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2014年11月3日月曜日

嘆きのピエタ(‘12)     キム・ギドク

<「贖罪」という観念を突きつけられ、「失ってはならない絶対的な何か」を失った男の宿命的帰結点>



 1  「胎内回帰」を求める男の究極なる感情の体現

 電動チェーンブロックを使って、車椅子に乗った障害者が自殺する。

 これが、全く台詞のない冒頭のシーン。

 このシーンが意味するものは、物語の後半に説明されるが、唐突なシーンの挿入で開かれる映画の持つ破壊力は、その直後のシークエンスの中で展開されていく。

 ―― 以下、インパクトの強い物語の詳細な梗概。


  3ヶ月で10倍にも膨らむ高利貸しの手先となっている男・ガンドに、今日も仕事が入った。

  ソウル市の中心部を流れる清渓川(チョンゲチョン)周辺に点在する、左前となった町工場の一つである、若い夫婦(フンチョル、ミョンジャ)への借金取り立てである。

 信じ難い借金を負った夫を責めつつも、その夫を救うために、妻は夫を外に出した。

 「障害者にならないで!」

 借金の返済を遂行しない債務者に対して、障害者になるほどの暴力を振うことで、その保険金を掠め取る相手の手口を知悉する妻が、このとき選択た手段は、ガンドに自分の身を差し出す行為だった。(因みに、この行為に、ガンドの雇い主である社長は関与していないようだが、責任逃れで黙認ていと思われる)

   





ガンドとミョンジャ


 
 しかしガンドは、女の体を貪る欲望よりも、そのような女の行為それ自身に反感を覚えるのか、裸になった女をブラジャーで鞭打ち、叩きつけ、甚振(いたぶ)る暴力に振れていくばかり。

 

  甚振られた妻の体を目の当たりにした夫は、ガンドに向かっていくが、しかし、口に軍手を押し込まれたフンチョルの体は、自らの工場の工作機械に右腕を突っ込まれて、妻・ミョンジャが最も回避したかった障害者にされてしまうのだ。

 工場から流れてくるフンチョルの血の海を、今度は外に出されたミョンジャが見せつけられ、号泣するばかりだった。

 「クズ野郎!天罰が下るわ!」

 「借りた金を使い込んで、ヌケヌケと。クズはお前らだ」

 

 捨て台詞を残して帰路に就くガンドの手には、一羽の鶏が鷲掴みにされている。


 その鶏に逃げられ、追って行くガンドの目前にいた一人の女。

 その女がガンドに手渡したのは、ガンドが足を滑らせて逃げられた鶏。

 それは、奇妙な女との最初の出会いであった。

 





ガンドとミソンの出会い




 アパートの部屋に帰って来る早々、部屋の壁に飾ってある女の像のポスターに、いつものように、肌身離さず持ち歩いている護身用ナイフで突き刺す男 ―― それが、取り立てで身過ぎ世過ぎを繋ぐガンドの荒々しい生活風景の一端を見せていた。

 奇妙な女が訪ねて来たのは、ガンドが浴室で捌(さば)き、茹でた鶏を料理し、食べていた時だった

 その女は、無言で人の部屋に勝手に入って来て、食器を洗い、風呂場に散乱している、鮮血の赤に染まった動物の肉をゴミ袋に片付けるのだ。

 「イカれた女だ!。出て行け!」

 女を追い出した男は、腹立ち紛れにナイフを窓に投げつけた。

 窓ガラスを割って外に出たナイフを取りに行くと、追い出された女が、そのナイフを拾って待っていた。

 「俺に恨みが?刺せ!刺してみろ!」

 無言で、ナイフをガンドに戻す女。

 これだけのエピソードだが、翌日も、まるでストーカーのように、女はガンドを追っていく。

 「イ・ガンド」

 




ナイフをガンドに戻すミソン




 


 去ろうとする男の背後から、女の声が確信的に放たれた。

 驚いて振り返るガンド。

  「ごめん、あなたを捨てて。許して。今頃、会いに来て」

 「バカなことを言うな」

 跪(ひざまず)いて、なお謝罪する女。

 女の言葉を信じないガンドは、「俺の名前を呼ぶな!」と言って、女の頬を繰り返し叩くのみ。

 そればかりではない。

 ガンドの取り立ての仕事をも、女は視認するのだ。

 今度もまた、零細な町工場の男・テスンの前に現れたガンドは、あろうことか、男の母親の眼前で男を甚振(いたぶ)った挙句、廃墟の建物の上から突き落とし、また一人、障害者を作り出したのである。

 「あなたに殺されても構わない」

 それでもガンドに取り憑く女は、自分が実母であると称して、「息子」の前で、自分の思いを告げるのだ。

 
廃墟の建物の上からテスンを突き落とすガンド




 しかも、この女は、ガンドによて突き落とされ、苦痛の叫びを上げ、罵っている男を踏みつけるという、信じ難き暴行に及ぶ。

 「息子になんて口を」

 女は、そう言ったのだ。

 なお、女を疑うガンドと、その「息子」に付きまとう女。

 そして女が、ガンドに送りつけた一匹のウナギ。

 送りつけて、帰っていく女。

 まるで計算されたように、絶妙なタイミングで、執拗に付きまとった女の姿が消えていく。

 そのウナギに付けられたタグに書かれていたのは、「チャン・ミソン」と携帯の番号。

 「母親なしで30年生きてきた。ふざけやがって!今度現れたら、八つ裂きにしてやる」

 「チャン・ミソン」と名乗る女の携帯にかけたときの、ガンドの出会い頭の攻撃的言辞である。

 しかし、「チャン・ミソン」は全く反応せず、携帯を一方的に切ってしまう。

 




ガンドに謝罪するミソン


 

 「あんたが俺を産んで、すぐ捨てた母親か?」

 携帯を切られたことで、ガンドの心に空洞感が生じる。

 この空洞感を埋めるために、そう言って、再び、携帯をかけるガンド。

 この辺りから、ガンドの心の空洞感を十全に補填することで、まるで、「死への欲動」に駆られているような、寂寞たる人生を生きる男の中枢を支配する女の戦略が、観る者に映像提示されていく。

 女はその根源的発問に応えず、子守唄を歌う。

 その声で、女が自分の家に侵入して来ている事実を知った男は、玄関の前で子守唄を歌っている女を視認し、もう、何も言えず、何も為し得ないまま、部屋の片隅に座ってしまうのだ。

 「あのとき、私は若くて、産んですぐ、怖くて逃げたの」

 自分の母親であるという証拠を出せと迫るガンドへの、それ以外にない女の反応である。

 「俺はここから出て来た。戻ってもいいか?」

 なお猜疑心が払拭できないガンドは、女の膣を自らの手で貪り、こう言ったのだ。

 反応しない女の膣の中に、ガンドの身体が強引に入り込んでいく。

 
「母」への「胎内回帰」




 自分の母と名乗る女とのセックスは、膣から子宮へと入っていく「胎内回帰」を求めるガンドの究極なる感情の体現だった。

 その間、女は嗚咽し続けている。

 その嗚咽を視界に収めたガンドは、もう、何もできなくなった。

 ガンドもまた、嗚咽を堪えられないのである。

 ベッドに横になるガンドの傍らに、チャン・ミソンも横たわり、名状しがたいような沈黙の時間が流れていく。


 2  破壊的衝動の炸裂に集合するエネルギーを希釈する、「母と子の物語」という取って置きの幻想

 

 ガンドとミソンの奇妙な共同生活が開かれた。

 
ガンドとミソンの奇妙な共同生活





 いつしか、ガンドは、ミソンの行動が気になって仕方がなくなっていく。

  その日もまた、債務取り立ての仕事に出かける際に、2階の部屋にいるミソンの存在を確認していた。

  ミソンが部屋から消えるのが不安なのである。

 完全に実母であると信じている訳ではないが、〈母性〉の記号としての実体的感覚を仮構することで、「死への欲動」に駆られる破壊的衝動と表裏一体となった心の空洞を埋められれば、それだけで良かったのだ。

 その破壊的衝動を債務不履行の特定他者に向けてきた男が、「母と子の物語」という取って置きの幻想を感受したことで、破壊的衝動の炸裂に集合するエネルギーは希釈されていく。

 その典型的なエピソード ―― それは、障害者になる覚悟でガンドを待っていた若者の、その債務を帳消しにする行為に象徴されていた。

 産まれる子供のために債務を負って、自ら障害者になることで、膨大な保険金を得ようとする確信犯的行為を結ぶ若者を目の当たりにして、ガンドは保険金請求書を本人に戻したのである。

  そのときのガンドの表情は、この映画の中で初めて見せた、限りなく「人の心が分る」者の優しさの一片を表現していたが、皮肉にも、ガンドが去った直後、自ら工作機械を駆動させ、障害者になってしまうギター弾きの若者。

 

 


ガンドとギター弾きの若者




 極端なまでに作為的なエピソードが続くが、物語を追っていく。

 ガンドの部屋に定住したミソンは、食事の支度をして待ちながら、白と橙色のツートンカラーのセーターを編んでいた。

 この変化は、ガンドの荒れた部屋が綺麗に片付き、清浄な空間への物理的変化である以上に、まるで仲の良い母子が憩う心地良き内的風景を印象づける。

 心地良き内的風景の幻想は、男の歪んだ自我から、破壊的衝動のエネルギーを削り落していく。

 それは、債務不履行の特定他者に向けてきた破壊的衝動の本質が、「死への欲動」を隠し込んだ、自己破壊欲求の身体化の現象であることを示唆している。

  「金って何だ?」

  その日、最後の仕事と括って向かった、債務不履行者の自殺を目視してきたガンドは、今日もまた、セーターを編んでいるミソンに問う。

 遣り切れないのだ。

 「全ての始まりで終わりよ。愛、名誉、暴力、怒り、憎悪、嫉妬・・・復讐・・・死」
 
 「復讐?」
  
 「ええ、復讐」

 



煩悶するガンド


 

 このミソンの言葉に過剰に反応するガンド。

      

     「知らない人が来たら、ドアを開けずに連絡しろ」

     「そうする。出かけようか?」


 笑みを交換する二人。

 手を繋いで歩く「疑似母子」を仮構したイメージの中で、二人はレストランで食事をする。

 

 仲睦まじい二人は伊達眼鏡を買った後、風船細工のピエロから、風船を被せられたガンド。

   その姿を見てからかったた若者が、大柄な体格のガンドに威圧され、退散するエピソードの直後に待っていたのは、かつて、廃墟と化した建物から突き落とされ、障害者となって、松葉杖をつくテスンによる復讐のエピソード。

 「お前のせいで障害者になって、物乞いしてる。次はお前が死ぬ番だ!土下座しろ!お前は、金で人を試す悪魔に生まれたんだ!」


  ミソンの首に、ナイフを当てて、怒号するテスン。


  ガンドに灯油のポリ容器を被らせ、ライターを点けようとする男を止めさせるミソン。

  ガンドは一瞬の隙に、護身用のナイフを投げつけ、テスンの胸元を刺す。

  テスンはよろめきながら、タクシーに乗り込で去っていった。

  「死んではいないはず。通報したとも思えない」


 落ち着き払ったミソンの言葉である。


  その夜、ベッドで呻き声を上げながら、夢精しているガンドの行為を手伝うミソン。

 汚れた自分の手を洗いながら、鏡で自分の顔を凝視するミソン。

 「母さんが、急に消えそうで。もう、一人じゃ生きられない」
 


 「今日はお前の誕生日。ケーキで祝うわ。買って来て」

 
 翌朝の二人の会話である。

 「誕生祝いだったのか」

 ミソンの編みかけのセーターを手に取るガンド。

    「でも、俺には小さそうだな?」

 そのセーターを奪い返すミソン。

 明らかに、その行為には訳ありな感情が含まれていたが、ガンドには、その含意が理解できない。
 しかし、ガンドの不安は的中した。
 

 ミソンが消えたのである。

 今や、「母」を失って悄然とするガンドが仮構していた「疑似母子」の物語が、決定的に反転していく瞑闇(めいあん)の風景を、この厳しい映像は映し出していく。



 3  修羅の世界を経て辿り着かざるを得なかった、全きを得るに足る「贖罪」という名の終結点

  ミソンが号泣している。

 
  誰もいない工場の深いスポットで、いつまでも呻き、慟哭している女は、それまでのイメージと完全に切れた一人の、堅固な意思を持つ人格像を炙り出していく。

  一方、不安ではち切れそうなガンドは、自分の雇い主である社長を訪ねていた。


  「この恩知らずめ!うせろ!」

   取り立ての仕事を放棄していた怒りで、ガンドは、その社長から一方的に暴力を振われた。

   「母を返して下さい」

  縋りつくガンド。

  「障害者にした者の誰かに誘拐されたのだろう」

   社長の言葉である。

   帰宅後、ガンドは、必死になって債務者リストをチェックする。

  ミソンが戻って来たのはそのときだった。

   怒り捲るガンドに抱きつき、謝罪するミソン。

   それでもう、自己完結してしまうのだ。

   「疑似母子」の物語が延長される実感のみが、この男の全てなのである。


  誕生祝いをした後、ミソンは、ガンドに「頼みがある」と言い出した。

   「木を一本植えて」

  「母」に完全支配されている男には、その頼みを拒む余地など全くない。

清渓川(ウィキ)

  


  

 清渓川(チョンゲチョン)沿いの土塊に穴を掘り、松を植えるガンド。

   「私が死んだら、この木の下に埋めてね」

  俄(にわ)かに信じ難い、ミソンの言葉である。

  驚愕して、怒号するガンド。

  まもなく、そんなガンドの驚愕がピークに達する。

  ミソンの要請で松に水遣りをしているガンドの携帯が鳴って、「ダメ、止めて下さい!お願いです。助けて下さい!」というミソンの声が侵入してきた。


 「誰だ!この野郎!母さん」

  ガンドは怒号するばかり。

   映像は、ミソンの自作自演のカットを連射させる。

 「息子に罪はありません。助けて下さい!」

 そう言って、携帯を切るミソン。

  慌てて部屋に戻って来たガンドは、自分が障害者にした債務者のリストをチェックし、一軒一軒、訪ね歩いてて行くのだ。

 しかし、全く心当たりがないばかりか、より不幸になり、凄惨な生活を繋ぐ男や、自殺して、その母に恨みを吐かれるガンド。

  「お金のために死なないでおくれ。お金がなんなのさ。腕が1本ないからって、私より先に逝くなんて。お前を大事に育てたのに。悪党!バカ野郎!」

   その母の息子の墓の前で、ガンドが受ける全人格的な恨み節。

  何も言えずに、その場を立ち去って行くガンド。

 こんな調子で、身体ばかりか、心まで破綻した債務者から、繰り返し被弾する憎悪の言辞は、「恨」の感情を持つ末端の零細業者の、切り裂かれた自我のそれ以外にない炸裂だった。

   そして、ガンドが辿った最後の場所は、途中、シャッターが施錠して踏み入れなかった廃屋の工場。


  今度は施錠が解かれ、暗い空間に呑み込まれていく。


  車椅子に座り、うたた寝したガンド。


  そのガンドの前にミソンが現れたのは、うたた寝しているときだった。


 「犠牲者の気持ちになってみな。家族が目の前で死ぬのを見るのよ。今さら泣いたてもムダ。哀れな奴。悪魔」





うたた寝しているガンド





 
 そう言い放ったミソンは、ガンドの雇い主の事務所に行き、出て来た社長の頬を矢庭に張って、またしても携帯で、自作自演の悲鳴を、ガンドに聞かせるのだ。

  ミソンの頬を張り返す社長の音声がガンドに伝わり、ミソンの身を案じるガンドは、「母さん!」と叫ぶのみ。

  携帯を切ったミソンは、社長の事務所に戻り、「諸悪の根源」である男を殺害する。

   その直後、ミソンは、ガンドの携帯に廃墟の画像を送信する。

   そこは、かつて、ガンドが債務者のテスンを突き落として、障害者にさせたビルの廃墟である。

   そのビルの廃墟を上り切ったスポットで、ミソンは、今は亡き息子に自分の思いを吐露していく。


  「サング。待たせたね。これで、あいつの魂死ぬよ。目の前で私が死ねば、家族を失った苦しみで抜け殻になり、正気ではいられない。でも、どうしてこんなに悲しいの?サング、ごめんね。こんな気持ちになるなんて。あいつは可哀想。ガンドが可哀想・・・」


  途中で嗚咽になり、もう、言葉が繋げない。

  ―― それにしても、ここまで分りやすい台詞にされてしまうと、二の句が継げなくなる。

  既に物語中盤で、復讐心で動くミソンの行動の真意が映像提示されているので、ガンドとの物裡的共存が心理的共存に変容していく微妙な風景の機微によって、観る者の多くは、ガンドに情が移っていくミソンの心情が読解できているから、ここまでのカットの挿入が、余分なカタルシス効果を生んでしまう危惧を抱かざるを得ないのである。

  物語を続ける。

  ミソンの居場所を特定できているガンドは、拉致されていると信じる「母」を救うために、狂ったように走って来て、「母さんに手を出すな!」などと叫ぶのだ。

   ガンドだけが、ミソンの一人芝居から弾かれている構図は、あまりに痛々しい。


 「俺が死にます!母さんに罪はありません。俺を殺して下さい。母さんを助けて!許して下さい。俺が悪かったんです
  地面に跪(ひざまず)き、許しを乞うガンド。

  嗚咽の中でガンドを見下ろすミソン。


  そのミソンの背後に近づく老母。


  ガンドによって障害者にされた挙句、復讐に頓挫し、死に追い遣られたテスンの母である。

  ガンドの母と信じるミソンを突き落とそうとするが、その気配すら知らないミソンは、実の息子・サングへの思いの方が遥かに勝っていて、自ら飛び降りてしまうのだ。(この老母のシーンのテレビドラマ風の挿入は、張り詰めたシーンを却ってシラケさせるだけであり、全く不要ではないのか)


  ミソンの死に慟哭するガンド。


  ミソンの約束通りに、松の下に穴を掘るガンドが、そこで見たのは、冒頭のシーンで、電動チェーンブロックを使って自殺したサングの死体だった。






左からガンド、ミソン、サング

 



 一切を理解したガンドは、ミソンをサングの隣に寝かせ、そのミソンに張り付くように横たわっている。

  全く台詞なく提示したこの構図は、抜きん出て素晴らしい。

  その直後の映像は、松の木に水遣りするガンド。

  一貫して、物言わぬカットが示す構図には、馴染めないほどに、極端な作為性が炸裂する映画に、相当の強度を与えているからである。

  ラストシーン

  ここで三度、若い夫婦が登場する。

 手足が不自由な障害者になって、今はビニールハウスに住み、ガンドを恨むフンチョルと、妻ミョンジャである。

 夜の闇の延長でしかない黎明に、フンチョルを養うために野菜売りの仕事に出るミョンジャに、一方的に負担を押し付け、申し訳なさの思いを抱き、抱擁を求める夫と、それを受容する妻。

 その夫婦を視界に収めたガンドは、もう、それ以外にない行為に振れていく。

  自分の脚に結んだチェーンを、ミョンジャが運転するトラックに繋ぎ止め、その車の下に横たわるのだ。

  「人間のクズ。車で引き摺って殺したい」

  自らが障害者にした債務者によって拉致されたと信じる、ミソンの行方を捜すガンドが、その絶望的な行程で、ミョンジャに放たれた憎悪と怨恨の言辞である。

   ガンドの「贖罪」の自死の伏線は、このときのミョンジャの憎悪と怨恨の言辞にあった。

 今、そのミョンジャの乗り込んだトラックが駆動し、路傍に接したガンドのチェーンは強引に引き摺られていく。


  
引き摺られていくアスファルトの硬質の固体の上に、澱んだ黒の血のラインが描かれていく。
  

 それだけが、障害者に変貌させて保険金を掠め取ってきた男が、修羅の世界を経て辿り着かざるを得なかった、全きを得るに足る「贖罪」という名の終結点であったのか。

 本作の訴求力を決定づけた、この台詞なきラストシーンは抜きん出て素晴らしかった。



 4  「贖罪」という観念を突きつけられ、「失ってはならない絶対的な何か」を失った男の宿命的帰結点

 

 ここでは、本作で描かれた、男と女の心理的リアリズムの構造について言及する。

 


 唐突に現れては、唐突に消えていく女の戦略の手玉に取られた男が、恐らく、それ以外にない終末点のイメージのうちに硬着陸する。

 最適なタイミングで姿を消すことで、自分を求める相手の心を巧みに支配し、それを強化していく戦略は、このようなタイプの男にとって最も有効な手段だった。

 それは、攻撃性を本質にする「死への欲動」に駆られる、破壊的衝動と表裏一体となった男の、その心の空洞を埋めるのに充分過ぎたに違いない。

 ここで改めて、私は勘考する。

 そんな男が、唐突に現れては、唐突に消えていく女に、一体、何を求めていたのだろうか。

 手垢のついた言葉を使えば、「愛」と言ってもいい。

 ここでは、強烈な「共存感情」を中枢とする「愛」である。

 それが、「疑似母性」であるか否かについては、どうでもよかった。

 「母性」という名で呼ばれる、「心が安寧することで、癒し、癒される自我の拠点」の確保への激しい渇望が、他人の死どころか、自分の死についても不感症になっている危うさを顕在化させていた男の中枢を刺激し、決定的に動かしていった。

 なぜ、それが可能だったのか。

 男の見えにくい心奥の基底に、「母性」を求める感情の残映が凝着していたのである。


 「母」を知らない男であったとしても、恐らく、施設で育ったであろう乳幼児期に、限定的ながらも、「母性」の心地良さの臭気を嗅ぐ風景と完全に切れていたわけではないという仮説を、私は支持する。

 物語の一切を、作為的な映画的仮構性の空話で処理するには、男と女の心理的リアリズムの構造が骨抜きにされていないのだ。

 男は、女を求めた。

 「母性」を求めた。

 「母性」を求め、それが時間限定で手に入れられたことで、男の内側で大きな変化が生れていく。

 この変容のプロセスに絵空事の空話の導入を見るほどには、男と女の心理的リアリズムの構造が壊れ切っていないのである。

 それは、以下の解釈を反故にすることができにくいからである。

 あれほど冷酷無比だった男の振舞いが、信じ難いほどの変容を遂げていく。

 しかし、男の冷酷無比の振舞いを根柢から支えていたのが、他人の死どころか、自分の死についても不感症になっている危うさ(「死への欲動」に駆られる破壊的衝動)であったとすれば、その冷酷無比の振舞いの本質は、単に、思春期過程で形成された攻撃的な性格のうちに宿った、「狂おしい程の絶望的で自棄的なる情況性」が、それを希釈するに足る、「炸裂と埋葬」という極端に偏頗(へんぱ)な行為に振れる厄介な心情であると考えられる。

 

 
 「炸裂」し、「埋葬」する。

 自分で自分の落とし前をつけられない、「特定弱者」への言いようのない怒りが「炸裂」する。

 「炸裂」することで、「狂おしい程の絶望的で自棄的なる情況性」を、束の間、「埋葬」するのだ。

 だから、その「狂おしい程の絶望的で自棄的なる情況性」を埋めるに足る格好の対象が出現すれば、「炸裂と埋葬」という偏頗な行為が、男の生活風景から決定的に希釈され、浄化されていく。

 真逆の行為に振れていくこの流れには、それ相応の説得力がある。

 しかし、「母性」という甘美な幻想を男にプレゼントした女の正体を知ったとき、それでなくとも、「死への欲動」に駆られる破壊的衝動を内包する男の選択肢は限定的だった。

 思えば、失うべき何ものもない男の荒廃感・寂寥感は、繰り返し映像提示された、動力で動くだけの硬質な工作機械、廃墟と化した肌寒さを感じさせる建造物、低く垂れ込めた厚い雲のくすんだ広がり、温感を失った風呂場に散乱する鮮血の赤、そして、添い寝する者がいない独り身の男の夢精の喘ぎ、等々によってシンボライズされていた。

 


 そんな男が、恐らく生まれて初めて、「失ってはならない絶対的な何か」を手に入れたのである。

 「失ってはならない絶対的な何か」を手に入れた者は、そこで「関係性」という情感的な文脈を知る。

 「関係性」の重量感を知るのだ。

 「関係性」の重量感を知ることは、「失ってはならない絶対的な何か」が、「失われる事態の怖さ」を知ることと同義である。

産まれてまもない赤子でさえ、その微笑のプロセスには、生後2、3日以内の「生理的微笑」「誘発微笑」を経て、特定人格ににのみ送波する「選択的微笑」を具現する。

 男は、それを失った。

 決定的に失った。

 唯一、男が知った「関係性」を失った。

 しかも、「贖罪」という観念を突きつけられて、決定的に失った。


 「息子」を失った「母」である女の懊悩の極みに触れ、「母性」という甘美な幻想を男にプレゼントしてまで、「贖罪」の重量感を突きつけた女の、「息子」を想う「母」の思いの深さは、自らが求め続けた「母」である女への思いの深さと重なって、男はもう、それ以外にない行為に振れていく。

 それは、「死への欲動」に駆られる破壊的衝動の炸裂と切れていた。

 「炸裂」することで、「狂おしい程の絶望的で自棄的なる情況性」を、束の間、「埋葬」する男の「負の自己未完結」という、寒々とした心の風景と切れていた。

 多くの貧しい男たちから、「失ってはならない絶対的な何か」を奪ってきた己への罰であり、悪行に対する神の報いである。

 だから男は、アスファルトの硬質の固体の上に、澱んだ黒の血のラインを刻んでいった。

 全きを得るに足る「贖罪」という名の終結点だけが、男の救いだったのだ。

 「心が安寧することで、癒し、癒される自我の拠点」

 それは、この快楽を知った者の宿命的帰結点だったのだろうか。

 要するに、本作は、「贖罪」という観念を突きつけられ、「失ってはならない絶対的な何か」を失った男の、その極限的な流れ方の宿命的帰結点を描いた映画だったのである。

 


 5  厄介な人間の様態の原因の全てを、「カネ」=「資本主義の弊害」に還元させるのはロジカルエラーである

 

 確信的か否か不分明だが、平気でリアリティ(展開・描写)を蹴飛ばす映画であることが自明でも、口さがないが、看過できない物言いだけは書いておこう。

 それは、韓国という国が「中進国の罠」(注)を脱却したと仮定したならば、徒歩で移動することが可能な限定されたエリアと、特化された職種で、零細企業の債務者(即ち、男にとって、「炸裂と埋葬」の虚しい儀式の対象になる「特定弱者」)を障害者に仕立てて、相応の保険金を掠め取るという稚拙な手法が何度も通用するはずがなく、且つ、犯罪行為として、当局によって摘発されずに済むだろうかという根本的疑問である。

 

 
  死亡保険のケースなら言うまでもないが、傷害を負った被保険者のケースであったにしても、件の被保険者からの保険金請求に対しても、当然ながら、保険会社から派遣されるプロの調査員が、事故状況から障害等級の認定まで綿密に審査するなど、様々な手続きを経なければ保険金は絶対に降りない。

 そのことのみならず、心理学的文脈を考えても、障害者になることを引き換えに借金するという取り引き自体が、あまりに極端な物語の設定と言う外にない。

 と言うより、このような物語の設定の含意が、後述するように、「金が全て」という社会への批判的メッセージであることが分明でも、「障害者」へのハードルがあまりに低過ぎて、正直、障害者差別の誹(そし)りを免れないのではないのか。

 加えて言えば、教員共済会などの新しい保険会社の市場進入や、オンライン保険会社との激しい競争の環境下で、韓国の損保社が生き残る現実の厳しさを想起するとき、傷害保険への加入が安易だったとしても、保険金受給のハードルの高さをクリアする困難さは容易ではないだろう。

(注)途上国のGDPが経済発展により急速に伸び、一人当たりの所得が上昇しても、イノベーション、インフラ整備、人材育成、民主化など、発展パターンや戦略を転換できず、成長率が長期にわたって低迷する現象。

 そして何より気になるのは、「金が全て」という社会への誹議的なテーマ性が、零細な工場経営者を故意に障害者に貶めてまで、拝金主義者が蔓延(はびこ)る、強欲と利己主義の「記号」である「悪徳商法」を分娩し、量産すると信じる資本主義社会というシステムの遍く、由々しき弊害を強調するあまり、「冷酷無比で強欲な拝金主義者」「障害者を強いられる工場経営者」という、凄惨な風景に収斂される対比的な構図である。

 



 「(金とは)全ての始まりで終わりよ。愛、名誉、暴力、怒り、憎悪、嫉妬・・・復讐・・・死」

 ミソンのこの台詞に表現されているように、これが本作の基幹メッセージであることは自明である。

 しかし、あまりに短絡的過ぎないか。

 人間が金によって支配されるイメージを強調する資本主義社会を、「拝金主義の悪徳性」と呼ぶのは自由だが、それは自分の「物語のサイズ」で生きることで、その「物語のサイズ」に見合った生活を繋ぐために、「カネ」を合理的に支配し切れていないが故の、稚拙な異議申し立てと言えるだろう。

 これは、「冷酷無比で強欲な拝金主義者」から借金した、「障害者を強いられる工場経営者」にも当て嵌まる。

 銀行の融資を得られない零細企業の債務者の事情を認知し得ても、自壊する人生が待機することが容易に想像できるにも拘らず、3ヶ月で10倍にも膨らむ借金に加えて、障害者になることを引き換えに、闇金融と思しき貸金業者から確信犯的に借金した果てに、自壊を招来した原因の一切を、「冷酷無比で強欲な拝金主義」の暴的力横行の悪徳性に転嫁させるという発想が、野菜売りをしてまで身過ぎ世過ぎを繋いでいこうとするミョンジャのように、自分の「物語のサイズ」で生きられなかった、その〈生〉の脆弱性の表出であるとは思わないのだろうか。

 そこでの「冷酷無比で強欲な拝金主義者」と「障害者を強いられる工場経営者」の関係には、「共犯性」が成立するとは言えないのか。

 警察に通報することができない闇契約をした後者が、その任意契約の相手である、「冷酷無比で強欲な拝金主義者」と、その手先である取り立て屋に復讐するという物語の懐(ふところ)に、以上のような社会派的メッセージを分りやすく張り付け、「失ってはならない絶対的な何か」を奪ってきた己への罰として、前者の手先となった男の、全きを得るに足る「贖罪」という名の終結点で閉じていく。 

 



キム・ギドク監督


 
 「現在私たちが生きている生活自体が、金のため、人間が、家族が破壊されている。金中心の社会となることについての映画を作りたかった。資本主義の弊害を経験する、そんな悲劇がないことを願う心で作った」(KRNEWS 金獅子賞受賞キム・ギドク監督の熱情インタビュー)

 キム・ギドク監督の言葉である。

 しかし、私は思う。


 「愛、名誉、暴力、怒り、憎悪、嫉妬・・・復讐・・・死」という厄介な人間の様態の原因の全てを、「カネ」=「資本主義の弊害」に還元させるのはロジカルエラーであると言っていい。

  私には、その辺りの短絡的・情緒的発想の稚拙だけが印象づけられてしまうのでならある。

  一切を「資本主義の弊害」に還元するなら、具体的に、どのような経済社会を望むのだろうか。

 日本も言えた義理ではないが、雇用率が低い大企業の独占化の経済社会の状況の中にあって、「貧困中産階級」と称される韓国社会の中産階級の所得は限定的であるが故に、家計所得の増大が補償されず、住宅ローンの返済負担や、一貫して根強い教育熱心な家計のコストばかりが重荷になる現実は変わらない。

  且つ、歴代政権の汚職腐敗の構造的体質も変わらない。

  然るに、生産性の低い企業が経済の原理の中で淘汰され、中小企業とサービス業の競争力を高め、効率化し、労働力と資本が効率的な新生企業にシフトするような、本来の成熟した資本主義社会がそうであるような、企業生態系のサイクルを構築しなければならないにも拘らず、充分な構造改革が遂行されない現実の悪弊こそ、本作で糾弾された「未成熟な資本主義社会」の実態ではないのか。

 


 だから、遍く、「資本主義の弊害」として、キム・ギドク監督の怒りの矛先が向かうのは、まさに、充分な構造改革が遂行されない自国の現実の様態以外ではないのかと思うのである。

  このコンテクストで、敢えて書く。

  キム・ギドク監督がそうであると言うのではないが、商業的な映画が観られることが多い中で、商業主義に妥協せず、自分が作りたい映画を創って製作費を回収できなくとも、そこに何の問題があるのか。

  自分が作りたい映画を創っても、そこに「商品価値」を認めない者たちの思考を嘲弄し、糾弾する一部の者たちの行為それ自身が、既に傲慢な発想という以外にない。

  明らかにWTO違反の、「スクリーンクォータ制」(自国内で製作された映画の上映日数の最低基準を義務化した制度で、韓国は年間73日以上)で手厚く保護されている、韓国映画の実態を包括的に俯瞰してもなお、時として、「芸術性」と「商品価値性」が乖離する現実が、私たちの社会のごく普通の共有言語である事実を認知すべきではないのだろうか。

  そう思うのだ。



【参考資料】

「韓国保険業界の現況と課題 Adobe PDF」 「朝鮮日報日本語版」



(2014年11月)


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