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2014年12月1日月曜日

黄昏(‘81)    マーク・ライデル


<残酷なる「老化」をいかに生きるか ―― 「統合」と「絶望」との葛藤を昇華するもの>



1  「お前は老年で、わしは化石だ」



西の地平線に赤く染まる空の黄昏の輝きが、観る者の視神経に残像を張り付けて、まるで深い睡りに誘われていく者の呼吸音の律動で、静かに消えていく。

一幅の絵画のような湖の素晴らしい光景が、全篇にわたって鮮やかに映えていた。

しかし、その黄昏の輝きが、呼吸音の律動が日々に衰弱していく者の、未だ燃え尽きることがない老境の残り火を、情景的にシンボライズした形象であることを知るとき、映像の美しさの眩い輝きは、時として酷薄ですらあるだろう。

ヘンリー・フォンダとキャサリン・ヘプバーンが初共演を果たし、世間の耳目を集めた映画「黄昏」は、夫婦愛と親子の和解という表層的テーマのうちに、死の意識から免れ得ない老境の日々の酷薄な内的風景を隠し込み、年を経て「感性価値」(感動・共感する価値)が分り得る作品に仕上がっていた。

―― 以下、物語を追っていく。

ニューイングランドのゴールデン・ポンドの湖畔の別荘に、引退してまもない大学教授・ノーマン・セイヤー(以下、ノーマン)と妻エセルが、今年も避暑のためにやって来た。

「小鳥はさえずり、木々は芽吹いている。穴蔵の傍に花も咲いていたわ。名前は忘れたけど、小さな黄色い花」

老年期になっても矍鑠(かくしゃく)としているエセルの健康感覚が、手に取るように分る言葉である。

「お前は老年で、わしは化石だ」

そんな妻エセルが、中年期のカップルを森で見たという話に、ノーマンは皮肉を言うだけだった。

「あなたは、まだ70代。私だって60代よ」
「かろうじて」
「そうやって、屁理屈を続けるつもり?」
「望むなら」
「あきれた」

ノーマンエセル
こんな調子だった。

以下、そんな頑固なノーマンの心情が弾ける啖呵が拾われていた。

ボートの給油所の若者にからかわれたときのこと。

「年寄りを笑うのか?体は衰えたとは言え、お前らのような若造には、まだ負けないぞ!」

このノーマンの炸裂はエセルに中断されてしまったが、その本質は、老年期の衰弱を意識する70代の引退教授の隠し込まれた心情であると言っていい。

それは、新聞の求人欄を見て、運転手、庭仕事、そしてアイスクリームの販売など、今の自分ができる仕事を探すパフォーマンスに象徴されていた。

「バカを言わないで。一体、どうしちゃったの」

このエセルの言葉が、夫の心情を見透かしていた。

だからノーマンは、イチゴ摘みに出かけることになった。

ところが、勝手知ったるはずの、我が家の別荘を囲繞する深い森の中で迷い、途方に暮れる老人の惨めさが曝されていた。

結局、一つのイチゴも採れないで帰宅したノーマンは、「途中で食べた」などと言って誤魔化すばかり。

しかし、女房にからかわれた悔しさで、ノーマンは、自分の惨めな体験を妻に向かって炸裂する。

「旧道まで出られなかったんだ。見覚えのある木が、辺りに一本もない。恐ろしくて。だから、お前の元へ逃げ帰ったんだ。お前の顔を見れば、混乱が収まるから・・・」

夫の本心を耳にして、いつものように優しく労(いた)わるエセル。

「混乱しなくていいの。毒舌も冴えてたでしょ。あとで、お昼にイチゴを食べちゃったら、旧道まで行きましょう。何千回も行ってるのよ。道だって、きっと思い出す。あなたは私にとって、輝ける頼もしい騎士よ。馬の上で、あなたの背中にしがみつくわね。二人で、どこまでも行きましょう」

番(つが)いのアビ
このシーンは、ゴールデン・ポンドの湖を睦まじく泳ぐ番(つが)いのアビの、その形象性を濃密に伝えている。

そのアビと話すことを喜びとするエセルは、道に迷ったノーマンの話を聞いて以来、少しずつ、しかし確実に認知の障害を惹起させている夫の現実を知るに至る。

長く疎遠になっていた娘のチェルシーが、歯科医の恋人のビルと、彼の息子のビリーを随伴し、湖畔の別荘を訪ねて来たのは、ノーマンの80歳の誕生日のその日だった。



2  「心臓も記憶力も衰えてきている。友達になりたいなら早く」



相変わらず、毒舌を振り撒く父の対応に不満を託ちながらも、全てを包括的に受容する母の優しさに触れて、長閑(のどか)な湖で遊泳し、未だ衰えない若さを弾けさせることで、何とか折り合いを付けていた娘のチェルシー

真面目で誠実な恋人を持ち、思春期前期の盛りにある13歳のビリーとのひと時は、どうしても「父」と呼びにくい娘の、ノーマンへの苛立ちを希釈させていた。

「ゲームより人に勝ちたいんでしょ」

ノーマンの80歳の誕生日(左からビル、チェルシー、ノーマン、エセル、ビリー)
チェスに興じている父を横目に見ながら、チェルシーは本音を吐き出す。

気の強いチェルシーの性格は、殆どノーマンのDNAを継いでいるが故に、関係に隙を作った時の「似た者同士」の悪しき風景を露呈させてしまうのだ。

「あの人は、クソ野郎だわ。私はずっと、ノーマンの顔色を窺ってきた。離れていても、期待に応えようとしてしまう。今でもそうなの。でも、認めてもらえない」

嗚咽含みで、母に吐露したチェルシーは、子供の頃の話を蒸し返すばかりだった。

「喧嘩腰でいる時のあなたは、魅力的じゃないわよ。何年も家に寄りつかず、やっと帰って来たのに、過去の不満ばかり言って何になるの?子供の頃の苦い思い出や心残りは、誰にだってあるものなのよ。人生を無駄にしないで。人生は止まらない」

娘を抱きながら、切々と語る母の言葉は、恐らく今までもそうであったように、チェルシーにとって、そこに潜り込むことで得られる安寧の境地だった。

まもなくチェルシーは、ビルと共に欧州旅行に旅立った。

1か月間のハネムーンである。

その間、生意気盛りのビリーを、ノーマンとエセルの老夫婦に任せることになった。

「余計なお節介はいらないよ。僕、出て行くかもよ。僕は邪魔者だもん」

13歳の少年にとって、自分の世話を焼く老夫婦と共有し得る何ものもないのだ。

だから、こんな生意気な言葉を吐き出すのである。

相手が少年であったとしても、甘やかす気持など寸分も持たないノーマンは、釣りに行くことを少年に告げ、あとは本人の自由意思に任せるのである。

ボートの準備をしている老夫婦の視界に、ビリーが収められた。

子供に安直な妥協をせず、本人の自由意思に任せるという、突き離したノーマンの距離の取り方が、ビリーの心を動かしたのである。

かくて開かれた、老人と少年が共有するフィッシングの世界。

ビリーノーマン
二人が共有する釣りの楽しさが、少年の好奇心を掻き立てていく。

4.5キロもあるという、ウォルターと呼ぶ巨大な鱒を捕捉しようとしたノーマンの話に惹かれ、鱒釣りの楽しさ共有するのだ。

その夜、痩せ細ったノーマンがニジマスを釣り上げ、それを捌くビリー。

以下、日常の様々な営為を共有していても、竈(かまど)の失火のような非日常の出来事において、そこだけは、共有し得ないエピソード。

「わしがいたら、危ないということか」

何もできないノーマンの炸裂だった。

その消火に懸命に動いたビリーを怒鳴り飛ばす、ノーマンの感情が理解できないで悩む少年に、エセルは、いつものように優しく包み込む。

「彼が怒鳴った相手はね、あなたじゃないの」
「じゃ、誰なのさ」
「人生に怒鳴ったのよ」
「何、それ?」
「老いたライオンのように、ずっと吠えていたいの。ビリー。上辺を見ただけで、人は理解できないわ。ノーマンも、精一杯生きているの。ままならない人生をね。あなたと同じ」

深い意味は分らなくても、ノーマンが自分の行為に対して怒鳴った訳ではない事情くらいは理解できていた。

その直後の映像は、一人でボートを動かすと言うビリーの懇願を受容するノーマン。

ボートに乗って躍動する13歳の少年がいる。

それは、思春期前期を呼吸する少年の大いなる躍動感だった。

その思春期前期の大いなる躍動感と対比される、「流動性知能」(記銘力に象徴される新しい環境に適応する知能)の劣化が顕著な「老化」。

生の躍動である思春期と、「生理的寿命」(限界寿命)を意識する「老化」について、顕在化したシーンがある。

ウォルターを捕捉する狙いで釣ったもの ―― それはアビの死骸だった。

それを見て、突然、寡黙になったノーマンに、ビリーは恐々と尋ねた。

「死が怖い?」
「なんてことを聞く」
「どうかなと思って」
「なぜ人間は、何でも知りたがるんだ?」

それだけだった。

しかし、その直後に起こった出来事は、ビリーにとって、恐らく一生忘れられない「大事件」であった。

「地獄の入江」と呼ばれる岩礁地帯に乗り入れたボートの運転を間違えて、岩に激突し、ノーマンが暗い湖に放り出されてしまったのである。

慌てたビリーの必死の救助で、何とか岩礁に捕まったのが精一杯だった。

一方、二人の帰りが遅くて心配するエセルが救助に出て、岩礁に捕まっているノーマンらを見つけ、自ら泳いで救助するという、如何にもハリウッドらしいエピソードの挿入で、一件落着。

それでもウォルターの捕獲を諦められないノーマンとビリーは、「地獄の入江」ではなく、近場の入江でウォルターを釣り上げ、得意満面だった。

ノーマンの年来の念願が成就した瞬間である。

チェルシーがビルと共に欧州旅行から戻って来たのは、そんな時だった。

「彼はあなたを愛している。言葉で表せないだけ。私たちのためなら、火の中にも飛び込むわ。心臓も記憶力も衰えてきている。友達になりたいなら早く」

父への反発が浄化できないでいる娘のチェルシーに、存分の思いを込めて、エセルが語っていく。

「怖いの」とチェルシー。
「彼もあなたを怖れているだけよ。さあ、話しかけて」

信じ難いほど元気になったビリーを見て、安堵するチェルシー。

父と娘
ビリーを変えた父の元気な姿をも視認し、チェルシーの方から話しかけていく。

「普通の関係を築きたいと思ってる」
「普通とは?」とノーマン。
「つまり、父と娘らしい関係」
「潮時と見たか。財産なら全部、お前に残してやるぞ」
「やめて。違うのよ!いがみ合うのを止めたいだけ」
「気が合わない程度だろう」

このとき、チェルシーは涙を見せながら、「友達になって」とまで言うのだ。

「もっと来るわ」

チェルシーのこの一言には、ノーマンの心を揺さぶる力があった。

揺さぶる力が柔和な会話を生み出していく。

「後ろ宙返り」の湖への飛び込み。

少女時代にできなかった、チェルシーのこの身体活動が、家族の空気を決定的に変えていく。

父娘の抱擁で和解する予定調和のシーンが挿入され、正式に結婚したチェルシーとの別れがあって、老夫婦のひと夏の避暑が閉じていく。

「私も現実として、死を思ったの」

心臓の痛みで倒れたノーマンに寄り添うエセル
一時(いっとき)、疲労が原因で、心臓の痛みで倒れたノーマンに吐露したエセルの言葉である。

どちらかと言えば、老化(加齢=エイジング)に抗し、若さを保持することに神経を注ぐ「アンチエイジング」に振れているように思えるエセルは、座礁事故の恐怖を自ら経験することによって、老年期の苛酷なリアリズムを受容する、「プロエイジング」を体現しようと踠(もが)くノーマンの心境に近付き、その観念を共有するに至ったのである。

ラストシーン。

アビの番(つが)いが遊泳している。

睦んで遊泳するアビの番(つが)いに、自分たちの夫婦の理想形を確かめるかのように、いつまでも、ひと夏の避暑の風景に見入っているノーマンとエセル。

ハリウッド的王道をいくハッピーエンドであった。

―― 正直に書けば、静謐な風景の中に身を投じた老夫婦の、その心境が精緻に表現されていた物語前半から中盤の流れの安定感が、チェルシーのハネムーンの帰還から、父ノーマンとの和解に至る展開において、予定調和のシーンの約束事の世界に、それ以外にない手法で嵌め込んでいく物語の基調音に違和感を覚えたのは事実である。

そこに、娘に対する母の諄(くど)いほどの説明描写が加わってしまったので、如何にもハリウッド的な物語構成には、どうしても馴染めなかったのである。



3  残酷なる「老化」をいかに生きるか ―― 「統合」と「絶望」との葛藤を昇華するもの



ここでは、物語のテーマに包括される、老年期の肯定的受容の難しさという問題意識で言及していきたい。

老いは残酷である。

加齢(エイジング)に起因する不可逆的な全身機能の低下である「老化」にも拘らず、妻ジョウンによって加筆された、エリク・H・エリクソンのライフサイクルの第9段階のテーマとされる、長寿の渦中にあっても、主観的幸福感に包まれる「老年的超越の獲得」という、神秘的なステージが待機する「お伽噺」の世界を信じられる人は、既に、イメージのみで丸ごと幸福な老境を手に入れられるだろう。

それでもなお、私たちは、個体の生存期間である「生理的寿命」(限界寿命)を超克する術を持ち得ない。

否が応でも、体力、気力、知力の劣化を意識することで、老年期には、「老化」という観念に集合するネガティブな情報が纏(まと)わり付く。

老年期における「同調的性向」が「統合」であるのに対し、「非同調的性向」が「絶望」であるとされる。

即ち、老年期とは、「統合」と「絶望」という対立命題の葛藤から、「英知」という「希望」によって昇華していくに足る内的過程の風景の様態であると、エリクソンは説明する。

では、ここで言う「統合」と「絶望」との葛藤とは何か。

人生の軌跡を振り返り、自分が価値ある存在であったか否かを総括するとき、もはや、人生をやり直すことができない現実を目の当たりにして、自分にとって、老年期の受容が困難な内的風景を曝してしまえば、それが「絶望」を分娩する。

然るに、「絶望」を分娩することなく、自分の人生の心地良さも心地悪さも、肯定的に受容し得るような境地に達することが可能ならば、それが「統合」を具現する。

即ち、己が人生の総体を受容する内的営為こそ、畳み掛けるように老年期に襲いかかってくる、「統合」と「絶望」という深刻な葛藤を昇華する。

そして、その深刻な葛藤を昇華するキーワードが、「英知」という概念に収斂されると言うのだ。

では、「英知」とは、一体、何だろうか。

レイモンド・キャッテル
「英知」について考えるとき、イギリスの心理学者・レイモンド・キャッテルの言う、「結晶性知能」という重要な概念が想起される。

記銘力に象徴される新しい環境に適応する知能である「流動性知能」が、「経年劣化」していくのに対して、人生経験で得た知識や知恵、判断能力の集合体である「結晶性知能」は、「経年劣化」することがないのである。

そこに救いがある。

老年期に踏み込んでも、低下することがない「結晶性知能」のパワーこそ、「統合」と「絶望」という深刻な葛藤を昇華する「英知」という概念の本質ではないのか。

不可逆的な全身機能の低下である、「老化」という観念に集合するネガティブな情報に必要以上に呪縛されず、「絶望」への「急速強化」の下降を水際で防ぎ、自分の人生の心地良さも心地悪さも、肯定的に受容し得る「統合」を具現する。

もし、この艱難(かんなん)な作業に頓挫することなく、「結晶性知能」のパワーを心理的推進力に変換できれば、「老年的超越の獲得」という「お伽噺」に身を委ねる術(すべ)もないだろう。

―― ここで、「黄昏」の主人公である頑迷固陋(がんめいころう)なノーマンの、その老年期の様態について考えてみたい。

ノーマンの頑迷固陋の心理的風景に横臥(おうが)するもの ―― それは、「今や、自分が役立たずで、近い未来に死期が迫っていることへの恐怖感」であると言っていい。

80歳になった彼は、「老化」という観念に囚われ過ぎていたのである。

アビの死骸を視認するエピソードに象徴されるように、ノーマンを呪縛する忍び寄る死への恐怖感は、特段に問題視すべきものではないが、「流動性知能」の「経年劣化」を過剰に意識する〈状況性〉に捕縛されていた事実を想起するとき、ノーマンの場合は、大学教授という社会的地位と、その地位に見合った能力の発現の機会を奪われ、内面に穿たれた空洞を補填する作業への焦燥感が暴れてしまった。

新聞の求人欄を見て、運転手、庭仕事、アイスクリームの販売など、今の自分ができる仕事を探す彼のパフォーマンスは、誰にでも確実に発現するだろう、「流動性知能」の「経年劣化」を過剰に意識する証左である。

彼は、「老化」と闘っていこうと、不安含みで括っていたように見える。

これは、イチゴ摘みに出かけ、自然の声を体全身で受け止め、歌い、舞っていた妻エセルの身体表現と真逆の振れ方だった。

自然に溶融するエセルの身体表現と切れて、ノーマンは自然に呑み込まれてしまった。

イチゴ摘みに出かけたノーマンを呑み込む自然の脅威は、森の中で迷い、途方に暮れる老人を惨めさの極に曝すのだ。

「見覚えのある木が、辺りに一本もない。恐ろしくて。だから、お前の元へ逃げ帰ったんだ」

旧道まで出られなかったと言うノーマンを襲ったのは、明らかに「流動性知能」の顕著な劣化である。

このとき、ノーマンの内面世界を支配していたのは、「統合」と「絶望」という対立命題の葛藤が、深々と「絶望」に振れていくネガティブな心理であると言っていい。

認知能力の崩れを目の当たりにすることで、否が応でも「老化」を意識し、「絶望」に振れていくネガティブな心理に捕捉されたノーマンを、束の間、救ったのはビリーとの出会いだった。

思春期前期の大いなる躍動感が、ノーマンを刺激する。

無論、「老化」の恐怖を共有する術などない。

それでも、鱒釣りの楽しさを共有することができる。

この時間の共有は、ノーマンにとって、「流動性知能」の劣化を認知し得ても、体が覚えたフィッシングのスキルの劣化が、身体能力以外に喪失していないことの確認になるのだ。

かくて、相当程度、作為性をもって構成された物語の中で、ノーマンが、「自分が役立たずではない」というリアルな実感を復元させていく最も重要な過程を、夫婦愛の英雄的な救済譚と、諄(くど)いほどの説明描写で処理してしまったため、表面的で上っ面だけの内面描写に終始するに至った。

残念であると言う外にない。

この辺りは、39歳のイングマール・ベルイマン監督が構築し得た、「野いちご」(1957年製作)の完成度の高さと比べるべき何ものもない。

「野いちご」より
迫りくる死への恐怖に怯える老境の極みを、中枢的なテーマと脈絡しない余分な描写を確信的に削り取ったばかりか、そこに一切の奇麗事の言辞を拒む頑なな作家的精神によって、ここまで深々と描き切った映画を、私は知らない。

エリク・H・エリクソンが、「老年期 生き生きしたかかわりあい」(E.H.エリクソン他著、朝長正徳・梨枝子訳 みすず書房刊)の中で、「野いちご」を絶賛し、「博士号50年」の表彰を受けるに至った78歳主人公・イサク・ボリーの心理分析をしたことを想起する。

そこでエリクソンは、頻繁に過去の記憶と対峙するイサク・ボリーの心の振れ具合が、彼の心理学の理論のモデルになるような流れ方をしていて、老境期における人生展開の困難さを、何とか突き抜けていく希望を見出していくさまを、些か楽観的に説明して見せたのである。

「とにかくイサク・ボールイ博士は、自分でも言うように『至極元気だ』。まだ78歳だし、驚くほどの復元力がある。予後は、希望的である」

過去の記憶と対峙し、「統合」と「絶望」との葛藤を経て、現在の自分の心境を受容するイサク・ボリーには、「驚くほどの復元力があり、予後は希望的である」と言うエリクソンの分析である。

「黄昏」もまた、老境期における人生展開の困難さを描いていたが、「絶望」に振れていくネガティブな心理に捕捉されたノーマンの心理描写が脆弱だったという外にない。

夫婦愛と親子の和解という表層的テーマに収斂させていくモチーフのうちに処理されることで、「統合」と「絶望」という対立命題の葛藤が「結晶性知能」のパワーを得て、何か呆気なく昇華されていくという印象を拭えないのである。

それが、ハリウッド的王道をいく予約済みの軟着点だったのだろう。

だから、「野いちご」のように、重厚な映像が放つテーマの根源的な問題提起に、真摯な省察を対峙させる態度を立ち上げるまでもなかったということか。


【参考資料】

「老年期 生き生きしたかかわりあい」(E.H.エリクソン他著、朝長正徳・梨枝子訳 みすず書房刊)  拙稿・人生論的映画評論 野いちご

(2014年12月)


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