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2013年1月5日土曜日

アンチクライスト(‘09)      ラース・フォン・トリアー



<どのように振舞っても救われない人生彷徨の、「壮絶なる破綻」の絶望的な振れ方>



1  「救い」の欠片すら拾えない「狂気」に充ちた映像の凄み



ラース・フォン・トリアー監督 ―― またしても、途轍もない映画を作ってくれたものだ。

作り手の「狂気」が、それを演じる俳優に憑依し、それが化学反応を起こすことで、止まる所を知らない程に裸形の「狂気」が氾濫する映画になった。

相変わらず、一切の虚飾と欺瞞を剥ぎ取って、容赦なく炙り出される映像からは「救い」の欠片すら拾えないのである。

トリアー監督の「狂気」が殆どアナーキーに暴れ捲る圧倒的映像に比べたら、覚悟と胆力、そして、「狂気」の才能なしに「社会派映画」を構築したつもりの邦画界の、微温的な風景の欺瞞性など寸秒で吹き飛んでしまうだろう。

トリアー監督が構築した「狂気」に充ちた映像を受容する私は、そこに構成力への不満が残ったにしても、「救い」の欠片すら拾えない本作を高く評価する。

 ところで私は、この「狂気」に充ちた映像を観終わった後、イングマール・ベルイマン監督の「処女の泉」(1960年製作)を想起した。

以下、「アンチクライスト」で描かれた文化的背景に通底するので、「処女の泉」を批評した拙稿を部分引用したい。

「キリスト教化以前に存在した土着信仰を集約した北欧神話をベースにした本作で描かれた、件の神話の最高神であり、『戦闘神』でもあるオーディンの存在は、キリスト教にとって排除すべき異教神である。その象徴が、豪農である両親の命を受けて、教会にローソクの寄進に行くことになった一人娘のカーリンを呪詛する、父なし子で淫乱な下女のインゲリ。

本作の中で、教会への遥かな旅程の中で、インゲリをオーディン神信奉の仲間であると見抜いた男が登場する場面に見られるように、彼女は明らかに、キリスト教と対立する異教神の具現的人格として描かれている。『キリスト教V.S異教神』という映像の骨格が本作を支えていて、この形而上学的な問題提起こそが物語のプロットラインを貫流していると言っていい。 

インゲリの従順と敗北の象徴的シーンは、ラストシーンで、『泉』にシンボライズされた『聖水』を、繰り返し顔を拭う描写の内に自己完結するに至ったのだ。無辜の少年を殺害するに至ったテーレが犯した罪が、安易な贖罪によって神の赦しを得るという一連の行為それ自身を、本作は柔らかに拒絶する含意を持つ映像であったと見ることも可能である。

 ある意味で、『贖罪の拒絶』こそ、『神の沈黙』に向き合い、対峙する作品を発表し続けて来たベルイマンの真骨頂と言えるからだ。『我が子の亡骸の上に、神を称える教会を建てます』と誓った男が、神の恩寵を目の当たりにしたという幻想を信じるレベルの精神構造を持つ男の未来には、恐らく、悠久の平和など訪れないであろう」

インゲリ(左)カーリン
ここで重要なのは、オーディン神を信奉し、森を怖れるインゲリという異教徒を登場させたことである。

キリスト教以前の世界では、主神「オーディン」を中心とした限りなくヒューマンで、自然信仰・自然崇拝の濃厚な「北欧ゲルマン神話」や、「ドルイド」(ケルト人社会における祭司・魔術師)を中枢にした、「ケルト信仰」などに代表されるように多神教的な世界観(「ゲルマンの神々」や、「ローマの神々」を信奉する、ローマ帝国下での「ローマ神話」等々)がヨーロッパ全土に深く根を張っていた。

ところが、一神教であるユダヤ教から派生したキリスト教によって、自然信仰・自然崇拝の中枢スポットである「森」に依拠した多神教的な世界観が駆逐され、やがて、「森は『悪魔の教会』」(「アンチクライスト」での妻の言葉)であるという認識のうちに、そこに集う女性たちは、超自然的な「魔術」を駆使してキリスト教世界の人為的な観念系・生態系に害を及ぼす「魔女」と括られ、16世紀から17世紀に吹き荒れた魔女裁判の中で、宗教的異端者=異教徒としての彼女たちは焚刑の犠牲に処せられていく。

アダムとイヴ・デューラー画(ウィキ)
思うに、キリスト教の世界観では、神の命令に逆らって、蛇の誘惑に負けたイヴが、禁断の実をアダムと共に食べたことでイヴの原罪性が強調され、その精神的土壌が女性蔑視のメンタリティを生み出していく。

これが、キリスト教の男性優位社会の女性蔑視の精神風土と化し、「悪魔の教会」に蝟集(いしゅう)する「魔女」である女性たちを特化して、「無辜(むこ)の民」を含む多くの女性たちへの焚刑に繋がっていくのである。

但し、「魔女狩り」の犠牲者には、少なからぬ男性たちが存在したり、多くのキリスト教徒が含まれていたり等々の事実を否定できないので、「魔女狩り」の本質が、キリスト教会主導による宗教的異端者排除や、女性蔑視感情に起因する「魔女」の特定化と恣意的排除という把握には、ステレオタイプで伝聞情報を決めつける危うさが内包されている点を無視できないだろう。

だから、「コリント信徒への手紙」と題する、例の有名なパウロの書簡を鵜呑(うの)みにして、字義通りに受容することにも躊躇(ためら)いがあるが、念のため引用しておく。

執筆中のパウロ(ウィキ)
「婦人たちは、教会では黙っていなさい。婦人たちには語ることが許されていません。律法も言っているように、婦人たちは従う者でありなさい。何か知りたいことがあったら、家で自分の夫に聞きなさい。婦人にとって教会の中で発言するのは、恥ずべきことです」(14章34-36)

加えて言えば、英国で「魔女禁止令」の法律が削除されたのが1951年である事実を想起する限り、「魔女狩り」の歴史には、極めて複雑な要素が絡み合っていることだけは、どうやら否定しようがないのである。

更に、厳しい規範意識を有するプロテスタントにはない、「三位一体論+聖母マリア信仰」を加えたカトリックの「聖母マリア信仰」をも射程に入れるとき、それが近代史において正式教理となったことで、キリスト教の男性優位社会の女性蔑視の精神風土を希釈化させる戦略だったと言い切れないものがあるのは事実である。

以上、縷々(るる)言及してきたことは、どこまでも物語のラインに即したものであって、決して粗略にできないこの文脈を脳裡に刻んで、本作を読み解いていきたい。



2  「プロローグ」から「悲嘆」へ ―― 認知行動療法による「曝露療法」が開かれて



ある中年夫婦がいる。

ヘンデルのオペラ(「リナルド」第3幕の「私を泣かせてください」)の調べに乗って、行為が内包する「死」のイメージとは無縁な、美の極地の如く感受させる夫婦の睦みがモノクロの画調に溶融している。

夫婦の性愛の渦中に、ベビーベッドから起き出し、窓際にまでよじ登った一粒種のニックが、転落死してしまうのだ

愛児の「対象喪失」に懊悩する妻は、精神科の治療を受け、自らをひたすら責め続けるばかり。

専門の精神科医ではなく、単に療法士=セラピストでしかない夫の提案で、投薬を途絶させ、自らが妻へのグリーフケアを担当するセラピーを引き受け、妻の「グリーフワーク」(「対象喪失」の悲哀を受容していく心的プロセス)のサポートを具現しようとする。

そのときの夫婦の会話。

「今の状態は、典型的な悲嘆のプロセスだ。病院では治らない。悲嘆は病気ではない。自然の反応だ」
 「セラピストは、自分の家族は治療すべきじゃないそうよ」
 「僕以上に、君を知るセラピストはいない」

夫は、「対象喪失によるショック期」⇒「喪失期」⇒「閉じこもり期」を経れば、「グリーフワークのプロセス」の最後のステージとしての「再生期」にまで復元し得ると考えていたのだろう

合理主義的思考で武装した夫が採った手法は、思考パターンを修正させる効果を目途にする認知行動療法による「曝露療法」。

これは、トラウマと化した、最も辛かった記憶の只中に恐怖突入させる手法であるが故に、その高いハードルを飛び越えられず、却って恐怖心を煽ってしまうリスクをも伴うので、相当程度の技量が求められる。

妻に対するグリーフケア
ロールプレイングゲーム手法を用いて、妻に対するグリーフケアを遂行せんとする夫の心情は理解できるが、然るに、強引に投薬を途絶させたリスクに加えて、そこで形成される関係が、クライエントとしての妻とセラピストとしての夫との、「距離感の近接度」を相対化し得ない危うさを延長させてしまう事態に鈍感過ぎたこと ―― これが、後の二人の関係の本質が、敢えて冷淡に振る舞う夫からの愛情不足に対して不信感を募らせることで、より不安と恐怖心を感受する妻の性愛の補填を求める行為に繋がり、結局、どこまでも実質的夫婦の関係の枠内で情動処理されてしまったのである。

従って、「エデン」という名の山小屋への物理的移動は、このような危うさを延長させてしまった中年夫婦にとって、限定的スポットの閉鎖系の中で対象人格が固定された関係枠のしがらみが、「対象喪失による喪失期」を脱却できない相手と対峙する夫の心理的負担の大きさを約束させることで、予知し得ない不幸を惹起する必然性を高めてしまったと言える。

そればかりではない。

「エデン」という名の山小屋への物理的移動が開いた世界が、実は限定的スポットの閉鎖系のイメージをも超える、かつて自然信仰・自然崇拝の「異界宇宙」であった、「森」という名の「悪魔の教会」の破壊力を持っていた現実を露わにしていくのである。

「あなたは我が子が死んでも平気そうね」

山小屋入りする前の、妻の辛辣な言辞である。

「君の喪は次の段階に入った。苦悩だ。危険に身を晒すこと。それしかない。勇気を出して、恐ろしい状況に身を置く。そこで恐怖が危険じゃないことを学ぶんだ」
 
山小屋入りする前の、夫の確信な言辞である。

しかし、もんどり打ち、自傷行為を止めない行為を目視して、苦悩が身体化されたと認知した夫は、その間、セックスを求める妻との距離を保持しようとするが、「距離感の近接度」を相対化し得ない危うさを常に浮遊させていた

 そんな夫が、「恐怖リスト」を作ろうと提案しても、「分らない」と答える妻。

「一番、怖いところがどこか?」と夫。
「森」と妻。
「特に恐ろしい森は?」
「エデン」

この短い会話によって、クライエントとしての妻と、セラピストとしての夫の、「エデン」という名の山小屋への物理的移動が決まったのである。

そして、山小屋への徒歩中に妻を休ませた際に、「森」の散歩に出た夫が視認したもの ―― それは、出産中の鹿が苦しんでいる姿だった。

このイメージが、6章に分かれた物語の「悲嘆」を象徴する意味を持つことは、本作の終焉の際に了解できるのだが、この時点では未だ不分明だった。

 ここまでの物語の展開は、6章の中の「プロローグ」と「悲嘆」である。

とりわけ、ハイスピードカメラを駆使して撮った、睦み合う夫婦の性愛描写において、愛児の「対象喪失」以前の夫婦の良好な関係が映し出されていた「プロローグ」のシーンは、そこから開かれる物語の悲哀と見事な対比を見せていた。

 
 
  3  「絶望」 ―― 「現代のクライスト」が潜り込んだキツネの穴倉の、土塊深く埋められたカラスのように



 「危険が本物なら、恐怖が命を救う。アドレナリンが戦闘態勢を作る。泣き声は幻聴だった」

 山小屋に着いても、愛児ニックの泣き声を聞いて、加速的に不安を増幅させるばかりの妻に対して、認知行動療法による「曝露療法」を延長させていく夫の言葉である。

 「来たのは間違いよ。あなたは傲慢だわ。これは、まだ始まりに過ぎないのよ」

「エデン」という名の山小屋と、そこを囲繞する「森」を恐れる女の心奥に全く届かない、夫の行動療法に反発を強めた妻の挑発的言辞には、「森」を恐れない者への攻撃性が尖り切っていた。

 「昔、エデンが美しく思えたのは、忌まわしかったから。昔、聞こえなかったものが今は見え、聞こえる。死んでいくもの。全ての泣き声が。自然は悪魔の教会よ」

明らかに、妻の自我は、均衡を保持し得ない者の恐怖に捕捉されている。

映像は、ドングリの木の実の束が音を立てて落下してくる、自然の固有の生命の循環の営為を提示することで、文明から持ち込んできた理性的認識の懐のうちに張り付く、「死んでいくもの。全ての泣き声」に鈍感な感性を鋭利に突き上げていくのだ。

しかし良かれ悪しかれ、「フロイトは死んだ」と言い切る夫が、「変な夢を見た」と言っても、フロイト流の精神分析に拠った「夢分析」を否定するから、当然、その先に待機する「負のイメージ」の氾濫の時間を予測し得ないのである。

 だから、一向に妻のトラウマを修復できないのだ。

そんな焦燥感の中で、散歩に出た妻を追う夫が、腹が大きく裂かれたキツネを視認する。

「カオスが支配する」

キツネが発した一言である。

そのホラー紛いのカットが、「苦痛」と題する章を閉じていく。

腹が大きく裂かれたキツネに、「苦痛」という観念がシンボライズされていたのは言うまでもない。

ロールプレイングゲーム手法を用いて、再び、妻への認知行動療法を開く

「男の本質が悪魔なら、とりもなおさず同じことが」

 妻の指摘は、彼女が搦(から)め捕られている根源的問題が提示されているから、夫には看過し難かった。

「女にも?女の本質」
「全ての女性たちの本質。女の体を支配するのは女ではなく、女の本質なの。論文にはそう書いたわ」

この世に蔓延(はびこ)る「悪魔性」の供給源こそ、男女を問わない人間それ自身であり、それが人間の本質なのだ、と妻は指摘するのだ。

この時点で、妻が「エデン」で熱心に調べ上げていた論文の資料が、「魔女狩り」の時代における女性への虐待であったことを知った夫は、ここだけは威丈高(いたけだか)に反駁する。

「君は女性への虐待を扱った資料を集めていたが、それが、女性が悪魔の証拠になるのか?鵜呑みにするな」

今や、夫との愛の確認を肉体的に求める女は、その欲望系の氾濫において、「魔女」=「アンチクライスト」と化している。

「森」の中枢スポットで、「殴って」と要求する妻。

激しいセックスに及ぶ行為は、セラピーのルールを完璧に破砕するのだ。

もう、妻の救済というセラピーが形式化し、妻の要求通りのサディズムに振れていく夫。

そればかりではない。

既に、セラピストという名の「現代のクライスト」(Christ)は、激しいセックスに及ぶ禁断の行為を通して、「アンチクライスト」の世界に流れ込んでいったのである。

しかし、このセラピストにはその自覚がない。

その全人格の総体が、「悪魔の教会」という名の「禁断の森」の圧倒的な支配下に置かれているにも拘らず、「悪魔の教会」が間断なく発信する「死んでいくもの。全ての泣き声」を、覚醒的自我の懐のうちに拾い上げられていないからである。

1年前、ニックと共存した妻がそうであったような堕ち方で、未だ、「悪魔の教会」に絡み付かれ、融合し、相即不離(そうそくふり)の関係の絶対度を増幅するような醜悪な相貌性を、抜き差しならない辺りにまで露わにされるほどには、夫の神経網がズブズブに取り憑かれてないのだ。

不合理な思考と行動のパターンを矯正するために、医療先進国で実践されている、認知行動療法という名の行動主義心理学をバックボーンに、妻に対するグリーフケアによって認知の変換を果たすことで、不安と恐怖の根源を払拭し得ると考える基本スタンスに変容が生じない限り、このセラピストは、「現代のクライスト」という虚構の要塞に閉じこもれるのである。

然るに、そんな夫妻の心理の乖離が顕在化していっても、なお関係幻想に潜り込んでいた夫だったが、そこに決定的な亀裂が生じるに至ったのは、妻のトラウマのルーツを正確に認知したこと ―― それに尽きるだろう。

 1年前のことだった。

 妻が愛児ニックを随伴し、「魔女狩り」の時代における女性への虐待に関連する論文を書いていた、滅入るようなプロセスの中で、徐々に精神の均衡を崩していって、いつしか妻は、ニックへの虐待を常態化させていたのである。

回想シーンで提示するこの由々しき事実は、妻の自我が負っているトラウマのルーツが、必ずしも、ニックの事故死による「対象喪失」の懊悩に起因するものではなく、遥かに根深い問題に脈絡する事態の深刻さを炙り出すのである。

従ってそれは、認知行動療法に依拠したセラピーの有効性の根柢を決定的に自壊させてしまうのだ。

 「ニックの足の骨の僅かな変形の原因が、靴を左右逆に履かせたことにある」という事実 ―― これはもう、心理療法を無化させる程の破壊力を内包する。

「狂気」を治癒するには、セラピーのアプローチなど殆ど無効であるか、それとも、あまりに脆弱過ぎるのだ。

 「君の悪魔は妄想の産物だ。妄想は現実に現れたりしない。不安が異常行動を引き起こすことなどあり得ない。僕を信じろ」

こう言い放つ以外にない夫の内的状況こそ、まさに「悪魔の教会」としての自然に囲繞され、出口なしの袋小路に捕捉された者の脆弱性を露呈するばかりだった。

その夫に、ニックの検死報告書のコピーを突き付けら妻は、今や、夫との愛の確認を肉体的に求める女=「魔女」と化して、「森」の中枢スポットである、人工的に仮構された「エデンの園」で叫ぶのだ。
 
 「私を捨てる気ね。あなたなんて絶対信じない!」

そう叫びつつ、「受ける性」の女が、自ら、「向かう性」の夫に馬乗りになって、激しいセックスに及ぶのだ。

 夫への「愛の不信」から、間髪を容れず、夫に向かっていく女。

 遂に、夫のペニスを叩き潰し、不能化する。

 更に、夫の脚にドリルで孔を開け、岩石などを切削し、研磨するためのツールである砥石(といし)をボルトで留めてしまうのだ。

 まさに、それは、永くキリスト教によって「悪魔の教会」として擯斥(ひんせき)されてきた自然の「森」の中枢スポットで、「欲望」という名の「悪徳」の限りを尽くす「アンチクライスト」が、今、「現代の魔女」に憑依して、その本性的相貌を剥き出しにする。

 一方、「悪魔の教会」が支配する「禁断の森」に誘い込んでも、なおメシア(救世主)然と振る舞う、セラピストという名の偽善と欺瞞に充ちた「現代のクライスト」(Christ)は、既に「アンチクライスト」の世界に流れ込んでいたにも拘らず、「ナザレのイエス」がそうであったように、磔=ボルトで留められた砥石で縛られ、今やすっかり、「悪魔の教会」に溶融した「現代の魔女」の支配下に置かれ、生命の最期の一滴をも絞り抜かれようとしていた。

思うに、セラピーという名の「山上の垂訓」が無効であり、「荒野の誘惑」に敗北した挙句、「エルサレム入城」も叶わず、一貫して独善的で、男性優位社会で呼吸を繋ぐ、際立って胡散臭い「現代のクライスト」は、否応なく「ゴルゴダの丘」に引き立てられていくのだ。

しかし、「ゴルゴダの丘」への屈辱的引き立てから逃亡した「現代のクライスト」は、漸く見つけた狭いキツネの穴倉に潜り込み、「アンチクライスト」と化した「現代の魔女」の猛々しく尖った攻撃的追尾から、必死に身を守る。

そこもまた、逃亡せずに引き立てられていった「ナザレのイエス」の「殉教者」の振る舞いと切れていた

妻が怖れたものが、「悪魔(SATAN)」から「自分(ME)」である事実を目の当りにした夫には、もう、「アンチクライスト」と化した「現代の魔女」との最終戦争しか残っていなかったのか。

物語がいよいよ暗欝で冥闇(めいあん)の濃度を深めていく、「絶望」と題された3章の終りは、「現代のクライスト」が潜り込んだキツネの穴倉の、土塊深く埋められたカラスによってシンボライズされていた



4  「3人の乞食」 ―― 「負の記号」が「エデンの園」に集合したとき



いっとき、我に返った「現代の魔女」の猛々しさが希釈化されていく。

レンチがないので、脚の砥石を引き摺ったまま、男を穴から引き上げた。

山小屋に戻された夫は、「悪魔の教会」に溶融した妻に尋ねた。

「僕を殺す気か?」
「まだよ。3人の乞食が現れてから」
「それはどういう意味だ?」
「“3人の乞食が現れたら誰か死ぬ”」

その直後の映像は、不能化された夫から、自分の性器を触れさせる行為。

しかし、それは束の間の快楽だった。

愛児ニックの落下事故
我に返ったばかりに、愛児ニックの落下事故がフラッシュバックのように襲ってきて、もう何もできなくなってしまった。

横這いになっている夫の傍らで、彼女は自らのクリトリスを切除するのだ。

この痛ましいシーンが意味するものは何か。

ほんの少し「狂気」から解放された妻が、ニックに対する自らの行為の悪徳性を想起させることで、一切の原因となった性欲の入口を塞ぎ、それを解体させることだけが「贖罪」に繋がると考えたのか。

然るに、もう、それなしに済まない行為に流れていかざるを得なかったという極端な振れ具合には、却って「狂気」からの解放の困難さが読み取れるのだ。


自らを極点にまで甚振(いたぶ)るだけの自罰行為もまた、「アンチクライスト」に収束されるに足る「欲望の反転」に過ぎないのである。

詰まる所、彼女は「悪魔の教会」と畏怖した自然と溶融することで、「狂気」という名の防衛機制に潜り込んでいただけで、そこから抜け出てしまったら、「悪魔の教会」に報復される運命から逃れられなかったのだろう。

自然の怖さは、その自然によって、自我を狂わされた者だけが存分に味わわされるということなのか。

充分に絶え絶えになった、夫婦の性器が不能化されたのだ。

不能化されながらも、自ら、山小屋の床下に隠されていたレンチを探し、それを手にして、脚の砥石を外した夫。

そこで夫が見たものは、自らのクリトリスを切除して、ぐったりと横たわる妻と、その傍らに揃い踏みした「3人の乞食」、即ち、鹿、キツネ、カラスという、「負の記号」を被された動物だった。

“3人の乞食が現れたら誰か死ぬ”

それは、妻の不可解な言辞の謎を解くような、忌まわしき「負の記号」の揃い踏みだった。

「悲嘆=Grief」・「苦痛=Pain」・「絶望=Despair」という「負の記号」が、今、「エデンの園」に集合したのである。

だから、物語はこれで終焉しない。

覚醒した後、再び、「狂気」の世界に戻された妻は、夫に向かって襲いかかっていく。

壮絶な痛みの中で脚の砥石を外した夫は、このとき、初めて「悪魔の教会」という名の自然からのメッセージを受信したのである。

凄まじいドングリの落下音を、全身に浴びる男。

そして、かつて聞いたことがないような異界の音声の侵入を受け、それがシグナルと化して、男の不自由な肉体を駆動させていくのだ。

駆動させられた男の肉体が、ほんの少し前まで、セラピーの対象人格として距離を置き、心理療法を繋いできた妻に対して、常軌を逸した攻撃性を開いたのである。

妻の首を絞め、窒息死させた男は、その妻の遺体を「エデン」と呼ぶ山小屋の外で焼却したのである。

明らかに、この構図は、魔女狩りの焚刑(ふんけい)にシンボライズさせている

「魔女」=「全身欲望系」の化身である「アンチクライスト」としての妻の肉体を、同様に「アンチクライスト」の欲望系に流れ込んでいった果てに、「異端審問官」を無自覚に偽装する夫が焚刑に処したのである。

かくて、「悪魔の教会」という、パラレルワールドの如き「異界」の「森」で、「現代の魔女」に憑依して、その本性的相貌を剥き出しにした「アンチクライスト」との最終戦争が終焉する。

「“3人の乞食が現れたら誰か死ぬ”」という妻の言葉は、妻の死によって自己完結するに至るのだ。



5  どのように振舞っても救われない人生彷徨の、「壮絶なる破綻」の絶望的な振れ方



ラストシーン。

不自由な脚を引き摺って、早々に、「エデン」からの脱出を図る男の前に、固有の相貌を剥ぎ取った、数え切れないほどの女たちの集団が出現し、男を囲繞するかのように歩み寄って来て、過ぎ去っていくが、映像はそれ以上、もう何も提示しない。

果たして、男は「悪魔の教会」から脱出できたのか。

或いは、物理的移動が叶わず、自然によって破壊される男の人生には、未来に繋がる如何なる人生の選択肢をも奪い取ってしまうのか。

この女たちの集団が、過去に「魔女」=シャーマンとして殺戮されていった女性たちであるばかりか、妻の死の意味が、夫によって魂の解放が具現されていくというメッセージを内包するとも言われているが、私には、そんな安直な軟着点を印象づけるラストシークエンスのうちに、この構図を受容できないのだ。

どう考えても、暗欝なイメージの中で閉じていく物語を覆う本篇の圧倒的なペシミズムは、癒し系の緩々のイメージと切断された自然の魔力によって、〈生〉と〈性〉の根柢が破壊されるネガティブな人生彷徨の、「壮絶なる破綻」の絶望的な振れ方の様態を印象づけるのである。

ラース・フォン・トリアー監督
括って言えば、「愛の宗教」であるはずのキリスト教の欺瞞性が、愛児の「対象喪失」に懊悩する妻を、「正常」なる精神世界に戻すべく苦闘する、セラピストの夫という設定の内に、まさに現代の「アダムとイヴ」が根源的に負った人間学的テーマ、即ち、人為的な手立てによる救済の可能性のアポリアを描き切ることで、ベルイマンが描いた「神の不在」の問題をも突き抜けて、どのようにしても救われない夫婦の悲劇を極点にまで剔抉(てっけつ)していくのだ。

そこまでいくと、もう、キリスト教の在りようなどという神学論争の一切の文脈と切れてしまうだろう。

どのように振舞っても救われない人生彷徨の、「壮絶なる破綻」の絶望的な振れ方という把握からは、宗教の問題など末梢的な文化装置でしかないからである。

そのような人生が、この世に厳然と存在する。

奇麗事が全く通用しない人生が存在するのだ。

どのように足掻いても、救われようがない人生が存在することのリアリティと無縁であると感じている鑑賞者には、恐らく、こういう種類の映画と馴染むことなどないだろう。

それが、鑑賞者を選んでしまう映像の宿命であるが、それでいいのだと思う。

吐き出して、吐き出して、吐き出し尽くしてもなお、吐き出し尽くさねばならない「狂気」を必要とする映像作家がいて、その「狂気」に触れることで「感受性の亢進」を身体化する鑑賞者がいる。

一切の奇麗事を剥ぎ取った映像それ自身を存分に受容できるが故に、私もまた、そんな鑑賞者の一人に加わった次第である。

(2013年1月)

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