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2014年7月2日水曜日

ミザリー(‘90)     ロブ・ライナー


<「闘争・逃走反応」への心理の変容過程の致命的欠損が立ち上げた「車椅子のスーパーマン」>



1  「攻撃的狂気」を屠っていく「防衛的正義」の「悪者退治」の物語



人間心理の歪みについての批評の余地を残すサイコサスペンスなら、もう少し、人間の心理の恐怖感がリアルに再現できたにも拘らず、残念ながら本作は、その辺りの冷厳なリアリティが欠けていたので、「驚かしの技巧」をフル稼働させ、キャシー・ベイツの抜きん出た演技力だけが光る、単なるハリウッドのサイコもどきのホラー映画と言う外になかった。

本作で描かれた類の事件が頻発する類の刑事事件ではないものの、「起こり得る厄介な危うさ」を内包することを考慮するとき、人間の情動や感情が複雑に絡み合って、変化していく振幅が丁寧に、且つ、視覚的に描かれていれば問題なかったが、それが殆ど補足的に切り取られていたという印象を拭えないので、詰まる所、キャシー・ベイツの「攻撃的狂気」を屠っていくジェームズ・カーンの「防衛的正義」が、ハリウッド流の「奇跡の逆転譚」を立ち上げる、勇ましき「悪者退治」に収斂される映画に終始してしまったのである。

以下、そんな「悪者退治」の物語を簡単にフォローしていく。

一人の男と、その男に取り憑く一人の女がいる。

極端に自己中心的な女は、某かの精神的土壌に起因する「自我の形成不全」によってか、対象への異常な執着を示し、それを身体化するに至る過程で、隠し込まれた怒髪天を衝く激しい攻撃性をもって、執着対象への支配欲を剥き出しにして、強烈なる「病的な個性」を全開させていく。

女の名は、アニー。

元看護婦である。

その女・アニーに取り憑かれた男の名は、ポール。

大衆小説「ミザリー・シリーズ」で名の知れた流行作家である。

本来、出会う蓋然性の乏しいこの二人が出会った契機は、ポールの自動車事故だった。

「ミザリー・シリーズ」の最終稿を書き上げた後の事故で、重傷を負ったポールにアウトリーチし、甲斐甲斐しく看病するアニー。

まるで、信仰が背景にあると思わせるように、元看護婦のスキルをもって、傷の手当ては勿論のこと、食事の世話から排便処理に至るまで、何から何まで身体介護していくのだ。

「君に助けられたのは奇跡だな」

いつもポールの動向を追っていたというアニーは、「吹雪の日も通りかかったので、奇跡じゃないわ」と言いつつ、自分の思いを吐露する。

「“ミザリー・シリーズ”は全部読んだわ。あなたは天才よ」。
「うれしいよ」

しかし、アニーに対するポールの感情が氷解していくのも、あっという間だった。

「自動車事故から命を救ってくれた恩人」

そう言って、感謝の思いから初稿を読むことを特別に許可するポール。

ここから、事態は一変する。

「言葉が汚いわ」

初稿の一部を読んだアニーは興奮し、その不快感を叫喚に結ぶ。

その後も、ポールが「家族との連絡を取りたい」と言っても、ミザリーの話題にしか触れないアニー。

「よくもやったわね。彼女を殺すなんて!」

初稿を読み終えたアニーは、別人になっていた。

「ダマされた。これからは、今までと違うからね」

そう言って、荒れ狂うアニー。

動けないポールの心に恐怖感が走るが、アニーの異常性を知ったポールには、彼女の命令に服従する選択肢しかなかった。

「ミザリーの生還」

このタイトルで、アニー原稿の書き直しを要求してきたのである。

その最終稿の内実は、ポール自身が流行作家であるというイメージを払拭し、本来のテーマに挑み、大衆小説からの脱皮を図ろうという意図を有し、ミザリーの死によって、「ミザリー・シリーズ」を自己完結させる原稿だったのだ。

この流れの延長上に、「ミザリー・シリーズ」 の思いも寄らない展開に憤怒するアニーの異常性が露わにされ、物語の風景を決定的に変えていく。



2  継続的に暴力を受けた者の心理的リアリティの欠落の瑕疵



アニーの異常性が激しい攻撃行動にまでに膨張していく渦中にあって、ポールの情動反応は、一気に戦闘モードに振れていく。

当初、「特定敵対者」としてのアニーには、付け入るに足る隙があったからである。

自分が相手に対して上手に対応していけば、クローズドサークル(外界との連絡が断たれた状況)からの脱出のチャンスがあると、動けないポールは考えていたのだろう。

この時点で、アニーは「特定敵対者」であっても、「狂人」というイメージより、単に、「熱狂的で異常なファン」でしかないと見做していたからである。

だから、彼女を籠絡する戦略を駆使していく。

その典型的な例が、アニーをディナーに誘い、その場で、密かに貯めておいた薬剤をワインに混入した一件である。

これは、あえなく頓挫するが、まもなくポールは、アニーが犯したと断定し得る連続殺人という、過去の忌まわしき情報を入手する。

全て、アニーの看護婦時代の話だった。

「思い出のアルバム」という、柔和なイメージを誘う冊子に収められた新聞のスクラップ。

そこに詰まったアニーの過去の闇。

一瞬にして変換してしまうアニーへの情報に接して、ポールの心は凍結する。

それは、まるで自慢げに、過去の闇を平然とスクラップする狂気に最近接したときの恐怖であった。

「熱狂的で異常なファン」という認識が、「恐るべき殺人鬼」という認識に変換された凍りつく情報は、その「恐るべき殺人鬼」の獲物のトラップに、流行作家である自分が捕捉された現実の認知でもあった。

包丁を懐に忍ばせて、常に極限の戦闘モードに自己投入する男には、身体を自在に動かせないという決定的なハンデがある。

その決定的なハンデが、「恐るべき殺人鬼」によって無能化されるのだ。

馴れない車椅子を駆使してのポールの移動が、呆気なくアニーに気付かれ、巨大なハンマーで砕かれてしまうのである。

流行作家の失踪とアニーとの関連に目を付けた保安官が、誰も訪問することのないアニーの家を訪ねて来るが、救いを求めるポールの前で銃殺されてしまうに至る。

絶望的状況下で、「殺るか、殺られるか」という「戦争」が開かれ、車椅子から体当たりしてのポールの「奇跡の逆転譚」によって、「悪者退治」を自己完結させていく。

ただ、これだけの話だが、私には相当の不満が残った。

この映画には、肉体的にも精神的にも甚振(いたぶ)られた者の恐怖感が、ほんの付け足し程度で、補足的に切り取られていただけで、心理的リアリティがすっぽりと欠落しているのだ。

ここで、私は想起する。

このようなハリウッド映画のスリラーの、由々しき瑕疵への強烈なるアンチテーゼとして、ミヒャエル・ハネケ監督の「ファニーゲーム」(1997年製作)が作られたという事実を。

「ファニーゲーム」が、なぜ凄かったのか。

継続的に暴力を受け、人間の尊厳を傷つけられた人格の、その圧倒的な恐怖のリアリティでを描き切ったからである。

見知らぬ若者たちの不法侵入によって、夏のバカンスを楽しむ、ごく普通の「中流階層」の家族の父親が、いきなり、ゴルフクラブによる膝下の一撃によって、抵抗し得るに足る身体機能が無能化されたことで、アウトローへの「奇跡の逆転譚」どころか、ハリウッドのタブーとも言える、真っ先に我が子が銃殺されたその部屋で、両手足を縛られた母と、骨折して動けない父が、言葉すら出てこない恐怖に呪縛され、「クローズドサークル」の狭隘なスポットに置き去りにされるシーンを、10分間に及ぶ無言の長廻しのうちに描き切ったのである。

それは、ハリウッド映画における暴力描写に決定的に欠ける何かだった。

「正義・人道・弱者利得」という理念が、物語の中枢を占有しているからだ。

ファニーゲーム」より
しかし、私たちが当然の如く決め付けている理念が、「ファニーゲーム」には微塵もない。

ホラー効果を増幅させるための「驚かしの技巧」が、ここには全く駆使されていないし、暴力描写それ自身が描かれることはないのだ。

だから、ハリウッドのバイオレンスシーンに馴致してしまうと、本作での、ゴルフクラブによる致命的一撃の描写が見せたリアリズムに気付くことすらないほど、私たちは鈍感になっているに違いない。

 膝下の打ち砕きという一撃の描写なしに、かくも人間が、呆気なく壊されゆく存在であることの怖さについて、痛々しく感受させた映像の凄み。

 その凄さに圧倒されるばかりだった。

思えば、完璧主義者のウィリアム・ワイラー監督ですら、「大いなる西部」(1958年製作)という名画の中で、夜を徹しての1対1の殴り合いの喧嘩のシーンを挿入していたことを思えば、朝まで喧嘩を続けられる「巨人」になれるのは、ハリウッド限定という外にない。

ところが、「ミザリー」というサイコもどきのホラー映画では、重傷を負って馴れない車椅子を駆使する流行作家が、「恐るべき殺人鬼」によって、両足を巨大なハンマーで打ち砕かれ、身体機能が無能化されても、腕力のある「殺人鬼」に立ち向かい、殺したと思いきや、再び襲いかかってくる相手を最終的に破壊するという、ハリウッドホラーの定番のシーンが執拗に描かれていて、正直、辟易した。

大体、継続的に、且つ、致命的な暴力を受けている者が、その暴力によって巨大な敵を斃すことなどあり得ないだろう。

何より、継続的に暴力を受けた者の圧倒的な恐怖感の欠落。

これが全てだったと言っていい。

心理的リアリティを欠落させた映画からは、ただ単に、「キャシー・ベイツ、怖かった」というような感懐くらいしか残らないだろう。



3  「闘争・逃走反応」への心理の変容過程の致命的欠損が立ち上げた「車椅子のスーパーマン」



本稿では、この映画を、心理的リアリティを精緻に再現したイメージの中で考えてみたい。

追い詰められ、特定的的敵対者から取り憑かれ、甚振(いたぶ)られゆく者の心理の変容のプロセス。

これが、私の問題意識の中枢にある。

キャシー・ベイツ演じる、アニーによって甚振(いたぶ)られゆくポールの心理の変容のプロセスを、私は、以下のように整理してみた。

驚き⇒喜び⇒不安⇒恐怖⇒恐怖の常態化による失意⇒「闘争か逃走か反応」を惹起し、逃げ場を失った脅威的状況の渦中で、「特定敵対者」に向かって「恐怖突入」していく。

本来、物語の作家であるポールの心理の変容過程は、以上のような行程を描き出すだろう。

そこで重要なのは、「闘争か逃走か反応」=「闘争・逃走反応」への心理の変容過程である。

この「闘争・逃走反応」とは、身体の健康を維持する生理学的恒常性の機能を「ホメオスタシス」という概念を提示したことで有名な、米の生理学者・ウォルター・キャノンが提唱した仮説であり、簡単に言えば、恐怖に対する動物の本能を説明したものである。

この「闘争・逃走反応」がリアルに再現されていたならば、この映画を評価する余地が生れていただろう。

しかし、それが読み取れなかったので、ここでは、「闘争・逃走反応」を単独のテーマとして考えてみたい。

動物と同じように、人間にはこのホルモンが生来的に具備されていて、「特定敵対者」に対する恐怖感情を感受すると、視床下部にある交感神経(心身をリラックスさせる副交感神経と共に自律神経を構成)が心臓の心拍数を高め、血圧を上げ、瞳孔を開かせ、筋肉を刺激し、血糖値を上げることで身体運動を活発にさせていく。

感情の生理反応が、自律神経系(特に交感神経系)の活動によって生み出される事実は、感情の生理過程の問題に収斂されるという人間の体内の本能的構造の事実に尽きる。

自律神経系(神経による筋収縮の指令-ニューロン・サイトより)
この生理過程において、身体の危機を感知したとき、副腎髄質から分泌されるストレスホルモン、即ち、アドレナリン(不安の除去)とノルアドレナリン(恐怖の除去)の放出が、「脳内ホルモン」=神経伝達物質として決定的な役割を演じるのである。

「逃走」を回避し、「闘争」に立ち向かうことで、自らを囲繞する脅威的状況を突破していくのだ。

然るに、私たちは、ストレス処理の困難なディストレス状態に搦(から)め捕られてしまった心理の怖さについて、決して軽視してはならない。

長期にわたって、支配⇔服従の「権力関係」が続き、そこに精神的・身体的暴力が継続的、且つ、加速的に膨張していく状況が変化しないという意識が刷り込まれてしまったならば、その負のスパイラルの極限的状況下で、自我の被弾を受けた者の免疫力は劣化し、いつしか、「何も為し得ない」脆弱性を露わにするだろう。

加速的に膨張していく緊張状態に、一人の人間の持ち得る自給熱量が枯渇し、無気力の状態にまで下降してしまうのだ。

絶望感が自我を拉致し、ウツ状態になって、その状況から脱出しようとする努力すらも放棄してしまうのである。

ストレス回避の困難な状況に置かれた者の、この極めて凄惨な内的状態を、「学習性無力感」と言う。

アメリカ人心理学者・マーティン・セリグマンの仮説である。

犬を用いて行った実験で確認された理論だが、相当に説得力のある仮説であると言っていい。

「犯していないにも拘わらず、なぜ自白するのか」(多くの冤罪事件)、「監禁から脱出できたチャンスがあったのに、なぜ逃げなかったのか」(女子高生コンクリート詰め殺人事件)等々、幾らでも事例があるが、近年、我が国でも、遅ればせながら、「学習性無力感」の破壊力の怖さが浸透しつつある。

ついでに言えば、「虐められたら、なぜ、勇気を出して闘わないのか」という物言いが、如何に暴論であるかということに気づくべきである。

マーティン・セリグマン(サイト「つれづれBOOK随想」)
もし自分が、自分以外の複数の「特定敵対者」から継続的に虐めを受け、且つ、担当教諭を含む、無関心を装う澱んだ空気の渦中に放り込まれてしまう厄介な事態を想定すれば、相当程度、得心が行く人もいるだろう。

物語に戻る。

ジェームズ・カーン演じる、流行作家ポール・シェルダンは、そこは如何にもハリウッド映画らしく、信じ難い「奇跡の逆転譚」に振れていったが、彼のケースは、「学習性無力感」に拉致されていなかったと解釈する外にないということになる。

短期間の拘禁であったが故に、それも不可能ではないが、だからと言って、「闘争・逃走反応」がフル稼働した挙句、暴力をもって暴力を制する、「車椅子のスーパーマン」に変身し得ることなど決してあり得ない。

これだけは、はっきり断言できる。

ここで、ポールが「闘争・逃走反応」に振れていく心的行程を考えてみれば、この指摘が了然とするだろう。

驚き⇒喜び⇒不安⇒恐怖⇒恐怖の常態化による失意。

この心的行程を通して、最も肝心な「恐怖」の心理の振れ幅が、そこだけはリアルに表現されていなかったら、単なるスリラーか、それともエンタメ・アクション映画に堕してしまうのだ。

単なるスリラーで物語のフォーマットを成しているのなら、ポールが「闘争・逃走反応」に振れていく喫緊の行動様態は、致命的なハンデを持った「善」が、重武装した確信犯の「悪」を、驚嘆すべきことに、その致命的なハンデを全く感じさせない「スーパーマン」の「正義」の推進力によって、「予定調和」の不文律のうちに決着をつけるアクション映画の景色しか垣間見せなかったということになる。

その景色には、「闘争・逃走反応」に振れるに足る、極限的な不安・緊張・恐怖をきっちり描くサイコサスペンスの王道の切れ味とは無縁で、殺人鬼と闘うグロテスクな「ファイト」の気味の悪さだけが残像化されるだけだろう。

「単なるホラー映画じゃないか」

そう割り切って、エンタメムービーとして受容し、理屈をこねるのは野暮という俗論で収斂させればいいのだろうが、ただ、こういう物言いを吐く者もまた、一人の熱心な「鑑賞者」であるいうことだ。

最後に、アニーに関しても書いておこう。

アニーの異常さの供給源は、生理学的には、ホルモンを分泌する器官としての内分泌系の機能不全によって、テストステロン(女性にも分泌される男性ホルモンで、攻撃行動との相関が指摘されるが、異論もある)の過剰分泌傾向にあると考えるのが妥当かも知れない。

その意味で、このアニーの様々な性格的な特質が、某かのパーソナリティ障害(精神病ではなく精神病質)として顕在化しているとも考えられる。

前頭葉の障害であるとされる精神病質(サイコパス)は行動異常を発現するが、病気ではないので治療的アプローチは困難である。

映画で描かれたアニーの様々な性格的特質には、以下の様態が垣間見られたことを考えれば、治療的アプローチの困難さを実感するだろう。

極端な自己中心性と他者に対する冷淡さ、激しい攻撃性、罪悪感の希薄さ、耐性欠如、虚言癖、情緒感覚の浅さと不安定感、当意即妙の饒舌さ、共感性の欠如、過剰な自尊心、感情の抑制機構の欠如、社会規範意識の致命的欠如、想像力の異常な膨張、等々。

この類の性格傾向を特徴的に有する者は、心理学用語でサイコパス(精神病質)と称されるが、「精神病質」という概念で説明されていることで分るように、統合失調症やラピットサイクラー(躁鬱病の一種)のような「精神病」とは切れているが故に、パーソナリティ障害(この場合は、「反社会性」という語が頭に付く)としてカテゴライズされ、「治療」の困難さを常態化させていると言っていい。

即ち、アニーの場合、ストーカーや境界性パーソナリティ障害の治療として注目されているが、カウンセリングによって、思い込みと現実のギャップを認識させ、「認知の歪み」を正す認知行動療法の一種である、「弁証法的行動療法」と呼ばれる治療的アプローチという範疇を越える現実を否定せざるを得ないのである。

ストーカーの治療をも無化してしまう、アニーの心の風景のルーツへのアプローチについて、この映画では全く関心がないと思えるから、これ以上の言及は不要であるだろう。

驚き⇒喜び⇒不安⇒嫌悪⇒怒り⇒支配欲による継続的攻撃性⇒「戦争」による物理的崩壊。

従って、この経緯で斃れていった、一人の女の〈生〉の断片が切り取られた残像を残して、「恐るべき殺人鬼」の物語が終焉し、その「殺人鬼」を斃した一人の男の〈生〉の断片が、容易に消えないトラウマと化して、その自我に張り付いていくという贅肉を加えただけの話だった。

【参考資料・拙稿 「人生論的映画評論・ファニーゲーム」より】


(2014年7月)

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