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2013年2月13日水曜日

苦役列車(‘12)      山下敦弘



<「青春映画」の「光と影」の反転性を照射させる自業自得の「青春敗北譚」>



 1  「劣等感」の心理学



自我形成の内的行程の中で生じる、他者との競争意識におけるネガティブな感情傾向の総体。

これが、「劣等感」(精神医学用語の概念としての「コンプレックス」にあらず)についての一般的定義である。

「劣等感」が、他者との競争意識における負の感情であるということ ――  そこに、「劣等感」をエネルギーに変換させる心理学的文脈がある。

それが、他者の視線を捕捉する感情傾向であるが故に、「劣等感」はどこまでも相対的な概念とであるということだ。

当然ながら、「劣等感」に関わる負の感情について、自らが負う「私の悩み」と同質的感情を、その同質性の濃度において、他者と共有し得る何ものもない。

「私の悩み」はどこまでも、「私の悩み」以外のものではないからである。

その「私の悩み」を他者が理解し得たとしても、「私の悩み」の同質性において共有する何かではないのだ。

他者もまた、自分がそうであったとイメージし得るような「私の悩み」で悩んでいたとしても、それは、他者の人格の固有の「私の悩み」以外の何ものでもないのである。


好きな女の子と適正な距離のとれない本作の主人公

このように、「劣等感」は、その意識の強度において多寡の差はあれども、「劣等感」から完全に解放されている人間など存在しない。

人間は「完成形の存在体」ではないからである。

その拠って立つ自我の内側で、人間は、「私の悩み」を様々な心的風景を巡らせつつ負っているのである。

だから、そこに集合する負の感情の根源において、固有の「劣等感」を、人格変容を印象づける強大なエネルギーに変換できなくとも、それを希釈化させる方略が存在する余地が生まれるだろう。

「劣等感」を抱えるという、その厭(いと)わしい現実を決して否定せず、且つ、捩(よじ)れ切った態度で肯定もしないという方略である。

「私の悩み」のルーツとしての、唾棄すべき「劣等感」の存在を否定しないこと ―― まず、この認知が重要になる。

居直りのスキルで生きる主人公
自我に張り付く「劣等感」を明瞭に認知し、ときには居直ってもいい。

しかし、居直りながらも、それを肯定しないのだ。

否定しつつ、肯定すること。

矛盾するようだが、このスタンスが重要なのである。

居直りながらも肯定しないということは、その冥闇(めいあん)を突き抜けようとする、一定のエネルギーが内側に貯留されていることを意味する。

「私はダメだ」と、とことん卑下しつつ、「このままじゃ済まないぞ」という感情が自我の内側に張り付いているから、そこからの反転が可能になる。

こういう防衛機制を駆使する能力が、人間には内在するのだ。



2  「青春映画」の「光と影」の反転性を照射させる自業自得の「青春敗北譚」



本作の中で考えてみよう。

「北町貫多。19歳。小5の時、父親が犯した性犯罪により一家離散。中学卒業後、日雇い人足仕事で、その日暮しを続けている。唯一の楽しみは読書」

これが、本作の主人公の、現在の人生の相貌性を端的に説明する冒頭のナレーション。

「その日暮しを続けている」現在の怠惰な生活の様態が、「父親が犯した性犯罪により一家離散」という、あってはならない事態の延長線上にあることが判然とするが、そこで被弾した負の感情が貫多の自我に張り付いていて、覆い難い「劣等感」のルーツとなっている内的風景が容易に想像し得るもの。

それにしても、貫多の履歴の負のルーツが、物語の中でもリピートされるが故に、複数回に及ぶナレーションは、あまりに説明的であり過ぎなかったか。

ともあれ、児童期に被弾したトラウマによって抱え込んだ負の感情が、人間関係の健全な形成を妨げることで、著しく社会的適応を困難にする屈折的自我を作り上げてしまっていた。

それが、捩れ切った「劣等感」という化け物にまで肥大し、青春期に至るまでに累加され、抱え込んだ膨大なストレスを、「風俗」の世界で発散する。

言わずもがな、このストレスの発散によってのみ、辛うじて守られた自我の内側に貯留された、「劣等感」の塊を溶かし、昇華するには至らなかった。

そんな中で知り合った、しごく普通の同年代の青年、正二との関係の中で手に入れた「友情」の実感を、相互補完し合う「健全」な様態で形成されていくことがなかったのは、貫多の中で、「友情」のスキルの出し入れを学んでいなかったからである。

康子
同時期に知り合った、読書好きの康子に対する貫多の距離の取り方も、「風俗」に馴染み過ぎていたが故に、ストレスコーピング(ストレスの上手な対処法)を学習内化し得ず、「異性愛」=「性欲の処理」という情動でしか向き合えないのだ。

その「負の返報」が、足早にバックラッシュしてきたのは必然的だった。

「てめぇらカッペは、東京に出りゃあ、杉並か世田谷に住もうとする習性があるようだが、そりゃ、一体なぜだい。おめぇらは、あの辺が東京の基本ステータスぐれぇに思ってるのか。それとも、てめぇらの好むイモくせぇサブカル、ニューアカ志向の一つの特徴なのか。そんな考えが、てめぇらが田舎もんの証だってことに気がつかねぇのか。それで何か、新しいことでもやってるつもりなのか。何が下北だ。だから僕ら生粋の江戸っ子は、あの辺を白眼視して、絶対に住もうとは思わないんだけどね」

唯一の「友情」を仮構していた正二と、その彼女の女子大生に放った、貫多の攻撃的言辞である。

失いゆく「友情」
酔っていたとは言え、貫多の敵対的な攻撃性は、自らの得意分野で優位性を誇示することで、「劣等感」という化け物が生みだす負の情動を希釈化させる戦略であると言っていい。

そこだけは、自分より下位にあると決めつける相手を「仮想敵」に見立て、その仮想敵」を貶めることで、一時(いっとき)の快楽を占有するのだ。

それは、自我に張り付く「劣等感」を認知するが故に、過剰に居直る方略でもあった。

「敵」を仮構し、その対象人格と葛藤することによって、手酷い挫折経験を包含するような、自我確立への曲折的な自己運動を展開するという物語 ―― それを、私は「青春映画」と呼ぶ。

 無論、私の勝手な定義だが、本作の場合、この定義に収斂されるような「正攻法」の文脈に嵌らないのだ。

悪態をつく貫多
本作の主人公が「手酷い挫折経験」を経たとしても、対象人格との葛藤に起因する、「自我確立への曲折的な自己運動」というイメージで語られる物語と著しく乖離するからである。

だからこれは、限りなく「青春映画」の「光と影」の反転性を照射させる、ポップ基調の軽妙感と切れた、限定スポットの臭気の中に沈みゆく男の、自業自得の「青春敗北譚」と言っていい何かになった。

それにしても、ボキャブラリー豊富な、歯切れのいいこの攻撃的啖呵は、一方的に毒づくことで、「劣等感」を希釈化させる戦法に馴れ過ぎている者の存在証明であると同時に、その冥闇(めいあん)を突き抜けんとする唯一のルートである、豊富な読書歴を裏付けるものでもあった。

貫多の攻撃的言辞には、自我の射程圏に貯留された一定のエネルギーが、男を駆動させていく推進力に変換し得ることを意味するだろう。

貫多と正二
然るに、男を駆動させていく推進力に変換し得る、このような過剰なアクションは、大きな代償を随伴する事態を必至にする。

当然の如く、彼は「友情」を失うに至った。

本来なら、「異性愛」の「ときめき感」を分娩する関係の構築もままならず、「性欲の情感的処理」として捉えていた康子への「異性愛」を含めて、一切を失う貫多の偏頗(へんぱ)な人格構造は全て自業自得の所産だった。

そんな救いのない男だったが、それを公言することによって、決して否定しない貫多の「劣等感」への居直りは、怠惰を極めながらも、なお肯定し切れない自我の表層に、自業自得の「青春敗北譚」を反転させるに足る相応のエネルギーを隠し込んでいた。

貫多が唯一の趣味とする、読書と文学表現への未練だけは断ち切れず、充分過ぎるほど怠惰な男にとって、それだけは失いたくない何かになっていたのである。

しかし、物心ついてから、人足の仕事で得たその場凌ぎの金を、ソープランド代3万円によって下半身の欲望を処理する「風俗」と、飲酒・喫煙に蕩尽する怠惰な日々の中で、唯一の趣味を公言するだけで、それを自覚的に拾い上げていく熱量を決定的に不足させていた。

19歳の「疑似無頼」の彷徨人生では、明確な目的意識を抱懐した人生設計など難しいのだ。

そんな中で、人足の世界で知り合った高橋という名の中年男の、「破れかぶれの人生」に自分のネガティブな未来像を見てしまった貫多は、倉庫番見習いに「昇進」した挙句、大怪我を被弾しても労災が降りず、「破れかぶれの人生」を加速させつつあった中年男に、そこだけはきっぱりと毒づかれるのだ。    

貫多と高橋
「夢なんか持っていたってな、どうにもなんねぇんだよ。お前、この先、何だってできると思ってるんだろ。できねぇぞ。何にもできねぇんだよ。ただ働いて、食って、終わっていくんだよ。世の中、そういう風にできてんだ。分ってんの、中卒。この先、生きていたって、何にも楽しいことないぞ」

この澱んだ空気の中で、「間」ができた。

その「間」を、中年男のこんな毒づきに馴致している貫多が、自ら埋めていく。

だから、「会話」になった。

「僕、本が好きなんですよ。本読むくらいしか、楽しみがないんですよ」
「だから何だ」
「だから・・何か書きたいんです」
「書ける訳ねぇだろ。バカじゃねぇか、中卒の分際で」

ここで再び、「間」ができた。

その「間」を、それだけを言いたいと思っていた貫多が、一言で括っていった。

「それでも、書きたいんですね」
 
それだけだった。

それだけだったが、澱んだ空気を少しばかり浄化する言辞になっていた。

 このエピソードは、観る者に、由々しき伏線のイメージを約束するものだった。

 この伏線の回収が、本作を括るであろうことを、観る者に予約したと言っていい。

 そして、観る者に予約したその場面がインサートされていく。

ラストシークエンスである。

「破れかぶれの人生」を繋ぐ中年男の人生を垣間見ても、なお、怠惰な日々を繋ぐだけの貫多は、ある日、スナックで見たテレビ画面に衝撃を受ける。

「夢を捨てろ」と毒づいていた張本人の高橋が、児童期以来の夢であったミュージシャンになるべく、テレビのオーディション番組に応募して、「俺は悪くない」という自作の歌を歌っているのだ。

それが全てだった。

そのテレビを消そうとする男と喧嘩し、しこたま殴られ、顔を腫らせながらも、ブリーフ一枚で身を包んだだけの貫多は今、彼にとって唯一の思い出であった「青春の海」に身を投げていった。

海辺には、着衣姿の正二と康子がいて、貫多を招いているのだ。

「青春の海」に向かって走行する貫多は、彼らが仕掛けた落とし穴に嵌って、ズドンと落ちていった。

堕ちて、堕ちて、堕ちいく果てに、ブリーフ男を拾い上げたのは、家賃を溜めて追い出されたボロアパートのゴミ溜め場。

シュールな絵柄が提示された後、これ以上堕ちる所がない状況下で、荒れ放題の自室のボロ机の前に座り、一心不乱に、原稿に向かって何やら書きなぐっていく。

ラストカットである。

否定しつつ、肯定すること。

否定も肯定もしない方略の中で、唯一、そこだけは守られたアイデンティティに自己投入していくことで、「劣等感」が相応のエネルギーに変換させていくことを検証し得るというフラットなオチだった。



2  チープな「逆転譚」で括られる構図に対する違和感



ここでは、「劣等感」の心理学という人生論的視座から離れて、映像本体に対する私の感懐を簡単に書いてみたい。

「綺麗事満載のセンチメンタリズム」、「『狂気』なしに『社会派』を気取る愚かさ」、「ナルシズム基調の二元論的単純さ」、「『世界の危機』を短絡的に切り取る脳天気」、「説明過剰で、くどいスクリプト」、「説教臭く、権威主義的な構成に充ちた救い難さ」、「青臭い物語構成」、「イデオロギッシュな画像提示の独善性」等々。

 以上、縷々(るる)列記したのは、私が最も嫌う、多分に独り善がりの臭気を放つ映画のタイプである。

山下敦弘監督
山下監督の作品には、これらの要素が確信的に捨てられていると思えるので、私は一貫して彼の作品を評価してきたが、本作の場合、些か様子が違っていた。

駄作というのではない。

寧ろ、佳作であると評価しているが、映像作家としての彼の力量に対する私のハードルが高いせいなのかも知れないが、私が現在の時点で最高傑作と評価している、「松ヶ根乱射事件」(2006年製作)のような切れ味が、本作には今一つ不足していたように感じられたのだ。

相変わらず、「間」の取り方が絶妙で、ここでも「山下ワールド」がフル稼働しつつも、典型的な「俳優依存型映画」の印象を拭えなかったのは、見え見えの伏線の張り方や、まるで文学に阿(おもね)ったかのような、くどいほどの説明的なナレーションの連射、そして、チープな「逆転譚」に流れ着く構成力に馴染めなかったからである。

そして何より、児童期の不幸を斟酌してもなお、この程度の経験を語っただけで、そこに「狂気」とも思しき鮮烈な個性の発現を感じさせない、フラットで、自業自得の「青春敗北篇」で突き抜けていった本作のタイトルには、「苦役」というタイトルはあまりに相応しくないのだ。

それは、チープな「逆転譚」で括られる構図に対する違和感であると言っていい。

ペンを手に原稿を書きなぐる若者の手が突然止まり、唸り声を上げながら、原稿を投げつけるラストカットをイメージしていたものだから、一人の中年男のアクションによってインスパイアされていくという、テレビドラマのような軟着点に納得がいかなかったのである。

数多の邦画の水準を超えていることを認知しつつも、良い映画であるが、面白くないのだ。

それだけだった。

人生は甘くない。

甘くないからこそ、甘くない人生を徹底的に生き抜いていくしかない。

こんな馬鹿でも、「風俗」というストレスの発散スポットを見つけて、人足労働を繋いでいく人生も悪くない。

だからこそ、そのような自分のサイズにあった「物語」を定めて、今までもそうであったように、これからも身過ぎ世過ぎを繋いでいけばいいだけのことだ。

 そんな中で、存分に趣味に浸り切っていればいいではないか。

 だから何も、大袈裟に、チープな「逆転譚」を張り付ける必要もないのである。

(2013年2月)


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