫也は、ピュアな気持ちで応援し、彼女を結婚詐欺の対象人格として見ることから離れているようだった。

しかし、里子は違っていた。

「あれ、あんた大丈夫と? さすがにさ、私が男でもちょっと・・・」

ひとみの巨体とセックスするときの、短躯な貫也の体を心配しているのだ。

結婚詐欺の対象人格を、多くの場合、「買い手」としてしか見ていないから、「売り手」である貫也の「商品価値」の「鮮度」を落とす訳にはいかないのである。

そのことは、里子が、貫也への愛情の尺度を「商品価値」としてのみ設定されているということではない。

本気で、貫也の体を心配しているのだ。

そんな里子だが、だからと言って、里子がひとみを軽侮している訳ではない。

寧ろ、一人の人間としてのひとみの誠実さを認知し、惹かれる思いを持っていることは、彼女との会話の中で確認されるもの。

この二つの感情が、里子の内側に同居しているのである。

これは、特別な何ものでもない。

人間とは、そういうものだ。

里子の内側で、自分でも理解できない情動が氾濫するとき、「自分が何者であるか」と混迷を深める事態に立ち会っても不思議ではないのである。

いつしか、「まだまだ足りない」という、欲望系の言辞を平気で表現する里子との、煙が立ち込めるような、もやもやした「心理的距離感」を感受しつつあった貫也が、心の澱になっていた攻撃的なフラストレーションの束を、ダイレクトに吐き出すに至ったのは不可避な事態であったに違いない。

「お前の足りんは、金やなくて腹いせの足りんたい。お前は何もかんも、俺に捧げて来た人生やけんね。生活のほんとんところの厳しさも知らんで、好き放題やってる女が、人の亭主の上澄みだけ舐めて、とろーとっしとるようなのが、一番癇に障るったい。お前はね、おんなん人んことも、その女の股ぐらに顔突っ込みよる俺んことも、なぶり殺しにしてやりたいちゃろ。顔を見れば、分るっちゃい。お前は、これまで俺とおった中で、今が一番良い顔しとる」

凄い表現である。

当然の如く、それを聞き流せず、思わず、貫也に向かってコップを投げつけようと、激しい表情を露わにする里子。

核心を衝かれたからである。

しかし、「物言わぬヒロイン」の内側で重武装された情動は、ここでも武装解除することはなかった。

振り上げたコップの水を飲み込んでしまったからである。

それでも、里子には、自分の視線のラインから逸脱する、ルール違反の貫也の振舞いに対して、不安感情を加速的に抱懐した現実を否定し得ないだろう。

一切は、結婚詐欺の対象人格が、「見栄を張って生きる小金を持つ女」から、「体を張って生きるひたむきな女」への風景の変容によって開かれたのである。

「私は怪物じゃない!」

貫也ひとみ
貫也に放った、ひとみの魂の叫びである。

エレファント・マン」(1980年製作)を想起させる、こんなベタな台詞を挿入させるカットに象徴されるように、「魅力的な容姿」とは無縁な女性が、そのことで抱えるハンデの大きさを強調するエピソードの連射が内包する意味は、「外見よりも内面」と嘯(うそぶ)く人々の欺瞞性を撃ち抜くに足る、本作の作り手のメッセージであると考えられる。

「女性は外見との格闘が生涯つきまとう。見かけの女性らしさを求められ、美の規範を女性自身も狭めているのが実態」(毎日jpホームページ)

この西川美和監督の言葉が語るイメージラインの延長上に、ひとみの人物造形があったと思うのは、寧ろ自然であるだろう。

「女性は外見との格闘が生涯つきまとう」現実は、既に心理学のフィールドで検証されているからだ。

「米国とシンガポールの大学の共同調査によると、ネット上やスピードデーティングといった合コンの場では、男性にとり女性の『魅力的な容姿』がもてる条件であり、女性では男性の『社会的ステータス』が最も重要で容姿の先を行くということです。

シンガポールマネージメント大学心理学部のNorman Li准教授とアリゾナ州立大学心理学博士課程のOliver Sng氏が、ネット上のチャットやスピードデーティングの方法を使ったさまざまなテストを行いました。

その結果、男性は身体的な魅力に乏しい女性を拒否する傾向があり、女性の場合は低い社会ステータスを持つ男性に拒否反応を起こすということが判明したのです。さらに、被験者たちにその結果を伝えたところ、彼らもその傾向を現実を大いに反映していると同意見だったそうです」(マイナビニュースより)

 これは一例に過ぎないが、他の心理学実験では、「女性では男性の『社会的ステータス』が最も重要」という情報には、本音の吐露ではないという結果も出ている現実がある。

実際のところ、男も女も無意識レベルでは、「外見」を重視しているとということだ。

これは、「第9地区」(2009年製作)の批評でも書いたが、些か俗流に解釈すれば、「外見」、「態度」、「話し方」、「話の内容」という「四つの壁」が、他人を受容する最も大きな障壁になっているということを提示した、「メラビアンの法則」の仮説によっても想起されるだろう。

お見合いパーティーでのひとみ
そのことを思うとき、「私は怪物じゃない!」というひとみの叫びをインサートすることで、不毛なる「外見との格闘」で懊悩し、それを乗り越えていく女性像を提示したと、私は考えている。

彼女の場合、「態度」、「話し方」、「話の内容」よりも、「外見」というプライオリティの高い現実の壁によって、「女性自身も狭めている」心的風景の振幅を、映像的に切り取られたと解釈できるだろう。

 多くの場合、「人間性」や「価値観」の問題に収斂されるだろう「態度」、「話し方」、「話の内容」も大切だけど、「できれば外見や、見かけの女性らしさも外せない」というモジュールこそ本音ではないのか。

ゆめゆめ、「外見など二の次」などと、心にもない綺麗事を語るなかれ。

私は、そういうメッセージとして、ひとみのエピソードを受容したい。

閑話休題。

紀代
「体を張って生きるひたむきな女」の人格を体現するのは、デリヘル嬢の紀代。

その紀代との偶然の出会いは、貫也の「偽造された人生」の振れ幅に、少なからず、影響を与えた出来事と言ってよかった。


里子経由での、出会い系サイトの女との空しい「ビジネス」の直後に出会っただけに、客にキャンセルされても全くめげない紀代のキャラは、真面目一方のひとみのキャラと些か切れて、明朗で気さくだから、貫也が紀代を自転車に乗せて、あっという間に意気投合し合うシーンに象徴されるように、時の隙間もなく、睦まじげな関係を築いてしまうのである。

そればかりではない。

体を張って、風俗で稼いで貯めた金を、貫也の妹(里子のこと)の病気治療(子宮癌を装う)という偽情報を疑うこともせず、自らのカナダ留学の夢を断念してまで工面しようとさえするのだ。


これは、ひとみのケースも同様だったが、紀代の場合、ひとみと違って、結婚詐欺の対象人格にすら当て嵌らないのである。

紀代ヒモ
そんな紀代に、ヒモが出現して一悶着起こすに至るが、そのときの紀代の言葉が、冒頭に紹介した、貫也と彼女のヒモに放った決定力のある表現である。

「こんなざまだけど、自分の足で立ってるもん。自分で自分の人生に落とし前つけられれば、誰に誉められなくっていいもの」

この表現には、本作で描かれた夫婦の、「偽造された人生」に対するアンチテーゼの気迫が包摂されている。

分りにくい人間の、その分りにくさを描く物語の中で、最も分りやすい紀代の人物造形こそが、観る者に、鮮明に記憶されるに足るだけの決定力のある表現を成して、この映画に相当程度の強度を与えていた。

それは、貫也の内的風景を覆う空疎な虚構の世界に、堤も崩れるような「蟻の一穴」の初発の破壊力を見せつける何かになったようだった。

それにも拘らず、貫也の自我に生まれた、殆ど罪悪感と思しき感情が、「俺に捧げて来た人生」の対象人格に向けられたと言っても、里子を失う心の空洞を埋めるに足る何ものもない限り、貫也の「偽造された人生」の確信犯的で、「否定的な再構築」というイメージラインの発現など起こりようがなかった。

そこに惹起した偶発的事象。

選手生命を絶たれてしまうに至る、ひとみの怪我と入院という事態の出来。

純粋に見舞いに訪れた貫也に、ひとみは預金を渡そうとするのだ。

ひとみの人の良さには、邪気が入り込む欠片ほどの隙間がない。

そんな女性から金を掠め取る貫也の内側で、何かが急速に壊れていくようだった。

滝子
かつて、夫婦で働く「居酒屋」を紹介してくれた、ハローワークの相談係に勤務する国家公務員で、シングルマザーの滝子と出会ったのは、ひとみが入院する病院だった。

その病院で、貫也は滝子の幼い息子と出会う。

恵太という名の幼児である。

その恵太の祖父が、脳卒中で倒れて救急搬送されて来たのである。

救急病院の暗いスポットで、不安に怯えている恵太の心を解(ほぐ)す役割を担ったのは、本来、このような能力を具備していると思われる貫也だった。

幼児と無邪気に戯れる貫也の表情には、このような時間を共有することに逡巡しない者の、飾りっ気のない自然な態度が滲み出ていた。

この一件を契機に、貫也は、「家族3人+1人」で構成される疑似家族の中枢に溶融していく。

食卓の団欒を囲む空間の只中に、貫也の心がストレートに溶融していけたのは、この偶発的な出会いによって開かれた関係の中に、結婚詐欺の対象人格としてのイメージが被さっていないからである。

それでも里子を前にすると、貫也は、「居抜きではなく、スカイツリーの見える円満夫婦の店の立ち上げ」を具現するために「仕事」を継続させているという、歯の浮くようなメッセージを送波していくのだ。

この貫也のメッセージの中に、「語られない重要な何か」を瞬時に嗅ぎ取った里子が、貫也に対して疑心暗鬼の感情を抱いていく流れは必至だったのである。

ついでに書いておこう。

そんな里子が、アパートで自慰に耽るシーンの挿入に対して、殊更、違和感をもって反応する必要も意味も何ものもなく、単に、「物言わぬヒロイン」の内側で揺動する生身の女の情動の、ごく自然な行為の発現であると受容すべきである。



4  料理包丁を必須とする「やり直し」の人生の自壊が極まったとき



この映画の最も重要なシーンは、明らかに、いつもと様子が違う貫也の上擦ったような話から開かれた。

「親父さんの脳卒中の麻痺も軽くて、もう働きに出ているしね。だから、こっちで金がかかるってわけでもないのよ。実家だし、家賃もかからないし。死んだ旦那さんの生命保険は降りているし、あの人、公務員だし、入りはもうがっちりしてるんだよね。だから、そんなに時間かかんないと思うよ」

自分のアイデンティティの絶対的な対象アイテムである、板前用の料理包丁を新聞で包み込みながら放たれる表情には、見入るような里子の視線と合わすことを回避する感情が透けているようだった。

この時点で、里子は夫の嘘を見抜いている。

わざわざ、料理包丁を持ち出してまで出かけていく夫の振舞いの中に、嘘をつき切れない男の、隠し込まれた甘美な風景が見えてしまうのだ。

この日、「よし」と言って出かけていく夫に対して、里子の中の複雑な感情が揺れ動いていて、その心の振幅が、別人のような里子の振舞いを身体化させていた。

出て行く夫の左腕を軽く掴み、一瞬、そこに「間」ができた。

振り向く夫。

「あ、行けそうやね。頑張って」

その「間」を取り繕うように、絞り出された里子の言葉である。

「6時には戻るけん」
「いってらっしゃい」
「いってきます」

里子の手を離しながら、他人行儀の一言を添える貫也。

自転車に乗る音を聞きながら、里子の視線は夫の後姿を追っている。

自転車に乗った貫也は、途中で自転車を停め、後方を振り返った。

そこに里子を視認できなかったが、複雑な表情を残して、再び、貫也は自転車を駆動させていく。

そのとき、慌てるようにして、街路に飛び出していった里子だが、彼女の視線に捕捉されたのは、走り去っていく貫也の後姿だった。

この構図は、この夫婦の「別離」をイメージされるものと言っていい。

後方を振り返る貫也の心奥に、妻との「別離」の思いが張り付いていて、それが、暫時、後方を振り返る行為に結ばれているように見えるのだ。

里子の不安もまた、貫也の心情が読み取れていた。

しかし、彼女は女々しい振舞いを表現することはない。

彼女のプライドが許さないのだろう。

一貫して、「逆境に強い女」を演じ続けてきた里子には、人生の土壇場で弱みを見せたら、自分に依存する貫也の心を決定的に離脱させてしまうという怖れが張り付いている。

こんな彼女の自己像が継続力を持ったのは、自分に依存する貫也の心が安定的に推移していたからだった。

その偏頗な関係の基盤が、今、崩れようとしているのだ。

彼女の不安がクリティカルポイントに達しつつあったとき、一つの行為に結ばれた。

見えなくなるまで離れ去っていく、貫也の後姿を捕捉する視線切れない行為である。

里子の不安が現実のものとなったとき、感情を補うに足る次の行為が要請されるだろう。

6時には戻って来なかったからだ。

その夜、居酒屋の隅で、里子は餌を貪る一匹のドブネズミを見た。

「物言わぬヒロイン」が、些かグロテスクだが、生命力のある哺乳動物を視界に収めて、何を連想したのだろうか。

「〈食〉のある場所に寄生するドブネズミ」が、夫の貫也をイメージさせるものなのか、それとも、その貫也に依存する自分の現存在性をイメージさせたのか、一切不分明である。

被弾した女性たち・左が咲月、右が里子
ただ、夫の貫也を巧みに操縦しつつ、非日常的な世界でのアンモラルな行為を繋ぐことで延長してきた関係の中で、寧ろ、依存してきたのが自分自身であったことを吐露した里子の言葉が、ここで想起される。

「私の人生には、人を惹きつけるような力がない。結局、私の人生が、あの人の人生に乗っかっているだけだからなのよ」

ウエイトリフティングの選手のひとみに語った言葉だが、本心であるだろう。

この「〈食〉のある場所に寄生するドブネズミ」を視界に収めていた僅かな時間が中断された。

一本の電話が、里子の携帯を鳴らしたのである。

貫也の実家からだった。

火災事故以降の二人の生活を心配する実家に対して、「大丈夫」と反応する里子の感情が思わず込みあげてきて、それが、彼女らしくない小さな嗚咽に結ばれていた。

彼女は今、自分の辛い感情を思い切り吐き出さない限り、この非安定的な日常性が壊れかねない際(きわ)にまで追い込まれていたのである。

では、なぜ貫也は、夫婦の「別離」をイメージさせる行為に流れていったのか。

具象性を体現する「家庭」が放つ、心地良い臭気に触れたこと。

これが大きかった。

そこには、特段に再婚願望を持たない若く美しい母がいて、脳卒中の麻痺を患う親切な祖父がいて、そして何より、自分に懐(なつ)く就学前の幼児がいる。

存分に具象性を有するこの温感系のスポットは、「偽造された人生」の果てに待機する、「夢の着地点」を保持しているはずの貫也にとって、虚構の自己像に同化し切れない空虚感の広がりを、束の間、遮断し、それを充分に補って余りある、それ以外にない心地良き供給源だった。

シナリオなしに自然に溶融し得る温感系のスポットの底力は、シナリオ通りに動いてきた男の、「偽造された人生」の虚しさを決定的に炙り出していく。

いつしか、不特定他者の満足感を背景にする、板前の拠って立つ料理包丁の用途が、特定他者の家族を満足させるアイテムに変容してしまったとき、もう、男には、「居抜きではなく、スカイツリーの見える円満夫婦の店の立ち上げ」というイメージが発信する、幻想に充ちただけのサインに振れなくなっていく。

その現実を、妻の里子が視認したとき、何もかも崩壊し、「やり直し」の人生の致命的な軽走感覚が剥き出しにされていったのだ。

貫也との不安含みの別離の翌朝、まるで「偽造された人生」の欺瞞的な相貌を浄化するような弾丸の雨の中、里子は、既に「移動」を遂行した貫也の新たな生活拠点を訪ねていく。

貫也の言う「入り」が見込めそうもない、「事務所」と書かれた、古びたアパートの二階。

そのアパートの玄関の扉の前に張ってある、クリスマスリースを模した幼い子供の絵。

そこにはサンタクロースと、団欒を囲むようにして、「ママ」、「けいた」、そして「かんちゃん」の似顔絵が描かれていた。

その絵を、まじまじと見詰める里子。

扉を叩くが、誰も反応しない。

扉を開け、室内を覗く里子。

里子がそこで視認したのは、貫也の物と思われる茶碗と、火事に遭っても、それだけは手放さなかった夫の料理包丁。

「物言わぬヒロイン」の表情は硬直し、いつまでも、扉の外で立ち竦んでいる。

憤怒の情動を抑えるのに、必死に堪えているようだった。

彼女の視界に飛び込んできたのは、「入り」が見込めそうな「カモ」の家の風景とは無縁な、「一家団欒」を愉悦する男のイメージ以外ではなかった。

その脚で、階下にある工場を覗く里子の射程に捕捉されたのは、喜々として、工場で働く貫也の生き生きした振舞いだった。

粗い呼吸でアパートに戻って来た里子は、貫也の料理包丁を手に取るや、急ぐように階段を下りていく。

ちょうどその時、階段を階段を上って来た幼い子供と接触しそうになって、手に持っていた料理包丁を階下に落とし、自らも落下てしまうのだ。

「おばちゃん、大丈夫」

そう言って、声をかけたのは、滝子の息子の恵太である。

その恵太の手を、一旦、振り切った里子が、その子の手を握り締め、その手を見つめている。

そこに生まれた一瞬の「間」の中で、子供に八つ当たりする愚昧さを感じ取ったと同時に、自分でも説明し得ないような激しい情動の炸裂によって、もっと愚昧なる「犯罪者」に堕ちずに済んだ心情がそうさせたのか、瞬時に我を戻した里子は、笑みを込めて恵太に話しかけた。

「何だっけ?僕の名前?」
「恵太」
「そうだ。恵ちゃん。ちょっと引っ張ってくれる?起こして?」

些か手痛い怪我を負った里子は、恵太の形式的なサポートを求めるようにして立ち上がり、降り続く雨の街路の中を、体を引き摺るようにして、帰路に就いた。

街路に置き去りにされた料理包丁のカットに象徴されるように、その料理包丁を必須とする「やり直し」の人生の自壊が極まったことで、何もかも終焉したのである。



5  支配という名の「依存」の過去を振り切って、「どんなことがあっても生きていく」という意志表示



物語のこの後の展開は、既に形式化した夫婦の「偽造された人生」の、殆ど予約されたような破綻の様態を、幾分、「展開外し」の技巧を駆使してトレースすることで着地していく。

簡単にフォローしていこう。

「夢売るふたり」の「偽造された人生」の破綻が、「その気」になって、擬似家族の幻想に溶融していった男の自壊から開かれていくという展開は、一連のシークエンスの流れから読み取れるものだった。

「結婚できない女であると見られること」に、一貫して嫌悪する自己像を変換する行為に最も熱心だった咲月が、その自己像を、より強化する経験を決定的に被弾した厄介な現実が、貫也へのリベンジに振れていくのは必至であるだろう。

咲月と探偵屋
それは、「ヤクザ」上がりの探偵屋とも思しき堂島との、ビジネス絡みのエピソードを通して顕在化されていく。

擬似家族に溶融する貫也の「至福」が期間限定の幻想でなければ、結婚詐欺で貯めた金で料理屋を構えるという設定に端的に表れているように、随所にリアリティを蹴飛ばしてきた物語の、とっておきのハードランディングの風景が自己完結しないのである。

だから、「夢売るふたり」のイメージラインすらも形式化されてもなお、貫也のみが擬似家族の幻想を繋いでしまったら、この映画は、その根柢において自壊していくだろう。

テーマ性が脆弱で、毒素が不十分過ぎる、単なるブラックコメディに届かないばかりか、三流のヒューマンドラマに堕していくだろう。

しかし、この作り手は、人間の分りにくさを、分り切った者の如く決して描かない。

映像作家の本線を外さないが故に、分りにくさとの共存を嫌う観客を手放してしまうだろうが、分りにくさとの共存から逃避しない熱心な観客を惹き込む腕力がある。

鑑賞者限定の映像作家なのである。

そんな映像作家が提示した、一つの看過し難いシーンについて自問する。

玲子
「いちざわ」の常連客だった玲子のこと。

その玲子に、「物言わぬヒロイン」が金を送り返した意味は、一体、何を意味するのだろうか。

それは、里子が夫への殺意を抱いたその帰路、偶然、街路で礼子と出会ったことに端を発する。

そのとき彼女は、いつまでも、相手の顔を凝視し続けたまま、そこに立ち竦んでいた。

貫也を失う契機になった、「偽造された人生」の粗雑なる結婚詐欺に振れていく行動のルーツが、この女にあることをまざまざと思い巡らしたのだろうか。

この女が拒絶した手切れ金を、嬉々として貫也が受け取ったばかりに、「復讐がらみの欲望の稜線」という、歪んだ自己像の認知のスピンオフを生み出し、加速的に顕在化されていった、その後の抑制困難な内的風景の振れ幅の大きさ。

この厄介な現象が、自分でもコントロールし得ないほどに、様々な相貌を露わにしたばかりか、自分が最も守り抜きたいと信じ切っていたはずの男性配偶者への、意想外の殺意にまで及んだ行為を振り返るとき、こんな思いを抱いたのではないか。

「この金のために、私たちは全てを失った」

そればかりではない。

この女から受け取った金は、結婚詐欺で得た金ではないのだ。

この女とだけは、「借用書」という逃げ場を用意した「契約関係」を結んでいないのである。

要するに、「どん底」から立ち直れない夫とのセックスの代償に、憐憫を垂れられた挙句の、言わば、香典の如き金に過ぎないと考えたのだろう。

だから、里子は、どうしてもこの金だけは突き返さざるを得なかった。

「受け取る筋合いのない金だから返します」

そういうメッセージではないか。

ラーメン屋の店長
もう会うことのない夫が逮捕された事件の、その日の夜、彼女は、恐らく、今まで自分を継続的にサポートしてきたであろうラーメン屋の店長と、男女の関係にまで進もうとしていた。

パトカーのライトを視認したことで、「約束があるので」と言い捨てた里子は、詐欺事件が露見されたと信じ込み、その場を走り去った。

半ば笑みを湛えた、二人の警察官の「訪問」。

果たして、その「訪問」が、貫也の事件絡みの用件だったか否か、一切は不分明である。

映像は、二人が犯した結婚詐欺の犯罪について、全くフォローしない。

貫也が刑務所入りしたシーンをインサートした事実から考えれば、板前の料理包丁を由々しき凶器と判断されて、「殺人未遂事件」による立件であるとも思えるが、単に、傷害罪として起訴されただけかも知れない。

恐らく、多数の被害者が発生していて、騙し取られた金額の合計が多額であっても、咲月以外の女性は被害届けを提出しなかったことが考えられ、また、その咲月自身も、「結婚できない女であると見られること」を怖れる事実を想起すれば、貫也への暴行で憂さを晴らしたに違いないので、結婚詐欺の告訴状を提出しなかったことが想像できる。

更に、借用書という逃げ場を作っているか否かに拘らず、「民事崩れ」を怖れる警察が、詐欺罪による立件に消極的である実情を考えれば、貫也の犯罪が結婚詐欺であっても、立件にまで至らなかったとも思われる。

仮に結婚詐欺で立件されても、貫也が里子を庇った可能性も否定できないので、里子が詐欺罪で手配されなかった可能性を否定できないし、その情報を彼女自身が手に入れていたかも知れないのである。

いずれにせよ、その辺りのリアリティを、相当程度、蹴飛ばして構築された映像なので、これ以上、突っ込んで、想像を膨らませても詮無いことだろう。

思えば、夫婦の店の繁盛を象徴する料理ナイフは、高級料亭での「偽造された人生」でのアイテムに用途が移り、その「偽造された人生」に矛盾を感じた夫が、団欒を演出するアイテムに用途が移った挙句、その夫を殺害するアイテムと化すに至った。

そして今、その夫を塀の中に収容させるアイテムへと変貌したとき、最終的に、「偽造された人生」の向うに待機しているだろう、「居抜きではなく、スカイツリーの見える円満夫婦の店の立ち上げ」というイメージに溶融する幻想が自壊するに至ったのである。

ここで、私は勘考する。

一度ならず、二度までも決定的に裏切られた挙句、その情動の炸裂を推進力にして、殺意にまで上り詰めた女が、疑似家族との幻想に逃げた男との、本来的な関係の復元が可能であると考える方が可笑しいのではないか。

しかし、人間はあまりに複雑で分りにくくく、予測がつきにくい生物体である。

そのことを思えば、夫婦の関係の復元が絶対起こり得ないという断定もできないのが、私たち人間の分りにくさの裸形の実相である。

それでも、私は思う。

仮に服役を終えた男との共存が再び開かれたとしても、かつて、そうであったような、この夫婦が繋いできた、極めて緩やかな「支配・服従」の精神的関係に流れ込んでいくというイメージの喚起は、私の中で皆無に近い。

既に、そこで起こった由々しき事態が引き摺り込んだ、「毒素」を浄化するのは殆ど不可能であると言っていい。

人間の分りにくさは、まさに不全形の人間の、その分りにくさの隙間に侵入し得る、視界良好の柔和な通路が担保されない限り、どこまでも、アンタッチャブルなフリークスの存在性のバリアを突き抜けられないだろう。

二人の自我に刷り込まれた由々しき事態の、由々しき記憶が消去されない人間的現象の厄介さは、渡ってはならない河を渡ってしまった者の、「関係の自壊からの自己再構築」に向かう着地点でしかないのではないか。

空を舞う二羽のカモメを見入る女。

ラストシーンにおける、女の表情が語るものは何を意味するのだろうか。

「私の人生には、人を惹きつけるような力がない。結局、私の人生が、あの人の人生に乗っかっているだけだからなのよ」

前述したように、ひとみに語った言葉である。

「私の人生が、あの人の人生に乗っかっている」現実を認知した女が今、北国と思しき漁港で働き、フォークリフトを運転している。

一瞬、凛とした表情を見せた女から、他人の人生に乗って生きてきた過去との訣別の意志を読み取れなくもない。

少なくとも、このラストシーンの構図が、「夫婦の再生」などという、チープな括りをイメージさせるとは、私にはとうてい考えられないのだ。

このカットは、自分の人生に大きな影響を与え合ってきた配偶者への思いが、ふっと脳裡を過ぎった構図であって、それ以外ではないのではないか。

とりわけ、「物言わぬヒロイン」のきりっと締まった表情の映像提示が示すのは、夫への、支配という名の「依存」の過去を振り切って、「どんなことがあっても生きていく」という意志表示であるとしか思えないのである。

(2013年12月)


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