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2016年10月18日火曜日

スモーク(’95)   ウェイン・ワン


<嘘の心理学 ―― 「防衛的な嘘」を溶かし、「配慮的な嘘」が心の空洞を埋めていく



ハーヴェイ・カイテルとウィリアム・ハートが素晴らしい。

何度観ても感動する。

この映画は、私が観たアメリカ映画の中で、「スケアクロウ」、「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」、「カポーティ」、「クイズ・ショウ」などと並んで、最も好きな映画の一本である。

―― 以下、梗概と批評。




1  「4千枚。皆、同じ場所の写真だ。俺のプロジェクトだ。一生を懸けた俺の仕事だ」

  



「ウォルター・ローリー卿が英国にタバコを紹介した。彼は“タバコの煙の重さを計れる”と女王に言った」
「そんなバカな。空気と同じだぜ」 とタバコ屋の客。
「卿は利口な男で、まず、新しいシガーを一本。それを秤に乗せて、重さを計った。それからシガーに火をつけ、秤の皿に灰を落とした。シガーを吸い終わると、吸い殻も皿に入れた。そして、灰と吸い殻の重さから差し引いた。その差が煙の重さだ」

一人の男が蘊蓄(うんちく)を垂れるような、他愛もない会話を繋ぐ、オープニングシーンの日常会話の一端である。

男の名はポール・ベンジャミン(以下、ポール)。

小説家である。

オーギーとポール
その小説家のポールについて、タバコ屋の客たちに紹介したのは、そのタバコ屋の店主であるオーギー・レン(以下、オーギー)。

常連客であるポールは、数年前に、銀行強盗事件の流れ弾で妻を喪ったトラウマによって、本を3,4冊出版しただけで、創作に向かえない日常性を常態化していた。

「まだ、痛手から立ち直れないのさ。かみさんは、その直前、シガーを買いに来た。いい人で、妊娠4か月か5カ月だった。勿論、赤ん坊も死んだ。彼女が、もし代金をピッタリ払わなけりゃ、或いは、店がもう少し立て込んでたら、店を出るのがちょっと遅れて助かったかもな」

これが、オーギーの話の全てだった。

そのポールが、歩行中に車に轢かれそうになる事故未遂に遭う。

危機一髪で助かったのは、ラシードと名乗る少年に助けられたからである。

ラシード少年(トーマス)とポール
ラシード少年への感謝の思いで、ポールは少年を自宅に招こうとするが、レモネードを奢るだけで、その日は少年と別れた。

夜になり、閉店間際のオーギーの店に寄り、タバコを買いに来たポール。

「ただのタバコ屋じゃなかったわけだ」

ポールが、店のカウンターの上に置いてあるカメラを見た時の言葉である。

オーギーは、ブルックリン(ニューヨーク市の行政区の一つ)の一角でタバコ屋を経営しながら、10年以上もの間、毎日、同じ場所で、同じ時刻に、店の前の街を写真に撮っていた。

これが、オーギーの唯一の趣味だった。

その趣味の写真を、ポールに一枚ずつ見せていくオーギー

「皆、同じだ」とポール。
「そう。4千枚。皆、同じ場所の写真だ。俺のプロジェクトだ。一生を懸けた俺の仕事だ」とオーギー
「驚いたな。だが、分らない。そもそも、こんなことを始めたきっかけは?」
「ただの思い付きさ。俺の街角だ。世界の小さな片隅に過ぎんが、色んなことが起こる」

ただ単にアルバムを捲(めく)るだけのポールに、オーギーは主張する。

「ゆっくり見なきゃダメだ。同じようでも、一枚一枚、全部違う。よく晴れた朝、曇った朝。夏の陽射し、秋の陽射し。ウィーク・デー、週末。厚いコートの季節、Tシャツと短パンの季節。同じ顔、違った顔。新しい顔が常連になり、古い顔が消えてく。地球は太陽を回り、太陽光線は、毎日、違う角度で差す」

このオーギーの言葉に促され、それに従うポール。

ポールが、亡妻・エレンが写っている写真に気づいたのは、その直後だった。

その事実を知っているオーギーは、事の成り行きで、「一生を懸けた仕事」の結晶であるアルバムを、ポールに見せていく。

思わず、ポールは咽び泣いてしまう。

そのポールの肩に手を置き、黙って慰めるオーギー。

自分のアルバムの中で生きているエレンを、ポールに見せて上げたかったのだろう。

ラシードがポールの前に現れ、約束通り、彼を泊めるに至ったのは、その翌日である。

そのラシードがポールの目を盗んで、自らの紙袋を本棚の奥に隠したのは、仕事をするポールに起こされた後だった。

2日間、世話になり、お礼を言って、ポールの家を後にするラシード。

その日のうちに、ポールの家に、エマという名の来客があった。

甥のトーマスを捜すためにやって来たエマの話によると、そのトーマスこそ、ラシードの本名であり、「非在」・「不在」の両親に代わって育てた親であるという事実が判然とする。

「非在」とは母親の死であり、「不在」とは、父親の12年前の蒸発のこと。

更に、「不在」親が、郊外の給油所で見かけたという情報を得て、トーマスが親探し」の家出をしたということ。

そして今、16歳のトーマスは、郊外の給油所で車の修理をする男・サイラスの様子を、朝から見つめていた。

サイラス
その様態に疑念を持つサイラスの方からトーマスに話しかけていくが、トーマスは、「壊れかけた、あのボロ小屋は絵になる」と言い抜け、スケッチが目的で座っていたと反応する。

「いっそ、俺を雇ったらどうだ?」

その絵に無関心なサイラスに本音を漏らすトーマスだが、サイラスは3週間前に買った給油所を閉鎖することを考えているので、とうてい乗れない相談だった。

その頃、オーギーの店に、昔の恋人・ルビーが訪ねて来た。

オーギーとの子供であると言い切るルビーは、娘のフェリシティが家出をしたので、協力を求めてきたのだ。

ドラッグ中毒でスラムに屯(たむろ)し、しかも、妊娠4か月のフェリシティの相談を受けても、自分の娘ではないと確信するオーギーは、「俺を裏切った女を、なぜ信用できる?」と言い放つ。

「挙げられて、どうなった?軍隊か、ムショか。大学へ行く代わりに、4年間、海軍。戦友は手足を失い、俺の頭も吹っ飛びかけた。お前は、あのアホたれのビルと結婚」

このオーギーの話の内実は、ルビーのために宝石強盗をして捕まった事件のことで、その結果、軍隊行きか、それとも刑務所行きかという絶望の二択の挙句、ベトナム戦争に従軍し、そこで凄惨な風景を目撃したトラウマのこと。

フェリシティ
だから、ビルとすぐに別れて、一人でフェリシティを育てた苦労の末、最悪の状況を招来した現実の重さに耐えられず、オーギーに救いを求めて来たという訳である。

しかし本音を言うと、持ち金の余裕のないオーギーは、ルビーを突き返すしかなかった。





2  「人の金を盗んで、将来があると思うのか?死にたいのか?」





トーマスの粘り勝ちだった。

時給5ドルのバイト契約で、トーマスを雑用係として雇用することを決めるサイラス。

当然ながら、ここでもトーマスは、偽名を名乗っている。

その偽名の借用対象は、2日間世話になった小説家のポール・ベンジャミンだった。

急速に、トーマスとサイラスは心理的に最近接する。

以下、義手になった理由を、トーマスに話すサイラス。

トーマスとサイラス
「12年前だ。神様が俺にこう言った。“サイラス、お前はゲスで、愚かで、身勝手な男だ。お前の体に、私の霊を吹き込んで、車の運転席に座らせる。お前は、その車で衝突事故を起こし、愛する女が死ぬ。だが、お前は生き残る。生き残る方が辛いからだ。だが、お前が彼女にしたことを忘れないように、腕をもいで、鉤(かぎ)のついた義手をつけてやる”。神は両腕だって、両脚だって奪えた。だが、そうせずに、慈悲深い神が俺から奪ったのは、左腕だけだった。この鉤を見るたびに、俺は思い出す。俺が愚かで、身勝手なゲスだったことを」

この意外な話を耳にして、複雑な心境に陥るトーマス。

そして、サイラスに幸福な家族がいることを目視したことで、給油所をスケッチした絵を置き、黙って立ち去る。

再び、給油所で修繕したテレビを持って、ポールのアパートに現れたトーマス。

既に、本名がバレていたトーマスは、その理由をポールに話す。

クリムという名の男が、仲間と共に強盗事件を起こし、手形割引店から銃を手に飛び出して来た際にトーマスと衝突したことで、自分が仲間と思われる危機に遭い、必死に逃亡した。

ポールとトーマス
だから、クリムたちから追われていると説明するが、なぜ追われているのか、或いは、なぜ、本名を言わなかったのかという理由が全く不分明だった。

それ以上、問い詰めないポールと共に、テレビを観るトーマス。

既に、叔母から少年の「父親捜し」の話を聞いていたポールは、トーマスに父と子の絆の物語を語っていく。

ポールの物語に真剣に聞くトーマス。

この日が17歳の誕生日だと知ったポールは、トーマスを祝福するためにディナーに誘い、そこで偶然、オーギーと出会い、大いに盛り上がる。

実はこの時点で、オーギーの店にルビーが再び現れ、殆ど強制的に車に乗せ、娘に会って欲しいと言われ、フェリシティに会いに行くことになったオーギー。

しかし、胎児を堕ろしたばかりか、暴言を吐くフェリシティに呆れ果て、そのまま帰っていく二人。

そして今、そのオーギーに、トーマスを雇って欲しいと頼むポール。

かくて、翌日から、オーギーのタバコ屋で働くトーマス。

ところが、全面的に自分を信じているポールを裏切る事態が発生する。

トーマスがポールのアパートの部屋に隠し込んだ大金が見つかったことで、今度こそ、例の強盗事件との関連を突き詰めていくポール。

「あいつらが落とした金を拾って逃げた」

その金額は6千ドル。

要するに、泥棒の金を盗み、泥棒から逃げているという事実が露わになったのである。

怒り出すポールは、クリムに返すように命じる。

「俺の将来に必要な金だぜ」と言って、拒むトーマス。
「人の金を盗んで、将来があると思うのか?死にたいのか?」

トーマスの将来を本気で心配する、ポールの思いがひしと伝わってくる言葉に反論できないトーマス。

そのトーマスが、禁輸のキューバ産のシガーを水浸しにしてしまったことで、怒りが収まらないオーギーはポールを呼び、5千ドルの損失を弁償させるが、トーマスは例の5千ドルをオーギーに渡すに至る。

オーギーのタバコ屋
汚い金だと知りながらも、ポールの仲介によって、その場は処理された。

トーマスの居場所を聞き出すために、ポールが押し入って来たクリムらに恫喝されたのは、その夜だった。

ポールのアパートに戻ろうとしたトーマスは、クリムの侵入に気づき、その場から逃げ去っていく。

翌朝、オーギーはルビーと会っていた。

「赤ん坊はもういない。あとは、あの娘の人生よ」とルビー
「まだガキだ。成長するよ」とオーギー。
「あんたも甘いわね。あの娘が19まで生きられると思う?」
「リハビリ施設に入れるんだよ」

金がないというルビーに、トーマスからの弁償金を全て渡し、その金で更生施設に入れることを求めるオーギー。

自分の子供である確率が50%なのに、大金を提供してくれたオーギーに対して、感動のあまり、泣き出すルビー。

二人の関係は切れているが、男気を発揮するオーギーとの関係が、完全に自己完結できていない状態を示唆するシーンだった。

再び、給油所に戻って来たトーマス。

サイラスの家族と共にピクニックに誘われたトーマスだが、そして、そこにオーギーとポールが現れたために、トーマスの嘘が発覚するという厄介な事態に発展する。

ポールの自己紹介の際に、トーマスと同姓同名だったために、トーマスが苦しい言い訳をすることを不審に思うサイラス。

何より、ここでもまた、嘘をつかれたポールは、その理由は理解できるとは言え、さすがに呆れ果てていた。

「自分が誰か正直に言えよ」

このオーギーの言葉に、今や、正直に吐露する以外になくなったトーマス。

「俺はトーマス・ジェファソン・コールだ」

恐々と、実父であるサイラスの顔を見ながら、トーマスは言い切った。

激しく動揺するサイラスは、思わず、トーマスを殴ってしまう。

それを止めるオーギーとポール。

倒されたトーマスは、それまでの鬱屈した感情を炸裂させるかのように、サイラスに向かっていく。

「嘘だ!デタラメだ!汚い大嘘だ!」

サイラスは叫ぶばかりだった。

それを見て、嗚咽するトーマス。

一切が、終焉していくシーンだった。

ピクニック
ピクニックに出かけ、そこに集まる者たちの、悠長な会話が拾えず、憂いが漂う構図が印象的だった。





3 「秘密を分かち合えない友達なんて、友達と言えるか?」





オーギーの店に、いつものようにタバコを買いに来たポールだが、この日は一缶だけだった。

NYタイムズから、クリスマスの日の紙面に載せる、クリスマス向けの短編の執筆依頼があったことを話すポール。

「締め切りまであと4日。いいアイディアが浮かばない。何かクリスマスのいい話を?」
「勿論、あるさ。山ほど」
「本当に、いい話か?」
「昼飯を奢ってくれたら、いい話をしてやる。それも、本当にあった話だ」

この会話で、全てが決まった。

昼飯の場で、「宝宝店強盗 射殺さる」という新聞の記事を読んだオーギーは、ゆっくり話し出す。

「俺の最初のカメラの話だ。今のヴィニーの店に雇われた76年の夏だ。ある朝、ガキが万引きしてた。雑誌棚のポルノ雑誌をシャツの下に隠した。それに気づいて、俺が大声を上げると、店を飛び出して、俺がカウンターを出る頃には、表の7番街。半ブロックほど追ったが、その時、奴が何か落とした。息も切れかけたので、俺は止まって見た。そいつの財布だ。金はなかったが、運転免許証と、3,4枚のスナップ写真。免許証の住所で、その気ならサツに訴えられた。だが、かわいそうでね。その辺のガキで、財布にあった写真を見ると、なぜか、怒りが消えちまった。ロジャー・グッドウィン。それが名前さ。写真の一枚は、隣に母親がいた。もう一枚は、賞状を胸に抱いてて、宝くじを当てたような、うれしい笑顔。一生、恵まれないブルックリンのガキ。俺はそのまま、財布を持ってた。送り返そうかとも思ったが、何となく、そのままにしてた」

オーギーの長い話を、真剣に聞くポール。

オーギー・レンのクリスマス・ストーリー
その年のクリスマス。俺は独り寂しく、アパートでポツンとしてた。その時、棚にあった財布が目に入った。たまには、いいことをしようと、返しに行くことにした。やっと目指すアパートを見つけ、ベルを押した。返事がない。留守かと思った。あきらめて帰ろうとした時、足を引きずる音がして、老婆の声が尋ねた。老婆は15個ほどの錠を開けた。そして、すぐ分ったが、盲目だった。“来てくれたのね、ロジャー。今日は、クリスマスだから”。そして、俺を抱こうと腕を広げた。とっさに何か返事せにゃならない。考える前に、言葉が口から出ちまった。“そうだよ、おばあちゃん。クリスマスだから、会いに来た”気が付くと、ドアの所で抱き合ってた。暗黙のうちに、ゲームをすることを決めてた。俺は孫なんかじゃない。彼女は老いて、ボケかけてたが、他人か孫かはちゃんと分る。ふりをして喜んでだ。俺も成り行きで、うまく調子を合わせた。そして、その一日を彼女と過ごし、口から出まかせの嘘をついた。彼女は信じるふりをした。笑ってうなずいて、“良かったわね”そのうち、腹が減った。何もなかったので、近所の店へ出かけてって、色々買い込んだ。ばあ様は、寝室にワインを隠してた。食事が済んだあと、居間へ移った。小便をしたくなって、俺はトイレを借りた。ここで、話は意外な展開になる

オーギーの話は、核心に入っていく。

「孫のふりをしたのも大胆だが、それからしたことは、もっとバカげてた。今でも自分を許せない。トイレに入ると、シャワーの仕切りの壁の所に、箱に入ったカメラが6.7個。それまで、カメラには無縁。物を盗んだこともない。だが、そこに積んであるカメラを見たら、一台、頂こうという気になった。よく考えもせず、一箱、腕で隠し、もとの居間に戻った。その間、たった3分。だが、ばあ様は居眠りを始めてた。起こすこともなかったので、帰ることにした。盲人だから、メモを書いてもムダだ。黙って出てった。孫の財布をテーブルに置いて。カメラを持ってね。アパートを出た。これが俺の話だ」

ポールの真剣な眼差しが、大写しされる。

「その後、会いに行かなかったのか?」
「一度、3,4か月あとだが、気がとがめてね。カメラは使ってもなかった。それで、返しに行ったら、ばあ様はいなかった」
「死んだのかな」
「ああ。たぶんな」
「君と、最後のクリスマスを楽しんだ」
「そうだな。そう言われてみれば、そうだ」
「本当にいいことをしたな、オーギー」
「嘘をついて、物を盗んで、いいことをした?」
「彼女を幸せにした。どうせ盗品カメラで、本当の持ち主から盗んだわけじゃない」
「芸術のために許す?」
「そうは言わないが、君はカメラを役立てた」
「クリスマスの話になるだろ?」
「ああ、助かったよ。嘘がうまいのも才能だな。勘どころを心得てて、面白い話に仕立てる。君は大ベテランだよ」
「どういう意味?」
「素晴らしい話だ!」
「秘密を分かち合えない友達なんて、友達と言えるか?」
「その通りだ。それが生きてることの価値だ」

お互いにシガーをふかしながら、笑みを湛え合っている。

映画のラストは、オーギーの嘘話を小説化した、オーギー・レンのクリスマス・ストーリーが、モノクロで再現されていくシーンで閉じていく。

但し、盲目の老婆が手に持つ鍵は3個だった。

オーギー・レンのクリスマス・ストーリーは、オーギーの嘘話にリアリティを持たせたのである。





4  嘘の心理学 ―― 「防衛的な嘘」を溶かし、「配慮的な嘘」が心の空洞を埋めていく





私たち人間は、嘘をつかずには生きていけない生き物である。

その嘘には三種類しかない、と私は考えている。

「防衛的な嘘」・「効果的な嘘」・「配慮的な嘘」の三つである。

己を守るか、何か目的的な効果を狙ったものか。

それとも、相手に対する気配り故のものか、という風に分けられるだろう。

この映画には、「防衛的な嘘」と「配慮的な嘘」が実に効果的に使われている。

まず、「防衛的な嘘」の象徴として、母親を自動車事故で喪い、父親が蒸発したことで、叔母・エマに育てられた不幸な境遇の中で、蒸発した父を捜し求める黒人の少年、ラシード(本名・トーマス)。

トーマスの「防衛的な嘘」は、嘘の上塗りは許されない辺りにまで、自分を繰り返し守り、サポートするポールとのエピソードの中で描かれていたが、16歳の少年にとって、この反応形成は、己を守るための、彼なりの手立てだったとも言える。

それでも、蒸発した父を捜し求めるトーマスの心理には、自らの不幸な境遇のルーツを突き止めたいという強い思いがある。

それなしでは、「自分が自分であることへの尊厳」の確保であるアイデンティファイできないのだ。

だから、明瞭な意志を抱懐し、「防衛的な嘘」で仮構することで、実父であるサイラスに近づいていく。

近づいたことで自分の素性が知られ、痛い目に遭うが、それ以上に、トーマスが得たものの大きさは、恐らく、サイラスの「幸福家族」に吸収されていくだろう、未来ある少年の後半生に決定的な影響を与えるような心象が想像し得る。

トーマスの「防衛的な嘘」は、青春期に踏み入っていく少年の人生を充実させるに足る、相応のアイデンティファイを確保し得たである。

アイデンティファイを確保し得たことによって、もう、これ以上、不必要な嘘をつくことのない辺りにまで、トーマスの「防衛的な嘘」は溶かし切れたのだ。

次に、目的的な効果を狙った「効果的な嘘」。

その典型例は、オーギーの昔の恋人・ルビーである。

ルビー
娘のフェリシティへの養育に決定的に頓挫し、今や、孤独の身を託(かこ)っているルビーにとってオーギーに頼る以外の方略しかなかった。

そのために、フェリシティがオーギーとの間で産まれた子供であると決めつける嘘をつき、オーギーの全面的協力を求め、それを押しつけてくる行動をも厭わなかった。

しかし、ルビーへの愛情など微塵もないオーギーに対して、どこかで、孤独の穴埋めを切望する思いを捨て切れないほどのショートカッツ(小さな傷)」(ロバート・アルトマン監督の作品)を持つルビーには「効果的な嘘」を駆使しての踏み込みには、詐欺師のような犯罪性がないので人生の悲哀を感じてしまう。

そんな彼女だからこそ、オーギーからの金銭的援助を得た際に、特定他者の援助行動に対して、率直に感謝する情動反応を開いただろう。

そして、この映画で最も重要なのは、相手に対する気配り故についた「配慮的な嘘」である。

「配慮的な嘘」とは、嘘をつくことで、人間なら誰でも隠し込んでいる「ショートカッツ」を柔和に回収する行為である。

言うまでもなく、「ショートカッツ」を柔和に回収する「配慮的な嘘」は、オーギーとポールの関係性の「芸術的展開」の中でフル稼働していた。

程よい湿潤性を保持しつつ、「生きてることの価値」である「秘密を分かち合える友達」として、相手を思いやる情感系の濃度の高さが最適適応の距離感を確保していて、まさに、酸いも甘いも噛み分ける大人の関係の、有効なる「芸術的展開」を見事なまでに表現し得ていた。

「勘どころを心得てて、面白い話に仕立てる」、その「芸術的展開」の絶妙な遣り取りは、世俗の垢を適度に吸収・洗浄し、内化する大人の懐の深さを見せるのだ。

「嘘も誠も話の手管(てくだ)」

有名な故事だが、時には、嘘をつくことが最上級の効果を持つということがある。

その最上級の効果の恩恵に与(あずか)ったポールが言うように、「嘘がうまいのも才能」なである。

その才能を遺憾なく発揮した、オーギーの「話」のパフォーマンスは、人生経験豊富な男が培(つちか)った超絶技巧の所産であった。

15個の鍵の情報提示によって、あえて、ポールに「話」である事実をメッセージで送波したオーギーの狙いが、「生きてることの価値」である「秘密を分かち合える友達」への援助行動にあったのは、言うまでもないこと。

それが、オーギー・レンのクリスマス・ストーリーという上出来の物語に結晶する。

上出来過ぎて感服する、オーギー・レンのクリスマス・ストーリーが、15個の鍵を3個に変換しただけで、充分なリアリティを持ってしまった物語は、「原案者」のオーギーから、粋(すい)を集約したポールの短編の中で、決定的に再現されていく。

オーギー・レンのクリスマス・ストーリーを完成したとき、対象喪失によるポールの「悲嘆」が自己完結するのである。

ポールのグリーフワークの軟着点
ポールのグリーフワークは、この短編の上梓(じょうし)によって軟着陸するのだ。

既に、ポールには、以下のオーギーの短い会話を通して、彼の愛読者である、エイプリル・リーという名の書店員との関係が深まっていると想像できるので、彼のグリーフワークは、この短編の上梓(じょうし)によって軟着点に向かっていたと思われる。

以下、そのときのオーギーの短い会話。

オーギーのに、ポールがタバコを買いに来たときのこと。

2缶?オーギー。
「いや。1つでいい」とポール。
「本当か
「少し減らそうと思ってね。健康を心配してくれる人が…」
「それで、仕事の方は

かくて、オーギーの「話」を、ポールが聞くラストのエピソードに繋がっていくのだが、ここで、「健康を心配してくれる人」がエイプリル・リーを指しているのは、ほぼ間違いないだろう。

思えば、序盤のシーンで、ポールは、オーギーのアルバムの中で生きている亡妻・エレンの姿を見て、咽び泣いてしまう印象的なエピソードが挿入されていた。

このことは、ポールのグリーフワークが、未だ、「再生」への昇華を具現し得ていない現実を如実に物語っていると言える。

そのポールの肩に手を置き、黙って慰めるオーギーにとって、「小説家・ポール」の復元を願い、いつの日か、チャンスがあったら、「役に立ちたい」という思いを抱懐していに違いない

そのチャンスが、クリスマスのの「話」として花開いたのである。

心に空いた大きな隙間を埋めることの困難さ。

これは、尋常ではない。

オーギーの「話」は、ポールのグリーフワークを「再生」に昇華させ、自己完結する決定的な援助行動だったのだ。

「生きてることの価値」である、「秘密を分かち合える友達」への援助行動の粋な計らい。

映像総体の完璧さに、改めて感服する。

ウェイン・ワン監督(右)
まさに、この映画は、「防衛的な嘘」を溶かし、「配慮的な嘘」が心の空洞を埋めていく、「嘘の心理学」の上出来の範型だった。

―― 以下、本稿の総論。

この世に、「完全なる悪人」が存在しないと同様に、「完全なる善人」も存在しない。

後者を特段に大袈裟に描かず、さり気なく描き切った辺りに、この映画の面白さがある。

物語にリアリティを与え、その世俗性が、観る者にシンパシーを起こさせる。

中でも、最も「完全なる善人」に近い、ポールの人格造形を考えてみると面白い。

彼はトーマスが盗んだ金を、強盗犯人に返せと言うだけで、決して、警察に届けろとは言わないのだ。

そして、その金の出どころが汚い金と察知しつつも、オーギーは、禁輸のキューバ産シガーを水浸しされた弁償金として受け取ってしまうのである。

そのオーギーには、女のために起こした事件のペナルティとして、ベトナムの最前線に送られた過去を持ち、それが何某かのトラウマになっていても、それを大袈裟に描くことを削り取っているばかりか、「一生を懸けた俺の仕事」である写真の趣味を持ちながら、世俗性十分の、中年男の独身生活を存分に謳歌しているのだ。

こんな調子で、この映画に出てくる主要登場人物には、それぞれの「ショート・カッツ」を持っているが、その傷を薄気味悪く癒し合う、あざとい「ハートフルムービー」に堕さず、淡々と描いているところが何よりいい。

「完全なる善人」では有り得ない、私たちが普通に抱えるレベルの「ショート・カッツ」と通底しているからである。

【参考資料】 拙稿・心の風景 嘘の心理学  

(2016年10月)

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