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2013年8月17日土曜日

セブンス・コンチネント(‘89)        ミヒャエル・ハネケ



<「大量廃棄」によって無化される「大量消費」の「負のリズム」―― ハネケ映像の強靭な腕力の支配力の凄み>



 1  現代最高峰の映像作家



恐らく、ミヒャエル・ハネケ監督は、私たちの「映画観」を根柢から変えてしまう凄まじいパワーを持つ映像作家である。

一切の娯楽的要素を剥ぎ取って作り出した映像の凄みは、時には、薄っぺらで、見え見えな軟着点が予約されている娯楽作品を観ることに飽きた観客をも吸収してしまう、強靭な腕力のうちに放たれるラジカリズム(根源的な様態)によって検証されるだろう。

本作では、一家族の心中に至る物語から、観る者が勝手に想像することで誤読される危うさから守るために、肝心要の心理描写を削り取ってしまうのだ。

そこで描かれたのは、何某かの理由を持って、人間が死に至る状況に振れていくおどろおどろしい行為の総体であった。

先進国に呼吸を繋ぐ人々が、意図的に回避している「人間の死」に至るその悶絶の極みを、ここまで描き切った映像を私は知らない。

この映画を観れば、確信的に自殺を意図してもなお、「人間の死」に至る極限的事態の壮絶なリアリズムに震え、慄き、言葉を失うだろう。

初めから、「完成形」の映像を構築する能力の一端を表出するミヒャエル・ハネケ監督。

今や、このオーストリア人を越える映画監督は、残念ながら、私の知る限り存在しない。

これだけの作品を、デビュー作から構築してしまうこの監督の力量は、多分、現代最高峰の映像作家と呼ぶに相応しいだろう。



 2  「分りにくさ」と共存するメンタリティの大切さ
 


 
「ファニーゲーム」より
ファニーゲーム」(1997年製作)は、なぜ、観る者を、あれほど不快にさせたのだろうか。
 
ごく普通の中産階級の不特定他者の人格の総体に対して、非日常の極点である死に至るまで連射して止まない暴力を、ゲームのように愉悦する二人の正体不明の若者が、最後まで映像を支配し切っていたからである。

同時に、それは、「リモコン戻し」のシーンに象徴されるように、襲われた家族による「奇跡の逆転譚」を観る者に予約させる、ハリウッドの欺瞞的な映画文法へのアンチテーゼでもあった。

ところが、本作の「セブンス・コンチネント」は、些か風景が違っていた。

ここには「ファニーゲーム」のように、他者の存在を必要とすることを前提として、その不特定他者の凄惨な内的、且つ、外的風景を撃ち抜く映画ではないのだ。

―― 君の他の作品と比べて、特に際立っているのは、この映画には他者がいない。他者が介在せず、直接、自分自身と対峙している。なのに、余計混乱している。

  なぜなら、これは家族に帰属するからだ。この家族でもいい、あの家族でもいい。だから衝撃的なんだ」

ミヒャエル・ハネケ監督
これは、ハネケ監督の言葉。

この言葉に表れているように、一家心中に振れていく家族の内的風景どころか、他者の介在まで否定され、最後まで、外部環境との接続を断った閉鎖系の世界のうちに自己完結していくのである。

その意味で、「ファニーゲーム」よりも遥かに厄介であり、毒気も満点だった。

何にも増して、この映画が厄介なのは、「この家族は、なぜ心中に至ったのか」という肝心要の問題を深く掘り下げていくような物語として構築されていなかったこと。

これが大きかった。

だから観る者は、この映画に対して、「不快感」よりも、遥かに気味の悪い「不安感」を内側で増幅させて止まないのである。

心理学的に言えば、不快感の処理は意外に簡単である。

「悪意を持ったハネケ」が、自分たちに挑発してきた、「最悪のクソ映画」という風に解釈すれば済むことである。

しかし、「ハネケ映画」への「ブースター効果」(免疫機能が高まること)を持ち得ない生真面目な観客は、第3部での自爆の破壊シーンが開かれるや、あっという間に劇場を後にする気短な観客とは切れて、「不安感」を抱かされた状態で呆然とし、置き去りにされるだろう。

自分の内側に張り付いてしまった、「不安感」の残像だけが暴れている記憶を処理するのは簡単ではないのである。

この世の中で、「不安感」が継続力を持った人格の在りようこそは、実は、最も厄介な存在様態である。

だから私は、「不安に耐える心理」こそが、真の人間の強さであると考えている。

まさに「不安感」のシャワーを存分に浴びせられて閉じていく映像の凄みは、その「不安感」の処理に狼狽(うろた)える観客の心理に絡みつき、容易に浄化し得ないだろう。

 
 この「セブンス・コンチネント」(存在しない理念系の軟着地点)という名の、一連の「ハネケ映画」に通底するエッセンスが凝縮し、そのルーツとも言える映像が、観る者に「不安感」のシャワーを浴びせる根拠は何か。

この点については、「ファニーゲーム」がそうだったように、「セブンス・コンチネント」においても同じことが言えるだろう。

それを一言で言えば、一切が不分明であるからだ。

 何もかも閉鎖系で、自己完結的に処理される「一家心中事件」の原因が不明であるということは、観る者を不安と恐怖に駆り立てるのに充分なのである。

だから、原因を詮索する。

詮索せずにはいられないのだ。

「自分たちの暮らし、それが苦しくてたまらなかったのではないか?」

そんなレビューもあった。

 鬱病の弟を持った姉である妻もまた、鬱病を患い、その妻と共依存関係を作った夫が、いつしかイネーブラー(依存症者のサポーター)の関係を形成し、それが家族の心理的風景にあったのではないか。

 そんな見方も可能だろうが、一切が不分明であるということには変わりはないのだ。

ハネケ監督は、その点について、以下のように語っている。

「この事件を物語ることの難しさは・・・。新聞で記事を読んだ。当然ながら、記者は事件をこと細かく説明していた。取材を重ね、父親は借金に苦しんでいたとか、妻と性的に問題があったとか。くだらない説明だ。説明は・・・卑小化する」

―― 君は破壊の原因より結果に興味を持っている。 

そうだ。それは現代の人間が、物語を語る時に用いる方法なんだ。ずっと良心的だよ。原因を知っているふりをするよりも。文学でも同じだと思う。現代では原因を分析した小説を書きたがる作家など、どこにもいない。なぜ、この物語はこう展開するのか?人はいつも、眼の前に現れたものを通して物語る。もし説明が欲しいのなら、構造で説明すればいい。物語の構造は何かの説明になっている。だが、それは常に曖昧で、説明的に物語る方法とは対立する。説明は物語を饒舌に凡庸にする。もし、少々複雑なテーマなら、どう説明する?バカげている」

アンナとエヴァ
 観る者に、不安を掻き立てる基本因子である「分りにくさ」を作り出した映像に異議申し立てをしても、人間の複雑な心理に精通しているが故に、一切を「分り切った者」の如く説明することを拒むハネケ監督の誠実さに触れてしまえば、私たちはもう、それ以上何も言えなくなるだろう。

この「分りにくさ」こそ、この映画の基本骨格を成す鋭利な問題提示である、と私は考える。

「分りにくさ」によって駆り立てられた私たちの「不安感」の背景には、過剰なまでの情報氾濫の現実がある。

それ故に、却って、確度の高い情報収集の困難さの壁に弾かれていく。

仮に、確度の高い情報を入手しても、それを消化し、内化していくことが、いよいよ困難になっていけば、その事態を回避するために、結局は、表層的な理解で分ったことにする以外にないだろう。

氾濫する情報が渦を巻き、それに攪乱されるで、「不安感」を弥増(いやま)していくのだ。

情報革命が私たちの「分りにくさ」を生み出したという、このパラドックス。

それでも、他人が入手している情報を、自分だけが所有できないという不安に耐えられず、何とかして、「確信」という名の幻想に縋り付くしかなくなっていく。

だから、様々なメディアがリードする情報の共通のコードに縋ることになる。

「分りにくさ」との共存を怖れる心理が、そこにある。

ミヒャエル・ハネケ監督
然るに、「分りにくさ」と共存することは、ある意味でとても大切なことである。

自我を安心させねばならないものがこの世に多くある限り、人は安心を求めて確信に向かう。

しばしば性急に、簡潔に仕上がっている心地良い文脈を、「これを待っていたんだ」という思いを乗せて、飢えた者のように掴み取っていく。

人には共存できにくい「分りにくさ」というものが、常に存在するからなのだ。

 それ故にこそと言うべきか、「分りにくさ」との共存は必要である。

 自我を安心させねばならない何かが、引き続き、「分りにくさ」を引き摺ってしまっていても、その「分りにくさ」と共存するメンタリティこそ尊重されねばならないのである。

 ハネケ監督の映像は、最後まで、観る者に「分りにくさ」の不安感の状態に宙刷りにしてしまうのだ。

これは悪いことではない。

「説明は物語を饒舌に凡庸にする。もし少々複雑なテーマなら、どう説明する?バカげている」というハネケ監督の言葉を、私は挑発的言辞であるとは全く思わない。

人間の心の「分りにくさ」を、「分り切った者」の如く説明することを拒むハネケ監督の誠実さにこそ触れる思いがするのだ。
 


3  喘ぎ苦しみ、悶絶死していく描写を誤魔化すことなく映像提示した凄み



エヴァ
人間の心の「分りにくさ」 ―― これが、特化された家族が、ゲオルク、アンナの夫婦と、娘エヴァで構成される、ごく普通の印象を受ける中産階級の一家である。

3年越しで計画され、一家心中に流れていく家族の、その内面風景の「分りにくさ」が希釈化されたことで照射されるは、家族の遂行する破壊行為だった。。

「人生は行為に縛られる。人生は行為の総和だ。そして何も残らない。だから、彼らは映画のような破壊行動を取るのだ。一家は、自分の家と私物の一切合切、全てを破壊する。同じ激しさで、同じ緩やかさで、破壊に没頭している」

ハネケ監督の言葉である。

同時に、ハネケ監督は、一家の破壊行為を「解放のための行為」と説明している。

「これを、解放のための行為とも呼べるだろう。だが、あの行為は、彼らにとっては解放ではない。映画の一番悲しい部分だ。完全に物語の途中から、自殺を決意したところから、映画を作ることもできた。挑発的な映画にもできた。解放の映画を撮るのと同じようにね。だが私に言わせれば、それはになる」

「解放のための行為」であるにも拘らず、一家の破壊行為の内実が、「映画の一番悲しい部分」という印象を持つのは、この映画が、自殺を決意していく心的行程が全く描かれることなく、3年目にして、唐突に破壊行為のみに流れていった果てに、服毒自殺していく凄惨なシーンの連射が、観る者の感性を宙刷りにするような負の効果のみを生み出したからである。

 昇進の期待がありながら、一方的に会社を辞めたゲオルク

アンナとゲオルク
自分の事業を、鬱病の弟に託したアンナ。

銀行に出向き、気真面目に働いて蓄えたであろう一家の預金を引き出したゲオルク

「最後の晩餐」という、「旅立ち」の前のセレモニーを経て、家族は、かねてからの計画を遂行していく。

表情を映さないシーンが多いのは、「行為の総和」である人生を確信的に終焉させる意志を持つ者の表情を、ハリウッド流に大写ししていくことで、家族の心の「分りにくさ」について、「分り切った者」の如く説明することを拒むハネケ監督の姿勢が窺える。

―― ここから、物語を完璧に反転させていく第3部のシークエンスをフォローしていきたい。

「順序よく、系統立ててやろう」と言うゲオルクの言葉から、家族の破壊行為が開かれていく。

壁から額縁を外し、クローゼットの服を取り出し、奇麗に畳んであるシャツやカーテンを引き千切り、それらをハサミでを切り裂いていく。

その間、娘のエヴァもまた、自らが描いた絵や本をバラバラに断裁する。

LPレコードを真っ二つに割り、キャビネットの書類を投げ捨て、ソファーを切り刻み、家族のアルバムを一枚一枚破り捨てていく。

空っぽになった家具の全てをハンマーで打ち砕き、棚をチェーンソーで切り倒し、家屋にある一切合財を破壊していくのだ。

そして、熱帯魚の水槽を打ち壊し、中から大量の水と熱帯魚が零れ出てしまった。

「ダメよ!」

夫のゲオルクがハンマーを振り下ろす瞬間、妻のアンナは叫んだが、手遅れだった。

それは、娘のエヴァが最も大切にしている愛玩物なのだ

「放して、放してよ!」

部屋から飛び込んで来たエヴァの叫びである。

号泣し、暴れるエヴァを、母のアンナが必死に宥め、押さえ込む。

本作の「完全破壊」のシークエンスの中で、最も人間的な情感が伝わってくるシーンである。

「すまない・・・」

父のゲオルクの言葉が挿入されるが、そこに特段の感情が投げ入れられることはない。

暗転した画面が開いたシーン ―― それは、電話局からの不意打ちのような訪問だった。

電話が外れていることで苦情が出ているので、受話器を戻すように督促する。

ゲオルクは督促を了解し、電話局員を帰した後、電話の音響を消し、受話器を戻した。

そして、紙幣を切り裂き、その全てをトイレに流して捨てるのだ。

玄関には、義父母宛ての遺書が挟んである。

家族は軽食を摂った後、テレビをつけ、女性ボーカルポップミュージックを聴くが、無表情は変わらない。

テレビを見ながら、睡眠薬で永遠の眠りに入るエヴァ。

次いで、アンナが病院に通って貯め込んでいた大量の睡眠薬を砕き、固形物が混じったコップを一気に飲み干す。

更にワインを飲むが、子供と違って、大人は簡単に死ねず、既に遺体になっているエヴァを抱き、悶絶するアンナ。

睡眠薬で自殺するのは不可能ではないが、大量の睡眠薬を摂取しても身体が激しい拒否反応を起こし、嘔吐してしまうケースがあまりに多く、その苦しみは尋常ではないのである。

 この映画の凄いところは、この辺りの描写を誤魔化すことなく映像提示した点にある。

まさに、喘ぎ苦しみ、悶絶死していく妻の傍らで、最後の「遺体」となるゲオルクは、苦痛のあまり嘔吐しつつも、二人の死の時間を書き残した後、同様に、意識が朦朧と化しながら睡眠薬自殺を遂行する。

3年と1日を描いた作品の括りのカットは、テレビのスノーノイズだけが映像に張り付く構図だった。

 

4  我が子を殺すより、通貨の破壊力の大きさを検証したラジカリズムの極点



この一連の破壊行為に対して、ハネケ監督は重要な問題提示をしてみせる。

「背後に隠された深い意味が分からない。そのため・・・いや、そのためではないが、この映画は、偽りの情報を与え続ける従来の映画技法へのプロテクトでもある。映画に描かれる内容を、人は知ってる。どんなテーマでもいい、ある話を語るなら、既にそれを読んでいる。では、いかにして 観客の心のより深い部分に到達できるか?観客の好奇心は、描かれている対象が正確であることから生まれる。日常生活のディティールを描いたのは、正確に描くことによって、観客は行動している人物に対して興味が湧く。これは、言わば、構築破壊の逆だ。彼らは破壊することによって、自らの全人格を構築する」

 「背後に隠された深い意味が分からない」にも拘らず、「偽りの情報を与え続ける従来の映画技法へのプロテクト」としての映像提示 ―― まさに本作は、懲りることなく垂れ流し続けた映画技法に対する、決定的なアンチテーゼであった。

 
 描かれている対象の正確さを表現するため、ハネケ監督は、家族の「日常生活のディティール」を執拗に描き出していく。

「シーン:朝の風景。

 最初の数分は断片しか映らない。それは、日常生活のありふれた光景を示すためだ。人は、どのように日常の道具に支配されているか。彼らは生きていない。道具を使 い、行為を繰り返す」

朝6時起床のモーニングコールの役割をするラジオのニュース。

車とガレージの開閉音、工場での機会が作動する音、スーパーでのカートに、買った物を放り込む音、そして、電気スタンドや電話、CDプレーヤーから流れる音楽。

そして、娘のコーンフレークに牛乳を注ぎ、それをスプーンで食べる朝食など、中流階級の多種多様な生活音が、間断なく映像提示されていく。
 
しかし、一貫して語られないのは、自殺を決意していく家族の心的行程である。

この、肝心要の「分りにくさ」と共存するメンタリティを、観る者は求められるのだ。

 だからこそ、この家族の行為が不気味に印象づけられる。

通常、「見知らぬ者」に対する人々の反応とは、そういうものである。

 ハネケ監督は語っている。

「見知らぬ者は、いつも人に不安を掻き立てる。どんな映画も、その不安を扱っている。理解できないものに対して、人は不安を覚える。なぜ人は、よそ者を憎むか?理解できないからだ。恐怖が憎しみに変わる。残念ながら、世界はそういうものだ。(略)この映画でカンヌに行った。初めてのカンヌだった。初めての監督作だからね。観客たちと質疑応答があって、ある女性が手を挙げて言った。オーストリアはそんなに憂鬱?(笑)みんな楽しげに笑った。一家の行動は、ある種の逃避だと皆が理解したのだ。なぜなら、いつも自分とは関係のない映画や、関係のない本を求めるのは、なぜ関係ないか理由を探すためだ」

「見知らぬ者は、いつも人に不安を掻き立てる」のは、「理解できないから」である。

だから観る者は、この家族それ自身の存在にに不安を覚え、「この家族、絶対におかしいYO!」(レビュー)という簡便な結論に落ち着くことで、自我を武装解除する。

テロリストなら問題ないだろう。

彼らを「狂人」と思えばいいだけのこと。

しかし、この3人家族は違う。

「狂人」と言い切れないから厄介なのだ。

それでも、肝心要のモチーフの「分りにくさ」の問題が尾を引いてしまう。

だから、害を与えるべき特定他者の存在を必要とするテロリストと、そこだけは切れるが、特定他者の存在を必要としないこの家族もまた、「狂人」と思えば不気味な不安から解放されるのだ。

或いは、自分が納得し得るラベリングを、この家族の常軌を逸する行為に貼り付ければいい。

「ファニーゲーム」より
しかし、本作の得体の知れない「分りにくさ」は、ハリウッドの映画文法を壊すことが主目的だった「ファニーゲーム」をも突き抜けていた。

社会全体のタブーに抵触していたからだ。

「子供は問題なかった。そして予言通り、何人もがドアを鳴らして劇場から出て行った。上映の度に、必ずこうした抗議行動が起こった。タブーだからだ。通貨を破壊する方が、親が我が子を殺すよりも遥かにショックが大きい。社会全体のタブーなんだ。これは私の独創じゃない。新聞の記事に、一家がそうしたと書いてあった。私が思いつけたかどうか分らない。実際に一家は銀行に行き、全財産を引き出して捨てた。警察は金を回収できなかった。コインが皆、底に詰まってしまって、そのために便器を壊すしかなくて、全部壊したんだ」

「社会全体のタブー」とは、中流階級の豊かな生活音である3人家族が拠って立つ、「現代文明社会」のタブーと言い換えてもいい。

 「通貨を破壊する方が、親が我が子を殺すよりも遥かにショックが大きい」というハネケ監督の指摘は、まさに、強靭な腕力のうちに放たれたラジカリズム(根源的な様態)を内包する、「第3部」で暴れ捲った映像提示のうちに検証されたのである

 しかも、この暴れ捲ったシークエンスが、恐ろしいほど落ち着き払うゲオルクの言葉によって開かれるのだ。

「順序よく、系統立ててやろう」

この言辞の破壊力の凄み。

それは、「現代文明社会」のタブーに挑戦する者の如く、誰よりも確信的だったから厄介だったのである



 5   「大量廃棄」によって無化される「大量消費」の「負のリズム」



「この映画は富める国の肖像だ」

ハネケ監督のこの言葉のうちに、本作の基幹メッセージが凝縮されていると考えて間違いない。
 
このメッセージは、「大量生産」、「大量消費」、「大量廃棄」という、使い古された概念によって特徴づけられる「現代文明社会」の厄介なアポリアとして、一家族内に特化され、映像提示されていた。

「プロダクト・ライフサイクル」(製品が市場に出現してから消えていくまでの期間)の縮小化という問題に端的に説明されるように、大量生産のシステムによって市場に出現していく製品量が増大化する社会では、人々の「大量消費」と「大量廃棄」の速度も増幅し、より高機能・高性能・高品質の製品への需要が膨らんでいく原理を、「現代文明社会」は宿命的に包含している現実を否定し得ないだろう。
 
この3つの地続きの概念の中で、本作が拾い上げたのは、言うまでもなく、淡々とした家族の生活風景の中で描かれた、物語の前半を占める「大量消費」と、後半の破壊行為に象徴される、「大量廃棄」の一連のシークエンスである。

観る者は、鮮烈な視覚刺激の映像のシャワーを浴びることで、後半の「大量廃棄」の物理的様態に眼を奪われやすいが、しかし、そこに至るまでの心象風景を全く映像提示することのない本作から、読み取るべき重要な伏線があるとしたら、「大量消費のトラップ」と呼ぶべき、「現代文明社会」のアポリアについて切り取られたシーンを想起する必要がある。

それは、スーパーの大きなカートの中に、家族が消費するだろう飲食品を、それを消費する者の表情を写し取ることなく、人間の手によって殆ど機械的に投げ入れていく物理的循環だけが、映像的に切り取られていくのだ。

だから、その手の人物は、その家族の何者かでなくても一向に構わないというメタファーが、そこに潜んでいる。

この物理的循環の連射は、スーパーで買い込んだ大量の飲食品を消費するごく普通の風景をリピーティングしていくことでリズムが生まれる。 

「ひとつの可能性はリズムだ。映画とはリズムだから、私にとって映画は文学よりもっとずっと音楽に近い」

 ハネケ監督の言葉である。

然るに、そのリズムは、決して観る者の心を癒すような何ものでもなく、言わば、「大量消費」という負の記号が脈打つ「負のリズム」である。

そして、その「負のリズム」の極点が、ファーストカットから映し出された洗車の機械音が、第二部において、家族3人が暗い車内に閉じ込められ、そこに外部から、激しい洗車のシャワーが間断なく打ちつけてくるシーンであると言っていい。

それは、外部から叩きつけてくる激しい機械音が、暗い車内で閉じ込められている家族の感情の、外部環境との自己完結的な閉鎖系のイメージをシンボライズするからである。

そんな中で、繊細な心を持つ娘のエヴァが、思わず、母の手を求めていくカットは、この家族の内的風景を端的に表現するものだった。

娘の手を離し、嗚咽する母アンナ。

この間、3分半。

母の嗚咽は、洗車の直前に交通事故を視認したことに起因するが、ハネケ監督は、閉所恐怖症に襲われる母の心理を一言で表現する。

 彼女は人生を悟った。あの瞬間にね。自分の人生を悟るのは愉快な経験ではないさ」

この辺りに、消費財の破壊行為のうちに提示した、後半の「大量廃棄」に流れ込んでいく、家族の心理的風景を読み取ることができる。

ここで、私は勘考する。

ハネケ監督には、この「負のリズム」を執拗に映像提示することで、「現代文明社会」を安直に指弾する意図などないであろう。

ただ、その「過剰さ」を、的確なカットを繋ぐ、観客インボルブ型の映像それ自身が持つパワーによって異議申し立てをしているのである。

利便性の一つの極点として作り出された、原動機の動力によって駆動する陸上車両の、プライバシーを占有し得る狭い空間に閉じ込められる家族は、いつしか、利便性を追求するはずの道具によって支配されている禍々(まがまが)しい現実を、まさに、文明社会で呼吸を繋ぐ者たちの普通の風景として無化することを拒むメッセージが、そこに含意するに違いない。

然るに、「現代文明社会」の厄介なアポリアを認知しつつも、この社会は、消費財としての快楽装置の洪水が氾濫する、際立ってネガティブな風景ばかりを開いている訳ではないのだ。

私たちは、もう、電気と抗生物質なしの世界に住めない文明社会を作ってしまったのである。

誰が悪いのでもない。

私たち人間の「性」(さが)であると言っていい。

快適と利便性を求め続けてきた私たちの歴史は、大雑把に言えば、「豊かさ」→「自由」→「私権の確立と拡大的定着」→「価値相対主義」という航跡の波動を不可避にしてきたように思われる。

これは、没個性的で、画一的な「大衆」から、個性的で、多様な「分衆」の時代への変移と軌を一にするとも言える。

まさに、「少しでも楽な生活をしたい」という思いが文明への強靭な推進力と化し、それが眼の前に具現し得る可能性を抉(こ)じ開ける能力に集合したとき、「目標勾配」(ゴールが見えると加速する)の心理学をトレースするように、私たちは、もう、一気に「敵陣」に向かって攻め込んでいく以外の選択肢を持ち得ないのではないか。

私の場合、文明社会の恩恵に対して感謝の気持ちで一杯である。

電動ベッドなしに生きていけないからだ。

「隠された記憶」より
「隠された記憶」(2005年製作)のテーマにも通底すると思われる本作は、ハネケ監督の把握の中にどれほど包含されているか不分明ながらも、先進国社会の「富の配分」に対する異議申し立てという問題意識を窺えるが、私から見れば、先進国社会の「富の配分」(注)の問題は、緩やかだが、確実に是正されていく方向性を失っていないと思うが故に、むしろ、先進国社会の「負担の配分」こそ、喫緊のテーマであると考えている。

この問題に関して言えば、サブサハラのGDPが、殆ど関数的に上昇していきながらも、相変わらず抱えているアポリアが、途上国の「富の配分」であると認知せざるを得ない現実を認めつつも、「途上国の資源」を収奪する帝国的国家の存在をも含めて、その辺りに、「この映画は富める国の肖像だ」と言い切るハネケ監督の問題意識を読み取ることも可能である。

以上、縷々(るる)言及した、私なりの問題意識に即して、改めて本作を考えるとき、一家心中の凄惨な物語の中に、最も重要であると思える台詞を想起せざるを得ないので、それを引用する。

 「母が死の数日前に言ってたよ。頭がモニターになっていて、考えていることが見えたらいいねって」

実母の死によって、鬱病になったアンナの弟の言葉である。

まさに、この言葉こそ、「現代文明社会」の究極の到達点であると言っていい。

相手の考えていることが見えたら、相互の感情までもが一切透けてしまうのだ。

それは、言語交通のルートが拡大的に飛躍するという利便性の極点と思いきや、防衛機制のスキルのチープさが見透かされることで、却って厄介な事態を招来するだろう。

そして、驚くことに、相手の考えていることが分る脳介機装置が既に発明され、介護・福祉のフィールドで実用化されているのである。


ブレイン・マシン・インタフェース(脳情報通信融合研究センター)
その名を、「ブレイン・マシン・インタフェース」と言う。

これはウィキペディアによると、以下の機能を具備している。

「脳の神経ネットワークに流れる微弱な電流から出る脳波を計測機器によって感知し、これを解析する事によって人の思念を読み取り、電気信号に変換する事で機器との間で情報伝達を仲介する。情報の流れが一方通行の片通脳介機と、相互疎通が可能な双通脳介機が想定されているが、現在実現しつつあるのは一方通行の片通脳介機技術のみである」

何より評価すべきは、この「ブレイン・マシン・インタフェース」の登場によって、ロックドイン(筋肉を動かせず,意思の疎通が途絶される状態)されたALS(筋萎縮性側索硬化症)の患者などに使用されていることで、言語交通の可能性を保証したという事実である

iPS細胞の援用による治療の可能性も含めて、それらは全て「現代文明社会」の恩恵であると言っていい。

映画から逸脱したが、ハネケ監督は、そのような事象まで把握しているはずなので、特段に異を唱えるとは思えないので、私がここで言いたかったのは、それなしに生きていけない現実に存分に浸かりながら、「現代文明社会」を安直に批判する欺瞞的ヒューマニストの、化石化した奇麗事満載の言辞について雑感を述べた次第である


(注)ジニ係数が高く、再分配機能が脆弱であると同時に、世界の富の20%以上が集中し、「持てる者」と「持たざる者」との格差は拡大していると言われる米国は、「大量消費」国家の代名詞である。だからこそと言うべきか、この国は、民間人の富豪による寄付金額の数字は、2000年段階で20兆円を超え、他国を圧倒している現実をも知らねばならないだろう。因みに、「寄付白書2011」によると、「寄付金文化」が育っていない日本の寄付金が5000億にも届かないというのが現実。また、米国では今、死後、自分の財産の半分を寄付する慈善活動としてのギビング・プレッジが有名で、そこには、ビル・ゲイツ、ウォーレン・バフェット、ジョージ・ルーカス、ブルームバーグ、マーク・ザッカーバーグなど、錚々たる面々がその名を連ねていて、総額にすれば50兆円とも言われる、世界最強の慈善団体を作っている現実をも知るべきである。


【なお、 ハネケ監督の言葉は、本作のDVDの特典映像の「ミヒャエル・ハネケ セルジュ・トゥビアナ対談」より引用】

 (2013年8月)

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