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2013年7月21日日曜日

ピクニックatハンギング・ロック(‘75)        ピーター・ウィアー



<浮遊感覚で侵入してしまう人間が遭遇する「異界」の破壊力>



1  「語り過ぎない映画」の残像感覚の凄み



一度観たら一生忘れない映画というのが、稀にある。

映画の残像が脳裏に焼きついて離れないのだ。

それらの映画の特色は、「語り過ぎない映画」であるということ。

語り過ぎないから、観る者に想像力を働かせる。

思考の余地を保証してくれるのである。

私は、「語り過ぎない映画」を最も好む。

外国映画を例にとって言えば、テレンス・マリック監督やミヒャエル・ハネケ監督の一連の作品がそれに当る。

最近、観た映画で言えば、何といっても、タル・ベーラ監督の「ニーチェの馬」(2011年製作)。

主に、父と娘の二人だけしか出てこないのに、会話も殆ど拾えない。

「世界の終末」に立ち会っているはずなのに、いや、だからこそと言うべきか、感情の大きな振幅もないのだ。

この映像は、一生忘れられないだろう。

そして、「ニーチェの馬」と同様に、「世界の終末」をテーマにした、ハネケ監督の「タイム・オブ・ザ・ウルフ」(2003年製作)は、「世界の終末の顛末」という、巷間で普通に関心を寄せるような「肝心なこと」が何も語られていないのだ。

その凄さに圧倒された。

タイム・オブ・ザ・ウルフ」より
「タイム・オブ・ザ・ウルフ」に至っては、ハネケ作品の中で、唯一、涙を流した映画である。

あまりの感動に震えが止まらなかった。

全く退屈することはない。

却って緊張感が走って、エンドロールに至るまで、映像に釘づけになる。

だから、こういう映画は、繰り返し観ることになる。

それが、私の映画鑑賞のスタイルである。

あまりに語り過ぎるハリウッド系映画全盛の時代にあって、こういう映画と出会うことの僥倖を期待して、今はできる限り作品を選んで観ている。

そして、本作の「ピクニックatハンギング・ロック」。

これは、昔、観たときの残像がずっと張り付いていて、気になって仕方がなかった作品の一つであった。

この度、WOWOWで再鑑賞して、驚嘆した。

想像以上の出来栄えの凄さに圧倒されたのである。

岩山(ハンギング・ロック)
ピーター・ウィアー監督は、本作の中で、観る者の好奇心を誘う、最も肝心な辺り(「事件」、或いは「事故」の真相)を最後まで映像提示することなく、自己完結させたのである。

これほどの凄みのある映画が、40年近く前に作られたこと自体、驚きに値すると同時に、感謝の気持ちで一杯でもある。

肝心なことを何も語らなかったことによって、私を存分に考えさせてくれたからである。

 「語り過ぎない映画」の残像感覚の凄み。

これが、本作を貫徹していて、私によって、何ものにも代えがたい、等価交換不能な「宝物」になっている。



2  時空の歪みに嵌ったような、〈生〉と〈死〉ゾーンの視界が捕捉できない内的風景



平穏であるから、特段に何も起こらない。

閉鎖系空間であるが、窒息感がないから、退屈さを感じさせる女子寄宿学校の日常性に、生命の再生産を自給するような活力を与えるには、非日常の濃度の高い解放系の時間が必要だった。

聖バレンタインデーでの岩山(ハンギング・ロック)へのピクニック。

まさに、これが、女子寄宿学校の日常性に挿入された、非日常の濃度の高い解放系の時間だった。

100万年前に隆起してできたと言われる岩山は、人を寄せ付けないような荘厳で、険しい相貌性を身にまとっているが故に、その未知のゾーンに魅せられたように踏み込んでいく、思春期後期に呼吸を繋ぐ少女たちにとって、いつかそこを通らなければならないイニシエーションの臭気の吸引力でもあった。

ゴツゴツした岩場の尖り切った自然が放つ男性的な相貌性は、白いレースのドレスを身にまとう少女たちの、眩いまでの清潔感を漂わせるエロティシズムを際立たせていた。

憑かれたように、岩山に吸い込まれていく少女たちの躍動する情動の氾濫は、まさに、このような特別な時間の中でしか解放し切れない妖しさを秘めているが故に、時として、自分の着地点を性急に求める精神と、成熟を急ぐ身体が、それを待つ非合理の、抑制の利かないゾーンの中枢に呑み込まれることで、一気に炸裂する。

スキルの強固な補完なしに、完全解放系にギアシフトした自我が、時空の歪みに嵌ったような、ラインの曖昧な世界で漂流することによって、いつしか、自己の拠って立つ中枢への拘泥感が希薄になり、〈生〉と〈死〉ゾーンの視界が捕捉できない内的風景を露わにするだろう。

思春期後期に呼吸を繋ぐ自我が、イニシエーションの臭気の強力な吸引力に手繰り寄せられていくのだ。

「魔」のゾーンに搦(から)め捕られてしまったのである。

―― 以下、簡単な梗概。

1900年2月、バレンタイン・デー。

オーストラリアの女子寄宿制学校・アップルヤード・カレッジの生徒たちが、馬車に乗って岩山にピクニックに出かけたが、ポワテール教師の許可を得て、「岩山調査」の名目で4人がハンギング・ロックに登っていった。

左からアーマ、ミランダ、マリオン、イディス
リーダー格のブロンドの美少女・ミランダを筆頭に、アーマ、マリオン、イディスの4人である。

登り始めるや、イディスは音を上げるが、他の3名は振り向くことなく、高所へと移り進んでいく。

そして、辿り着いたの裂け目。

3名が「消失」した地点である。

擦り傷だらけで、慌てて下山して来たイディスの報告で、まもなく、警察等の捜索隊が岩山に向かうが、発見するに至らなかった。

実は、「消失」したのは、3名の女子生徒ばかりか、初老のマクロウ教師も含まれていたが、下山途中で見たイディスによると、ズロース姿だったと言う。

(にわ)かに「事件性」が疑われ、責任の重さを問われたアップルヤード校長は、事態の重大性に適切に対応できず、女子寄宿制学校は混沌の惨状を呈する。

1週間後、登山中のミランダを見て、心を惹かれた英国青年のマイケルは、マイケルの叔父の退役大佐の邸で働くアルバートの協力を得て、必死の捜索を敢行した結果、岩の隙間からアーマを発見した。

アーマは衰弱しているが、大怪我をしていなかった。

しかも記憶喪失の状態なので、「失踪」の経緯は闇の中。

更に、頭部に打撃を受けた痕跡を持つアーマを診察した医師は、彼女がコルセットを着衣していない事実を指摘したが、一切は不分明だった。

一方、アップルヤード・カレッジでは、授業料が未払いになっている孤児のセイラが、校長の強い督促を無視したことで、施設送りにされようとしていた。



3  「幻想」から「リアル」への風景の変容がもたらすマキシマムな映画的効果



馬車でハンギングロックに乗り込んだ女子寄宿学校の一行は、岩山に到着するや、それぞれが携帯する時計の針が、12時を指した状態で止まるという現象に遭遇する。

岩山の磁気の作用に因るという説明が最も合理的だが、映像は、これが不吉な事態の前触れのように、観る者を誘導していく。

そんな中で開かれた、4人のハンギングロックへの「散策」。

まるで、瞬時における時間の停止が、ミランダに具象化される「永遠の美」を約束したかのようだった。

「ミランダはボッティチェリの天使のようね」

ボッティチェリの天使」ミランダ
ハンギング・ロックへの「散策」に向かう少女たちの中で、「別離」を告げるようなミランダの笑みを見て、ポワテール教師が、ボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」に眼を通しながら吐露した言葉である。


その「ボッティチェリの天使」は、ピクニックの朝、自分を慕う孤児のセイラに対して、「人を愛さなきゃ。私以外の人を。私も長くないわ」と吐露していた。

「見えるものも私たちの姿も ただの夢 夢の中の夢」。

ミランダが暗誦するこの詩は、「私たちが見るものすべて 見えるものすべては 夢の中の夢にすぎない」と詠んだエドガー・アラン・ポーの詩である。

セイラ
映像が、観る者に次々に提示するイメージには、「ボッティチェリの天使」の「死の予約」のメッセージが内包されていて、梗概を知らない初見者は、これらのイメージが意味するものを容易に読解するに違いない。

4人のハンギング・ロックへの「散策」が、岩山を登り詰めて、「岩の裂け目」に出たとき、「ボッティチェリの天使」の死のイメージが集合するような構図が提示された。

何か「異変」を感じさせる、不吉な雲の発生という自然の変容の構図である。

ハンギング・ロックへの「散策」とは無縁な「俗界」で、この自然の変容に反応したのがマクロウ教師である。

そのマクロウ教師もまた、まもなく「失踪者」になっていく事実を想起するとき、マクロウ教師が感じた不安こそが、彼女をして、ハンギング・ロックの軽登山に振れていく契機であったことが想像できる。

午睡するミランダ
一方、雲の発生を視認したミランダたちは、何かに誘導されたかのように体を横たえ、軽い眠りに就く。

眠りから覚めた直後、これもまた、誘導されたかのように、ミランダを先頭に、浮遊感漂う半眠の状態で、岩の裂け目に身を預けていく。

疲弊感で、ハンギング・ロックの「散策」にすっかり冷めていたイディス、ストッキングを脱ぎ、素足になった「妖精」たちを止めるが、その声すらも耳に入らないのか、まるで吸い寄せられるようにして、岩の裂け目に踏み入っていくのだ。

それただ一人の生還者であるアーマを除き、マクロウ教師を含めた3名の「失踪」が、映像に残した最後のショットとなった。

女子寄宿制学校・アップルヤード・カレッジ
3名の「失踪」が招来した「事故」、忽ちのうちに、「事件性」として取り沙汰され、町の噂になっていくことで、ここから、残された者たちの煩悶が開かれ、風景が一変する物語展開を露わにしていくのである。

煩悶の中枢にいるのは、ハンギング・ロックへのピクニックを許可した、寄宿学校のアップルヤード校長である。

このアップルヤード校長こそ、物語の実質的な主役である事実を、まもなく、観る者も共有するに至るだろう。

―― 以下、批評していく。

何にも増して、この映画が優れているのは、解放系にフル稼働させた少女たちの不可解な「失踪」という非日常の「異界」の極点が、その「失踪」によって全人格的に追い込まれていく寄宿学校のアップルヤード校長の、「俗界」の日常性を破壊していく様を丹念に描き切った点である。

苦悩するに至るポワテール教師
それによって、「幻想」を基調とする映像前半の風景と、その「幻想」が「リアル」な後半の基調に引き渡されていくという、物語の風景の決定的な変容を描き切ることで、観る者に、サスペンスフルな緊張感をもたらす効果を、映画的に処理していく巧みな構成力を保証したことである。

アーマは本当に記憶喪失に陥ってしまったのか。

それとも、全てを知っていながら、語れない何かがあったのか。

マクロウ教師の「失踪」の原因は何なのか。

マクロウ教師が下着姿だったのは、どうしてなのか。

ミランダたちのハンギング・ロックの「散策」は、計画的なものだったのか。

計画的なものだったのなら、なぜ、イディスの同行を許したのか。

マイケルの異常とも思える捜索行為は、「事件性」と無縁なピュアなものだったのか、等々。

パンフルート



このように、パンフルートの音色が奏でるBGMの効果も手伝って、サスペンスフルな物語の展開に関わる、様々に湧き起こる疑問が尽きないのである



そのサスペンスフルな緊張感をもたらす巧みな構成力が、言葉を変えれば、ピクニックの規範を遵守せねばならないという「現実原則」に振れることなく、ミランダを先頭に「岩山吸引力」に呑み込まれていく少女たちの、「幻想」基調の前半の風景と、寄宿学校の経営の維持に拘泥する「現実原則」に拠って立ち、「岩山から生還」をも損得勘定で動きながら煩悶する、アップルヤード校長の「リアル」基調の後半の風景が、見事なまでに対比的に描かれていたこと。


ポワテール教師とマクロウ教師(右)
それによって、「幻想」から「リアル」への決定的な変容が、観る者にサスペンスフルな緊張感をもたらす効果のみならず、多くのイメージを提示し、「現実原則」に振れなかった少女たちの〈生〉と〈死〉ゾーンの、視界が捕捉できない内的風景について考えさせるばかりか、「事件」と「事故」のゾーンの、明瞭な切れ目が認知し得ない曖昧さ故に、「リアル」の世界の凄惨さを露わにするばかりの、残された者たちの内的風景への感情移入を生み出したことで、物語に主体的にアクセスしていく映画的効果をマキシマムに高めたのである。



 4  浮遊感覚で侵入してしまう人間が遭遇する「異界」の破壊力



マクロウ教師の言うように地質学的には取るに足りないことだが、「80年人生」を生きる人間の感覚では、気の遠くなるような100万年という長きにわたって、自己完結的に鼓動を繋いできた「異界」の懐に、まるで呑みこまれるように吸収されていった「俗界」の闖入者たち。

「100万年も待ってた。私たちを」

これは、行きの馬車の中で、マクロウ教師の地質学的な説明を聞くアーマの言葉。

「あの人たち、何してるの。目的のない人間がなんて多いのかしら。多分、あの人たち、自分にも分らない役割を果たしてるの」

これは、「異界」という「」なるエリアに最近接しながら、それに全く関心を持たない「俗界」の「仲間」を俯瞰したときの、マリオンの言葉。

「物事は皆、定められた時と場所で始まり、そして終わる」

これは、岩山を登って、「岩の裂け目」に出たときのミランダの言葉。

たとえ、このように、「俗界」と縁を切るメッセージを残し、純白の「妖精」を象(かたど)ったとしても、所詮、100万年の鼓動に同化していくのは無理があったということか。

いや寧ろ、それこそが、「妖精」たちの同化の意思への、「異界」からの自然な反応だったと言えるのかも知れない。

いずれにしろ、不完全な形で「異界」に侵入した者たちが惹起した出来事は、不完全であるが故に、彼女たちが依拠する「俗界」の特定スポットを、少しずつ、しかし、確実に崩壊へと至るカオスの世界に丸ごと呑み込んでいった。

映像の大半は、この脆弱化した秩序を晒す、カオスの現実の凄惨さを炙り出していく。

周囲からの偏見と差別。

辞職していく教師。

そして、「異界」の侵入の不完全形を象徴するアーマに対する敵意が、なお、特定スポットに呼吸を繋ぐ女生徒たちの悪意と化して顕在化し、暴れまくり、息もつかせず畳み掛けていくのだ。

アーマ
すっかり健康を回復したアーマは、今、ヨーロッパに出発する前に、数時間だけダンスの授業に参加「仲間」と語り合うことで「別離」の儀式にしたかった。

ところが、アーマだけが生還した事実を受容し切れない女生徒たちの、悪意が集合するスポットもまた、カオスの世界の凄惨さを露わにする。

「汚い洞窟で死んだのよ!皆、死んで腐っている!」

途中で戻って来たイディスが先陣を切って罵倒する悪意の根柢には、赤いドレスで着飾ったアーマが、「少女」の臭気を払拭して、「成熟した女」への変貌を遂げた印象を拭えなかった「違和感」が横臥(おうが)しているだろう。

「妖精」たちの岩山への侵入を許可したポワテール教師の自責の念が、ピークアウトに達する。

もう、誠実な彼女の能力で守り切れる範疇を越えていた。

「妖精」の集合的シンボルであったミランダの、「見えない死」に衝撃を受けた孤児セーラは、校長の施設処分への憤怒が絶望へと変容し、自死に振れていく。

飛び降り自殺だった。

アップルヤード校長
そして、この映画で最も精神的に被弾したであろう、アップルヤード校長の岩山の麓での転落死(自殺?)を伝えるナレーションによって、呆気なく幕を閉じる映像を、惹起した事態を多角的な判断で処理する「認知的複雑性」の視座から鑑(かんが)みると、作り手が本当に描きたかったのは、敢えて、「疑わしき情報」の殆ど全てを提示する手法を見れば、エンタメ的な「真相散策ゲーム」で、観る者を煙に巻く意図などにないことは瞭然としている。

「パラレルワールド」のように、「異界」と地続きである故に、浮遊感覚で「異界」に侵入してしまう人間の「抵抗虚弱点」によって、自らが拠って立つ「俗界」をネガティブに共振させ、カオスの世界にインボルブされてしまう抑制系の脆弱さ。

詰まる所、「俗界」の「平凡さ」に馴致してしまうと、「平凡さ」の有難みに無頓着になった極点で、浮遊感覚で「異界」に侵入してしまう人間が遭遇する、「異界」の破壊力の様態の大半が、「ヒューマンエラー」という名の合理的説明で把握できるにも拘らず、繰り返し、誤作動を起こす愚昧さから解放されることなく、カオスの世界の凄惨さを一気に露呈する。

それは、この「俗界」にしがみ付き、「俗界」の「平凡さ」を捨てない覚悟によってしか生きられない人間の運命(さだめ)なのか。

人生は残酷なのだ。

この辺りに作り手の意図があるか否かについては不分明だが、これが、本作を観た私の解釈である。

だから、この映像で、「妖精」の集合的シンボルであったミランダに関わる一連のシークエンスは、寧ろ、このような「俗界」のリアル感を強調するための表現技法だったと、私は考えている。

(2013年7月)

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