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2012年10月7日日曜日

息もできない(‘08)     ヤン・イクチュン


<インディーズの世界から分娩された、「熱気」と「炸裂」に充ちた「究極の一作」>



序  血糊が拳につく程の攻撃的暴力の怖さ



私は生涯に一度、殴り合いの喧嘩をした経験がある。

20歳前後の青臭い頃の話である。

「お前が気に食わねえ。喧嘩しよう」

アルバイト先で、一人の中年男から、そう言われたことがきっかけだった。

最初は、酔っぱらいの戯言でしかないと思って相手にしなかったが、その男は本気で迫って来たのである。

彼は「決闘」という言葉を使い、時間と場所を指定し、驚いたことに、「介添人」まで連れてくる入れ込みようなのだ。

それで私は、もう逃げられなくなった。

笑って相手を無視すればするほど、相手の攻撃性が増幅してきたからである。

かくて、その数時間後に「決闘」が開かれた。

忘れもしない。

場所は、東京駅丸の内南口営業所のエリアの裏の敷地にある、小石がゴロゴロしている狭隘なスポット。

東京駅丸の内駅舎
私はバイト先の上司に相談することなく、その「決闘」の場所に向かった。

すると、そこにはヤクザ風の大男の「介添人」がいて、いきなり、「始めてくれ」と言うのだ。

正直、全く相手に対する攻撃的情念を持ち得ない私は、「始めてくれ」と言われても、何もできないで、相手の尖り切った表情を目視するだけだった。

すると、相手が矢庭に、私に殴りかかってきた。

私は難なくそれをよけた。

当然である。

そこではっきりと分ったのは、相手が完璧な酔っぱらいであり、ロレツも回らなくて、その動きもあまりに鈍かったからだ。

加えて私は、中学時代から地元の近くにある、元日本チャンピオンが経営する有名なボクシングジムに、度々見学に行って、自分なりに、毎日シャドーボクシングの訓練を欠かさなかった。

ボクシングが好きだったのである。

だから、これは「決闘」にすらならないどころか、「喧嘩」にすらならないのかと嘆息した。

しかし、相手の繰り出す滅茶苦茶なパンチが私の腕を掠めたとき、私の中で、「闘争心」を掻き立てるに足る相応のスイッチが入ってしまったようだ。

その直後に起こったことについてはあまり書きたくないが、要するに、「喧嘩」にもなり得ない中年男を一方的に拳で殴り続け、しかも、倒れている相手に馬乗りになって、繰り返し殴打し続けたのである。

すると、相手は突然動かなくなった。

私はそこで初めて自分が犯した行為の重大さに気付き、それでも「決闘」を止めさせようとしない「介添人」に向かって、「このままいったら、死んじゃいますよ」と叫ぶように吠えた。

「そこまでにしよう」

「介添人」のその言葉を聞いて、正直、救われたと思った。

動かないが、粗い呼吸音が洩れ聞こえる中年男を抱え、件の「介添人」は、自分の職場の詰め所に戻っていった。

私は、夜の闇の中に一人残された。

そのとき、右の拳を見たら、相手の男の血糊がくっついていて、震え慄く感情を抑えられなかった。

鉄道公安官・ブログより
まもなく、バイト先の上司に全て説明した後、間髪を容れず、鉄道公安官(現在の鉄道警察隊)がやって来て、「事件」についての調査を受けることになった。

どうやら、バイト先では、私の「決闘」が既に知れ渡っていたらしい。

ではなぜ、止めてくれなかったのかという思いがありながらも、私は公安官に全てを正直に吐露した。

私にとって余りに重苦しいその夜は、こうして閉じていった。

後日、公安官から、私には責任がないと言われたので安堵したものの、肝心の中年男が出勤して来ていないのだ。

思えば、あのときの男の顔面は血だらけになっていて、その血糊が私の拳についていたことを思い起こしたとき、私の心は慄然とした。

その中年男が、頭部を包帯でぐるぐる巻きにして出して来たのは、その一週間後であった。

「この前は悪かった」

男はそう言って、その場を立ち去って行った。

相手が死んでいなかったことだけは確信を持てたが、それでも、これほどの大怪我を負う現実を目の当たりにして、私はこのとき、もう二度と、拳を使った殴り合いはしないと決心した。

これほどまでに、不安と恐怖に駆られた経験が、尖り切った青臭い青春の日々の中で出来したことで、暴力に対する感傷的な見方が木端微塵に砕け散ってしまったのである。

以来、無国籍なアウトローを好んで描いた「日活アクション映画」に典型的に表現されていたように、「アクション映画」という不埒なジャンルをぶらさげた一切の娯楽映画から遠ざかっていったのは、殆ど必然的だった。

HANA-BIより
私にとって、暴力による「痛み」をきちんと表現し切った、マーティン・スコセッシ監督の「タクシードライバー」(1976年製作)や、北野武監督の「HANA-BI」(1998年製作)などの作品は認知しても、「ナチュラル・ボーン・キラーズ」(1994年製作)のように、暴力をゲーム化した究極の愚作を量産するハリウッド映画を全く評価しないのも必然的なことなのである。



1  インディーズの世界から分娩された、「熱気」と「炸裂」に充ちた「究極の一作」



ヤン・イクチュン監督
さて、本作の「息もできない」のこと。

この映画のお陰で、私は、主人公のチンピラが、刑務所から出所した直後の父に、血糊が拳につく程の暴力シーンのカットを見て、自らが犯した青春期の記憶をまざまざと想起した。

暴力による「痛み」を、これほど感じさせてくれる映画に出会って、これは暴力のリアリズムのうちに、無抵抗な者に対する理不尽極まる暴力の怖さを指弾した映画でもあると、私なりに読解した次第である。

加えて、物語構成において、主人公を中心にした登場人物たちの人間関係の、その狭隘なサークル化の交叉が構成される瑕疵によって、残念ながら相当程度の偶然性への依拠を必然化したり、或いは、主人公が二人の警官を殴り飛ばしても、面が割れているのに捜査された気配すらないばかりか、その主人公を殺害した犯人への警察の捜査が描かれぬまま、無傷の状態でヤクザ稼業を続けていたりするという看過し難い粗雑さが気になったものの、これを「映画的作画」と括ることでスルーすれば、ここ近年に観た映画の中で、本作の訴求力の強靭さに絶句する思いだった。

ポン・ジュノ監督の「母なる証明」(2009年製作)の完成度の高さには到底及ばないが、主人公を監督自身が演じたことで、「自分は家族との間に問題を抱えてきた。このもどかしさを抱いたままでは、この先生きていけないと思った。すべてを吐き出したかった」(公式HPより)という作り手の熱気が、映像総体から存分に醸し出されていて、炸裂し、いつもギリギリのところで飽和点に達しつつある危うさを内包させているから、はち切れんばかりの供給熱量の間断ないパワーの集合が、荒々しく連射されてくる画像を支配し切れているか否かなどという問題を末梢化し、そんな狭隘な映画文法を簡単に蹴飛ばしてしまうような、「究極の一作」と出会うチャンスは滅多にないと思える何か、言わば、抜きん出た完成度の高さを誇る「母なる証明」と一味違う種類の何か ―― それが、この映画には詰め込まれていた。

凄い映像が次々に現出する韓国映画のパワーが、遂に、インディーズの世界からも分娩されたのである。



2  情動系のラインの中で「共通言語」が形成されていく関係が開かれて



「暴力」の本質とは何だろうか。

まず、「暴力」とは、「攻撃的エネルギーが、他者に対して身体化される行為」の総称である。

これが、「暴力」に対する私の定義である。

この把握に則って、「暴力」の本質を定義すると、「他者を物理的、或いは心理的に、自分の支配下の内に強制的に置くこと」であると言えるだろう。

この暴力をフル稼働させて、相手を平伏(ひれふ)させ、屈服させ、そこに鋭角的に尖り切った権力関係を仮構する。

そのような権力関係によってしか他者と繋がり得ない男の職業は、債権取り立て屋。

それは、他者と言語的コミュニケーションを結ぶことを極端に苦手とする男の性格に相応しい、殆どそれ以外にないヤクザ稼業である。

「シーバルロマ」(クソガキ、クソ野郎、アホ、クソアマ等々)という悪態と、身体暴力という極限的な非言語的コミュニケーションによって補填されてしまうから、男はいつまでたってもヤクザ稼業から身を洗えないし、その意志もまるで見えないのだ。

「殴られてばっかでいいのかよ。このアバズレ」

これは、相手が簡単に屈服することをも認知しない、ヤクザ稼業の男の常套句。

印象深い冒頭シーンでのことだ。

女に暴力を振う男の荒んだ現場に通りかかったヤクザ稼業の男は、見ず知らずの男を痛めつけた後、救われたと思った女にも容赦せず平手打ちにする。

そのとき放ったのが、ヤクザ稼業の男の常套句である。

それは、他者と言語的コミュニケーションを結ぶことを極端に苦手とする男の、それ以外にない言語的、且つ、非言語的交通手段なのだ。

そんな男が至るところで敵を作り出し、怨嗟の対象にもなるが、男にとって、このような形によってしか、世俗との交通を円滑に果たせない心の闇が、その内側深くに塒(とぐろ)を巻いているが故に、男の歪んだ自我は、その歪みを全く修復させることなく延長させてしまっているのである。

そんな男が出会った、一人の女子高生。

男が吐いた唾が、たまたま通りかかった女子高生に当たったのである。

「どうにかしてよ」

そう言われて、自分の服で拭おうとする男に、「バカ」と言って、平手打ちにする女子高生。

「このアマが!」

ここで切れた男は、女子高生の顔面を拳で思い切り殴打した。

男の悪態と暴力に毅然と対応する女子高生の態度を目の当りにして、男がこれまで作り上げてきた「権力関係」の範疇に収斂し切れない何かを感受したのか、男はその場を立ち去れないでいた。

「生きていたのか」

路傍に倒れていた女子高生が起き上ったとき、その場を立ち去れないでいた男の言葉だ。

起き上った女子高生は、男に向かって唾を吐くが、男の攻撃性は、もうすっかり萎えていた。

「家に帰って勉強しな。痛けりゃ治療費を」

そう言って帰ろうとする男を、女子高生は止めるのだ。

「今、治療費を払って」

その直後の映像は、女子高生の頬が缶ビールで冷やされるカットが挿入されるが、攻撃性を喪失した男との悪罵の応酬の後、「治療費が足りない」と言い張る女子高生との絡みがユーモア含みで描かれる。

結局、男からの連絡を待つということで、ようやく決着した治療費問答。

今や、男には、決して攻撃的ではないが、自分を怖れることなく対峙する女子高生の、一貫して毅然とした振舞いに感心する思いが勝っていて、暴力的な非言語的交通手段を封印する行為に逡巡が見えなかった。

このとき、他者と「権力関係」しか結べない男が被浴した感覚は、それまでにない新鮮な何かを捕捉したのだろう。

男の名はサンフン。

女子高生の名はヨニ。

進学を諦念しつつあった3年生である。

無計画で、衝動性に駆られて駆動する振舞いを常態化させてきた男の狭隘な時間軸に、その女子高生との他愛ない絡みのうちに、粗雑だが、しかし、そこだけは感覚的にフィットし得る情動系のラインの中で、一定の「共通言語」が形成されていく関係が開かれたのは、このエピソードからだった。

  

3  復讐的暴力の悲劇の幕を開く突沸した狂気①



借金取り立ての作業中にも、味方を殴ってしまうほどの衝動性。

これが、男の自我の中枢を支配していた。

かつて、妻にDVを繰り返す男がいた。

気丈な妻の反駁に、憤怒を増幅させた男は、弱き者の常で、包丁を取り出して恫喝する。

あってはならない悲劇は、その直後に出来した。

「お母さんが殺される。お兄ちゃん、助けて!」

父の恫喝に恐怖を感じた小学生の娘が、震えるように座っている兄に助けを求めたのだ。

 しかし、何もできない兄。

父のDVを止めようとした妹
兄に助けを求めても埒が明かない状況下で、兄の制止を振り切って、暴れ捲(まく)る父の狂気の突沸(とっぷつ)した「前線」の渦中に、自らの身を投げ入れていく妹。

妻を恫喝するために振り翳(かざ)した父の包丁の餌食になって、倒れる妹。

自らが惹起した事態の異常に怯(おび)える父を尻目に、倒れる妹を担いで病院へ走る兄。

慌てて飛び出した母が、車に撥ねられて搬送されるが、既に絶命していた。

妹もまた同様だった。

一瞬にして散った二つの命。

この一夜に集中した最悪の惨事によって、懲役15年の判決を受け、刑務所送りになった父。

この一夜の最悪の惨事が生んだものは、そればかりではない。

この世にたった一人生き残された少年の、その後の人生のダークサイドの黒々とした色彩をも決定づけてしまったのである。

映像は、少年の人生のダークサイドの内実を全く描き出さないが、それを想像する必要がない程に常識的な解釈のうちに収斂される何かであった。

債権取り立て屋というヤクザ稼業を繋ぐサンフン
その少年こそ、女子高生に唾を吐き、殴打した、債権取り立て屋というヤクザ稼業を繋ぐサンフンだった。

暴力という名の厄介な非言語的交通手段に依拠することで、自らの拠って立つアイデンティティを持ち得ない男の射程に、懲役15年に及ぶ収監生活から、一ヶ月前に解放されて来た父の存在が捕捉されたとき、それを待っていたと言わんばかりの、復讐的暴力の悲劇の幕が開かれていったのである。




4  復讐的暴力の悲劇の幕を開く突沸した狂気②



男の心の闇。

押し込んで、押し込んで、押し込んでもなお押し込み切れないで噴き上がってしまう、サンフンの異様に尖り切った攻撃的情念は、虐待親が虐待親を生むという虐待的暴力のチェーン現象を作り出す。

「母と妹を救えなかった長男」

「母と妹を救えなかった長男」というサンフンの心の闇

この忌まわしき自己像が、サンフンの自我に深々と張り付いて、生涯のトラウマとなっているのだ。

「トラウマ」、「愛情」、「尊厳」という「幼児虐待の克服課題」をクリアし得なかった深刻さが、サンフンの人格総体に纏(まと)わり付いていて、それが男の心の闇を広げてしまっているようだった。

 その心の闇が、フラッシュバックするシーンがあった。

サンフンから治療費についての連絡がこないので、自らサンフンのところに赴いた女子高生のヨニ。

明らかに非行少女のイメージと切れているヨニには、ヤクザ稼業を繋ぐサンフンに対する恐怖感が希薄なばかりか、寧ろ、感覚的にフィットし得る情動系のラインが、男との一定の「共通言語」が形成されていくようなのだ。

中年に見えるサンフンだが、彼の父が引き起こした忌まわしき事件の際に、せいぜい小学校の高学年の児童であると思われるので、それから、15年の刑期を終えて出所したばかりの父への復讐的暴力が開かれる物語の経緯を考えるとき、債権取り立て屋の兄貴株の役割を演じる男の年齢は20代の後半ということになるが故に、女子高生のヨニとの年齢差は高々10歳程度なのである。

ともあれ、そんな二人が再び会った際に、女子高生の制服を着て真っ昼間に歩いていたところを、二人の制服警官に見咎(とが)められた。

制服警官を殴り飛ばすサンフン
あろうことか、ヨニの弁明が開かれるや否や、サンフンの異様な攻撃性が噴き上がってしまって、二人の制服警官を蹴り、殴り飛ばしてしまうのである。

韓国映画でお馴染みの風景だが、パク・チャヌク監督やポン・ジュノ監督に代表される、386世代(1990年代に30代で、1980年代に大学生活を送り、1960年代生まれ)の反体制の多くの映画作家たちは、自作で愛国主義の教育を相対化し、権力の脆弱性を描いてきたが、本作にも、そのスピリットが脈々と受け継がれているようだ。

しかし、この場面は、そのスピリットをサンフンに仮託しただけでなく、サンフンの心の闇を顕在化したシーンとして捉えるべきだろう。

なぜなら、映像の中で、サンフンが、「母と妹を救えなかった長男」というトラウマをフラッシュバックさせたのは、このときだったからである。

思うに、サンフン少年は、「ママを助けて」と求められた妹の叫びに震えているだけで、何も為し得なかった。

そのことで、暴力を振う父から、誤って包丁で刺されてしまった妹。

その妹を背負って、病院に走るサンフン少年。

同様に、慌てて街路に飛び出して、車に轢かれて事故死してしまう母。

この日、実質的に家族の全てを喪ったサンフン少年の心の闇は、塀の中で15年の懲役刑を負った父への、拭いがたい憎悪のみで思春期を過ごしたであろうことは想像するに難くない。

サンフンの異様に尖り切った攻撃的情念だけが突出するに及んで、本来、物理的・心理的に最近接した親によって形成される健全なる自我の発育が極端に歪められ、屈折し、そのダークサイドの黒々とした色彩に彩られた心象風景は、究極のアダルトチルドレン(機能不全家族で育った人格)が負った重度の心的外傷によって、「他者との愛情関係の形成」と、自己に対する「尊厳性の確保」という、最も由々しき発達課題の致命的欠損のうちに、外部世界と繋がる内的行程の、ごく普通のサイズの人格形成のハードルを越えられないまま、近未来の軟着点のイメージすらも手に入れられず、常に空洞の自我を転がすばかりの時間を騒がし続けているのだ。

冒頭シーンや、ここでの警察官のシーンに見られるように、サンフンの攻撃的情念が噴き上がるのは、「女性が被害者になっている状況」であることが判然とするだろう。

父を虐待した後、血糊のついた手を見るサンフン
そして、出所後の父の弱気な相貌を視界に収める度に、サンフンの内側で曲折的に貯留され、累加されていった激発的な復讐的情念が、「何で、あんなことしやがった!」と怒髪(どはつ)天を衝く形相で責め立て、謝罪する父に虐待的暴力を加えることしかできない惨状が、そこに露わにされるのである。

虐待的暴力のチェーン現象の中でしか形成されなかったサンフンの人格総体には、「幸福家族」をイメージさせる、温和なる言語的コミュニケーションを手に入れる何ものをも持ち得なかったのである。

暴力的な非言語的交通手段しか手に入れられなかったサンフンの心の闇はどこまでも深く、ペシミスティックな情動系の氾濫の中で、「幸福家族」を自らが構築するというイメージの残像すらも拾えず、今や、そのイメージは疾(と)うに放擲(ほうてき)されているように見える。

だからこそ、サンフンは 父親が産ませた腹違いの姉の幸福を願い、再婚を勧めるのである。

姉の子であるヒョンインだけは、父のいない子にしたくないのだ。

「幸福家族」の幻想を、せめて、ヒョンインにだけは味わわせてやりたいのである。

サンフンが虐待的暴力を加える父親の面倒を見る姉の態度に不満を持ちつつも、ヒョンインの置かれた寂しさを思うと、腹違いの姉の幸福を願わざるを得ないサンフンの内面世界は、決して壊れ切っていないのである。

左からサンフン、甥のヒョンイン、腹違いの
サンフンの人格造形が、「絶対悪」として描かれていないこと。

これが、観る者の涙腺を緩めた最大因子だろう。

ヒョンインとの絡みのエピソードは、本作の肝になると考えるので、改めて後述したい。



5  復讐的虐待を希釈化させたイメージの落差に、苛立ちを増幅する男の感情ラインの錯乱



決してそこだけは沈み切れないサンフンの攻撃的情念が、女子高生ヨニとの交叉の中で相対的に希釈化されていく。

「幸福少女」を自称するヨニとの間に形成された関係は、ヨニが「良家の娘」でなく、「家が普通過ぎてつまらないから、チンピラと飲み歩く」と言ってのけるヨニの吐露に結ばれるが、「母の死」に関しては一貫して封印されていた。

映像が伝えるヨニの「家庭崩壊」の現実 ――― それは、ヨニもまた、深刻なアダルトチルドレンに捕捉されるに足る、極端に劣化した家庭環境に呑み込まれている印象を観る者に与えるが、永く母の愛に恵まれていたからなのか、ヨニにはアダルトチルドレン特有の「自己信頼感の欠如」を印象づける自我の脆弱さが見られないばかりか、寧ろ、如何なる逆境にもめげない強さを感じさせるのである。

左からベトナム帰還兵の父、弟のヨンジェ、ヨニ
PTSDに捕捉され、仕事は疎(おろ)か、日々の日常性も自力で繋げないベトナム帰還兵の父は、マンシクとサンフンが立ち上げた債権取り立て屋によって屋台を強制撤去され、その事態を目の当たりにして興奮し、包丁を手にして阻止しようとした母の死すらも認知できないばかりか、そんな父の世話を焼くヨニを罵倒するばかりなのだ。

ヨニが作った食事を見るや、毒を入れたと騒ぎ、卓袱台(ちゃぶだい)返しの荒れ方を常態化させていた家庭の中で、真っ先に自我を屈折させていったのは、ヨニの弟ヨンジェであった。

そのヨンジェは、父の傷病軍人としての年金暮らしの収入を遣り繰りするヨニから、金を強奪する日々を繋ぐが、マンシクの債権取り立て屋で下働きする友人のファンギュとの関係から、いつしかサンフンの下で、粗野な仕事で泡銭(あぶくぜに)を手に入れるに至る。

ファンギュとヨンジェ(右)
そんなヨンジェが、味方を殴ってしまうほどの衝動性で突っ走る、サンフンの過剰な暴力についていけず、いつもサンフンから「臆病者扱い」される。

一方、弟のヨンジェがヤクザ稼業で金を稼ぎ始めている事実を読み取っていながらも、父の年金では身過ぎ世過ぎを繋げないヨニは、自らバイトを始めつつ、父の面倒を見るという苛酷な環境下を生き抜いていくのだ。

しかし、その苛酷な環境が、一層悪化する事態にヨニは直面する。

あろうことか、ヨニは包丁を持った父から脅されて、家屋の中を逃げ回る始末。

家庭崩壊の現実に叫びを上げるヨニ。

一方、手首を切って自殺を図ったサンフンの父が自宅で倒れていた。

その父の異常な事態に立ち会って、為すすべなく、怯えている姉とヒュンイン。

そこに現れたサンフンの表情は引き攣り、凍りついた。

「どんなに死にたくても生きろ。今死んだら俺は・・・俺は・・・生きやがれ。死ぬな!」

父を担いで病院へ運ぶサンフン
怒号しつつ、父を担いで病院へ運ぶサンフンの構図を、映像が提示したのは、その直後だった。

それは、父によって殺された妹を背負って、必死に病院へ運んだサンフン少年の構図と重なるのだ。

ここで、改めて考えてみたい。

 なぜ、サンフンは父を救ったのか、というテーマについて。

両親の敵対的感情の炸裂を目の当たりにしてきたことで、相応の「自己肯定感」を手に入れるべき児童期の発達課題をクリアすることなく遣り過ごしてきた多感な時期に、「母と妹を救えなかった長男」、とりわけ、「母の救いを求める妹を死なせてしまった長男」という現実の認知が重度の心的外傷となって、内的時間を凍結させたまま、この由々しき自己像を抱懐させてきたサンフンにとって、15年間に及ぶ収監から解放された父を存分に虐待し、継続的暴力の恐怖に怯えさせ、最後に屠(ほふ)り切る行為だけが、「母の救いを求める妹を死なせてしまった長男」という、ネガティブで救い難い自己像を克服し得る唯一の手立てであったはずである。

サンフンの拠って立つ、歪んだ自我の心理的基盤は、母と妹を死に追い遣った父への復讐的暴力の継続力によってのみ支えられていたのである。

だからサンフンは、無抵抗で、謝罪し続けるばかりの、父の脆弱な人格の総体を甚振(いたぶ)り続けてきたのだ。
 
サンフンの
その父もまた、息子の継続的暴力を受けることが義務であるかのように、息子の拳に血糊がべったりと付く程の復讐的虐待を、止むを得ないものとして甘んじて受け続けてきたのだろう。

 イメージの落差。

 かつて、パターナリズムの権化であるかの如く振舞ってきた父と、今やひたすら、息子の復讐的暴力の執拗な連射に耐えるだけの父との、信じ難きイメージの落差がサンフンの射程に捕捉されるとき、復讐的虐待によって手に入るはずの心的外傷の希釈化の安堵感が、全く感受されないのである。

 このイメージの落差を深々と記憶していけばいくほど、却って、サンフンの苛立ちが増幅し、それを無化させるために過剰に暴れ捲(まく)る外にないという異様な心境に捉われるのだ。

 いつしか、サンフンもまた、復讐的虐待によって、「母の救いを求める妹を死なせてしまった長男」という、ネガティブで救い難い自己像の克服を果たしたという実感を埋められぬまま、ただ復讐的義務感のみで、無抵抗な父への暴力を累加させていくばかりだった。

それは、復讐的虐待を希釈化させたイメージの落差に、苛立ちを増幅する男の感情ラインの錯乱を生み出していく。

この矛盾が、父の自殺未遂の現場に立ち会うことで、立ち所に露呈されたのは必然的だったのか。

従って、そこに露呈されたのは、単に「血の絆」への拘泥憾とか、父への「愛」の眼覚めというよりも、復讐的暴力のみに依拠し得ない男の人間的な感情ラインの錯乱であったということか。

このときのサンフンの感情ラインは、恐らく、「憐憫」という言葉が最も正鵠(せいこく)を射ているだろう。

かくして、父への復讐的暴力のみに、自己の存在の在り処を求めていた男が、一夜にして喪失した、拠って立つ歪んだ自我の心理基盤が瓦解したとき、女子高生に生き方を乞う振舞いを晒すに至ったのである。
 
稿を変えて言及していこう。



6  漢江の岸辺で嗚咽する男 嗚咽に同化する女子高生



漢江の岸辺に、二人の男女が無言で、季節の風に揺さぶられている。

サンフンとヨニの二人である。

「俺の血を抜いてやってくれ!」

怒号しつつ、父を担いで病院へ運んだ男が、辿り着いた病院でも怒号していた。

それは、15年前に、この叫びが叶えられずに逝った妹の運命をなぞる怖れへの、「身体的活動への親和性」を存分に身に纏(まと)った、「低自己統制能力」(後述)の極点とも言うべき男の拒絶反応だったのか。
 
 献血を終えて少し落ち着いた男は、包丁を持った父から脅されて、家屋の中を逃げ回っていた女子高生を、買ったばかりの携帯で漢江の岸辺に呼び出した。

 二人の叫びがクロスカッティングされながら、追い詰められた二人の心情を映し出した映像は、この二人を、夜の漢江で空間を共有させたのである。

サンフンとヨニ
「ちゃんとこっちを見なさいよ」

寡黙を貫くサンフンに、ヨニがアウトリーチする。

ヨニの傍らに座りながら、彼女を正視しないサンフンは、彼女の前に缶ビールを差し出した。

ここから、会話が開かれていく。

「飲み屋に行くのかと思った」
「たまには、こんなところで飲むもんだ」

まだ、顔を合わせないサンフン。

「今日は様子が変よ。何で元気がないの?」
「献血したからだ」

ここで、初めてヨニを正視する。

「あんたが献血?」

薄ら笑いを浮かべるヨニ。

「俺が献血したら悪いかよ」
「私、バイトしてるの」
「バイト代で奢れ」
「連絡するから高校生の奢りで飲みなよ。あんたって、ズルイ。自分の好きなときだけ連絡して、私のときは無視。そんな人生じゃダメ」

男から、思いもかけない言葉が吐き出されたのは、このときだった。

「どう生きりゃいい?高校行ってんだろ、教えろ」

真剣な男の口調に、明るいトーンで答えるヨニ。

「教えようか。それは、私のためにお金を使えば、幸せになれる」

彼女も、自らが抱え切れない煩悶を必死に堪えているのだ。

「高校生をぶん殴ってやろうか」

笑い転げるヨニを睨みつけるサンフン。

「チンピラをぶん殴ってやろうか」

ヨニの明るいトーンも、これ以上稜線を伸ばせない。

もうジョークを繋げない二人の間に、沈黙が流れる。

ヨニの表情から悲哀に充ちた感情を、フィックスのカメラが捕捉する。

「膝を貸してくれ」

何も言わず、ヨニの膝枕に頭部を預けるサンフン。

「勝手にすれば」
「両親は幸せか?」

膝枕になった男と、膝枕を許す女子高生との短い会話が繋がった。

「勿論、幸せよ」
「困らせないで親孝行しろ」
「大きなお世話。あんたこそ、チンピラやめなよ。あんたの親はきっと泣いているはずよ」

そこに生まれた沈黙を破って、左腕で顔を覆いながら、サンフンが嗚咽する。

笑いで誤魔化していたヨニもまた、必死に嗚咽を堪えていたが、もう限界だった。

サンフンの嗚咽と、それを受容するヨニ
女子高生の膝の上で、男泣きするサンフンの魂の叫びを受容し、男の顔を優しく撫でながら、ほんの少し前まで、心を病んだ父から包丁を持って追い回されていたヨニが嗚咽するのだ。

それは、類似した境遇を抱えながらも、それを決して吐露しない二つの魂が、生理的に共振し合ったときの必然的な反応様態なのだろう。

何より、女子高生に生き方を乞う男の情動氾濫を炙り出した根柢にあるのは、母と妹を死に追い遣った父への復讐的暴力の継続力によってのみ支えられていた、拠って立つ、歪んだ自我の心理的基盤が瓦解した現実である。

この空洞化した現実が、サンフンの魂の叫びを嗚咽に変えていったのだ。



7  虐待的暴力のチェーン現象を断つための男の変容過程①



犯罪心理学に、「低自己統制尺度」という概念がある。

「自己統制能力」、即ち、心身の動きを無秩序、且つ衝動性に任せず、それを内部規範に則って抑制的に統合していく能力のことであり、「低自己統制尺度」とは、その能力の判断の基準という意味である。

「攻撃性、自己統制および逸脱行動の関連について」(田代将人・PDFの電子文書の論考)という、「攻撃性と自己統制の影響関係,攻撃性と逸脱行動の影響関係, 自己統制と逸脱行動の影響関係を検討する」という問題意識を有する「結果と考察」によると、「低自己統制尺度」には、「身体的活動への親和性」、「根気と計画性のなさ」、「欲求不満耐性の低さ」、「危険希求」、「自己中心性」の5因子が抽出されている。

 まさに、この5因子こそ、本作の主人公・サンフンのパーソナリティを的確に言い当てていると言えるだろう。

サンフンとファンギュ
 中でも、「身体的活動への親和性」という因子こそ、サンフンの行動傾向そのものであった。

他者と言語的コミュニケーションを結ぶことを極端に苦手とするサンフンにとって、「クソガキ、クソ野郎、アホ、クソアマ」などという悪態と、身体暴力という極限的な非言語的コミュニケーションの連射によって補填されてしまう行動傾向は、既に、それ以外の方法論を持ち得ない男のパーソナリティの骨格を成していて、心身の動きを無秩序、且つ衝動性に任せず、それを内部規範に則って抑制的に統合していく能力、即ち、「自己統制能力」の欠損を露わにしていたのである。

それは、「低自己統制」=「刹那主義」の下位尺度を決定づける「衝動性」と「身体活動性」、そして、低学力に起因するだろう、債権取り立て屋というヤクザ稼業にしか向えないが故に、「単純課題志向」に振れていかざるを得ない、際だって狭隘な関係性の中に閉鎖的に閉じこもる限界性を露呈するものであった。

サンフンの、このパーソナリティの骨格を形成したのは、紛れもなく、虐待的暴力のチェーン現象に起因しているが、本作は、このチェーン現象を断つためのサンフンの変容過程を描き出すことにあった。

作り手の思惑とどこまで重なっているかどうか不分明だが、これが、本作に対する私の把握である。

この把握に則って、批評を繋いでいきたい。

チェーン現象を断つためのサンフンの変容過程において、最も重要なシーンは、終盤のヒョンインとの絡みである。

「漢江の岸辺の嗚咽」のシーンの直後の映像は、マスクを被ったサンフンが、甥のヒョンインの前に表れて、剽軽(ひょうきん)に演じて見せるというもの。

明らかにそこには、サンフンの心情の変容が反映されている。

しかし、ヒョンインの二人の友だちはサンフンとじゃれ合うが、ヒョンインだけはその輪の中に入れなかった。

ヒョンインに謝罪するサンフン

ヒョンインと二人だけになったサンフンは、たった一人の自分の甥に謝罪するのである。

「この前は悪かったな。すまない」

これは、ヒョンインの祖父でもあるサンフンの父を、暴力的に虐待している現場をヒョンインに目視されていたこと。

幼児に見せてはならないものを見せてしまった行為を、サンフンは、その幼児に謝罪したのである。


「僕のおじいちゃんを殴るな!優しいのに、なぜ殴るんだ!ずっと前、パパもママにあんな風に殴った」

ヒョンインの叫び
叔父の謝罪に即座に反応しないヒョンインは、サンフンが帰途に就く街路で、泣きながら訴えたのだ。

このヒョンインの叫びを受容するサンフン。

「この仕事は、今日で止める」

債権取り立て屋の社長のマンシクに、サンフンが言いにくそうに吐露したのは、ヒョンインの叫びを全人格的に受容したことの証だった。

「俺も止めるよ」

唐突な申し出に困惑しつつも、最後には、マンシクにそう言われたサンフンは、「今日だけ仕事をしてくれ」というマンシクの依頼を拒否できようがなかった。

マンシクとサンフン
そのマンシクに、紹介したい人がいるから、今日の甥の幼稚園の学芸会に来てくれと約束させたサンフンは、あとは「最後の仕事」を遂行するだけ。

ファンギュが休みだから、ヨニの弟のヨンジェと「最後の仕事」を請け負うサンフンにとって、「最後の仕事」の重さは、今や、「衝動性」と「身体活動性」によって走り切れない厭悪感を露わにするものだった。

子供二人を相手にして、楽しそうに遊ぶ男の家に、ヨンジェと債権取り立てにやって来るが、不安を募らせる二人の子供を見て、明らかに、取り立て業のいつもの強面の顔が、この日ばかりは作り顔になってしまうサンフン。

作り顔になってしまうサンフンの弱気
 それは、映像が、取り立て業の仕事の中で初めて見せる、サンフンの弱気な表情だった。

「上着を着ろ。待ってるから」

そう言って、相手から離れていくサンフンの後ろ姿から、叫びを上げる債務者。

「本当にないんだ!ないものをどうする!クソったれ!」

恐らく、かつて言われたことがない言葉を浴びるサンフン。

それは、サンフンの作り顔を読み切った債務者の強気の言動でもあった。

振り返る二人。

この言動に真っ先に反応したのは、「臆病者」扱いされていたヨンジェだった。

サンフンの眼の前で、子供の泣き声に全く反応することのないヨンジェは、一人で暴れ捲る。

「ヨンジェ、止めろ」

いつまでも相手を殴り続けるヨンジェに、サンフンは制止する。

それでも止めないヨンジェ。

「止めろと言ってんだろ!」

ここで、振り上げた拳を止め、睨みつけるように後ろを振り返るヨンジェ。

「今日はもういい」

そう言って、帰りかけたサンフンの後頭部に、ハンマーを振り下ろす債務者。

これで、再びヨンジェが切れて、相手を殴り続ける。

「止めろ」

殴られても、サンフンはヨンジェを制止するばかり。

後頭部を手で押さえながら、帰途に就く二人。

「お前が間抜けだから、こんなことになったんだ」

サンフンに対するヨンジェの憎悪
明らかに、矛盾する行為を見せつけられたヨンジェには、このときのサンフンの心情など理解できようがない。

「臆病者」と罵倒され続けていたが故に、そのサンフンの面前で、未成年ながら、一端(いっぱし)の取り立て屋としての意地を見せつけることで、「臆病者」という屈辱を返上しようと結んだ行為を、あろうことか、サンフンは評価しないどころか、「間抜け」呼ばわりするのだ。

ヨンジェにとって、自らが身体化する行為の一切を否定するサンフンの存在そのものが、今や、憎悪の対象になってしまったのである。

だから、「間抜け」呼ばわりされたヨンジェが、サンフンへの憎悪を身体化したのは、サンフンと同様に、「低自己統制」=「刹那主義」によって思春期を繋いできたことを考えれば殆ど必然的だったであろう。

血だらけになっているサンフンの顔面に、「このクソ野郎!」と叫んで、携帯していたハンマーを振り下ろすヨンジェ。

「ためらってやがる!何でだ!」

ヨンジェはそう叫びながら、今度は、素手で繰り返し殴り続けた。

「学芸会に行かなきゃ・・・連れてってくれ・・・行かなきゃなんねえ・・・ヒョンインが待ってる。姉さんも、マンシクも俺を待ってる。ヨニも待ってるんだ・・・」

これが、サンフンの最期の言葉になった。



8  虐待的暴力のチェーン現象を断つための男の変容過程②



前述したように、本作の作り手が、このような基幹メッセージを、最も強い問題意識として抱懐していたかについては不分明だが、少なくとも、私の把握では、以上、縷々(るる)言及してきたように、これは、虐待的暴力のチェーン現象を、自分の代で終焉させることを描いた男の物語であるという印象を拭えないのである。

だから、甥のヒョンインとの、このラストシークエンスに繋がるエピソードこそが、本作の中で最も重要なシーンであると、私は考えている。

虐待的暴力のチェーン現象を止めるには、相当の覚悟が必要であろう。

ヒョンインに目撃されたサンフンの虐待的暴力
幼児期に入った甥のヒョンインは、サンフンが犯した祖父(サンフンの父)への凄惨な虐待の現場に立ち会ってしまっていたばかりか、離婚した母が、父からのDVを繰り返し受けている現場を目の当りにしてしまっているのである。

それは、直接的に自分に及ぶものではなかったとはいえ、「親同士の敵対感情と、それに起因する身体暴力の爛れ方」が、幼児の伸び伸びとした発達課題への看過し難い障壁になるであろうことは、児童心理学の常識である。

一方、人並みの自我形成の行程を経ることなく、児童期に負った重度なアダルトチルドレンの最悪のコースをトレースするように、既に「身体的活動への親和性」に馴染み過ぎ、「衝動性」と「単純課題志向」に振れていかざるを得ない、「低自己統制」の極点にまで流されていった思春期彷徨の爛れようは、彼の人生の軌道を充分に決定づけるものだった。

「全て親父が悪い」

児童心理学の常識を知らずとも、この感覚だけが異様に研ぎ澄まされたサンフンが、ヒョンインの負った心的ダメージの現実を、自らが負った重度の心的外傷に重ね合わせることで、ヒョンインを虐待的暴力の負の連鎖の中にインボルブしてはならないという思いに逢着することは可能だった。

サンフンをして、相当程度に難関なはずの自己相対化を可能にしたのは、ヒョンインの叫びである。

サンフンの心の闇のルーツ
その叫びこそ、父の暴力の制止を、児童期のサンフンに求めた、亡き妹の叫びそのものなのだ。

亡き妹の叫びが、今、甥のヒョンインの叫びとなって、「低自己統制」の極点にまで流れていったサンフンを、ギリギリのところで押し留めたのである。

それ故、サンフンは、ヒョンインの母である姉の再婚を執拗に迫り、恐らく、そのパートナーとして、債権取り立て屋というヤクザ稼業に就いていたとはいえ、その性格は柔和であり、包容力もあるマンシクを、姉に紹介するつもりでいたのだろう。

マンシクは取り立て屋で稼いだ金を、サンフンのようにギャンブルやアルコールに蕩尽することなく、焼き肉屋を経営するという生活設計をも立てていた。

だからサンフンは、姉とマンシクを再婚させることが、ヒョンインを虐待的暴力のチェーン現象を終焉させる切り札であるという、単純だが、その結実が容易ではない方略を絞り出したのだろう。

しかし、この行為は命の代償を必至にした。

この行為を遂行するには、命がけで「堅気」になることを決意し、それを遂行せねばならないからだ。

即ち、サンフンは、恐らく初めて計画的に物事を組み立て、それを遂行しようとしたのだ。

「堅気」になることを決意しサンフン
 パチンコも止め、預金通帳を二つに分けてまで、甥のヒョンインと姉の家庭を援助しようとしたサンフンの思いは、自らの死を代償にすることで平和裡に解決していくように見えた。

焼き肉屋を始めたマンシクが、姉にプロポーズさえすれば、それを受容する姉と甥との関係を包括して形成されるだろう、自らが遂に手に入れられなかった「幸福家族」の幻想を継続させる可能性は決して低くない。

サンフンの思いは繋がったのである。




9  女子高生の射程が捕捉した苛酷なるラストカット



しかし、この映画は甘くない。

一貫して相互のプライベートな事情を隠し込んだまま、チンピラ男と女子高生との、未だ恋愛関係に昇華し得ない関係の中で放たれる言語には、ここでも、相変わらず「シーバルロマ」という悪罵が付き纏(まと)っていたが、それでも、「漢江の岸辺」における「嗚咽の連帯」の近接感の濃度の高さは、どうしても、それ以外の者に見せてはならない二人だけの「秘密の共有」となっていった。

しかし、この関係の本質は、どこまでも「浄化せざるを得ない何か」を持つ男の片務的な自己中心主義によって駆動されているから、仮にそれが「秘密の共有」に辿り着いたとしても、そこには、「心の闇」で塒(とぐろ)を巻いていたネガティブな情念を吐き出すことで、相応に自己完結してしまう一回的な交叉でしかなかったとも言える。

「幸福家族」という物語を、最後まで男の前で振り撒いていたヨニにとっても、「衝動性」で時間を繋ぐ男の攻撃性を被弾することなく、殆ど対等に近いフリーな関係が作り得た時間の中で、彼女なりに浄化することができたのだろう。

そして、衝撃的なラストシーン。

季節は冬となり、まもなく卒業が近い女子高生ヨニが、マンシクが開いた焼き肉屋に、サンフンの父と共にヒョンイン母子が招待され、予定調和の「温もりの世界」に入り込んでいた。

「シーバルロマ」の連射と、暴力の連鎖で繋いできた映像に似つかわしくなく、映像が初めて開示した、存分な「温もりの世界」の継続力は余りに短命だった。

「温もりの世界」からの帰路、横断歩道で待つヨニの視界に収められたのは、あってはならない究極の爛れの様態だった。

屋台を叩き壊すヨンジェの暴力
あろうことか、中年女性が開く屋台を叩き壊す弟ヨンジェのアナーキーな暴力の現実が、ヨニの視界に収められたのだ。

まもなく、ヨンジェの視線も、姉のヨニを捕捉する。

あってはならない事態の渦中で、妻の死をも認知できない、ベトナム帰りの父のDVを恒常的に受け続けた者同士が合わせた歪んだ視線が、成人にも満たない姉妹の心を凍結し、二人とも、もうその場を動けない。

ヨニの射程が捕捉した禍々(まがまが)しい現実は、かつて自分の眼の前で、気丈な母が同じような状況下で、包丁を振り回した果てに死亡するに至ったトラウマを、瞬時にフラッシュバックさせたのか。

弟ヨンジェは、屋台で仕事をしていた母が、いずれかの債権取り立て屋に、その掛け替えのない屋台を壊された挙句、死に至った事実を知り尽くしていながらも、まさに、母のような女性が開く屋台を、債権取り立て屋のチンピラとして壊し捲っていたのである。

ある程度、想像していたこととは言え、家庭崩壊に端を発した暴力の連鎖が止まらないラストカットの決定力に、観る者は置き去りにされるだろう。

そればかりではない。


その場に立ち竦むヨンジェの相貌が、ヨニの射程の中で、無残な最期を遂げたサンフンとオーバーラップされていく。

母の屋台が壊された現場を視認したヨニのトラウマ
あのとき、ヨニは、母の屋台を壊した取り立て屋の暴力を間近で視認していたのだ。

無論、当時は、母の屋台を壊した取り立て屋の集団が、サンフンやマンシクたちの債権取り立て屋の集団であることを特定できていなかった。

ヨニは最後まで、サンフンの正確な「職業」を知り得なかったのだ。

そんなヨニの脳裏に、仲間がヨニの母に包丁で刺された怒りで、毛糸の帽子を被り、マスクをしていた男の暴力が、母を死に追いやっただろう恐怖記憶が蘇生したと考えられる。

この恐怖記憶は、恐らく、中学生年代の思春期に踏み込んだ少女の自我のトラウマになっていたであろう。

問題は、この恐怖記憶の内実にある。

恐怖記憶を惹起させた取り立て屋が、サンフンやマンシクたちの集団であったという事実を、このとき、ヨニが特定できようがないのだ。

画像の流れを誤読しやすいから敢えて書くが、ヨニの母に包丁で刺された男がサンフンで、この怒りで、母を死に追いやっただろう暴力を振るった、毛糸の帽子を被り、マスクをしていた男こそ、先刻、焼き肉屋で「温もりの世界」を演出していたマンシクだったのである。

ヨニの母に包丁で刺されたことで、血みどろになり、今や大した「戦力」に成り得ないサンフンへの仇という意識が働いていただろうから、当のマンシクは、自分の暴力が原因で、一人の中年女性の命を奪ったとは考えていなかったかも知れない。

だから、「良い人」を延長できたのだろう。

しかし、この作画は相当に甘い。

何より、本作が「映画的作画」の「自在性の嘘」に丸投げする決定的なシーンこそ、この辺りにあるからだ。

先述したように、主人公を中心にした登場人物たちの人間関係の、その狭隘なサークル化の交叉が構成される瑕疵によって、残念ながら、相当程度の偶然性への依拠を必然化した「映画的作画」の「自在性の嘘」には些か閉口したのも事実。

このシーンを穿って考えるレビュアーが多いが、仮にそうであるならば、その直前まで和気あいあいの会食の時間が形成し得た、「温もりの世界」を無化し得る破壊力を持つラストカットだったということになるだろう。



焼き肉屋を開いたマンシク
焼き肉屋を開いたマンシクもまた、屋台を壊すことを厭わない、暴力的な債権取り立て屋の集団に所属していた事実が瞭然とするからである。


仮に、このような穿った見方が正解だったとしたら、当然、ヨニの射程が捕捉される画像は、既に何者(ヨニには、その肝心な事実すらも特定できていない)かに殺害された、今は亡きサンフンの立ち姿などではなく、母の屋台を破壊し、その死に関わったはずのマンシクの、毛糸の帽子を被り、マスクをしていたカットのフラッシュバックの挿入であるのが自然だろう。

だからこれは、単にチンピラとして暴力を振う弟の姿が、似たような仕事を繋いでいたであろうサンフンと、禍々(まがまが)しくしくオーバーラップされただけであると見た方が正解なのである。

ただ、そのような想像を観る者に掻き立てるラストカットの挿入は、充分に「映画的」であるが故に、相当の破壊力を持つ究極の括りであるに違いない。


いずれにせよ、弟ヨンジェのアナーキーな暴力の連射が、サンフンがそうであったようなヤクザ稼業に吸収され、今や、後戻りが困難な生活を繋いでしまったという現実を認知せざるを得ない苛酷さが、ヨニの射程が捕捉してしまったのである。

それ故に、これだけは言えるだろう。

虐待的暴力のチェーン現象の前で立ち竦むヨニ
ヨニの視線を釘づけにしたヨンジェの暴力こそ、サンフンが命を賭けて、自らの虐待的暴力のチェーン現象を止めようと喘ぎ、もがいたように、今、20歳にも満たない一人の娘が、包丁を振りかざす父のDVから連鎖されていったに違いない、弟の破壊的暴力のアナーキー性に対して、体を張って途絶させなければならないという、殆ど不可能な立場に持っていかれてしまったということ ―― この把握に尽きるのだ。

虐待的暴力のチェーン現象を断つことが、如何に困難であることを示唆して閉じる映像のインパクトは、このラストカットのうちに極まったのである。


(2012年10月)







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