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2013年1月13日日曜日

別離(‘11)      アスガー・ファルハディ



<「善」と「善」の対人的葛藤の物語と対比される、「善」と「善」の内的葛藤の物語>



 1   予期せぬ事態にインボルブされた者たちの対人的葛藤と内的葛藤を描く物語 ― 梗概。


   
家裁の離婚調停の場に臨んだナデルとシミンの夫婦は離婚許可が下されず、別居を選択するに至る。

離婚理由は、アルツハイマー型の認知症を患う父への介護を優先するナデルと、一人娘テルメーの教育環境に不満を持ち、国外移住を望むシミンとの埋め難い対立があるが、既に離婚に振れる価値観の相克が垣間見えていた。

今や、父の日常の世話が喫緊の課題となったナデルは、ラジエーという名の女性を雇うが、失禁する現場を目の当りにして動揺を抑えられないラジエーは、男性の体に触れることが罪ではないかと憂慮し、聖職者に相談して許可を得る程の敬虔なイスラム教徒。

事件が起こったのは、ラジエーが勤め始めて早々のことだった。

子供連れのラジエーが、ナデルの父をベッドに縛りつけた状態のまま外出したことで、ベッドから転倒し、酸素吸入器を必要とするナデルの父が意識不明になるという事件が出来する。

帰宅後、激昂したナデルはラジエーを難詰し、高級アパートの戸口から強引に追い出してしまう。

ラジエー
その衝撃で階段に倒れ込んだラジエーは、胎児を流産してしまった

自らが犯した行為に対して自覚のないナデルに対するペナルティが、最も苛酷なかたちで待っていた。

ラジエーと、失業中の夫ホッジャトの提訴によって、ナデルは殺人罪で問われるに至ったのである。

殺人罪で告訴された理由は、受精後120日を過ぎた胎児が「人間」と看做されるというイランの法律が存在するからである。

ここから、二つの家族による裁判闘争が開かれていく。

その背景には、共に乗用車を保有する、銀行員であるナデルと、英語教師であるシミンの家庭に象徴される中流階層と、失業中の夫に内緒で、長時間も要してバス通勤を余儀されてまで生活費を稼がねばならない、ホッジャト夫婦に象徴される下層階層の経済事情の問題が横臥(おうが)している。

検察と判事を兼ねるイランの裁判の経緯は、自分の無実を証明できないナデルにとって不利に展開したばかりか、両親の離婚の危機に心痛が絶えない、11歳になる一人娘のテルメーの不安を掻き立てていくばかりだった。

果たして、ナデルはラジエーの妊娠の事実を知っていたのか?

そして、ナデルの暴力的振舞いによって、ラジエーが流産してしまったのか?

そこだけはサスペンスの筆致で展開するドラマの中心は、どこまでも予期せぬ事態にインボルブされた者たちの対人的葛藤と内的葛藤を描いているという点において、前作の「彼女が消えた浜辺」(2009年製作)と同質の構造を有しているが、本篇では、「イラン社会の現在」を活写しているという意味で、多分に「社会性」を内包している。

アスガー・ファルハディ監督(ウィキ)
しかし、アスガー・ファルハディ監督の射程には、「別離」に至る夫婦と、一人娘の葛藤を通して、〈状況〉に翻弄される人間の〈生〉の様態を精緻に描き出すことにある、と私は考えている。



2  「当事者熱量」を噴き上げた「善」と「善」の葛藤の物語



これは葛藤の物語である。

葛藤とは、個人間の人格同士に形成される対立の様態であると同時に、個人の内面に発生する共存困難な欲求の存在様態である。

ここでは、まず、前者の葛藤の物語の様態に言及したい。

それは、期せずして惹起した事態に、否応なくインボルブされた者たちの葛藤の物語である。

しかし、それは物語の表面的骨格である。

物語の表面的骨格の内実は、「当事者熱量」を噴き上げた「善」と「善」の葛藤の物語であると言っていい。

即ち、ナデルとラジエーという、個人間の人格同士に形成された対立の葛藤の物語である。


ラジエーをドアの外に押し出すナデル

然るに、共に相手を傷つけることを目的としないという点において、そこには限りなく、「善」と「善」の衝突と葛藤が、深い内面描写にまで届くように精緻に描かれていた。

説明的で不必要な描写を大胆にカットすることで、深い内面描写の成就にまで導き得たのである。

人生と精神と生活の骨格を揺さぶるような、対人的葛藤の尖り切った風景を通して、後述するように、二人は決定的なところで嘘をついていた。

しかし、その嘘は、私の「嘘の心理学」という把握から言えば、「防衛的な嘘」という概念で説明できる嘘である。

因みに、 嘘には三種類しかないと、私は考えている。

 「防衛的な嘘」、「効果的な嘘」、それに「配慮的な嘘」である。

己を守るか、何か目的的な効果を狙ったものか。

それとも、相手に対する気配り故のものか、という風に分けられる三種類の嘘がそれである。

この中で、彼らのついた嘘は、紛れもなく、それぞれが抱える深刻な事情に端を発した「防衛的な嘘」である。

 この対人的葛藤の中心人物であるナデルとラジエーの葛藤が、「善」と「善」の衝突であることを検証するエピソードは、本作の中で印象深く描かれていた。

攻撃的振舞いを連射するホッジャト
ナデルの場合は、どこまでも、葛藤の対象人格であるラジエーが表現する「防衛的な嘘」への苛立ちが起因となっていたばかりか、妊婦でもあった妻ラジエーを精神的に支配する、非理性的で、攻撃的振舞いを連射するだけの夫ホッジャトに対する憤怒が相即不離(そうそくふり)に絡み合っていたが、両親であるホッジャト夫婦の苦境を間近で感受する、幼い娘のソマイェに対するナデルの配慮には、主体的自我を持ち得ない子供をトラブルに巻き込んだことへの済まなさの感情が体現されていた。

また、ナデルの一人娘であるテルメーに対する配慮は、これも後述するが、真情を吐露する態度において一貫していた。

一方、ラジエーの場合は、敬虔な信仰心を人生と精神と生活の骨格とする態度の変わりにくさ故に、自らのついた嘘による神罰を怖れる懊悩は、彼女の倫理的態度の自己修復によって決定的変容を具現するのである。

ラジエー
それはまさに、「善」と「善」の対人的葛藤の物語であるが故に、なおさら、拠って立つ自我の「誇り」をも賭けてしまって、容易に軟着点を手に入れにくい時間を延長させるばかりの「当事者熱量」を噴き上げてしまったのである。

「善」と「善」の対人的葛藤の和解の困難さが、そこに垣間見得るだろう。

然るに、ナデルとラジエーとの以上の葛藤は、どこまでも物語の表面的骨格であって、映像で追求された物語の本質的骨格はそこに拾えない。

「当事者熱量」を噴き上げて止まない、主人公ナデルに心理的・物理的に最近接した者たちの全人格的に負った葛藤こそ、本作の物語の本質的骨格であるからである。

シミンと、娘のテルメー
即ち、個人の内側に発生する共存困難な欲求における、内的葛藤の物語の存在様態である。

言うまでもなく、それは、ナデルの妻のシミンと、娘のテルメーが抱え込んだ内的葛藤である。

とりわけ、本作において重要なのは、11歳の娘テルメーが、その受容限度を超えるほどに負った、内的葛藤の様態が顕在化させた悲哀の内実である。

稿を変えて、言及していこう。



3  テルメーが負った内的葛藤の深刻さ ―― 物語の本質的骨格



テルメー
何より、児童期自我を脱しつつありながら、思春期自我の中枢地点にまで届いていない微妙な時期にある11歳の少女が、全人格的に反応し、体現していく様態の内実は、「思うようにならない人生」の断片を、切っ先鋭く突き付けられた者の悲哀が露わにされて、観る者の心を揺さぶって止まない問題提示のうちに結ばれていた。

問題提示とは、離婚が子供に与える尋常ではないストレッサーのことで、以下の4点が指摘されている。

「変化への恐れ」、「愛着感の喪失」、「見捨てられ不安」、「親達の間の敵意」の4点である。

テルメーが蒙ったストレッサーの中で、最も重大な因子であったのは、「親達の間の敵意」の問題に尽きるだろう。

「見捨てられ不安」が内包されていなかったことで、その後の自我の熱量自給を奪い取られなかった分だけ遥かに救われていたにしても、それでも、「親達の間の敵意」の問題によって引き裂かれた自我が負ったストレッサーが、微妙な時期にある11歳の少女をして、思春期前後の貴重な時間の全てを、親達の間の関係の収束・修復と和解に費消させ、駆動させられるに至った事態は由々しきものだった。

テルメーが負った内的葛藤の深刻さは、本作を表面的に支配する、「善」と「善」の葛藤によって延長され続けた、「親達の間の敵意」の問題の修復の困難さを顕在化させてしまったという一点にあると言っていい。

幾つかのエピソードで、それを検証してみよう。

 まず、母シミンとの会話。

「ママが家を出たから、パパは監獄へ」
 「私のせいじゃないわ。妊婦に暴力を」
 「ママがいないから雇ったの」
 「パパは止めなかった」
 「戻ると思ってたわ」
 「パパに言ったの?」
「そう信じてた」
「私が戻る気だと教えたの?」 

この母の言葉に反応せず、帰ろうとする娘。

「さあ、お婆ちゃんの家へ」と母。
 「お爺ちゃんは?」と娘。

保釈が認められず、拘留されている父の不在のため、一時(いっとき)預かっている、認知症で介護が必要な祖父の問題を敢えて持ち出して、母の不徳を暗に責める娘。
 
「連れてくわ」と母。
 「宿題があるから」と娘。
 「独りで怖くない?」
 「ええ」

娘のこの一言に、母は一瞬感情を荒げた。

「じゃ、電話しないことね!」

そう言って、ドアを閉め、娘を追い返したのである。

その直後の映像は、夫の家に一人でいる、スーツを着せられた認知症の義理の祖父を車に乗せて、自分の実家に連れていくシミンのカット。

「家を出るのを止めようとせず、離婚も受け入れた。14年連れ添った挙句、こんなことになった・・・」

シミンは運転しながら、思わず嗚咽するのだ。

彼女にも言い分があるだろうが、両親の和解と共存のみをひたすら求める11歳の少女には、介護すべき祖父を置き去りにして、実家にこもる母の行動は許し難いのである。

ナデルとシミン
それは、「親達の間の敵意」ばかりを見せつけられてきた少女にとって、「自分勝手な母」というネガティブな残像が騒いで止まないのだろう。

 11歳の少女のネガティブな残像は、職を持ちながら、祖父の介護を続ける父ナデルへの視線を相対的に柔和にしていた。

 だからこそ、父の犯した過ちの推移が気になって仕方がなかった。

 以下、そんな父との、「犯罪」に関わる切実な会話の断片。

「パパ、妊娠中だと知っていた?」と娘
 「いや。なぜ、聞く?」と父
 「ママが疑っている」
 「僕が知っていたと、なぜ思う?」
 「ラジエーさんの妊娠を知ったとき、“妊娠してたのか” とパパは言わず、驚きもしなかった。普通なら驚くはずだわ」
 「ママは僕を悪く言う」

これは、泥沼の裁判の中で心を痛めるテルメーが、母のシミンに頼んで保釈金を出してもらうように懇願した直後の、車内での父娘の会話である。

母に頼んで保釈金を出してもらうという常識的な行為でさえ、娘が父に懇願せねばならない事情をも抱え込んでいる家族の不全感が、ここにある。

夫婦の葛藤
普通、ここまで拗(こじ)れ切った家族の復元を期待する方が無理であるのだが、11歳の少女には、自分に今、唯一できることが、自分が最も望んでいることを意思表示していく行為であると信じる以外になかったのだろう。

しかし、少女の淡い期待は、呆気なく裏切られる。

ナデルは、シミンの実家で預かっている父を自宅に戻しただけで、シミンに保釈金の依頼をせず、車内から目を凝らして見つめるテルメーを大いに失望させた。

父との「誓い」が簡単に反故にされた11歳の娘には、一貫して、「勝手に出て行った妻が悪い」という思いを変えないが故に、男性優位社会の色濃い国民国家イランに住む男たちのプライドに拘る気持ちが相対的に強いのか、少女なりに父の気持が充分に理解できていたのだろう。

だから、テルメーは父を責めることをしなかった。

自宅に着いた後、認知症の祖父のネクタイを外すテルメーは、今や、「父子家庭」の重要な戦力になっている。

それでも、父が犯した行為の正当性に疑問を隠せないテルメーの心中には、不安が澱みになって募るばかりなのだ。

そんな娘の心理を読み取った父は、自宅の階段で、自分がラジエーを押し倒していないことを実地検証して見せたのである。

「なぜ、今更?」と娘。
「お前には分って欲しい」

この父の一言は、相当に重い。

「犯罪」を犯していないと確信を持つ父ナデルには、自らの一時(いっとき)の短気を反省する思いをも認知しているので、余計、テルメーの心の不安を理解し、それを何とか浄化させようと努めるのである。

だからこそ、その後、なお自分を疑う娘に問われたとき、ナデルは正直に、「(ラジエーの妊娠の)事実を知ってた」と答えたのだ。

以下、そのときの会話。

「なぜ、そんな嘘を?」
「正直に答えたらどうなる。数年間、監獄行きだ。気がかりだった。お前がどうなるか。誰と暮すか。だから嘘をついた」
「知ってて押したの?」
「妊娠していることは知っていたが、あのときはつい我を忘れて」
「裁判所で真実を?」
「知ってたかどうかは、争点にならない」

ここで、一つの嘘が露わになった。

私の言う「防衛的な嘘」である。

その理由は、本人の弁が端的に証明している。

無論、テルメーには、分り過ぎるくらい理解可能な父の言辞である。

しかし、「あのときはつい我を忘れて」という言葉が含む危うさが、父の「犯罪の重過失性」の確率を高めてしまうのだ。

テルメーの心痛
それは、テルメーの心痛を増幅させてしまったのである。

「当事者熱量」を一気に噴き上げたことで、思わぬトラブルにインボルブれた挙句、刑事事件の被告扱いになったナデルに対して、心理的・物理的に最近接した者たちの中で、一人の少女が全人格的に負った葛藤こそ、まさに、本作の物語の本質的骨格を成すに至ったという文脈が、ここに読み取れるだろう。

有無を言わさずインボルブされた〈状況〉の、見えない強制力の縛りが、一人の少女の自我を搦(から)め捕り、耐性限界を超える辺りにまで追い詰めて、今、その内的葛藤がピークアウトに達しつつあったのである。

かくて迎えた、裁判での証言の日。

父を守るために偽証をする少女が、そこにいた。

このときの少女の嗚咽が、全てを語っていたのである。

本作は、この少女の嗚咽に象徴される、唐突に襲いかかってきた内的葛藤の悲哀を描く物語であったのだ。



4  「善」と「善」の対人的葛藤の物語と対比される、「善」と「善」の内的葛藤の物語



離婚が認知されずに、別居を余議なくされた両親の修復困難な現実に翻弄される、少女テルメーの悲哀の極点は物語の終盤に待っていた。

シミン
以下、両親の和解を願って母を説得し、誓った後のナデルとシミンの会話。

「掛け合って、話をつけてきたわ。示談金は1500万トマン(約135万円)。500万の小切手で、3回払いよ」
 「なぜ、示談を?」
 「娘の安全のためよ」
 「保証はない」
 「独りにさせると不安で・・・私に任せて」
 「金を払えば、過失を認めたことになる。彼は一生恨むぞ!」
 「だからよ」
「金で釣るのか」
 「私に払うと思えば?」 
「必要なら頭を下げて、君に慰謝料を。示談金は借りない!」
 「思春期の娘が辛い思いを」
 「娘の心が分るのか?だったら、なぜここに?本当に辛かったら、ここにいない」
 「なぜ、いると思う?あなたを選んだと?離婚を防ぐためよ・・・辛さを見せまいとしている」

最後は嗚咽になってしまった。

 「示談金は払わない」
 「私の車を売るわ」
「僕のために売るな」
 「あなたのためじゃなくて、娘のためよ。娘のことを考えると不安で・・・」

嗚咽が止まらない。

 「勝手な真似をしないでくれ!分ったか」
 「私があなたの保釈金を」
 「裁判所から返してもらえ」

 両親の話を隣の部屋で聞いていて、悄然とするテルメー。

シミン
怒り狂って部屋を出て行こうとするシミン。

「約束が違う!」

母の後方から、激しい言辞を投げつけるテルメー。

しかし、完全に「当事者熱量」を噴き上げているシミンには、娘の抗議など受容すべくもなかった。

テルメーの思いを瞬時に理解したナデルは、試験が終わるまでシミンの実家に行くように勧めた。

「ママは戻ると言った」

テルメーは、嗚咽しながら叫ぶのだ。

頭を抱えて号泣するテルメーの悲痛が、極点に達した瞬間だった

「お金を払えば、ママは戻るわ!」
「戻る気なんか、あるもんか」
「戻ると言った!車に身の回りのものが。私は見たわ」

その言葉を残して、家を出ようとした娘を呼び戻して、ナデルは自分の短気を戒めるように、娘に優しく語りかけた。

「僕の過失だと思うなら、ママを呼べ。先方に示談金を払う」

 どこまでも、娘の訴えに応えようとする父と母がいて、その両親の関係の復元を切望する娘がいた。

しかし、今や、価値観の亀裂を決定的に露呈してしまった男と女が、かつてそうであったような柔和な関係を復元させるには、「共存」と「援助」に向かう強い感情、そして何より、相互の存在が拠って立つ自我の安寧の基盤になるような「夫婦の絆」が延長されていなければならなかった。

 恐らく、彼らがインボルブされた不測の事態が作り出した〈状況〉の遥か以前から、この最も肝心な繋がりを劣化させてしまった男と女が、「夫婦の絆」を推進力にする関係の構築的再生を具現する可能性は、限りなくゼロに近いと言わざるを得ないのである。

 男性優位社会の色濃い国民国家であると同時に、監督者評議会を構成する12人の議員のうち半数を指名する権限を持つ最高指導者の決定権の下、シーア派イスラム教原理主義の国家の影響もあって、女性の社会進出がどれほど活力に満ちていようとも、「介護は家族の義務」という風潮がなお強く残り、特養老人ホームなどという認知症の高齢者を受け入れる老人福祉施設が少ないイラン社会で、本作のように施設の介在なしに済まない状況をテーマにするとき、果たして、シミンの選択をエゴと決めつけるほど、私たち「先進国」に呼吸を繋ぐ者たちの俯瞰的価値観が有効であると言えるのか。

実父を介護するナデル
 実父への介護でへとへとになっているナデルの選択こそ、「在るべき家族」の至高の在りようと無前提に礼賛し得るほど、私たちは気高いのか。

 どこの国家でも普通に惹起する人間と家族の問題を、徹頭徹尾リアルに再現した本作の凄さは、「イラン社会」という狭隘な枠組みを突き抜け、現代を生きる私たちが共通して抱える普遍性にまで届き得ていて、且つ、そこで懊悩する特定的人物の内面を精緻に描き切った点にあると言っていい。

 それ故にこそ、物語は、娘の心からの訴えを弾き飛ばすリアリズムを回避しなかったのだ。

 思うに、主人公の家族の風景もまた、「善」と「善」の対人的葛藤の物語だったのである。

そして、この感銘深い映像は、最後に、もう一つの「善」と「善」の対人的葛藤の物語の中で現出した、「当事者熱量」を噴き上げた者の「防衛的な嘘」の懊悩を拾い上げていた。

 信仰深きラジエーの嘘である。

「あの前の晩にお腹が痛んで、車に撥ねられた。お爺ちゃんが表に出たから、私は後を追った。通りを出ようとしたので、私は止めようとして身代りに。その夜から腹痛に・・・主人に話したら殺される。悪いのは私よ。お金をもらえると知って怖くなり、聖職者に相談したら、“受け取れば罪になる”と。だから、お金を払わないで」

 これは、「利害関係」が対立するシミンを前にした、ラジエーの告白である。

 彼女の「防衛的な嘘」の背景にあるのは、短気な夫ホッジャトへの恐怖感であった。

敬虔なイスラム教徒のラジエーと娘
 然るに、自らの過失で胎児の命が喪われた行為に関わるリスクの高さを、少しでも希釈化させるためについた「防衛的な嘘」には、失業中の夫からの収入の補填を、「長旅」のような往復路を繋いでいくリスクを顧みず、介護の仕事という、更に高いリスクをも負って引き受けたこと ―― それ自身が充分に「善」なる者の証左でもあった。

 加えて、敬虔なイスラム教徒のラジエーは、嘘をついてまで法外な金銭を受領することに神罰を蒙る事態こそ、何より回避したかった。

 だから、示談金を払いに来たナデルの家族の申し入れに逡巡し、遂に夫のホッジャトに告白するに至ったのである。

 夫の憤怒が噴き上がったのは、既にこの時点において、ホッジャトが「当事者熱量」を自給するに足るスタンスにシフトしていたからだ。

 因みに、それまでナデルの家族を擁護しつつも、「他人の喧嘩」に入り切れないスタンスを保持していたテルメーの女性担任教諭が、「当事者熱量」を噴き上げた勢いを駆って乗り込んで来た、ホッジャトの学校への恫喝事件の一件以降、ナデルの家族と距離を取っていったのは、彼女の本来の「第三者性」が極まったからである。

「第三者熱量」は、本質的に、「他人の喧嘩」に入れないのである。

だから、彼女はナデルを無視し、逃避する外になかったのだ。

これが人間であり、ごく普通の反応様態なのである。

ともあれ、「善」と「善」の対人的葛藤の在りようの物語は、同時に、「善」と「善」の内的葛藤の物語と対比され、あまりにシビアなラストシーンのうちに収束していく。




5  廊下の硝子戸を挟むほんの僅かな距離を埋めることができなかった夫婦の、その心の距離



思うに、この日の「家族崩壊」の重要な伏線となった出来事があった。

 示談金を払いに来たナデルの家族は、法外な金銭を受領することに神罰を蒙る事態を怖れたラジエーの告白によって、借金に追われる生活を繋いでいたホッジャトを混乱させた挙句、結局、示談金による解決が反故になったのだ。


荒れ狂うホッジャトは、そのまま外に出て、あろうことか、ナデルの乗用車のフロントガラスを破壊する暴挙に出たのである。



それを、ナデルの家族の視線からのみ映し出す構図の中に、この家族の崩壊を象徴的に表わしていた。


その構図の後に待機していたのが、復元不能と化したラストシーンであったという訳だ。
 
リアリズムで貫徹した物語のラストシーン。

 「決めましたか?あなたの意思次第だ。どちらと暮す?お父さんか、お母さんか。決めましたか?」

 離婚が認知された直後の家裁の調停員の言葉である。

 「決めましたか?」と問われたのはテルメー。
 「はい」と答えるテルメー。
 「それで?」と問う調停員。

 テルメーの眼から、涙が滲んで頬を伝わってラインを引いていた。

 「それで、答えは?
 「今、言うんですか?」

 礼服を纏(まと)った両親が座っている同室で、テルメーが答えにくいのは当然過ぎる心理である。

 「まだなら…」と調停員。相当に鈍感な御仁である。
 「もう、決めました」

 両親に席を外して欲しいというテルメーのメッセージが、漸く通じて、部屋にテルメーを残して、廊下に出て行く両親。

長回しで閉じていった印象的なラストカット。

廊下の中仕切りとなっている硝子戸を挟んで、眼と眼を合わせることもせず、落ち着かない心を隠し込むように無言で待機するナデルシミン。

廊下の硝子戸を挟むほんの僅かな距離を最後まで埋めることができなかった二人の、その心の距離の広がりを象徴する構図の決定力に息を呑むほどである。

二人は、この日を機に「元夫婦」になっていく選択に流れていくのだ。

テルメーが、ナデルシミンのいずれかを選択することの苛酷さに対して必要以上に同情したり、この日を機に「元夫婦」になっていく二人の行為を軽々に非難したりする行為は、あまりにセンチメンタルな反応であると言わざるを得ないだろう。

 前述したように、「共存」と「援助」に向かう強い感情、そして何より、相互の存在が拠って立つ自我の安寧の基盤になるような「夫婦の絆」が確保されていない男と女が、ストレスを内側深くに貯留させていった果てに、無理してまで、「仮面夫婦」を演じ続けていくことによる泥沼の関係を延長させることで失われる「人生の残りの時間」のダウンサイドリスクよりも、却って、「離婚が正解」という選択肢の方が、充実した「人生の残りの時間」の内実を手に入れられるケースも多々あるのである。

 価値観が折り合えないほど乖離してしまったら、別離に流れていくのは、寧ろ自然な現象であると言っていい。

それが人生なのだ。

確かに、このときばかりは悲哀の極点に捕捉されているが、テルメーにとって、両親の離婚による風景の変容は、それまで思春期の自我が普通に自給し得ていた熱量を削り取られた分だけでも、本来の時間の軌道に戻していくことが可能になるとも言えるのである。

テルメーがこのとき、父母のいずれかを選択するか、正直、私の想像の及ぶところではないし、軽々に答えられるものでもない。

ゲームではないのだ。

テルメーの選択肢の基準が、彼女が流した涙を思うとき、且つ、「自己の未来像」を見据えていたものだったら、恐らく「母」と答えるだろう。

自分を信じ、誠実に対応してくれた父を「選択できない」辛さが、テルメーの涙を誘ったのである。

まさに、それはテルメーの悲哀の極点であったのだ。



 6  類型的な人物造形の安直な構成力を破壊するパワーを内包する映像の凄み



アスガー・ファルハディ監督

数多の娯楽映画とは言わず、ヒューマンドラマを気取ったセンチメンタルな映画に多々見られる、ステレオタイプで類型的なキャラ分け、即ち、「善・悪」、「正・不正」、「美・醜」、「聖・俗」等々といった短絡的な文脈を、その根柢から破壊するパワーを内包する映像の凄み ―― それが、抜きん出て秀逸な本作に対する私の率直な感懐である。

自らが神になろうとするのは自由だが、この世に絶対的な「善人」もいなければ、絶対的な「悪人」もまた存在しないだろう。

仮に、その時代状況下において、「これが絶対的な正義である」と確信した観念体系も、人間の具体的な生活の渦中に下降していくことで呆気なく検証され、その観念系が包含していた多くの瑕疵が炙り出されてしまったら、もうそれは、一つの由々しき学習の内実として、知的過程を開いた人々の意識裡に内化されていくだろう。

だから私たちは、簡単に、「絶対的正義」とか「崇高なる達成」などという、歯の浮くような言辞を吐くべきではないのだ。

人間は遥かに複雑であり、多面的であり、偽善的であると同時に偽悪的でもる。

「理想」を主義とするのは自由だが、しかしそれは、どこまでも私たちの思いの集合であって、それを具現しようとすることは、同時に、その厄介な観念が内包する、「良心」という名の内なる攻撃性がしばしば氾濫し、収拾がつかない事態を作り出してしまうこともある。

「理想」を主義とし、それが具現できなかったときの反動を、聞き心地の良い流行の観念系によって補填する行為を止めないが故に、私たちは、自らが関与した事態での誤謬に気付かず、嫌になるほどの愚昧さを晒す厄介な存在でもある。

本作で描かれている特化された人物は、殆ど「善人」というカテゴリーに含まれるタイプの人物ばかりである。

それにも拘らず、彼らは肝心なところで嘘をつき、〈状況〉が作り出してしまった非日常の時間の海を漂流し、翻弄されていく。

翻弄されながらも、それぞれの事情を持つ彼らには、自らが抱えた事情の重量感ゆえに嘘を突き、自らの身を守ろうとする。

「防衛機制」が常に働いているのである。

それが人間だからだ。

これは大雑把に言えば、「対人的葛藤」と「内的葛藤」という内実を持つ、「善」と「善」との二重の葛藤であり、せめぎ合いであり、衝突を描く映画である。

だから普遍的なのだ。

「コーランに誓って」という言葉と、チャドルを着衣する女性の存在がなければ、到底イラン映画とは思えないほどに、困難な事態にインボルブされたときの普遍的な人間の振れ方を、鋭利な心理描写によって映し出すリアリティの圧倒的な凄みが、ここに凝縮されていた。

 素晴らしい構築力に圧倒された。

 大傑作である。

 この作り手は、恐らく、今世紀の世界の映像フィールドを引っ張り切っていくだろう。

(2013年1月)


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