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2012年12月6日木曜日

ゴーストライター('10)      ロマン・ポランスキー



<起こり得ることだと思わせるリアルの仮構性>



 1  観る者の不安心理を継続的に惹起させるパワー



物語の中で展開される予測し難い状況に不安心理を継続的に惹起させるパワーを持つ映画が、サスペンス映画の王道とすれば、本作は、褒め殺し的に言えば、サスペンス映画の王道をいく作品と評価すべきなのだろう。

「善きサスペンス映画」とは、物語展開への合理的で的確な判断を鈍磨させつつ、観る者の心に惹起させた不安を継続的に保証するもので、その不安心理によって、映像総体に異化効果的な非日常的感覚をもたらすような映画であると言っていい。

観る者の不安心理を、継続的に惹起させるパワーを持つには、私見を言えば、以下の要件が必須であるように思われる。

即ち、「主人公への感情移入による同化」、「物語展開の緩みの希少性」、「映像提示された情報の共有化」、「映像総体の風景の陰翳感」、「起こり得ることだと思わせるリアルの仮構性」である。

私が本作で最も面白いと思っている点は、「起こり得ることだと思わせるリアルの仮構性」について描き切っていた点である。

「サスペンス映画の神様」と評価される、高度な映画技法を駆使した、ヒッチコック的なスリラー映画の要素を含んだ、極めてオーソドックスなサスペンス映画である本作の梗概を、「起こり得ることだと思わせるリアルの仮構性」という視座について具体的に書くと、以下の文脈のうちに要約されるだろう。

稿を変えて、書いていく。



2  起こり得ることだと思わせるリアルの仮構性



1971年にCIAに加盟し、国外の人材担当部門になったイェール大卒のポール・エメット(後の教授)を介して、演劇にしか関心を持たない若者が、異文化である政治の世界に巧みに誘導され、且つ、アメリカ留学中にCIAによって洗脳された女子学生が、その若者にハニートラップをかけていく。

アダム・ラング元首相
ケンブリッジ大学出身の23歳の若者の名は、アダム・ラング。

労働党党首であると同時に、第73代英国首相でもあった、トニー・ブレアを彷彿させるアダム・ラングを、将来の英国首相に育て上げていくという、途轍もないプロジェクトを遂行し、成就する。

そこで成就された内実とは、英国首相となったアダム・ラングが、実質的に「対米完全同盟」の状況下にあって、イラク戦争や対テロ戦争、或いは、スターウォーズ計画(戦略防衛構想=弾道ミサイルを人工衛星の攻撃によって迎撃する計画)、中東政策など、全て米国の利益になる政策を遂行していくというもの。

当然の如くと言うべきか、この途轍もないプロジェクトに沿って、CIAによって洗脳された女子学生は件の若者の妻となり、「献身的な内助の功」を発揮し、純朴な夫を継続的に「洗脳」していく。

ルースポール・エメット
その妻の名は、ルース。

そして、テロ対策の法案が否決されたことに象徴されるように、対テロ戦争への過剰な自己投入が一因となって、政権を党内ライバルであるゴードン・ブラウンに譲ったラングが、他の引退した政治指導者をトレースして、出版するだけで多額の報酬を得るという、予約された自伝を書き上げていく。

ところが、政治的センスはあっても、「売れる本」に関わる営業センスのない政治的指導者は、「ゴーストライター」を駆使するという公然の秘密に倣って、いいとこ取りの自伝を完成させていく。

ところが、ここに予期し得ない事件が出来した。

自伝の執筆者であった、ラングの側近のマカラが、不慮の事故死(暗殺)を遂げたのである。

当然、そのマカラに代わって、新たな「ゴーストライター」が起用されるに至る。

それが、自らを「ゴースト」としか自己紹介しない本作の主人公である。

友人の弁護士の誘いに乗って、食指を動かすに足らない仕事を引き受けた「ゴースト」は、いきなり、「クローズドサークル」(出口なしの状況)の世界に押し込まれるのだ。    

機械音を連想させるストリングス(弦楽器)が表現する重々しくも、協和性の低いマイナースケールの音楽が、「ゴースト」の内部不安を助長する負の効果が手伝って、今にも雨が降り出しそうな鉛色の空が低く垂れ込める、アメリカ東海岸の孤島にある海辺の別荘は、そこを丸ごと囲繞する、海岸に打ち寄せる波高く荒れる自然の咆哮と睦み合うが如く、殆ど刑務所のような外貌の武装性を有する、俗世間と乖離した鉄筋コンクリート建ての無粋な密室を印象づけていた。

「ゴースト」
有無を言わさず、ラングの自叙伝の草稿の外部持出しの厳禁という守秘契約を結ばされた「ゴースト」は、忽ちのうちに、俗世間と乖離した密室状況の内に拉致されるに至る。

序盤のシークエンスの陰翳感漂う外部風景が、「ゴースト」の内部風景とじわじわと滲み込んでいって、そこに異界の風景の異様な相貌性を剥き出しにしたとき、溶融する風景のダークサイドの暗鬱な気分が、受容する何ものもない世界に吐き出されていくのだ。

この「クローズドサークル」の暗鬱な気分の只中にあって、政界の裏事情を知る前任者と違って、一貫して政治に関心を持たないはずの「ゴースト」は、早々と、マカラの残したメッセージから陰謀の匂いを嗅ぎ取るや、今度は、その陰謀の謎解きの危うい状況に自らを預け入れていく。

そして、素人探偵の暴走気味の行為によって到達した最終結論が、前述したように、ラング夫人ルースと、その背景に不気味に横臥(おうが)する、CIAの大陰謀のシビアな現実だったという訳だ。

ラング夫人ルース
以上の、身も蓋もない、在り来りの「陰謀論」に収斂されるという梗概を見れば分るように、その凡百さに失笑を禁じ得ないが、それにも拘らず、およそ途轍もないこの大陰謀が、決して起こり得ないと断定できないところに、この映画の面白さがあると言うべきなのか。

要するに、「起こり得ることだと思わせるリアルの仮構性」を具現した物語の中で、ヒッチコック的な「巻き込まれ型」の事件にインボルブされた「ゴースト」も、知られてはいけない秘密を知った「ゴースト」を追い詰め、最終的に始末していく大陰謀の加担者たちも、悉(ことごと)く、信じ難い程の軽武装性ゆえに捨てられていった「手抜かり・疎漏(そろう)」を重ねていく展開を読み解く限り、まさにそこにこそ、「起こり得ることだと思わせるリアルの仮構性」のパラドックス性が検証されるのである。

ところが、幾人かの真摯なるレビュアーは、本作で特定的に切り取られた物語の総体から、「CIAの恐ろしさ」について言及しているばかりか、本作の主人公・「ゴースト」を演じたユアン・マクレガーもまた、映像の中に政治的なメッセージを読み取っていたことに、正直、驚きを禁じ得なかった。

「僕は政治的な映画として見ているよ。政治家について描き、とても辛らつなコメントをしているポリティカルな映画だと思う。政治家が常に本当のことを語っているとは思わないし、この映画のようなことは現実にも十分に起こり得るだろう」(ユアン・マクレガー・インタビュー eiga.com

このユアン・マクレガーのコメントは、「政治的な要素と、ヒッチコック映画的な娯楽スリラーの両方を兼ね備えている作品ですが、あなた自身はこの映画をどうとらえていますか」というインタビュアーへの答え。

確かに、映像で提示された情報やカットのみを見ていけば、ユアン・マクレガーのインタビューには妥当性があるだろうが、しかし私は、本作を深い政治的メッセージを含意した映画とは全く考えない。

バージニア州マクレーンにある中央情報局本庁(ウィキ)
なぜなら、ここで描かれた世界は、「全てCIAの陰謀」という陰謀論の極北とも言うべき、あまりに月並みな落とし所のうちに物語を設定しているからだ。

そのような月並みな陰謀論に政治的メッセージを含意したとすれば、後述するように、私は「『陰謀論』の心理的風景」によって処理されるのが落ちであると考える。

その意味で、私は、本作は単に、「全てCIAの陰謀」という陰謀論の凡百性を借用しながら、自らの能力の範疇を超えた平凡なライターが、殆ど有無を言わさずインボルブされた、「クローズドサークル」のダークサイドな、その異界の如き非日常の世界に捕捉されたときの不安と恐怖を、極めてオーソドックスなサスペンスの筆致で描き切ったものであると考えている。

そんな状況に捕捉された平凡なライターの、不安と恐怖に充ちた物語の要諦を括ってみると、以下の把握のうちに収斂されると思われる。

即ち、政治の中枢辺りにいたばかりに、ラングの政敵である元外相・ライカートと関係を密にしたことで、国際政治の驚嘆すべき陰謀を知ったばかりに殺されたゴースト(マカラという名の幽霊)に導かれて、元来、政治に無関心な本作の主人公・「ゴースト」が、陰謀渦巻く国債政治の恐怖にインボルブされていく物語の中で、「ゴースト」の内部世界に貯留された、異化効果的な非日常的感覚が加速的に増幅する不安心理を、一貫して「物語展開の緩みの希少性」のうちに描き切ったオーソドックスなサスペンス映画 ―― それが「ゴーストライター」だった。

だから、この映画で面白いのは、一度も映像に登場しないマカラという名のゴーストが、自らを「ゴースト」と名乗る、兌換可能な平凡なライターの時間の総体を支配し切った「関係のパラドックス」に尽きるだろう。

加えて、「起こり得ることだと思わせるリアルの仮構性」が推進力となって、「主人公への感情移入による同化」を容易にする必須の要件を十全に補填していたこと ―― これが大きかった。

更に、前述したように、陰謀にインボルブされた者も、陰謀に参画した者たちの冒す幾つかの「手抜かり・疎漏」にこそ、「起こり得ることだと思わせるリアルの仮構性」のパラドックス性が検証されることで、難度の高いテーマに直面した際に冒す、人間の解決能力の脆弱さを感受する次第である。

それが正解なのだ。



3  インテリジェンス・コミュニティーの上意下達の「使命感」の恐さ



私の知っている限り、米国内のインテリジェンス・コミュニティーの中で最も悪名高い、政治上の諜報機関としてのCIA(中央情報局)の情報収集能力よりも、同じヒューミント(スパイによる情報収集活動)である軍事上の諜報機関としてのDIA(国防情報局)の方が優秀であると言われているが、私たちの一般的印象において、「バナナ共和国」と呼ばれたグアテマラで、ユナイテッド・フルーツ社と組んで政権転覆を遂行した蛮行(1954年)や、ピノチェト将軍の軍事クーデターに暗躍し、南米初の民主選挙で選ばれた社会主義的なアジェンデ政権を倒したチリ・クーデター(1973年9月)に象徴される、CIAの犯罪性には拭い難いものがある。

然るに私は、CIAが過去に冒してきた信じ難いしくじりの多さこそ、完璧な陰謀論が自己完結し得ない根拠になっていると考えている。

フィデル・カストロ
 中でも最も看過し難いのは、キューバのフィデル・カストロ前国家評議会議長に対する暗殺未遂の途方もない多さである。

 病気療養のため議長職を暫定委譲して、一線を退いた2006年までに、何と638回に及ぶ暗殺計画があったとされているのである。

 因みに、この数字は、米中央情報局(CIA)の文書に基づく、要人への暗殺未遂ギネスナンバーワンとして登録されている。

 言うまでもなく、その暗殺未遂の大半がCIAによるもので、ライフルによる狙撃のほか、靴に爆弾を仕掛けたり、前議長が愛用していた葉巻に毒物を仕込んだりする計画があったと言われている。

 何よりこの事例が示すものは、インテリジェンス・コミュニティーの中で最も有名なCIAの、過去に冒してきた信じ難いしくじりの多さであり、寧ろそこにこそ、「完璧過ぎる大陰謀」が容易に遂行し得ない根拠になっているということだ。

国鳥ハクトウワシをあしらったCIA紋章(ウィキ)

 従って、「CIAの恐ろしさ」と言うなら、極めて用心深いと言われたフィデル・カストロ前国家評議会議長に対して、上意下達の「使命感」を継続させることで、638回に及ぶ暗殺計画を企て、頓挫しつつも遂行しようとした行為の総体それ自身にあるだろう。

CIAに象徴される諜報機関の恐ろしさは、その上意下達の「使命感」の継続力にこそ、一般人を震撼させ、慄然とさせるものがあると言っていい。

ここに、今や、人口に膾炙(かいしゃ)した興味深い記事を紹介したい。

「米中央情報局(CIA)のペトレイアス長官が、不倫を理由に辞任したと報じた。オバマ大統領の再選された直後に、主要閣僚が辞任した格好になり、政権運営に影響を及ぼしそうだ」(朝日新聞デジタル国際北米記事 2012年11月10日)

デイヴィッド・ペトレイアス将軍(ウィキ)
 知る人ぞ知る、ペトレイアス長官と言えば、イラクの治安回復に尽力し、その功績によって、「アフリカの角」(ソマリアなどアフリカ大陸東部の地域)を網羅する、中東全域のアメリカ軍部隊を指揮下におく、「アメリカ中央軍」の後任に指名されたほどの戦略的軍人であり、今では「イラク戦争の英雄」としての評価の高い陸軍大将である。

 それほどの優秀な戦略的軍人が、ハニートラップという古典的なヒューミントの罠に嵌る危険性を認知しない訳がないにも拘らず、ハニートラップの有無とは無縁に、国家の「予防措置」的な判断によって呆気なく、辞任という名の実質的解任の処断を下されたのである。

 ついでに書けば、我が国の民主党が福岡市内で有権者との対話集会を開いた際、参加者の女性から、その場にいない細野豪志政調会長が要職に起用されたことを批判する声が飛び出したという話。 

「30代、40代の女性は、不倫をしたような人が表に出ることを良く思っていない」

これが、参加者の女性の批判の内実。

三木武吉の肖像写真(ウィキ)
今や、この国には、4人の愛人を託っていることを非難された三木武吉(保守合同を成し遂げた日本民主党の総務会長)が、「事実は5人であります」と「反駁」して、聴衆の喝采を誘ったエピソードを許容しないほどに、意気地のない男に政治を任せられないと考える女性パワーが、その本来的な強さを発揮してきた事実を検証しつつあるようだが、ハニートラップという古典的なヒューミントの罠にも包括し得ない、「政権政党(2012年11月11日現在)の『プリンス』」の不倫騒動の幼稚さに言葉を失うばかりだ。

どうやら我が国には、政権政党の要職にある者の不倫騒動の懸念という「下ネタ」から、「国益」を損ねるハニートラップの罠の怖さを連想するイメージも沸き起こらないほどに、ヒューミントの破壊力について鈍磨しているようである。

 閑話休題。

CIAのみならず、世界には、イギリスで最も有名なヒューミント・MI6(イギリス情報局秘密情報部のことで、007の原作者のイアン・フレミングの出身母体としても有名)、第二次世界大戦中の対ソ諜報機関・ゲーレン機関母体として創設された、最強のインテリジェンス・コミュニティーとも言われる、ドイツのBND(ヒューミント+通信傍受活動を中心とする「シギント」を兼ねる)、更に、近年のビンラディン殺害を遂行した、アメリカ海軍特殊部隊であるシールズ(Navy SEALs)等々の優秀さが喧伝されているが、人並み外れた彼らの優秀さを認知しつつも、それはどこまでも、「人並み」の狭隘な範疇を超えるものでしかないと見た方が無難である。

Navy SEALsの隊員(ウィキ)
特殊精鋭部隊として米軍最強と評価されるシールズとて、ベトナム戦争以来の大規模な軍事行動となった、1983年に惹起したグレナダ侵攻では、米軍の死傷者の多さに象徴されるように、苦境に陥った果ての作戦の成就であった事実を考えれば、ビンラディン殺害にしても、何十回、何百回という失敗を重ねた上での「作戦の成就」を印象づける冷厳な視座から類推すれば、大陰謀を描いた本作の物語を単に娯楽映画のカテゴリーに括ることなく、真面目に捉える感覚こそ、その類のリアリズムが劣化しているとしか思われないである。



 4  「陰謀論」の心理的風景 ―― 余稿として



ここでは、拙稿の「『陰謀論』の心理的風景」(「心の風景」所収)の大部を引用することで、大陰謀の遂行の艱難かんなんさについて言及したい。

「陰謀論」の風景①反ユダヤの書・シオン賢者の議定書
まず、人間は不完全な存在体であるということ ―― この認知が前提になる。

 それは、目途にしたものを、最後まで、且つ、完璧に遂行し得るほどに完全形の存在体ではないと言い換えてもいいかも知れない。

 そんな私は、「陰謀論」花盛りの文化の退廃性について、繰り返し痛感させられる思いを持つ。

 何より、「陰謀」が成立するには、それを「完遂」させるプロセスにおいて、その事件に関わる者たちの共通した認識と、シナリオ展開に背馳しないレベルの協力体制が不可欠である。

 元より、人間は不完全形なので、その未来には予測し得ない物事が多く存在するということを無視できないだろう。

 従って「陰謀」を成立させるためには、「陰謀」を図る人間が完璧な計画と、完璧な実践を遂行するという前提が必要となるということだ。

 だからと言って、この世に「陰謀」の存在を全否定している訳ではない。

 然るに、この世に「陰謀」の存在を全否定していないことは、「陰謀」の存在を無前提に認知するということと同義で
ないのである。

 「陰謀」の実践的成功が、累加された偶発性による奇跡との睦みの結果である場合も否定できないからである。

 それにも拘らず、あまりに大掛かりな「陰謀論」が、世界的規模で真(まこと)しやかに独り歩きしているのは、「完成形としての人間」の能力を前提とする認知の過誤が罷(まか)り通っているからだ。

「陰謀論」の風景②CIAの謀略
「陰謀論」の心理的風景を考えるとき、それを成立させ得る、以下の5つ程の因子が注目に値すると思われる。

 1.「確信幻想」 2.「情報占有の優越感」 3.「過度な権威主義」 4.「人間観の脆弱性」 5「イデオロギー」という因子である。

 以下、ここでは、5を除いて例証していく。

 その1。

 「確信幻想」という極めて厄介な因子がある。

 そして、この厄介な因子こそ、「陰謀論」に流れる最も中枢の心理的風景であると言っていい。

 これについては詳細に言及していく。

 まず、人間は「分らなさ」と同居することを不快に持つ存在体である。

 この認知こそ、「確信幻想」の心理的根拠になるということを押さえておきたい。

 それ故、「分らなさ」を手っ取り早く解決したいと願う。

 そのとき、継続的なテーマ思考によって、自分の意見や主張の類を構築してきたと信じる者には、「分らなさ」を解決するに足る、充分な「確信」を手に入れることなしに済まないであろう。

 知的過程に踏み込んだ者ほど、「確信」を手に入れることの価値を認知する者はいないからである。

 だから、迷った末に、「アドホックな仮説」(その場凌ぎの仮説)に飛びついたりもする。

 結局、自我の安寧を確保するためのこの知的戦略が、実は、他者との関係の中で大きく支配される感情であることを裏付けるのである。

 ついでに言えば、知的過程に踏み込むことがない者でも、ごく普通の生活レベルで惹起した「分らなさ」に対して、そのまま放置する訳にはいかなくなるはずだ。

 例えば、失恋した男が、その失恋の原因を一定程度了解し得ないまま、普通に遣り過ごすことなど有りようがないのである。

 だから件の者は、自分を袖にした対象人格に、その理由の開陳を求めるだろう。

 仮にそれが叶わなくても、相手の振舞いの変容の中で直感的に感受する何かを手に入れるに違いない。

 そのことによって、件の者は、初めて「分らなさ」から解放されるのである。

 あとは、その男が味わった固有の心痛の感情処理という、別の次元の問題が残されるだけだ。

 ここから、「確信幻想」の本質に言及しよう。

 以下、拙稿(「心の風景」の中の「確信という快楽」)から部分的に抜粋した文に加筆したものである。

 一つの対象を映像化するとき、いつも同じイメージしか思い浮かばず、その類似のイメージを、自らの周囲で繰り返し確かめてしまうと、人は自分の観念を確信化してしまうようである。

 人が「これは私の確信です」と言うとき、そこには自分の中にある不定形なイメージ群が、どこかで出会った類似の文脈によって、その信頼度を増幅させた経験が媒介されている場合が多いのだ。

 イメージに変化が起きない限り、「確信」は生き続ける。

 人は結局、イメージの束のその微妙な差異で衝突したり、その近接の中に深い共感感情を分娩したりするのである。

 そして多くの人は、自分が生きる上で必要な情報を定着させていく。

 だから大抵、狭い情報の圏内で確信的文脈が形成されるのだ。

 人々のイメージのゲームには、独創的なまでの極端な歪曲もない代わりに、柔軟な修復力もあまり期待できないのである。

 自我を安心させねばならないものがこの世に多くある限り、人は安心を求めて「確信」に向かうだろう。

 しばしば性急に、簡潔に仕上がっている心地良い文脈を、「これを待っていたんだ」という思いを乗せて、飢えた者のように掴み取っていく。

 前述したように、人間には、共存できにくい「分らなさ」というものが、常に存在するからなのだ。

 それにも拘らず、「分らなさ」との共存は必要である。

 自我を安心させねばならない何かが、引き続き、「分らなさ」を引き摺ってしまっていても、その「分らなさ」と暫く共存するメンタリティこそ尊重されねばならない。

 「分らなさ」を継続させる意志には、小器用に展開できない自らの人生に対する誠実なる眼差しというものが、常に幾分かは含まれているのだ。

 その信頼が、「分らなさ」との共存をギリギリに不快なものにさせないのである。

「陰謀論」の風景③フリーメイソンのシンボルマーク
 ―― 「陰謀論」の心理的風景の2つ目は、「情報占有の優越感」である。

 他人が知らない特定の情報を占有できる歓び。

 これが、大抵の人間の感情の中に厳としてある。

 社会心理学で言う、「スノッブ効果」を想起してみよう。

 「スノッブ効果」とは、簡単に言えば、「人と違うものが欲しい」という心理である。

 人間には、何かある事柄に関与することを嫌悪する者でも、誰もアクセスしないその作業を占有することで、自己顕示し得る快感を手に入れることができるのである。

 たとえ末梢的な事象でも、自分だけが「情報占有」することで得られる心理の芯に、「優越感」による支えを随伴するならば、充分に快感を分娩し得るのだ。

 ―― 「陰謀論」の心理的風景の3つ目は、「過度な権威主義」である。

 これは、「情報占有の優越感」と脈絡を持つが、一般人が持ち得ないような情報を持つことによって、当該人格の権威を高めることになるという心理的風景である。

 当該人格が小出しにする情報それ自身の価値によって補強される権威は、情報の「希少性」が解消されない限り、いつしか、それを求める者たちの中で声高にオーソライズされ、確信的に喧伝されていくのである。

 声高にオーソライズされた空気の中で提供された情報が、どれほど一般常識と乖離しようとも、既にオーソライズされた情報の揺らぎのない価値によって、「真実」が語られていくのだ。

  情報の「希少性」が保持された状況下で、権威を被された者によって語られる「真実」の内に、どれほど訝しい情報が含まれていようとも、或いは、そこで提供 された情報の断片が「事実」と照合するという曖昧さを残したとしても、もうその情報総体は、より「真実味」が増幅されていくだろう。

 因みに、現実に出来した「事実」の「唯一性」と異なって、一般的に言えば、「真実」とは人の評価を随伴した「事実」のことで、人間の価値観と深い脈絡を持つものである。

 ともあれ、件の者への「過度な権威主義」が形成されていくとき、もう「陰謀論」は、「誰にも語られなかった真相」という商品価値にまで高まってしまうのである。

 「希少性」が解消されない状況下での「情報占有」は、そのことによって「過度な権威主義」の土壌にもなり得るということなのだ。

 ―― 「陰謀論」の心理的風景の4つ目は、「人間観の脆弱性」である。

 前述したような「過度な権威主義」には、必ずと言っていいほど、「確証バイアス」(注)が結合しているのである。

 それ故、その「陰謀論」と整合性を持たないような情報は、悉(ことごと)く排除されていくという構造を持つ。

 人間の能力は不完全なので、この類の「陰謀論」が侵入してくることに対して、完璧で合理的なバリアを構築できない不完全さを持つのだ。

 これが「人間観の脆弱性」である。

 この点については、1で言及した、「『完成形としての人間』の能力を前提とする認知の過誤」という把握によって了解可能だろう。

 結局、「陰謀論」を主唱したり、受容したりする自我には、「不完全な知的過程」に潜む不合理性と同居できない脆弱性が張り付いているのだ。

 それこそが問題なのである。

 常識的に言えば、「最強の存在体」である特定の組織が、「世界の全てを支配している」などという「陰謀論」の存在を声高に主張しているならば、それは事実ではないと判断できるだろう。

 世界は非常に複雑で、常にいかなる組織にとっても、計算不能(予測不能)な事態が起きているが故に、到底、世界の全てを支配するなどという幻想に付き合い切れるものではないのである。

 ―― 本稿の最後に、ナシム・ニコラス・タレブ(レバノン出身の米国の研究者)の提唱した「ブラック・スワン」の概念を紹介した、神永正博の一文を付記しておこう。

  「タレブは、これまでに一度も起きたことがない、あるいは極めて稀にしか起きたことがなく、ほとんどだれにも知られていない現象を『ブラック・スワン』と呼びました・・・完璧な事業展開をしていて、しかも着実に利益を増やしてきているような企業が、予想外の出来事で倒産してしまう、というようなことはよく あります。それは予測できたのではないかという人がいますが、多くの場合、後知恵にすぎません。それまで一度も起きたことがないことは、どんな分析手法を使っても予測ができないのです」(「不透明な時代を見抜く『統計思考力』」神永正博著 ディスカバー・トゥエンテゥワン刊)

 「不完全な存在体である人間」の能力の限界について、私たちはもっと謙虚に受け止めるべきなのである。


(注)自分に都合のいい情報だけを集めて、自説を肯定的に補強すること。

(2012年12月)

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