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2014年1月4日土曜日

青の炎(‘03)     蜷川幸雄



 <臨界状況を疾走する少年の内的宇宙>



1  「青の炎」の消炎の思いを乗せたロードレーサーの駆動の果てに



徹頭徹尾、映画的空間の中で切り取られた物語の芯にあるのは、何者にも頼らず、能力的に限定的な思考プロセスの中で、トライアンドエラー(試行錯誤)を繰り返しながら、そこで得たベストな選択を、ほぼ確信的に身体表現する少年の内的宇宙である。

 「殺してやる。家族の秩序を乱す異物を排除してやる」

 ロードレーサー(ロードバイクのこと)を駆使しているときに放たれる、このモノローグこそ、少年の内的宇宙を支配する尖り切った情動系の全てであった。

 この尖り切った情動系は、「チェレンコフ現象」(イオン=荷電粒子の速度が、光速度より速い瞬間に放射される青い光)の放射によって生まれる衝撃波に喩(たと)えられ、原子力発電所の核分裂連鎖反応の臨界点に達するという意味で、まさに「青の炎」の炸裂だった。

チェレンコフ放射(ウィキ)
この「青の炎」の情動系が、少年の内側で怜悧に、且つ、戦略的に組織されたとき、少年は、遂に男を殺害するに至る。

殺害方法は感電死。

病死にするためである。

少年の名は、秀一。

その秀一にとって、この殺害は、病死と見せかける完全犯罪でなければならなかったからだ。

少年院に入る事態、或いは、「原則逆送」されて、刑事裁判を受ける事態を免れるためではない。

秀一が、この異常な行為に振れていく最大のモチーフが、母と妹で構成されていた「幸福家族」を守り切るという、その一点にあったこと ―― これが決定的に大きかった。

秀一が「義父殺し」という「殺人事件被疑者」になってしまったとき、少年が守り切ろうとする、最も肝心な世界が崩れ去ってしまうのである。

従って秀一には、家族に迷惑をかけることなく、「幸福家族」に侵入して来たおぞましい「異物」を合理的に排除するには、完全犯罪の遂行という選択肢しか持ち得なかったのである。

 完全犯罪の成功によって、自室の暗いベッドで、決して大柄ではない体を横転させながら、心の中で快哉を叫ぶ少年。

ところが、少年の完全犯罪は、目撃者の出現で根柢から崩れていく。

秀一の高校の同級生で、不登校を繰り返す友人に目撃され、恐喝されるのだ。

この恐喝に対して、秀一の出した答えは、「狂言強盗」を装って、恐喝者への完全犯罪をリピートするという行為だった。

この行為もまた、少年の怜悧な戦略によって遂行され、成就するに至った。

しかし、この行為は、義父殺しのそれと違って、憎悪の媒介のない明瞭な犯罪であることによって、本人の明瞭な自覚と切れて、秀一の自我には、朧(おぼろ)げだが、「罪」を負った「犯罪者」としての自己像を胚胎させるに至ったと言える。

妹・遥香と秀一
秀一にとって、それでもなお、完全犯罪をリピートせざるを得なかったのは、そこでもまた、「犯罪者の家族」という重荷を負う母や、妹・遥香の未来を破壊しないための、それ以外にないぎりぎりの選択だったのだ。

 「もし、俺が捕まったら、世間は面白がって大騒ぎするだろうね。俺、母さんや遥香に迷惑かけたくないいんだ。俺のせいで、二人の将来、滅茶苦茶にしたくはない」

これは、ラストシークエンスで、秀一のガールフレンド・紀子に、「別離」を告げに来た秀一が吐露した言葉。

一貫して、少年の行動の芯にある心情である。

そんな秀一の心に、重く負荷される感情ラインを察知し、柔和に寄り添う紀子の存在は、少年の心の重石の一端を担っていた。

「私ね、この地球上で殺されても構わない人間なんて、一人もいないと思う。でも、人を殺さなきゃならない事情を抱え込んでしまう人間だって、残念ながらいるんだよね」

明らかに、本作の基幹メッセージである。

紀子
この紀子をソーニャに喩えれば、この映画は、「価値のない人間を抹殺する」ことによっても、贖罪意識を持ち得なかった男=ラスコーリニコフという構図によって成る、「罪と罰」のイメージラインの表層面を彷彿させるだろうが、紀子を、自己犠牲の精神で家族のために尽くす娼婦ソーニャに喩えるのは無理があるだろう。

同様に、偶然性も手伝って、完全犯罪を成就させたラスコーリニコフの自我の安寧は、その厄介なモチーフと分れるかのように、程なく破綻の危機に襲われるが、「幸福家族」を瓦解させる傍若無人な男への憎悪を、決定的な推進力にした秀一の内的宇宙には、「良心の呵責」の片鱗も拾えない。

然るに、そんな秀一の完全犯罪は成就しなかった。

秀一の完全犯罪を頓挫させる、捜査のプロの存在が出現するのだ。

秀一の心の闇を理解するために、自らロードレーサーを購買して練習する、「刑事コロンボ」の存在が大きく立ち塞がるのである。

この「刑事コロンボ」は、ラスコーリニコフを執拗に追い詰めていく、予審判事のポルフィーリイの如き心理的迫力があった。

その「刑事コロンボ」の存在が際立つのは、物語で描かれた大人たちの存在感の希薄さが強調され過ぎていたからだろう。

刑事と秀一
しかし、この「刑事コロンボ」は、冷厳なプロの職務に忠実に成り切れない「人情刑事」だったというオチがつくから、安々とリアリティーが捨てられていた。

半信半疑ながらも、少年の行動の振れ方に鈍感なはずがないのに、「事件は存在せず」という危うい結末を印象づけるかのように、「君を信じる」などと言って、確信的な「被疑者」を解放するという信じ難き行為に振れてしまうのである。

「あいつ、頭、切れるみたいだ」

怜悧な少年は、自分の能力より遥かに抜きん出た、「刑事コロンボ」との頭脳戦争の敗北を確信するような言辞を吐いていたが、この時点で、事件の全容と、自分の心理のコアの部分が見透かされていると括っているのだ。

従って、その「刑事コロンボ」に、ここまで追い詰められたら、自らが駆動することで開かれた、冥闇(めいあん)の森深い物語を自己完結させるという決断に流れていく以外になかった。

自首するという名目で警察署から解放された少年が最終的に選択した行動は、今度もまた、「完全犯罪」を装う自死の決行であった。

「犯罪者の家族」を作らないための決断は、今や、「事故死」と見せかけた自死による、一切の物語の自己完結だったのである。

一方、「別離」の故に、誰もいない美術部の部室に訪ねて来た秀一の意図が読めない紀子は、秀一が置いていったカセットテープを再生する。

「俺の好きなもの。ロードレーサー。ロードレーサーに乗っているときの世界。母さんの手料理。遥香の膨れっ面。大門の下手糞な絵。笈川の冗談。紀子の裸のスケッチ。寝言を喋る犬・・・」

ここまで聴いていた紀子の表情が、見る見るうちに変貌していく。

ラストカット
嗚咽交じりの中で、今や、そこにいない秀一の顔を思い浮かべて、きりっとした表情で睨みつけるのだ。

彼女は、ここで一切が理解できたのだろう。

それ故にこそ、自分を置き去りにして、「遠い世界」に旅立っていく秀一を許せない思いと、もう、二度と会えない寂しさが入り混じった複雑な感情を身体化したのである。

このラストカットの決め方は素晴らしかった。

カセットテープで語る秀一が最も好んでいたロードレーサー ―― それは、臨界状況を疾走する秀一の内的宇宙の象徴である。

「高速走行」で、短い人生を呆気なく閉じていった少年にとって、シンプルなフレームで構成され、最も軽量化が進むロードレーサーこそ、誰にも頼らず生きようとした少年の、その内的宇宙を凝縮するものだったのだ。

この映画は、最強のアイテムとしてのロードレーサーの疾走感覚の中で、おぞましき特定他者に対して殺意を固めていく少年の「青の炎」が、まさに、その「青の炎」の消炎を自覚することで、その思いを乗せたロードレーサーの駆動の果てに待機する、ハードランディングの哀しくも、切ない少年の、心の闇の極限的な時間を切り取った物語だったのである。



2  絶賛されるべき、二宮和也の内的表現力の達成度の高さ



あまりに分りやす過ぎるストーリーラインと、人物造形の類型性。

映像総体のうちに、日本人が最も厭悪する「穢れ」(注)の観念のイメージを完全に脱色することによって、「犯罪映画」としてのリアリティーを削り落してしまったこと。
 
作り手の基幹メッセージを、あっさりと、台詞で言わせてしまうチープさ。

 これらの要素は、テレビ的なドラマツルギーを、構築性の高い「映像」に昇華させる上で、看過し難い障壁になるはずなのに、本作の作り手は、その辺りを確信的に蹴飛ばしてしまっているように見える。

蜷川幸雄監督
それにも拘らず、個人的な感懐を言えば、この作品から、特段の違和感・不快感を感じられなかったのは、主人公の少年の「内的宇宙」の振れ幅をフォローしていくという一点に、物語総体の収束点を絞り切っていた点と、ベタな「社会派映画」に堕さなかったかった点にあるように思われる。  

就中(なかんずく)、主人公の少年を演じた、絶賛されるべき、二宮和也の内的表現力の達成度の高さが、本作を根柢から支え切っていたこと ―― これが最も大きかった。

恐らく、その辺りを狙いにしたと想像し得る、蜷川幸雄監督の思惑は成就したのではないか。

私は、そういう風に、この映画を解釈している。


(注)「『汚れ』を内包する異物への拒否感」を本質にする、日本人の「清潔志向」の拘泥感覚の強さは、「穢れ」の観念に対する極端な排除感情と無縁でないと、私は考えている。

(2014年1月)


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