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2017年3月3日金曜日

あん(’15)  河瀬直美


<抑制力を欠き、「全身自然派系」にシフトしていく物語が失ったもの>




1  子を産めなかった女と、母を喪った男との「疑似母子」の物語





前半は、文句なく素晴らしい。

自分の顔を傍に近づけながら、小豆(あずき)と対話する76歳の徳江。

手の甲に皮膚疾患(結節)の目立つ徳江の穏やかな表情が、50年間、「あん」作りに魂を同化させてきた一人の女性の、「超克の人生」の片鱗を鮮やかに映し出していた。

徳江の人生それ自身が、畑から自分の元にやって来た小豆(あずき)を愛(め)でながら、おいしい「あん」に、丹精込めて仕立てあげることの喜びに満たされているので、十分すぎるほどの時間の集積だった。

徳江と千太郎
それは、畑からの豊穣なる贈り物に対して、育て上げる思いを有する彼女の至福の境地そのものなのだ。

「柊(ひいらぎ)の垣根の外の世界」で、一度でも働いてみたかったという徳江の願いが、今、自分の大好きな「あん」作りによって手に入れられたのである。

一方、「甘党」ではない、雇われ店長の千太郎は、徳江の秘めた強い思いを知ることなく、その「あん」作りの超絶的手腕に感服する。

「こんなの初めてです。やっと自分が食べられるどら焼きに出会った感じです」

桜が散った陽春から、二人は二人三脚の「どら焼き屋」を切り盛りし、予想だにしない盛況を具現する。

その二人に、貧しい母子家庭で、高校へ行けるかどうかも分らない女子中学生・ワカナが絡んでくる。

この三人を中心とした物語が、ハンセン病という重いテーマを軸に展開していくのだ。

この重いテーマを「どら焼き屋」に持ち込んだのは、女性オーナーだった。

「知り合いが言うにはね、癩じゃないかって。今は、ハンセン病とかって言ってるんだよね…あんた、知ってる?癩病ってさ、ひどい人になると、指が落ちたりすんのよ。鼻とかも溶けちゃったりして…よく分んないけど、昔はさ、一生、監禁ものの病気だったんだよ、癩病って。あたし昔見たよ、お寺の境内とかにさ、あの人たちがいて、そういう人たちが通った後、保健所が消毒しに来んのよ」

「どら春」のオーナー
唐突な爆弾の投下だった。

「この店は、徳江さんのあんで繁盛したんですよ」

反駁(はんばく)する千太郎。

「それは分ってるけど、知り合いが周りの人なんかに喋っちゃったら、この店、もう終りよ!とにかく、辞めてもらないと」

その直後、両手を消毒する女性オーナー。

この偏見の極みに満ちたオーナーの言辞に、千太郎が女性オーナーの指示に沈黙を守ったのは、かつて、自らが起こした事件の被害者への慰謝料の肩代わりをしてもらっていたからである。

「どら春」
物語の風景が一気に広がりを持つこの辺りから、映画のトーンが、「社会派」のくすんだ色彩に変色していく。

本作の中枢的なテーマが、物語を動かしていくのだ。

然るに、ごく普通の人々が持つだろう、偏見のレベルの極点とも言うべきオーナーの前近代的で、差別的な言辞は、本篇の中で、絶対に回収されなければならない。

回収されなければ、「今でも、癩は怖い」というイメージを観る者に情報感染させてしまうからである。

後半の展開は、この一点に凝縮される映像構成が、切に求められる所以であった。

徳江とワカナ
但し、殊更、前近代的な差別感情を煽るような、このオーナーのセリフの挿入には、世間一般に流布される差別意識を基準にした作り手の意図がフルオープンし、至りて、映画的仮構の誇張が全開している。

作り手の意図は必ずしも間違っていないが故に、この重要な伏線描写は絶対に回収されなければならないのである。

物語を続ける。

既に、徳江のことが世間の噂になっていた。

その噂を聞き、ワカナは学校の先輩と共に図書館に行き、ハンセン病について調べていた。

「舌で点字を読んでる」とワカナ。

これを「舌読」と言う。

ハンセン病の写真の中に、目が見えず、手も不自由なために、舌を駆使して本を読む患者の姿があり、驚くワカナ。

「らい予防法が廃止されたのは、1996年で、それまで強制隔離されてきたんだけど、手とか足がもげちゃったり、曲がっちゃったりとか、鼻がもげて、顔に変形が出ちゃったりとか、そういうのを恐れられてたんだと思う」

先輩の高校生がハンセン病の本を読みながら、ワカナに説明する。

「私たちも陽のあたる社会で生きたい」

舌読(ブログ・「ヌルボ・イルボ 韓国文化の海へ」)
これは、その写真集の中にある言葉だった。

このシーンで気になるのは、折角、図書館に行ってハンセン病について調べている二人の思春期後期の少年少女の会話が、「今でも、癩は怖い」というフリークス(異形)の現実を拾っただけで、先のオーナーの差別的言辞を回収する描写になっていなかったという点である。

秋になった。

閑散とする「どら焼き屋」。

「どうしちゃったのかねぇ」と徳江。
「冷えてきたからですかねぇ」と千太郎。
「冷えてきたら、食べたくなるけど…」

徳江は、そう言いながら、店頭に招き猫を置く。

「徳江さん、今日はもう、この辺で」

商売にならない現実を目の当たりにし、オーナーの指示通りに、解雇の話をできない千太郎の言葉の意味を察知し、徳江は挨拶をして店を去る。

遣り切れない気持ちで、徳江の後姿を見送る千太郎。

「店長さん、その後の『どら春』はどうでしょう。ひょっとしたら店長さん、元気なくされているのではないですか。あんを焚(た)いているときの私は、いつも小豆の言葉に耳を澄ましていました。それは、小豆が見てきた雨の日や、晴れの日を想像することです。どんな風に吹かれて、小豆がここまでやって来たのか。旅の話を聞いてあげるんです。この世にあるものは、すべて言葉を持っていると、私は信じています。日差しや風に対してでさえ、耳を澄ますことができるのではないかと思うのです。そのせいでしょうか。夕べは、柊の垣根を越えてやってくる風が、店長さんに声をかけた方がいいって、言っているように感じられたのです。こちらに非はないつもりで生きていても、世間の無理解に押し潰されてしまうことがあります。知恵を働かさなければいけないときもあります。そうしたことも、伝えるべきでした。店長さんはいずれ、店長さんらしいアイディアで、ご自分のどら焼きを完成させる人だと思います。どうぞ、ご自分の道を歩まれて下さい。店長さんには、それがきっとできます」

店長に宛てた徳江の手紙の全文である。

「社会派系」の映画が、この作り手特有のコアメッセージである「自然派系」の物語に変容し、収斂されていく決定的な一文である。

その後、ワカナが家出し、「どら焼き屋」にやって来て、飼えなくなったカナリアを預けに来たが、千太郎に断られる。

「今度のことで言うなら、世間よりもっとひどいのは俺だ。守れなかったんだ、俺は」

千太郎の言葉に、ワカナが反応する。

「店長さん、会いに行きませんか?徳江さんが暮らしている場所に」

千太郎とワカナ
能動的なワカナの誘いに、千太郎は徳江が終の棲家(ついのすみか)にしている、「国立療養所多磨全生園」(ぜんしょうえん/東京都東村山市)を訪ねていく。

二人を歓待する徳江が、全生園に強制隔離されていく経緯を語っていく。

一部始終、語り終えた後、皮膚疾患を持つ佳子(よしこ)が、三人の中に入って来て、話が弾み、徳江が作った善哉(ぜんざい)と、塩昆布を食べる千太郎とワカナ。

佳子(右)
「店長さん、お世話になりました。楽しかったです」

この徳江の言葉に、思わず、嗚咽する千太郎。

千太郎の内部を占有している贖罪感に、スイッチが入ってしまったのである。

以下、帰宅した千太郎が、徳江に送った手紙の全文。

「実は俺は、徳江さんとは別の理由で、社会に出られない時期を過ごしました。どら春に来る3年前のことです。働いていた酒場で、喧嘩の仲裁から暴力を振るう側に回り、一人の人間に重い障害を背負わせてしまいました。服役中、母は何度も面会に来てくれました。しかし、俺がそこから出る前に逝ってしまいました。母の言葉を聞いてあげられなかった。誰の言葉も聞いてあげられる自分ではありません」

そして今、ワカナと協力して、徳江に聞いてヒントを得た、塩どら焼作りに精を出す千太郎。

しかし、この試みも呆気なく頓挫する。

「将来の社長」となる若い甥を連れたオーナーがやって来て、一方的に店を改装し、甥が仕切るお好み焼き屋をメインにして、「どら焼き屋」を併設することを告げるのだ。

悄然(しょうぜん)とする千太郎は仕事への情熱を失い、酒に溺れ、再び、全生園に足が向かっていた。

ワカナもまた、千太郎を探して全生園にやって来た。

そこで、衝撃を受ける二人。

三日前に、徳江が逝去した事実を佳子から知らされたのである。

死因は肺炎だった。

以下、徳江が千太郎とワカナに残したテープの内実。

ワカナから預かったカナリアを解き放してしまったこと。

それは、「ここから出してよ」と鳴くカナリアの声に気づいた、徳江の確信的な行為だった。

この行為の含意は分るが、しかし、飼い鳥として品種改良されたカナリアが、猫やカラスの餌になる事実を知っているのだろうか。

「全身自然派系」の徳江の行為は、同じ「自然」の仲間であるはずのカナリアに、猫やカラスの襲撃に負けず、自ら餌を獲れと言っているのである。

「カナリアイエロー」の飼養種
徳江の独りよがりの暴走だったと、この作り手は考えなかったのだろうか。

それにしても、「籠の中の鳥」を放つことが「解放」をイメージするベタな描写は、もう、いい加減に止めたらどうか。

閑話休題。

テープの中で、徳江は子供を授かったのに、産むことができなかった事実を告白する。

映像提示がないので敢えて書くが、これは、国家によって「断種」(優生思想による不妊手術)を強制されたハンセン病者の宿命だった。

更に、「どら焼き屋」で働くことを決めた理由が、「店長の哀しそうな顔」を見たこと。

「だから、私は吸い寄せられるように店の前に立っていたのだと思います。もしも、あのときの子供がいたら、店長さん、あなたぐらいの年齢になっているだろうって」(テープの徳江の声)

嗚咽を抑えられない千太郎。

子を産めなかった女と、母を喪った男との「疑似母子」の関係密度の出し入れこそ、この映画の基本骨格だったということだ。

その直後、徳江の墓の代わりに植えられた、ソメイヨシノの前に佇む3人。

「ねぇ、店長さん。私たちは、この世を見るために、聞くために生まれてきた。だとすれば、何かになれなくても、私たちは、私たちには生きる意味があるのよ」

これが、「全身自然派系」に決定的にシフトしていく物語の基幹メッセージである。

ラストシーン。

沢山の親子が集う桜の広場。

そこで、生気に満ちた声を上げ、徳江の道具と技術を受け継ぎ、どら焼きを売る千太郎。

その声は、徳江が「どら焼き屋」で働くモチーフであった、「哀しそうな顔」とは明らかに切れていた。





2  「全身自然派系」にシフトしていく物語が失ったもの





本来、スピンオフ的に埋め込んだ感がある、テーマの際限のない重さから言えば、明確に「社会派系」の映画の範疇に含まれるにも拘らず、残念ながら、「あん」もまた、物語を根柢的に動かす中枢テーマとの真っ向勝負を避けてしまった。

だから、ハンセン病を出汁(だし)にした映画と決めつけるのは酷だが、ただ、依然として、私たちの社会の中で、歴史的に無知と差別意識・行為とによって排除されてきた人々にスポットを当てる場合、製作者サイドには、限りなく誤解を避けるような正確な情報提示が求められるのは義務ですらあるだろう。

映画作家の矜持(きょうじ)として、「説明セリフ」になることを回避したいのなら、ラストの字幕で情報提示すべきだった。

観る者との情報共有が不可能なケースに限って提示される「説明描写」は、「説明セリフ」にならないのである。

その意味で、この作品は旧態依然とした「同情視線」(その本質は「上から目線」)という、感傷的ヒューマニズムの枠組みを全く超えていないのだ。

だから、行きつくところは、相変わらず、耳を澄ませば、小豆や木々日差しや風、そして、月の声まで聴くという、徳江の「超克の人生」にシンボライズされた、「自然派系」という限定的な上澄みのうちに収斂された人間ドラマとなったのである。

総体的には決して悪くないが、厳しい物言いをすれば、この映画の最大の瑕疵は二点あると、私は考えている。

一点目は、前述したように、「どら焼き屋」のオーナーの前近代的で、差別的な言辞の伏線描写を回収しなかったこと。

これは看過できなかった。

回収していないから、ハンセン病特有の外観的疾患(皮膚疾患と末梢神経障害)ばかりが強調され、「今でも、癩は怖い」というイメージを、ハンセン病の歴史・原因・感染力が弱く(95%以上の人が、らい菌に対する免疫を持っている)、遺伝病でない疾病の現実の様態・治療可能性、等々、疾病の正確な実態について疎(うと)い観客に、インプリンティング(刷り込み)してしまう危惧を覚えるのである。

この点については後述するが、ハンセン病差別のような極めて複雑で、難しい題材を映画化するには、相当の覚悟なしに、映像構築の成功はないと知るべきである。

二点目は、76歳のヒロインの徳江を、「超克の人生」に昇華した「聖女」にしてしまったこと。

従って、物語の本線となるラインで固めた映画が提示したのは、「ハンセン病者」=「善」⇔「ハンセン病に偏見を持つ者」=「悪」という、商業映画の定番と化した、「誤った二分法」による「白黒思考」のトラップに嵌ってしまったのである。

具体的に言うと、「超克の人生」に昇華した「ハンセン病者」・徳江の「善」と、不埒(ふらち)な甥の人物造形を含む、「ハンセン病に偏見を持つ者」・オーナーの「悪」という、極端な「白黒思考」の物語が存分に弾けてしまうのだ。

これは、人間が抱える複雑な事象を単純化する厄介な発想であることを、私たちは認知しなければならない。

創造のフィールドで仕事をする者に言うべき言葉ではないが、作り手のクリティカルシンキングの脆弱性を指摘せざるを得ないのである。

例えば、その性格の尖鋭さ故に、全生園の医師らに、「人間性ゼロ」とまで酷評された北条民雄のような異端児も、ハンセン病疾患者の中に存在していた事実を無視してはならない。

当時、深刻な伝染病とされたハンセン病の特効薬が存在しなかった状況下にあって、盲目への恐怖による眼科への通院の常態化など、治療全般に及んで様々なクレームをつける北條の個人主義の目立った尖りは、医療サイドから見れば、我が儘な患者と看做(みな)されても不思議ではなかっただろう。

「ハンセン病者」=「善」という人間観察の極端なヒューリスティック処理は、その対極に、「ハンセン病に偏見を持つ者」=「悪」の設定によって成立するので、後者の度合いが強ければ強いほど、前者の印象は強度を増すという相対的な関係構造になっている。

だから、後者の度合を強める人物造形に振れていくのは必至となる。

この関係構造が、通俗的な商業映画の定番と化すトラップに嵌ってしまったら、確実にヒューマンドラマの質を落とすだろう。

お涙頂戴のテレビドラマになってしまうからだ。

先の北条民雄のケースもあれば、単に、無知であるが故に、「ハンセン病に偏見を持つ者」が多く存在すること。

時として、無知は罪になる。

だから、無知からの脱皮が求められる。

無知は解き放たれねばならないのだ。

「らい予防法」を放置し続けた我が国に、全責任がある。

そのために、ハンセン病の患者さんが、自ら立ち上がった。

全寮協(ハンセン病療養所入所者協議会)である。

現在、全国13カ所の療養所に、約1700人が入所している。

今や、平均年齢83.9歳という、高齢の患者さんが生活しているのである。

全寮協は「療養所を医療機関として維持し、将来構想を促進する。

「入所者の人権を守る仕組みを確立したい」

2014年に、全寮協の会長に就任した森和男氏の言葉である。

ここで私は、映画の中で言い切った、徳江の言葉を想起する。

「こちらに非はないつもりで生きていても、世間の無理解に押し潰されてしまうことがあります。知恵を働かさなければいけないときもあります。そうしたことも、伝えるべきでした」

物語総体を通して重要なこの言葉が、コアメッセージとして観る者に受容し切れなかったのは、後半以降、「全身自然派系」の物語に変容し、加速的に収斂されていったからである。

「社会派系」の中枢テーマと真っ向勝負し、徳江を「聖女」にしかったドリアン助川の原作と完全に切れ、「私たち自身の命を愛でてあげるような作品にしたいと思いました」(河瀬直美監督インタビュー)というコアメッセージが、映像総体を貫流していたからだ。

渡部尚東村山市長(左)
「病気についての誤解と差別が長く続いたハンセン病が物語の鍵にはなっているが、ハン セン病を知ってもらうための映画ではなく、『生きる意味を問う映画。魂の再生が描かれ ている』(渡部尚(たかし)東村山市長)」(PDF文書・「ハンセン病の現在」より 田原範子)

映画「あん」が、この渡部尚(たかし)東村山市長の言葉に集約される映画であることが容易に理解でき、それが悪いと言うわけではないが、以上の文脈において、私には不満が残ったのは事実。

なぜなら、包括的な人間観察力なしに、クオリティの高いヒューマンドラマの構築は殆ど困難であると思うからである。

オーナーの存在との「対比効果」として仮構された「聖女」=徳江にとって、生きる意味とは「何かになる」ことではなく、この世を見ることや聞くことにあった。

これは、河瀬直美の直截(ちょくさい)なメッセージである。

言いたいことは分る。

しかし、違和感を覚える。

例の、徳江からの遺言となる手紙とテープ。

「全身自然派系」が完璧に抑制力を欠き、暴れ捲(まく)ってしまっていた。

くどすぎるのだ。

この作り手特有のコアメッセージに、物語の総体を収斂させ、自分の価値観のレベルに観る者の関心を引き寄せ、自己完結させてしまう印象を拭えなかったのは事実である。

ドリアン助川(左)河瀬直美監督(右)
抑制力を欠き、「全身自然派系」にシフトしていく物語が失ったもの ―― それは、「社会派系」の要素を希釈させ、その中枢を削ったことによる、ハンセン病の現実の様態の正確な情報提示である。

返す返すも、ハンセン病差別の一端を出し入れしただけで、その深くて重い、明度を失った闇との真っ向勝負を回避した映画の浅薄さに、またしても、「日本映画病」の痼疾(こしつ)を見せつけられただけだった。

駄作ではなかっただけに、惜しまれてならない。





3  ハンセン病差別の暗くて深い闇 ―― その風景の途方もない凄惨さ





―― 以下、ハンセン病差別の途方もない凄惨さについて、総括的に言及していきたい。


「私は義憤を感じた。この恥ずべき病者を多くもっていることは文明国の恥である。さらにそれを街頭にさらして何の方法もとらないことは、何という情けないことであろう。即ちライは、最愛の家族に感染させてその生命をほろぼすとともに、その部落を汚し,村を汚し、地方全体にそのわずらいを及ぼすのである。互にその害を避けるためには早く療養所に入って治療を受け、菌を外部に散らさないようにすることである。それが最上の道なのだ。家を潔め、村を浄め、県を清めて国からライをなくしてしまう。そのためには、『一人のライも健康者の中に交じっていてはならないのである』」(ブログ・「心の壁を越えるために」より)

光田健輔(1956年)
これは、生涯をハンセン病の撲滅に挺身(ていしん)し、「救癩(きゅうらい)の父」と崇められていた光田健輔(みつだけんすけ)の自伝・「回春病室」からの一節である。

内務省(現在で言えば、総務省・警察庁・国土交通省・厚生労働省を統括した一大官庁)衛生局が、「癩の根絶策」を発表したのが1930年。

「癩予防法」を制定したのが1931年。

厚生省(現在の厚生労働省)が、「患者収容の完全を期せんがためには、いわゆる無癩運動の徹底を必要なりと認む」という指示を、各都道府県に出したのが1940年。

その結果、各地方自治体は「無癩県運動」を展開し、全国津々浦々で、「患者狩り」を行い、ハンセン病療養所に押し込み、隔離政策によるハンセン病絶滅政策が断行されるに至る。

かくて、全国に国立療養所が配置され、全ての患者を強制的に入所させる体制が作られていく。

この運動によって、警察や保健行政機関をはじめ、学校現場、地域住民がハンセン病患者の発見、通報、収容促進の役目を担い、その過程で、「癩は恐ろしい伝染病」という、誤った認識が社会に植えつけられていくのだ。

当然の如く、ハンセン病に対する偏見・差別や忌避感が定着し、患者は療養所以外に居場所を失い、その家族までもが地域から排除され、言語に絶する差別を被弾していったのである。

「ハンセン病と人権」より
従って、冒頭の「回春病室」が「無癩県運動」を主導する重要な記述であるのは否定し難いだろう。

(付言すれば、1915年に、光田健輔が内務省に提出した「癩予防ニ関スル意見」によると、「絶海ノ孤島」に隔離を主張していた事実が分っていて、そこで、彼が書いた一文には、「絶海ノ孤島ニ送リテ逃走ノ念ヲ絶ツニ如クハナシ」とあった)

この流れの中で、「小島の春現象」が沸き起こる。

「国立療養所長島愛生園(あいせいえん)」(岡山県)のクリスチャンのハンセン病医であり、ベストセラー手記である「小島の春」の作者・小川正子の登場と、その映画化(製作準備は極秘裏に進められた)によって、軍国日本の「銃後のモデル」としての、正子の偶像化が生まれ、絶賛の嵐に包まれた(1940年度キネ旬1位)。

小川正子
結果的に、光田健輔の影響の下、癩患者の優生手術(断種/1940年の「国民優生法」によって定着)を正当化し、「無癩県運動」を活性化させたというプロパガンダ批判があるが、「救癩の情熱は冷めやらない、典型的な人間主義的理想像を生きた人」(『小島の春』断章/文化人類学者・池田光穂)という評価もある。

「ハンセン病対策が、民間による慈善事業から国家による統治手段として位置づけられるようになった時、女性の領域と位置づけられてきた慈愛の精神と実践もまた、国家制度に組み込まれてゆくこと」(前掲ブログ)になり、彼女の仕事が中国・四国地方の村々を定期的に巡回検診することで、より多くの病者を発見する任務を負っていくのは、時代の宿命であったと言える。

1941年時点で、生々しい批評を寄せた人物として有名なのは、伊丹万作(伊丹十三の父で、「日本のルネ・クレール」と呼ばれた知性派監督)その人である。

「いったい癩はどこにあるのだ。決してそれは瀬戸内海の美しい小さい島にあるのではない。それは疑いもなく諸君の隣りにあるのだ。遠い国のできごとを見るようなつもりで映画を見て泣いてなんぞいられるわけのものではないのだ。(略)現在のところ我々が癩問題に対する唯一の正しい態度は、隔離政策の徹底によって癩を社会的に解決しようとする意志に協力する立場をとる以外にはあり得ないと思う」(「映画と癩の問題 伊丹万作『映画評論』1941年5月号」)

伊丹万作
ここに書かれている世界こそ、まさに、国策としての強制隔離政策を推進した時代の風景を検証するものだった。

戦後になっても、1948年に、ハンセン病が対象にされた「優生保護法」が成立、1953年には、ハンセン病患者たちの猛反対を押し切って(「らい予防法」改正闘争)、「差別からの保護」という理由付けを含む欺瞞的な「らい予防法」が成立するが、この法律によって、戦前からの隔離政策を継続させ、ハンセン病に対する偏見や差別はいよいよ定着し、映画「あん」のように、療養所の外で暮らしていた患者の「ハンセン病隠し」が常態化するのである。

この「らい予防法」が廃止されたのが、1996年という事実に驚かされる。(「自社さ連立政権」の菅直人厚生大臣が、「らい予防法」の廃止に尽力)

何より、入所者の高齢化が進み、後遺症による重い身体障害を持つ患者もいて、療養所外で暮らすことの難しさがある。

そして、最も由々しき問題は、ハンセン病特効薬であるプロミンの開発(1943年にアメリカで合成された新薬だが、戦時下のため、日本では1947年に治験)後も、プロミンの静脈注射がハンセン病治療に有効であることが確認されながら、戦前からの患者隔離政策を継続させたという歴然とした事実である。

また、補償面で書けば、熊本地裁判決を受け、ハンセン病隔離政策と「らい予防法」が憲法違反であると認めて、当時の小泉純一郎元首相が控訴断念を決定し、2001年に、「ハンセン病補償法」が議員立法として成立・施行される。

更に、2009年には、「国は、国立ハンセン病療養所において、入所者に対して必要な療養を行うものとし、入所者の意思に反して退所させてはならないものとすること」という内容を骨子として、隔離政策による被害の回復を基本理念とする、「ハンセン病問題基本法」が成立・施行(議員立法)されたが、これは、ハンセン病差別の問題が現代社会の継続的課題であることを端的に示すものだ。

アイレディース宮殿黒川温泉ホテル
現に、2003年11月に、熊本県にある「アイレディース宮殿黒川温泉ホテル」で起こった、「ハンセン病元患者宿泊拒否事件」は、各メディアも積極的に取り上げたので知る人も多いだろう。

他にも、「多磨全生園医療過誤訴訟」では、療養所において、非常に杜撰(ずさん)な医療行為が行われていたことを明らかにしたことで注目。(「ハンセン病ニュース」より)

ついでに書けば、中国五輪委員会が、ハンセン病患者の入国規制を発表した出来事は、あまり知られていないが、看過できない事態と言えるだろう。(中国では、全土で約800のハンセン病隔離施設が作られ、1998年までの統計で、約50万人の患者データが残っている)

時代を戻す。

最も有名な差別事件は、1951年、「無癩県運動」の只中で起こった藤本事件(F事件)。

国立療養所菊池恵楓園
熊本県合志市(こうしし)にある「国立療養所菊池恵楓園(きくちけいふうえん)」への入所を拒んだ、藤本松夫が起こしたとされる爆破事件、及び、殺人事件である。

以下、ハンセン病への取り組みに熱心な「毎日新聞」(2007年1月23日)の社説の一部を掲載する。

「多くの関係者が猛省を迫られたハンセン病問題も、裁判所は無縁ではない。1951年に熊本県で起きた『藤本事件』と呼ぶ、ハンセン病元患者が死刑に処せられた爆破・殺人事件の裁判も尋常ではなかった。感染の恐れはないとされたのに、裁判官はハンセン病療養所内に特別法廷を設置し、白い予防服にゴム手袋姿で、証拠書類をピンセットでつまみながら訴訟を指揮した。当然、審理は不十分だったと批判されており、冤罪(えんざい)の可能性が指摘されている。厚生労働省が設置した『ハンセン病検証会議』の報告書でも『憲法が要求する裁判ではなかった』と指弾されている。ハンセン病の強制隔離政策については熊本地裁が違憲とする判決を下した後、政府をはじめ関係各界が検証作業を進め、反省の意を表したが、潮流を変えた司法府自体は過去に向き合おうとしていない。同様に、戦中戦後の人権侵害についても口をつぐんだままだ」

そして、絶対に見過ごしにできないのが、草津町での「重監房」の問題である。

「重監房」とは、群馬県草津町にある、厚生省所管の「国立療養所栗生楽泉園(くりうらくせんえん)」の敷地内に、1938年から1947年にかけて存在していた、ハンセン病患者を対象とした懲罰用の建物で、正式名称を「特別病室」と言う。  

重監房
しかし、「病室」とは名ばかりで、実際には患者への治療は行われず、「患者を重罰に処すための監房」として使用されていたのである。

「日本のアウシュヴィッツ」と呼ぶ人もいる。

ウィキによると、「特別病室」とは患者の監禁所で、懲戒検束規定があったが、恣意的に使われ、零下16-7度(20度と想像した記載もある)の寒冷のため死者が出たと言われる。

房に転がる敷布団と掛け布団
「重監房は8室あり、各々独立し、4畳半に足りず、板張りで用便のための穴がある。はめごろしの窓があり、昼も暗かった。めし箱が入る出し入れ口があり、外気が入り込んだ。暖房器具もろくな防寒具もなく、長期間収監した。規律の維持、懲罰の実施は、看護長が行った」(ウィキ)。

因みに、ここで言う「はめ殺し」とは、壁などに直接はめ込まれた、開閉することができない窓のこと。

「偏見や差別を助長し、違法だった」

これは、「特別法廷」の問題で、最高裁が謝罪した言辞である。

平成27年5月1日現在、前述したように、国立ハンセン病療養所は13施設あり、総入所者数は1718人、平均年齢は83.9歳である。

この間、2003年7月より行われた厚生労働省による、「ハンセン病問題に関する事実検証事業被害実態調査」(「被害実態調査」と呼ばれる)の実施があった。 

「ハンセン病問題に関する被害については、その解明に資すると思われる膨大な量の聞き 書き、自伝、文学作品等がこれまでにも存在する。とはいえ、本調査のように、被害に関 する多面的かつ総合的な実態調査を行った例は必ずしも多くはない。本調査は、全国13カ所の国立療養所および2カ所の私立療養所、さらに退所者、家族等を対象とし、かつて見ない範囲と規模によって被害実態の把握を試みたものである。この点は先行調査でなしえなかったところであり、もちろん国賠訴訟の判決対象となった原告層と比較してもはるかに広い。ハンセン病元患者を対象としたこのような範囲と規模を有する調査は、国際的にも例を見ない」(PDF 厚生労働省)

ハンセン病差別の暗くて深い闇 ―― その風景の途方もない凄惨さ。

重監房・食料が配給される穴
今まさに、裁判官の人権感覚が問われているのだ。





4  〈死〉や盲目になる恐怖に怯えるハンセン病患者の真実の呻き





前述した「小島の春」という映画は、「一日経てば忘れる映画」の典型的な一篇であった。

「小島の春」より
なぜなら、この種の作品による感動譚の多くが、「シーン」という映画の「点」だけで勝負する欠陥を晒しているからである。

それを観た者の「エピソード記憶」には、「シーン」という映画の「点」だけが残り、結局、「時間限定」の束の間のカタルシスで浄化されてしまうような安直な自己完結を、時間に繋げない閉鎖系の内に処理されてしまうのである。

「シーン」という映画の「点」のみの「感動」の押し売りに依拠した作品には、一定の完成度を持つ映像的な構築性が見られないからだ。

詰まる所、「社会派」の主題提起力をも希釈化させた、数多のお涙頂戴の「ヒューマン映画」の範疇から全く逸脱できていないのである。

それでも、豊田四郎監督(「小島の春」)の果たした仕事を全否定することなどできようがない。

豊田四郎監督
然るに、ハンセン病差別の問題が現代社会の継続的課題である事実を考えるとき、患者の内側サイドの疾病のシビアな現実と、それに怯(おび)える不安、葛藤、恐怖、生と死の振れ具合という視座で精緻に描き切ることが可能であり、それを具現すべきであると考えるのである。

単に、他者の苦難に対する一定の「共感的感情」(「ミラーニューロン」という共感細胞の働き)を刺激し、「同情」のレベルでは済まない包括的感情が内側から生まれたとき、そこに、病気それ自身の破壊的攻撃力に震撼し、交通事故に遭っていない者が、まるで「スケアードストレート」(恐怖を実感することで、危険行為を未然に防ぐ教育手法)にも似た心理的効果を惹起することが可能となるだろう。

そのときこそ、お涙頂戴の感傷的ヒューマニズムとは距離を置く、理知的で、真に人間学的な了解点が生まれるだろう。

繰り返すが、そのような作品を創り抜ける相当の覚悟なしに、映像構築の成功はない。

そう思うのだ。

例えば、野村芳太郎監督の「砂の器」(1974年製作)では、ハンセン病をサスペンスに利用することで、物語としての「人間ドラマ」の奥行きを表現する技巧のツールの内に、「ヒューマニズム」の衣裳を被せただけの作品として処理されてしまった。

ついでに書けば、ハンセン氏病差別を助長するという理由で、「全療協」(全国ハンセン病療養所入所者協議会)が製作中止を要請したことで、「ハンセン氏病は、医学の進歩により特効薬もあり、現在では完全に回復し、社会復帰が続いている」というキャプションを付加したが、逆に言えば、「全療協」の抗議がなかったら上映したということである。


更に、「死の谷」に隔離された家族の不幸を主人公のエピソードの一つに包摂した、ウィリアム・ワイラー監督の「ベン・ハー」(1959年製作)もまた同じ。

「砂の器」より
ハンセン病を出汁にするな。

そう言いたいのだ。

また、ハンセン病を出汁にしていない映画の代表作に、熊井啓監督による「愛する」(1997年製作)という、意外に知られていない作品がある。

しかし、この作品は、ハンセン病と誤診された「純粋無垢」の女性を主人公にして、北アルプス山麓のハンセン病療養所での罹患者体験を描いた、直球勝負に最近接した作品に仕上がっていたが、ここでもまた、熊井啓監督の宿痾(しゅくあ)の如き、「純粋無垢」の主人公の不安な自我を癒す、「善なるハンセン病者」vs「悪徳性に充ちたハンセン病専門医」という構図が無前提に仮構されていて、且つ、「純粋無垢」の主人公の交通事故死という、「殉教」の定型の内に収斂させることで、結局、殆ど「純愛ドラマ」の感傷的濃度を深めた凡作に終始してしまったと言える。

以上の例を見ても判然とするように、ハンセン病についての映画化のハードルの高さが窺えるだろう。

とりわけ、我が国には、「清潔の美学」という薄気味悪い文化が横臥(おうが)していると思えるので、余計、厄介な印象を拭えないのだ。

「清潔の美学」の本質は、「異物への拒否感」である。

それは、フリークス(異形)への生理的拒否反応が強いということである。

外観的に全く見分けが付かず、江戸時代の穢多(えた・「穢れ」観念が根柢にある)や非人など賎民身分がルーツとされる「特殊部落民」と異なって、末梢神経系が冒され、皮膚症状、脱毛、顔面変形の症状を現出しやすいハンセン病患者の存在は、自宅牢に閉じこもる女性を描いた「小島の春」のように、丸ごと、「清潔の美学」から弾かれたフリークスそのものだったと言えるだろう。

プロミン
プロミンの画期的な発見がなかったら、恐らく、「人権」を主唱しつつも、「乞食谷戸」(こじきやと・貧民街のことだが、ハンセン病患者も多く見られた)に象徴される、見えない世俗の闇の奥で、劣悪な環境下に置かれる事態が予測されるのである。

これが現実であるということを認知すべきなのだ。

主題だけが暴走することなく、精緻なシナリオと、細心な配慮による演出によって、完成度の高い映像構築を具現することの困難さ ―― だからこそ、相当の覚悟が求められるのである。

そして、ハンセン病患者の内側からの視座によって、そのリアルな現実の凄惨さを炙(あぶ)り出していくような映像の立ち上げこそ望まれるであろう。

私は、いつも思う。

なぜ、北條民雄を描こうとしないのだろうか。

北條民雄
23歳で夭折(ようせつ)した、短い人生に凝縮される彼の青春には、〈死〉や盲目になる恐怖に怯(おび)えるハンセン病患者の真実の呻(うめ)きが詰まっている。

北條民雄の映画化に、真っ向勝負で挑む果敢な映画作家は、もう、この国では皆無なのか。

残念でならない。

「発病以来三ヶ年の間、一日として死を考えなかったことがあるか、絶え間なく考え、考えるたびにお前は生への愛情だけを見て来たのではなかったか、そして生命そのものの絶対のありがたさを、お前は知ったのではなかったか、お前は知っているはずだ、死ねば生きてはいないということを!このことを心底から理解しているはずだ。死ねばもはや人間ではないのだ、この意味がお前には判らんのか。人間とは、すなわち生きているということなのだ、お前は人間に対して愛情を感じているではないか。自分自身が人間であるということ、このことをお前は何よりも尊敬し、愛し、喜びとすることができるではないか。―― 夜になって、床にはいるたびに私はこういうことを自問自答するのであった」(「青空文庫」より)

以上の一文は、北條民雄の「眼帯記」の一節である。

やがて盲目に至る恐怖を抱えながら、療養生活の限定された時間の中で、必死に読書する作者の心理をテーマにした一篇であるが、「自分自身が人間であるということ」を認知するが故に、〈生〉を弄(まさぐ)る青年の心情が伝わってきて、読む者の胸を痛烈に打つ。

「牢獄を背負つて歩いてゐるやうなものです。かつて親しかつた人も、病院にゐた頃に同情を示してくれた人もみな敵です。敵は自分の体内にゐるといつた兄のお言葉も正しいが、しかしまた体外にもゐるのです。内も外も、みな敵ばかりです。癩者はボロ靴のやうに療養所といふごみ箱に捨てるのが人類の正しい発展となるのでせう。自分がボロ靴であることを意識しました」(「青空文庫」より)

これも、北條民雄の「外に出た友」の一節。

「外に出た友」(退院したY)が、私(北條民雄)に送ってきた手紙の一文であるが、「癩者はボロ靴」と覚悟せねばならない、娑婆におけるその壮絶な差別の現実に震撼させられる。

「眼帯記」にあるように、いつの日か訪れるだろう盲目の恐怖の中で、「充血した眼は、読み終るとジンジンと痛んだ」と書いているのだ。

明石海人
この北條民雄と同様に、「深海に生きる魚族のように、自らが燃えなければ何処にも光はない」という壮絶な言葉を残した、沼津出身のハンセン病の慟哭の歌人・明石海人(あかしかいじん)の激烈で、命懸けの〈生〉を貫いた世界の本質に迫ることのない、ファジーなフェイク映像を突き抜けた作品を、堂々と世に問うべきなのである。

つくづく、そう思う。





5  ハンセン病は感染力が弱く、遺伝病でないばかりか、治療薬も格段に向上しているのだ





本稿の最後に、ハンセン病への偏見を解く病気の真実に言及したい。

ノルウェーの医師・アルマウェル・ハンセンによってらい菌が発見されて以来、世界で年間約22万人の新規患者がいると言われるハンセン病は、筋萎縮、感覚障害、温痛覚麻痺・運動麻痺などによって極端な症状を起こす「末梢神経障害」と、「皮膚疾患」(痒み・ふしができる結節・皮膚に色をもたらす斑状・皮膚が隆起する丘疹=きゅうしん)を主症状とする感染症であるが、内臓が侵されることは極めて稀であり、ハンセン病が原因で死に至ることは殆どない。

結節
且つ、菌に毒力はなく、感染力が弱いばかりか、発病に繋がる感染源は、菌を多く持つ「未治療患者」からの、ヒト対ヒトの飛沫感染と言われている事実を、私たちは知らねばならない。

更に、感染成立に重要なのは乳幼児期で、その時期の濃厚で、頻回(ひんかい/回数が多いこと)な感染を受けた者以外では、殆ど発病に繋がらず、大半は、発病せずに一生を終える事実も分っている。

遺伝病ではないのだ。

治療薬も格段に向上している。

「多剤併用療法」(MDT)
1980年代には、ハンセン病治療薬として有効なダプソンに、リファンピシンとクロファジミンという2種類の薬を組み合わせる「多剤併用療法」(MDT)が開発され、1981年には、このMDTをハンセン病の最善の治療法として、WHO(世界保健機関)は勧告しているのである。

―― 最低限、以上の事実を知ることなしに、「同情視線」で「可哀想な人たち」などと、安直に口外しないことである。

「同情視線」で口外する人は、誰よりも心優しく、「いい人」なのだろう。

しかし、「いい人」という視線をたっぷり浴びても、多くの場合、「自己満」の狭隘な世界で自己完結してしまうだけである。

「いい人ばかり何百人いたって、どうしようもないことが、世の中には多いのね」

これは、西河克己監督の「伊豆の踊子」の中で、旅芸人の一座の女性が語ったセリフの一節である。

この言葉は最高に良い。

人間社会の真実を衝いているからだ。

これこそが、私たちがシビアに受け止めるべき人間社会のリアリズムの本質であり、怖さであるとも言えるのだ。

奇麗事だけでは世の中は渡れない。

感傷的ヒューマニズムの視線をどれほど投げ入れても、何も解決しないのだ。

まず、知ることである。

正確に知ることである。

無知から解放されることである。

そこからしか、何も始まらないし、一歩も前に動き出せないだろう。

【参考資料】心の風景  「北条民雄、東條耿一、そして川端康成 ―― 深海で交叉するそれぞれの〈生〉」  (人生論的映画評論 「小島の春」より)

【ここまで読んで頂いて、心から感謝します】 

(2017年3月)







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