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2013年8月4日日曜日

小間使の日記(‘63)        ルイス・ブニュエル



心の「真実」の姿を表現した決定的行為、或いは、「閉鎖系世界」の枠に閉じ込められていく「自在な観察者」




 1  人の心の分りにくさ



人の心は定まらない。

その時々の状況の中で、どのようにでも振れていくし、動いていく。

特定の例外を除いて、そこで振れた行為の全ては、その人間の心の「真実」の姿の一端である。

その行為によって歓喜し、沸き立つような愉悦感を味わったり、或いは失望し、後悔し、被虐的傾向を増幅したりしても、それも、その時の人間の心の「真実」の姿である。

だから人間は、自らを駆動させていく、多種多様な相貌を見せる心の「真実」の集合体でもある。

当然ながら、人間の心の「真実」は、一つではないのだ。

人の心の分りにくさ。

私たちは、この厳然たる事実を認知せねばならない。

「女心と秋の空」という決めつけに、迂闊に同意してはならない。

江戸時代では、男の愛情の変わりやすさの喩えとして、「男心と秋の空」と言われていた事実を知る必要がある。

「分からぬは夏の日和と人心」

現実は、この諺の方が正解に近いのである。

人の心の分りにくさを感受する行程で表現されている言葉や、それを身体化させた感情は、その人の、その時の心の「真実」の様態であるが故に、それが選択的に特化され、「あいつは○○だ」などという傲慢なラベリングをされることで、実際には、個々の微妙な差異を多く具備しているにも拘らず、「特定の人格」の枠組みに嵌め込まれていく危うさを持つだろう。

こうした枠組みに嵌め込んでいく行為の本質は、それによって、自己を過剰に武装する防衛戦略であると言っていい。

そして、特定の行為に振れていくときの「欲望」に集合する感情が大きければ大きいほど、それが決定的な推進力になって、人間を動かしていくのだ。

さて、「小間使の日記」のこと。

ルイス・ブニュエル監督
何にも増して分りにくいのは、ブニュエル映画特有の「夢」の登場のない、至って分り易く、「生真面目」な構成によって成る、本作のヒロインの小間使いの内面風景である。

それを考えてみるのが、本稿のテーマである。

なぜなら、ヒロインの内面風景の分りにくさは、演出的な戦略であると思えるが、ルイス・ブニュエル監督にとって、決して「病理性」を有する人物造形の所産などではないことは、丁寧に本作を読み解いていけば判然とするだろう。

以下、この映画のDVDの特典映像の「ドキュメンタリー」や、ブニュエル監督のインタビュー本である、「INTERVIEWルイス・ブニュエル―公開禁止令」(トマス・ペレス トレント, ホセ デ・ラ・コリーナ , 岩崎 翻訳 フィルムアート社)などを参考にして、テーマに沿って言及していく。



2  「閉鎖系世界」の枠に閉じ込められていく「自在な観察者」



ジャン=クロード・カリエール(ウィキ)
昼顔」(1967年製作)、「ブルジョワジーの秘かな愉しみ」(1972年製作)、「自由の幻想」(1974年製作)を経て、遺作の「欲望のあいまいな対象」(1977年製作)などの脚本を手がける、ジャン=クロード・カリエールと初めて組んだ作品である、「小間使の日記」の舞台になったのは、有閑階級であるアッパーミドルのモンテイユ家の邸。

このモンテイユ家の邸の住人たちは、自らパンを確保するために働く努力をしない分だけ、その行動は自在な選択性を帯びているが、揶揄して言えば、殆ど「半径1m以内の世界」で生活するほどに閉鎖的である。

「西欧文化圏」原産で、多くの婦人靴の蒐集と、それを履く女性の脚線美に愉悦するフェティストの老人、次々に、代わって働きに来る小間使いたちを妊娠させてきたと思しき、漁色に耽る養子の主人、その夫の性的欲望を封じ込め、神経が細かく、「虚栄の城」の邸の中の様々な物質的価値を守ることしか考えていないように見える、吝嗇(りんしょく)家のモンテイユ夫人。

セレスティーヌに言い寄るモンテイユ
「蝶を撃ち、サイコロ遊び。彼らは大したことをしない。働くこともしない。資本で利益を生むだけ。彼らは静的で、考えが凝り固まり、自分たちの家の四方の壁に閉じ込められ、外との接触がない。凝り固まった時間の中で過去の写真を眺め、フェティシズムの幻影の興に入る。邸に閉じ込められ、同じことを繰り返さねばならない」

これは、この映画のDVDの特典映像のドキュメンタリーで説明された、モンテイユ家の住人たちの、その閉鎖系の生活様態の醜悪さを活写したナレーションである。

その意味で、本作は、ルイス・ブニュエル監督の映像世界の中で最も陰鬱であり、救いがない。

心底から頬が緩むようなユーモアが拾えないのだ。

階級社会のフランスでは、日本のような「平等志向」の社会では想像し得ないほど、階級の仕切りが固定化されていて、「境界破り」は不可能であるように見えた

 ところが、その「境界破り」を、呆気なく具現する人間がいた。

セレスティーヌ
この映画のヒロインの小間使い・セレスティーヌである。

 「彼女の登場から逆転する。廊下の二つの窓の間。境界線。彼女は、見とれていた世界の傍観者ではもうない。二つの世界の間。まもなく、中産階級の世界へ。初めは、この二つ世界の間で決心がつかない。庶民には所属せず、まだ中産階級にも。大都市ではなく、まだ田舎でもない。捕まえどころのない表情。自由な精神。どこにも同化しない。いつも、こことよそに同時に居る。それでも、セレスティーヌは常に動く。邸の中を全て見て、全てを聞く。彼女は境界をもろともせず、この家の廊下へ密かに訪れる。また、彼女は外へ抜け出し、隣人と知り合い、彼らと交際する。やがて、二つの境界が曖昧になる」(前掲ドキュメンタリー)

 外へ抜け出し、知り合った隣人とは、長くモンテイユ家と不仲になっているが、同じアッパーミドルである退役軍人のモージェのこと。

 モージェは、「境界破り」のセレスティーヌに好意を持ち、例外的に、彼女との接触を受容していた。

そんな折に惹起した出来事。

フェティストの老人とセレスティーヌ
主に、フェティストの老人の世話をし、自らも、老人の「性的倒錯」(精神医学の見解)の相手をする小間使いのセレスティーヌだったが、件の老人が、「自室」という名の「閉鎖系」の狭隘なスポットで、「約束」された「運命」であるかのように、呆気なく「孤独死」する出来事がそれである。

老人の「孤独死」によって、セレスティーヌは職を辞し、都会に戻ろうとした。

その行程で遭遇した陰惨な事件が、セレスティーヌを大きく変えていく。

少女殺人事件である。

 「文明と野蛮の分離。伝統的には、この家は文明の象徴である。反対に、森は無秩序で、野蛮な全ての恐怖の源である。ジョゼフはクレールを強姦し、殺害。その後、女中のマリアンヌが主人に強姦される。この中産階級の家庭の中で、セレスティーヌは、低俗な獣のような人間性を発見する」(前掲ドキュメンタリー)
 
「低俗な獣」は、下男のジョゼフである。

 
ジョゼフセレスティーヌ
「無秩序」と「野蛮」の源である森の奥で、少女クレールを殺害した下男のジョゼフは、「低俗な獣」の典型的人物として造形されているが、このようなタイプの男に限って、「時代状況への巧みなる適応力」をも持ち合わせているから、蓋(けだ)し厄介なのである。

 映画では、多くの動物が登場するが、野蛮な出来事が起こる度に、その傍らに、「文明」と「野蛮」が同居する構図を見せていく。

その典型が、クレールの死体の脚の膝に乗せられていた一匹のカタツムリ。

メタファーとして映像提示されているこの構図に対して、ブニュエルの「変態」と揶揄するレビューが多いが、私には、昆虫学に熱中し、農業技師を目指したというブニュエルの知的好奇心の高さに驚きを禁じ得ないのだ。

 閑話休題。

右から3人目がクレール、隣がジョゼフ
殺人事件が、本作の風景を決定的に変容させていく。

 腹が掻き切られていたクレールの死を知ったセレスティーヌは、少女に対する憐れみの感情を心理的推進力にして、ほぼ確信的に動いていくのである。

 ジョゼフを告発するための、ほぼ確信的な行為は、殺人の告白を拒否するジョゼフの性的誘惑に戸惑い、混乱し、優柔不断になり、束の間、性的快感の世界で遊ぶが、これが、その時の心の「真実」の思いによって振幅していく人間の曖昧さの検証でもある。

セレスティーヌは、一貫して、ピュアな精神の持ち主である訳がなく、常に、内包する欲望との上手な折り合いをつけながら生きている、ごく普通のサイズの人間の一人なのである。

抑制系のスキルの獲得ほど、困難なものはないのだ。

「何度か、セレスティーヌは縫物をする。自分を守るために、裂け目を縫い直しているかのように」(前掲ドキュメンタリー)

しかし、ジョゼフの逮捕によって、セレスティーヌは、それ以前の彼女自身の相対的安定性を回復する。

「ゲス野郎」

彼女は、テーブルの上に、その言葉を指文字で記すことで、彼女が積極的に加担した事件と決別するに至る。

事件と決別したセレスティーヌは、心置きなく、アッパーミドルの階級の生活に入っていくのである。

モンテイユ家と対立していた、退役軍人のモージェの夫人に収まったのだ。

そのモージェは、12年も連れ添ってきた女房のローズを追い出してまで、セレスティーヌと再婚するための準備を始めた男である。

その結果、「既成秩序を無視する聖像破壊者」(前掲ドキュメンタリー)ではなく、アッパーミドルの階級の狭隘な世界を壊すことなく、セレスティーヌは自らを同化させていく。

皮肉なことに、セレスティーヌは身分の差を越えたこの結婚生活によって、今まで自分が否定していた退屈な世界の住人の仲間に加わっていくのである。

「閉鎖系世界」を否定することで、「自在な観察者」であった彼女が、まさに今、その「閉鎖系世界」の枠に閉じ込められていったのである。



3  心の「真実」の姿を表現した決定的行為



ここで、私は勘考する。

セレスティーヌの、どこか一貫性を持ち得ないような行動の振れ方の中枢にあったのは何だろうか。

彼女の欲望の肝は何だったのか。

少なくとも、これだけは言える。

そんな彼女が、明らかに、心の「真実」の姿を身体化していく行為が、一つだけあった。

前述したように、それは、自分が可愛がっていた少女の死に対する同情心から、少女を殺害した犯人ジョゼフへの憎悪感情を心理的推進力にした、一連の告発的行為である。

セレスティーヌとジョゼフ
ジョゼフに対する一連の告発的行為の中で、セレスティーヌはジョゼフに最近接し、肉体関係まで結ぶに至るが、大胆さと同居する防衛意識の強い男は、「俺とお前の魂の底は同じだ」などと言いながら、決して犯行を認めなかった。

当然である。

だからこそと言うべきか、「低俗な獣」の「人生」を繋ぎながら、特段にハレーションを起こすことも、「負のスパイラル」に搦(から)め捕られることもなく、男の歪んだ自我を延長させてきたのだろう。

そんな厄介な男の厄介な相貌性を目の当たりにして、セレスティーヌが講じた最後の手段。

それは、無秩序、且つ野蛮で、全ての恐怖の源である森で出来した、忌まわしき殺人事件の現場にあった物証に合致させるために、ジョゼフの靴を加工する行為だった。

このニセの「証拠」工作の苦労の甲斐あって、ジョゼフの逮捕にまで漕ぎ着けたのである。

然るに、ジョゼフは証拠不十分で釈放されるに至った。

既に、モージェ夫人に収まっていたセレスティーヌが、この不快な情報を夫から聞き知ったとき、特段の反応を示さなかったものの、沈思黙考する彼女の表情のワンカットをインサートしたことで、感情を激発的に炸裂させる性格の持ち主ではない彼女の内面が透けて見えるだろう。

セレスティーヌにとって、腹が掻き切られていたクレールの事件だけは、何としても葬ってやりたかったのだ。

内包する欲望との上手な折り合いをつけながらも、「ゲス野郎」という見方は変わらないジョゼフを獄に繋ぎたたかった。

それが水泡に帰する事態を知って、落胆するセレスティーヌ。

その時々の状況の中で、どのようにでも振れていくし、動いていく印象を与えるセレスティーヌだが、そこだけは、彼女の心の「真実」の姿を表現した決定的行為だった。

今、モージェ夫人に収まって、優雅な生活を送る身分になったセレスティーヌにとって、彼女自身が選択したその「人生」は、恐らく、心のどこかで望んでいた、アッパーミドルの階級への「反転的転身」だったに違いない。

しかし、その思いは強くない。

だから、夫から「遺書の書き直し」を知らされても、セレスティーヌから歓喜の表情を拾えないのだ。

どうでもいいとは思わなかったにしても、単調な生活が夫が死ぬまで続くと考えただけでも、遣り切れない思いが脳裏をよぎったのかも知れない。

「彼女は森で死んでいたクレールを思い出す。この場面では、少女の体は、そこに生息するカタツムリによって、既に自然に戻されている。セレスティーヌが階級に吸収されたように、彼女の体も。中産階級は死なない。それが揺らめくときには、反する要素を吸収し、再生する」(前掲ドキュメンタリー)

左からモンテイユ夫人、セレスティーヌ、ジョゼフ
繰り返すが、特定の行為に振れていくときの「欲望」に集合する感情が大きければ大きいほど、それが決定的な推進力になって、人間を動かしていく。

この種の「欲望」に集合する感情の大きさがピークアウトに達したのが、クレールの事件だった。

然るに、既に自然に戻されてしまったクレールの記憶が、漸次、希薄になっていき、セレスティーヌは、「反転的転身」を果たした階級に吸収されていくだろう。

いや、人の心は定まらないから、セレスティーヌもまた、「反転的転身」を遺棄するやも知れぬ。

それでも今は、モージェ夫人に収まっているだろう。

そんな解釈を私に残して、セレスティーヌは、時代状況の激変を告げる映像に溶融されていった。

「ジョゼフは真の愛国者だ」と言う退役軍人の夫の言葉から、彼もまた、「居留外人打倒!」と叫ぶ大衆のデモンストレーションの空気に同化していく現実を露わにするのである。

それは、雷光の構図をラストカットにした映像の陰影感が的確に物語っているだろう。

―― 思うに、階級の風穴を穿つ役割を演じたヒロインは、少女殺人事件に対峙し、彼女なりに最大限の努力を本気で繋いだものの、結局は、「素人探偵」の浅知恵ゆえに、「憎悪」と「性欲」の狭間で揺動しつつ、犯人の告発という本来の目的を達成し得ず、恐らく彼女が、唯一、真剣に「自らの人生」を目立って立ち上げていった一連の行為は、虚空に消えていった。

消えていった後に残されたものは、「映画の政治的状況が、悲観論をより深刻にする」(前掲ドキュメンタリー)空気の中に吸収されていく運命であるに違いない。

人は、その時々の状況の中で、どのようにでも振れていくし、動いていくのだ。


【参考文献/DVDの特典映像の「ドキュメンタリー」・「INTERVIEWルイス・ブニュエル―公開禁止令」トマス・ペレス トレント, ホセ デ・ラ・コリーナ , 岩崎 翻訳 フィルムアート社

(2013年7月)
 

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