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2012年1月27日金曜日

家族ゲーム('83)        森田芳光

<「全身委託主義」の不埒さを野放図に放置してきた「家族ゲーム」への、「家族教師」の破壊的暴走>



1  「委託主義」に象徴される、「幸福家族」の幻想の劣化を特徴づける「家族力」の脆弱さ



この映画は、「委託主義」によってしか家族を維持できない脆弱性が、「破壊による再生の可能性の提示」という「役割」のうちに、リアリティを蹴飛ばして記号化された感のある、家庭教師を演じる男の暴力的介入によって破壊されていく、殆ど「ゲーム」化された現代家族の負の側面をマキシマムに映像化した、問題提起力のあるブラックコメディである。

それ故、私は、本作のキーワードは、「幸福家族」の幻想を信じ、それを継続させていく意思を持つ限り、最も肝心なところだけは引き受け切らねばならないにも関わらず、それさえも、「自分が引き受けられない事態」という認知のうちに丸投げしてしまう致命的瑕疵という意味で、「委託主義」と命名される何かであると考える。

従って本作は、積年の「委託主義」の常態化によって、受験期の子供を持つ難しい時期に突入した家族が抱えるアポリア、即ち、「幸福家族」の幻想の劣化を特徴づける「家族力」の脆弱さを、欺瞞的な軟着点に流れやすいシリアスなヒューマンドラマで仮構せず、破壊力漲(みなぎ)るブラックコメディで押し切った、主題提起先行の娯楽映画であると把握するのである。

思うに、自我の拠って立つ安寧の基盤になるような、「パン」と「情緒」の「役割共同体」としての現代家族の有りようの中で、「パン」の問題が片付いても、「情緒」の求心力が生きている限り、「幸福家族」を延長させられることによって、何とか折り合いが付けられれば、特段の問題は招来しないだろう。

だから、時代の空気に睦むような家族を持ち、それを継続させていく日常性の様態は、そこに惹起する諸問題に対して、その都度、「反復」→「継続」→「馴致」→「安定」という循環を持つ、「日常性のサイクル」を通して保持された「幸福家族」への幻想が相対的に安定しているなら、「家族こそ全て」という絶対規範にまで届き得ると言える。

しかし、現代家族にあって、「幸福家族」への幻想を保証するのは、「情緒」の求心力が安楽死していないからこそ有効なのである。

「情緒」の求心力を支える家族成員間での「身体性」のコアには、成員対象人格との関係の交叉の様態がディストレス状態と無縁である現状が求められるが故に、自我を特段に武装せず、至極ノーマルなサイズの裸形のコミュニケーションが形成されている条件を不可避とするだろう。

「パン」の問題がほぼ解決し、「情緒」の問題も一通りクリアしてきたと信じる家族の中で、思春期を迎える難しい時期にある子供を持ったとき、肝心の情緒的結合の継続力が円滑に機能しなくなり、そこに発生するコミュニケーション不足によって、定点を持たない「幸福家族」の幻想が漂流するイメージに流れていくと、多くの場合、件の問題解決に凛として向き合う行為に振れず、安直に「委託主義」の傾向を増幅させていくのである。

「委託主義」の傾向を増幅させていく事態が招来した家族が漂流し、流れ切った末に待つトラジコメディーの様態の存分なるアイロニーこそ、リアリティを蹴飛ばしながらも、そこに垣間見える毒気満点の文脈の、虚構のリアリズムを包括する物語ラインの肝だったという訳である。(画像は、故森田芳光監督)



2  物語の強力な潤滑油を検証する求心力を具現化した、掛け合いコントの如き会話の面白さ



本作で描かれた家族もまた、家族成員間の濃密な情緒的交叉の決定的瑕疵を象徴させる、横一線に伸ばされた食卓形態の異様さによって、相手の視線を捕捉しながら会話を繋ぐという、ごく普通の日常的現象が穿(うが)たれていて、情緒的結合による人情の機微の断片すらも拾い上げていく一切の回路が断たれていたのである。

このことは、義父の葬式の際の納棺搬送の問題で、この家族の主婦に相談に来た女性が放った、横向き会話への違和感の吐露によって鮮明化されていた。

情緒的交叉の決定的瑕疵の根柢に横臥(おうが)するコミュニケーション不足を積極的に埋めるに足る努力が求められるが、この家族には、その片鱗が全く見られないのだ。

「家中がピリピリ鳴ってて、すごく煩いんだ」

受験を間近に控えながら、学習意欲ゼロの次男の、このモノローグによって開かれた本作を貫流するのは、メジャースケールのBGMを不要化した代わりに、殆ど機械音と化した家族の食事音と、本物の機械音の連射。

家族成員間の聴き取りにくい会話がそうであるように、この家族のコミュニケーション不足を、これらの機械音がシンボリックに表現しているのだ。

「幸福家族」の幻想のコアとなる「情緒」による結合という「家族力」の中枢の劣化は、今や、受験期を迎える難しい時期にある子供の思春期現象が突沸(とっぷつ)することによって、何とか糊塗(こと)しつつも折り合いが付けられるレベルを超えてしまっていた。

「家族力」の中枢の劣化を補うには、このような家族のケースの流れ方をなぞるように、「委託主義」の傾向を増幅させていく現象を必至にしていく。

「家族力」の推進力のコアとも言うべき、肝心の親たちの情緒的交叉の決定的瑕疵が露呈されていく現象もまた不可避であった。

夫への上辺だけの迎合を延長させながらも、何10年間も夫の食事の好み(「目玉焼きの黄身をチューチューする」こと)を知らない妻。

この由々しきエピソードで露わにされたのは、「仮面夫婦」の惨状を呈しないまでも、「援助感情」を本質にする愛情の劣化であるが、それは何より、中年夫婦の精神的紐帯の停滞が生んだ無関心さによって、「共有感覚」を殆ど自壊させている現実を象徴するだろう。

また、受験期の子供の偏差値のみに拘泥し、少しでもレベルの高い学校を求めながら、それを金銭によってのみ解決しようとする父親。

その父親が、家庭内でのコミュニケーション不足の最大の原因子になっている現実を象徴するのは、駐車場の自家用車内に会話の対象人格を呼び寄せて、「ここだけの話」を占有する歪んだ関係構造の様態である。

このシーンの寒々しさが、この家庭が内包してきた最大のアポリアであることを、ユーモア含みでありながらも、尖り切った映像は観る者に提示していくのだ。

ごく普通の家庭の風景がスケッチされているが、この父親の「委託主義」の極致は、家庭教師との掛け合いコントの如き会話の中で存分に表現されていた。

この会話を具現させた空間もまた、駐車場の自家用車内であったことは言うまでもない。

「どうしても成績上げて欲しいんだよ。金、出すよ。1番上がったら1万円」
「30番上がったら30万円ですか?」
「・・・そうだよ」
「そんな金、本当にあるんですか?嫌ですよ、その時になって、ないなんて。お父さん、約束ですよ」

まさに、委託主義の極致と言っていい。

まもなく、「お父さん、約束ですよ」と言い放った三流大学の七年生が、次男への新しい家庭教師として立ち現れ、異議申し立てを認めないスパルタ教育を実践していく。

以下、その家庭教師が、「教科教育のプロ」として、次男と面談したときの会話。

「よろしく」
「お願いします。可愛い顔してるね。ニキビが沢山あって。青春のシンボルだ。問題児だって?」
「受験生は、皆、問題児ですよ・・・」
「面白いことを言うじゃない」

そう言って、次男の頬にキスする家庭教師。

「気持ち悪いですよ・・・」
「俺だって気持ち悪いよ。クラスで後ろから9番なんだって?」
「まあ、そんなもんです」
「じゃあ、クラスで一番ビリは誰だ?」
「ブスの浜本です」
「そんなブスか?」
「笑っちゃいますよ」
「ブスでバカ」
「ブスでバカです」
「お前、可愛いけど、バカだな」
「自分はバカだって思いませんよ。勉強が嫌いなだけです」
「こんな時期に勉強が嫌いだって言ってるのが、バカだって言っているんだよ」
「簡単にバカだって言わないで下さい」
「悪かったな」
「趣味は何ですか?先生」
「勉強を教えることだよ」
「嫌な性格ですね」
「お前、趣味なんだよ」
「勉強を教わることです」

相当に面白い掛け合いコントの如き会話の挿入である。

こんな会話の挿入の手法によって、物語のブラックコメディ性との均衡を保持している映像のスタンスが読み取れるだろう。

船で往還する男に被された、「異界」の世界からの闖入(ちんにゅう)をイメージさせる、「破壊者」としての記号性を、「豆乳を飲む大学生」という裸形の人格像のうちに引き寄せてしまえば、この「破壊者」が引っ張り切った物語で拾われた、掛け合いコントの如き会話の面白さは、物語の強力な潤滑油を検証するに足る求心力があったと言えるだろう。



3  時代の世相を反映したユーモア含みのエピソードの中に詰まっている毒気の伏線化



小学校以来の腐れ縁の同級生から苛められている次男に、喧嘩の勝ち方まで教える家庭教師の暴走に馴致していくことで、見る見るうちに成績が上がり、次男の偏差値は地区一番の西武高校への合格ラインにまで届くに至った。

しかし、次男は、「成績が上がると、嫌がる奴がいるから面白いですよ」とまで言わしめる程に、腐れ縁の同級生との「共学」を嫌うが故に、地区のBクラスの神宮高校への志望を、独断で担任に届け出た。

この事実を知った父親が怒り狂ったのは、「本当は勉強ができるのに、怠けていたから成績が落ちただけ」と決め付ける父親の、露骨な上昇志向の意識の範疇では必然的だったであろう。

以下、そんな父親と、その父親に上辺だけの迎合を延長させてきた母親との会話。

「大体、俺に相談しないで神宮高に決めちゃってさ。西武高じゃなければダメなんだよ」
「どうしても西武高は嫌だって」
「そんなバカなことないだろう。神宮高より西武高の方が難しくて、茂之(次男の名)は折角、その難しいランクに入ってきたんだから」
「そんなこと、私だって言いました」
「やっぱりお前じゃダメなんだよ。甘やかして」
「そんなら、お父さん、言って下さいよ」
「お前ね、俺があんまり深入りすると、バット殺人が起こるんだよ。そんなことが分っているから、お前や、家庭教師に代理させているんだから」

思わず、吹き出してしまった会話だったが、当時の世相を反映した父親の物言いには、一貫して家族の問題を引き受けることから逃避する行為を、家族の秩序の安定的維持と考える欺瞞性に満ち溢れた、この国の父親像に張り付く究極の「委託主義」が露わになっていた。

この中年夫婦の究極の「委託主義」が流れ着いた先は、あろうことか、我が子の志望校の変更を次男の家庭教師に依頼するという行為だった。

金銭目的の家庭教師が次男の通う中学校に乗り込んで、ここもまた、担任教諭との掛け合いコントの如き強引な会話を通して、志望校の変更を具現するのだ。


明らかに、時代の世相を反映したユーモア含みのエピソードの中に詰まっている毒気は、究極の「委託主義」の些か爛れた様態を描き出すという一点に絞られていて、これが刺激的なラストシーンの伏線のうちに回収されるに至るのである。



4  「全身委託主義」の不埒さを野放図に放置してきた「家族ゲーム」への、「家族教師」の破壊的暴走



繰り返すが、本作で描かれた家庭の中で描かれていたのは、まさに「パン」の問題を解決した、ごく普通の中流家庭で常態化されている「委託主義」の支配力の爛れた様態だった。

その「委託主義」を、毒気満点のコメディラインでマキシマムに映像化した本作の推進力は、紛う方なく、「委託主義」の家庭の中に無遠慮に踏み込んで来た風変わりな大学生だが、本作は、この国のバブル景気前夜の経済・社会状況の生活風俗の様態を、「全身委託主義」の中流家庭と、この家庭に委託された男との緊張含みの関係のうちに特化して、虚構のリアリズムを包括する物語ラインによって表現されていた。

「全身委託主義」の中流家庭と、この家庭に委託された男との緊張含みの関係が炸裂する「最後の晩餐」において、虚構のリアリズムを包括する物語ラインが収斂されていくが、そこに映像の勝負を賭けた「暴走」がスラップスティック・コメディに流れていかなかったのは、そのシーンにこそ、本作の基幹テーマが集約されていたからである。

私立高校に入学したことで、腐れ縁の同級生との関係がようやく切れて、晴れて西武高校入学を果たした次男の祝宴の場で、あろうことか、横一線に伸ばされた食卓が破壊されてしまうのだ。

食卓の「破壊者」は、途方もないスパルタ教育で次男を鍛え上げた家庭教師。

家庭教師を過激な「暴走」に至らしめた原因は、この家族を弱腰の権力で仕切る父親の無責任極まる物言いだった。

今度は長男の家庭教師になって欲しいと話す父親の物言いの内実には、明らかに、「全身委託主義」を決め込んでいた者の欺瞞性が露骨に表現されていた。

「ウチの子は、元々、頭いいんだげどね」

この厚顔無恥な物言いの直後、最近、元気がない長男に眼を向けて、父親の叱咤が飛んだ。

「慎一(長男の名)、今までずっと、茂之にかかりっきりだったけど、これからはお前の方を、びしびしやるぞ」

相変わらず、厚顔無恥な物言いの直後に、家庭教師の行動に変化が見られるが、未だそれは、そこから起こる破壊的暴走の序章でしかなかった。

大学行きを拒否する含みを持つ物言いをする長男と、それを説教する父親との確執が表面化する。

大学行きに固執する父親の小権力的な振舞いを、「何とかなるんじゃないの。あんたら、夫婦じゃない」とまで言い放つ長男。

この辺りから、食卓の風景は一変していく。

家庭教師という名の、食卓の「破壊者」の暴走が止まらなくなるのだ。

そこには、家族の難しい問題の一切を引き受けることから逃げていたにも関わらず、一縷(いちる)の自省の念すらもなく、滔々(とうとう)と、「息子の成功が自己の評価を高める」という意味での、「反映過程」の心理が自我関与的なラインで暴れ捲っていて、恰も、「俺の言う通りにすれば、万事上手くいく」という類の身勝手極まる文脈に収斂されていく、底なしの欺瞞性がピークアウトに達しつつあった。

家庭教師の過激な「暴走」の事態が惹起した本質は、この国のごく普通の風景とも思えるような、特有の「家族ゲーム」に付き合わされた不満の炸裂であると言っていい。

このとき、三流大学の七年生の家庭教師は、「家族ゲーム」をダラダラと延長させてきた者たちへの破壊的覚醒を加えたのである。

即ち、この家庭教師の役割的な記号性の本質は、「全身委託主義」の不埒さを野放図に放置してきたことの自省の欠片すら持ち得ない、この国にごまんと存在するだろう、その典型家族である者たちへの、破壊者としての「家族教師」であったという一点にのみ求められるのだ。

「破壊者」としての「家族教師」の傍若無人なる振舞いという、ほぼ予約可能なオチが張り付いて、いつものように船に乗り込んで、「異界」の住人のイメージをぶらさげつつ、この「家族教師」は情婦の待つ睦みの世界に帰っていくのである。

一方、傍若無人な「家族教師」に完膚なきまでに破壊された件の家族の面々は、空間瓦解によって置き去りにされた、家族成員間の情緒的交叉の決定的瑕疵の裸形の様態が露わにされ、「荒廃」をイメージさせる散乱した部屋を、ただ黙々と片付けるのだ。

そして、印象的なラストシーン。

恐らく、この一連の「家族内騒動」によって何かが弾けたに違いない長男が、空手部に入部するワンカットを映し出した後、「脆弱なる権力者」でしかない主人のいない留守宅で、すっかり眠りこけている兄弟と、それを目視して昼寝する母親が、いつもと変わらない日常風景を繋ぐシーンが、まるで何もなかったかのような穏やかなトーンで挿入されていく。

一見、「家族教師」の如き食卓破壊者による暴走を機に、「幸福家族」の幻想が復元したかのような中流家庭の、予定調和のラストシーンの穏やかな風景を、今や、破壊する何ものもない時間の只中に侵入するカットが提示された。

理由が判然としないで、気になる母親の聴覚に届いたのは、まるで家族のシエスタもどきの時間を破壊するために、ホバリング状態で、特定的に狙われたかのようなヘリコプターの機械音。

それは、長く「家族ゲーム」を繋ぐことに馴致した件の家族に対する、「家族教師」の如き食卓破壊者に続く「外部侵入者」が現出するシグナルだったのか。

それとも、ヘリコプターの飛来のうちにシンボライズされた、時代の変容著しい外部環境と接続できないで、午睡に潜る家族への警告音だったのか。

いずれにせよ、拠って立つ自我の確立運動に向かう長男の変化に象徴されるように、変わらねばならない内部条件が、件の家族の中で必然化されている事態の進行には、もう歯止めが効かなくなっているようであった。

尽きることない読解の興味を残して閉じられた映像の余韻は、明らかに、コメディラインの解放系の手法とは切れていた。

紛れもなく、問題提起力のある一級のブラックコメディである。

(2012年1月)

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