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2014年5月15日木曜日

聯合艦隊司令長官 山本五十六-太平洋戦争70年目の真実- (‘11)   成島出


<「メデイアの加害者性」を衝く反戦映画>



 1  「メデイアの加害者性」を剔抉した、「基本・反戦映画」の鮮度の高さ



この映画は、たとえ通州事件(1937年7月)があったにせよ、侵略戦争としての日中戦争ではなく、帝国主義間戦争(市場再分割戦争)としての太平洋戦争に焦点を当て、その戦争に対して、冷厳なリアリズムで反対する者がいても止められなかった、無謀な戦争の推進力になったものの「真実」を見つめていくことで、良かれ悪しかれ、「誰よりも、戦争に反対した男がいた。」というキャッチコピーのうちに鮮明に印象誘導させ、特化させた物語である。

 冷厳なリアリズムで反対する者=「誰よりも戦争に反対した男」の名は、言うまでもなく山本五十六。

 南方作戦の一環として策定された作戦としての、真珠湾攻撃の作戦立案(注1)の最高責任者である、後の聯合艦隊司令長官である。

 日独伊三国同盟締結と対米開戦に反対した「海軍左派」(条約派=米内光政・山本五十六・井上成美)の揃い踏みを見せ、拠って立つ思想性のバックボーンを見せた後、本篇で最も重要な会話が開かれていく。

 以下、東京日報の主幹・宗像(むなかた)と、山本五十六海軍次官の会話。

 「こと、ここに至っても、海軍は三国同盟に反対を貫かれる訳ですか?」 
「ええ、勿論です」
 「理由は、やはりアメリカですか?」
 「ドイツと手を組めば、あの国は黙っていませんからね」
 「差別的な排日移民法(注2)で、我が同胞から土地を取り上げたのは、どこの国ですか?」
 「アメリカです」
 「国際連盟を提唱しておきながら、自らはモンロー主義を持ち出して、加入しないなど言い出したのは?」
 「アメリカです」
 「その上、自国は植民地を広げているくせに、大陸における我が国の正当な権益を認めようとしない」
 「その通りです」
 「なぜ、そんな国を討ち払おうとしないのです」
 「討ち払うことができますか?」
 「確かに。船の建造能力は、我が国の4.5倍。飛行機は6倍。車は100倍。石油に至っては700倍。日本の一年分の消費量の僅か半日で生産する。国力で言えば、アメリカは今、日本の10倍でしょう」
 「正しいご認識だ」
 「しかし日露戦役では、同じ国力の10倍のロシアに勝ったではないですか」
 
左から真藤、宗像、山本五十六
「当時のロシアは革命の最中でした。優に何とか、あの一戦の勝利をもって講和に持ち込めた。だが、今や戦は、国を懸けての総力戦です。どちらかが焦土と化すまで終わりませんよ」
 「だからアメリカの顔色を窺って、大人しくしてろ、と」
 「いいえ。我が国の立場を主張すべきところは堂々と主張する。臆することなく相手国と向き合う。それは、外交によって為されるべきだと申し上げておるんです」
 「確かにその通りです。そして、その外交の最終手段として戦争がある。違いますか?」
 「いいですか、宗像さん。いったん、ことを構えたら、後戻りできないのが戦です。熟慮することなく突き進み、この国に災禍を招いてはならない」
 「だから、耐え忍べとおっしゃるんですか?この暗澹たる閉塞感に国民が押し潰されても構わない、と」
 「その閉塞感とやらを、むしろ煽っているのはあなた方ではないのですか?」
 「我々新聞は、ただ世論を代弁しているだけですが」
 「その世論とは、果たして国民の真の声なのでしょうか」

この会話には、「世論の代弁者」という堂々とした看板を立てることで、国民に戦争を煽っていった、当時のメデイアの状況性が端的に示されている。

 無謀な戦争の強力な推進力になった「メデイアの加害者性」が、あまりに分りやすい構図として提示されているのだ。

 これは最初から、東京日報の架空の記者・真藤(しんどう)が映画のナビゲーターとなって、物語が進行することで判然としている。

 
東京日報の記者・真藤
真藤は、時には、山本五十六の内面に侵入し、その心情をも忖度し、観る者に、「誰よりも戦争に反対した男」というメッセージを鮮明に印象誘導させていく。

 この真藤こそ、山本五十六の分身であり、製作スタッフの分身であり、そして何より、原作・監修者の半藤一利の分身でもあると言える。

 真藤の煩悶が山本五十六の煩悶と溶融し、同様に、架空の人物である東京日報社の主幹・宗像を記号化させ、「無謀な戦争の強力な推進力になったメデイア」を弾劾するという、物語の構造がそこにある。

 真藤のラストナレーションに収斂されていく、この辺の物語の構造が新鮮に見えるのは、ここまで「メデイアの加害者性」を剔抉(てっけつ)した、「基本・反戦映画」が製作されたのが初めてであるという印象を持たせたからだろう。


 ここで簡単に、この国のマスメディアの戦争責任についてまとめておきたい。


 元々、1909年に公布・施行された「新聞紙法」が新聞取り締まりの中枢にあり、その中でも、第23条における「安寧秩序を乱したり風俗を害すると認められる新聞の発売・頒布禁止」と、「発行人・編集人の処罰」を規定した第41条は、官憲の恣意的な解釈如何で発動されるので脅威となっていた。

大正デモクラシーの自由主義的な風潮
それにも拘わらず、政府当局による言論統制事件として著名な「白虹事件」(注3)を除けば、大正デモクラシーの自由主義的な風潮の影響が大きかった大正時代までは、露骨な言論統制が行われる機会は少なかったのは事実。

この風潮に劇的な変化が出来したのは、関東軍が暴走した、昭和6年(1931年)の満州事変であると言っていい。

関東軍作戦主任参謀・石原莞爾と、関東軍高級参謀・板垣征四郎の主導による謀略によって起こった、柳条湖の鉄道爆破事件(日本国民には張学良らの犯行とされていた)に端を発する満州事変以降、軍に対する批判記事が顕著に影を潜め、日中戦争の勃発と、それに続く国家総動員法の制定は、その澱んだ空気を決定づけることになった。

国家総動員法16条に基づき制定された、悪名高い「新聞事業令」(昭和16年)における一県一紙制の導入による新聞統制は、唯一の放送機関・社団法人日本放送協会(1950年にNHK)の報道をも包括、同年の国防保安法(国家機密の漏洩に死刑の適用)の制定において、この国の言論統制法規の極点の様相を示していく。

然るに、時のマスメディア(全国紙は朝日新聞、毎日新聞、読売報知)は、一方的に軍部の被害者に甘んじていなかった事実をも知らねばならない。

まるで開き直ったかのように、軍部に迎合した挙句、戦争報道の連射で世論を煽り捲り、対外強硬論を連日のように日米開戦を主張し、大本営(陸軍参謀本部+海軍軍令部)の発表を検証なしに報道し続けていったのである。

その背景には、激しい「号外戦」に象徴される新聞界の過当競争の中での、サバイバル戦の爛れ切った状況があったにせよ、この負の連鎖が戦争の長期化を招来したとも言えるのだ。

以上は、映画の中で描かれた通りである。

満州事変以後、その「加害者性」を極めていく、この国のメデイアの変貌の様態については、原作・監修者・半藤一利の著書をベースに後述していきたい。


一方、山本五十六に象徴される「海軍左派」(左から3人)の主張は、当然の如く、戦争に対する「絶対反戦」の思想ではない。



 「負ける戦争はしない」

 ごく普通のサイズの、このリアリズムである。

 だから、「負ける戦争」に反対する。

 従って、「負ける戦争」のテールリスク(もし起こったら、甚大な損失をもたらすリスク)のある、日独伊三国同盟(1940年9月に締結)に対して頑強に反対したことで、右翼テロの恫喝もあった。

 「三国同盟締結にご賛同頂きたいと思います」

 これは、海軍省と軍令部の省部合同会議での場での、及川古志郎(海軍大臣)の言葉である。

以下、滔々(とうとう)と持論を展開する、山本五十六の弁舌の要諦である。

「三国同盟締結となれば、アメリカと衝突する危険は増すことになりますが、現状では、我々の航空兵力の不足は明らかです。万が一、対米戦となった場合、戦闘機1000機、陸上爆撃機1000機、即ち、現在の2倍の航空機が必要不可欠となります。しかし我が国は、鉄・石油など、その生産資源の大半をアメリカに頼っており、今、ドイツとの同盟を結べば、必然的にそれら全てを失うことになります。ならば、その不足を補うために、どのような計画変更をやられたのか、その点をお聞かせ頂きたい」

「今後、各部内での検討を待つということで・・・」

 この時の及川大臣の答えである。

 
 「大臣、それでは答えになっておりません。対米戦が可能であると言う、その根拠をお聞かせ願いたい」  
「色々、ご意見もありましょうが、ここは、大方のご意見が賛成と言う次第ですから・・・」

山本の憤怒の表情がアップで捕捉された合同会議が、こうして閉じていく

因みに、事実について書いておけば、この合同会議によって三国同盟締結に傾いた海軍の総論が収束されるに至るが、実際は、会議直前に、及川古志郎海軍大臣から機先を制されて、山本五十六は会議の本番の場で、終始、無言の状態であったと言われている。

諦念していたからだと思われる。

だからこのシーンは、山本の持論を強調するエピソードとして映像提示されたという風に解釈しておこう。

それにしても、リピートされる山本の持論の強調のシーンは、その意図が了解できるものの、映像マターとして、些かくど過ぎなかったか。

ともあれ、重要な全ての判断に根拠を求める山本の合理主義(注4)は、この当時と言わず、日本人が苦手とする思考回路の構造である。

増して、テールリスクの高い状況下での曖昧さは、国の危急存亡の行方を決めてしまうが故に、とうてい蔑ろ(ないがしろ)にできようがないだろう。

学ぶべき合理主義の態度形成である。

ここで、変転著しい時代状況の推移を追っていこう。

ヨーロッパ情勢が決定的にが動いていく、1939年のこと。

7月。アメリカからの日米通商航海条約の破棄通告。国家総動員法第4条に基づく国民徴用令(1945年、国民勤労動員令によって廃止されるまで続く)。

条約に調印するソ連外相モロトフ・後列にスターリン(ウィキ)
8月。独ソ不可侵条約。秘密議定書・第2条には、独ソ両国によるポーランドへの侵攻(分割占領)が締結される。この不可侵条約は、当時、ドイツと同盟交渉中であった日本の政界を震撼させ、「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じた」(平沼騏一郎首相)と言わしめて、総辞職に追い込まれるに至る。(1941年6月に、ナチス・ドイツ軍はソ連侵攻を開始し、条約は破棄された結果、独ソ戦に突入)。

9月。ナチス・ドイツ軍のポーランド侵攻によって、第二次世界大戦という長期消耗戦が開かれていく。この結果、イギリス・フランスがドイツに宣戦布告。更に、ソ連はフィンランドに侵攻し、「冬戦争」が勃発する。

いよいよ、対米戦を不可避とするこの状況下で、山本五十六は海軍参謀会議で語っていた。

「刺し違えてでも、敵の全てを叩く。これがもし失敗すれば、この国は滅びる」

米を叩き潰した後、早期講和に持っていく。

この山本の持論は、一貫して変わらなかったのである。


(注1)航空攻撃において戦艦、空母を撃破した後、講和に持っていくとの構想がベースにあり、映画でも描かれていたように、山本五十六聯合艦隊司令長官は、航空攻撃案の作成を聯合艦隊先任参謀・黒島亀人に極秘依頼し、原案を作成させた。

(注2)「1924年移民法」の通称であり、ヨーロッパ・アジア出身者が対象になっていたが、結果的に、アジア移民の大半を占める日本人が排除されることで、日本政府に与えた衝撃は大きく、反米的な国民感情をも生み出した。

村山龍平(ウィキ)
(注3)激しい寺内政権の批判をした大阪朝日新聞・村山龍平社長が、右翼によって全裸にされ、電柱に縛りつけられる屈辱的事件で、爾来、大阪朝日新聞の論調は変化していったとされる。

(注4)これは、ミッドウェー海戦での作戦会議でも、印象深く描かれていた。

 「2週間前の海戦で敵の機動部隊は深手を負っている。出て来る可能性はない。たとえ向かって来たとしても、恐るるに足らん」
 
この参謀の確信的な発言に対して、山本は厳しく問いただす。

 「根拠は何だ。恐るるに足らんとする根拠は何だ、と聞いているんだ」

 黙ってしまう参謀という、いつもの構図だった。



2  たった一人の人間に負わせるレガシーコストの清算の不可能性



「メデイアの加害者性」に焦点を当てた作品と考える者の問題意識で、映画をフォローしていく。

 「これでドイツがソ連を撃滅すれば、北方にある最大の脅威が消えます。もう、このバスは走り続けるしかないと思います」
 「え?」
 「どこまで走るんだい?目的地は、どこかと聞いてるんだよ」
 「・・・大東亜共栄圏です」
 「大東亜共栄圏・・・本当にそんな所があるなら、一度行ってみたいものだなぁ。新聞の役割は、読んで字のごとし、世界中の新しい事実を目にし、耳にして、それを広く伝えることだろう。目も、耳も、心も大きく開いて、世界を見なさい。それが、次の世代を担う務めだと思うな」

山本五十六と真藤
東京日報記者・真藤と山本五十六との会話である。
 
 この会話が、時代状況に呑まれゆく真藤の視線が相対化される契機となって、ナレーションを含む彼の視線に同化して、観る者は物語を追っていくことになる。

1940年。北部仏印進駐⇒1941年。南部仏印進駐。

北部仏印進駐とは、東南アジア侵略の前進基地獲得を目途にして、手薄なフランス軍を降伏させた進駐。因みに、仏印 とは「フランス領インドシナ」(現在のベトナム・ラオス・カンボジア)の略称。

南部仏印進駐とは、南方の資源確保のための進駐で、仮想敵のアメリカは南方侵略の準備と判断した。

従って、南部仏印進駐は、日米関係の決定的な決裂を生み、日本への鉄、石油の重要資源の輸出禁止を断行し、ポイントオブノーリターンの状況を招来する。

 そして、1941年11月。山本五十六は聯合艦隊司令長官に命じられる。

 その任務は、12月上旬、「自存自衛」のための、米英蘭に対する開戦への作戦準備。

 個人の考えと離反する、開戦への作戦準備の任務を負った山本は、軍人である以上、「拒絶」という選択肢がなかったということ、それに尽きる。

 
作戦を話し合う山本と黒島亀人先任参謀(右)
かくて開かれた、米英蘭に対する危急存亡を懸けた戦争の焦点は、辞任覚悟で臨んだ真珠湾攻撃。

 敵の主力機動部隊を緒戦で壊滅させて、戦意を挫くに足る一気の戦闘だった。

 しかし、敵の主力機動部隊を緒戦で壊滅させられず、ミッドウェー海戦(942年6月)を必至とする流れを作るが、詳細は後述する。


 ここで、「メデイアの加害者性」の問題に戻る。

 再び、東京日報の主幹・宗像と、山本五十六海軍次官の会話。

 「これはまさに、黒船来航以来、我が国民が舐め続けてきた辛酸と屈辱に対する復讐戦です。これでアメリカもシナから手を引き、アジアは我々に委ねられます。この先、最終的な勝利に向けた展望を、今日は是非お聞かせ願いたい」
 「講和です。始めた戦を終わらせることは、軍人の最も大切な責務です」
 「これは驚きました。あなたは今、国民が何を望んでいるか、世論が何を求めているか、全くお分りでない!」

机を叩いて、興奮する宗像。

 「世論がどうあろうと、この国を滅ぼしてはいかんのです」
 「無駄足だったようですな。これでは、とても記事にはなりません」


怒って帰る宗像。

これだけの会話だが、真珠湾攻撃を「失敗」とみる山本と、「屈辱に対する復讐戦」とみる宗像との対比が、鮮明に浮き彫りにされているが、「国民が何を望んでいるか」と言い切る男には、言論機関に職を置く者の厳しい自覚の欠片すら拾えなかった。

 更に、ミッドウェー海戦直後のガダルカナル島の戦いの評価を巡って、東京日報社内で議論があったときのこと。

ガタルカナルの「転進」についての社説が書きにくいからだ。

「編集長、転進とはどういうことなんでしょうか?」

真藤の問いに、編集長に代わって、宗像が答えた。

「転じて進む。文字通りの意味だ」
「それは現実には、撤退ということではないのですか?」
 「我が陸海軍の精鋭部隊は、ソロモンに戦略的根拠地を確立した。よって陸軍部隊は、本来の目的であるニューギニアに向かう。これを転進と言わずして、何と言う」
 「世間は、ミッドウェイが、実は大惨敗だったということに気付き始めています。我々の使命は、事実を広く国民に伝えることではないのですか?」
 「我々新聞の使命は、この日本が、世界に新しい秩序を建設せんとしている今こそ、国民の先駆となって、その意思を導くことだ。わが軍の輝かしい戦果を伝え、銃後の士気を高める。必要なのは、それだろう」
 「本当に、そうでしょうか?」

この会話の後、東京日報の社説が、「我が精鋭 ガタルカナルより転進す」に結ばれたのは言うまでもない。

 
東京日報社

 それは、走り続けるしかないバスに乗ってしまった者の、「未知のゾーン」の恐怖を払拭する虚勢でしかなかった。


942年8月。第一次ソロモン海戦。

表面的には奇襲攻撃で日本軍の勝利に終わるが、作戦の最大の目的であったはずの輸送船団への攻撃を捨てて撤退した心理的風景に、非武装の艦を攻撃するのは卑怯だと考える「武士道精神」が横臥(おうが)していなかったか。


 同年8月下旬。第二次ソロモン海戦。

ガタルカナル奪回を懸けた一木支隊先遣隊900名の全滅⇒歩兵第三十五旅団長・川口清健少将の指揮する川口支隊5000名の全滅に象徴されるように、空母龍驤沈没、艦載機25機損失など日本軍の敗北。ガタルカナル上陸を優先する陸軍参謀本部(大本営陸軍部)と、敵機動部隊の撃滅を優先する海軍軍令部(大本営海軍部)との作戦の不一致が、ここでも露呈したことも無視できず。


 「戦艦を動員して、最後の総攻撃をかけるべきではないのか!」

門倉総司令官の荒ぶる攻撃的言辞に、「実は、油がないんだ」という反応が弱々しく返ってくることで、会議は凍りつく。

真珠湾攻撃・炎上する「アリゾナ」(ウィキ)
単に、アメリカ憎しの情動を推進力にして開いた戦争の無謀さが、この一言に凝縮されている。

 「この戦争は、支那での戦いのように、出口の見えない消耗戦へと突き進んでいるのではないだろうか。しかし、誰もそれを口にする者はいない」(真藤のナレーション)

真藤のナレーションには、どこまでも、戦争を客観的に凝視する視線が仮託されている。

その真藤も、山形の歩兵連隊に入隊し、それを宗像に報告する。

 「日本のために、精一杯、戦って来い」

 宗像の反応の全てだった。

東京日報の親しい社員の中に、「戦場」に赴く者が現出した事態への驚きが、宗像の脳裏を過ぎっている。

「死ぬなよ」

本当はそう言いたいのである。

しかし、心の振れ幅が大きい男に限って、それを見透かされることを恐れるので、結局、こんな重みのない言辞を吐くしかないのだろう。

 それは、「アメリカもシナから手を引き、アジアは我々に委ねられます」と豪語した男の中枢に、少なからぬ動揺が走っている心情を露わにする脆弱性だった。

 943年4月。ラバウル海軍航空基地。

ニューギニアとソロモン方面の各基地を「転進」した、大日本帝国海軍の拠点となっていた。

 「マリアナまで引くぞ、グアム、サイパンの基地を不沈空母として、最後の航空決戦を挑む。そして、その勝利もって、講和を目指す。前線基地は残す。隊員たちには捨て石になってもらう」

 山本五十六の覚悟の言葉である。

山本五十六自身が指揮を執って、一定の成果を上げたと判断した「い号作戦」(日本海軍がガダルカナル島・ニューギニア島等に空襲した作戦)の後、周囲の反対をよそに、捨て石である前線基地の視察に向かっていく山本五十六。

 不本意にも引き受けた大任の結果、招来した多くの若者の死の責任を、幻想でしかない「武士道精神」のうちに自己完結させていく、この国の一部の「闘争者」たちが好む「美学」が張り付いていたと思わせる絵柄である。

 943年4月18日。

 
山本五十六・ブーゲンビル島上空で死す
零戦6機に護衛されつつ、その1号機に搭乗していた、 聯合艦隊司令長官山本五十六は、ソロモン諸島バラレ基地に到着直前、前線視察の予定を暗号解読で知った、アメリカ陸軍航空隊P-38・16機に襲撃され、ブーゲンビル島上空で死す。

 そのまま、ジャングルの中に墜落して行く1号機。

 「山本五十六の戦争」は終焉したのである。

玉音放送。

 以下、戦地から帰還した真藤のナレーション。

「山本さん、あなたが戦死されて、2年と4カ月。こうして、山本さんが望んだ講和とは程遠い形で戦争は終わりました。あの真珠湾の開戦以降、この戦争の犠牲となった命は、300万を越えると言われています。その9割以上が、あなたが戦死された後に喪われた命です。山本さんがブーゲンビルに散り、この国には、戦争を終わらせることのできる人間がいなくなりました。一体、我々はいつ、何を間違えたのでしょう。そして、一体、何に負けたのでしょう。その答えは、50年後、100年後の日本人の手に委ねるしかないのかも知れません。しかしそれは、この国の人間が、全てを忘れてしまうにもまた、充分な時間でしょう。でも、山本さん、この国の誰よりも戦争に反対していたあなたが、その大戦の火蓋を切らねばならなかったことを、あなたの全ての戦いは、一刻も早く平和を取り戻すためだったことを、私はそれを決して忘れません」

SCRAP BOOK」に記述しながら連載していった、真藤の「大日本帝國戦史 昭和12年」は、後の歴史の記録の貴重な資料になるという含みを入れて、真藤自身が閉じていくカットが挿入される。

更に、真藤のナレーションは、東京日報社の編集長草野の、次の言葉に被さっていく。

「過去の一切を捨て、アメリカと共に、新しい日本を作る。それこそが今、この国の未来を託された我々の最大の使命である」

「この“民主化”の文字を、最大限、でっかくだ!」

心の振れ幅が大きい宗像の言葉である。

要するに、過去の歴史を、今なお徹底的に総括することを捨ててきた、現在の日本の在りようへの痛烈な糾弾が、「メディアの加害者性」に特化して、それ以外にない画像の提示によって括られていくのだ。


 ここで、私は勘考する。

たった一人の人間に、「誰よりも戦争に反対した男」というメッセージを集中的に特化させ、そこに収斂させてしまうには、相当程度、無理があると言っていい。

帝国主義間戦争としての太平洋戦争で出来した、様々で複層的な問題の処理を短絡的に収斂させてしまうからである。

案の定、「この国には、戦争を終わらせることのできる人間がいなくなりました」というラストナレーションで括られることで、特定の人物の限定的な行動を大袈裟に膨張させてしまうのだ。


この類の情緒的言辞には、正直、辟易する思いがする。

 ここまで美化され、英雄視されるとは、反論する気分も失せてくるが、これだけは言いたい。


 たった一人の人間の、英雄的で、獅子奮迅の活躍があったレベルで戦争を終わらせることができたならば、この国は戦争を始めることなどなかったであろう。

大体、この真藤のラストナレーションは、明らかに矛盾している。

「メディアの加害者性」を無視しているからである。

誰よりも、「メディアの加害者性」を肌身に沁みて感受しているはずの真藤に、本作の基幹メッセージを集約したナレーションを挿入していること ―― それ自体が矛盾しているのである。

満州事変以後、この国のメディアは、正確な情報を持ち得ない「好戦的な国民」を増殖させ、いつしか、両者は相乗作用を起こして、帰還不能点を突き抜けていったのではないのか。

そんな状況下にあって、三国同盟締結に抗い、対米戦に強固に反対した男が全く為すすべもないほど、その本来の主張を貫徹し切れず、津々浦々に好戦気分が蔓延する客観的情勢の風景の、その圧倒的な重量感・膨張感。

それを考えてみれば、たった一人の人間に、「終戦」という最も難しい着地点に辿り着かせるに足る能力の発現など、簡単に蹴散らされてしまうのが落ちであるだろう。

それほどまでに、難しい戦争を戦い抜き、焦土と化してしまったこの国の歴史を動かすには、明治維新を成功させたような膨大なエネルギーなしに、あり得なかったと思えないのか。

たった一人の人間がいれば、この国が負った途轍もないレガシーコストをクリアにし、本来、辿り着くと信じる辺りにまで清算し得たと考える方がどうかしているのである。



3  「メディアの加害者性」 ―― その爛れ切った風景



ここでは、「メディアの加害者性」について、本作の原作者・半藤一利の著書を引用・補筆しながら言及していきたい。

その著書の名は「戦う石橋湛山」(東洋経済新潮社)。

 「メディアの加害者性」について詳細に書かれているので、とても参考になる。

何よりここで確認したいのは、先述したように、満州事変勃発後から2.26事件にかけて、言論の自由の風景が一変していくという現実である。

それ以前のメディアは、出版法や新聞紙法による制限は受けていたものの、その主張する論調は各社の自主的判断に任されていて、政府・軍部の目立った干渉がなかった。

それどころか、1933年に、「天六ゴーストップ事件」(信号無視を注意された陸軍兵が、巡査と喧嘩した事件)を引き起こしたほどに「天下無敵」の大日本帝国陸軍でさえ、満州事変以前には世論を動かす力を持つメディアに対して暴力的に振舞えなかったのである。

「新聞が一緒になって抵抗しないかということが、終始、大きな脅威であった」

緒方竹虎(ウィキ)
戦後の緒方竹虎の述懐である。

緒方竹虎は、知る人ぞ知る、朝日新聞社副社長・主筆だった人物。

張作霖爆破事件の報道において、陸軍の謀略を匂わせた記事を書いた新聞の影響力によって、世論が陸軍の批判を強めたことが相応の教訓となっていたのだ。

後に、関東軍参謀部は、「満蒙問題解決ノ為ノ戦争計画大綱」を陸軍中央に具申するが、軍中央はそれに積極的に答えることを決定し、部内に国策研究会議を秘密裡に作り、「満蒙問題解決方策ノ大綱」をまとめあげた。

そこで、満蒙で軍事行動を起こす場合には、「内外の理解」が絶対に必要であると認め、全国民とジャーナリズムに満州の実情を知らせ、外務省と連絡を取って、十全な「事前工作」をすることが最重要であると明記したのである。

そんな空気感の渦中に惹起した、中国吉林省郊外の万宝山で起きた万宝山事件。

水利権・耕作権を巡る朝鮮移住民と中国農民の衝突事件であるが、そこに、朝鮮の開拓民を擁護する日本の警察の制圧的態度と、膨れ上がった日本の満州移住民が絡むことで反日の機運が高まり、暴動にまで発展するに至った。

1931年7月2日のことである。

これが、日本国内で反中強硬論を噴き上げ、外交手段で問題解決を図ろうとする「幣原軟弱外交」に結ばれる。

陸軍内部において、満州における武力発動への強硬論が高まっていくが、この時点で、「幣原軟弱外交」を煽り、些か熱くなっていたものの、朝日と毎日は、陸軍大臣・南次郎と陸軍の態度を批判し、未だ立憲政治を守る論陣を張っていた。

しかし、万宝山事件の暴動と、ほぼ同時期(6月27日)に起きた中村大尉殺害事件(中国兵に殺害)の出来によって、日本の権威擁護に回ったのが、世論を動かす力を持つメディアだった。

陸軍参謀・中村震太郎大尉(ウィキ)
以降、陸軍の強硬派に阿(おもね)るような言論が続くようになる。

「我が将校虐殺事件、暴挙の罪をただせ」、「耳を割き鼻をそぎ、暴戻!手足を切断す 支那兵が鬼畜の振舞い」(朝日)

「外交が駄目なら、軍部の手で」、「支那全くの誠意なし 軍部いよいよ牢固たる決意 最後の対策をも協議」(毎日)

メディアの劇的な変貌ぶりに驚かされるが、これが満州事変前夜の様相だったのだ。

このような澱んだ空気が蔓延していたが故に、一般国民にも戦争の予感があった事実を無視してはならないだろう。

時の南陸相が天皇に呼ばれ、厳しい注意を受けているのも、満州事変前夜の澱んだ空気感の渦中だった。

9月11日のことである。

ここで確認したいのは、当時、陸軍当局は、横暴で絶大な政治権力を未だ持ち得ていなかったという現実である。

度重なる満州問題の困難さを解決すべく動いたのが、関東軍作戦参謀・石原莞爾や板垣征四郎である。

天皇の説諭が後押しとなって、軍の上層部には、関東軍の軽挙妄動を抑えねばならないという自覚があり、この影響下で、強気一点張りの関東軍の参謀の面々には、陰謀の実行に遅疑逡巡するものがあった。

しかし、参謀本部ロシア班長・橋本欽五郎大佐が、現場の指揮に当たっていた関東軍の板垣征四郎参謀に、重要な暗号電文を送っていた。

「事暴れたり直ちに決行すべし」
「内地は心配に及ばず決行すべし」

新聞は戦争を予測させる記事を盛んに載せていて、事の起こるのを望んでいる。

それ故、内地の事態が煮つまっていると判断できるから、今こそ決行の時期である。

これが、橋本の判断の根拠となっていたのだ。

事件直後の柳条湖の爆破現場(ウィキ)
かくて、1931年9月18日、午後10時20分頃、奉天市北郊の北大営西方の柳条湖付近で、満鉄の線路が爆破された。
 
世に言う、柳条湖事件である。

満州事変の勃発である。

「こんな暴戻がどこにある、群がる蠅は払わねばならない」

集合した記者に抜け抜けと言い放った、石原莞爾の言辞である。

「関東軍の今次の行動は、ことごとくその任務に鑑み、機宜に適したものである」

これは、後に、東條英機の後継として内閣総理大臣に就任し、中華民国との単独和平交渉も頓挫させた、陸軍省軍務局長・小磯國昭の言辞である。

そんな中にあって、当時、奉天の総領事であった林久治郎は、「事件は全く軍部の計画的行動に出たるものと想像せらる」と、幣原外相に第一報を打電したりするなど、軍部の行動を批判していた。

事件の本質を見抜いていた外交官もいたのである。

なお、事態は流動的だった。

天皇も不拡大を望んでいる。

政府も、閣議一致でそれを決めた。

この状況下にあって、不拡大方針を決定した閣議への、参謀本部の失望は大きかった。

関東軍の参謀たちの意気は削がれ、全員は沈み込んだ。

満州事変を起こした張本人の石原莞爾もまた、失意の念深く、「我がこと成らずか」と嘆息を漏らしたと言う。

 
「歴史を逆転させるチャンスがあったとすれば、おそらく、この19日夜を起点とする24時間にあったかと思われる」

 半藤一利の分析である。

 日本本土の世論の動向が全てということ、これに尽きる。

事態の「不拡大」を国民が望んだならば、軟着し得たのではないか。

そう言うのだ。

ところが、その日、朝日は論説委員会を開き、「日露戦争以来の日本の建て前と正当な権益の擁護」が、早々と確認されていた。

「ついに日支開戦を見るにいたったもので、明らかに支那側の計画的行動であることが明瞭になった」

午前7時の号外の内容である。

以降、朝日と毎日とが群を抜く、火蓋を切ったような報道合戦が号外戦となっていく。

朝日は、社の飛行機を京城へ飛ばし、19日夜に、奉天特派員の撮った写真を京城着の列車で受け取り、広島まで空輸するという加熱ぶり。

世論を動かす力を持つメディアが率先して、軍部寄りの記事を連射していくのである。

 「満州に交戦状態 日本は正当防衛」

 20日の朝刊での、毎日の社説である。

 「支那は当然、我が国の復報に価する」
 「わが出先軍隊の応酬をもって、むしろ支那のためにも大いなる教訓であると信ずる」

 こんな記事が連射されるのだ。

 
アサヒグラフ昭和12年9月1日号表紙(ウィキ)
「事件は極めて簡単明瞭である。暴戻なる支那側軍隊の一部が、満鉄線路のぶっ壊しをやったから、日本軍が敢然として起ち、自衛権を発動させたというまでである。・・・事件は右のごとくはなはだ簡明であり、したがって、その非とその責任が支那側にあることは、少しの疑いの余地はないのである」

「権益擁護は厳粛」と題した朝日の社説である。

以降、放送を含むメディアは戦争報道一色で、国民の熱狂を煽り続けていく。

朝日・毎日の大新聞を先頭に、メディアは争って、世論の先取りに狂奔していったのである。

大衆的支持を受け、世論を味方につけたい軍部にとって、まさに追い風が吹いたのである。

思うに、石原や板垣が起こした満州事変は、明らかに、大日本帝国憲法第11条の統帥権(天皇大権の一つで、陸海軍への統帥の権能を指す)の侵犯にあたる蛮行なので、制限があれども、立憲君主国家の中にあって、大手メディアがそれを批判する論陣を継続的に張っていたならば、関東軍の暴走に対して、付和雷同しやすい世論が諸手を挙げて賛成し、沸騰した状況の渦中に雪崩れ込んでいく空気を作りにくかったと考えられる。

然るに、メディアは正反対の方向に走ってしまったのである。

この国を不幸な戦争に導く、重大な発火点であった満州事変における、「メディアの加害者性」は看過し難いと言わざるを得ないのだ。

映画「聯合艦隊司令長官 山本五十六-太平洋戦争70年目の真実-」で、アイロニーたっぷりと描かれた、「東京日報」の宗像の行動様態こそ、「メディアの加害者性」の典型的な記号性そのものであった。



4  運命を決した真珠湾攻撃・ミッドウェー海戦 ―― それは何だったのか。



当時、対米戦争の基本戦略の主潮が艦隊決戦であったのに対して、連合艦隊司令長官に就任したばかりの山本五十六の構想は、「航空攻撃による短期決戦での決着⇒講和」という流れに集約されていたが、この連合艦隊司令部の作戦を通すには、南方作戦(油田地帯の確保)を重視する海軍首脳らの反対を押し切る必要があった。

具体的な反対の根拠は、洋上補給の問題や、オアフ島真珠湾が水深の浅さの故(平均水深は12メートル)に、航空魚雷を使用できないということ。

「大博打を打てない」

連合艦隊参謀黒島亀人
この強硬な反対を、連合艦隊参謀黒島が、山本五十六長官の辞職の覚悟を伝える恫喝によって、日本海軍の軍令部総長の許可を得て、遂行された真珠湾攻撃。

かくて、2カ月に及ぶ鹿児島湾(錦江湾)での訓練を経ての真珠湾攻撃の結果、アメリカ太平洋艦隊は甚大な打撃を受け、戦艦4隻撃沈、2隻大破、航空機の破壊、そして、2千人以上の将兵の戦死という惨状を曝す。

しかし、南雲中将率いる第一航空艦隊は、湾内での手つかずな燃料タンクや、未発見の空母への第2弾攻撃の要請に対して、艦隊が無傷のまま帰還するという信じ難き選択肢を取るに至った。

「南雲さんはやらないよ」

第二航空戦隊・山口多聞司令官の言葉である。

「第二撃準備完了」と具申したものの、諦念していたのは、戦艦長門(瀬戸内海)にいた山本も同様だった。

「南雲はやらんだろう。泥棒でも帰りは怖いものだ」

こう発言したと言うが、映画でも、後者の台詞があったが、「ここは南雲に任せよう。日本の海にいる我々には、分らんことがあるんだろう」という柔和な台詞に変換されていた。

なぜ、第一航空艦隊司令長官として旗艦赤城を指揮していた南雲忠一は、敵空母への決定的な第二撃の絶好期を、見す見す捨てる選択に振れていったのか。

「艦隊が無傷のまま帰還する」

これ以外の選択肢がなかったからである。

映画では、永野修身軍令部総長の命令があったという風に描かれていたが、正直、その辺りの真相は不分明であると言わざるを得ない。

南雲中将(中央)と山口多聞(右から二人目)
このときの南雲中将の心情を斟酌すれば、ハワイの基地への攻撃によって、戦艦アリゾナを含む航空機を壊滅状態にさせた「戦果」に対して、日本の浮沈がかかる重責を全うした安堵感がなかっとは、私にはとうてい思えないのだ。

然るに、最も肝心な第二次攻撃命令を出さなかったことは、敵空母への壊滅的打撃を首脳会議で主唱していた、山本五十六聯合艦隊司令長官の指示の不徹底であるとも充分に考えられるが、瀬戸内海に司令部を置いた戦艦長門に乗船する状況下にあって、南雲忠一の判断に任せるしかなかったということか。

更に言えば、日本人を侮蔑する箇所が削除された翻訳書である、ヒトラーの「我が闘争」を読んでいたことすら知り得ない、海軍内の三国同盟推進派の若手将校たちが、紛れもなく存在していた事実を含めて、真珠湾での想像以上の勝利に歓喜してしまう慢心の空気が、「善玉論」という虚構の組織・大日本帝国海軍にも蔓延していたと言えないか。

確かに、そんな中にあっても、山本五十六は冷静だった。

アメリカ機動部隊の反撃を警戒し、部下たちに警鐘を鳴らしていた。

その山本五十六の不安を証明したのが、日本本土に対する初めての空襲として歴史に刻まれた、空母ホーネットから飛び立った「ドーリットル空襲」である。

以下、映画での会話。

堀悌吉
「まさか、こんなに早く、アメリカが反撃してくるとはね」と米内。
「山本は、予想しておりました」と堀悌吉(元・海軍中将で山本の同期生)。
「分っとらんかったのは、中央の軍人官僚どもだ」
 「連中はいつでん、自分らの都合のいい結論が先にありますき。根拠なんぞ、なんもありゃせん」

真珠湾攻撃で敵空母群を撃ち漏らしたことで、堂々と残存したアメリカ航空母艦に搭載したB-25爆撃機によって、あろうことか、皇居のある東京を空襲したのだ。

真珠湾攻撃から僅か半年にも満たないにも拘らず、真珠湾攻撃の報復が具現したのである。

アジアからの移民の大半を占めていた日本人を含む、東・南ヨーロッパ・アジア出身者に対する制限法である、1924年の排日移民法が日本政府・国民に衝撃を与えた歴史的事例に象徴される流れは、「アメリカへの反発」⇒「アメリカへの復讐劇」という情動炸裂なしに済まなかったが故に、最も可視的で、劇的効果をもたらす「アメリカへの復讐劇」の具現によって自己完結し、歓喜の嵐に沸き立っている日本国民にとって、想像だにしない奇襲攻撃は震撼させるに充分な衝撃だった。

日本国民は、ここから「未知のゾーン」に踏み入っていくのである。

然るに、山本五十六にとって、「航空攻撃による短期決戦での決着⇒講和」という戦略が自己未完結だったために、アメリカ機動部隊の壊滅を目指すための、ミッドウェイ作戦のプランが策定されたのは必至だった。

「戦場のリアリズム」において、自らが有利な立場を確保することで、アメリカの戦意喪失を狙った「一発勝負」であったが、アメリカ人の気質を知るはずの山本五十六にしては、相当程度オプチミズムの発想ではなかったか。

「アジアの猿」に真珠湾の奇襲を受けた、闘争心旺盛なアングロサクソンが、本気で「戦意喪失」して、講和のテーブルに着くと思っていたのか。

解せないとしか言いようがない。

ともあれ、その結果、喫したミッドウェー海戦での大惨敗。

残念ながら、暗号解読によってアメリカ海軍に情報を察知されていたこと。

これが、全てだったと言っていい。

暗号の変更をした日本海軍の情報すらも解読していた、米海軍の太平洋艦隊司令長官ニミッツが、アメリカ太平洋艦隊の情報主任参謀・レイトン中佐と組んで、精到な誘(おび)き出しのトラップを策定する。

誘き出したつもりが、誘き出されてしまったのである。

その結果、周知のように、以下の大損害を蒙った。

航空母艦は、旗艦の赤城、加賀、蒼龍、飛龍の大破という致命的損失。

更に、重巡洋艦、駆逐艦、艦載機や航空機約300機、等々。

山口多聞二航戦司令官(右)
そして、映画でも感傷的に描かれていたが、三空母の大破の事実を知った山口多聞二航戦司令官は、「我レ今ヨリ航空戦ノ指揮ヲ執ル」と発光信号を発し、敵空母攻撃に向かうが、敵主力空母「ヨークタウン」を大破させるのが限界で、飛龍は急降下爆撃機の攻撃を受け、炎上するに至る。

但し、飛龍と運命を共にしたのは山口多聞少将だけでなく、飛龍艦長・加来止男(かくとめお)大佐もまた、退艦を拒否して戦死したというのが事実。

単に映画的に加工して、その「善性」を強調しただけの山本五十六の愛人問題とは次元が違う、このとっておきのエピソード挿入で、山口多聞の「武士道精神」による殉職を強調したいのだろうが、「70年目の真実」というサブタイトルを付けるなら正確に描くべきである。

さて、ミッドウェー海戦での大惨敗のこと。

これも、映画で描かれていたように、南雲司令長官の機動部隊は、万一の事態に備えて、第二次攻撃隊には、敵空母攻撃用の魚雷を艦上攻撃機(雷撃機)に装備させ、それまでの悪天候がクリアになった状況下で待機していた。

そこに、ミッドウェー基地施設の爆破に成功していた第一次攻撃隊から、再度の攻撃を要請されたことで、南雲長官の命令下に、航空機の装備も、艦艇攻撃用から飛行場爆撃用に転換したのである。

空母「エンタープライズ」艦上のTBD雷撃隊(ウィキ)
ところが、この兵装転換からほぼ一時間後、アメリカ機動部隊の空母の発見の情報を受けた南雲長官は、再び、空母攻撃用の魚雷に積み直すという大混乱ぶりを露呈する。

しかし、時既に遅かった。

敵空母から発進される攻撃機の急襲を受け、前述した通りの悲惨な結末となった。

これは「運命の5分間」と呼ばれているが、しかし、仮に「あと5分の余裕があったとしたら・・・」という言い訳は、「戦場のリアリズム」の中では無意味であると言っていい。

魚雷から爆弾への兵装転換が、ミッドウェー海戦の最大の敗因であるという従来の説明に異議を唱える学説もあるが、少なくとも、相手が仕掛けたトラップにものの見事に引っかかって、太平洋戦争の帰趨を左右する決定的な作戦が敗退した事実の重みは否定し難いだろう。

ついでに書けば、南雲忠一には、大事に至らなかったものの、過去にもインド洋で兵装転換の経験があったと言われている。

その際、戦場下での兵装転換の危険性について学習し得ていなかったのではないか。

元々、南雲忠一は、水中で爆発する兵器を駆使する水雷戦の指揮が専門で、面子と年功序列制(日本海軍兵学校の卒業席次である「ハンモックナンバー」が、軍の指導的地位を決めた)に従って任命された、第一航空艦隊司令長官のときに開戦となり、真珠湾攻撃を命令されたのが、こんな高官たちが近代戦を戦って、この国の軍隊をリードしたアナクロニズムの愚昧さに慄然とするばかりである。

嗚咽する南雲長官
後日談だが、ミッドウェー海戦の敗戦の責任により、南雲長官以下、幕僚全員の自決が提案され、第一航空艦隊の草鹿龍之介参謀長が押し留めることで、山本五十六聯合艦隊司令長官に、「仇を取らせて下さい」と哀訴したと言われるが、この薄気味悪さこそ、精神主義一辺倒で驀進するこの国の致命的な病理である。

 現に、哀訴された山本は、南雲と草鹿の責任を全く追及せず、その一か月後に、空母機動部隊として再編成された第三艦隊長官と参謀長に、南雲と草鹿を就任させるよう取り計らい、信じ難きことに、本当に復仇の機会を与えたのだ。

山本五十六も適材適所でないと感じていたらしいが、旧来の陋習(ろうしゅう)を非常事態にあっても修正し得ず、この「温情人事」にも繋がっていたという、児戯的な観念論の極点の風景を見せつけられて、殆ど言葉を失うほどである。

「リアリスト」であるはずの山本五十六にして、若き将校・下士官・兵士の命に関わる「人事」を、「人情」で推し進めていた現実はあまりに重い。

山本五十六の「リアリズム」とは、所詮、この程度のレベルだったのである。

よく言われるように、「日本の兵は世界最高の兵、日本の将は世界最低の将」であるということか。

山口多聞の死に象徴される「武士道精神」が、高難度の近代戦を戦った相手は、フランクリン・ルーズベルト大統領の意向に沿って、序列28番目の少将から中将を飛ばし、一気に大将に昇進したチェスター・ニミッツに象徴されるように、序列無視の抜擢人事を断行する、徹底した能力主義の国民国家たるアメリカだった。

勝てる訳がないのは、火を見るよりも明らかだろう。

思うにこれは、当然ながら、陸軍とても変わらない。

牟田口廉也中将に、「人情」でインパール作戦の許可を与えた、河辺正三ビルマ方面軍司令官と同じ心理構造であるからだ。

何しろ、ジャングルや荷物搬送に不適応な牛を使って大失敗した、「ジンギスカン作戦」を実施した究極の愚昧さを露わにしたが故に、師団の独断退却を行った佐藤幸徳が、日本陸軍史上初の抗命事件を起こしたのも頷ける。

人間は、ここまで愚かに成り得るということだ。

国際政治の困難な状況を広角的な視野を持って把握し得る、過不足なく透徹したリアリズム精神の決定的な欠如 ―― それは殆ど病理の様態を晒していた。

いつもどこかで少しずつ、しかし確実に不足していくものが累積されていって、その不足を常に補填する何かが内側に要請されていくとき、そこに過剰だが、極めて形而上学的な文脈が分娩されていったのである。

「武士道精神」という心地良き言葉が放つラインに収斂されていく、確証バイアスの濃度の深い精神主義的な文脈である。
 
 内実よりも様式、目標よりも手段、結果よりも動機、或いは、「結果良ければ、全て良し」というプラグマティックな心理文脈とも共存できてしまういい加減さ。

更に、持続そのものよりも、持続を保証していくときの努力過程というものが、一つの自立的で、特化された価値を帯びるような文化を背景にしなければ、堅固な思想的基盤を持つことなしに精神主義を安売りする通俗性にまで下降する、その構造的文脈が理解できないだろうし、そこにこそ、この国の不幸のルーツがあったとも言えるのだ。
 
 

それは、「精神主義」という訳の分からないものを媒介しなければ充分に補完できない、極めつけの幻想体系を作り上げた者たちが、内側に抱えた厄介な痼疾(こしつ)として、しばしば歴史を捏(こ)ね回すが、考えて見れば、それは「絶対性」に依拠して「進軍」する歴史と無縁であった人々が、「絶対性」を手に入れなければ押し潰されかねない理不尽なる時代状況下で、強引に「絶対性」を仮構するときに負ったリスクの累積とも言えるものであった。
 
 そして、そうした構造的文脈自体が、既に、全き身体性を脱色した観念の膨大なコラージュでもあったと言えるのだろうか。

 詰まる所、相手を見くびる心は、自己を冷厳に相対化する能力の欠如に由来するということだ。

現実の悲惨な展開の中で、闘争心の持続が弱く、勝気(強気ではなく、そこに濃密に見栄が媒介し、知人の前で単に恥を晒したくない感情=虚栄心)なだけの民族は負け方にも格好をつけようとするので、一時的に相手から恐れられ、それが却って不幸を増強させるのである。

 勝気の強がりは、実は、自壊感覚の否定の自己確認であるからだ。


【参考資料・「戦う石橋湛山」(半藤一利著 東洋経済新潮社) 「太平洋戦争」(太平洋戦争研究会編著 日本文芸社) 「太平洋戦争下の新聞メディア―60年目の検証・Adobe PDF」   拙稿 「心の風景・この国の「闘争心」の形」 「心の風景・虚栄の心理学」、他にウィキペディアを中心とする各種サイトより】

(2014年5月)





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